第37話 行かないと言った先を、こちらから勝手に決めないことにしました
翌朝、白鴉療養所の廊下には、昨夜より少しだけ冷たい空気が残っていた。
窓の外は晴れていたが、山から吹き下ろす風はまだ朝の冷たさを抱えている。厨房の方からは焼いたパンと温かいスープの匂いが流れてきて、夜番を終えた近衛たちが声を抑えながら交代していた。療養所にいる患者たちも少しずつ朝の生活へ戻り始めており、二階では誰かが水差しを倒したらしく、短い謝罪の声と、それに応じる笑い声が聞こえた。
三〇八号室の前へ着くと、扉はまだ閉じていた。
俺が二度ノックすると、少し間を置いて内鍵の外れる音がした。
「入っていい」
昨日と同じ声だったが、扉を開けてすぐ、いつもと少し違うことに気づいた。
少年は寝台の上ではなく、窓の前に置かれた椅子へ座っていた。窓は閉じたままだったが、朝日に照らされた山を静かに見ている。
「早いな」
「起きた」
「それは分かる」
「昨日も言った」
「だから今日は別のこと聞く」
少年が振り返る。
「何」
「一人で眠れたか?」
少し考えてから、少年は頷いた。
「一回起きた。でも呼ばなかった」
「怖くなかった?」
「少し」
「それでも呼ばなかった?」
「うん」
そこで少年は少しだけ視線を逸らした。
「呼んでもよかった?」
「もちろん」
「でも呼ばなくてもいい?」
「ああ」
それだけ確認すると、少年はまた窓の外へ目を向けた。
怖いから呼ぶ。
怖いけれど呼ばない。
どちらかだけが正しいわけではないと、少しずつ身体で覚えているように見えた。
セリーが体調を確認すると、頭痛も吐き気も胸の苦しさもない。身体の重さはさらに少し減っており、白い薬についても少年自身が「今日は昨日と同じ四分の一でいい」と答えた。
「青と紫は?」
「なし」
「分かりました」
「毎回聞くんだな」
「毎回、あなたが決めるものですから」
「明日変えてもいい?」
「もちろんです」
少年は納得したように頷いたあと、すぐ俺を見る。
「昨日の子」
やはり、その話だった。
「危険な報告は来てない」
「『いかない』の続きは?」
「まだ俺も聞いてない」
「帰還管理所は?」
「封印解除の準備中だ」
「リディア?」
「ああ。古い王家式の封印だから、壊さず確認してる」
「ガルムは?」
「まだ旧保養施設側」
「先生は?」
「見つかってない」
少年は少し眉を寄せる。
「全部まだ」
「そうだな」
「でも」
少年は椅子の背へ少し身体を預けた。
「今日は、昨日より怖くない」
「何が?」
「帰還管理所」
俺は少し意外に思った。
「どうして?」
「昨日は、帰れって言われる場所みたいで嫌だった。でも、名前だけじゃ分からないんだろ」
「ああ」
「本当に帰る場所かもしれないし、帰す場所かもしれないし、何かを戻す場所かもしれない」
「そうだな」
「でも、人を戻す場所じゃないかもしれない」
「ああ」
少年はそこで少し口元を緩めた。
「たぶん、前より勝手に怖がるの減った」
「怖がること自体は悪くないぞ」
「分かってる。でも、名前だけで全部決めるのは違う」
「ああ」
「先生って聞いたら怖いのと同じ?」
「それは経験があるから、少し違うと思う」
「じゃあ同じにするな」
「分かってるよ」
少年が少し笑った。
◇◇◇
朝食を終えた頃、旧保養施設からヨアヒムの連絡が入った。
エルはいつものように、いきなり内容を流さず、先に区分を告げる。
『内容は「発見された子供の体調」「本人の発言」「移動に関する意思」です。名前に関する情報はありません』
少年の背筋が少し伸びる。
「本人、俺に聞かせていいって?」
『保護担当者内への共有を許可しています。三〇八号室のあなたを含むことも確認済みです』
少年は少しだけ驚いた。
「俺も?」
『はい』
「何で?」
『理由は確認していません』
少年はしばらく考えたが、すぐに頷いた。
「聞く」
通信が繋がる。
『おはようございます』
「おはよう」
少年が先に返した。
『まず体調ですが、昨夜は大きな変化はありません。今朝は昨日より少し多く粥を食べています。水分も自分で取れています』
「歩ける?」
『まだ長くは無理です。ですが、昨日より立っていられる時間は増えています』
「薬は?」
『使用していません』
少年はそこで少し安心した顔をした。
『次に本人の発言です。昨日、「いかない」と話したあと、それ以上は言葉が出ませんでした。ただ、今朝になってもう一つ言葉が増えました』
「何て?」
『「もどさないで」と』
少年の表情が固まった。
三〇八号室の中にあった穏やかな朝の空気が、ほんの少し張りつめる。
「戻す?」
『はい』
「どこに?」
『まだ分かりません』
「帰還管理所?」
『その言葉は見せていません』
「先生?」
『名前は出ていません』
「白鴉?」
『それも確認していません』
少年は膝の上で両手を組む。
「誰かに戻されたことあるのかな」
『可能性はあります』
「逃げたのに?」
『それも考えられます』
「でも違うかもしれない」
『はい』
少年は深く息を吐いた。
「また多い」
『そうですね』
「そのあと何した?」
『本人へ、「今はどこにも移動しません」と伝えました』
「大丈夫って言わなかった?」
『言っていません』
「よかった」
少年は少しだけ肩の力を抜いた。
『その言葉を聞いたあと、本人はしばらく泣きました』
今度は誰もすぐに口を開かなかった。
「声出して?」
『ほとんど声はありませんでした。涙だけです』
「止めた?」
『いいえ』
「何か聞いた?」
『聞いていません』
「何で?」
『今は泣いていること自体を止める必要はないと判断しました』
少年はしばらく沈黙した。
自分の両手へ視線を落とし、指先を少しだけ動かす。
「俺」
小さく言う。
「泣くの嫌だった」
「ああ」
「先生に、王太子は泣かないって言われた」
「そうか」
「父上の手紙にも、弱さに負けるなって書いてあった」
「ああ」
「じゃあ、あの子が泣いてても」
言葉が途中で止まる。
少年は少し考えてから、顔を上げた。
「止めなくていい」
『はい』
「泣いて、怖いの減るかもしれない」
『そうかもしれません』
「減らないかもしれない」
『はい』
「でも、泣くのは悪くない」
『そう思います』
少年はそこで、小さく息を吐いた。
◇◇◇
ヨアヒムの報告は、そこで少し間を置いた。
発見された子供の感情が大きく動いたばかりなので、続けるかどうかを確認するためだ。
「まだある?」
『あります。「移動に関する意思」です』
少年は少し迷った。
「重い?」
『本人が自分で示した内容です。危険な情報ではありません』
「聞く」
『承知しました』
ヨアヒムが続ける。
『泣き止んだあと、こちらから「ここにいる」「外へ行く」「別の場所へ行く」の三つだけを示しました』
「選ばせた?」
『今すぐ移動するためではなく、本人が何を嫌がっているのかを少し確認するためです』
「いっぱい出してない?」
『三つだけです』
「ならいい」
『本人は最初に「別の場所へ行く」を指し、そのあと首を横に振りました』
「行かない」
『はい』
「じゃあ、ここにいたい?」
『そう考えて、「ここにいる」を示しました』
「それは?」
『しばらく迷ったあと、頷きました』
少年の表情が少し変わる。
「旧保養施設にいたい?」
『少なくとも今の安全区画には、という意味だと思います』
「先生のいた場所なのに?」
『それを本人がどう認識しているかは分かりません』
「怖くない?」
『怖い部分はあると思います。ただ、別の場所へ動く方がもっと嫌なのかもしれません』
少年はしばらく考えた。
「じゃあ、白鴉に連れてこない?」
『今はそうします』
「本人が変えたら?」
『その時に考えます』
「明日変わっても?」
『はい』
少年は頷く。
「それでいい」
しばらくしてから、少しだけ声を落とした。
「戻されたくないって言ったから」
『はい』
「じゃあ、無理に動かしたら」
そこまで言って、少年は自分で止まった。
「俺たちが、先生と同じになるかもしれない」
ヨアヒムの声が少しだけ低くなる。
『そうならないようにします』
「でも危険なら?」
『生命に危険がある、建物が危ない、敵が来るなど、移動しなければ守れない時は説明したうえで動かします』
「嫌って言っても?」
『その時は、嫌だということを記録して、それでも必要な理由を説明します』
「選ばせてない」
『命を守るために、本人の希望通りにできない時もあります』
少年は難しい顔をした。
「やっぱり全部自由じゃない」
「ああ」
俺が口を挟む。
「でも、無視するのとも違う」
「嫌って言ったの残す?」
「ああ」
「あとで、勝手に決められたってならない?」
「完全には防げないかもしれない。でも、何を嫌がってたか、何で動かしたかを残すことはできる」
少年はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
「それなら、まだまし」
『私もそう思います』
◇◇◇
通信が終わったあと、少年はしばらく窓辺へ行かなかった。
寝台の縁に座ったまま、赤い布に包まれた父上の手紙を見ている。
「戻さないで」
ぽつりと呟く。
「強い言葉だな」
「ああ」
「俺、言ったことあるかな」
「似たことはあった」
「何」
「王宮へ勝手に連れていくな、とか」
「それ、戻さないでと同じ?」
「少し似てるかもしれない」
「でも同じじゃない」
「ああ」
少年は少し笑った。
「もう分かってる」
「偉いな」
「褒めるな」
「今のは普通に褒めた」
「子供扱い」
「お前は子供だろ」
「王太子」
「そこは未確定」
「またそれ」
少しだけ空気が戻る。
セリーが水差しを交換しながら、少年の様子を静かに見ていた。
「アルフォンスさん」
「何」
「昼食まで少し休みますか?」
「まだ平気」
「身体は平気でも、頭が疲れているように見えます」
少年は少し眉を寄せた。
「分かる?」
「はい」
「アルも?」
「かなり」
「顔?」
「目」
「どんな」
「考えすぎてる時の目」
「分からない」
「自分じゃ見えないからな」
少年は少し考えてから、横になった。
「寝ない」
「構いません」
「休むだけ」
「それで十分です」
セリーが薄い掛け布を渡す。
少年はそれを腹のあたりまで掛け、天井を見た。
「アル」
「何だ」
「俺も、戻されたくないって思ってるのかな」
問いは独り言に近かった。
「王宮に?」
「ああ」
「それはお前が決めることだ」
「今じゃなくて?」
「今すぐ一個にしなくてもいい」
「父上に会いたいのに」
「ああ」
「王宮は怖い」
「ああ」
「変じゃない?」
「変じゃない」
「先生に会いたいかもなのに、先生は怖い」
「ああ」
「それも」
「ああ」
少年は少し目を閉じた。
「やっぱり両方いっぱいある」
「人間はそんなもんだ」
「面倒」
「そこに戻るな」
目を閉じたまま、少年が少し笑った。
◇◇◇
昼食を挟み、午後になって帰還管理所から続報が入った。
内容区分は「封印」「内部」「人の痕跡」。
少年は聞くことを選んだが、その前に一つ確認した。
「死んでる人いる?」
『現時点で確認されていません』
「怪我人?」
『発見報告はありません』
「じゃあ聞く」
通信を繋いだのはリディアだった。
『封印の第一層を解除しました』
「第一層?」
俺が聞く。
『はい。扉は一枚ですが、術式が三重です』
「古い?」
『かなり。ただし、全部同時期ではありません』
ブラットが少し身を乗り出す。
「後から重ねられた?」
『そう見えます。最下層は古い王家式。中間層は王立研究系。最上層は比較的新しく、白鴉療養所で見つかった認識阻害と似ています』
部屋の空気が少し重くなる。
「先生?」
少年が聞く。
『関与の可能性は上がりますが、まだ断定しません』
「分かってる」
少年はすぐに返した。
『第一層を外したところ、扉の表面に隠されていた文字が出ました』
「何て?」
『「帰還管理所・第三保護区画」』
「第三」
少年が眉を寄せる。
「第一とか第二もある?」
『ある可能性はありますが、現地ではまだ見つけていません』
「第三対象?」
「繋げるな」
俺が言うと、少年はすぐに口を尖らせる。
「聞いただけ」
「ならいい」
『現時点では対象番号との関係は不明です』
リディアが続ける。
『それから、扉の脇に小さな差込口があります』
「鍵?」
『おそらく』
俺とブラットの視線が合う。
「AG-02」
少年が今度は慎重に口にした。
「銀の鍵、合うかもしれない?」
『形状確認はまだです』
「鍵ここにある?」
『保全されて白鴉側です』
エルが補足する。
『AG-02刻印の銀鍵は、証拠保管庫に封印中です』
「試す?」
少年が俺を見る。
「俺だけで決めない」
「誰が決める?」
「ガルム、リディア、ブラット、エル。それと証拠管理してる人」
「俺は?」
「お前はすぐ使いたがる」
「失礼だな」
「使わない?」
少し黙る。
「……まず形状比較だけ」
「ほら」
少年が勝ち誇った顔をする。
『その方針で問題ありません』
リディアも淡々と同意した。
「皆そっちかよ」
セリーが横で小さく笑っていた。
◇◇◇
封印を無理に破らず、一度そこで調査を止めることになった。
AG-02の鍵と差込口の形状を、まず非接触で比較する。
合ったとしても、すぐに使わない。
内部に人がいる可能性、罠、転送機構、古い魔術装置、記録消去術式など、考えるべきことが多すぎる。
「一個ずつ」
少年が言う。
「何が?」
「前なら、鍵あるなら使えばいいって思ってた」
「ああ」
「でも合っても、使ったら戻せないかもしれない」
「そうだな」
「扉開いて、何か壊れるかもしれない」
「ああ」
「人いるかもしれない」
「ああ」
「先生いるかもしれない」
「ああ」
「だから、形だけ」
「成長したな」
「褒めるな」
「これは褒めてもいいだろ」
「子供扱い」
「どうすりゃいいんだ」
少年が少し笑う。
◇◇◇
夕方前、ヨアヒムからもう一度連絡が届いた。
内容は「本人の発言」と「木片」。
少年は聞くと決めた。
『本人が、木片を初めてこちらへ向けました』
「渡した?」
『いいえ。手に持ったままです』
「見せた?」
『そう考えています』
「文字?」
『表面だけです』
「帰と還?」
『はい』
「それで?」
『こちらから何も読まず、本人へ「これは何ですか」とだけ尋ねました』
少年が少し息を止める。
『本人は、しばらく黙っていました。そのあと』
ヨアヒムが少し間を置いた。
『「もどるところ」と言いました』
三〇八号室に、重い沈黙が落ちた。
「戻るところ」
少年が小さく繰り返す。
『はい』
「帰還管理所?」
『その言葉は出していません』
「じゃあ本人が知ってる場所?」
『そうかもしれません』
「どこか聞いた?」
『まだです』
「何で」
少年の声に焦りが混じる。
それに気づいたのか、ヨアヒムは少しゆっくり答えた。
『言った直後に、本人の手が震えたからです』
少年の表情が変わる。
「怖い?」
『そう見えました』
「泣いた?」
『少しだけ』
「じゃあ聞かない方がいい」
『私もそう判断しました』
少年は深く息を吐いた。
「でも」
しばらく迷う。
「戻るところ、って何だろ」
「それは本人が続きを言うまで待つしかないな」
俺が答えると、少年は少し苛立った顔をした。
「知りたい」
「ああ」
「帰還管理所と同じか知りたい」
「ああ」
「先生と関係あるか知りたい」
「ああ」
「〇二かも知りたい」
「ああ」
「でも聞いたら怖がる」
「ああ」
「……嫌だ」
少年は膝の上で手を握った。
「知りたいのに聞けないの、嫌だ」
俺はすぐに返さなかった。
その気持ちはよく分かる。
調査をしている側なら、答えへ近づく言葉を聞いた瞬間に続きを求めたくなる。俺だって同じだ。
「俺も知りたい」
そう言うと、少年がこちらを見る。
「でも待つ?」
「ああ」
「何で」
「本人を壊してまで聞く答えじゃないから」
少年は少し黙った。
「後で忘れるかもしれない」
「そうかもしれない」
「先生に連れていかれるかもしれない」
「守る」
「言えなくなるかもしれない」
「ああ」
「それでも?」
「ああ」
少年は長く黙ったあと、少しだけ肩を落とした。
「分かった」
その声には納得より、我慢に近いものが混じっていた。
でも、それでいい。
いつも綺麗に納得する必要はない。
◇◇◇
ヨアヒムは続けて、本人の共有許可について確認した。
『この「もどるところ」という発言は、本人に「白鴉の保護担当者へ伝えてよいですか」と聞いたところ、頷きました』
「俺も?」
『三〇八号室のあなたも含むと説明しました』
「何で俺はいいんだろ」
『理由は聞いていません』
少年は少し考える。
「俺のこと知ってる?」
『名前までは伝えていません』
「じゃあ、誰か分かってない?」
『「同じ療養所で保護されている子供」とだけ説明しています』
「王太子とか?」
『言っていません』
「アルフォンスも?」
『言っていません』
「ならいい」
少年は少し安心したようだった。
「俺のこと、勝手に詳しく言わないで」
『はい』
「でも、俺が聞いてるってことは言っていい?」
『それは確認します』
「今じゃなくていい」
『分かりました』
少年は自分から、そこで止めた。
◇◇◇
日が傾き始めた頃、AG-02の鍵と帰還管理所の差込口について比較結果が届いた。
形状は非常に近い。
ただし、完全一致ではなかった。
「また?」
少年が思わず言う。
ブラットが記録板を見ながら説明する。
「鍵の先端三か所は一致しています。ただ、差込口の最奥にある認証溝が一つ足りません」
「鍵が違う?」
「その可能性があります」
「壊れてる?」
「それもあります」
「別の鍵が必要?」
「あり得ます」
少年は頭を抱えそうな顔をした。
「何でも少しだけ違う」
「そうだな」
「手紙の印も八割」
「ああ」
「鍵もほとんど」
「ああ」
「わざと?」
ブラットが少し考える。
「そう設計された可能性はあります。完全に同じ鍵を使わず、区画ごとに一部だけ違う認証を持たせる方式です」
「じゃあAG-01とかAG-02とか?」
少年が慎重に言う。
「番号で鍵違う?」
「可能性はあります」
「でも決めない」
「はい」
「ブラットまで」
「必要な時は保留します」
少年が少し笑う。
「皆うつった」
「お前もな」
「俺は最初から」
「それは嘘だろ」
「記録ある?」
『あります』
「エル、余計なこと言うな」
セリーが口元を押さえている。
◇◇◇
その日の夕食後、少年は珍しく父上の手紙へ手を伸ばした。
赤い布の端をつまみ、少しだけ持ち上げる。
「開ける?」
俺は聞かず、待った。
少年は布を少しめくり、中に並んだ封筒を見たあと、また元へ戻した。
「今日はやめる」
「ああ」
「聞かない?」
「何を?」
「何でやめたか」
「言いたい?」
少年は少し考える。
「今日は、戻るって言葉いっぱい聞いたから」
「ああ」
「父上の手紙にも、王宮へ戻るって書いてるかもしれない」
「ああ」
「今見たら、全部同じに思いそう」
俺は少し驚いた。
「だから今日は見ない」
「それでいいと思う」
「逃げてる?」
「今の自分が混ぜそうだから止めるのは、逃げるのとは違うんじゃないか」
「じゃあ何」
「順番を選んでる」
少年は少しだけ目を細めた。
「それ、いい」
「使う?」
「記録する」
『「今日は父王の手紙を開かない。理由は、帰還に関する情報を多く聞いた直後で、別の情報と混同する可能性があるため。本人判断で延期」と記録しました』
少年は満足したように頷いた。
「それでいい」
◇◇◇
夜の薬は、朝と同じ白を四分の一。
青と紫は使わない。
扉は内側から閉める。
灯りは少し残す。
今日も一人で眠る。
いつもの確認を終えたあと、少年は布団へ入らず、少しだけ寝台の縁に座ったままだった。
「アル」
「何だ」
「もどるところって、ある?」
「俺に?」
「うん」
少し考えた。
「塔かな」
「王宮じゃない?」
「今は違う」
「リュネ?」
「そこも帰る場所の一つにはなりつつある」
「二つある?」
「ああ」
「いっぱいあっていい?」
「いいんじゃないか」
「俺は?」
「お前が決める」
「三〇八号室も?」
「ああ」
「ここ、先生の場所だったのに」
「今はお前が寝ると決めてる場所だ」
少年は少し黙った。
「じゃあ、場所って変わる?」
「人との関係も変わるしな」
「帰還管理所も?」
「昔と今で意味が違う可能性はある」
「怖い場所だったかもしれない」
「ああ」
「誰かを助ける場所だったかもしれない」
「ああ」
「両方だったかもしれない」
「ああ」
「面倒」
「今日は多いな」
少年が少し笑った。
「でも」
その笑みがゆっくり消える。
「発見された子にとって、戻るところが怖い場所なら」
「ああ」
「戻さない方がいい」
「安全を確認して、本人が望まないならな」
「でも、その場所に大事な人がいたら?」
「それも聞く」
「物が残ってたら?」
「必要なら取りに行く方法を考える」
「本人が行かなくても?」
「ああ」
少年は少しだけ驚いた顔をした。
「そういうのもあるんだ」
「本人が戻らなくても、必要な物だけ持ってくることはできる」
「人も?」
「会いたい人がいるなら、安全に連絡できるか考える」
「じゃあ、帰るか帰らないかだけじゃない」
「ああ」
「いっぱい間ある」
「ああ」
少年はそこで、少し安心したように息を吐いた。
「それ、あの子にもある?」
「あると思う」
「ならいい」
◇◇◇
部屋を出る前、少年がエルへ一つだけ追加の記録を頼んだ。
「今日のあの子の言葉」
『「もどさないで」「もどるところ」ですね』
「うん。でも」
少し考える。
「俺たちが勝手に、帰還管理所って意味にしない」
『記録します』
「あと、いかないって言った先も」
『未確定として維持します』
「それでいい」
少年は布団へ潜り込む。
「アル」
「何だ」
「もし明日、その子が名前言っても」
「ああ」
「戻るところより先に名前聞いたって、変じゃない?」
「変じゃない」
「名前言わなくても?」
「変じゃない」
「ずっと言わなくても?」
「困ることはあるかもしれないけど、急がせない」
「そっか」
少年は目を閉じる。
「お休み、アル」
「お休み、アルフォンス」
セリーも挨拶し、俺たちは部屋を出た。
内側から鍵のかかる音がする。
廊下の灯りは淡く、夜番へ入った近衛たちの足音が遠くで静かに響いていた。
帰還管理所の扉は、まだ開いていない。
AG-02の鍵は似ているが、完全には一致しない。
名前不明の子供が言った「もどるところ」が、その施設を指すのかも分からない。
そして、「いかない」「もどさないで」という言葉が、誰から、どこから、何から逃れたいという意味なのかも、まだ分からない。
それでも、以前より一つだけはっきりしていることがあった。
答えを急ぐ必要があるのは、調査する側の都合だ。
本人にとっては、答えより先に守らなければならないものがある。
怖いと言えること。
嫌だと言えること。
行かないと言えること。
戻さないでと言えること。
そして、その言葉を聞いた誰かが、勝手に続きを足さないこと。
帰る場所を探す前に。
戻りたくない場所から、ちゃんと離れていられる時間を作る。
今は、その方が先だった。




