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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第31話 父上から届いたという手紙を、一枚だけ本人と一緒に開くことにしました


 白鴉療養所の窓が、夜の黒ではなく薄い灰色を映し始めた頃、三〇八号室の少年は二度目の眠りからゆっくり目を覚ました。


 山の向こうから朝日が昇るにはまだ少し早い。窓の隙間から入り込む風には夜の冷たさが残り、遠くでは目を覚ました鳥が一羽だけ鳴いている。療養所の廊下もまだ静かで、夜番から朝番へ交代する近衛の足音が、ときおり床の向こうから小さく伝わってくる程度だった。


 俺とセリーは、少年が自分で指定した四歩の距離を保ったまま椅子へ座っていた。


 結局、俺はほとんど眠っていない。途中で一度くらいは目を閉じたと思うが、どれほど眠れたのかは自分でも分からなかった。セリーも寝台へ戻らず、何度か俺へ休むよう勧めたあと、最後には半ば諦めたように隣の椅子へ座っていた。


「……朝?」


 毛布の中から、まだ眠気の残る声が聞こえる。


「ああ。もうすぐ明るくなる」


「お前、まだいる」


「朝までいるって約束しただろ」


 少年はしばらく俺を見つめた。


 昨日までなら、すぐに「記録を見せろ」と言っていたかもしれない。けれど今朝は、何かを思い出すように眉を寄せたあと、小さく息を吐いた。


「……そうだった」


 それだけだった。


 記録を確認しなくても、自分が交わした約束を自分で思い出した。そのことに胸の奥が僅かに動いたが、今ここで意味をつける必要はないと思い、俺は何も言わなかった。


「身体はいかがですか?」


 セリーが静かに尋ねる。


 少年は毛布から腕を出し、自分の指をゆっくり開いたり閉じたりした。昨夜より動きが鈍いようにも見えるが、本人がどこまでそう感じているかは別だ。


「少し重い」


「頭痛はありますか?」


「ない」


「胸の苦しさは?」


「ない」


「吐き気は?」


「ない」


「昨日より、覚えていないことはありますか?」


 その問いだけは、少年もすぐには答えなかった。


 寝台の脇へ視線を移す。


 赤い布に包まれた手紙。


 白い薬の残りを入れた本人認証の保管箱。


 水差し。


 朝まで残しておくと決めた焼き菓子。


 一つずつ確かめるように見てから、少年はようやく口を開いた。


「昨日、薬を減らした」


「はい」


「白を四分の一」


「はい」


「紫と青は飲んでない」


「はい」


「夢を見て」


 そこで少年が俺を見る。


「アルって呼んだ」


「ああ」


「……覚えてる」


 言った本人が、少し驚いたように瞬きをした。


「忘れてない」


「今のところはな」


「父上も」


 赤い布へ視線が落ちる。


「覚えてる」


「ああ」


「先生も」


 そこで声が少しだけ低くなった。


「覚えてる」


 レイハンを忘れていないことが、少年にとって安心なのか、それとも苦しいのか。俺にはまだ判断できないし、本人自身も分けられていないのかもしれない。


 だから俺は、どちらとも決めつけなかった。


「白い薬を減らしたからといって、すぐに記憶が全て戻ったり、逆に全て失われたりするとは限りません」


 セリーがゆっくり説明する。


「今日も身体の状態を見ながら、次にどれくらい飲むかを相談しましょう」


「また俺が決める?」


「一緒に、です」


「全部は?」


「全部を一人で決める必要はありません。分からないところや、今は決めたくないことは、そう言っていただいて構いません」


 少年は少し考えたあと、枕へ背を預けた。


「それ、昨日も言った?」


「似たことは言った」


「じゃあ覚えてる」


「よかったですね」


「まだ分からない」


「そうですね」


 セリーが無理に喜ばなかったことに、少年は少しだけ目を細めた。


 記憶が残っていた。


 だから良くなっている。


 そう簡単に決められる話ではないと、セリーも分かっている。


          ◇◇◇


 朝食の案内については、夜のうちに療養所の患者と職員へ確認を取っていた。


 大きな鐘の音は嫌だという者が多かったため、エルが各階へ小さな木琴のような柔らかい音を流すことになった。音量は部屋ごとに調整できるようにしてあり、聞きたくない者は消せる。


 最初の案内音が流れた時、少年は反射的に少し身体を固くした。


 けれど、音がすぐ消えると俺を見る。


「これ?」


「ああ。朝食の案内」


「昨日決めたやつ」


「皆に聞いてな」


「面倒だった?」


「かなり」


「でもやった?」


「ああ」


「変なの」


 少年はそう言いながらも、嫌そうではなかった。


 セリーが廊下へ出る前に、朝食について尋ねる。


「こちらへお持ちしますか。それとも食堂へ行きますか?」


「食堂?」


「昨日、他の患者さんたちが集まっていた場所です」


「人、多い?」


「今朝はまだ分かりません」


「兵士も?」


「近衛の方はいますが、鎧は着ていません」


「ドーラは?」


「いる可能性があります」


 その名前を聞いた途端、少年の表情が少し硬くなる。


「ここ」


「分かりました」


「でも」


 少し迷ってから、少年は続ける。


「パンは?」


「ございます」


「焼き菓子も?」


「昨日残したものがあります」


「花」


「はい」


「それ食べる」


「朝食のあとにしますか?」


「先」


「胃の状態を考えると、少し何か食べてからの方がよいと思います」


「昨日は薬のあとに食べた」


「昨日は、薬の苦味を消すためでした」


「今日は駄目?」


「絶対に駄目ということではありません」


 少年が俺を見る。


「アルは?」


「俺に聞く?」


「どっちがいい」


「俺なら、パンを少し食べてから菓子にする」


「何で」


「腹が空いてる時に甘いものだけ食べると、あとで胃が重くなることがある」


「絶対?」


「人による」


「またそれ」


「ああ」


 少年は少し考えてから、自分なりの答えを出した。


「パン半分」


「はい」


「それから花」


「分かりました」


 セリーが部屋を出る。


 扉を閉める前に、もう一つだけ振り返った。


「ドーラさんと薬についても確認してまいります」


 少年の目が僅かに動く。


「一緒に来る?」


「薬を持ってくる時は、昨日の約束通り私と一緒です」


「顔は?」


「見せません」


「……分かった」


 扉が静かに閉じた。


 部屋には俺と少年だけが残る。


 完全に二人きりというわけではない。廊下には近衛もいるし、エルも危険反応だけは確認している。


 それでも昨日より、少し静かだった。


「アル」


「何だ」


「お前、朝ご飯食べる?」


「ああ」


「ここで?」


「お前が嫌じゃなければ」


「何で俺の部屋で食べる」


「昨日、朝までいるって約束したから、そのままいるだけだ」


「約束は朝まで」


「もう朝だな」


 少年が窓を見る。


 灰色だった空は少しずつ白くなり、窓の端には山の輪郭が浮かび始めている。


「じゃあ、帰る?」


 言葉だけなら、帰ってほしいようにも聞こえる。


 けれど声は少し違った。


「塔へ?」


「ああ」


「帰ってほしい?」


 少年は答えなかった。


 俺も急かさない。


 外では、低い朝の案内音が別の階へ流れている。どこかの部屋の扉が開く音がして、少し遅れて人の声が聞こえた。


「手紙」


 やがて少年が言う。


「今日見る」


「ああ」


「お前、いた方がいい」


「分かった」


「だから」


 顔を逸らす。


「朝は、まだいろ」


「ああ」


 それだけで十分だった。


          ◇◇◇


 朝食は、柔らかな白パンと薄い野菜スープ、それから少量の煮た果物だった。


 少年はパンを半分だけ食べると言っていたが、実際には四分の一ほどで手を止めた。


「もういい」


「分かりました」


 セリーは残りをすぐに下げようとはせず、皿の端へ寄せる。


「あとで食べたくなったら、そのまま残しておきます」


「捨てない?」


「昼までなら大丈夫です」


「じゃあ残す」


 次に花形の焼き菓子を取る。


 昨日選んだ、「一番ましな失敗した花」。


 片側の花弁が少し潰れている。


 少年はしばらく眺めたあと、端から小さく齧った。


「昨日より柔らかい」


「保管方法を変えました」


「セリーが?」


「はい」


「失敗じゃない?」


「形は失敗です」


「言うんだ」


「本人が失敗した花を選びましたので」


 少年は少し笑い、もう一口食べた。


 その間に、扉の外からドーラの声が聞こえる。


「薬を持ってきました」


 少年の笑いが止まった。


「セリーと?」


「はい」


 セリーが答える。


「入っていいのはセリーだけ」


「分かりました」


「ドーラは昨日と同じ」


「扉の外にいます」


 少年が頷く。


 セリーだけが小さな箱を持って入ってきた。


「今朝の白い薬についてですが、フェリクスさんは昨夜と同じ四分の一を続ける案を出しています」


「青と紫は?」


「今朝も使わない案です」


「身体は?」


「今のところ大きな異常はありません。ただし、白い薬を急にゼロへする危険はまだ残っています」


「四分の一で、父上忘れてない」


「はい」


「先生も」


「はい」


「なら同じでいい」


「それを希望しますか?」


「うん」


「分かりました」


 エルが本人の希望として記録する。


 少年は昨日より少しだけ早く決めた。


 それが慣れなのか、安心なのか、それとも今朝は迷いが少なかっただけなのか。まだ分からない。


 けれど、何でも大きな意味へ結びつける必要はなかった。


「薬のあと」


 少年が焼き菓子を見る。


「残り食べていい?」


「少し時間を空けてからにしましょう」


「昨日より厳しい」


「昨日は昨日、今日は今日です」


「面倒」


「身体も毎日同じではありません」


「アルも言いそう」


「俺?」


「今の」


「言わない」


「言う」


「どうだろうな」


 少年が少しだけ得意そうな顔をした。


 ドーラは扉の向こうで何も口を挟まない。


 昨日までは薬を持ってくること自体を拒否されていた。


 今朝は、セリーと一緒なら持ってきてもいいと言われた。


 それは許したということではない。


 顔を見せるなという条件も変わっていない。


 だから、こちらから意味を膨らませる必要もなかった。


          ◇◇◇


 手紙を見る話になったのは、朝食から一時間ほど経ってからだった。


 急がなかったのは、薬の影響を確認するためでもあり、少年自身が「先に食べたい」と言ったからでもある。


 今までの俺なら、何かを調べるとなれば食事も休息も後回しにしていただろう。


 少なくとも、自分のことならそうしていた。


「主様」


「何だ」


「今、ご自分のことを反省しましたね」


「何で分かる」


「顔です」


「そんなに出てる?」


「以前よりは」


 少年が俺を見る。


「何が」


「アルは、すぐ調べる?」


「前はな」


「今は?」


「少し待てるようになった」


「誰に言われた」


「いろんな奴に」


「セリー?」


「かなり」


「ブラット?」


「まあ」


「ガルム?」


「あいつにも」


「弱い」


「何でそうなる」


 少年が笑う。


 昨日より少しだけ声が出た。


 その笑いが収まってから、少年は赤い布へ手を伸ばした。


「見る」


「ああ」


「一枚だけ」


「ああ」


「俺が選ぶ」


「ああ」


「勝手に触るな」


「触らない」


「エルも」


『本人の許可なく走査しません』


「セリーも」


「はい」


「フェリクスは」


 扉の外から声が返る。


「呼ばれた場合のみ確認します」


「聞いてたのか」


「廊下にいますので」


「研究者、どこにでもいる」


「必要な場所におります」


「変」


「もう慣れました」


 少年が赤い布をほどく。


 中には何通もの手紙が、薄い紐でまとめられていた。


 紙の色も違う。


 封蝋の色も少しずつ違う。


 書かれている日付も同じではない。


 少年はこれまで「父上から一か月に一度届く」と話していたし、薬品室の帳簿にも、ほぼ同じ周期で手紙を渡された記録が残っていた。


「何枚?」


「数えたことない」


「数えなくてもいい」


「でも」


 少年は束を見つめる。


「減ってたら」


「誰かが取ったか分かりにくい?」


「ああ」


「じゃあ、今数える?」


「数えたい」


 それは調査のためではなく、自分の持ち物を自分で確かめるためだった。


「エル、数だけ一緒に確認していいか?」


『本人の許可が必要です』


 少年が頷く。


「数だけ」


『承知しました』


 触れずに、外から重なりを確認する。


『全二十三通です』


「二十三」


 少年が繰り返す。


「昨日まで何通だった?」


「分からない」


「なら、今日から二十三通って覚えればいい」


「減ったら?」


「記録で分かる」


「増えたら?」


「それも分かる」


「先生が入れたら?」


「本人の許可なく、この束へ触れないようにできる」


 少年が俺を見る。


「手紙も箱?」


「嫌ならしない」


「今は」


 少し考える。


「このまま」


「ああ」


「でも誰も触るな」


「分かった」


『本人希望として記録しました』


 少年は二十三通の中から一つを選び始めた。


 すぐには決めない。


 一枚取っては戻し、別の封筒へ触れて、また戻す。


 手紙を選ぶだけなのに、指先には僅かに力が入っていた。何度も読んだはずの手紙なのに、今日は意味が違うのだろう。


 これまでは「父上から届いたもの」として読むだけだった。


 今日は、それが本当に父上から届いたのかを確かめるために選ぶ。


「日付で選ぶ?」


 俺が尋ねる。


「黙って」


「悪い」


 それからしばらくして、少年の指が一通の封筒で止まった。


「これ」


「理由は?」


「言わない」


「ああ」


「聞かない?」


「お前が言いたくないなら」


 少年が少しだけ驚いた顔をした。


「でも、調べるんだろ」


「理由が調査に必要になったら、その時聞く」


「今は?」


「封筒を見る」


「……分かった」


          ◇◇◇


 選ばれた手紙は、他のものより少し古かった。


 封筒の表には、少年の名前が書かれている。


 アルフォンス・ガイゼン。


 成人した俺が知る父上の筆跡と似ているようで、どこか違うようにも見えた。


 けれど、それを口にする前に、少年がこちらを見る。


「見るだけ」


「ああ」


「まだ触るな」


「分かった」


「ブラット呼ぶ」


「いいのか?」


「王宮の字、分かるんだろ」


「ああ」


「フェリクスは」


 少し迷ったあと。


「あと」


「分かった」


「セリーはここ」


「はい」


「エルは記録」


『承知しました』


 ブラットが呼ばれる。


 部屋へ入る前に、少年へ距離を確認した。


「どこまで近づいてよろしいでしょうか」


「六歩」


「分かりました」


 ブラットは入口から六歩の位置で止まった。


 今ここで求められているのは、護衛としての働きではない。


 元側近として、王宮文書を長く見てきた者としての知識だった。


「これ」


 少年が封筒を示す。


「父上の字?」


 ブラットの表情が僅かに変わった。


 けれどすぐには答えない。


「もう少し近づいてもよろしいでしょうか」


「四歩まで」


「ありがとうございます」


 二歩だけ進む。


 封筒へ顔を寄せることはせず、距離を保ったまま目を凝らす。


「……似ています」


「本物?」


「まだ、そうは言えません」


 少年の眉が寄る。


「何で」


「国王陛下の筆跡は、王宮内でも複数人が模写できました」


「何でそんなことする」


「代筆です。儀礼文書や大量の定型文書では、陛下ご本人が全てを書かれるわけではありません」


「父上じゃなくても書ける?」


「見た目だけなら」


 少年の顔が強張る。


 ブラットはその変化を見て、一度言葉を止めた。


「ですが、だから偽物という意味でもありません。陛下ご本人が書いた可能性も残っています」


「印は?」


「封蝋を確認する必要があります」


 少年が封筒を裏返す。


 深い赤色の封蝋。


 王家の印。


 翼と剣。


 俺も何度も見てきた形だった。


「これも本物?」


 ブラットは今度も断定しない。


「形は正しいです」


「形だけ?」


「王宮印には複製防止の魔力処理があります。それを見れば、もう少し情報が増えます」


「誰が見る」


「エルかフェリクスです」


「どっちがいい」


 少年が俺へ聞く。


「エルなら非接触で見られる」


「フェリクスは?」


「詳しく見るなら役に立つ。でも、少し近づく必要があるかもしれない」


「じゃあエル」


『承知しました。封蝋表面のみを走査します。内容には触れません』


「やれ」


 青い光が封蝋へ当たる。


 少年の指が少し強く封筒を握った。


『王家印に近い魔力構造を確認しました』


「近い?」


『完全一致ではありません』


 部屋の空気が変わる。


 ブラットの表情が僅かに硬くなり、セリーも封蝋から少年の顔へ視線を移した。


「偽物?」


 少年の声が震える。


『断定できません』


「何で」


『王家印は、使用時期、保管場所、使用者により微細な差があります。今回の印は現行王家印とは一致しません。ただし、古い登録印との照合が必要です』


「いつの?」


「この手紙の日付なら」


 ブラットが答える。


「六年前以前の王家印と比較する必要があります」


「父上が使ってた?」


「可能性はあります」


「じゃあ本物かもしれない」


「ああ」


「偽物かもしれない」


「ああ」


「何も決まらない」


 少年が苛立ったように封筒を見る。


「一個くらい決めろよ」


 その言葉は、俺自身にも少し刺さった。


 昔の俺なら同じように思ったかもしれない。調べるなら答えを出せ。曖昧なまま残すくらいなら、何のために調べるのかと。


「今日、一枚だけ見るって決めたろ」


「そうだけど」


「なら今日は、それでいい」


「また先にする」


「ああ」


「でも」


 少年が俺を見る。


「逃げてない?」


「逃げてない」


「何で」


「調べる場所が増えたからだ」


「古い印?」


「ああ」


「筆跡の元の文書も?」


「ああ」


「差出した場所も?」


「そこも」


 少年は唇を噛む。


「面倒」


「かなり」


「父上の手紙なのに」


「大事だからだ」


          ◇◇◇


 封筒を開けるかどうか。


 そこで一度止まった。


 少年自身も迷っている。


「今まで読んだ?」


「何回も」


「なら、中身は覚えてる?」


「……たぶん」


「今また開ける?」


 少年の指が封を撫でる。


「開けたら」


「何だ」


「偽物って分かるかもしれない」


「ああ」


「本物って分かるかもしれない」


「ああ」


「どっちも嫌」


 その言葉に、俺はすぐ返さなかった。


 昨日までなら、少年はこんな言い方をしなかったかもしれない。本物なら喜ぶ。偽物なら怒る。それだけではなくなっている。


 本物なら本物で、手紙の内容まで受け入れなければならない気がする。


 偽物なら偽物で、何年も信じてきた父上との繋がりが崩れる。


 どちらも怖い。


 そういうことなのだろう。


「じゃあ今日は外だけでやめる?」


「それも嫌」


「どうしたい」


「分からない」


「ああ」


「何でお前は平気なんだ」


「平気じゃない」


「でも待てる」


「最近覚えた」


「誰に」


「セリーたちに」


 セリーが少し笑う。


「では、主様も成長中ですね」


「子供みたいに言うな」


「成長は年齢に関係ありません」


 少年が二人を見て、少しだけ笑った。


「変なの」


 それから再び封筒へ視線を戻す。


「開ける」


「ああ」


「でも俺が」


「ああ」


「誰も触るな」


「分かった」


 少年自身が封を開ける。


 乾いた紙の擦れる音が、静かな部屋の中で妙に大きく聞こえた。


 中から一枚の厚い白紙が現れる。


 古い折り目。


 王家の透かし。


 少年がそれを広げる。


 俺はまだ読まない。


「何で見ない」


「まだ許可されてない」


 少年が少し止まる。


「……見る?」


「いいのか?」


「お前とブラット」


「セリーは?」


「見る」


「エルは?」


「記録する」


「フェリクスは?」


 少し考える。


「まだ」


 自分で決める。


 その一つ一つを、誰も急かさない。


「分かった」


 俺たちは初めて、その手紙の中身を見る。


 最初の一行。


『愛する息子アルフォンスへ』


 それを目にしただけで、胸の奥が痛んだ。


 少年が俺を見る。


「何」


「何でもない」


「嘘」


「……俺にも昔、似たような呼び方の手紙が来た」


「父上から?」


「ああ」


「同じ?」


「続きは違う」


「読むな」


「お前の手紙を?」


「ああ」


「分かった」


 俺は口を閉じる。


 ブラットもセリーも、少年が先に読むのを待った。


「愛する息子アルフォンスへ」


 声は最初こそ強かった。


「身体の調子はどうだ」


 少しずつ遅くなる。


「お前が王宮へ戻る日を……私は待っている」


 そこで止まった。


 指が僅かに震えている。


「続き」


 俺は何も言わない。


「読め」


「俺が?」


「うん」


「いいのか」


「読め」


 手紙へ触れず、少年が持っている紙を少し離れた場所から読む。


「お前が戻るためには、まだ治療が必要だと聞いている。苦しい日もあるだろう。しかし、お前は王家の血を継ぐ者だ。弱さに負けてはいけない」


 少年の顔が硬くなる。


「続けて」


「ああ」


「先生の言葉を信じ、薬を飲み、心を正しく保ちなさい。偽物の記憶や恐怖に惑わされてはいけない」


 部屋の空気がさらに重くなった。


 ブラットが僅かに息を止め、セリーの目も厳しくなる。


「偽物の記憶……」


 ブラットが小さく呟く。


「続き」


 少年が言う。


「本物のアルフォンスは一人だけだ。王宮へ戻る日まで、それを忘れてはいけない」


 最後には。


『父より』


 そう書かれていた。


 誰もすぐには言葉を出さなかった。


 少年が手紙を握っている。


「父上」


 声が掠れる。


「父上が書いた」


「可能性はある」


 俺が答える。


「でも、まだ本物とは決められない」


「ああ」


「偽物とも?」


「ああ」


「この内容」


 少年が手紙を見る。


「先生と同じ」


「ああ」


「薬を飲め。偽物の記憶。本物は一人」


「ああ」


「じゃあ」


 呼吸が少し速くなる。


「父上と先生は同じこと言ってる」


「そう見える」


「なら先生は正しい」


「可能性はある」


「父上も」


「可能性はある」


「お前が偽物」


「その可能性も、今は消せない」


 ブラットが俺を見る。


 セリーも。


 ここで安心させるためだけに否定すれば、また誰かが少年へ「正しい答え」を押しつけることになる。


「でも」


 俺は続ける。


「この手紙が本物かは、まだ分からない」


「逃げるな」


「逃げてない」


「内容がある!」


「ああ」


「父上しか知らないこと」


「書いてある?」


 少年が止まる。


「……ない」


「今の部分にはな」


「でも王家の血」


「それはレイハンも知ってる」


「治療」


「あいつは知ってる」


「俺の名前」


「それも」


 少年の指が震える。


「じゃあ、何を見ればいい」


「次の段階だ」


「何」


「この手紙がどこから来たか」


「王宮」


「そう書いてある?」


 封筒を見る。


 差出地はない。


 少年の顔が変わった。


「何で。父上の手紙なのに」


「王宮からなら、普通は配送印か管理印がある」


 ブラットが静かに説明する。


「ただし、私信で特殊な経路を使った場合、外へ印を残さないこともあります」


「どっちだよ」


「まだ分かりません」


 少年が苛立つ。


「みんな分からないって言う」


「今はな」


「役に立たない」


「ああ」


 けれど、その声は少しずつ弱くなっていった。


「でも、昨日より」


「何だ」


「怖い」


 俺はすぐに返さなかった。


「何が?」


「父上が本当に書いてたら、俺は嬉しい」


「ああ」


「でも、薬も先生も全部……正しいことになる?」


「全部が正しいとは限らない」


「父上が言ったら?」


「それでもだ」


「父上も間違える?」


「ああ」


「王なのに?」


「ああ」


「父親でも?」


「ああ」


「お前の父上だぞ」


「だからこそ、間違えないとは言えない」


 少年が顔を上げる。


「俺は、父上が間違ってたら、何を信じればいい」


 重い問いだった。


 俺自身も、まだ完全な答えを持っていない。


「今は、全部を一人に決めてもらわないことだと思う」


「父上も?」


「ああ」


「先生も?」


「ああ」


「お前も?」


「ああ」


「セリーも?」


「はい」


 セリーが答える。


「エルも?」


『はい』


「誰も?」


「一人だけを全部信じなくていい」


「じゃあ誰も信じられない」


「そうじゃない。少しずつだ」


「少し?」


「この人は、このことなら信じられる。この人には、ここまでなら任せられる。でも全部は一人へ任せない」


「面倒」


「ああ」


 少年が少しだけ笑う。


「お前、面倒なことばっかり」


「俺もそう思う」


 笑った直後でも、少年の指は手紙を離さなかった。


 そこに書かれている言葉は、昨日まで少年を支えていたものだったのだろう。


 父上が待っている。


 先生の言うことを信じれば帰れる。


 自分こそが本物だ。


 その三つが一つに繋がっていたから、何年も耐えられたのかもしれない。


 今、その繋がりへ初めて小さな亀裂が入った。


 なら、急いで全部壊す必要はない。


          ◇◇◇


 手紙の検証は、そこで終わらせることにした。


 少年が自分から「今日はもういい」と言ったからだ。


 ブラットもセリーも反対しなかった。


「フェリクスは?」


 少年が聞く。


「今日は呼ばない?」


「今は嫌」


「分かった」


「でも明日」


 少し考える。


「印だけ、詳しく見てもいい」


「本人に聞きながらな」


「触る前に言え」


「必ず」


 廊下からフェリクスの声が返る。


「聞いてた?」


「途中からです」


「研究者」


「すみません」


「でも、明日」


「はい」


 それだけ確認して、少年は手紙を折り直した。


 最初の折り目に合わせようとするが、少し曲がる。


「違う」


 やり直す。


「元と同じにしたい?」


「ああ」


「手伝う?」


「自分でやる」


 何度か折り目がずれた。


 それでも誰も手を出さない。


 最後には、少しだけ元とは違う折り方になった。


「変」


「気になる?」


「ああ」


「戻す?」


 少年はしばらく見た。


「……このまま」


「いいのか」


「俺が開けたから」


「ああ」


「次に見た時、今日見たって分かる」


「それも記録する?」


「する」


『本人が選択した一通を本日開封し、再折り畳みは本人自身が行った。折り方は原状態と異なるが、本人希望によりそのまま保存、と記録しました』


「長い」


『短縮しますか』


「そのままでいい」


 少年が手紙を赤い布へ戻す。


 二十三通のうち、今日見たのは一通だけだった。


 父上から届いたと信じていた言葉。


 薬を飲め。


 心を正しく保て。


 偽物に惑わされるな。


 本物のアルフォンスは一人。


 少年にとって、ずっと支えだったはずの言葉が、今は少しだけ怖いものへ変わり始めている。


 それを怖いと思えたことまで、誰かが「正しい反応」と決める必要はない。


 今日はただ、怖かった。


 それでいい。


          ◇◇◇


 昼前、ガルムから連絡が入った。


 南へ向かった斥候二人が、山道の先で馬車の轍を見つけたらしい。


『王都方面ではない。南東へ向かっている』


「古い森林道の方か?」


『ああ。その先に、何年も使われていない小さな保養施設がある』


「追う?」


『斥候だけ進める』


「人数は?」


『二人のままだ』


「無理するな」


『分かっている』


「レイハンがいる可能性は?」


『ある』


「証拠も?」


『それもある』


「俺は――」


『来るな』


「まだ何も言ってない」


『顔が言ってる』


 ブラットが隣で小さく笑う。


「お前まで」


「アル様。今は三〇八号室の件があります」


「分かってる」


『なら任せろ』


 ガルムの声が返ってくる。


「捕まえるのも?」


『可能ならな』


「殺すな」


『分かっている』


「証拠優先」


『それも』


「患者がいたら」


『保護する』


「無理に移動させるな」


『……お前、本当に全部言わないと気が済まないのか』


「一応」


『任せる練習をしろ』


 そこで通信が切れた。


 少年が俺を見る。


「怒られた?」


「たぶん」


「隊長に?」


「ああ」


「王子なのに?」


「元な」


「弱い」


「またそれか」


 少年が笑う。


 けれど、その笑いはすぐに消えた。


「父上にも、任せてた?」


 思いがけない問いだった。


「昔はな」


「全部?」


「かなり」


「失敗?」


「今は、全部を任せるのはやめようと思ってる」


「父上が悪い?」


「それも一つの話だ」


「でも俺も、考えなかった?」


「ああ」


「王太子だから、父上が決める。大臣が決める。側近が決める。そういうことは多かった」


「楽?」


「楽だった時もある」


「怖くない?」


「自分で決める方が怖い時もある」


「じゃあ何で」


「誰か一人が間違った時、全部一緒に間違うからだ」


 少年は手紙へ目を向ける。


「父上が間違ってたら、先生も俺も同じ?」


「そうかもしれない」


「でも、今日からは?」


「少しずつだ」


 少年が小さく息を吐く。


「また少しずつ」


「ああ」


「面倒」


「ああ」


 それでも、赤い布へ指を置く。


「今日は、一枚」


「ああ」


「明日は?」


「一枚とは限らない」


「見ないかもしれない?」


「ああ」


「俺が決める?」


「ああ」


「……分かった」


 今すぐ全部を調べたいのは俺も同じだ。


 手紙の印を詳細に調べたい。


 父上の筆跡と比較したい。


 王宮の過去記録へ照会したい。


 レイハンがどこから手紙を持ち込んだのかも知りたい。


 けれど、その手紙は少年が何年も抱えてきたものでもある。


 証拠である前に、本人にとっては父親との繋がりだった。


 だからこそ、調べる速度までこちらだけで決めない。


          ◇◇◇


 昼食の前、少年は窓を開けたいと言った。


 今まで、この部屋の窓は勝手に開けることを禁じられていたらしい。


「開けていい?」


「寒いぞ」


「少しだけ」


「やってみるか」


 俺が立ち上がると、すぐに少年がこちらを見る。


「触るな」


「お前が開ける?」


「うん」


 少年は寝台から降りた。


 まだ少し足元がふらつく。


 セリーが反射的に近づこうとしたが、途中で止まる。


「手伝いますか?」


「いらない」


「分かりました」


 少年は窓までゆっくり歩き、取っ手へ手をかけた。


 だが古い金具は硬く、一度力を入れただけでは動かない。


「壊れてる」


「古いからな」


「手伝う?」


 俺が聞く。


「少し」


 少年の手の上から握るのではなく、横へ並べるように取っ手の端を掴む。


「せーの」


「子供みたい」


「じゃあ自分でやる?」


「やる」


「せーの」


 二人で少し力を入れる。


 固かった金具が動き、窓がゆっくり開いた。


 冷たい風が部屋の中へ入り込む。


 赤い布が僅かに揺れ、少年の髪も風に撫でられた。


「寒い」


「言っただろ」


「でも」


 少年は窓の外を見る。


 朝より空は明るい。


 雲の切れ間から、少しだけ青が覗いていた。


「青」


「ああ」


「保存槽の子も、空見たいって言ったんだろ」


 俺は少し驚く。


「誰から聞いた?」


「ミーナ」


「いつ」


「昨日」


「話したのか」


「少し」


 知らない間に、情報が俺を通さず、人から人へ渡っている。


 それは悪いことではない。


「嫌?」


「何が」


「俺が聞いたの」


「本人が話していいって決めた範囲なら」


「名前も?」


「ああ」


「同じアルフォンス」


「ああ」


「三人」


「そうなるな」


「変」


「かなり」


「でも」


 少年が窓の外を見る。


「空は同じ?」


「ああ」


「塔でも?」


「ああ」


「ここでも?」


「ああ」


「王宮でも?」


「ああ」


 少年は少し黙った。


 風が髪を揺らす。


「じゃあ、帰る場所決まらなくても、空はある?」


「ああ」


 少年がゆっくり窓を閉める。


 今度は一人で。


 少し苦戦しながらも、最後まで自分で閉めた。


「できた」


「ああ」


「普通?」


「ああ」


 少年が少しだけ笑った。


 父上の手紙は一枚見た。


 本物か偽物かは、まだ分からない。


 レイハンは南東へ逃げた可能性があり、王宮がどこまで関わっていたのかも、まだ何も決まっていない。


 それでも今日、少年は自分で手紙を選び、自分で開け、自分で読む相手を決めた。そして、自分で「今日はもういい」と止めた。


 窓を少し開けたいとも言った。


 大きな謎は何一つ解けていない。


 けれど、その謎を解くために、少年本人をまた置き去りにする必要はない。


「アル」


「何だ」


「明日」


「ああ」


「手紙」


「見たくなったら見よう」


「見たくなかったら?」


「見ない」


「それでもいい?」


「ああ」


「調査、遅れる」


「ああ」


「先生、逃げる」


「ガルムが追ってる」


「お前は?」


「ここにいる」


「何で」


 窓から離れ、赤い布の横へ戻る少年を見る。


「今日は、お前と一枚見るって決めたからだ」


 少年はしばらく俺を見た。


「約束?」


「ああ」


「記録」


『記録しました』


 少年が少し笑う。


「今日は、消すな」


『保存します』


 父上から届いたという手紙が本物かどうかは、まだ決めない。


 けれど、その手紙を誰と見るのか。どこまで調べるのか。いつ続きを開くのか。


 それだけは、今度こそ本人が決める。


 答えを急げば、もっと早く進めるかもしれない。


 レイハンが逃げている以上、時間を惜しむ理由もある。


 それでも、少年が追いつけない速度で真実だけを先へ進めれば、また本人を置き去りにする。


 だから俺は今日も、全部の答えを握ろうとはしなかった。


 必要な者へ役割を渡し、追跡はガルムへ任せ、手紙の検証は本人が止めたところで止める。


 そのうえで。


 少年が次に進みたいと思った時、手を伸ばせる距離にいる。


 今の俺にできるのは、それくらいだった。

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