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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第35話 名前を聞くより先に、その子が何を怖がっているのかを確かめることにしました



 翌朝、白鴉療養所の窓を叩いていた風は、夜のうちにだいぶ弱くなっていた。


 山の向こうにはまだ灰色の雲が残っているものの、雲の切れ間から差し込む光は明るい。濡れた木々の葉から時折雫が落ち、療養所の外壁近くでは、夜番を終えた近衛たちが小さな声で引き継ぎを行っていた。


 三〇八号室では、少年が自分で窓を少し開けていた。


 昨日までのように金具と格闘する様子はない。まだ力は必要らしいが、どの方向へ押せば動くのか覚えたのだろう。


「今日は早いな」


 俺が二度ノックしてから入ると、少年は窓辺から振り返った。


「起きたから」


「それは見れば分かる」


「じゃあ聞くな」


「眠れたかって聞こうとしたんだ」


「まあまあ」


 昨日と同じ答えだったが、声の調子は少し軽かった。


 セリーが体調を確認すると、頭痛も吐き気もなし。身体の重さはまだ残っているものの、白い薬を四分の一にしてから悪化はないという。


「今日も同じ量を希望しますか?」


「うん。今のところ」


「分かりました。朝食後にもう一度確認してから決めましょう」


「毎回聞くんだな」


「毎日、同じ身体ではありませんから」


 少年は少し考えてから頷いた。


「それ、前より分かる」


「何がですか?」


「昨日まで大丈夫でも、今日も大丈夫とは限らないってやつ」


「はい」


「面倒だけど」


 そこまで言って、少年が俺を見る。


「言うと思った?」


「かなり」


「じゃあ言わない」


「もう半分言ってる」


「うるさい」


 少年は窓へ向き直った。


 こういうくだらないやり取りが増えた。


 最初は王太子という立場と、本物か偽物かという話しかできなかった少年が、今では薬の量や朝食や窓を開けるかどうかまで自分の言葉で決めている。


 それだけで何かが解決したわけではない。


 父上の手紙も、古い王家印も、レイハンも、AG-02も、何一つ答えは出ていない。


 それでも、答えが出るまで生き方を止める必要はない。


「アル」


「何だ」


「昨日の子」


「ああ」


「何か喋った?」


「まだ報告は来てない」


「木の板は?」


「それも」


 少年は少しだけ眉を寄せた。


「今日は聞く」


「種類を先に?」


「うん。でも、本人が言っていいって言ったことだけ」


「ああ」


 昨日の最後に自分で決めた条件を、きちんと覚えている。


「ただ」


 少年が続けた。


「本人が喋れないなら、俺に何も言わなくていいってこと?」


「そうなるかもしれないな」


「でも危ないことは?」


「命に関わることや、俺たちが動く必要があることは別に考える」


「名前とか、昔のことは?」


「本人のものだ」


「分かった」


 少年はそこで納得したようだった。


          ◇◇◇


 朝食を終えた頃、旧保養施設からヨアヒムの連絡が入った。


 エルは昨日の約束通り、通信をそのまま流さずに内容を先に告げる。


『内容は「発見された子供の体調」と「本人から示された意思」です。名前に関する情報はありません』


 少年の目が少し大きくなる。


「意思?」


『はい』


「喋った?」


『その点も報告内容に含まれます』


 少年は一度俺を見る。


「聞く」


『承知しました』


 通信が繋がる。


『おはようございます』


「おはよう」


 少年が先に返した。


『まず体調からお伝えします。昨夜は二度目を覚ましましたが、眠れています。水分も自分で取り、柔らかいパンと薄い粥を少量食べました』


「熱は?」


『ありません。脱水も昨日より改善しています』


「薬は?」


『新しい投薬はしていません。本人が薬瓶を見ると強く怯えるため、必要のない薬は近くへ置かないことにしました』


 少年の表情が少し硬くなる。


「白も?」


『色に関係なくです』


「俺とは違う」


「そうだな」


 俺が答える。


「薬そのものが怖い?」


『その可能性はあります。ただ、本人から理由は聞いていません』


「じゃあ決めない」


『はい』


 ヨアヒムの声には、少し笑みが混じっていた。


『次に、本人から示された意思です。まだ声は出していません』


「じゃあどうやって?」


『首を縦か横へ動かすことで、簡単な質問には答えるようになりました』


 少年は少し身を乗り出した。


「名前聞いた?」


『聞いていません』


「何聞いたの?」


『水を飲みたいか、食事を置いてよいか、窓を開けてもよいか、私が近くにいてよいか。その程度です』


「全部答えた?」


『いくつかは』


「近くにいていい?」


『それは横でした』


 少年の表情が止まった。


「嫌なんだ」


『私が近くにいるのが、ですね』


「怒った?」


『いいえ』


「寂しくない?」


『多少は』


 少年が俺を見る。


「アルと同じ」


「何が」


「記録残されると寂しいって言った」


「ああ」


「でも怒らない」


「ああ」


「ヨアヒムも?」


『少し似ていますね』


「やっぱり皆同じになる」


『悪いことではないと思いますよ』


 少年は小さく笑ったあと、少し真面目な顔へ戻った。


「木の板は?」


『まだ持っています。ただし、昨夜一度寝台の上へ置きました』


「離した?」


『はい。私たちは触っていません』


「文字はもっと見えた?」


『表側だけですが、昨日見えた「帰」の下に、もう一文字あることが分かりました』


 少年が息を止める。


「何?」


『「還」と読める可能性があります』


「帰還?」


 俺が思わず口にすると、少年がすぐこちらを見た。


「勝手につなげるな」


「あ」


『その通りです』


 ヨアヒムにも言われた。


「悪かった」


 少年が少し得意そうな顔をする。


「一文字ずつ?」


『はい。「帰」と「還」が縦に並んでいます。ただし、それが「帰還」という一語なのか、別々の意味を持つのかは分かりません』


「裏は?」


『見ていません。本人が許可していないからです』


「まだ取ってない?」


『はい』


「よかった」


 少年が本当に安心したように息を吐いた。


『ただし、もう一つ変化があります』


「何」


『本人が、板を指で叩くようになりました』


「叩く?」


『一定の間隔ではありません。何か伝えたいようにも見えますが、こちらが意味を決めつけるのはやめています』


「文字を読めってことかもしれない?」


『そうかもしれません』


「違うかもしれない?」


『はい』


「じゃあどうする?」


『本人が示せる選択肢を増やそうと思っています』


 少年が少し眉を寄せる。


「どうやって?」


『言葉が通じていることは、こちらの簡単な質問に首で返事をしているので分かっています。ですから、紙に「水」「食事」「窓」「一人」「人」「外」「痛い」などの言葉を書き、指差せるようにする予定です』


「名前は?」


『まだ入れません』


「何で?」


『名前を言うことを求められている、と感じさせる可能性があるからです』


 少年は少し黙った。


「俺なら」


 小さく言う。


「名前って書いてあったら、選ばないといけないと思うかも」


『そう考えました』


「じゃあ入れなくていい」


『はい』


「あと」


 少年が少し考える。


「嫌、もいる」


『「嫌」という言葉ですか?』


「うん。何か選べって言われても、全部嫌な時あるだろ」


 ヨアヒムはすぐには返さなかった。


『ありがとうございます。それは入れます』


「俺が決めたんじゃない」


『はい。提案として受け取ります』


「それならいい」


 少年は満足したように頷いた。


          ◇◇◇


 通信が終わったあと、少年はしばらく窓の外を見ていた。


 朝の光は少し強くなり、雲の間から青空が広がり始めている。遠くの林から鳥の声が聞こえ、白鴉療養所の中庭では、近衛が洗った布を干すのを手伝っていた。


「名前より先に、嫌って言える方が大事?」


 少年が聞いた。


「場合によると思う」


「俺は最初、名前言った」


「ああ」


「アルフォンスって」


「ああ」


「それ、嫌じゃなかった」


「自分から名乗ったからな」


「でもあの子は言わない」


「ああ」


「じゃあ違う」


「そうだな」


「俺だったらこうだから、ってやると駄目なんだな」


「全部じゃないけどな。自分の経験が役に立つ時もある」


「さっきの『嫌』みたいに?」


「ああ」


「でも、その子も嫌がるとは限らない」


「そういうことだと思う」


 少年は少し考えたあと、自分の胸元を指した。


「俺、先生のこと好きかもしれないって言っただろ」


「ああ」


「本当は嫌いかもしれない?」


「それもあるだろうな」


「両方かもしれない?」


「ああ」


「それも選ばなくていい?」


「今すぐ一個にする必要はない」


「先生が戻ってきたら?」


「その時は安全を確保したうえで、お前がどうしたいかをもう一度考える」


「会いたいって言ったら?」


「安全な形でな」


「会いたくないって言ったら?」


「会わせない」


「分からないって言ったら?」


「待つ」


 少年は少し笑った。


「便利」


「使うようになったな」


「でも本当に便利」


「だろ」


 俺も笑った。


          ◇◇◇


 昼前、旧保養施設の地下転送台について、フェリクスとエルの比較結果が届いた。


 内容区分は「転送」「王宮」「白鴉」。


 少年は少し迷ったあと、「聞く」と決めた。


「ただし、AG-02は?」


『現時点では直接の関係は確認されていません』


「じゃあ聞く」


 今回はフェリクスが白鴉療養所内の別室から説明する。


『転送台そのものは、古の塔の転送機構と同一ではありません。ただし、基礎理論の一部には似たものがあります』


「昔の塔を真似した?」


 少年が聞く。


『可能性はあります。しかし、二千年前の塔から直接技術を得たのか、後世に再発見された技術なのかはまだ分かりません』


「使える?」


『現状では無理です。魔力供給線が切断されていますし、転送先の安全確認も必要です』


「アルが直したら?」


「何で俺なんだ」


「塔の主」


「何でもできると思うな」


『主様なら、ある程度は可能です』


「セリー」


「事実ですので」


 少年が笑った。


「やっぱり行く?」


「行かない」


「今は?」


「そこ細かく拾うな」


『本題へ戻します』


 フェリクスが少し楽しそうに言う。


『登録先三か所のうち、白鴉療養所については、この建物の地下ではなく、北側外周の古い搬入口に繋がる設定でした』


「地下じゃない?」


『はい。現在は封鎖されている搬入口です』


 ブラットが眉を寄せる。


「王国軍が最初に見つけられなかった場所か」


『外側からは岩壁に見えるよう認識阻害がかけられていました』


「最近使われた?」


『それを今、ガルム隊長側と白鴉側の両方で確認しています』


「人を運んでた?」


『可能性はあります』


 少年が手を上げるようにして止めた。


「誰を、はまだ分からない?」


『はい』


「ならいい」


『次に、王都西区の旧医務施設です』


 フェリクスの声が少し真面目になった。


『記録上、その施設は七年前に閉鎖されています』


「七年前」


 俺は思わず繰り返した。


 保存槽の少年は七歳前後。


 王家精神安定化計画の記録も、俺が七歳の頃だった。


 けれど、そこをすぐに繋げるわけにはいかない。


 少年がこちらを見る。


「今、何か思った?」


「ああ」


「俺たち?」


「ああ。でもまだ繋げない」


「よし」


「何でお前に判定されるんだ」


「練習」


 フェリクスが咳払いする。


『旧医務施設の正式名称は「王宮西部療養補助院」。表向きは王宮関係者や高位官吏の長期療養を行う施設でした』


「表向き?」


『閉鎖前の二年間だけ、地下区画への物資搬入記録が不自然に増えています』


「薬?」


『薬品、保存液、魔力安定石、睡眠用薬草。それから、子供用衣類』


 部屋の空気が少し変わった。


 少年が赤い布ではなく、自分の服を見る。


「子供、いた?」


『可能性は高いと思います。ただし人数は分かりません』


「アルフォンス?」


『それは分かりません』


「〇二?」


『分かりません』


「第二対象?」


『分かりません』


 少年は少し考えてから、俺を見る。


「先に言われる前に聞いた」


「何の自慢だ」


「確認」


 フェリクスが小さく笑う。


『もう一つ重要なのは、その施設の閉鎖日です』


「いつ?」


『王家精神安定化計画の「第一段階完了」と記された日から、約一か月後です』


 今度は、誰もすぐに言葉を出さなかった。


 俺の胸の奥に冷たいものが落ちる。


 偶然かもしれない。


 関係があるかもしれない。


 だが、一か月という近さは無視しにくい。


「アル」


「何だ」


「怖い?」


 少年が聞いた。


「少し」


「俺も」


「そうか」


「でも聞く」


「ああ」


『さらに、閉鎖後の備品移送先として一つだけ残っている名称があります』


 フェリクスが続ける。


『「第二休養棟」です』


 昨日、旧保養施設で見つかった金属札。


 第二休養棟・特別管理区画。


 ブラットが息を吐いた。


「同じ名称か」


『少なくとも文字列は一致します』


「じゃあ王都の施設が閉じたあと、あっちに移した?」


『備品については、その可能性が高いです』


 少年がすぐ確認する。


「人も?」


『そこまでは分かりません』


「分かった」


 昨日までなら、ここで「じゃあ俺も移された」と言い出していたかもしれない。


 今日は違った。


「物だけ分かった」


『はい』


「人はまだ」


『その通りです』


「じゃあ、それでいい」


 少年は一度深く息を吐いた。


          ◇◇◇


 昼食の時間になったところで、セリーが通信を強制的に終わらせた。


「ここから先は食事のあとです」


「まだ聞ける」


 少年が言う。


「主様も同じ顔をします」


「俺を巻き込むな」


「主様も昼食を後回しにしようとしていました」


「してない」


「先ほどブラットさんへ『あと少しだけ確認してから食べる』と」


「聞いてたのか」


「聞こえていました」


 少年が笑う。


「アルも薬いるんじゃない?」


「要らん」


「休む薬」


「そんな便利なものない」


「セリーが作れば?」


「作りません。主様の場合、まず自分で休んでください」


「ほら怒られた」


「お前も食べろ」


 昼食は、柔らかいパンと根菜のスープ、白身魚をほぐしたものだった。


 少年は以前より食べられる量が少し増えている。


 それでも一人前には届かないため、セリーは最初から少なめに盛りつけ、足りなければ追加する形にしていた。


「今日、花ある?」


 少年が聞く。


「食後にあります」


「昨日より上手い?」


「形のことでしょうか」


「うん」


「昨日よりは」


「白鴉の方は?」


「そちらも改善しています」


「勝負続いてる?」


「はい」


「誰と戦ってるんだよ」


「自分自身です」


「一番面倒なやつだ」


 少年が笑った。


 深刻な話のあとでも、飯は食う。


 甘い物の形を気にする。


 窓の外を見る。


 それが妙に大事だった。


          ◇◇◇


 午後になって、旧保養施設から再びヨアヒムの連絡が入った。


 内容は「本人から示された意思」。


 少年はすぐに聞くことを選んだ。


『先ほど用意した言葉札を、本人の見える位置へ並べました』


「嫌も?」


『入れました』


「使った?」


『最初に使われました』


 少年が少し目を見開く。


「何が嫌?」


『私です』


「ヨアヒム?」


『はい』


 少年は一瞬黙ったあと、少し笑ってしまった。


「ごめん」


『構いません。私も少し笑いました』


「何したの?」


『近くにいてよいか確認したところ、「嫌」を指しました』


「じゃあ離れた?」


『はい。扉の外まで』


「そのあと?」


『リディアならよいか、と聞くために「人」の札を指し、リディアを示しました。本人は首を横に振りました』


「誰も嫌?」


『そう解釈するのも早いので、一人でいたいかを示すため、「一人」の札を見せました』


「それは?」


『縦に頷きました』


 少年の表情が落ち着く。


「じゃあ一人」


『はい。ただし完全に離れると体調悪化へ対応できないので、扉の外に待機しています。それも先に説明しました』


「嫌って言わなかった?」


『その説明のあと、「嫌」には触れませんでした』


「分かったってこと?」


『そう考えていますが、断定はしません』


「面倒だな」


『ええ』


「でもいい」


 少年が少し笑う。


『それから、本人は別の札も使いました』


「何?」


『「外」です』


「外に出たい?」


『そう思い、窓の外を指して確認したところ首を横に振りました』


「違う?」


『はい。そこで部屋の扉を指すと、頷きました』


「部屋の外?」


『そうだと思います』


「出た?」


『まだです。歩けるかを先に確認しました』


「歩ける?」


『数歩なら。ただ、かなりふらつきます』


 保存槽から出た少年を思い出す。


 だが、同じだとは思わない。


「どうする?」


 三〇八号室の少年が聞く。


『本人へ選んでもらうため、部屋の外まで自分で歩くか、椅子で移動するか、今日はやめるかを示せるようにしました』


「どれ?」


『椅子を指しました』


「自分で?」


『はい』


「じゃあ外出た?」


『扉の前までです』


「何見た?」


『廊下を』


「それだけ?」


『それだけです』


 少年はしばらく黙った。


「いいな」


『何がです?』


「それだけで」


『はい』


「どこか行かなくてもいい」


『そうですね』


「帰る場所、決めなくても」


 少年が自分の言葉に気づいたように少し止まる。


 木の板に刻まれた「帰」と「還」。


 昨日から、それが頭に残っているのだろう。


「木の板は持って出た?」


『はい』


「じゃあ、外に出たかったのと、帰るは関係ある?」


『まだ分かりません』


「うん」


 少年は素直に頷いた。


「それでいい」


          ◇◇◇


 夕方近くになった頃、発見された子供から初めて声が出た。


 ただし、それは名前ではなかった。


 ヨアヒムから届いた報告を、エルが先に区分する。


『内容は「本人の発言」です。一語だけです。本人は、白鴉療養所側へ共有してよいか確認された際、首を縦に振りました』


「俺も聞いていい?」


『あなたを含む白鴉療養所の保護担当者まで、という確認です』


「じゃあ聞く」


 通信が繋がる。


『先ほど、本人が初めて声を出しました』


「何て?」


『「こわい」と』


 三〇八号室が静かになった。


 少年は何も言わない。


 俺も。


『廊下へ出たあと、遠くで馬の鳴き声がしました。その直後、本人が身体を強張らせ、木片を抱え込むようにして「こわい」と言いました』


「馬が?」


 少年が小さく聞く。


『馬が怖いのか、音が怖いのか、それで何かを思い出したのかは分かりません』


「誰か来ると思った?」


『それも可能性の一つです』


「聞いた?」


『いいえ』


「何で?」


『今は、怖いと言ったこと自体を受け取る方が先だと判断しました』


 少年が俺を見る。


「俺の時と同じ?」


「似てるところはある」


「一人になるの怖いって言った時?」


「ああ」


「でも、あの子は馬の音のあと」


「ああ」


「同じじゃない」


「ああ」


 少年は少し考えた。


「ヨアヒム、何て返した?」


『「分かりました。今は馬を近くへ連れてきません」とだけ』


「大丈夫って言わなかった?」


『何が大丈夫か、私にはまだ分かりませんから』


「そうだよな」


 少年は少し俯いた。


「俺も、大丈夫って言われるの嫌だったかも」


「何で?」


 俺が聞く。


「だって全然大丈夫じゃないのに、王太子だから大丈夫とか、薬飲んでるから大丈夫とか言われた」


「ああ」


「本当に大丈夫か、俺には分からなかった」


「そうか」


「だから」


 少年は通信へ向き直った。


「その子に、大丈夫って言わなくていい」


『はい』


「怖いって言ったら」


 少し考える。


「怖くないようにできることを聞けばいい」


『そうします』


「でも質問いっぱいするなよ」


『気をつけます』


「俺も嫌だから」


『覚えておきます』


          ◇◇◇


 通信が終わったあと、少年は窓を閉めた。


 夕方の風が少し冷たくなってきたからだ。


 今日は一人で金具を動かし、最後まで俺の手を借りなかった。


「アル」


「何だ」


「名前、まだだな」


「ああ」


「でも言葉は出た」


「ああ」


「こわい、だけ」


「一つ増えたな」


「名前より先だった」


「ああ」


 少年は少し考える。


「名前って、そんな急がなくてもいいのか」


「必要な時もあるけどな」


「記録とか?」


「ああ。誰かと取り違えないためには必要になる」


「じゃあ、ずっと『あの子』じゃ駄目?」


「いつかは別の呼び方が必要になるかもしれない」


「でも今じゃない?」


「本人の体調や、何を望んでるかを先に見てもいいと思う」


 少年は赤い布に包まれた手紙へ視線を落とした。


「俺は名前からだった」


「ああ」


「アルフォンスだから王太子。王太子だから本物。そう思ってた」


「ああ」


「名前ないと、自分がなくなると思ってたかも」


「今は?」


「今もアルフォンスがいい」


「ああ」


「でも」


 少年は少し迷ってから続ける。


「もし明日、違う名前にしたいって思ったら?」


「変えればいい」


「そんな簡単?」


「周りは困るかもしれない」


「困るんじゃん」


「呼び方を覚え直すくらいだ」


「記録は?」


「前の名前も記録上は残る」


「消せない?」


「誰だったかを追うためにはな」


「嫌なら?」


「非公開にできる範囲は考える」


 少年は少し黙る。


「全部自由じゃない」


「ああ」


「でも全部駄目でもない」


「ああ」


「真ん中いっぱいある」


「あるな」


「面倒」


「結局そこに戻るのか」


 少年が笑った。


          ◇◇◇


 夕食前、ガルムから短い続報が来た。


 転送台の三つ目の登録座標について、安全に遠隔照合できる範囲で確認した結果、王都ではなかった。


 東でも北でもない。


 王国南東部。


 王領と隣接する古い山岳地帯。


 現在の地図では、小さな村が一つあるだけの地域だった。


「町?」


 少年が聞く。


『村だ。人口百人程度』


「先生そこ行った?」


『まだ分からん』


「転送できる?」


『台座が壊れてるから、今すぐは無理だ』


「歩いて行く?」


『旧保養施設からなら数日はかかる』


「馬車?」


『使えば早い』


 馬車。


 その言葉に、今見つかった子供の「こわい」が重なる。


 少年も同じことを思ったらしく、少し表情を変えた。


「馬、関係ある?」


『まだ繋げるな』


「分かってる」


『成長したな』


「子供扱いするな」


『お前ら本当に同じこと言うな』


 ガルムが呆れたように言う。


「その村、何がある?」


『今調べてる。古い地図では、二百年ほど前まで王家の療養地だった記録がある』


「また王家」


『ああ。ただし、今も王家と関係しているかは不明だ』


「レイハンは?」


『南東へ向かった車輪跡は、途中で分岐してる。村へ向かったと断定はできん』


「追う?」


『斥候を一組だけ先行させる。旧保養施設の警備と患者保護は残す』


「俺は――」


『来るな』


「まだ何も言ってない」


『顔が見えなくても分かる』


 少年が笑う。


「皆分かる」


「何なんだよ」


『白鴉にいろ。患者が増える可能性がある。お前が移動すれば、塔との転送管理も情報整理も全部面倒になる』


「合理的に止めるな」


『それ以外で止まらんだろ、お前』


「……分かった」


『素直で怖いな』


「切るぞ」


『少年』


「何?」


『あの子については、ヨアヒムへ任せる。お前が気にするのは構わんが、自分で背負うなよ』


 少年が少し黙った。


「俺、何もできない」


『それでいい』


「いいの?」


『お前が何かしなきゃ助からない相手じゃない』


 少年は、少し意外そうな顔をした。


『ヨアヒムもリディアもいる。必要なら俺もいる。白鴉へ移すならアルたちもいる。お前一人が何かしなきゃ駄目な状況じゃない』


「……分かった」


『じゃあな』


 通信が切れる。


「ガルム」


 少年が小さく呟いた。


「何だ」


「俺にまで言う」


「ああ」


「お前のせい?」


「知らん」


「たぶんそう」


「何でだよ」


          ◇◇◇


 夜、三〇八号室の少年は、眠る前に一つだけ記録を残した。


 薬は白を四分の一。


 青と紫は使わない。


 扉は内側から閉める。


 灯りは昨日と同じ。


 怖くなったら「アル」と呼ぶ。


 そこまでは、もう何度も繰り返している。


 だが今日は、最後に別の一文を追加した。


「エル」


『はい』


「旧保養施設の子のこと」


『どのように記録しますか?』


 少年は少し考える。


「名前はまだ知らない」


『はい』


「〇二とか、第二対象とか、予備対象とか、勝手に呼ばない」


『記録しました』


「あと」


 少し止まる。


「本人が怖いって言ったことは、本人が言っていいって言った人だけ」


『共有範囲を維持します』


「俺も、勝手に誰かに言わない」


『それも記録しますか?』


 少年は一瞬迷い、それから首を振った。


「それはいい」


「何で?」


 俺が聞く。


「自分で覚える」


 そう言って、少年は寝台へ入った。


 赤い布に包まれた手紙は、今日も開かなかった。


 父上の手紙を調べることより、旧保養施設で見つかった子供のことを気にしていた。


 それが正しいとか、成長したとか、そんな簡単な言葉で片づけるつもりはない。


 少年はただ、自分が嫌だったことを知っている。


 名前を使って縛られること。


 番号で扱われること。


 怖いと言っているのに、「大丈夫」と決められること。


 何を知りたいかも、誰へ知らせたいかも、自分以外の誰かに決められること。


 だから、別の誰かにも同じことをしない方がいいのではないかと考え始めた。


「アル」


「何だ」


「明日、あの子が名前言ったら?」


「ああ」


「本人が俺に言っていいって言ったら教えて」


「分かった」


「言っていいって言わなかったら?」


「教えない」


「お前が知ってても?」


「ああ」


「俺が聞いても?」


「ああ」


 少年は少しだけ不満そうな顔をした。


「本当に?」


「お前が今日、自分で決めたことだろ」


「そうだけど」


「変える?」


 少年は少し考えた。


「……変えない」


「ああ」


「気になるけど」


「ああ」


「知りたいけど」


「ああ」


「でも」


 少年は布団を少し引き上げた。


「その子の名前だから」


「そうだな」


 部屋の灯りを少し落とす。


 外では風がほとんど止まり、遠くで夜の鳥が一度だけ鳴いた。


 王宮西部療養補助院。


 第二休養棟。


 白鴉療養所。


 三つの施設を結ぶ古い移送経路。


 王国南東部の、かつて王家の療養地だった村。


 少しずつ線は増えている。


 けれど、その線の上にいる人間まで番号や記号へ変えてしまってはいけない。


 今見つかった子供は、まだ名前を言っていない。


 分かっているのは、水を飲んだこと。


 食事を少し食べたこと。


 一人でいたいと示したこと。


 部屋の外へ出たいと示したこと。


 そして、馬の鳴き声を聞いたあとに。


「こわい」と、自分の声で言ったことだけだった。


 今は、それで十分だ。


 名前より先に、その人が何を怖がっているのか。


 何なら嫌だと言えるのか。


 何を自分で選べるのか。


 そこから知っていけばいい。


 眠りへ落ちる少し前、少年が目を閉じたまま小さく呟いた。


「アル」


「何だ」


「俺も最初に、怖いって言えてたら違ったかな」


 すぐには答えなかった。


「違ったかもしれないし、同じだったかもしれない」


「そっか」


「でも今は言えるだろ」


 少年はしばらく黙った。


「うん」


 それだけ答えると、今度こそ目を閉じた。


 俺は四歩の距離より少し遠い、扉の近くに立っていた。


 もう朝までここにいる必要はない。


 だから二度目の「お休み」を言って、部屋を出る。


 扉が閉まり、内側から鍵の音がした。


 それでいい。


 怖いと言えることと、一人で眠れることは矛盾しない。


 誰かを必要とすることと、誰かから離れたいことも矛盾しない。


 どちらか一つだけを本物にしなくても、人は生きていける。


 たぶん名前も、記憶も、家族も。


 そして――王太子という役割さえも。

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