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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第36話 帰りたいのか帰りたくないのか、その一文字だけでは決めないことにしました


 翌朝の白鴉療養所には、久しぶりに穏やかな陽射しが入っていた。


 前日まで山の上に残っていた雲はほとんど消え、三階の窓からは遠くの稜線まで見渡せる。夜露を含んだ木々の葉が朝日に照らされ、風が吹くたびに細かな光を返していた。療養所の中でも、朝食を運ぶ足音や低い話し声に昨日までほどの緊張はなく、少なくとも今この瞬間だけは、ここが誰かを閉じ込める場所ではなく、人が朝を迎えるための建物に見えた。


 三〇八号室の少年は、俺たちがノックするより先に扉を開けた。


「遅い」


「まだ朝食前だぞ」


「起きたの、もっと前」


「だったら呼べばよかっただろ」


「用なかった」


 少年はそう言って、半分だけ開けた扉の向こうへ戻っていく。寝起きらしく髪は少し跳ねていたが、歩き方は昨日より安定しており、身体の重さも少しずつ抜けてきているように見えた。


 セリーがいつものように体調を確認すると、少年は自分から寝台へ腰を下ろした。


「頭は痛くない。気持ち悪くもない。胸も平気。身体は昨日より少し軽い」


「眠気はいかがですか?」


「ある。でも朝だからかもしれない」


「白い薬の影響も考えられます」


「じゃあ今日も四分の一?」


 以前のように、誰かが決めた量をそのまま受け入れる言い方ではない。少年はセリーの顔を見ながら、自分の身体と薬の量を結びつけて考えていた。


「今の状態なら、同じ量を続ける案はあります。ただ、少し軽くなっているので、朝食後まで様子を見てから決めても構いません」


「減らすの?」


「それも選択肢ですが、急に減らす必要もありません」


 少年はしばらく考え、膝の上で指を組んだ。


「今日は同じでいい。明日また考える」


「分かりました」


「青と紫はなし」


「はい」


 エルがその日の希望だけを記録する。


 それが終わると、少年の視線はすぐに窓の外へ向かった。俺は何となく次に何を聞くのか分かっていたが、先回りして答えないように黙っていた。


「昨日の子」


 やはり、少年はそう切り出した。


「何か言った?」


「まだ朝の報告は来てない」


「夜は?」


「危険な連絡はなかった」


「じゃあ寝た?」


「たぶんな」


 少年は少しだけ安心したように肩を落としたが、すぐに眉を寄せた。


「たぶん?」


「危険がなかったことしか俺も聞いてないからな。夜中に何回起きたとか、何を食べたとか、そこまではまだ知らない」


「そういうの、本人が言っていいって言ったら聞く」


「ああ」


「名前も」


「ああ」


 昨日の約束を、今日も自分から繰り返す。


 俺が忘れないようにというより、自分自身へ確認しているようだった。


 少年は、しばらく窓の外を見たあと、不意に少しだけ声を落とした。


「『こわい』の次、何言うかな」


「分からない」


「名前かな」


「そうかもしれないし、違うかもしれない」


「『帰る』かもしれない?」


 木片に刻まれていた「帰」と「還」。


 少年も、それを気にしているのだろう。


「それもある」


「帰りたいって言ったら?」


「どこへ、を確認する必要がある」


「先生のところだったら?」


「安全に会える方法を考える」


「王宮だったら?」


「それも同じだ。行きたい理由と危険を確認する」


「白鴉だったら?」


「来られる状態なら受け入れる」


 少年は少し考える。


「帰りたくない、かもしれない?」


「ああ」


「木に『帰』って書いてあるのに?」


「書いてあるから帰りたいとは限らない」


「だよな」


 少年はそう言って、小さく息を吐いた。


「分かってるのに気になる」


「気になるのは仕方ない」


「知りたいのに、聞いちゃ駄目なこともある」


「ああ」


「それ、前より面倒」


「便利な言葉だな」


「お前が言った」


「最初に言ったのはたぶんお前だ」


「記録ある?」


「そこまで残してないだろ」


『該当する会話記録は複数あります』


「あるのかよ」


 少年が吹き出した。


 セリーも小さく笑う。


 朝の部屋に、一瞬だけ普通の笑い声が広がった。


          ◇◇◇


 朝食を食べ終えた頃、旧保養施設から最初の通信が届いた。


 エルは、昨日までと同じように内容を先に区分する。


『内容は「発見された子供の体調」と「本人の意思表示」です。本人から共有許可された内容のみです』


 少年の表情がすぐに引き締まった。


「聞く」


『承知しました』


 通信を繋ぐと、ヨアヒムの落ち着いた声が聞こえた。


『おはようございます。まず体調ですが、昨夜は大きな変化はありません。途中で二度目を覚ましたものの、再び眠れています。今朝は水と薄い粥を少量、自分から取りました』


「熱は?」


 少年が聞きかけて、少し止まる。


「……それ、俺が聞いていい?」


『本人の体調について、保護担当者内で共有してよいという確認は取れています』


「じゃあ聞く。熱は?」


『ありません』


「薬は?」


『今朝も使っていません。必要な治療が出た場合は、その都度説明する予定です』


 少年は一度頷いたあと、言葉を待った。


『それから、昨夜から今朝にかけて、言葉札を三回使いました』


「何を?」


『最初は「水」。次に「一人」。そして今朝、もう一つ新しい札を選びました』


 少年は身を乗り出した。


「何?」


『「帰る」です』


 三〇八号室の空気が変わった。


 俺も、セリーも、すぐには言葉を挟まなかった。


 少年は木片の「帰」「還」を思い出したのだろう。膝の上に置いた手へ、少しだけ力が入る。


「帰りたいってこと?」


『そこまではまだ分かりません』


 ヨアヒムは即答した。


『「帰る」という札を指したあと、本人は木片へ触れました。ただ、こちらが「帰りたいですか」と尋ねた時には、首を縦にも横にも振りませんでした』


「じゃあ違う?」


『違うとも言えません』


「木の文字と同じだから、見せたかっただけ?」


『その可能性もあります』


 少年は少し黙った。


「何回聞いた?」


『一度です』


「それ以上聞かなかった?」


『はい。本人の表情が固くなったため、そこで止めました』


「よかった」


 少年の声が少しだけ柔らかくなる。


「そのあと怖がった?」


『しばらく木片を強く握っていました。ただ、昨日の馬の鳴き声の時ほどではありません』


「『こわい』は言った?」


『いいえ』


 少年はそこで、一度俺を見る。


「アル」


「何だ」


「帰りたいって決めない」


「ああ」


「帰りたくないとも決めない」


「ああ」


「木の文字を読んでほしいだけかもしれない」


「そうだな」


「帰るっていう言葉が怖いのかもしれない」


「ああ」


「誰かに帰れって言われたのかもしれない」


「ああ」


「……いっぱいある」


「今はそれでいい」


 少年は頷いた。


『それから、本人がもう一つ意思表示をしています』


 ヨアヒムの声が続く。


『今朝、窓を開けるか聞いたところ、最初は首を横に振りました』


「嫌?」


『そのあと「外」の札を指しました』


「部屋の外?」


『昨日はそうでした。しかし今回は、扉を指しても首を横に振り、窓を指すと一度だけ頷きました』


 少年が少し眉を寄せる。


「窓の外、見たい?」


『そう考えています。ただし、窓を開けること自体は嫌なようです』


「閉めたまま?」


『はい』


「じゃあ見せればいいじゃん」


 言ってから、少年は少し考えた。


「でも近づくの怖いかもしれない」


『そのため、椅子を窓の近くへ置くかどうかを本人に示したところ、「人」を指しました』


「人?」


『誰かと一緒に、という意味かもしれません』


「誰?」


『まだそこまでは分かりません』


「ヨアヒムは嫌って言われてた」


『はい』


「リディアも?」


『昨日は首を横に振られています』


 少年は少し黙る。


「ガルム?」


 思わず俺が笑いそうになった。


『本人の前にはまだ立っていません』


「じゃあ誰なんだ」


『今、選べるようにしています。私、リディア、誰もいない、扉の外の人、という札を作りました』


「ガルム入れないの?」


『いきなり隊長を見せる必要がありますか?』


「怖そう」


 少年が即答した。


「ガルム聞いてる?」


『聞いてないと思います』


「あとで言うなよ」


『それは私の判断では』


 珍しくヨアヒムが少し困った声を出した。


 部屋の空気がわずかに緩む。


 それから少年は、もう一度真面目な顔へ戻った。


「誰か選んだら、それも俺に言っていいって言った?」


『そこはまだです』


「じゃあ、選んだ人の名前は教えなくていい」


『分かりました』


「本人が言っていいって言ったら、あとで」


『そうします』


 少年は満足したように頷いた。


          ◇◇◇


 通信を終えたあと、少年は朝の薬を飲んだ。


 白い薬は昨日と同じ四分の一。


 セリーが水を渡すと、少年は自分で口へ入れ、少し苦そうな顔をしながら飲み込んだ。


「まずい?」


「前からまずい」


「味は変わってないからな」


「少なくしてもまずい」


「そこは仕方ない」


「甘くできない?」


「成分が変わる可能性がありますので、勝手には」


「フェリクスならやりそう」


「やらせません」


 セリーの即答に、少年が笑う。


「セリー、フェリクスに厳しい」


「必要な範囲です」


「俺にも?」


「必要な範囲で」


「アルにも?」


「特に」


「何で俺だけ強いんだ」


 セリーは答えず、空になった杯を受け取った。


「主様は、ご自身が止められないと止まりませんので」


「昨日も止まっただろ」


「ガルムさんに言われてからです」


「十分だろ」


 少年が面白そうに笑う。


 こうして話していると、三〇八号室が以前より少し広く感じる。


 同じ広さのはずなのに、ここで選べることが増えたせいかもしれない。


          ◇◇◇


 昼前、南東へ先行していた斥候から連絡が届いた。


 内容は「南東旧王家療養地」「村」「レイハン追跡」。


 エルが区分を告げると、少年は少し迷った。


「村の人、危ない?」


『現時点で襲撃や負傷の報告はありません』


「先生は?」


『本人確認はありません』


「じゃあ聞く」


 通信を繋いだのはガルムだった。


『先行班が村へ入った』


「普通の村?」


 少年が最初に聞く。


『今のところはな。家は二十数軒。畑と羊。小さな宿が一軒。王家の療養地だった頃の建物は、ほとんど残っていない』


「誰か先生見た?」


『その前に、村へ入るまでの話をする』


 ガルムの声が少し低くなる。


『村の手前で、古い石柱が二本見つかった。両方とも王家の紋章が削られている』


「わざと?」


『削り跡は古い。少なくとも最近じゃない』


「いつ?」


『村人の話では、祖父母の代より前からその状態らしい』


 ブラットが小さく息を吐いた。


「二百年前の療養地廃止と同時期かもしれませんね」


『可能性はある。ただ、そこはまだ文書待ちだ』


 少年が少し考える。


「先生の馬車は?」


『村へ直接入った新しい轍はない』


「じゃあ違う?」


『村の南側へ回る細い道に、車輪跡がある』


「どこ行く?」


『山の中だ』


 俺は思わず身体を起こした。


 ガルムがすぐに言う。


『来るな』


「まだ何も言ってない」


『分かる』


「顔見えてないだろ」


『声で分かる』


 少年が笑う。


「皆分かる」


「だから何なんだよ」


『山道の先には、古い礼拝堂跡があるらしい』


 笑いが消えた。


「王家の?」


『村人は詳しく知らん。ただ、昔、療養地に来た人間が使っていたと言ってる』


「地下ある?」


『まだ分からん』


「転送台の座標?」


『座標の中心は、その礼拝堂跡よりさらに東だ』


 ブラットと俺の視線が重なる。


「別か」


『そうらしい』


「じゃあ村と礼拝堂と転送先、三つある?」


『少なくとも現状ではな』


 少年が少し困った顔をした。


「また増えた」


『調査なんてそんなものだ』


「減らない?」


『当たりを引けば減る』


「ガルム、当たり引ける?」


『お前よりはな』


「アルより?」


『それは簡単だ』


「おい」


 セリーが横で微笑んでいる。


『本題だ。村人から聞いた話で一つ気になるものがある』


「何?」


『三日前、宿に男が一人泊まった』


 少年の表情が変わる。


「先生?」


『年齢は四十前後。黒に近い茶髪。眼鏡なし。名前はローデンと名乗った』


「レイハンと違う」


『見た目も完全一致ではない』


「変装?」


『可能性はあるが決めない』


「何持ってた?」


『小さな鞄と、古い地図』


「馬車?」


『徒歩だ』


「じゃあ先生の車輪跡と違う?」


『同一人物が途中で馬車を捨てた可能性もある』


 少年は少し考えた。


「その人、何聞いた?」


『山の東側にある「帰還所」について』


 部屋の空気が一瞬で変わった。


「帰還?」


 少年が低く繰り返す。


 俺も言葉を失った。


 木片の「帰」「還」。


 ただ並んでいるだけかもしれないと、ずっと保留していた二文字。


『村では、そう呼ばれている古い場所があるらしい』


 ガルムが続ける。


『正式名称かどうかは分からん。年寄りが昔からそう呼んでいるだけだ』


「どこ?」


『転送座標の中心と、ほぼ一致する』


「じゃあ木の板――」


 少年はそこまで言って、自分で止まった。


 握った手が少し震えている。


「……同じって決めない」


「ああ」


「でも、近い?」


「かなり気になる一致だな」


「帰還所って何する場所?」


『村人は知らん』


「昔の療養地の人が帰るところ?」


『そういう言い伝えはある』


「王宮へ?」


『そこまでは残ってない』


 少年は息を吐いた。


「ローデンって人、そこ行った?」


『宿を出た翌朝、東へ向かった』


「三日前?」


『ああ』


「先生が逃げたの、いつ?」


 ブラットが日数を確認する。


「時間は合いますね」


『だから先行班の一人を礼拝堂へ、一人を帰還所方面へ回した。村には二人残してる』


「ガルムは?」


『まだ旧保養施設だ』


「行かない?」


『俺が行ったらこっちの指揮が空く』


 少年が俺を見る。


「ガルムも任せてる」


「そうだな」


「お前も」


「分かってる」


『珍しい』


「切るぞ」


 ガルムが小さく笑った。


『続報は危険があれば先に送る。少年には内容区分を守る』


「うん」


『あと一つ』


「何?」


『帰還所が木片と関係ある可能性はあるが、あの子にその言葉を今すぐ見せるな』


 少年が少し驚く。


「何で?」


『反応が分からん。怖がるかもしれない』


「……そうだな」


『ヨアヒムにもそう伝えた』


「ガルム、分かってる」


『何回言う』


「褒めてる」


『嬉しくない』


 通信が切れた。


          ◇◇◇


 部屋に静けさが戻ったあと、少年はしばらく何も言わなかった。


 赤い布に包まれた手紙にも触れず、窓の外へ視線を向けている。


「帰還所」


 やがて小さく呟く。


「木の板、同じ字」


「ああ」


「偶然かな」


「ある」


「関係あるかな」


「それもある」


「どっちが多い?」


「今は割合まで分からない」


「逃げた」


「数字にできないだけだ」


 少年は少しだけ笑ったが、すぐ真顔に戻った。


「もし、その子が帰還所から来たら?」


「そうだとしても、何があったかは別に調べる」


「帰りたいかもしれない?」


「ああ」


「帰りたくないかもしれない」


「ああ」


「そこに先生いるかもしれない」


「ああ」


「怖い場所かもしれない」


「ああ」


「王宮へ帰す場所かもしれない」


「ああ」


「……また多い」


 少年は両手で顔を覆うようにし、少ししてから下ろした。


「でも、先にその子に『帰還所知ってる?』って聞いたら駄目なんだよな」


「俺なら急がない」


「何で?」


「答えを誘導するかもしれない」


「言葉見せただけでも?」


「本人が木片の意味をまだ説明してないからな。俺たちが先に『帰還』だと決めて見せたら、それに合わせる可能性もある」


「薬みたい」


「何が?」


「先生が『偽物がいる』って言ったら、俺はお前を偽物だと思った」


 少年の声が少し低くなる。


「最初に言われた言葉に、後から全部合うようにしたかもしれない」


 俺はすぐに返さなかった。


「だから」


 少年が続ける。


「その子にも、帰還所って先に言わない方がいい」


「ああ」


「木の字を本人が読んだら?」


「その時は、その意味を聞いてもいいかもしれない」


「聞き方も?」


「気をつける」


「『帰還所だろ?』じゃなくて」


「ああ」


「『これ、何?』とか?」


「それならまだましだと思う」


 少年は少し考えてから頷いた。


「ヨアヒムに言う」


「提案としてな」


「分かってる」


          ◇◇◇


 午後になって、発見された子供から再び短い意思表示があった。


 ヨアヒムからの通信は、「本人の言葉」と「木片」。


 少年は聞くことを選んだ。


『昼食のあと、本人が木片を自分から寝台へ置きました』


「触っていいって?」


『まだです』


「じゃあ触ってない?」


『はい』


「それで?」


『本人が、文字の部分を指でなぞりました』


 少年が息を止める。


『そのあと「帰る」の札を指し、首を横に振りました』


 三〇八号室の空気が重くなる。


「帰りたくない?」


『そう解釈できる可能性はあります』


「でも?」


『「帰る」という言葉自体が違う、という意味かもしれません』


「帰還じゃないとか?」


『それもあります』


 少年は膝の上で手を握る。


「他に何か?」


『私が「この言葉が嫌ですか」と尋ねたところ、本人は一度だけ頷きました』


「帰るが嫌?」


『少なくとも、今はその言葉を避けることにしました』


「よかった」


 少年の声が僅かに震えた。


「帰れって言われたのかな」


『分かりません』


「帰れないのかな」


『分かりません』


「帰りたくないのかな」


『それも、まだ』


 少年は黙る。


 俺は口を挟まず、少し待った。


「ヨアヒム」


『はい』


「帰還所って言葉、まだ見せないで」


『ガルム隊長からも同じ指示を受けています』


「木の板と同じ字でも」


『はい』


「その子が自分から言うまで」


『分かりました』


「あと」


 少年は少し迷った。


「帰るって札、外す?」


『本人の目の前からは一度外しました』


「勝手に?」


『その言葉が嫌か確認したあとです』


「じゃあいい」


『ただ、後でまた必要になる可能性があるので、捨ててはいません』


「それもいい」


 少年は少し息を吐く。


『もう一つ、本人が初めて二語続けて話しました』


「何て?」


 少年がすぐ顔を上げる。


『「いかない」と』


 その言葉に、俺の胸の奥が少し冷えた。


「どこに?」


 少年が聞く。


『そこは分かりません』


「帰還所?」


『言葉を見せていないので、結びつけていません』


「馬車?」


『馬の音もしていません』


「先生?」


『名前は出ていません』


 少年は苦しそうに眉を寄せた。


「でも、行かないって言った」


『はい』


「じゃあ、どこか行くの嫌なんだ」


『少なくとも今は、移動を急がない方がよいと判断しています』


「白鴉も?」


『はい』


 少年が少し驚く。


「連れてこない?」


『本人が「いかない」と言った直後に移動させるのは避けます。体調が安定し、本人が場所を選べるまで旧保養施設の安全区画で保護します』


「危なくない?」


『近衛を増やしています。地下の危険区画からは移してあります』


「先生が戻ってきたら?」


『ガルム隊長の部隊が対応します』


 少年は一度深く息を吐いた。


「ならいい」


『本人が望めば、白鴉へ来る選択肢もあります』


「王宮も?」


『安全確認は必要ですが、希望としては聞きます』


「帰還所も?」


 ヨアヒムは少し間を置いた。


『場所の安全が確認できれば、将来的には選択肢になり得ます。ただし今は、本人に存在を知らせません』


「うん」


 少年は小さく頷いた。


          ◇◇◇


 夕方前、南東の斥候からもう一度連絡が入った。


 今度の内容は「帰還所」。


 少年は迷ったものの、聞くと決めた。


『帰還所へ向かった斥候が、外周まで到達した』


 ガルムの声が響く。


「建物?」


『半分は地面に埋まってる。表から見えるのは石造りの小屋だけだ』


「地下?」


『入口らしい扉がある』


「入った?」


『入ってない』


「何で」


『扉に古い王家式の封印がある』


 ブラットが顔を上げる。


「現行のものでは?」


『違う。かなり古い』


「二百年前?」


『そこまで古くは見えん』


 俺の背筋が少し冷える。


「六、七年前?」


『可能性はある』


 少年が手を握る。


「印は?」


『白鴉の手紙と同じかはまだ見てない』


「すぐ比べる?」


『写真記録だけ送る。現物は触らせない』


「フェリクス喜ぶ」


『もう喜んでるだろうな』


 少し離れた別室から、くしゃみでもしていそうだ。


『扉の脇に古い文字がある』


「何て?」


『「帰還管理所」』


 少年の表情が固まった。


 木片の二文字。


 帰る札を見て首を横に振った子供。


 「いかない」という二語。


 全てが同じ方向へ寄っているように見える。


 それでも。


「同じ場所って決めない」


 少年が自分から言った。


『ああ』


「でも、木の字と同じ」


『そうだな』


「先生の人かもしれないローデンも、そこ聞いてた」


『そうだ』


「車輪跡は?」


『山道途中で消えてる。岩場に入った』


「人の足跡?」


『複数ある。新しいものも古いものも混ざってる』


「子供?」


『大きさまでは確定してない』


 少年は唇を噛んだ。


『もう一つ』


 ガルムが続ける。


『扉の近くで、小さな布片が見つかった』


「何色?」


『緑』


 俺の心臓が一瞬強く鳴った。


 保存槽の少年が選んだ服。


 緑。


 だが、すぐに切り離す。


「保存槽の子」


 三〇八号室少年も同じことを思ったらしい。


「関係ある?」


「色だけだ」


「うん」


『布は最近のものに見えるが、服の種類も持ち主も不明だ』


「緑なんていっぱいある?」


「ああ」


「じゃあ決めない」


『それでいい』


 俺は無意識に立ち上がりかけた。


 セリーが俺の袖を掴む。


「主様」


「まだ何も」


「立ちました」


「考えただけだ」


 少年が俺を見る。


「行かない」


「分かってる」


「顔」


「言うな」


『そっちは任せろ』


 ガルムの声が少し強くなる。


『封印解除はリディアを待つ。中に人がいる可能性もあるから、壊して入らない』


「分かった」


『レイハンがいる可能性もある』


「生かして捕らえろ」


『最初からそのつもりだ』


 少年が俺を見た。


「先生、捕まったら」


「ああ」


「俺にすぐ会わせないで」


 俺は少し驚いた。


「会いたくない?」


「今は分からない」


「じゃあ?」


「捕まったってことだけ先に教えて。会うかは後で決める」


「ああ」


「先生が俺に会いたいって言っても」


「ああ」


「先に聞いて」


「分かった」


『こっちも聞いた』


 ガルムが言う。


『本人の同意なしに会わせない』


「ありがとう」


 少年は小さく返した。


          ◇◇◇


 通信が終わったあと、三〇八号室には夕方の光が長く差し込んでいた。


 少年は窓辺へ行き、自分で少しだけ窓を開ける。冷たすぎない風が入り、赤い布の端を僅かに揺らした。


「帰還管理所」


 少年が呟く。


「名前、怖いな」


「そうか?」


「帰れって言われるみたい」


「お前はそう感じるんだな」


「アルは?」


 少し考えた。


「昔なら、帰れる場所があるならいいと思ったかもしれない」


「今は?」


「帰りたい場所かどうかは、本人が決めるものだと思う」


「王宮でも?」


「ああ」


「塔でも?」


「ああ」


「ここでも?」


「ああ」


 少年は外を見ながら、しばらく黙っていた。


「俺、最初は王宮に帰るのが当たり前だと思ってた」


「ああ」


「先生もそう言ってた」


「ああ」


「でも今は、帰るって言われると少し怖い」


 その声は小さかった。


「父上いるかもしれないのに」


「ああ」


「王太子に戻れるかもしれないのに」


「ああ」


「変?」


「変じゃない」


「本当に?」


「帰りたい気持ちと怖い気持ちが両方あるって、前にも話しただろ」


 少年は少しだけ笑った。


「覚えてた」


「俺だって覚える」


「記録なくても?」


「人間だからな」


「便利じゃない」


「失礼だな」


 少年の肩が少し揺れる。


 笑っている。


 ただ、その表情はすぐに静かなものへ戻った。


「発見された子も、帰るが嫌だった」


「ああ」


「俺と似てる?」


「そこは似てるかもしれない」


「でも同じじゃない」


「ああ」


「理由は違うかもしれない」


「ああ」


「帰還管理所のこと知ってるかもしれない」


「ああ」


「知らないかもしれない」


「ああ」


「全部、まだ」


「そうだな」


 少年は窓を閉める。


 今日は少し風が強くなってきたからだ。


「アル」


「何だ」


「明日、あの子が帰還管理所って言ったら教えて」


「ああ」


「本人が俺に言っていいって言ったら」


「分かった」


「言わなかったら」


「教えない」


 少年は一瞬、不満そうな顔をした。


「やっぱり気になる」


「だろうな」


「でも」


 少し間を置く。


「変えない」


「ああ」


 自分で決めた線を、自分で守る。


 それは、決して楽なことではない。


          ◇◇◇


 夜になって、少年は今日も手紙を開かなかった。


 赤い布へ一度触れたものの、それ以上は何もしない。


「今日は父上より、帰還所が気になる」


 そう言っただけだった。


 セリーが白い薬の夜分について確認し、少年は朝と同じ四分の一を選ぶ。青と紫は使わず、扉は内側から閉め、灯りは少しだけ残す。


「今日も一人で寝る?」


 俺が聞くと、少年は少し考えた。


「うん」


「怖くなったら?」


「アルって呼ぶ」


「分かった」


「でも」


 少年は布団へ入りながら、少しだけ俺を見る。


「今日は呼ぶかもしれない」


「ああ」


「帰る夢、見そう」


「そうか」


「先生か、父上か、帰還所か分からないけど」


「ああ」


「それでも一人で寝るの、変?」


「別に」


「怖いのに?」


「怖いから誰かが必要な時もあれば、怖いから一人で考えたい時もあるだろ」


「また両方」


「ああ」


「便利」


「もうそれ好きだろ」


 少年が少し笑った。


「お休み、アル」


「お休み、アルフォンス」


 セリーも同じように挨拶し、俺たちは部屋を出る。


 扉が閉まり、内側から鍵の音がした。


 廊下には夜の静けさが戻る。


 帰還管理所。


 王宮西部療養補助院。


 第二休養棟。


 白鴉療養所。


 南東の旧王家療養地。


 ばらばらだった場所が、少しずつ一本の古い移送網として形を見せ始めている。


 そこへ、レイハンらしき人物の足取りも重なり始めた。


 けれど、人まで一本の線へ押し込めるわけにはいかない。


 保存槽から出た幼いアルフォンス。


 三〇八号室で眠る少年。


 旧保養施設で保護された、まだ名前を言わない子供。


 そして、二階に残された小さな靴の持ち主。


 誰が第一対象で、誰が第二対象で、誰が予備対象なのか。


 そもそも、その記録が今いる誰かを指しているのか。


 まだ何一つ決まっていない。


 ただ、今日一つだけ増えたものがある。


 名前不明の子供は、「帰る」の札に首を横へ振り。


 そのあと、自分の声で。


「いかない」と言った。


 どこへ行かないのかは分からない。


 誰から逃げたいのかも分からない。


 帰還管理所と関係があるかも、まだ分からない。


 だから、その言葉を勝手に完成させない。


 本人が続きの言葉を持っているなら。


 それを言える日まで、こちらで答えを足さない。


 廊下の窓から見える夜空には、薄い雲の向こうにいくつか星が見えていた。


 帰る場所を決められなくても。


 行かない場所だけ先に決めても。


 それでも、明日は来る。


 今は、それでいいのだと思った。

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