↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/145

第39話 帰還管理所の扉を開けても、その先へすぐ進まないことにしました



 白鴉療養所の朝は、前日より少し静かだった。


 夜明け前に降ったらしい短い雨が石造りの外壁を濡らし、中庭の土にはまだ暗い色が残っている。窓を少し開けると湿った木々と土の匂いが入り込み、厨房から漂ってくる焼いたパンの香りと混じった。


 三〇八号室の少年は、その匂いをしばらく黙って嗅いでいた。


「雨、降った?」


「ああ。夜中にな」


「知らなかった」


「寝てたんだろ」


「一回起きたけど、外見なかった」


 少年は窓枠へ手をかけたまま振り返り、少しだけ得意そうな顔をした。


「アルって呼ばなかった」


「呼ばなかったことを褒めてほしいのか?」


「違う」


「じゃあ何だ」


「言っただけ」


 そう答えながらも、口元には微かな笑みが残っている。


 怖くなったら呼んでよい。それを分かったうえで、呼ばずに眠った。


 以前なら、一人で耐えられたことを王太子らしさの証明にしていたかもしれない。今はそうではなく、ただ昨夜は呼ばなかったという出来事として話している。その違いを、本人がどこまで自覚しているかは分からない。


 セリーが朝の体調確認を始めると、少年は昨日までと同じように自分から状態を言った。頭痛はなく、吐き気もない。胸苦しさもなく、身体の重さはさらに少し減っている。


「今日は、白い薬をどうしますか?」


「四分の一」


「すぐ決めますか?」


 セリーが尋ねると、少年は一度止まった。


「……何で?」


「昨日より身体が軽いとおっしゃったからです。減らす選択肢もありますし、同じ量を続けて変化を見る方法もあります」


「減らしたら、どうなる?」


「眠気や記憶の曖昧さがさらに減る可能性があります。ただ、急に不安感が強くなる可能性も否定できません」


 少年は窓辺から離れ、寝台へ座った。以前のように薬を拒否するか受け入れるかの二択ではなく、少しずつ量を変えながら自分の身体を見ることに慣れてきている。


「今日は同じにする。明日、もっと軽かったら減らすか考える」


「分かりました」


「青と紫はなし」


「はい」


 エルが、その日の希望として記録する。


 少年は記録が終わるのを待ってから、俺を見た。


「帰還管理所」


「ああ」


「今日、開ける?」


「条件が揃えば、第一の扉だけ開ける可能性がある」


「第一だけ?」


「中がどうなってるか分からないからな。扉を開けたら全部進む、にはしない」


 少年は少し考え、窓の外へ視線を向けた。


「木の板、使わない?」


「使わない」


「AG-02も?」


「現時点では使わない。差込口に似てるだけで、完全に合ってない」


「じゃあどうやって開ける?」


「リディアが封印を解除する」


「壊す?」


「できるだけ壊さない」


 俺が答えると、少年は少し安心したようだった。


「中に人いたら?」


「最初に声をかける。武器を向けて入らない」


「先生だったら?」


「それでも、生きたまま確保する方針は変えない」


 少年の表情が少し硬くなった。


「捕まったら先に教えて」


「ああ」


「でも会うかは後」


「分かってる」


 しばらくして、少年は小さく頷いた。


「じゃあ聞く。開いたら」


「ああ」


「でも全部は聞かないかもしれない」


「その時に決めろ」


「うん」


 返事をしたあと、少年は朝食をどこで食べるか考えた。


 昨日は朝だけ廊下の窓辺へ出て、昼は人通りが増えたため自分から三〇八号室へ戻った。今日は最初から窓辺へ行くと言い、ただし「人が多かったら戻る」という条件を付けた。


 廊下へ出ると、昨日と同じ丸机の近くに一人だけ近衛がいた。少年の姿を見た近衛は少し離れ、窓辺へ近づきすぎないよう自分から位置を変えた。


 少年はその動きを見ていた。


「俺が来るから避けた?」


「お前が近くに兵士がいると落ち着かないって、共有されてるからだろ」


「俺が王太子だからじゃない?」


「違うと思うぞ」


「聞いていい?」


「本人に?」


「うん」


 俺は近衛を見る。


 視線を向けられた男が少し戸惑ったあと、それでも少年から数歩の距離を残したまま立ち止まった。


「近づかないの、俺が王太子だから?」


「いいえ」


 近衛は答えた。


「ここで朝食を取られる時は、一定の距離を空けるよう申し送りを受けています」


「俺が嫌って言ったから?」


「はい」


 少年はしばらく近衛の顔を見てから、小さく頷いた。


「ありがとう」


 近衛の方が少し驚いた。


「……いえ」


 それだけだった。


 少年は椅子へ座り、セリーが運んできた朝食へ手を伸ばす。


 今日のパンは昨日より少しだけ焼き色が濃い。


「これ、白鴉の人が作った?」


「はい」


「花の甘いのは?」


「昼です」


「今日も勝負?」


「改善は続けています」


「誰とだよ」


 俺が言うと、少年が笑った。


「セリー、自分と戦ってるって昨日言った」


「強敵です」


「セリーが言うと本当に強そうだな」


 朝食を食べながら、少年は時々窓の外を見た。雨上がりの山から薄い霧が上がっている。


 昨日より一歩先へ進む必要はない。


 今日も同じ場所で食べることを選んだだけでも、それは本人の朝だ。


 食事が半分ほど進んだ頃、エルが静かに告げた。


『旧保養施設から連絡があります。内容は「発見された子供の体調」「本人の希望」です。帰還管理所の情報は含まれません』


 少年は匙を止めた。


「今聞く?」


 俺が尋ねると、少年は少し考えたあと首を振った。


「食べてから」


「分かった」


『通信を保留します』


 エルの声が消える。


 少年は一度深く息を吐き、もう一口スープを飲んだ。


「前ならすぐ聞いてた」


「そうだな」


「気になる」


「ああ」


「でも、冷める」


 俺は思わず笑った。


「それだけかよ」


「セリーのスープだから」


「ありがとうございます」


 セリーは真面目に返した。


 それでよかった。


 大きな謎が進んでいるからといって、朝食まで調査の一部に変える必要はない。


 食事を終え、白い薬を四分の一だけ飲み、少年自身が「今なら聞く」と言ってから通信を繋いだ。


「おはよう」


 ヨアヒムの声が響く前に、少年から挨拶した。


『おはようございます。まず、体調は昨日より少し良くなっています。朝食は粥だけでなく、柔らかくしたパンも少量食べました』


「歩いた?」


『まだ長くは歩かせていません。ただ、寝台から椅子までは、自分で歩く方を選びました』


「リディアは?」


『今朝も本人から近くにいてよい人として選ばれています』


 少年が少し笑う。


「今日も?」


『はい。ただし、昨日より一歩近くてもよいか尋ねたところ、首を横に振られました』


「じゃあ三歩?」


『三歩です』


「リディア、嫌じゃない?」


『本人から直接聞いていませんが、文句は言っていません』


「ガルムなら言いそう」


『ガルム隊長なら距離を測り直すでしょうね』


 少年が少し肩を揺らした。


『今日の希望についてですが、本人が初めて「外」の札と「窓」を自分から続けて指しました』


「外見たい?」


『そう考えて確認したところ、頷きました』


「窓開ける?」


『それは首を横に振りました』


「閉めたまま」


『はい』


 ヨアヒムの声が少し柔らかくなる。


『リディアが三歩離れた状態で、窓の近くへ椅子を置きました。本人はそこまで歩く方を選び、今朝は自分の足で窓辺まで移動しています』


「何見た?」


『山と空です』


「それだけ?」


『それだけです』


 少年は窓の外へ視線を向けた。


 自分も今、似たように山と空を見ながら朝食を食べていた。


「いいな」


『ええ』


「こわいって言った?」


『今朝は言っていません』


「もどさないでは?」


『それもありません』


 少年は一度安心したように息を吐いたあと、すぐに自分で付け加えた。


「言わなかっただけで、怖くないとは限らない」


『その通りです』


「じゃあ今日の分だけ」


『はい』


 ヨアヒムはそれ以上、子供の気持ちを説明しなかった。


「木の板は?」


 少年が少し迷いながら聞く。


『本人が持っています。今日はまだ見せていません』


「なら、そのままでいい」


『はい』


「俺に言っていいって、今日も言った?」


『あなたを含む保護担当者へ体調と今朝の希望を共有してよいか確認し、頷いています』


 少年は少し不思議そうな顔をする。


「まだ俺の名前知らない?」


『知りません』


「何でいいんだろ」


『それは聞いていません』


「そっか」


 少年は少し考えたが、理由を求めなかった。


「じゃあ俺も、名前聞かない」


『承知しました』


 通信を終えると、少年は少しだけ窓を開いた。


 湿った風が入り、まだ片づけていなかったパンの香りを散らす。


「俺も外見た」


「ああ」


「同じ?」


「同じ空は見てるな」


「それだけ?」


「それだけだ」


 少年は満足したように頷いた。


 昼前になって、帰還管理所側から連絡が入った。


 エルが告げた内容区分は、「封印解除条件」「開放準備」「安全確認」。


 三〇八号室の少年は食事中ではなかったため、その場で聞くと決めた。


 通信の向こうでは風の音が強い。リディアだけでなく、ガルムも現地へ移動したらしい。


『まず確認だ』


 ガルムの声が響く。


『今から扉を開ける可能性がある。ただし、開けるのは外扉だけだ』


「中入らない?」


 少年が聞く。


『扉が開いた直後は入らない。術式の反応を見る』


「何か飛んでくる?」


『可能性はある』


「人がいたら?」


『声をかける』


「先生だったら?」


『武器は構えるかもしれんが、先に攻撃はしない』


 少年が俺を見る。


「アルと同じ」


「俺が教えたわけじゃないぞ」


『近衛の規則だ』


「じゃあ元から?」


『少なくとも、俺の隊ではな』


「……そっか」


 少年は少しだけ考え込んだ。


 近衛すべてを怖い兵士として見ていた時期から、少しずつ人ごとの違いを知り始めている。


『封印については、三層のうち一番外側と中間まで解除済みだ。最後の王家式だけ残している』


「AG-02使わない?」


『使わん』


「木の板も?」


『当然だ』


「じゃあリディアだけ?」


『リディアと、こちらの古式魔術担当一名。二人で解除する』


「一人じゃない」


『証拠も術式も、一人で触らせん』


 少年は僅かに頷いた。


『開ける前に、周囲の人間も減らす。扉前はリディア、俺、盾役のオスカー、古式担当だけ。ミラは遠距離、ウォルターは退路確認だ』


「ヨアヒムは?」


『発見された子供のところから動かさん』


「よかった」


 少年の返事は早かった。


「その子、一人にしない?」


『リディアは今こっちへ来ているから、本人へ先に説明した。代わりに誰が近くへいてよいか確認してる』


「誰選んだ?」


『それは本人が共有していいと言ったら後でな』


 少年は一瞬口を開き、すぐに閉じた。


「……分かった」


『偉いな』


「褒めるな」


『何でだ』


「子供扱いされる」


『子供だろ』


「ガルムまで」


 通信の向こうで誰かが笑った。


 おそらくオスカーだ。


 周囲に人がいることを、こういう時に感じられるだけでも、以前とは違う。現地の緊張は強いはずだが、必要以上に張りつめた声だけが続くことはなかった。


『それから、扉を開けるかどうかの最終判断だが』


 ガルムが続ける。


『現地側は開けることに賛成。理由は三つある。第一に、外層を途中解除したまま長期間放置する方が危険。第二に、誰かが後から戻って証拠を消す可能性。第三に、内部に人がいる可能性を完全には切れない』


「反対は?」


 少年が聞く。


『罠。記録消去。転送装置の起動。封印を解いたことで別区画まで繋がる可能性』


「じゃあ、怖い」


『ああ』


「でも開ける?」


『外扉までなら、今の方がいいと判断してる』


 少年は少し黙ったあと、俺を見る。


「アルは?」


「俺も外扉だけなら賛成だ」


「何で」


「中に人がいる可能性を放っておくのも危ない。外側から分かることはかなり調べた」


「でもお前行かない?」


「行かない」


「本当に?」


「今日は」


「今日は」


「そこ拾うな」


 少年が少し笑った。


『じゃあ開ける』


 ガルムの声が低くなった。


『通信は繋げたままにする。ただし、危険が出たらこっちの判断で切る』


「うん」


 少年の身体にも僅かに力が入った。


 俺たちは三〇八号室へ戻り、扉を閉めずに開けたまま通信を聞いた。少年は寝台へ座り、俺は以前より少し近い三歩ほどの位置に椅子を置く。セリーは窓際、ブラットは入口側に立った。


 エルが現地音声を必要範囲だけ流す。


 風。


 靴底が湿った石を踏む音。


 金属が僅かに触れる音。


 それから、リディアの落ち着いた声。


『最後の固定式、外します』


 数秒。


 少年が息を止めているのが分かった。


 俺も無意識に椅子の肘掛けへ指をかけていた。


『解除』


 直後、低い音が響いた。


 何かが爆発したわけではない。


 長い間動いていなかった重い機構が、内部でゆっくり噛み合うような音だった。


『下がれ』


 ガルムの声。


 足音が数歩分遠ざかる。


 それから、しばらく何も起きなかった。


「開いた?」


 少年が小さく聞く。


 誰も答えない。


 現地からの報告を待つ。


『扉が、指一本分だけ開いた』


 リディアの声が聞こえた。


『内部から魔力漏出なし。煙、異臭なし。生命反応……今の範囲では確認できません』


 少年が少しだけ息を吐く。


『そのまま押さない』


 ガルムが言う。


『まず隙間から確認する』


 細い器具を入れているらしく、微かな擦過音が聞こえた。


『糸式罠なし』


『床側も反応なし』


『空気は?』


『古いが、呼吸不能ではない。完全密閉ではなかったようです』


 現地側の短い会話が続く。


 少年は黙って聞いていた。


 以前なら、答えを急いで何度も質問を重ねただろう。今はガルムたちが確認している間、膝の上で手を組んだまま待っている。


 数分後。


『もう少し開ける』


 扉が重く軋む。


 その音は通信越しでも古さが分かるほどだった。


『一人通れる幅』


「入る?」


 少年が小さく呟く。


『まだ入らん』


 ガルムには聞こえていたらしい。


『入口の床を見る』


「そこまで?」


『扉の向こうに床があるからな』


「当たり前」


『当たり前を確認してから入るんだよ』


 少年が少しだけ笑った。


 緊張で強張っていた肩が、ほんの僅かに下がる。


『床に文字があります』


 今度はリディアだった。


 ブラットが姿勢を正す。


「読める?」


『一部だけ。古い王宮式です』


「何て?」


『……「帰還希望者は、証を本人が保持したまま待機」』


 三〇八号室の空気が止まった。


 少年の手が強く握られる。


「本人が持ったまま」


「ああ」


 俺は低く答えた。


『続きがあります』


 リディアの声が響く。


『「係員による回収を禁ず。本人意思未確認時、内区移送を禁ず」』


 俺は何も言えなかった。


 昨日見つかった規則と同じ方向を向いている。


 帰還証を取り上げるな。


 そして今度は、本人の意思を確認しないまま内側へ送るな。


「昔から」


 少年が小さく言った。


「選ぶのあった?」


「少なくとも、この規則を書いた時はな」


「じゃあ何で」


 少年は顔を上げた。


「発見された子は、持ってると戻されるって言ったの」


 誰もすぐに答えられなかった。


 規則と実際の運用が違っていた。


 後の時代に規則が破られた。


 意味が変えられた。


 あるいは木片が帰還証ではない。


 可能性はいくつもある。


 だが今は、そのどれかへ飛びつくべきではなかった。


「規則があっても守られてなかったかもしれない」


 俺はようやく言った。


「逆に、昔は守られてたけど、後から変わったかもしれない」


 少年は少し俯いた。


「先生が変えた?」


「まだそこは分からない」


「でも、その子は怖い」


「ああ」


「規則に取り上げるなって書いてあっても、本人は木を怖がってる」


「ああ」


「じゃあ規則が正しいから安心、じゃない」


「そうだ」


 少年は何度かゆっくり呼吸した。


「本人がどうだったかが先」


「ああ」


 その言葉に、ブラットが僅かに視線を下げた。


 昔の王宮で、規則があることと、その規則が実際に守られることは別だった。俺自身、それを嫌というほど知っている。


『まだ続きがあります』


 リディアが言った。


『床の文字の最後です。「帰還拒否者は外区保護へ移す。再確認は本人の申告まで行うべからず」』


 少年の顔が上がる。


「拒否していい?」


『この規則では、そう読めます』


「帰らないって言っていい?」


『はい』


「何回も聞かれない?」


『本人が言うまで再確認しない、とあります』


 少年はしばらく何も言わなかった。


 それから、小さな声で呟く。


「いい規則」


 俺も、そう思いかけた。


 けれど少年はすぐに続けた。


「でも、守られてたか分からない」


「ああ」


「発見された子がそうされたかも分からない」


「ああ」


「だから、まだ」


「そうだな」


 少年は静かに頷いた。


『第一空間だけ確認する』


 ガルムが言った。


『奥へ続く扉には触らん』


 今度は現地側が中へ入る。


 先頭はオスカー。


 盾を前にしながらも、誰かに向けて構えているというより、床や壁からの不意の術式に備えている。


 リディアが続き、ガルムが三人目。


『一室だけだ』


「何ある?」


 少年が聞く。


『長椅子。壁際に棚。水場。受付みたいな机』


「病院?」


『待合室に近い』


 少し間が空く。


『壁に札がある』


「何て?」


『「外区待機室」』


 少年が息を吐いた。


「帰還拒否者もそこ?」


『規則通りなら、そういう可能性はある』


「人いる?」


『いない』


「最近使われた?」


『……待て』


 現地側の声が少し遠くなる。


 棚や床を見ているらしい。


『埃はある。ただ、全部じゃない』


 ガルムが低く言う。


『床の一部に新しい擦れ跡。長椅子の一つだけ、埃が薄い』


 俺は無意識に身体を前へ傾けた。


 少年も同じだった。


『机の下に紙』


「触る?」


『先に見る』


 数秒。


『新しい』


 ガルムの声が変わった。


「先生?」


『まだ分からん』


「何て書いてある?」


『紙は折られてる。表には一行だけ』


「何?」


『「戻せない者は、第三へ」』


 三〇八号室が静まり返った。


「第三」


 少年が呟く。


 帰還管理所・第三保護区画。


 第三。


 第二対象。


 予備対象。


 似た数字や言葉がまた増える。


 それでも、少年はすぐには繋げなかった。


「いつの紙?」


『まだ分からん。ただ、紙そのものは新しい』


「何年前?」


『数年という感じじゃない。最近だ』


「レイハン?」


『候補には入る』


「ローデン?」


『それもだ』


「他の人?」


『もちろんある』


 少年は少し苛立ったように眉を寄せた。


「また」


 そこまで言い、続きを飲み込む。


「でも今は、紙が最近置かれたってだけ」


『そうだ』


「中、もっと見る?」


『今日はここで止める』


 ガルムの答えは早かった。


「何で」


『奥の扉に別の認証がある。それから、新しい紙があるなら、人が最近ここへ出入りした可能性が高い。先に外周を締める』


「逃げるかも」


『そうだな』


「追わない?」


『ウォルターとミラに任せる』


「ガルムは?」


『ここを動かん』


 少年が俺を見る。


「また任せる」


「そうだな」


「アルも」


「分かってる」


『そっちで大人しくしてろ』


「お前まで言うな」


 ガルムの低い笑い声が通信越しに聞こえた。


『今日は第一空間まで。証拠保全して閉鎖する。奥は明日以降だ』


「開けたのに閉める?」


 少年が不思議そうに聞く。


『外扉は閉める。ただし封印を元通りには戻さない。近衛を置く』


「誰か来たら?」


『捕まえる』


「先生なら?」


『生きたまま』


 少年は静かに頷いた。


「分かった」


 通信が切れたあとも、三〇八号室にはしばらく緊張が残った。


 少年は寝台へ座ったまま、赤い布に包まれた手紙を見た。


「今日は開ける?」


 俺は聞かなかった。


 ただ、少年がそこを見ていることだけは分かった。


「アル」


「何だ」


「昔の規則」


「ああ」


「本人が拒否したら、もう聞かないって」


「ああ」


「父上にも、そういう規則あったのかな」


 すぐに答えられる話ではなかった。


「王宮に?」


「うん」


「人による」


「王太子は?」


「役目から逃げるな、って言われることは多かった」


「嫌って言っても?」


「聞いてもらえる時もあれば、聞いてもらえない時もあった」


 少年は俺を見る。


「父上に?」


「父上だけじゃない。教師も、側近も、王宮の人間も」


 ブラットが入口側で僅かに視線を伏せた。


 昔の自分が、その中にいたことを分かっているのだろう。


「俺も」


 ブラットが静かに口を開いた。


「殿下が望んでいることより、王太子として必要なことを優先したことがあります」


 少年がブラットを見る。


「アル、嫌って言った?」


「言わなかった時もありました」


「じゃあ分からない」


「はい」


「言えなかったかもしれない」


「……はい」


 ブラットは否定しなかった。


 俺も、胸の奥に残る古い息苦しさを思い出していた。


 当時の俺は、嫌だと言う前に、王太子ならやるべきだと思っていた。


 言わなかったのだから同意していた、と単純に片づけられる話でもない。


「本人意思未確認」


 少年が床に残っていたという古い言葉を口にする。


「黙ってたら?」


「確認できてないってことになるな」


「じゃあ、黙ってるのを『いい』にしちゃ駄目?」


「少なくとも、大事なことならな」


 少年は長く黙った。


「俺、先生に薬出された時、飲むって言ったことある」


「ああ」


「それは俺が選んだ?」


「その時にどれだけ情報を知ってたかにもよる」


「飲まないと王太子じゃなくなるって言われてた」


「ああ」


「父上を忘れるって言われてた」


「ああ」


「じゃあ、選んだけど」


 少年は言葉を探す。


「自由じゃなかった?」


「そういう言い方はできると思う」


 少年はしばらく自分の手を見つめた。


「難しい」


「ああ」


「帰還管理所の規則も、本人に聞くだけじゃ足りない?」


「何を説明したうえで聞いたかが大事になる」


「戻ったら何が起きるか」


「ああ」


「戻らなかったらどうなるか」


「ああ」


「証を持ってたら何されるか」


「ああ」


「知らないのに『帰る?』って聞かれても」


 少年は小さく息を吐いた。


「分かんない」


「そうだな」


 その午後、発見された子供からの報告はしばらく来なかった。


 俺は少し気になったが、危険通知がない以上、こちらから催促はしない。


 三〇八号室の少年も何度かエルを見るような仕草をしたものの、「まだ?」とは聞かなかった。


 代わりに昼食を食べ、少し休み、窓を開けた。


 今日は午前中の通信が長かったためか、途中から口数も減っていた。セリーに「頭が疲れているようです」と言われると、珍しく反論せず横になった。


 一時間ほど休んだあと、少年は自分から起きた。


「寝た?」


「少し」


「夢は?」


「見てない」


 身体を起こしながら、少年は寝台脇の赤い布へ触れた。


「今日、手紙一枚見るかも」


「今?」


「まだ」


「じゃあ後で決めるか」


「うん」


 手紙を開けるかどうかさえ、朝から決めておく必要はない。


 夕方近くになって、ようやくヨアヒムから連絡が届いた。


 エルが内容を先に告げる。


『内容は「発見された子供の発言」「本人が選んだ人」「木片」です。本人は、現在の共有範囲への伝達を許可しています』


 少年は少し緊張した。


「聞く」


『承知しました』


 通信が繋がると、ヨアヒムの背後から小さな鳥の声が聞こえた。


 窓辺にいるらしい。


『まず、今朝リディアが帰還管理所へ移動したあと、本人が新しく近くにいてよい人を選びました』


「誰?」


『オスカーです』


「盾の人?」


『はい』


 少年が少し驚いた顔をする。


「兵士なのに?」


『本人へ、近衛であることも武器を持っていることも説明しました。部屋へ入る時は武器を外すと伝えたところ、頷きました』


「何でオスカー?」


『理由は聞いていません』


「大きいのに」


『かなり大きいですね』


「怖くないのかな」


『分かりません。ただ、オスカーは部屋へ入ってからほとんど動かず、壁際に座っています』


 少年が少し笑う。


「盾みたい」


『本人も、そう見ているのかもしれません』


「でも決めない」


『はい』


「オスカー、嫌じゃない?」


『むしろ役割が分かりやすくて助かると言っています』


「何してる?」


『座っています』


「それだけ?」


『それだけです』


 少年は嬉しそうに笑った。


「また何もしない人」


『今日はそれを選んでいます』


 それからヨアヒムの声が少し真面目になった。


『木片について、変化があります』


 少年の笑みが薄れる。


「何」


『本人が、自分から「これ」と言って木片を示しました』


「うん」


『こちらから何も言わずに待っていると、「なくすと」と続けました』


 少年の表情が固まる。


『そのあと少し時間が空きました』


「何て?」


『「もどれない」と』


 三〇八号室が静まり返った。


「……え?」


 少年の声が漏れた。


 昨日まで聞いていたのは、「これがあると、もどされる」。


 そして今度は、「なくすと、もどれない」。


 一見すると、反対のようにも聞こえる。


 少年も混乱したらしく、眉を寄せた。


「持ってると戻されるのに、なくすと戻れない?」


『本人はその二つを言っています』


「変じゃない?」


『そう見えるかもしれません』


「聞いた?」


『「どちらも本当ですか」とだけ確認しました』


「何て?」


『頷きました』


 少年は完全に黙った。


 俺も考える。


 持っていることが強制的な移送の条件になる。


 しかし失えば、自分の意思で帰ることもできなくなる。


 帰還証という言葉がもし本当に木片を指すなら、古い規則とも矛盾しない。


 だが、それを今こちらから説明してしまえば、本人の言葉を誘導することになる。


「アル」


「何だ」


「考えた?」


「ああ」


「言わない?」


「今はな」


「何で」


「俺の考えを先にお前へ言うと、お前がそれで固まるかもしれない」


 少年は少し不満そうにした。


「俺は本人じゃない」


「でも、次に聞いた時にその考えで質問するかもしれないだろ」


 少年は口を開きかけ、止まった。


「……するかも」


「だから今は、本人が言った二つをそのまま置いとく」


「持ってると戻される。なくすと戻れない」


「ああ」


「両方」


「ああ」


 少年は何度かゆっくり頷いた。


『それから、本人がもう一つ言いました』


 ヨアヒムが続ける。


『「かえして」と』


「何を?」


『木片を両手で持ったまま言いました』


「誰に?」


『分かりません』


「何を返す?」


『それも分かりません』


「木の板を返せ?」


『そういう可能性はあります』


「自分を返せ?」


『それも否定できません』


「誰かを?」


『分かりません』


 少年は両手で顔を覆いかけ、途中でやめた。


「多い」


「ああ」


「そのあと?」


『泣きませんでした。ただ、木片を胸に抱き、しばらく目を閉じていました』


「何か聞いた?」


『聞いていません』


「よかった」


 少年は小さく息を吐いた。


『本人へ、今日これ以上木片について話さなくてよいと伝えています』


「うん」


『それから、帰還管理所という言葉はまだ知らせていません』


「それも今はいい」


 少年はしばらく考え、やがて小さく言った。


「でも、木の板は大事なんだな」


「その可能性は高そうだな」


「怖いのに」


「ああ」


「なくしたくない」


「ああ」


「だから取らなくてよかった」


 その言葉には、少し強い安堵が混じっていた。


「もし昨日、扉開けるために持ってってたら」


 少年はそこで言葉を止めた。


 俺も少し胸が痛んだ。


「悪かった」


「まだ取ってないだろ」


「ああ」


「ならいい」


「でも考えた」


「俺も考えた」


 少年が正直に言う。


「鍵なら使えば分かるって」


「ああ」


「でも使わなくてよかった」


「ああ」


 そこには、調査が一つ遅れたことへの苛立ちよりも、本人の物を奪わなかったことへの安心の方が強かった。


 夜が近づく頃、帰還管理所の第一空間は封鎖され、近衛が交代で警戒する状態になった。


 奥の扉には触れていない。


 新しい紙に書かれていた「戻せない者は、第三へ」という一文も、まだ意味を確定していない。


 第一空間の棚からは古い札や空の記録筒が見つかったが、その中身の確認は明日以降に回すことになった。


 今日一日で、十分に情報が増えたからだ。


 夕食を終えた少年は、赤い布を膝の上へ置いた。


「開けるのか?」


 今度は、少年自身がこちらを見てから聞いた。


「お前が決める」


「一枚だけ」


「ああ」


 少年は封筒へ手を伸ばしかける。


 だが、指先が触れる直前で止まった。


「やっぱりやめる」


「分かった」


「理由聞く?」


「言いたいなら」


 少年は少し考え、赤い布を元の場所へ戻した。


「今日、持ってると戻されるとか、なくすと戻れないとか聞いたから」


「ああ」


「父上の手紙も、持ってると王宮に戻らなきゃいけないみたいに思いそう」


「そうか」


「本当は違うかもしれない」


「ああ」


「だから今日は混ぜない」


「分かった」


 少年は少しだけ得意そうな顔をした。


「順番を選ぶ」


 以前、俺が言った言葉だ。


「覚えてたのか」


「人間だから」


「それ俺が言ったやつだろ」


「便利だった」


 少年が笑う。


 セリーも隣で少しだけ微笑んだ。


 夜の白い薬は、今日も四分の一。


 青と紫はなし。


 灯りは少し残し、扉は内側から閉める。


 その確認を終えたあと、少年は布団へ入る前に窓へ近づいた。


 夜空には雲が少なく、星がいくつか見える。


「アル」


「何だ」


「帰還管理所」


「ああ」


「昔は、帰るって言ってもいいし、帰らないって言ってもよかったんだな」


「規則を見る限りはな」


「でも、どうして変わった?」


「まだ分からない」


「誰が変えた?」


「分からない」


「先生?」


「候補の一つ」


「父上?」


「それも消せない」


 少年はしばらく外を見た。


「俺、父上に会いたい」


「ああ」


「でも王宮に戻りたいかは、まだ分からない」


「ああ」


「それ、別でいい?」


「別でいい」


「父上に会うことと、王宮へ戻ること」


「ああ」


「王太子かどうかと、アルフォンスって呼ばれることも?」


「ああ」


「先生に会うことと、先生を許すことも?」


「ああ」


 少年の肩が少し落ちた。


「いっぱい別にできる」


「必要ならな」


「前は全部一個だった」


「王太子なら父上を信じる。父上を信じるなら手紙を信じる。手紙を信じるなら薬を飲む。薬を飲むなら先生を信じる。先生を信じるなら俺が偽物」


 俺がそう並べると、少年はゆっくり振り返った。


「そう」


 声は小さかった。


「全部繋がってた」


「ああ」


「一個疑ったら、全部なくなると思った」


 少年の顔には、まだその怖さが残っていた。


 父上の手紙を疑えば、父上から愛されている自分まで消える。


 薬を拒めば、王太子ではなくなる。


 レイハンを疑えば、自分がここで生きてきた時間の意味が消える。


 そんなふうに、全部を一つへ縛られていたのだろう。


「でも今は?」


 俺が聞くと、少年はすぐには答えなかった。


 窓から入る夜の冷たい空気の中で、長く考えている。


「父上の手紙が偽物でも、父上の全部が偽物とは限らない」


「ああ」


「先生が悪いことしてても、俺が助けられたことまでなかったことにしなくていい」


「ああ」


「俺が王太子じゃなくても、名前は今はアルフォンス」


「ああ」


「お前が本物でも、俺はいなくならない」


「ああ」


 少年は少し息を吐く。


「じゃあ、あの子も」


 発見された子供のことだ。


「木の板が怖くても、大事でもいい?」


「本人がそうなら」


「持ってると戻される。なくすと戻れない。両方でも?」


「ああ」


「かえして、も」


「ああ」


「今は意味分からなくても?」


「ああ」


 少年は窓を閉めた。


「それならいい」


 寝台へ戻り、布団の中へ潜り込む。


「お休み、アル」


「お休み、アルフォンス」


 セリーも挨拶し、俺たちは部屋を出た。


 内側から鍵がかかる。


 廊下の灯りは淡く、階下からは夜番へ入る近衛たちの足音が小さく聞こえていた。


 帰還管理所の扉は開いた。


 けれど、開いたからといって、その先へ急いでは進まなかった。


 第一空間で見つかった古い規則には、本人から帰還証を取り上げないこと、意思を確認せず内区へ移送しないこと、帰還を拒否した者へ何度も確認を迫らないことが残されていた。


 それは、今の白鴉で俺たちが試しているやり方と驚くほど近い。


 だからこそ、不気味でもあった。


 どこかの時点で、その考え方が失われたのか。


 規則だけが残り、実際には守られなくなったのか。


 あるいは、帰還管理所そのものには別の役割があったのか。


 まだ分からない。


 そして、名前を言わない子供が持つ木片も。


 帰還証なのかもしれない。


 違うのかもしれない。


 本人は、持っていれば戻されると言った。


 同時に、なくせば戻れないとも言った。


 怖いから捨てる。


 大事だから持つ。


 そんな一つだけの答えにはならないのだろう。


 人も、場所も、物も。


 それぞれに、相反する意味を一緒に抱えることがある。


 だから、矛盾しているように見える言葉を、こちらの都合で片方だけ捨てない。


 扉を開けた時と同じように。


 一つ先が見えたからといって、すぐ次まで進まない。


 本人がまだ言っていない続きの言葉を、こちらで完成させないために。


 今夜もまた、そこで止まることにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。