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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第32話 自分がここにいることを、誰に知らせるかまで本人に決めてもらいました



 昼食を終えた頃には、白鴉療養所を包んでいた朝の冷たさも少し和らいでいた。雲はまだ多いものの、ときおり切れ間から陽が差し込み、三〇八号室の窓辺へ淡い光を落としている。


 昼前に一度開けた窓は、少年自身の手で閉じられていた。それでも古い窓枠の隙間からは山の風が僅かに入り込み、薬草と石壁の匂いが残る部屋の空気を少しずつ入れ替えている。


 赤い布に包まれた二十三通の手紙は、寝台脇の小机へ戻されていた。今朝開いた一通だけは少年自身が折り直したため、他の手紙とは僅かに折り目が違っている。


 本人が「今日はもう見ない」と決めた以上、エルにもフェリクスにも追加の分析はさせていない。封蝋の詳細検査も、古い王家印との照合も、少年自身が続きを望んだ時に進めることになっている。


 俺自身は、正直に言えば今すぐ調べたかった。父上の筆跡、六年前の王家印、手紙の紙に使われている透かし、レイハンがどうやって手紙を用意したのか。王宮から本当に届いていたのなら、誰が運び、どの経路で白鴉療養所まで持ち込んだのかも知りたい。


 調べたいことはいくらでもある。


 だからこそ、俺は手紙から少し離れた椅子へ座っていた。


「アル、さっきから手紙見てる」


 寝台の上から少年に言われ、俺は小机から視線を外した。


「見てない。置いてある方向を見ただけだ」


「でも、調べたいんだろ?」


「かなりな」


「じゃあ調べればいいじゃん。俺はもう見ないって言ったけど、お前まで見ちゃ駄目とは言ってない」


 少年は不思議そうな顔をしている。


 自分が止めたからといって、俺まで止まる理由が分からないらしい。


「お前の手紙だからな。王国の証拠になる可能性は高いけど、今のところはお前が持っていたものだ」


「じゃあ王子が決めればいい?」


「どっちの王子だ?」


「俺」


「俺も元王太子だぞ」


「元なら、今は俺の方が上」


「その理屈はどうなんだ」


「今は俺が王子だろ」


「そこもまだ確認中だ」


 少年は少し不満そうに鼻を鳴らした。


「やっぱり面倒」


「ああ。それは否定しない」


 以前なら、このまま「自分が王太子なのだから命令に従え」と続いていたかもしれない。


 だが今日は、そこで終わった。


 手紙を調べる権利が自分だけにあるとも、俺には一切ないとも言わない。まだ本人の中でも整理できていないのだろうし、急いで答えを決める必要もない。


「主様」


 部屋の入口からセリーが呼んだ。


 少年はすぐにそちらを見る。


「入っていい?」


「うん」


「では失礼します」


 扉を閉め切らず、少しだけ開いた状態でセリーが入ってくる。手には小さな盆があり、水差しと新しい布、それから昼食後に飲む予定の白い薬を入れた本人認証箱が載っていた。


 少年は箱を見ると、少し眉を寄せた。


「薬? まだ飲む時間じゃないよな」


「はい。次の服用時間まではまだあります。ただ、この部屋へ戻しておくか、薬品室の保管庫へ置くかを先に確認しておきたかったのです」


「昨日はここだったから、今日もここがいい」


「分かりました」


「これ、俺しか開けられないんだよな?」


「現在は本人認証だけですので、主様でも開けられません」


 少年が俺を見る。


「昨日、本当に開かなかった?」


「やった。見事に弾かれた」


「じゃあ、もう一回やって」


「信用ないな」


「確認」


「はいはい」


 小机へ箱が置かれる。


 俺が手をかけても、蓋は僅かにも動かなかった。


『権限がありません』


 エルの声が響く。


 少年はそれを聞くと、少し楽しそうに口元を緩めた。


「塔の主様なのに開けられないんだ」


「権限を分けてるだけだ」


「弱い」


「言い方」


「でも開かない」


「だから、それは弱いんじゃなくて――」


「言い訳」


「違うって」


 セリーが口元を押さえている。


「何だよ」


「いえ。お二人とも、最近よく似た調子で言い合うようになったと思いまして」


「似てない」


 俺と少年の声が重なった。


 一拍遅れて、セリーが明確に笑った。


          ◇◇◇


 午後になって最初の連絡を寄越したのはガルムだった。


 通信は三〇八号室ではなく、廊下の小さな待機室で受けるつもりだった。少年へ聞かせる必要がある情報かどうか、まだ分からないからだ。


 ところが俺が立ち上がると、少年がすぐに口を開いた。


「俺も聞く。先生のことかもしれないんだろ?」


「関係している可能性はある。でも、捕まったとか怪我したとか、もっと悪い話かもしれないぞ」


 俺がそう言うと、少年の肩が僅かに強張った。


 それでも逃げるように視線を逸らすことはしなかった。


「……それでも聞く。後になって、俺だけ知らなかったってなる方が嫌だ」


「途中で無理になったら、そこで切るぞ」


「通信なのに?」


「通信だから切れる」


「ガルム、怒らない?」


「たぶん怒る」


「駄目じゃん」


「でも切る」


 少年は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。


「お前、隊長より偉いの?」


「そういう話じゃない」


 結局、通信は三〇八号室の扉を開いたまま、入口側で行うことにした。


 少年は寝台、俺は四歩離れた椅子へ座る。セリーはその中間より少し横、ブラットは廊下側へ立った。


 フェリクスは呼ばれていない。


 本人が必要だと言っていないからだ。


『聞こえるか』


 ガルムの声がエルを通して響いた。


「聞こえる。少年もいる。本人がレイハン関連なら聞きたいって言った」


 少し間が空く。


『分かった。なら必要以上に詳しくは言わん。途中で聞きたくなくなったら、そこで止めろ』


 少年の目が少し丸くなる。


「ガルムも同じこと言う」


『何がだ』


「やめたくなったら言えって。アルもさっき言った」


『聞こえてるぞ』


「聞こえるように言った」


『……元気そうだな』


「それは分からない」


『そうか』


 ガルムはそれ以上踏み込まなかった。


 通信の向こうでは風の音がかなり強い。まだ山中にいるらしい。


『南東の森林道を追った斥候が、閉鎖された旧保養施設まで到達した。建物そのものは残っているが、今のところ人影は確認できていない』


 少年の手が毛布の端を握る。


「先生もいない?」


『レイハン本人は見つかっていない。そこからさらに移動した可能性はあるが、まだ断定はしない』


「何が残ってた?」


 俺が聞く。


『馬車の轍が施設裏まで続いている。裏口近くには新しい泥、車輪跡、荷下ろしの跡があるから、少なくとも昨日か今日、誰かが使った形跡はある』


「中には入ったのか?」


『入口までだ。罠の可能性があるから、リディアが合流するまでは待たせている』


「それでいい」


『お前に褒められると腹が立つな』


「何でだよ」


 ブラットが小さく笑った。


 ガルムの声は、そのあと少し低くなった。


『もう一つある。建物の裏で、紙を焼いた跡が見つかった』


 少年の顔から笑いが消える。


「手紙?」


『そこまでは分からない。誰が燃やしたのかもまだ不明だ。ただ、灰だけじゃなく燃えきらなかった紙片が何枚か残っている。斥候には触らせず、周囲を封鎖させた』


「文字は見えるのか?」


『遠目で一部だけな。番号らしいものと、王家式の文書枠が確認できる』


 少年の指が強く毛布を掴んだ。


「俺の記録かもしれない?」


『まだ分からない。三〇八の番号も、アルフォンスの名前も、見える範囲にはない』


 少年は少しだけ息を吐いた。


 安心したのか、それともまだ怖いのかは、表情からでは読み切れない。


「ガルム、もし俺の名前があったら……その記録、どうする?」


『まず保全する。そのうえで、お前に関する記録なら、アルたちへ広く共有する前に扱い方を相談する』


「俺に?」


『可能ならな。お前の記録なんだろ』


 少年が俺を見る。


「お前が言わせた?」


「言ってない」


『言われなくても、それくらいは覚えた』


「ガルムも面倒になった」


『……アル』


「俺を見るな」


 ガルムのため息が通信越しに聞こえた。


『とにかく、まだ何も確定していない。リディアとオスカーを合流させて中へ入る。ミラは外周、ウォルターは森林道の先を確認中だ。斥候二人だけで突っ込ませるつもりはない』


「レイハンを追うのはその後か?」


『ああ。逃げられる可能性はあるが、今は建物と証拠を優先する』


 俺は少し黙った。


 逃げた人間を追いたい気持ちはある。


 それでも今、ガルムが優先しているのは残された建物を安全に確認し、証拠を失わないことだった。


「分かった。任せる」


『……今、何と言った?』


「任せるって言った」


『珍しいな』


「失礼だな」


『あとで細かく口を出すなよ』


「必要なら出す」


『任せるの意味を辞書で調べろ』


 少年が吹き出す。


 ガルムも一度だけ鼻を鳴らした。


『続報は必要な部分だけ送る。少年へも全部そのまま流す必要はないだろう』


「それ、俺が決めたい」


 少年が言う。


『聞きたい範囲をか?』


「うん。最初に何の話かだけ言って。先生、薬、王宮、患者、記録とか。そうしたら聞くか決める」


『分かった。それでいこう。全部聞きたいと言った場合でも、死亡や重傷みたいな内容なら先にそのことだけ伝える』


 少年は少し考えてから頷く。


「それでいい」


『エル、記録しておけ』


『記録しました』


 少年が少し眉を上げた。


「ガルムも記録って言うんだ」


『便利だからな』


「皆、同じになってきた」


『嫌か?』


「少し変」


『そうか』


 通信が切れた。


 部屋へ戻った静けさの中で、少年はしばらく自分の手を見ていた。


「先生、まだ見つかってないんだな」


「ああ。死んだという情報もないし、捕まったという情報もない。逃げ続けている可能性は高い」


「俺を置いて?」


 昨日と同じ問いだった。


 けれど、昨日より声は静かだった。


「結果としては、今ここにいない」


「俺を守るために離れたのかもしれないし、本当に捨てたのかもしれない。……どっちも嫌だ」


「そうか」


 少年は少しだけ俺を見る。


「そこは『分かる』って言わないんだ」


「俺がお前と同じ立場だったわけじゃないからな」


「でも、お前も父上に捨てられたかもしれないんだろ?」


「ああ」


「じゃあ、少しくらいは似てる?」


「少しくらいならな」


 少年は少し考えてから、「変なの」と呟き、窓の外へ視線を向けた。


          ◇◇◇


 午後の薬を飲む時間が近づいた頃、今度はアンナマリーから連絡が入った。


 ただし、彼女は三〇八号室へ直接繋がなかった。先にエルへ「少年へ話してよい内容か確認してほしい」と伝えてきたらしい。


「何の話?」


 少年が聞く。


『アンナマリーさんから、三〇八号室にいるあなたの存在について、情報をどこまで共有してよいか確認したいとのことです』


 少年の顔が変わる。


「今、俺のことを知ってるのは誰?」


『詳細を知っている者は限定されています。療養所内の保護担当者、アル様、セリーさん、ブラットさん、フェリクスさん、ガルム隊長、必要な近衛、塔側の一部です。王宮へはこちらから新たに伝えていません』


「父上にも?」


『はい』


「町は?」


『三〇八号室に特別な保護が必要な患者がいることまでは共有されています。ただし、名前、王太子を名乗っていること、アル様と同じ名前であることは共有していません』


 少年は少し黙った。


「何でアンナマリーが今それ聞くの?」


『リュネの町側で受け入れ準備を進める際、人数、年齢層、必要な医療対応などの確認が必要だからです。また、王宮文書の照合をする場合、あなたの存在をどこまで王都側へ伏せるかも決める必要があります』


「じゃあ、俺のことを王宮に言うかどうかって話?」


『はい。ただし、まだ何も決めていません』


 少年の視線が俺へ向く。


「アルは父上に言いたい?」


 答える前に、一度考える。


「聞きたいことは増える。父上がお前を知っていたのか、手紙を書いたのか、王宮側にどんな記録があるのかも知りたい」


「じゃあ言えばいいじゃん」


「お前が嫌なら、今すぐは言わない」


「でも、それだと調査が遅れる。先生も逃げるし、王宮に先生の仲間がいたら証拠を消すかもしれない」


「そういう可能性はある」


「じゃあ早く言った方がいいだろ」


 少年はそこまで言ったあと、急に口を閉じた。


 赤い布に包まれた手紙へ視線が落ちる。


「……でも、父上に知られたら迎えに来る?」


「分からない」


「兵士を連れてきて、俺を王宮へ連れていくかもしれない?」


「可能性はある。ただ、お前が行かないと言ったら、少なくとも俺は無理に連れていかせない」


「父上が命令しても?」


「それでもだ」


「王様なのに? お前、今は元王子だろ。権力で負けるんじゃないの?」


 思ったより難しい問いだった。


「俺一人なら、父上の命令に対抗できない場面もあると思う」


「じゃあ駄目じゃん」


「だから、一人で守るとは言わない」


「誰がいるの?」


「ガルムたち近衛、塔、町側の記録、それに証拠を持っている複数の人間。お前自身が何を望んでいるかも記録として残す」


「それで勝てる?」


「勝つためじゃない。誰か一人の都合で、お前の存在や意思を勝手に消せなくするためだ」


 少年が黙る。


「一人が『連れていく』って決めても、別の人間が『本人は嫌だと言っている』って記録を出せる。一人が『そんな患者はいない』と言っても、別の場所に記録が残る。そういう状態を作る」


「面倒だな」


「ああ。でも一人だけが全部決めるよりはましだ」


 少年は少し考えた。


「それなら、俺をいなかったことにされにくい?」


「そうしにくくできる」


「父上でも?」


「父上でも」


 そこで少年は、赤い布に包まれた手紙を見た。


「父上には……知られたい」


 俺は何も挟まない。


「でも、今すぐ知られるのは嫌だ」


「ああ」


「何でだと思う?」


「俺に聞く?」


「うん」


「迎えに来てほしい気持ちと、本当に来られたら怖い気持ちが両方あるんじゃないか?」


 少年は長く黙った。


「……たぶん」


「なら、両方あっていい」


「王子なのに?」


「王子でも」


「父上なのに?」


「ああ」


 少年は少し肩を落とした。


「じゃあ、どうすればいい?」


「いくつか選択肢を出そうか。今すぐ父上まで知らせる。王宮の一部だけへ文書照合を頼む。王宮へは知らせずに町と塔だけで記録を分散する。あるいは、しばらく何も外へ出さない」


「四つか。もっとある?」


「あると思う。でも増やしすぎると、逆に決めにくいだろ」


 少年が少しだけ目を細める。


「お前、分かってきた」


「何を」


「選択肢いっぱい出せばいいわけじゃないって」


 言われて、少し止まった。


「そうだな」


「俺が教えた?」


「少しな」


 少年が僅かに笑った。


「じゃあ今は、町と塔には残す。近衛も知ってていい。でも王宮にはまだ言わない」


「分かった」


「ただ、古い印は調べたい。王宮に言わないでできる?」


 ブラットを見る。


 彼は少し考えてから答えた。


「古の塔へ持ち込まれている王家関係資料と、私自身の記憶だけでは足りない可能性があります。ただ、王都へ直接照会せずに確認できる文書がないか、アンナマリーさんと探すことはできます」


「時間かかる?」


「王宮へ直接問い合わせるよりはかかるでしょう」


「その分、秘密にできる?」


「完全な秘密とは言えません。調査する人が増えれば、それだけ知られる可能性も上がります」


 少年はまた少し考えた。


「アンナマリーは?」


「俺は信用できると思ってる」


「お前の元婚約者だろ」


「そうだ」


「王宮側の人?」


「今は俺たちと協力してる」


「俺のこと、どこまで知ってる?」


「三〇八号室に特別な患者がいることまでは。詳しいことはまだ全部伝えてない」


「じゃあ、名前は言っていい」


「アンナマリーに?」


「うん。ただ、俺が王太子だって言ってることはまだ言わない。父上の手紙があることは言っていいけど、中身は駄目。血統反応も嫌だ」


「分かった」


『共有条件を記録します』


 エルが落ち着いた声で続ける。


『アンナマリーさんへは、三〇八号室の本人がアルフォンスの名を使用していること、父王から届いたと本人が認識する手紙が存在することのみ共有可能。王太子を名乗っていること、血統反応、薬剤による増幅、手紙内容、自己防衛命令については現時点で共有しない』


 少年が少し顔をしかめる。


「長い」


『短縮しますか』


「そのままでいい」


「好きだな、それ」


 俺が言うと、少年が少しむっとした。


「後で『そんなこと言ってない』ってされたくない」


「分かる」


「先生は言ったこと変えたから」


 その一言で、部屋の空気が少し変わった。


「何を?」


「最初は、父上はもうすぐ来るって言った。次は王宮が危ないから待てって言った。そのあと、偽物がいるから出られないって言った」


 偽物というのは、おそらく俺のことだろう。


「俺が何回聞いても、先生は言ったことを変えた。記録も先生が持ってたから、俺には確かめられなかった」


「だから、自分の言ったことを残したいのか」


「うん。あとで変えられないように」


 それなら、少年が記録へ執着する理由にも少し違う意味が見えてくる。


 自分の発言を証拠として残したい。


 相手が後から内容を変えられないようにしたい。


 信頼の代わりに記録へ頼っている部分があるのかもしれない。


 でも、それを悪いことにする必要はない。


「今は記録を使えばいい。ずっと必要なら、ずっと使ってもいい」


「お前は嫌じゃない?」


「少し寂しい時はある」


「何で?」


「俺の言葉だけじゃ足りないってことだから」


 少年が俺を見る。


「怒る?」


「怒らない。今まで嘘をつかれたり、言ったことを変えられたりしたなら、証拠が欲しくなるのも少しくらいは分かる」


「少しくらい?」


「ああ」


 少年はしばらく俺を見たあと、エルへ向かって言った。


「今のも記録して。アルが、記録を残しても怒らないって言ったところだけ」


『記録しました』


「そこだけでいいのか?」


「全部残すと多い」


 思わず笑った。


「分かってるじゃないか」


「お前よりは」


「それはどうかな」


          ◇◇◇


 アンナマリーへは、少年が許可した範囲だけを伝えた。


 通信は俺とブラットがいる廊下で行い、少年は部屋の中から聞くだけにするつもりだった。自分の声を直接聞かせるのは、まだ嫌だと言っていたからだ。


『承知しました』


 許可範囲を聞いたアンナマリーは、それ以上の質問をしなかった。


『では、私が扱う情報は、その方がアルフォンスというお名前を使っていることと、父王陛下から届いたと本人が認識している手紙が存在すること。この二点ですね。王太子を名乗っているかどうか、血統、薬、手紙の内容については知らないものとして扱います』


「頼む」


『古い王家印については、王宮へ直接問い合わせずに確認できる資料を先に探します。古の塔へ移した文書、ブラットさんの保管記録、それからリュネ側へ残る王家発給文書も比較対象にできるかもしれません』


「リュネの文書?」


『六年前前後に王宮から領主府へ送られた正式文書が残っていれば、同時期の印を比較できます』


 ブラットが頷く。


「それなら本人の存在を王都へ知らせずに比較できます。ただし、同じ時期でも使用印が違う可能性はあります」


『はい。ですから一致しなかった場合も、それだけで偽物とは判断しません』


 そこで、部屋の中から少年の声がした。


「アンナマリー」


『はい』


 彼女の声が少し柔らかくなる。


「聞こえてる?」


『聞こえています』


「俺の名前……アルフォンスって呼んでいい」


『では、アルフォンスさんとお呼びします』


 少年は少し黙ったあと、小さく返事をした。


「うん。それでいい」


『分かりました』


「変じゃない? アルフォンスが三人いるんだぞ」


『呼び分けには少し困りそうですね』


「嫌じゃない?」


『同じお名前の方が複数いることですか?』


「うん」


『それだけで、誰か一人が消えた方がよいとは思いません』


 少年は黙った。


「アルと同じこと言う」


『そうですか?』


「影響された? 元婚約者だから?」


 通信の向こうが一瞬静かになった。


「おい」


 俺が思わず口を挟む。


「何」


「そこ拾うのか」


『アル様』


「俺じゃない」


『分かっています』


 アンナマリーの声には、僅かに笑いが混じっていた。


『ですが、今は元婚約者だからというより、私自身がそう思っています』


「自分で?」


『はい』


「……分かった」


 少年はそれ以上聞かなかった。


『アルフォンスさん。古い印を調べるために、手紙そのものをこちらへ持ってきていただく必要はありません。まずは比較資料を探します』


「俺の手紙、取らない?」


『取りません』


「じゃあ、それも記録」


『エルさん、お願いします』


『記録しました』


 少年が少しだけ笑う。


「アンナマリーも記録使うんだ」


『便利ですので』


「ガルムと同じ」


『それは光栄……なのでしょうか』


「たぶん違う」


 ブラットが耐えきれずに顔を逸らした。


          ◇◇◇


 夕方近くになって、旧保養施設から二度目の連絡が入った。


 今度はガルムではなく、リディアからだった。


 内容区分だけを先に伝えるという約束通り、エルが少年へ確認する。


『内容は「記録」と「患者」です。人がいた可能性はありますが、現在、死亡情報はありません。聞きますか?』


 少年は少し考えたあと、頷いた。


「聞く」


 通信が繋がる。


『こちらリディア。旧保養施設内部へ入りました。入口に認識阻害、地下へ続く階段に警報術式がありましたが、解除済みです。ただし、地下の奥はまだ確認していません』


「患者は?」


 俺が聞く。


『二階の一室に、人がいた形跡があります。寝台が一つ、食器が一人分。毛布もまだ少し温かいので、私たちが入る前に誰かが移動した可能性があります』


 少年の顔が強張る。


「先生と一緒に?」


『そこまでは分かりません。寝台の大きさだけでは年齢も判断できず、名前が分かる物もまだ見つかっていません』


 リディアは決めつけない。


 少年も、それ以上急いで聞かなかった。


『記録については、燃やされた紙片を保全しました。遠目で確認した限りでは三〇八号室の番号はありません。ただ、一枚に「〇二」という数字が残っています』


 俺とブラットの視線が重なる。


「AG?」


『その前半は焼けています』


 少年が俺を見る。


「銀の鍵にも02ってあった」


「ああ」


「同じもの?」


「可能性はある。でも、まだ分からない」


「またそれか」


 少年は不満そうな顔をしたが、今度は「一個くらい決めろ」とは言わなかった。


「ガルムは?」


『地下入口を確認中です。レイハン本人も、まだ見つかっていません』


「分かった。続きも聞く。新しい情報が出たら、また種類を先に言って」


『承知しました』


 通信が切れた。


 部屋の中には、夕方の薄い光が差し込んでいた。


 少年は窓へ向かう。


 今日は自分から「開けたい」とは言わなかった。ただ、硝子越しに外を見る。


「02って、保存槽の子のことかな」


「決めるなよ」


「分かってる」


 すぐに返ってきた。


 俺の方が少し驚く。


「何」


「いや、もう一回言う前に自分で止めたなと思って」


「言われなくても分かる。何でもすぐ決めるなって、何回も言われたから」


「成長したな」


「子供扱いするな」


「セリーが言ってたぞ。成長は年齢に関係ないって」


「それ、お前が使うんだ」


「便利だった」


 少年が少し笑う。


 けれど、すぐに窓の外へ視線を戻した。


「もし、あそこにまた誰かいたら、その人も自分で選べる?」


「何を?」


「名前とか、呼ばれ方とか、どこに行くかとか。俺みたいに」


 昨日まで自分が選び始めたものを、今度は別の誰かへ当てはめようとしている。


「選べる状態ならな」


「選べないくらい弱ってたら?」


「先に安全を確保する。そのあとで、分かる範囲の情報を渡して、決められるようになるまで待つ」


「じゃあ勝手に王宮へ送らない?」


「ああ」


「先生のところにも?」


「ああ」


「でも、その人が先生のところに行きたいって言ったら?」


 少し難しい問いだった。


「危険があるなら、まず何が危険かは説明する。それでも行きたいと言った場合は、安全に行ける方法があるか考える」


「俺が先生のところへ行きたいって言ったら?」


「今のレイハンへ一人で行くのは止める」


「それって、選ばせてないじゃん」


「危険すぎる選択を、そのまま本人へ放り投げることと、選ぶ権利を守ることは同じじゃない」


「難しい」


「俺もそう思う」


「じゃあ、先生に会いたいって言ったらどうする?」


「安全に会える方法を考える」


「先生が嫌がったら?」


「レイハンにも選ぶ権利はある。でも、人を傷つけた責任や、逃げ続けている責任まで自分で選んで消せるわけじゃない」


 少年は少し黙った。


「じゃあ俺も? 俺の中に、お前を攻撃する命令が残ってるかもしれない。もし俺がお前を攻撃したら、全部俺の責任?」


「その時は、お前が自分の意思でやった部分と、誰かに命令されて動かされた部分を分けて調べる。全部レイハンのせいにも、全部お前のせいにも、最初から決めない」


 少年は長く黙ったあと、小さく息を吐いた。


「やっぱり面倒」


「今日何回目だ」


「でも……少しだけ、面倒でいいかもしれない」


「そうか」


 それ以上は聞かなかった。


          ◇◇◇


 夕食前、少年はもう一度アンナマリーへの共有条件を確認した。


 名前は伝えてよい。


 父王から届いたと本人が認識する手紙の存在も伝えてよい。


 王太子を名乗っていることはまだ駄目。


 血統反応も駄目。


 薬の詳細も、手紙の内容も、俺への自己防衛命令も、父上へ直接知らせることも、まだしない。


「これ、あとで変えたくなったら変えられる?」


「ああ。明日、もっと話していいと思ったら範囲を広げられる」


「逆に、やっぱり全部嫌って思ったら?」


「これから先の共有は止められる。ただ、もうアンナマリーへ伝えた名前までは消せない」


 少年の顔が少し強張る。


「エルでも?」


『記録自体は削除できますが、人の記憶を本人の同意なく消すことは推奨しません』


「じゃあ、一回言ったら戻らないこともあるんだ」


「ああ」


 少年はしばらく考えた。


「そういうの、先に言って」


「戻せないことは戻せないって?」


「うん。選ぶ前に知りたい。昨日、父上へ俺のことを言うって決めてたら、もう戻せなかったんだろ」


「ああ」


「……怖いな、選ぶの」


「そうだな」


「でも、選ばないと何も決まらない」


「選ばないって選択もある」


「ずるい」


「便利だろ」


 少年が俺を見る。


「お前、それ好きだな」


「お前も使うようになっただろ」


「使ってない」


「今使った」


「記録するなよ」


『記録していません』


「エルが勝手に分かってきてる」


『本人の希望傾向を反映しています』


 少年が少し笑った。


 選ぶことは自由だ。


 けれど、選択には戻せないものもある。


 誰かへ名前を伝えれば、その人の記憶から完全には消せない。手紙を開けば、開く前には戻れない。


 だから、選ばせればいいだけではない。


 選んだあとに何が変わるのか、どこまで戻せるのか、何が戻せないのか。それも一緒に渡さなければ、選択肢はただの形になる。


「アル。明日、アンナマリーに俺の声、聞かせてもいいかもしれない」


「分かった」


「かもしれないだけだからな。約束じゃない」


「ああ」


「そこまで記録して」


『「明日、アンナマリーさんへ本人の声を聞かせる可能性があるが、現時点では未決定。約束ではない」と記録しました』


「それでいい」


 少年は満足したように頷いた。


「ガルムの続きも聞く。ただ、今まで通り種類を先に教えて。02と先生と患者は聞く。王宮の話は……明日決める」


「分かった」


 夕方の光は、もうかなり薄くなっていた。


 昨日なら、この時間には薬の量も、眠る場所も、誰を近くへ置くかも、全部誰かに決められていた。


 今日は違う。


 手紙を誰へ見せるか、自分の名前を誰へ伝えるか、王宮へ存在を知らせるか。逃げたレイハンの情報をどこまで聞くかも、一つずつ本人が決め始めている。


 全部ではないし、途中で止めてもいい。


 明日へ回してもいい。


 そうやって少年は、自分の外側へ伸びていく情報の範囲まで、少しずつ選び始めていた。


「アル」


「何だ」


「俺のこと、勝手に広めるな」


「ああ」


 少年は赤い布へ手を置き、少しだけ考えてから続けた。


「でも、誰にも言わないまま、俺をいなかったことにもするな」


 今度は迷わず答えた。


「ああ」


 少年はそれ以上言わなかった。


 俺も余計な言葉を足さない。


 誰にも知らせないことと、存在を隠して消すことは同じではない。皆へ知らせることと、本人を守ることも同じではない。


 その間には、いくつもの選び方がある。


 だから今は、三〇八号室にいる少年が自分の名前をどこまで外へ出すのか、誰に知ってほしいのか、誰にはまだ知られたくないのか。その境界を、本人と一緒に作っていけばいい。


 昨日まで番号だけで管理されていた少年は今日、自分の名前を一人だけ外へ渡した。


 アンナマリーへ。


 それも、誰かから命じられたのではなく、自分の意思で。


 自分がここにいることを誰に知らせるのかまで他人に決められてきた少年にとって、それは決して小さな選択ではなかった。

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