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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第38話 戻るための印らしきものが見つかっても、その子の持ち物を鍵にはしませんでした



 朝食の時間が近づいた白鴉療養所では、厨房から立ちのぼる湯気と焼きたてのパンの匂いが、冷えた石造りの廊下にまで流れていた。


 昨夜から天候は崩れていない。東側の窓から差し込む朝日は細長く床を照らし、その光の中を、食事を運ぶ者や夜勤を終えた近衛たちが静かに行き交っている。以前なら白い服の職員と兵士の姿だけで強張っていた患者たちも、全員ではないにせよ、廊下を歩く人影をすぐに避けることは少なくなっていた。


 三〇八号室の少年も、今日は少し違う朝を選んだ。


「ここで食べる」


 そう言って指したのは、いつもの寝台脇ではなかった。


 部屋の外、廊下の突き当たりにある小さな窓辺だった。二人が向かい合えばいっぱいになる程度の丸机と椅子が置かれており、もともとは職員が休憩に使っていた場所らしい。


「食堂じゃなくていいのか?」


「まだ嫌。兵士も多いし、知らない人いるから」


 少年はそう答えながらも、開けた扉の向こうへ何度か視線を向けていた。部屋から出たくないわけではなく、一階の食堂まで行くほど遠くへ出るのはまだ気が進まないらしい。


「でも、部屋の中だけも少し飽きた」


「では、窓辺へ運びましょう」


 セリーが自然に受け入れると、少年は少しだけ拍子抜けしたような顔をした。


「止めない?」


「危険はありませんから。廊下を通る方へ、近づきすぎないようお願いしておきます」


「俺が王太子だから?」


「あなたがそう望んだからです」


 少年は何も言わなかったが、僅かに肩の力を抜いた。


 俺たちが部屋から出ると、近くにいた近衛が一度こちらを見た。だが、少年を囲むようなことはせず、少し離れた場所へ位置を変えるだけに留める。昨日までの取り決めがきちんと共有されているのだろう。


 少年は廊下へ出たところで一度足を止めた。


 僅か数歩先にある窓辺までの距離なのに、昨日まで自分の部屋として閉じていた三〇八号室の敷居を越える瞬間だけ、表情が少し硬くなる。


「戻ってもいい?」


「もちろん」


「食べ始めたあとでも?」


「ああ」


「全部食べなくても?」


「それはいつも通りだ」


 俺が答えると、少年は小さく息を吐いた。


 それから自分で三歩進み、窓際の椅子へ座る。朝日の当たる丸机の上には、セリーが運んだ柔らかなパンと温かい根菜のスープ、少量の卵料理が並べられた。


「普通の朝飯」


「はい」


「王太子用じゃない?」


「白鴉療養所の朝食です」


「アルも同じ?」


「俺の方が量多いけどな」


 俺の盆を見た少年が、少しだけ不満そうな顔をする。


「俺もそれくらい食べられるようになる?」


「焦らなくても、そのうちな」


「保存槽の方のアルフォンスも?」


 不意に出た問いだった。


「今は少しずつ食べる量を増やしてる。身体が長く動いてなかったから、お前とはまた違う」


「そっか」


 少年はそれ以上比較しなかった。


 パンを一口ちぎり、スープへ少し浸してから口へ運ぶ。窓の向こうに広がる山を眺めながら食べるだけなのに、部屋の中で食べていた時よりゆっくり味わっているように見えた。


 途中、階段の方からミナが姿を見せた。


 こちらへ気づいた瞬間に足を止め、何か言いかけたものの、少年がまだ食事中なのを見ると近づいてこない。代わりに、胸元のあたりで小さく手を振った。


 三〇八号室の少年はしばらく迷ったあと、右手を少しだけ上げた。


 それだけだった。


 ミナもそれ以上はせず、隣にいたリディアの代わりの付き添いと一緒に階段を下りていく。


「今の子」


「ああ」


「ミナ?」


「そうだ」


「保存槽の方と会った?」


「少しだけな。両方が会っていいって言ったから」


「俺とは?」


「まだだ」


「俺が嫌って言ってるから?」


「今のところはな」


 少年はスープの中に浮かぶ野菜を匙で少し動かした。


「嫌じゃなくなったら?」


「その時に向こうも会いたいか聞く」


「俺だけじゃ決められない」


「ああ」


「……それでいい」


 少年はまた一口食べた。


 この朝、彼は結局、一度も三〇八号室へ戻らずに食事を終えた。


 大した距離ではない。


 けれど、昨日までは自分の部屋の内側でなければ落ち着かなかった少年にとって、廊下の窓辺で朝食を食べたことは、誰かに記録してもらわなくても残る種類の出来事なのだと思った。


 朝食後の白い薬も、今日も本人の希望で四分の一。


 青と紫は使わない。


 その確認を終えた頃、エルから旧保養施設の報告が入った。


『内容は「発見された子供の体調」「本人が選んだ人」「木片」です。本人から、白鴉側の保護担当者まで共有してよいとの意思が確認されています』


 少年は空になった器から顔を上げる。


「俺も入ってる?」


『はい。昨日までと同じ範囲です』


「聞く」


 俺たちは三〇八号室へ戻らず、そのまま窓辺で通信を受けることにした。


 廊下を通る者には聞こえないよう、エルが音声範囲を狭める。少年は丸机へ両腕を置き、少し緊張した顔で声を待った。


『おはようございます』


 ヨアヒムだった。


「おはよう」


 少年が答える。


『まず体調ですが、発熱や呼吸状態の悪化はありません。昨夜も大きな問題なく眠れました。食事量も少し増えています』


「泣いた?」


『昨夜は泣いていません』


「もどさないでは?」


『同じ言葉は出ていません。ただ、移動を勧めるようなこともしていません』


 少年はその返答に小さく頷いた。


「昨日、人を選ぶって言ってた」


『はい。その件です』


 ヨアヒムの声に、少しだけ柔らかなものが混じる。


『昨日は私もリディアも近くにいることを嫌がっていましたが、今朝は本人からリディアを選びました』


 少年の眉が上がった。


「昨日嫌だったのに?」


『はい』


「何か変わった?」


『理由は聞いていません。ただ、朝にリディアが水を置きに来た時、本人から「人」の札を指し、そのあとリディアを指しました』


「リディア、剣持ってた?」


『部屋へ入る前に外しています』


「昨日も?」


『昨日もです』


 少年は少し考え込む。


「じゃあ、それだけじゃない」


『そうですね』


「何で変わったか分からない?」


『はい。ただし、分からなくても構わないと思っています』


 少年はその言葉を聞きながら、自分の手を見た。


「昨日嫌だった人を、今日選んでもいい?」


『もちろんです』


「明日また嫌って言っても?」


『その時は離れます』


 少年は少しだけ笑った。


「それ、俺と同じ」


 そこで自分から言葉を止め、すぐに付け加える。


「……じゃなくて、似てる」


『はい』


「俺もドラは嫌だけど、薬持ってくる時だけならいいってした」


『聞いています』


「でも明日全部嫌になるかもしれない」


『それでも構いません』


 少年は窓の外へ一度視線を向けた。


「昨日の選択が、今日の命令になるわけじゃない」


 その言葉を俺は黙って聞いた。


 以前の少年なら、「一度決めたなら王太子は変えてはいけない」と言っていたかもしれない。今は、自分だけでなく別の子供にも、昨日と今日で違っていいと考えられるようになっている。


『リディアは今、本人から三歩ほど離れた椅子に座っています』


「喋ってる?」


『ほとんど話していません。窓の外を一緒に見ています』


「それだけ?」


『それだけです』


「いいな」


 少年が少し笑った。


「何もしない人も、選べるんだ」


『はい』


 そこから、ヨアヒムの話は木片へ移った。


『今朝、本人が初めて木片を寝台の上ではなく、机の上へ置きました』


 少年の顔が少し強張る。


「触っていいって?」


『そこは確認しました。私が木片へ手を伸ばさず、「見てもよいですか」と尋ねたところ、頷きました』


「表だけ?」


『最初は表だけです。そのあと本人自身が裏返しました』


「裏」


 少年の声が小さくなる。


「何かあった?」


『文字はありません』


 その答えに、少年は意外そうな顔をした。


『代わりに、簡単な印のようなものが彫られています。四角い枠が三つ重なり、その中央を斜めに一本の線が通っています』


「王家の紋章?」


『違います』


「AG?」


『文字ではありません』


「何の印?」


『まだ分かりません』


 少年は少しだけ口を尖らせたが、今日は「また」とは言わなかった。


『本人へ「これはあなたのものですか」と聞いたところ、頷きました』


「誰からもらった?」


『そこは聞いていません』


「何で?」


『その質問をする前に、本人が木片を手元へ戻したからです』


 少年は納得したように頷く。


「じゃあ終わり」


『はい』


「見た形、記録した?」


『言葉での記録だけです。絵に写してよいかまでは確認していません』


 俺は少し意外に思った。


 証拠としてなら形を残したくなるところだ。


 だが、ヨアヒムは急がなかった。


「それでいい」


 少年が先に答える。


「本人が持ってるものなんだから」


『はい』


「もし、その印が帰還管理所の扉にあったら?」


『その可能性は現地側で別に確認します』


「木片取らなくても?」


『必要ありません』


 少年は少し安心したように息を吐いた。


「ならいい」


 通信を切る前に、ヨアヒムが一つだけ付け加えた。


『本人は木片を裏返したあと、「これは」と言いました』


「これは?」


『そこまでです。続きはありませんでした』


「聞いた?」


『待ちましたが、本人は首を横に振ったので止めました』


 少年は何も言わず、静かに頷いた。


 言葉が出かけても、最後まで言わなければならないわけではない。


 それも、少し前の彼なら理解するのが難しかったかもしれない。


 通信が終わってからしばらく、少年は窓の向こうを見ていた。


「四角三つと斜め線」


「ああ」


「気になる」


「俺も」


「調べたい」


「俺も」


「でも、絵にしてない」


「ああ」


「何か面倒」


「それは分かる」


 俺も正直に答えると、少年が少し笑った。


「アルも我慢してる?」


「かなり」


「俺より?」


「たぶん」


「じゃあ、今日は俺の勝ち」


「何の勝負だよ」


 少年は久しぶりに少し大きな声で笑った。


 廊下の少し先にいた近衛が一瞬こちらを見たものの、何事もなかったように視線を戻す。その反応さえ、今では以前ほど少年を緊張させなかった。


 昼前になると、今度は帰還管理所側から連絡が入った。


 内容区分は「封印外部調査」「印」「AG-02」。


 少年は通信を聞く前に、エルへ一つだけ確認した。


「中、まだ開けてない?」


『開けていません』


「人の声?」


『確認されていません』


「じゃあ聞く」


 通信の向こうから聞こえたのはリディアの声だった。


『昨日の段階では、扉表面の封印だけを調べていました。今朝、周囲の土と蔦を除去したところ、扉の右下に別の刻印が見つかりました』


「何の?」


『四角い枠が三重。その中央を、斜めの線が一本通っています』


 少年の表情が止まった。


 俺も椅子から僅かに身を起こした。


 ほんの少し前に聞いた、木片の裏側。


「同じ?」


 少年が反射的に言い、すぐに唇を閉じる。


『説明だけなら非常に似ています』


 リディアは慎重に答えた。


『ただし、こちらは現物同士を比較していません。木片の図も共有されていませんので、「同じ印」とはまだ扱いません』


「でも」


 少年の指先が丸机の縁を軽く掴む。


「かなり近い?」


『偶然でない可能性は上がりました』


「帰還管理所の印?」


『施設標識なのか、区画認証なのか、移送用の印なのかは不明です』


 ブラットが横で静かに記録を見ている。


「その印、他にもありますか?」


『外壁を調べたところ、同じ構成に見える刻印が二か所あります。ただし、一つは斜線が右下がり、もう一つは左下がりです』


「違う」


 少年が呟く。


「意味ある?」


『可能性はあります』


「第三区画だから三つ?」


『それもまだ分かりません』


 少年は眉間へ皺を寄せたが、自分から続きを促すことはしなかった。


『AG-02についても報告します』


 リディアが少し間を置く。


『銀鍵と差込口の非接触比較をさらに進めました。鍵本体の形はほぼ合っていますが、昨日確認した通り、奥の認証溝が一つ不足しています』


「削れた?」


『その痕跡はありません』


「じゃあ別の鍵?」


『可能性が高いです。ただし、鍵そのものが未完成なのではなく、別の認証部品と組み合わせて使用する形式かもしれません』


 その言葉に、少年が木片の話を思い出したのが分かった。


「木の板?」


 今度は俺が先に口にした。


 少年がすぐこちらを見る。


「アル」


「あ」


「決めるな」


「分かってる。ただ、可能性として――」


「それでも、その子のだろ」


 少年の声は少し強かった。


「鍵に使えるかもしれなくても、勝手に持ってこない」


 俺は言葉を止めた。


 もちろん、無理に取り上げるつもりなどない。


 それでも、「認証部品かもしれない」と考えた瞬間、俺は木片を人の持ち物ではなく、扉を開けるための手段として見かけた。


「……そうだな」


 素直に認めると、少年は少しだけ表情を緩めた。


『こちらでも、本人の持ち物を要求するつもりはありません』


 リディアが続ける。


『まず扉側だけで解除できる方法を探します。木片が関係する可能性があっても、それを理由に患者から取り上げることはしません』


「うん」


 少年は頷いた。


「もし本人が自分から使いたいって言ったら?」


『その場合も、何が起こる可能性があるか説明してからです』


「使ったら壊れるかもしれない?」


『あります』


「戻ってこないかもしれない?」


『あります』


「じゃあ、それ先に言う」


『はい』


 少年はそこまで確認すると、やっと少し肩を落とした。


 俺は横で黙っていた。


「何」


「いや」


「怒った?」


「違う」


「じゃあ何」


「俺が先に道具として考えたの、よくなかったなと思ってる」


 少年は少し意外そうに俺を見る。


「アルでもやるんだ」


「やる」


「王子だったから?」


「それは関係ない。調べたいからだ」


「知りたいと、勝手に使うは違う?」


「ああ」


「……俺も気をつける」


 少年は窓の外へ視線を移した。


「俺も、木の板見たいと思った」


「ああ」


「裏の印も、絵で見たい」


「ああ」


「でも本人がまだいいって言ってない」


「そうだな」


「知りたいだけなら、まだ待てる」


 言いながらも、納得しきっている顔ではなかった。


 それでいいのだと思う。


 欲しくなくなったから我慢できるのではなく、欲しいまま待つ。


 その方が、ずっと難しい。


 昼食の時間が近づくまで、帰還管理所の扉は開けなかった。


 リディアたちは周辺だけを調べ、封印術式の流れと外壁の刻印を記録する。斥候も周囲の山道を確認していたが、ローデンと名乗った男も、レイハン本人も見つからなかった。


 俺が何度か通信記録を見直していると、セリーが横から静かに記録板を下ろした。


「昼食です」


「あと一つだけ」


「昨日も聞きました」


「今日は本当に一つ」


「主様」


「はい」


 少年が横で笑っている。


「弱い」


「お前も食え」


「俺は逃げてない」


「俺も逃げてない」


「セリーからは?」


「……食堂行くぞ」


 結局、俺は記録を置いた。


 三〇八号室の少年は今日は昼食も廊下の窓辺で食べると言ったが、朝より少し人通りが増えているのを見て、途中で考え直した。


「やっぱり部屋」


「分かった」


「朝できたのに戻るの、変?」


「全然」


「後退?」


「朝できたことが消えるわけじゃないだろ」


 少年は少し考えてから頷いた。


「じゃあ今日は部屋」


 自分で選んだ朝と、自分で選んだ昼。


 場所が違っても、どちらかが失敗になるわけではない。


 午後になると、旧保養施設からもう一つ重要な連絡が届いた。


 今度の内容区分は「発見された子供」「本人の発言」「木片の共有範囲」。


 少年は聞く前に少し長く迷った。


「重い?」


『本人が自分から話した内容ですが、話したあと疲労が見られています』


「俺に言っていいって?」


『はい。本人へ、同じ白鴉療養所で保護されている子供にも共有されることを説明し、頷きを確認しています』


「じゃあ聞く」


 通信を繋ぐと、ヨアヒムの声は朝より少し低かった。


『昼食後、本人が木片を再び机の上へ置きました。今度は、裏側を上にした状態です』


「印」


『はい』


「見ていいって?」


『本人からこちらを指し、そのあと木片を指したため、「見てもよいですか」と確認しました。頷いています』


 少年は黙って続きを待った。


『そのあと、本人が初めて自分から木片について話しました』


「何て?」


『「これがあると、もどされる」と』


 少年の顔から表情が消えた。


 俺の胸の奥にも重いものが落ちる。


「戻るためのものじゃない?」


 少年がゆっくり聞く。


『少なくとも、本人は「これがあると、もどされる」と言っています』


「どこに?」


『聞いていません』


 少年は少し俯いた。


「何で聞かなかったか、分かる」


『本人の呼吸が速くなったからです』


「やっぱり」


『そのあと木片を胸元へ抱え込んだため、話を止めました』


「捨てたいって言った?」


『いいえ』


「怖いのに持ってる?」


『はい』


 少年が眉を寄せる。


「何で」


 俺は何も言わなかった。


 ヨアヒムも同じだった。


 怖いものなら捨てればいい。


 外から見れば、そう考えるのは簡単だ。


 けれど、人が怖いものを必ず手放せるとは限らない。大事な誰かから渡されたものかもしれないし、失えばもっと危険なことが起こると教えられているのかもしれない。あるいは、本人にとって怖いものと大切なものが同じ物の中に重なっている可能性だってある。


「取り上げない?」


 少年が確認する。


『はい』


「隠さない?」


『はい』


「捨てろとも言わない?」


『言いません』


 少年は少しだけ安心したように息を吐いた。


「本人が持つ?」


『本人がそうしています』


「帰還管理所に同じ印っぽいのがあることは?」


『知らせていません』


「今はそれでいい」


『はい』


 ヨアヒムは少し待ってから、もう一つ続けた。


『木片の印を図として記録してよいかも確認しました』


「何て?」


『首を横に振りました』


「じゃあ記録なし?」


『形についての文章記録は、すでに本人が見せる前にこちらが認識した範囲として残っています。ただし、正確な図面化や複写はしていません』


「帰還管理所と比べられない?」


『完全な比較はできません』


 少年は明らかに悔しそうな顔をした。


「……見たい」


「ああ」


 俺も同じだった。


「すごく見たい」


「ああ」


「でも駄目」


「ああ」


 少年が俺を見る。


「アルも?」


「見たい」


「我慢する?」


「する」


「一緒」


「そこは同じでいいだろ」


 少年は少しだけ笑った。


 ただ、その笑みはすぐに消えた。


「これがあると、もどされる」


 もう一度、子供の言葉を口にする。


「じゃあ、誰かがその木を見て、連れてった?」


『その可能性はあります』


「認証?」


『可能性はあります』


「番号みたいな?」


『それもあり得ます』


「でも」


 少年は自分で止める。


「まだ決めない」


『はい』


「持ってる理由も」


『はい』


「捨てない理由も」


『はい』


 少年は少し苦しそうに眉を寄せたまま、椅子の背へ身体を預けた。


「本人、今どこ?」


『安全区画の部屋です。リディアが三歩離れた位置にいます』


「まだリディア選んでる?」


『はい』


「昨日は嫌だったのに」


『今日は選んでいます』


「……それ、ちょっといい」


『何がですか?』


「変わってもいいって分かるから」


 少年はそう言ってから、少しだけ窓の方を見た。


「その子も、昨日と同じじゃなくていい」


 通信が終わると、少年はしばらく静かだった。


 俺もあえて話しかけなかった。


 午後の白鴉療養所は朝より人の気配が増えている。階下からは食器を片づける音と、誰かが職員へ寝具を替えてほしいと頼む声が聞こえた。外では近衛が交代し、遠くで馬の蹄が一度だけ石を叩いた。


 その音に、少年が僅かに顔を上げる。


「馬」


「ああ」


「ここにもいる」


「ああ」


「発見された子が来たら、怖いかな」


「可能性はある」


「じゃあ、来るってなったら先に教える?」


「馬がいることを?」


「うん。音するかもしれないって」


「そうした方がいいかもな」


「でも、馬が怖いってまだ決まってない」


「ああ」


「なら『馬がいるから怖いだろ』じゃなくて、『馬の音がするかもしれない』だけ?」


「それなら情報になる」


「決めるのは本人」


「ああ」


 少年は少し満足したように頷いた。


「選ぶ前に知ること増やす」


「そういうことだな」


「いっぱい増やしすぎると?」


「疲れる」


「面倒」


「結局それか」


 今度は俺たち二人とも少し笑った。


 夕方近くになって、帰還管理所から新しい報告が届いた。


 リディアたちは扉そのものを開けずに、封印術式の外側だけを読み進めていた。その結果、最下層の王家式封印の一部から、文字列が一つだけ復元できたという。


『内容は「帰還管理所」「封印文」「本人確認」です』


 エルが区分を読み上げる。


 三〇八号室の少年は、少し迷ってから聞くことを選んだ。


『復元できた文は短いです』


 リディアの声が響く。


『「帰還資格確認前、対象を内区へ送るべからず」』


「帰還資格」


 ブラットが低く繰り返した。


「戻れる人を決める?」


 少年が眉を寄せる。


『そう読める可能性はあります。ただ、「帰還」が何を意味するかはまだ確定していません』


「王宮?」


『記載はありません』


「身体?」


『それも不明です』


「記憶?」


『分かりません』


 少年はそこで止め、少し息を吐いた。


「でも、対象って書いてる」


「ああ」


「第一対象とか第二対象と同じ言葉?」


「同じ単語ではある」


「同じ人たち?」


「まだそこまでは」


「分かってる」


 少年は先回りして言った。


『もう一つあります』


 リディアが続ける。


『封印文の下に、さらに短い注意書きがあります。「帰還証を本人より取り上げることを禁ず」』


 今度は、部屋にいた全員が黙った。


 少年の目が大きくなる。


「帰還証」


 木片。


 あの子が手放さない、小さな板。


 裏側には帰還管理所の外壁と似た印。


 本人は「これがあると、もどされる」と言った。


 俺の頭の中で、それらが一気に繋がりそうになる。


 だが、隣の少年が先に言った。


「木の板とは、まだ決めない」


 声は少し震えていた。


「でも」


 膝の上に置いた両手へ、ぎゅっと力が入っている。


「もし、そうだったとしても」


「ああ」


「取り上げるなって書いてある」


『そうです』


「昔の人も?」


『少なくとも、この封印文を作った時点では、そういう規則があったようです』


 少年は俯く。


「じゃあ今も取らなくていい」


「ああ」


「鍵に使えるかもしれなくても」


「ああ」


「本人の」


 少し間が空いた。


「本人のものだから」


「そうだな」


 俺は静かに答えた。


『帰還証が木片を指すかどうかは、今後別に確認します』


 リディアも慎重に続ける。


『ただし、そのために本人の持ち物を提出させることはしません。外側の記録と設備から確認できる範囲を先に調べます』


「うん」


 少年は何度か頷いた。


「それでいい」


 通信が終わったあとも、少年はしばらく俯いていた。


 窓から差し込んでいた夕方の光は少しずつ橙色へ変わり、床の上に長い影を作っている。


「昔の規則」


 少年が小さく呟く。


「何だ?」


「取り上げるなって」


「ああ」


「じゃあ、最初から全部悪い場所じゃなかった?」


「かもしれない」


「誰かを守るための規則?」


「そうだった可能性はある」


「でも、後から先生たちが変えた?」


「それもまだ分からない」


「昔から悪いことしてたかもしれない?」


「ああ」


「規則だけ良くて、守ってなかったかもしれない?」


「ああ」


 少年は少し疲れたように息を吐いた。


「場所も、一個じゃない」


「何が?」


「いい場所か悪い場所か」


 俺は黙って続きを待つ。


「白鴉も、先生の場所だった。でも今は俺がここで寝てる」


「ああ」


「帰還管理所も、誰かを戻す怖い場所だったかもしれない。でも、取り上げるなって規則もある」


「ああ」


「途中で変わったかもしれない」


「ああ」


「人と同じ?」


 少し難しい問いだった。


「似てるところはあるかもな」


「先生も?」


「レイハンも最初から全部同じだったとは限らない」


「悪い人じゃないかもしれない?」


「やったことまでなくなるわけじゃない」


「ああ」


 少年は少し考えて頷く。


「そこ別」


「そうだ」


「俺を助けたことがあっても、薬とか命令したことが消えない」


「ああ」


「俺が好きでも、怖くても、どっちか消えない」


「ああ」


「……また両方」


 少年が少し笑った。


 その日の夕食前、帰還管理所の扉をどうするかについて、ガルムから確認が入った。


 外側だけで確認できる情報はかなり集まった。


 だが、封印の第一層を解除したまま放置するのも安全とは言えない。内部に記録が残っているなら、レイハン側の人間が先に到達する可能性もある。


「開けるの?」


 少年が俺を見る。


「まだ決めてない」


「アルが決める?」


「俺だけでは決めない」


 その答えに、少年は少し安心したようだった。


 ガルム、リディア、証拠管理担当、ブラット、エル、それに現場の安全を確認している近衛たちで条件を整理する。人の気配がないか、開放時に記録消去術式が動かないか、転送装置が接続されていないかまで確認してからになる。


「AG-02使う?」


「今のところ使わない」


「木の板は?」


「使わない」


「本人がいいって言っても?」


「今はな。何に使われる物か本人も俺たちも分からない」


 少年が少し考える。


「許可あっても、危ないなら待つ」


「ああ」


「選ばせるだけじゃない」


「ああ」


「……難しい」


「俺も毎回迷ってる」


「アルでも?」


「当然だ」


「王太子だったのに」


「王太子なら何でも正しいと思うな」


 少年は俺の顔を少し見つめてから、ふっと笑った。


「それ、父上にも言える?」


 胸の奥が僅かに痛んだ。


「言えるようになった」


 少年の笑みが少しだけ消える。


「俺も、いつか言えるかな」


「言いたいなら」


「父上が怖くても?」


「ああ」


「会いたくても?」


「ああ」


「手紙が本物でも?」


「ああ」


 少年は静かに息を吐いた。


「じゃあ、まだ今は言わない」


「それでいい」


 夜になり、今日も父王の手紙は開かなかった。


 少年は赤い布へ触れはしたものの、「帰還証とか帰還資格とか聞いたあとに読むと混ざる」と自分から判断し、手を離した。昨日と同じ理由に見えるが、今日は誰かに促される前に決めている。


 白い薬は四分の一。


 青と紫は使わない。


 灯りは少し残す。


 扉は内側から閉める。


 そこまで確認してから、少年は寝台へ潜り込んだ。


「アル」


「何だ」


「木の板」


「ああ」


「もし本当に帰還証だったら」


「ああ」


「持ってると戻されるのに、取り上げるなって変じゃない?」


「そうだな」


「何でだと思う?」


「分からない」


「考えて」


「可能性ならいくつかある」


「言って」


 俺は少し考えた。


「本人が戻るかどうかを決めるための証だったのかもしれない。持ってる人しか戻れないなら、取り上げられたら選べなくなる」


「でも、あの子は持ってると戻されるって言った」


「ああ。制度が変わったかもしれないし、使い方を変えられたのかもしれない」


「先生が?」


「そこはまだ分からない」


「他には?」


「持ってるだけで誰かに見つかる目印だったとか」


「怖い」


「ああ」


「他」


「本人にとって大事な物だから、昔から取り上げ禁止だった可能性もある」


「それが一番普通」


「そうだな」


 少年はしばらく天井を見た。


「俺の手紙みたい?」


「少し似てるかもしれない」


「怖いこと書いてあるかもしれないのに、取られたら嫌」


「ああ」


「捨てたくもない」


「ああ」


「父上のかもしれないから」


 その声は少しだけ小さくなった。


「じゃあ、あの子も」


 そこまで言って、少年は自分で止まる。


「……違うかもしれない」


「ああ」


「でも、持ってたい理由があるかもしれない」


「ああ」


「だったら取らない」


「そうだな」


 少年は目を閉じる。


「明日、帰還管理所開く?」


「条件が揃えば」


「アル行かない?」


「今のところは行かない」


「今のところ」


「細かいな」


「だってお前、すぐ行くから」


 俺は反論しようとして、やめた。


「……否定しにくい」


「勝ち」


「何のだよ」


 少年は布団の中で少し笑った。


「お休み、アル」


「お休み、アルフォンス」


 セリーも挨拶し、俺たちは三〇八号室を出た。


 扉の内側から鍵がかかる。


 廊下には夜番の近衛が一人立っていたが、こちらへ軽く会釈しただけで何も聞かなかった。少し離れた部屋からは、誰かが眠る前に水を頼む声が聞こえ、白鴉療養所は今日も静かに夜へ移っていく。


 帰還管理所の外壁と、名前不明の子供が持つ木片には、よく似た印がある。


 封印文には「帰還資格」という言葉が残り、「帰還証を本人より取り上げることを禁ず」とも記されていた。


 木片がその帰還証なのかもしれない。


 違うのかもしれない。


 だが、どちらであっても今すぐ変わらないことがある。


 あの木片は、扉を開けるために見つかった道具ではない。


 旧保養施設で震えていた一人の子供が、ずっと手放さずに持っていた物だ。


 そこを逆にしてはいけない。


 答えが扉の向こうにあるとしても、人の持ち物を勝手に鍵へ変えてまで開く必要はない。


 俺たちは、俺たちに開けられる方法を先に探す。


 本人の手にあるものは、本人の手に残したままで。


 そうして待った先にしか見えないものも、きっとあるのだと思った。

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