第36話 帰りたいのか帰りたくないのか、その一文字だけでは決めないことにしました
翌朝の白鴉療養所には、久しぶりに穏やかな陽射しが入っていた。
前日まで山の上に残っていた雲はほとんど消え、三階の窓からは遠くの稜線まで見渡せる。夜露を含んだ木々の葉が朝日に照らされ、風が吹くたびに細かな光を返していた。療養所の中でも、朝食を運ぶ足音や低い話し声に昨日までほどの緊張はなく、少なくとも今この瞬間だけは、ここが誰かを閉じ込める場所ではなく、人が朝を迎えるための建物に見えた。
三〇八号室の少年は、俺たちがノックするより先に扉を開けた。
「遅い」
「まだ朝食前だぞ」
「起きたの、もっと前」
「だったら呼べばよかっただろ」
「用なかった」
少年はそう言って、半分だけ開けた扉の向こうへ戻っていく。寝起きらしく髪は少し跳ねていたが、歩き方は昨日より安定しており、身体の重さも少しずつ抜けてきているように見えた。
セリーがいつものように体調を確認すると、少年は自分から寝台へ腰を下ろした。
「頭は痛くない。気持ち悪くもない。胸も平気。身体は昨日より少し軽い」
「眠気はいかがですか?」
「ある。でも朝だからかもしれない」
「白い薬の影響も考えられます」
「じゃあ今日も四分の一?」
以前のように、誰かが決めた量をそのまま受け入れる言い方ではない。少年はセリーの顔を見ながら、自分の身体と薬の量を結びつけて考えていた。
「今の状態なら、同じ量を続ける案はあります。ただ、少し軽くなっているので、朝食後まで様子を見てから決めても構いません」
「減らすの?」
「それも選択肢ですが、急に減らす必要もありません」
少年はしばらく考え、膝の上で指を組んだ。
「今日は同じでいい。明日また考える」
「分かりました」
「青と紫はなし」
「はい」
エルがその日の希望だけを記録する。
それが終わると、少年の視線はすぐに窓の外へ向かった。俺は何となく次に何を聞くのか分かっていたが、先回りして答えないように黙っていた。
「昨日の子」
やはり、少年はそう切り出した。
「何か言った?」
「まだ朝の報告は来てない」
「夜は?」
「危険な連絡はなかった」
「じゃあ寝た?」
「たぶんな」
少年は少しだけ安心したように肩を落としたが、すぐに眉を寄せた。
「たぶん?」
「危険がなかったことしか俺も聞いてないからな。夜中に何回起きたとか、何を食べたとか、そこまではまだ知らない」
「そういうの、本人が言っていいって言ったら聞く」
「ああ」
「名前も」
「ああ」
昨日の約束を、今日も自分から繰り返す。
俺が忘れないようにというより、自分自身へ確認しているようだった。
少年は、しばらく窓の外を見たあと、不意に少しだけ声を落とした。
「『こわい』の次、何言うかな」
「分からない」
「名前かな」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
「『帰る』かもしれない?」
木片に刻まれていた「帰」と「還」。
少年も、それを気にしているのだろう。
「それもある」
「帰りたいって言ったら?」
「どこへ、を確認する必要がある」
「先生のところだったら?」
「安全に会える方法を考える」
「王宮だったら?」
「それも同じだ。行きたい理由と危険を確認する」
「白鴉だったら?」
「来られる状態なら受け入れる」
少年は少し考える。
「帰りたくない、かもしれない?」
「ああ」
「木に『帰』って書いてあるのに?」
「書いてあるから帰りたいとは限らない」
「だよな」
少年はそう言って、小さく息を吐いた。
「分かってるのに気になる」
「気になるのは仕方ない」
「知りたいのに、聞いちゃ駄目なこともある」
「ああ」
「それ、前より面倒」
「便利な言葉だな」
「お前が言った」
「最初に言ったのはたぶんお前だ」
「記録ある?」
「そこまで残してないだろ」
『該当する会話記録は複数あります』
「あるのかよ」
少年が吹き出した。
セリーも小さく笑う。
朝の部屋に、一瞬だけ普通の笑い声が広がった。
◇◇◇
朝食を食べ終えた頃、旧保養施設から最初の通信が届いた。
エルは、昨日までと同じように内容を先に区分する。
『内容は「発見された子供の体調」と「本人の意思表示」です。本人から共有許可された内容のみです』
少年の表情がすぐに引き締まった。
「聞く」
『承知しました』
通信を繋ぐと、ヨアヒムの落ち着いた声が聞こえた。
『おはようございます。まず体調ですが、昨夜は大きな変化はありません。途中で二度目を覚ましたものの、再び眠れています。今朝は水と薄い粥を少量、自分から取りました』
「熱は?」
少年が聞きかけて、少し止まる。
「……それ、俺が聞いていい?」
『本人の体調について、保護担当者内で共有してよいという確認は取れています』
「じゃあ聞く。熱は?」
『ありません』
「薬は?」
『今朝も使っていません。必要な治療が出た場合は、その都度説明する予定です』
少年は一度頷いたあと、言葉を待った。
『それから、昨夜から今朝にかけて、言葉札を三回使いました』
「何を?」
『最初は「水」。次に「一人」。そして今朝、もう一つ新しい札を選びました』
少年は身を乗り出した。
「何?」
『「帰る」です』
三〇八号室の空気が変わった。
俺も、セリーも、すぐには言葉を挟まなかった。
少年は木片の「帰」「還」を思い出したのだろう。膝の上に置いた手へ、少しだけ力が入る。
「帰りたいってこと?」
『そこまではまだ分かりません』
ヨアヒムは即答した。
『「帰る」という札を指したあと、本人は木片へ触れました。ただ、こちらが「帰りたいですか」と尋ねた時には、首を縦にも横にも振りませんでした』
「じゃあ違う?」
『違うとも言えません』
「木の文字と同じだから、見せたかっただけ?」
『その可能性もあります』
少年は少し黙った。
「何回聞いた?」
『一度です』
「それ以上聞かなかった?」
『はい。本人の表情が固くなったため、そこで止めました』
「よかった」
少年の声が少しだけ柔らかくなる。
「そのあと怖がった?」
『しばらく木片を強く握っていました。ただ、昨日の馬の鳴き声の時ほどではありません』
「『こわい』は言った?」
『いいえ』
少年はそこで、一度俺を見る。
「アル」
「何だ」
「帰りたいって決めない」
「ああ」
「帰りたくないとも決めない」
「ああ」
「木の文字を読んでほしいだけかもしれない」
「そうだな」
「帰るっていう言葉が怖いのかもしれない」
「ああ」
「誰かに帰れって言われたのかもしれない」
「ああ」
「……いっぱいある」
「今はそれでいい」
少年は頷いた。
『それから、本人がもう一つ意思表示をしています』
ヨアヒムの声が続く。
『今朝、窓を開けるか聞いたところ、最初は首を横に振りました』
「嫌?」
『そのあと「外」の札を指しました』
「部屋の外?」
『昨日はそうでした。しかし今回は、扉を指しても首を横に振り、窓を指すと一度だけ頷きました』
少年が少し眉を寄せる。
「窓の外、見たい?」
『そう考えています。ただし、窓を開けること自体は嫌なようです』
「閉めたまま?」
『はい』
「じゃあ見せればいいじゃん」
言ってから、少年は少し考えた。
「でも近づくの怖いかもしれない」
『そのため、椅子を窓の近くへ置くかどうかを本人に示したところ、「人」を指しました』
「人?」
『誰かと一緒に、という意味かもしれません』
「誰?」
『まだそこまでは分かりません』
「ヨアヒムは嫌って言われてた」
『はい』
「リディアも?」
『昨日は首を横に振られています』
少年は少し黙る。
「ガルム?」
思わず俺が笑いそうになった。
『本人の前にはまだ立っていません』
「じゃあ誰なんだ」
『今、選べるようにしています。私、リディア、誰もいない、扉の外の人、という札を作りました』
「ガルム入れないの?」
『いきなり隊長を見せる必要がありますか?』
「怖そう」
少年が即答した。
「ガルム聞いてる?」
『聞いてないと思います』
「あとで言うなよ」
『それは私の判断では』
珍しくヨアヒムが少し困った声を出した。
部屋の空気がわずかに緩む。
それから少年は、もう一度真面目な顔へ戻った。
「誰か選んだら、それも俺に言っていいって言った?」
『そこはまだです』
「じゃあ、選んだ人の名前は教えなくていい」
『分かりました』
「本人が言っていいって言ったら、あとで」
『そうします』
少年は満足したように頷いた。
◇◇◇
通信を終えたあと、少年は朝の薬を飲んだ。
白い薬は昨日と同じ四分の一。
セリーが水を渡すと、少年は自分で口へ入れ、少し苦そうな顔をしながら飲み込んだ。
「まずい?」
「前からまずい」
「味は変わってないからな」
「少なくしてもまずい」
「そこは仕方ない」
「甘くできない?」
「成分が変わる可能性がありますので、勝手には」
「フェリクスならやりそう」
「やらせません」
セリーの即答に、少年が笑う。
「セリー、フェリクスに厳しい」
「必要な範囲です」
「俺にも?」
「必要な範囲で」
「アルにも?」
「特に」
「何で俺だけ強いんだ」
セリーは答えず、空になった杯を受け取った。
「主様は、ご自身が止められないと止まりませんので」
「昨日も止まっただろ」
「ガルムさんに言われてからです」
「十分だろ」
少年が面白そうに笑う。
こうして話していると、三〇八号室が以前より少し広く感じる。
同じ広さのはずなのに、ここで選べることが増えたせいかもしれない。
◇◇◇
昼前、南東へ先行していた斥候から連絡が届いた。
内容は「南東旧王家療養地」「村」「レイハン追跡」。
エルが区分を告げると、少年は少し迷った。
「村の人、危ない?」
『現時点で襲撃や負傷の報告はありません』
「先生は?」
『本人確認はありません』
「じゃあ聞く」
通信を繋いだのはガルムだった。
『先行班が村へ入った』
「普通の村?」
少年が最初に聞く。
『今のところはな。家は二十数軒。畑と羊。小さな宿が一軒。王家の療養地だった頃の建物は、ほとんど残っていない』
「誰か先生見た?」
『その前に、村へ入るまでの話をする』
ガルムの声が少し低くなる。
『村の手前で、古い石柱が二本見つかった。両方とも王家の紋章が削られている』
「わざと?」
『削り跡は古い。少なくとも最近じゃない』
「いつ?」
『村人の話では、祖父母の代より前からその状態らしい』
ブラットが小さく息を吐いた。
「二百年前の療養地廃止と同時期かもしれませんね」
『可能性はある。ただ、そこはまだ文書待ちだ』
少年が少し考える。
「先生の馬車は?」
『村へ直接入った新しい轍はない』
「じゃあ違う?」
『村の南側へ回る細い道に、車輪跡がある』
「どこ行く?」
『山の中だ』
俺は思わず身体を起こした。
ガルムがすぐに言う。
『来るな』
「まだ何も言ってない」
『分かる』
「顔見えてないだろ」
『声で分かる』
少年が笑う。
「皆分かる」
「だから何なんだよ」
『山道の先には、古い礼拝堂跡があるらしい』
笑いが消えた。
「王家の?」
『村人は詳しく知らん。ただ、昔、療養地に来た人間が使っていたと言ってる』
「地下ある?」
『まだ分からん』
「転送台の座標?」
『座標の中心は、その礼拝堂跡よりさらに東だ』
ブラットと俺の視線が重なる。
「別か」
『そうらしい』
「じゃあ村と礼拝堂と転送先、三つある?」
『少なくとも現状ではな』
少年が少し困った顔をした。
「また増えた」
『調査なんてそんなものだ』
「減らない?」
『当たりを引けば減る』
「ガルム、当たり引ける?」
『お前よりはな』
「アルより?」
『それは簡単だ』
「おい」
セリーが横で微笑んでいる。
『本題だ。村人から聞いた話で一つ気になるものがある』
「何?」
『三日前、宿に男が一人泊まった』
少年の表情が変わる。
「先生?」
『年齢は四十前後。黒に近い茶髪。眼鏡なし。名前はローデンと名乗った』
「レイハンと違う」
『見た目も完全一致ではない』
「変装?」
『可能性はあるが決めない』
「何持ってた?」
『小さな鞄と、古い地図』
「馬車?」
『徒歩だ』
「じゃあ先生の車輪跡と違う?」
『同一人物が途中で馬車を捨てた可能性もある』
少年は少し考えた。
「その人、何聞いた?」
『山の東側にある「帰還所」について』
部屋の空気が一瞬で変わった。
「帰還?」
少年が低く繰り返す。
俺も言葉を失った。
木片の「帰」「還」。
ただ並んでいるだけかもしれないと、ずっと保留していた二文字。
『村では、そう呼ばれている古い場所があるらしい』
ガルムが続ける。
『正式名称かどうかは分からん。年寄りが昔からそう呼んでいるだけだ』
「どこ?」
『転送座標の中心と、ほぼ一致する』
「じゃあ木の板――」
少年はそこまで言って、自分で止まった。
握った手が少し震えている。
「……同じって決めない」
「ああ」
「でも、近い?」
「かなり気になる一致だな」
「帰還所って何する場所?」
『村人は知らん』
「昔の療養地の人が帰るところ?」
『そういう言い伝えはある』
「王宮へ?」
『そこまでは残ってない』
少年は息を吐いた。
「ローデンって人、そこ行った?」
『宿を出た翌朝、東へ向かった』
「三日前?」
『ああ』
「先生が逃げたの、いつ?」
ブラットが日数を確認する。
「時間は合いますね」
『だから先行班の一人を礼拝堂へ、一人を帰還所方面へ回した。村には二人残してる』
「ガルムは?」
『まだ旧保養施設だ』
「行かない?」
『俺が行ったらこっちの指揮が空く』
少年が俺を見る。
「ガルムも任せてる」
「そうだな」
「お前も」
「分かってる」
『珍しい』
「切るぞ」
ガルムが小さく笑った。
『続報は危険があれば先に送る。少年には内容区分を守る』
「うん」
『あと一つ』
「何?」
『帰還所が木片と関係ある可能性はあるが、あの子にその言葉を今すぐ見せるな』
少年が少し驚く。
「何で?」
『反応が分からん。怖がるかもしれない』
「……そうだな」
『ヨアヒムにもそう伝えた』
「ガルム、分かってる」
『何回言う』
「褒めてる」
『嬉しくない』
通信が切れた。
◇◇◇
部屋に静けさが戻ったあと、少年はしばらく何も言わなかった。
赤い布に包まれた手紙にも触れず、窓の外へ視線を向けている。
「帰還所」
やがて小さく呟く。
「木の板、同じ字」
「ああ」
「偶然かな」
「ある」
「関係あるかな」
「それもある」
「どっちが多い?」
「今は割合まで分からない」
「逃げた」
「数字にできないだけだ」
少年は少しだけ笑ったが、すぐ真顔に戻った。
「もし、その子が帰還所から来たら?」
「そうだとしても、何があったかは別に調べる」
「帰りたいかもしれない?」
「ああ」
「帰りたくないかもしれない」
「ああ」
「そこに先生いるかもしれない」
「ああ」
「怖い場所かもしれない」
「ああ」
「王宮へ帰す場所かもしれない」
「ああ」
「……また多い」
少年は両手で顔を覆うようにし、少ししてから下ろした。
「でも、先にその子に『帰還所知ってる?』って聞いたら駄目なんだよな」
「俺なら急がない」
「何で?」
「答えを誘導するかもしれない」
「言葉見せただけでも?」
「本人が木片の意味をまだ説明してないからな。俺たちが先に『帰還』だと決めて見せたら、それに合わせる可能性もある」
「薬みたい」
「何が?」
「先生が『偽物がいる』って言ったら、俺はお前を偽物だと思った」
少年の声が少し低くなる。
「最初に言われた言葉に、後から全部合うようにしたかもしれない」
俺はすぐに返さなかった。
「だから」
少年が続ける。
「その子にも、帰還所って先に言わない方がいい」
「ああ」
「木の字を本人が読んだら?」
「その時は、その意味を聞いてもいいかもしれない」
「聞き方も?」
「気をつける」
「『帰還所だろ?』じゃなくて」
「ああ」
「『これ、何?』とか?」
「それならまだましだと思う」
少年は少し考えてから頷いた。
「ヨアヒムに言う」
「提案としてな」
「分かってる」
◇◇◇
午後になって、発見された子供から再び短い意思表示があった。
ヨアヒムからの通信は、「本人の言葉」と「木片」。
少年は聞くことを選んだ。
『昼食のあと、本人が木片を自分から寝台へ置きました』
「触っていいって?」
『まだです』
「じゃあ触ってない?」
『はい』
「それで?」
『本人が、文字の部分を指でなぞりました』
少年が息を止める。
『そのあと「帰る」の札を指し、首を横に振りました』
三〇八号室の空気が重くなる。
「帰りたくない?」
『そう解釈できる可能性はあります』
「でも?」
『「帰る」という言葉自体が違う、という意味かもしれません』
「帰還じゃないとか?」
『それもあります』
少年は膝の上で手を握る。
「他に何か?」
『私が「この言葉が嫌ですか」と尋ねたところ、本人は一度だけ頷きました』
「帰るが嫌?」
『少なくとも、今はその言葉を避けることにしました』
「よかった」
少年の声が僅かに震えた。
「帰れって言われたのかな」
『分かりません』
「帰れないのかな」
『分かりません』
「帰りたくないのかな」
『それも、まだ』
少年は黙る。
俺は口を挟まず、少し待った。
「ヨアヒム」
『はい』
「帰還所って言葉、まだ見せないで」
『ガルム隊長からも同じ指示を受けています』
「木の板と同じ字でも」
『はい』
「その子が自分から言うまで」
『分かりました』
「あと」
少年は少し迷った。
「帰るって札、外す?」
『本人の目の前からは一度外しました』
「勝手に?」
『その言葉が嫌か確認したあとです』
「じゃあいい」
『ただ、後でまた必要になる可能性があるので、捨ててはいません』
「それもいい」
少年は少し息を吐く。
『もう一つ、本人が初めて二語続けて話しました』
「何て?」
少年がすぐ顔を上げる。
『「いかない」と』
その言葉に、俺の胸の奥が少し冷えた。
「どこに?」
少年が聞く。
『そこは分かりません』
「帰還所?」
『言葉を見せていないので、結びつけていません』
「馬車?」
『馬の音もしていません』
「先生?」
『名前は出ていません』
少年は苦しそうに眉を寄せた。
「でも、行かないって言った」
『はい』
「じゃあ、どこか行くの嫌なんだ」
『少なくとも今は、移動を急がない方がよいと判断しています』
「白鴉も?」
『はい』
少年が少し驚く。
「連れてこない?」
『本人が「いかない」と言った直後に移動させるのは避けます。体調が安定し、本人が場所を選べるまで旧保養施設の安全区画で保護します』
「危なくない?」
『近衛を増やしています。地下の危険区画からは移してあります』
「先生が戻ってきたら?」
『ガルム隊長の部隊が対応します』
少年は一度深く息を吐いた。
「ならいい」
『本人が望めば、白鴉へ来る選択肢もあります』
「王宮も?」
『安全確認は必要ですが、希望としては聞きます』
「帰還所も?」
ヨアヒムは少し間を置いた。
『場所の安全が確認できれば、将来的には選択肢になり得ます。ただし今は、本人に存在を知らせません』
「うん」
少年は小さく頷いた。
◇◇◇
夕方前、南東の斥候からもう一度連絡が入った。
今度の内容は「帰還所」。
少年は迷ったものの、聞くと決めた。
『帰還所へ向かった斥候が、外周まで到達した』
ガルムの声が響く。
「建物?」
『半分は地面に埋まってる。表から見えるのは石造りの小屋だけだ』
「地下?」
『入口らしい扉がある』
「入った?」
『入ってない』
「何で」
『扉に古い王家式の封印がある』
ブラットが顔を上げる。
「現行のものでは?」
『違う。かなり古い』
「二百年前?」
『そこまで古くは見えん』
俺の背筋が少し冷える。
「六、七年前?」
『可能性はある』
少年が手を握る。
「印は?」
『白鴉の手紙と同じかはまだ見てない』
「すぐ比べる?」
『写真記録だけ送る。現物は触らせない』
「フェリクス喜ぶ」
『もう喜んでるだろうな』
少し離れた別室から、くしゃみでもしていそうだ。
『扉の脇に古い文字がある』
「何て?」
『「帰還管理所」』
少年の表情が固まった。
木片の二文字。
帰る札を見て首を横に振った子供。
「いかない」という二語。
全てが同じ方向へ寄っているように見える。
それでも。
「同じ場所って決めない」
少年が自分から言った。
『ああ』
「でも、木の字と同じ」
『そうだな』
「先生の人かもしれないローデンも、そこ聞いてた」
『そうだ』
「車輪跡は?」
『山道途中で消えてる。岩場に入った』
「人の足跡?」
『複数ある。新しいものも古いものも混ざってる』
「子供?」
『大きさまでは確定してない』
少年は唇を噛んだ。
『もう一つ』
ガルムが続ける。
『扉の近くで、小さな布片が見つかった』
「何色?」
『緑』
俺の心臓が一瞬強く鳴った。
保存槽の少年が選んだ服。
緑。
だが、すぐに切り離す。
「保存槽の子」
三〇八号室少年も同じことを思ったらしい。
「関係ある?」
「色だけだ」
「うん」
『布は最近のものに見えるが、服の種類も持ち主も不明だ』
「緑なんていっぱいある?」
「ああ」
「じゃあ決めない」
『それでいい』
俺は無意識に立ち上がりかけた。
セリーが俺の袖を掴む。
「主様」
「まだ何も」
「立ちました」
「考えただけだ」
少年が俺を見る。
「行かない」
「分かってる」
「顔」
「言うな」
『そっちは任せろ』
ガルムの声が少し強くなる。
『封印解除はリディアを待つ。中に人がいる可能性もあるから、壊して入らない』
「分かった」
『レイハンがいる可能性もある』
「生かして捕らえろ」
『最初からそのつもりだ』
少年が俺を見た。
「先生、捕まったら」
「ああ」
「俺にすぐ会わせないで」
俺は少し驚いた。
「会いたくない?」
「今は分からない」
「じゃあ?」
「捕まったってことだけ先に教えて。会うかは後で決める」
「ああ」
「先生が俺に会いたいって言っても」
「ああ」
「先に聞いて」
「分かった」
『こっちも聞いた』
ガルムが言う。
『本人の同意なしに会わせない』
「ありがとう」
少年は小さく返した。
◇◇◇
通信が終わったあと、三〇八号室には夕方の光が長く差し込んでいた。
少年は窓辺へ行き、自分で少しだけ窓を開ける。冷たすぎない風が入り、赤い布の端を僅かに揺らした。
「帰還管理所」
少年が呟く。
「名前、怖いな」
「そうか?」
「帰れって言われるみたい」
「お前はそう感じるんだな」
「アルは?」
少し考えた。
「昔なら、帰れる場所があるならいいと思ったかもしれない」
「今は?」
「帰りたい場所かどうかは、本人が決めるものだと思う」
「王宮でも?」
「ああ」
「塔でも?」
「ああ」
「ここでも?」
「ああ」
少年は外を見ながら、しばらく黙っていた。
「俺、最初は王宮に帰るのが当たり前だと思ってた」
「ああ」
「先生もそう言ってた」
「ああ」
「でも今は、帰るって言われると少し怖い」
その声は小さかった。
「父上いるかもしれないのに」
「ああ」
「王太子に戻れるかもしれないのに」
「ああ」
「変?」
「変じゃない」
「本当に?」
「帰りたい気持ちと怖い気持ちが両方あるって、前にも話しただろ」
少年は少しだけ笑った。
「覚えてた」
「俺だって覚える」
「記録なくても?」
「人間だからな」
「便利じゃない」
「失礼だな」
少年の肩が少し揺れる。
笑っている。
ただ、その表情はすぐに静かなものへ戻った。
「発見された子も、帰るが嫌だった」
「ああ」
「俺と似てる?」
「そこは似てるかもしれない」
「でも同じじゃない」
「ああ」
「理由は違うかもしれない」
「ああ」
「帰還管理所のこと知ってるかもしれない」
「ああ」
「知らないかもしれない」
「ああ」
「全部、まだ」
「そうだな」
少年は窓を閉める。
今日は少し風が強くなってきたからだ。
「アル」
「何だ」
「明日、あの子が帰還管理所って言ったら教えて」
「ああ」
「本人が俺に言っていいって言ったら」
「分かった」
「言わなかったら」
「教えない」
少年は一瞬、不満そうな顔をした。
「やっぱり気になる」
「だろうな」
「でも」
少し間を置く。
「変えない」
「ああ」
自分で決めた線を、自分で守る。
それは、決して楽なことではない。
◇◇◇
夜になって、少年は今日も手紙を開かなかった。
赤い布へ一度触れたものの、それ以上は何もしない。
「今日は父上より、帰還所が気になる」
そう言っただけだった。
セリーが白い薬の夜分について確認し、少年は朝と同じ四分の一を選ぶ。青と紫は使わず、扉は内側から閉め、灯りは少しだけ残す。
「今日も一人で寝る?」
俺が聞くと、少年は少し考えた。
「うん」
「怖くなったら?」
「アルって呼ぶ」
「分かった」
「でも」
少年は布団へ入りながら、少しだけ俺を見る。
「今日は呼ぶかもしれない」
「ああ」
「帰る夢、見そう」
「そうか」
「先生か、父上か、帰還所か分からないけど」
「ああ」
「それでも一人で寝るの、変?」
「別に」
「怖いのに?」
「怖いから誰かが必要な時もあれば、怖いから一人で考えたい時もあるだろ」
「また両方」
「ああ」
「便利」
「もうそれ好きだろ」
少年が少し笑った。
「お休み、アル」
「お休み、アルフォンス」
セリーも同じように挨拶し、俺たちは部屋を出る。
扉が閉まり、内側から鍵の音がした。
廊下には夜の静けさが戻る。
帰還管理所。
王宮西部療養補助院。
第二休養棟。
白鴉療養所。
南東の旧王家療養地。
ばらばらだった場所が、少しずつ一本の古い移送網として形を見せ始めている。
そこへ、レイハンらしき人物の足取りも重なり始めた。
けれど、人まで一本の線へ押し込めるわけにはいかない。
保存槽から出た幼いアルフォンス。
三〇八号室で眠る少年。
旧保養施設で保護された、まだ名前を言わない子供。
そして、二階に残された小さな靴の持ち主。
誰が第一対象で、誰が第二対象で、誰が予備対象なのか。
そもそも、その記録が今いる誰かを指しているのか。
まだ何一つ決まっていない。
ただ、今日一つだけ増えたものがある。
名前不明の子供は、「帰る」の札に首を横へ振り。
そのあと、自分の声で。
「いかない」と言った。
どこへ行かないのかは分からない。
誰から逃げたいのかも分からない。
帰還管理所と関係があるかも、まだ分からない。
だから、その言葉を勝手に完成させない。
本人が続きの言葉を持っているなら。
それを言える日まで、こちらで答えを足さない。
廊下の窓から見える夜空には、薄い雲の向こうにいくつか星が見えていた。
帰る場所を決められなくても。
行かない場所だけ先に決めても。
それでも、明日は来る。
今は、それでいいのだと思った。




