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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第33話 王宮の印と、焼け残った『〇二』を同じものだと決めないことにしました


 翌朝、白鴉療養所の三〇八号室には、昨日より少しだけ早く陽の光が入った。


 夜のあいだに雲が薄くなったらしく、窓の外には淡い青空が広がっている。山肌に残る朝靄はまだ完全には消えていなかったが、療養所の石壁を照らす光には、昨日までより僅かに暖かさがあった。


 少年は、昨夜も三〇八号室で眠った。


 白い薬は前日と同じ四分の一。青と紫は使わず、寝る前にもう一度だけ身体の状態を確認したうえで、夜中に異常があった場合のみエルを通して呼ぶという形にした。


 俺とセリーは、前夜のように朝まで部屋へ残ることはしなかった。


 少年自身が「今日は呼ぶまで来なくていい」と言ったからだ。


 最初に聞いた時、俺は思わず「本当に?」と聞き返してしまった。


 すると少年は、「嫌なら呼ぶ。怖くなったらアルって言う。昨日決めただろ」と、少し不満そうに答えた。


 その通りだった。


 だから俺たちは、三〇八号室の隣の部屋へ戻った。


 完全に離れたわけではない。呼ばれればすぐ行ける距離だし、エルも生命に関わる危険反応だけは見る。


 それでも、少年が自分で扉を閉め、自分で内鍵をかけ、一人で夜を過ごしたのは初めてだった。


 朝になって俺たちが二度ノックすると、しばらくして内側から鍵の動く音がした。


「入っていい」


 その声を聞いて扉を開けると、少年はまだ寝台の上へ座っていた。


 髪は少し跳ねている。


 目の下には僅かな眠気が残っているが、昨日の朝より表情は落ち着いて見えた。


「眠れたか?」


「途中で一回起きた」


「夢は?」


「見た。でも、昨日みたいなのじゃない」


「どんな夢だった?」


 俺が聞くと、少年は少し考えたあと、首を振った。


「言わない」


「分かった」


「記録もしない」


『記録しません』


 エルがすぐ答える。


 少年はそれを聞いてから、自分の指を開いたり閉じたりした。


「身体は?」


 セリーが尋ねる。


「昨日と同じくらい。少し重いけど、頭は痛くない。気持ち悪くもない」


「胸の苦しさや、魔力が乱れる感覚は?」


「ない」


「記憶についてはいかがですか?」


 少年は寝台脇へ目を向けた。


 赤い布に包まれた二十三通の手紙は、昨日と同じ場所にある。


 本人認証箱も、その横。


「父上も覚えてる。先生も、アンナマリーも、昨日の『〇二』も覚えてる」


「俺は?」


「いるから忘れてない」


「そういう意味じゃない」


「分かってる」


 少年が少し笑う。


「アルも覚えてる。セリーも。ガルムに怒られてたのも」


「そこまで覚えなくていい」


「消す?」


「消さない」


「じゃあ残る」


「記憶はそういうもんだ」


 少年は少しだけ得意そうな顔をした。


          ◇◇◇


 朝食を終えたあと、最初に届いたのはアンナマリーからの連絡だった。


 昨日、少年本人が許可した範囲の中で、古い王家印を比較できる資料を探してもらっていた。


 王宮へ直接問い合わせない。


 少年の存在も知らせない。


 その条件で探せる資料は限られていたが、思ったより早く一つ見つかったらしい。


 通信を繋ぐ前に、エルが少年へ確認する。


『内容は「王家印の比較」です。昨日許可された範囲内の情報のみ扱われます。聞きますか?』


 少年は少し迷った。


 昨日の夕方、王宮に関する話は「明日決める」としていた。


 だから俺も口を挟まない。


「父上へは、まだ言ってない?」


『はい』


「王宮の人にも?」


『新たな照会はしていません』


「アンナマリーとブラットと、町の文書だけ?」


『現在はその範囲です』


「じゃあ聞く」


『承知しました』


 通信が繋がる。


『おはようございます、アルフォンスさん』


「おはよう」


 少年が少し間を置いて返した。


 昨日より自然だった。


『昨夜から今朝にかけて、リュネの旧領主府文書庫と、塔へ移されていた王家関係資料を確認しました。六年前の王家発給文書が三通見つかっています』


「印、同じ?」


『まだ結論から申し上げる段階ではありませんが、昨日エルさんが確認した手紙の封蝋と、かなり近いものが一つありました』


 少年の背筋が僅かに伸びる。


「近いって、どれくらい」


『形だけではなく、魔力構造の配置も近いです。ただし、完全一致ではありません』


「また」


 少年が少し顔をしかめる。


『はい。また、です』


 アンナマリーは誤魔化さなかった。


『ただし、昨日より一つ分かったことがあります。手紙の封蝋が「現行王家印と違うから怪しい」という点は、少なくとも弱くなりました』


「昔の印なら、あの形でもおかしくない?」


『はい。その可能性は高まりました』


「じゃあ本物?」


『そこまでは言えません』


 少年は口を尖らせた。


「何で」


『古い王家印を誰かが複製した可能性も残るからです。また、王家発給文書で使われる印と、国王陛下個人の私信に使われる印が常に同一とも限りません』


「じゃあ、今分かったのは?」


『手紙の印が、少なくとも「六年前の王家印ではあり得ないもの」ではなさそうだ、ということです』


 少年はしばらく黙った。


「一個だけ前に進んだ?」


『はい。私はそう考えています』


「本物に近づいた?」


 アンナマリーはすぐに答えなかった。


『可能性の一つが少し強くなった、という言い方が一番正確です』


「面倒」


『ええ』


「アンナマリーも言う」


『最近、便利な言葉だと学びました』


 俺は少し笑った。


「誰の影響だ」


『さあ』


「絶対こいつだろ」


「俺?」


 少年が不満そうに俺を見る。


『もう一つ、確認したいことがあります』


 アンナマリーの声が少し真面目になる。


『昨日開封した手紙の封蝋について、エルさんが記録した非接触走査結果を、こちらの三通と数値比較してもよいでしょうか。手紙そのものを移動させる必要はありません』


 少年がすぐに答えず、俺を見る。


「何が分かる?」


「構造の似てる部分と違う部分が、もう少し細かく分かる」


「手紙に触る?」


『触りません』


「内容を見る?」


『見ません』


「俺の名前は?」


『比較データ上は不要です』


「父上に知られる?」


『今のやり方なら、新たに知らせる必要はありません』


 少年は少し考えた。


「やっていい」


『ありがとうございます』


「でも結果、今日すぐじゃなくてもいい」


 アンナマリーが一瞬黙る。


『急がなくてよい、という意味ですか?』


「うん。昨日、一枚見たから」


『分かりました。こちらで比較だけ進め、結果を聞くかどうかは改めて確認します』


「それでいい」


 通信はそこで一度終わった。


 少年は赤い布へ視線を落としたが、手を伸ばさなかった。


「今日は開けない?」


 俺が聞く。


「今は開けない」


「ああ」


「あとで変えるかも」


「分かった」


「約束じゃない」


「記録する?」


 少年は少し考えてから首を振った。


「これはいい」


『記録しません』


 エルが答える。


 必要なことだけ残す。


 残したくないことは残さない。


 少年自身が、少しずつ使い分け始めていた。


          ◇◇◇


 昼前になって、旧保養施設から新しい連絡が入った。


 今度はガルム本人ではなく、リディアからだった。


 約束通り、エルが最初に内容の種類を伝える。


『内容は「記録」「患者」「〇二」です。王宮に関する可能性のある記述も含まれます。ただし、レイハン本人の発見情報はありません』


 少年の表情が固くなる。


「王宮も?」


『はい』


「どれくらい」


『文書断片に王宮関連と思われる表記があります』


 少年は少し迷った。


 昨日は、王宮の話を聞くかどうかを今日決めると言っていた。


「アル」


「何だ」


「聞いたら、戻せない?」


「内容はな」


「知ったら忘れられない?」


「少なくとも、俺たちが勝手に消すつもりはない」


「怖い内容かもしれない?」


「あると思う」


「父上が関わってるとか?」


「可能性はある」


「関わってないかもしれない?」


「ああ」


 少年は膝の上で両手を組んだ。


 しばらく黙ったあと、一度深く息を吐く。


「聞く。でも、最初に全部言うな」


「どういう順番がいい?」


「〇二から」


『承知しました』


 リディアとの通信が繋がる。


『こちらリディア。まず「〇二」について報告します』


「うん」


『昨日保全した焼け残りの紙片を、外周の安全区域へ移して確認しました。「〇二」と読める部分は、単独の番号ではなく、何らかの識別記号の末尾である可能性が高いです』


「前は何て書いてある?」


『焼損していて完全には読めません。ただ、直前に横線のような痕跡があります』


 俺とブラットの視線が重なる。


「AG-02の可能性は?」


 ブラットが聞く。


『あります。しかし、AやGに見える文字は残っていません。現時点で同一と判断する材料はありません』


 少年が俺を見る。


「銀の鍵と同じって決めない?」


「ああ」


「でも違うとも決めない?」


「ああ」


「分かった」


 昨日までなら「また分からない」と苛立っていたかもしれない。


 今日は自分で言葉にした。


『次に「記録」です』


 リディアの声が続く。


『焼け残った紙片は全部で七片あります。そのうち三片は同じ書式で、王家関連の研究文書に使われる枠線と似ています』


「父上の?」


『そこまでは分かりません。王家と契約した研究機関、王宮医務系部署、王立研究所でも似た書式が使われることがあります』


「白鴉と同じ?」


『完全には一致しません』


「何て書いてあるの?」


『読める範囲では、「対象」「継続」「移送」「安定」という単語があります』


 少年の指が僅かに動く。


「俺の薬みたい」


「似た言葉は使われてるな」


 俺が答える。


「でも俺って決めない」


「ああ」


『もう一つあります』


 リディアが続ける。


『二階で見つかった一人分の寝室から、空の薬瓶が三本見つかりました。白、青、紫の色分けがされています』


 少年の顔が一気に強張った。


「同じ?」


『白鴉療養所で使われていたものと、容器の規格は同じです』


「中身も?」


『残留物はこれからフェリクスさん側へ回して確認します。色だけでは同じ薬と断定できません』


 少年は赤い布ではなく、本人認証箱を見る。


 そこには、今も自分が量を減らしながら使っている白い薬が入っている。


「誰か、俺と同じの飲んでた?」


『可能性はあります。ただ、まだ確認できません』


「その人はどこ?」


『見つかっていません』


「逃げた?」


『自分で移動したのか、誰かに連れられたのかも分かりません』


 少年の呼吸が少し浅くなる。


 セリーがすぐ近づくことはせず、まず声をかけた。


「一度、ここで止めますか?」


「まだ」


「身体は大丈夫ですか?」


「少し怖い。でも聞く」


「分かりました」


「王宮の話」


 少年は自分から言った。


「次、それ」


『承知しました』


 リディアの声が少し低くなる。


『地下へ続く階段の手前で、焼かれていない小さな金属札を一枚発見しました』


「何て書いてある?」


『表面に王宮の旧施設管理章。裏に「第二休養棟・特別管理区画」とあります』


 ブラットの表情が変わる。


「王宮の施設だったのか?」


『少なくとも、過去に王宮管理下へ置かれていた可能性があります』


「いつ?」


『札そのものからは分かりません』


「閉鎖された保養施設って聞いてたぞ」


『地元の現行記録ではそうです。ただし、地下区画については記載がありません』


 少年が俺を見る。


「隠してた?」


「可能性はある」


「父上が?」


「そこまでは分からない」


「王宮が?」


「王宮のどこかの部署が管理していた可能性は上がったと思う」


 少年は唇を噛んだ。


「先生、そこ使ってた?」


『最近使われた形跡はあります』


「王宮と先生、繋がってた?」


『それもまだ断定できません』


 少年はすぐに返さなかった。


 少し前なら、ここで「父上も先生と同じだった」と結論へ飛んでいたかもしれない。


 だが今回は、長く黙ったあと、自分で聞き直した。


「王宮の施設だったことと、父上が先生に命令したことは別?」


「ああ」


「先生が勝手に使ったかもしれない?」


「ああ」


「王宮の誰かが貸したかもしれない?」


「ああ」


「昔は王宮の施設で、今は違ったかもしれない?」


「ああ」


「全部ある?」


「今のところはな」


「……面倒」


 それでも、少年は少しだけ息を吐いた。


「でも、分ける」


「ああ」


 俺はそれ以上褒めなかった。


 本人が必死に整理している時に、「できたな」と言えば、また正解を求めさせるかもしれない。


 だから、ただ同意するだけにした。


『最後に、「患者」についてです』


 リディアが続ける。


『二階の寝室で、髪の毛が数本見つかりました。色は暗い金色。寝台脇に、子供用と思われる小さな靴が一足あります』


 少年の目が大きくなる。


「子供?」


『可能性は高まりました。ただし、靴だけでは断定しません』


「何歳くらい?」


『大きさだけなら、七歳から十歳程度に見えます』


 部屋の空気が変わった。


 俺の脳裏に、保存槽から出た幼いアルフォンスの姿が浮かぶ。


 緑の服を選び、まだ数歩歩くだけでも身体が震える少年。


 けれど。


「保存槽の子と同じ?」


 三〇八号室の少年が先に聞いた。


「年齢は近いかもしれない。でも、だから同じじゃない」


「分かってる」


「ならいい」


「でも」


 少年は少し考える。


「もし別の子なら」


「ああ」


「またいる?」


「いる可能性はある」


「アルフォンス?」


「それは分からない」


「〇二だから?」


「そこも繋げない」


「分かった」


 少年は少しだけ俯いた。


「名前ないの?」


『現時点では見つかっていません』


「部屋番号は?」


『二階二〇四号室です』


「二〇四」


『はい』


「数字だけ」


 少年が小さく呟いた。


「俺みたい」


 誰もすぐに返さなかった。


 番号で呼ばれていたかは、まだ分からない。


 ただ部屋番号が二〇四だっただけかもしれない。


「その人の名前、勝手に決めるなよ」


 少年が通信の向こうへ言った。


『承知しました』


「王宮へ送るな」


『保護対象を見つけた場合は、本人の状態と意思を確認します』


「弱ってたら?」


『先に治療と安全確保をします』


「それから聞く?」


『はい』


 少年は頷いた。


「それでいい」


          ◇◇◇


 通信が終わったあと、少年はしばらく口を開かなかった。


 窓の外では風が少し強くなり、木々の枝がゆっくり揺れている。朝には明るかった空も、また薄い雲に覆われ始めていた。


「アル」


「何だ」


「〇二って、何人いるんだろ」


「分からない」


「銀の鍵にもあった」


「ああ」


「焼けた紙にもあるかもしれない」


「ああ」


「今度の子にも関係あるかもしれない」


「可能性はある」


「保存槽の子にも?」


「それも、まだ分からない」


 少年は膝を抱えるように座り直した。


「三人アルフォンスいるだけでも変なのに」


「そうだな」


「四人目いたら?」


「その時考える」


「嫌じゃない?」


「何が」


「アルフォンス増えるの」


 俺は少し考えた。


「名前が増えるのは困らない」


「偽物かもしれないのに?」


「ああ」


「本物が一人なら?」


「それを誰かが証明したとしても、他の人間が消えるわけじゃない」


 少年が俺を見る。


「でも王太子は一人」


「ああ。役職は一人かもしれない」


「名前は?」


「一人じゃなくていい」


「身体も?」


「一人ずつあるなら、それぞれのものだ」


「記憶は?」


「それぞれ違うなら、それぞれのものだと思う」


 少年はしばらく黙った。


「じゃあ、本物決まっても」


「ああ」


「負けた方も残る?」


「勝ち負けにしなくていい」


「でも俺が王太子じゃなかったら?」


「お前が消えるわけじゃない」


「父上の息子じゃなかったら?」


 声が少し小さくなる。


「それでも、お前が今ここにいることは変わらない」


「名前も?」


「お前がアルフォンスと呼ばれたいなら」


 少年は赤い布へ目を向けた。


「今は」


「ああ」


「アルフォンスがいい」


「分かった」


「記録」


『「本人は現時点でアルフォンスと呼ばれることを希望する」と記録しました』


「今は、入れた?」


『はい』


「いい」


 少年が小さく頷いた。


          ◇◇◇


 午後になり、フェリクスが三〇八号室の前へやってきた。


 昨日、少年が「明日なら封蝋を詳しく見てもいい」と言った件について確認しに来たらしい。


 勝手に入らず、扉の外から声をかける。


「昨日の封蝋検査について、今日行うかだけ確認に来ました」


 少年が俺を見る。


「やらなくてもいい?」


「もちろん」


「昨日、やっていいって言った」


「昨日は昨日だろ」


 少年は少しだけ考える。


「アンナマリーが今、別の文書と比べてる」


「ああ」


「それ終わってからでもいい?」


「いい」


 扉の外からフェリクスの声がする。


「問題ありません。むしろ比較結果を先に見た方が、検査項目を絞れる可能性があります」


「触りたい?」


「研究者としては非常に」


「正直」


「はい」


「でも待てる?」


 少し間が空く。


「努力します」


 少年が笑った。


「じゃあ今日は触るな」


「承知しました」


「怒らない?」


「残念ではあります」


「怒ってない?」


「はい」


「記録」


『フェリクスさんは本日の封蝋接触検査延期について了承し、怒っていないと回答しました』


「そこまで残すんですか」


 フェリクスの声が少し遠くなる。


「逃げるな」


「逃げませんよ」


 少年はまた笑った。


 以前なら、研究者が検査すると言えば拒否するか、逆に「王太子の命令だからやれ」と言っていたかもしれない。


 今は、昨日の許可を今日取り消せる。


 それを自分で確認できるようになった。


 小さなことに見えるが、少年にとってはそうではない。


 昨日の自分が決めたことに、今日の自分まで縛られなくていい。


 それも一つの自由だった。


          ◇◇◇


 夕方前、アンナマリーから比較結果が届いた。


 エルが先に内容を告げる。


『内容は「王家印の比較結果」です。聞きますか?』


「聞く」


 今度は迷わなかった。


『三通の王家発給文書と比較した結果、昨日開封した手紙の封蝋は、そのうち一通と魔力構造の約八割が一致しました』


「八割」


『はい』


「高い?」


 少年が俺を見る。


「かなり近い方だと思う。でも、それだけで本物とは言えない」


「分かってる」


 少し不満そうだが、自分で続きを待つ。


『特に一致しているのは、外周の王家識別式と、中央部の複製防止構造です。一方で、使用者識別に相当する内側の一部が異なります』


「父上じゃない?」


『その可能性もあります。しかし、代理使用者、別の王家印、保管時の魔力劣化でも差は出ます』


「じゃあ」


 少年が考える。


「昔の王家の印を使った可能性は、かなりある?」


『はい。それは昨日より強く言えます』


「王宮から来た可能性も?」


『少し上がります。ただし、印だけが王宮由来で、手紙自体は別の場所で作られた可能性も残ります』


「先生が印だけ持ってたとか」


『はい』


「王宮の誰かが渡したとか」


『はい』


「父上が本当に押したとか」


『それも残ります』


 少年は赤い布を見る。


「全部まだある」


「そうだな」


「でも昨日より狭くなった?」


「少しな」


 少年は小さく息を吐いた。


「それならいい」


『もう一点あります』


 アンナマリーが続ける。


『一致率が最も高かった文書は、六年前に王宮からリュネ領主府へ送られた医療施設管理に関する通知でした』


 俺とブラットが同時に顔を上げた。


「医療施設?」


『はい。ただし、本文は一部欠損しています。残っている範囲では、「王家関係者の療養」「特別区画」「外部非公開」の記述があります』


 少年の顔が強張る。


「白鴉?」


『施設名は残っていません』


「旧保養施設?」


『それも分かりません』


「父上?」


『署名欄は欠損しています』


 少年は拳を握る。


「また分からない」


「ああ」


「でも王宮の医療施設と、あの印が同じ時期?」


「そういうことだと思う」


 俺が答える。


「先生のところにも、昔の王宮施設の札があった」


「ああ」


「繋がる?」


「繋がる可能性は上がった」


「でも、父上が命令したとは限らない」


「ああ」


「先生が勝手に使ったとも限らない」


「ああ」


 少年は一度目を閉じた。


 呼吸を整えるようにゆっくり息を吐く。


「今日は」


 少し間を置く。


「ここまででいい」


『承知しました』


 アンナマリーはすぐに引いた。


『続きの文書調査は進めますが、結果を共有する前に改めて確認します』


「うん」


「手紙は?」


 俺が聞く。


 少年は赤い布を見る。


 少し迷った。


「今日は開けない」


「ああ」


「明日も分からない」


「ああ」


「でも調査は進んだ?」


「進んだ」


「俺が開けなくても?」


「ああ」


 少年は少し驚いたような顔をした。


「そういうのもあるんだ」


「全部、お前が直接やる必要はない」


「お前も?」


「俺も」


「ガルムに言われたやつ」


「そう」


「任せる練習」


「ああ」


 少年が少し笑った。


          ◇◇◇


 夕食前、最後に旧保養施設から短い報告が届いた。


 地下区画の扉が一つ開いた。


 その先に人はいなかった。


 ただし、床には新しい車輪跡。


 壁際には空になった保存容器の固定具。


 そして、扉の内側に古い文字で一行だけ残っていた。


『第二個体移送後、第一区画を閉鎖する』


 エルが内容を読み上げると、三〇八号室は静かになった。


 少年はすぐに「〇二」とは言わなかった。


 俺も言わない。


 第二個体。


 〇二。


 AG-02。


 似て見える言葉はある。


 けれど、同じものだと決めるにはまだ早い。


「アル」


「何だ」


「第二個体って」


「ああ」


「俺たちの誰か?」


「分からない」


「保存槽の子?」


「分からない」


「俺?」


「分からない」


「別の子?」


「それもある」


 少年は少し眉を寄せた。


「いっぱいある」


「ああ」


「前なら」


 自分で言いながら考える。


「俺って決めてたかも」


「そうかもしれないな」


「今は」


 少し黙る。


「決めない」


「ああ」


「怖いけど」


「ああ」


「決めた方が楽だけど」


「そうだな」


「でも、違ったら」


 少年が赤い布へ目を向ける。


「また誰か消すかもしれない」


 俺はすぐには返さなかった。


 その言葉の意味を、少年自身がどこまで分かっているのかは分からない。


 本物は一人だけだと言われ続けてきた。


 なら、一人を本物に決めれば、残りは偽物になる。


 偽物なら、要らない。


 そんな考え方を、少年はずっと教え込まれてきたのかもしれない。


「だから、今は決めない」


 少年が自分で続ける。


「第二個体が誰かも、〇二が何かも、父上がどこまで知ってたかも」


「ああ」


「でも調べる」


「ああ」


「俺が聞きたくない時は止める」


「ああ」


「他の人が危ない時は?」


「必要なことは先に動く」


「俺の許可なく?」


「お前の個人情報とは別の話ならな」


 少年は少し考える。


「例えば、あの施設に子供いたら?」


「助ける」


「俺が聞きたくなくても?」


「ああ。救助は止めない」


「でも、その子の名前とかは勝手に広めない?」


「ああ」


「分かった」


 少年は小さく頷いた。


 何でも本人へ委ねればいいわけではない。


 本人の情報は本人へ返す。


 けれど、誰かの命が危ないなら動く。


 選べない状態なら、まず守る。


 守ったあとで、何を望むかを聞く。


 それを全部同じ「選択」という言葉でまとめてしまえば、かえって誰かへ責任を押しつけることになる。


「アル」


「何だ」


「今日、王宮の話聞いた」


「ああ」


「怖かった」


「ああ」


「でも、聞いてよかったかはまだ分からない」


「分からなくていい」


「明日、嫌になるかもしれない」


「ああ」


「それでも今日聞いたの、間違いじゃない?」


 少し考えた。


「間違いだったかどうかを、今すぐ決めなくてもいいんじゃないか」


「また決めない」


「ああ」


「便利だな」


「便利だろ」


 少年が少し笑った。


 窓の外では、夕方の青が少しずつ深くなっている。


 旧保養施設では、今もガルムたちが地下区画を調べている。


 王宮の古い印。


 焼け残った〇二。


 銀の鍵に刻まれたAG-02。


 第二個体という言葉。


 どれも互いに近づいているように見える。


 けれど、近いからといって、同じとは限らない。


 今までなら俺も、繋がりそうなものをすぐ一本の線にしたくなっていただろう。


 だが、その線が間違っていた時、線の外にいる誰かを見落とす。


 三〇八号室の少年と、保存槽から出た幼いアルフォンスを混同してはいけないように。


 まだ見つかっていない誰かを、勝手に「二人目」や「三人目」に押し込めてもいけない。


「アル」


「何だ」


「明日」


「ああ」


「手紙はまだ分からない」


「ああ」


「でも、保養施設の子のことは聞く」


「分かった」


「もし見つかったら」


 少年は少し考えた。


「名前を先に聞いてやって」


「ああ」


「言いたくないって言ったら?」


「聞かない」


「番号しか分からなかったら?」


「番号で呼ばれたいか聞く」


「嫌って言ったら?」


「別の呼び方を一緒に考える」


 少年は少しだけ笑った。


「それでいい」


 昨日まで、自分の名前を守ることで精一杯だった少年が、まだ会ったこともない誰かの名前について考えている。


 だからといって、急に優しくなったとか、成長したとか、そんな簡単な言葉で片づけるつもりはなかった。


 ただ、自分が嫌だったことを覚えている。


 その記憶を、別の誰かへ同じように繰り返させたくないと思った。


 今は、それだけで十分だった。


 王宮の印は、手紙が本物だという証明にはならなかった。


 焼け残った〇二も、銀の鍵のAG-02と同じものだとは決まっていない。


 地下に残されていた「第二個体」も、三人いるアルフォンスの誰かを指すとは限らない。


 だから今日も、答えは一つも完成しなかった。


 それでも。


 分からないものを、分からないまま一つずつ分けて置けるようになった。


 今は、その方がいい。


 誰か一人を本物にするために。


 別の誰かを、勝手に偽物へしないために。

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