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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第34話 見つかった子供を、二人目とも三人目とも呼ばないことにしました


 翌日の白鴉療養所は、朝から風が強かった。


 夜のうちに山の上を通り抜けた雲がまだ低いところへ残っていて、窓の外では細い枝が何度も揺れている。晴れそうで晴れきらない空の下、療養所の中では患者たちがそれぞれの部屋や食堂で朝を迎え、近衛の交代する足音と、食器を運ぶ控えめな音だけが廊下を行き交っていた。


 三〇八号室の少年は、今朝も自分で扉の内鍵を開けた。


 昨夜は一度も俺を呼ばなかったらしい。


 朝になって二度ノックすると、しばらくしてから中で金具が動き、「入っていい」と声がした。扉を開けると、少年は寝台の上で膝を抱えたまま窓を見ていた。


「眠れたか?」


「まあまあ」


「夢は?」


「見たけど、今日は言わない」


「分かった」


「聞かない?」


「言わないって決めたんだろ」


「うん」


 それだけ確認すると、少年は少しだけ表情を緩めた。


 セリーが体調を尋ねると、頭痛も吐き気もなく、胸の苦しさもないという。身体の重さは昨日と同じくらいで、白い薬を四分の一に減らしてから大きな変化は出ていない。


「今日の薬も同じにする?」


 少年が自分から聞いた。


「今朝の状態だけを見れば、同じ量を続ける案が出ています。ただし、昨日と同じだから自動的に同じ、ということではありません」


「分かってる。今日は今日」


「はい」


「俺は四分の一でいい」


「その希望を記録します。最終的には身体の状態を確認してからにしましょう」


「うん」


 薬についての会話が、それだけで終わるようになってきた。


 以前なら、「王太子に薬が必要なのは当然だ」「先生がそう言っていた」と、そこへ自分の立場を重ねていた。


 今は、今日の身体がどうなのかを先に見る。


 それだけでも、少年の中ではかなり大きな変化なのだろうと思う。


「アル」


「何だ」


「昨日の地下」


「ああ」


「続き来てる?」


「まだ朝一番の報告はない」


「来たら聞く」


「種類を先に?」


「うん。昨日と同じ」


「分かった」


 少年はそこで一度、赤い布に包まれた手紙へ目を向けた。


「手紙は?」


 俺が聞く。


「今日はまだいい」


「ああ」


「聞いてないのに言った」


「顔がそっち向いたからな」


「勝手に決めるな」


「決めてない。聞いただけだ」


 少年は少しむっとしたあと、窓の方へ顔を戻した。


「……今日は、地下の方が気になる」


「ああ」


「でも、手紙のこと忘れたわけじゃない」


「誰もそう思ってない」


「ならいい」


          ◇◇◇


 朝食を終えた少しあと、エルが最初の報告を告げた。


『旧保養施設から続報があります。内容は「地下区画」「患者」「移送記録」です。レイハン本人の発見情報はありません』


 少年はすぐには答えなかった。


 昨日までは「患者」と聞けば即座に続きを求めていたが、今日は一度考えている。


「患者って、見つかった?」


『人そのものを発見した可能性があります』


 少年の背筋が伸びた。


「死んでる?」


『現在、死亡したという情報はありません』


「怪我?」


『詳細はまだ共有されていません』


「じゃあ聞く」


『承知しました』


 通信が繋がった。


 今回はガルムだった。


『朝から悪いな』


「いつもだろ」


『お前に言ってない』


「俺?」


 少年が少しだけ驚く。


『そうだ。聞くと決めたのはお前なんだろ』


「うん」


『なら先に言う。人を一人見つけた。ただし、まだ身元は分からん』


 少年の表情が硬くなる。


「子供?」


『見た目では子供だ。年齢は八歳前後に見える』


 俺は反射的に保存槽から出た幼いアルフォンスを思い浮かべた。


 だが、それはすぐに切り離す。


 見た目の年齢が近い。


 それだけだ。


「生きてる?」


『ああ』


「意識は?」


『ある。ただし、かなり弱っている』


「薬?」


『その可能性はあるが、今はヨアヒムが見ている。本人が触られるのを怖がるから、最低限の確認だけだ』


「名前は?」


『まだ聞けていない』


 少年が俺を見る。


「聞いてない?」


「聞ける状態じゃないんだろ」


『それもある。それから、本人が声を出していない』


「喋れない?」


『それもまだ分からない』


「番号?」


 少年が少し身を乗り出す。


『服にも身体にも、外から見える番号はない』


「じゃあ」


 そこで一度止まった。


「勝手に二人目とか言ってない?」


『言ってない』


「三人目も?」


『言ってない』


 ガルムの声には少しだけ呆れが混じった。


『お前たちのところでアルフォンスが何人いようが、こっちで見つけた子供まで勝手に数える気はない』


「よかった」


 少年が本当に少し安心した顔をした。


「どこで見つけた?」


『地下の一番奥だ。昨日見つけた「第二個体移送後、第一区画を閉鎖する」という文字の先に、もう一つ小さな区画があった』


「第二個体?」


『ああ。ただし、見つけた子供がその「第二個体」だとは決めていない』


「分かってる」


『偉いな』


「子供扱いするな」


『アルより飲み込みが早い』


「おい」


 ブラットが笑いを堪える。


「続けてくれ」


『小区画は、普通の病室に近い。保存槽はない。寝台、椅子、洗面器、古い棚。それから、小さな窓が一つ』


「閉じ込められてた?」


『外から鍵をかけられる構造ではある。ただし、実際に監禁されていたかはまだ分からない』


「見つけた時、どこにいた?」


『寝台の下だ』


 少年の顔から表情が消えた。


「隠れてた?」


『そう見える』


「兵士見て?」


『俺たちは最初に入っていない。ヨアヒムとリディアだけだ。それでも出てこなかった』


「怖がってる?」


『かなりな』


 少年は自分の毛布を強く握った。


「白鴉の子みたい」


「似た反応ではあるな」


 俺が言うと、少年がすぐこちらを見た。


「同じじゃない」


「ああ」


「似てるだけ」


「ああ」


「ならいい」


 自分で確認して、自分で戻す。


 それを誰かに言われる前にできるようになってきている。


『もう一つ』


 ガルムが続ける。


『子供が持っていたものがある』


「何?」


『木片だ』


「木?」


『手のひらくらいの薄い板で、表に文字が一つだけ刻まれている』


 部屋の空気が僅かに変わった。


「何て?」


『まだ確定していない』


「見えるんだろ?」


『見える。だが、古い書体だ』


「誰が読む?」


『リディアは読めない。フェリクスなら分かるかもしれんが、まだ現物へ触らせていない』


「何で」


『子供が握ってる』


 少年が黙る。


『離そうとすると怯える。だから、そのままだ』


「取るなよ」


『取らん』


「証拠でも?」


『命に関わらないなら、今はな』


 少年は少しだけ肩の力を抜いた。


「ガルム、分かってきた」


『誰のせいだと思ってる』


「アル?」


『半分くらいな』


「俺も?」


『かなり』


 少年は少し笑った。


          ◇◇◇


 ガルムからの報告は、そこで患者の話だけを一度区切った。


 次に「移送記録」へ進むかどうか、本人へ確認するためだ。


「聞く?」


 俺が尋ねると、少年はすぐには返事をしなかった。


「その子に関係ある?」


『可能性はあります。ただし、同一人物と決める材料はありません』


「王宮も出る?」


『出る』


 少年の指が止まる。


「父上?」


『名前はありません』


「じゃあ聞く」


『承知しました』


 ガルムの声が少し変わる。


『地下区画の書庫跡から、焼かれていない記録板が三枚見つかった』


「紙じゃない?」


『魔導処理された薄板だ。火に強い。文字の一部が削られているが、読める部分がある』


「何て?」


『一枚目には、「第一対象・安定化終了後、王宮へ返還」とある』


 少年が息を止めた。


 俺も黙った。


「第一対象」


 少年が小さく繰り返す。


「原体?」


「同じとは限らない」


「ああ」


 すぐに返ってきた。


「分かってる」


『二枚目は、「第二対象・移送継続。外部認識遮断を維持」』


「第二」


『三枚目は、「予備対象・経過不良。廃棄判断保留」』


 少年の顔色が変わった。


「廃棄」


「ああ」


「人?」


『対象が人間なら、そう読める』


 ガルムも声を落としていた。


「その子?」


『分からない』


「保存槽の子?」


『分からない』


「俺?」


『それも分からない』


 少年は両手を膝の上で握った。


「廃棄って」


 声が少し掠れる。


「要らないってこと?」


 俺はすぐには答えなかった。


 保存槽の子が言った「不要」。


 王家精神安定化計画に残っていた「不要感情」。


 言葉は似ている。


 だが、ここでも勝手に繋げるべきではない。


「記録を書いた奴が、そう扱おうとしてた可能性はある」


「人を?」


「ああ」


「王宮が?」


「そこはまだ分からない」


「でも王宮へ返還って書いてある」


「ああ」


「じゃあ王宮の人が書いた?」


「そうとは限らない」


 少年の顔に苛立ちが浮かぶ。


「何で」


「王宮へ返す側が書いた可能性もある」


「先生とか?」


「レイハンだったかもしれないし、別の研究者かもしれない」


「王宮から来た人かもしれない?」


「ああ」


「父上が命令したかもしれない?」


「可能性は消えない」


 少年は少し俯いた。


「全部ある」


「ああ」


「嫌だ」


「ああ」


「一個にしてほしい」


「分かる」


「でも決めたら駄目?」


「まだな」


 少年はしばらく黙ったあと、少しだけ肩を落とした。


「……分かった」


 ガルムが続ける。


『それから、「第一」「第二」「予備」が、人数を示すのか、処置の段階を示すのかも確定していない』


「人じゃない可能性も?」


『低いとは思うが、ある』


「何で低い?」


『寝室と薬品記録と一緒に保管されていたからだ』


「でも決めない」


『ああ』


 少年は一度深く息を吐いた。


「今見つかった子は?」


『この記録と同じ場所にいた。ただし、記録がいつのものかまだ確定していない』


「昨日までいた人と同じ?」


『二階の寝室にいた人物とも一致しない可能性がある』


「何で?」


『靴の大きさだ』


 ガルムが答える。


『二階に残されていた靴は、今見つけた子供には小さすぎる』


 俺は眉を寄せた。


「じゃあ別人?」


『その可能性が高い』


 少年が目を見開く。


「二人いた?」


『少なくとも、最近二種類の大きさの子供用品が使われていた可能性はある』


「今の子と、もう一人?」


『そうかもしれない』


「もう一人は先生と行った?」


『分からん』


 少年は口を閉じた。


 ここで何か言うかと思ったが、すぐには口にしなかった。


「……増やさない」


「何を?」


「アルフォンス」


「ああ」


「見つかった子も、いなくなった子も、まだアルフォンスじゃない」


「ああ」


「〇二でもない」


「ああ」


「第二対象でもない」


「ああ」


「ただの、まだ名前分からない子」


「そうだな」


 少年はそこで、少しだけ息を吐いた。


          ◇◇◇


 昼前、今度はヨアヒムから直接連絡が来た。


 患者の状態だけを報告したいとのことだった。


『内容は「発見された子供の体調」です。聞きますか?』


「聞く」


 少年はすぐに答えた。


 通信が繋がる。


『こちらヨアヒムです。まず、命に関わる状態ではありません』


 その一言で、少年の肩が少し下がる。


「よかった」


『ただし、脱水と栄養不足があります。長期間ではなく、ここ数日十分に食べられていない可能性が高いです』


「薬は?」


『腕に古い注射痕がありますが、新しいものはありません。口から飲んだ薬については、まだ確認できません』


「喋った?」


『まだ声は出していません』


「名前は?」


『聞いていません』


「聞かないの?」


『今の状態では、質問そのものが負担になりそうです』


「じゃあ、何て呼んでる?」


『今は「あなた」としか』


 少年が少し考える。


「それでいい」


『本人が嫌がるまで、そうします』


「木の板は?」


『まだ握っています』


「取ってない?」


『はい』


「文字、見えない?」


『裏返すこともしていません』


 少年が頷く。


「それでいい」


 その言い方には、昨日までより少し違う響きがあった。


 自分がしてほしかったことを、そのまま誰かへ渡そうとしている。


 けれど、自分と同じ扱いをしろと押しつけているわけではない。


 そこが大きかった。


「その子、白鴉に連れてくる?」


 少年が聞く。


『現時点では、旧保養施設の一階に作った安全区画で休んでもらっています。移動させるかは、体力と本人の反応を見て決めます』


「王宮には?」


『連絡していません』


「先生にも?」


『当然していません』


「もし本人が王宮って言ったら?」


『その時は、理由と状態を確認します』


「すぐ送る?」


『いいえ』


 ヨアヒムの返事は早かった。


『今は安全確認が先です。本人が王宮を望んでも、移動そのものが危険なら、先に身体を整えます』


 少年は少しだけ笑った。


「アルと同じ」


『誰がです?』


「みんな」


『それは褒め言葉でしょうか』


「たぶん面倒な方」


 ヨアヒムが通信の向こうで小さく笑った。


          ◇◇◇


 昼食のあと、三〇八号室の少年は窓を開けた。


 今日は俺に手伝いを求めなかった。


 取っ手が少し硬いことは分かっていたので、両手を使い、身体を少し斜めにしながらゆっくり力をかける。数秒かかったが、古い金具が音を立てて動き、窓が少しだけ開いた。


 冷たい風が入ってくる。


「できた」


「ああ」


「普通?」


「普通」


 少年は窓の外を見た。


「見つかった子も、空見える?」


「旧保養施設に窓はあるらしい」


「見てるかな」


「どうだろうな」


「怖くて見れないかもしれない」


「ああ」


「寝台の下にいたんだもんな」


「ああ」


 少年は少し黙る。


「俺も」


「何だ」


「最初、お前ら来た時、隠れたかった」


「ああ」


「でも隠れる場所なかった」


「そうだったな」


「だから偉そうにした」


 俺は少しだけ少年を見る。


「王太子だから、命令しろって」


「ああ」


「怖いって言うより楽だった」


「そうか」


「今の子もそうかもしれない?」


「分からない」


「だよな」


 少年は自分で言って、小さく笑った。


「でも、そうじゃないかもしれない」


「ああ」


「何も考えてないかもしれない」


「ああ」


「先生のこと好きかもしれない」


「ああ」


「嫌いかもしれない」


「ああ」


「俺みたいじゃないかもしれない」


「ああ」


 そこで少年は、窓の外へ視線を向けたまま少し黙った。


「似てるだけで、同じにしたら駄目なんだな」


「たぶんな」


「面倒」


「またそれか」


「でも、前より分かる」


「ああ」


「お前、すぐ褒めない」


「褒めた方がいい?」


「分からない」


「じゃあ今はやめとく」


「うん」


 少年は少しだけ口元を緩めた。


          ◇◇◇


 午後、旧保養施設からもう一つ重要な報告が入った。


 内容は「患者」と「移送記録」。


 少年は聞くことを選んだ。


『先に患者から』


 ガルムの声が響く。


『見つかった子供が、水を自分で飲んだ』


「自分で?」


『ああ。ヨアヒムが置いた杯を、自分で取った』


「喋った?」


『まだだ』


「木の板は?」


『左手で握ったまま』


「ずっと?」


『ほぼな。ただ、一度だけ持ち替えた』


「文字見えた?」


『その時に少しだけ』


 少年が身を乗り出す。


「何て?」


『一文字だけ読めた』


 ガルムが少し間を置く。


『古い文字で、「帰」と読める』


「帰る?」


『その可能性が高い』


 少年の表情が止まった。


「帰る場所」


「ああ」


 俺も小さく答える。


「誰が書いた?」


『分からん』


「本人?」


『分からん』


「先生?」


『分からん』


「父上?」


『分からん』


 少年が俺を見る。


「ガルムも全部分からない」


「そういう時もある」


『お前ら、俺を何だと思ってる』


「隊長」


『なら少しは敬え』


「アルよりは」


「そこ比較するな」


 少しだけ空気が緩む。


『次に移送記録だ』


 ガルムの声が戻る。


『地下の別室で、古い転送台の台座が見つかった』


 俺は椅子から少し身を起こした。


「転送?」


『古式だ。お前の塔の物と同じかは分からん』


「エル」


『構造情報があれば比較可能です』


「使える状態?」


『今は止まってる。魔力供給線が切られている』


「行き先は?」


『台座に登録先が三つ残っている』


 少年の表情が硬くなる。


「どこ?」


『一つ目は王都西区の旧医務施設。二つ目は白鴉療養所』


 俺とブラットが同時に顔を上げた。


「ここ?」


『ああ』


「三つ目は?」


 ガルムが少し間を置く。


『登録名が削られている』


「行き先も?」


『座標自体は残っているが、今はすぐ追うな』


「何で」


『転送先が生きているか分からん。罠の可能性もある』


「分かってる」


『お前、本当に分かってるか?』


「ガルム」


「何だ」


 少年が割って入る。


「アルは行かない」


「おい」


『ほう』


「ここにいるって昨日も言ってた」


「いや、まだ行くって言ってない」


「顔が言ってる」


 ガルムが向こうで笑った。


『少年の方がよく見てるな』


「セリーもそう言う」


「お前ら組むな」


 セリーが少しだけ微笑んでいる。


「でも」


 少年はすぐに表情を戻した。


「白鴉に繋がってるってことは、ここからあそこへ人を送ってた?」


『可能性はある』


「逆も?」


『転送台が双方向ならな』


「保存槽の子も?」


 そこまで言って、自分で止まる。


「……決めない」


「そうだな」


「俺も?」


「ああ」


「見つかった子も?」


「ああ」


「いなくなったもう一人も?」


「ああ」


「全部可能性だけ」


「今はな」


 少年は深く息を吐いた。


「三つ目、どこなんだろ」


「調べる」


「今すぐ?」


「ガルムたちが安全確認してから」


「お前行かない?」


「……今は行かない」


「今は?」


「細かいな」


「記録」


『「アル様は現時点で旧保養施設へ向かわない」と記録しますか?』


「しなくていい!」


 少年が笑った。


          ◇◇◇


 夕方になっても、見つかった子供は名前を言わなかった。


 声そのものを一度も出していない。


 それでも、水を自分で飲み、柔らかいパンを少しだけ口へ入れた。ヨアヒムが距離を取れば、寝台の下ではなく上に座れるようにもなったらしい。


 その報告を聞いた少年は、少しだけ安心した顔をした。


「名前、まだ聞いてない?」


『はい』


 ヨアヒムが答える。


「じゃあ明日も聞かなくていい?」


『本人の様子次第です。自分から何か伝えようとした場合は、受け取ります』


「木の板は?」


『まだ持っています』


「帰、って書いてるやつ」


『はい』


 少年は少し考えた。


「それ、帰りたいって意味とは限らないよな」


『はい』


「帰りたくない場所かもしれない」


『そうですね』


「誰かに帰れって言われたのかもしれない」


『それもあり得ます』


「名前の一部かもしれない?」


『文字一つだけなら、その可能性も否定できません』


「じゃあ」


 少年は少し笑った。


「まだ何も分からない」


『はい』


「でも、今日はそれでいい」


『承知しました』


 通信が終わる。


 部屋には夕暮れの色が落ちていた。


 窓の外では強かった風も少し弱まり、山の影が長く伸びている。


 少年は赤い布に包まれた手紙へ触れなかった。


「今日は見ない?」


 今度は俺からではなく、セリーが尋ねる。


「うん」


「理由は聞きません」


「今日は」


 少年は少し考える。


「知らない子の方で頭いっぱい」


「そうですか」


「俺のことじゃないのに」


「はい」


「変?」


「いいえ」


 セリーはそれ以上意味を足さなかった。


「アル」


「何だ」


「見つかった子」


「ああ」


「二人目じゃない」


「ああ」


「三人目でもない」


「ああ」


「〇二でも、第二対象でもない」


「ああ」


「名前もまだない」


「まだ分からない、だな」


「そう」


 少年が小さく頷く。


「じゃあ、今は何て呼ぶ?」


「本人が何か決めるまで?」


「うん」


「見つかった子、でいいんじゃないか」


「長い」


「じゃあ子供」


「それもいっぱい居る」


「患者?」


「病人って決めるみたいで嫌」


「難しいな」


「面倒」


「結局そこか」


 少年が少し笑う。


「じゃあ今は、あの子」


「それでいいか」


「本人が嫌って言ったら変える」


「ああ」


 少年は窓の外へ目を向けた。


「帰、って何なんだろ」


「そのうち分かるかもしれない」


「分からないままかもしれない?」


「ああ」


「それでも?」


「本人が話したくないならな」


 少年は少し黙る。


「俺の手紙も?」


「ああ」


「全部調べなくてもいい?」


「お前がそう決めるなら」


「でも証拠」


「必要になれば、どこまで必要か一緒に考える」


「全部じゃなくて?」


「ああ」


 少年はしばらく考えた。


「前は」


「何だ」


「俺が王太子かどうか分かれば、全部終わると思ってた」


「ああ」


「今は違う?」


「どう思う?」


 少年はすぐには答えなかった。


 赤い布。


 白い薬。


 窓。


 旧保養施設。


 まだ名前を言わない子供。


 いなくなったかもしれないもう一人。


 銀のAG-02。


 焼け残った〇二。


 第二対象。


 どれも一つの答えには繋がっていない。


「王太子でも」


 少年がゆっくり言う。


「薬が正しいとは限らない」


「ああ」


「父上の手紙が本物でも、父上が全部正しいとは限らない」


「ああ」


「俺が本物でも、保存槽の子が消えるわけじゃない」


「ああ」


「俺が偽物でも、俺はいる」


 その言葉だけは、俺も少し黙った。


「そうだな」


「じゃあ」


 少年は窓の外へ視線を戻した。


「見つかった子も同じ?」


「少なくとも、誰なのか分かる前から消していい理由にはならない」


「うん」


 短い返事だった。


 けれど、その声は昨日より落ち着いていた。


 旧保養施設で見つかった子供が、誰なのかはまだ分からない。


 第二対象なのかもしれない。


 予備対象なのかもしれない。


 AG-02と関係があるのかもしれない。


 あるいは、そのどれとも関係のない別の誰かなのかもしれない。


 今はまだ、決めなくていい。


 名前を言っていないなら、無理に名前をつけない。


 番号が見つかっても、その番号を本人へ押しつけない。


 似た年齢でも、似た薬を使っていても、三〇八号室の少年とも、保存槽から出た幼いアルフォンスとも同じだとは決めない。


 それぞれを、それぞれのまま見る。


 そうしなければ、真実へ近づくための調査そのものが、また誰かを「不要な方」へ押し込めることになる。


「アル」


「何だ」


「明日」


「ああ」


「もし、あの子が何か喋ったら聞く」


「分かった」


「でも俺に全部言わなくていい」


「どうして?」


「本人が、言っていいって言ったことだけでいい」


 俺は少しだけ目を見開いた。


 少年はそれを見て、すぐに眉を寄せる。


「何」


「いや」


「褒めるなよ」


「まだ何も言ってない」


「顔が言ってる」


「誰に似たんだ、お前」


「知らない」


 少年はそう言って、少し笑った。


「それもまだ分からない」


「ああ」


 今度は俺も笑った。


 答えが出ないことばかりだった。


 それでも、答えが出る前に誰かを決めつけないことだけは、少しずつできるようになっている。


 だから今は、それで十分だった。

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