↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/152

第30話 元王太子、帰る場所を決める前に今夜眠る場所を本人へ聞く


 三〇八号室の少年が目を覚ましたのは、夕日が完全に山の向こうへ沈み、窓硝子が外の景色ではなく室内の淡い灯りを映すようになってからだった。


 白鴉療養所を包む夜は深い。窓の外には山の稜線を縁取る僅かな星明かりが浮かび、そのさらに向こうでは、風に揺らされた森の影が暗闇の中へ溶け込んでいる。建物の外周にはエルが古の塔から一時的な防護を重ねており、ときおり青白い光が窓の外を細く走って石壁の向こうへ消えていった。


 部屋の中に残している魔導灯は、一つだけだった。


 少年自身が「全部消すのは嫌だ」と言ったため、寝台から少し離れた壁際の灯りだけを残している。明るすぎず、暗すぎず、目を開けば自分がどこにいるのかを確認できる程度の光だった。


 白い薬を普段の四分の一だけ飲み、紫と青を止めてから、およそ二時間が経っている。薬を飲んだ直後には、本人が選んだ少し歪んだ花形の焼き菓子も食べた。


 その後、強い眩暈や魔力の乱れは見られなかったものの、次第に眠気が強くなっていった。「眠くなったなら、無理に起きていなくてもいい」と伝えると、少年は最初こそ抵抗したが、やがて自分から寝台へ横になった。


 眠るなら、この部屋がいい。


 その選択も、本人が決めたものだった。


 俺は寝台から四歩ほど離れた椅子へ座り、セリーはその隣にいる。フェリクスとドーラは部屋へ入らず、廊下側で待機していた。


 少年から「近くにいるのはアルとセリーだけ」と言われたからだ。


「主様」


「何だ」


「もう少し背もたれを使ってください」


「使ってる」


「腰が半分前へ出ています」


「少年の呼吸が見えにくい」


「エルさんが異常だけを見ています」


「生活は見ない約束だろ」


「危険な呼吸変化は、生活観測とは別です」


『現在、呼吸・心拍・魔力循環に異常はありません』


「エルまで言うのか」


『事実をお伝えしました』


 セリーは俺の姿勢をしばらく観察したあと、小さく息を吐いた。


「主様は、ご自分が見ていなければ何か起きると思っていらっしゃいますか?」


「そこまでは思ってない」


「では、なぜずっと見ているのです?」


「初めて薬を減らした夜だからだ」


「それはフェリクスさんも同じ認識です」


「だからあいつは廊下にいる」


「主様も少し休んでください」


「寝ろと?」


「少なくとも、座り直してください」


 俺が返事をせずにいると、セリーは椅子の背へ意味ありげに視線を送った。


「主様」


「分かった」


 仕方なく座り直し、背もたれへ体重を預ける。


 その直後、寝台から小さな布擦れの音がした。


 少年の右手が毛布の上を探るように動き、次の瞬間、寝台脇へ掛けていた俺の外套の端を掴んだ。


「……行くな」


 眠ったままの、小さな声だった。


 反射的に身体が前へ出る。


「行かない」


 すぐに答えると、少年の眉間に寄っていた皺が僅かに緩んだ。


 セリーはその様子を見てから、今度は何も言わなかった。


 俺も外套を外そうとはしない。


 起きれば「言っていない」と否定するかもしれない。それでも今、本人が眠ったまま掴んでいるものを、こちらの都合で勝手に取る必要はなかった。


 しばらく静かな時間が続いた。


 外では風が窓硝子を撫で、廊下の向こうからは近衛が歩く足音が、ごく遠くに聞こえている。だが、その音も今夜はできるだけ小さくなるよう、彼らには鎧を脱いでもらっていた。


 白銀の鎧と剣を見ただけで身体を固くする患者がいる。


 だから近衛たちは地味な外套姿で待機し、武器も必要最低限のものだけを遠くへ置いている。


 全部の恐怖を消すことはできない。


 それでも、できる範囲で威圧を減らす。


 それが今の彼らの役割だった。


「主様」


 しばらくして、セリーがまた小さな声で呼んだ。


「今度は何だ」


「焼き菓子をお持ちしました」


「少年の分はもう食べただろ」


「主様の分です」


「俺?」


「少年が眠るまで、何も召し上がらないつもりでしたね?」


「夕食は食べた」


「スープとパンを少しだけです」


「十分だ」


『本日の主様の摂取量は、推奨量のおよそ六十八パーセントです』


「誰が聞いた」


「私です」


 セリーは膝の上へ小さな皿を置いた。


 焼き菓子は三つある。


 一つは丸。


 一つは星のような何か。


 もう一つは、三〇八号室の少年が食べたものとは別の、花にしようとして少し潰れた形だった。


「なぜ三つある」


「主様にも選んでいただこうと思いまして」


「丸」


「即答ですね」


「一番食べやすい」


「星もございます」


「星に見えない」


「主様」


「何だ」


「作った方へ失礼です」


「誰が作った?」


「療養所の職員の方々です。アンナマリーさんへ通信で作り方を確認しながら」


「なら、次は角をもう少し増やした方がいいと伝えろ」


「改善点として記録します」


「本当に伝えるのか」


「アンナマリーさんは、失敗を次へ生かしたいとおっしゃっていました」


「真面目だな」


「主様に似ています」


「似てない」


「少しだけです」


 丸い焼き菓子を一つ取る。


 甘さは控えめで、少し硬い。それでも薬品の匂いが染みついた療養所の夜に口へ入れるものとしては、妙に普通で、その普通さが悪くなかった。


「どうですか?」


「美味しい」


 セリーの目が少し丸くなる。


「今日は二度目です」


「何が」


「主様が自分から美味しいとおっしゃったのが」


「味を聞いたのはお前だろ」


「はい。それでも嬉しいです」


「そうか」


 レイハンは逃げた。


 三〇八号室の少年へ何年も薬が投与されていた理由も、まだ全部は分かっていない。


 父王から届いたという手紙は未確認のまま。


 帳簿には、俺を「偽体」として、接触前に自己防衛命令を定着させるとまで書かれていた。


 何一つ終わっていない。


 それでも。


 焼き菓子を一つ食べて、美味しいと言える夜だった。


「……アルフォンス」


 寝台から声がした。


 灰色の瞳が開いている。


「起きたか」


「どれくらい寝た」


「二時間くらいだ」


「……そんなに?」


「ああ」


 少年は最初に天井を見た。


 次に室内を見回し、俺、セリー、閉じられた扉、壁際の魔導灯を順番に確かめる。


 最後に、自分の右手が俺の外套を掴んでいることへ気づいた。


 すぐに離す。


「何で、これがここにある」


「お前が掴んだ」


「嘘だ」


「眠りながら『行くな』って言った」


「言ってない」


『発言記録があります』


「消せ!」


『削除要求を確認しました。ただし、記録用途を選択する必要があります』


 少年が眉を寄せる。


「何だ、それ」


『現在の発言は、薬の減量に伴う睡眠中の反応記録、本人意思記録、主様との約束確認記録の三項目へ紐づいています。全て削除することも、一部だけ削除することも可能です』


「全部消したら?」


『記録上は確認できなくなります』


「アルフォンスが忘れたら?」


『主様個人の記憶までは削除できません』


 少年が俺を見る。


「お前は覚えてる?」


「ああ」


「俺が消せって言ったら?」


「俺の頭までは消せない。でも、その話を勝手に誰かへするつもりはない」


「証拠はなくなる?」


「ああ」


「だったら、お前が嘘をついてても分からない」


「そうなる」


 少年はしばらくエルの腕輪を見つめた。


 削除したい気持ちと、残しておきたい気持ちの両方があるのだろう。


「……今は消すな」


『承知しました』


「俺が決めるまで」


『本人保留記録として隔離します』


「先生には見せるな」


『提供しません』


「王宮にも」


『本人の同意なく外部提供しません』


「アルフォンスが勝手に許可したら?」


 俺のことらしい。


「しない」


「証拠」


「今の発言を記録していいぞ」


『記録しました』


 少年は完全には納得していない様子だったが、それでも小さく頷いた。


 消すか残すか。


 それすら、これまでは本人が決められなかったのかもしれない。


「身体はどうですか?」


 廊下側からフェリクスの声がした。


 少年の顔が一瞬で硬くなる。


「入るな」


「入りません」


「何でいる」


「薬を減らしたあとの状態を確認する役割がありますので」


「王宮の研究員」


「元王立魔導研究所の研究者です。フェリクス・ハルトマンです」


「父上の部下?」


「少なくとも、国王陛下直属ではありません」


「俺を偽物だと思う?」


 フェリクスはすぐに答えなかった。


 少し前までの彼なら、血統反応や精神核、記憶情報といった言葉を並べていたかもしれない。


「まだ判断できません」


「役に立たない」


「はい」


「認めるのか」


「分からないものを、分かったとは申し上げられません」


 少年は少し黙った。


「でも、薬は分かった?」


「一部は」


「何が入ってた」


「白い薬には精神を落ち着かせる作用があります。ただし同時に、時間感覚と記憶を曖昧にする作用もあります。青い薬には身体成長を抑え、血統反応を増幅する作用があります。紫には感情抑制と、外部から与えられた記憶を受け入れやすくする作用が確認されています」


「先生は王子を守る薬だって言った」


「そう説明されていたのですね」


「違うのか」


「少なくとも、守るためだけの薬とは言えません」


 少年の視線が扉へ向く。


「ドーラもいる?」


 廊下の向こうから、小さな返事があった。


「……はい」


「来るな」


「入りません」


「顔も見せるな」


「はい」


「薬は?」


「持っていません」


「白、四分の一」


「覚えています」


「次も?」


「次に飲む量は、身体の状態を見てもう一度相談します」


「俺が決める?」


「一緒に決めます」


 ドーラの声はまだ震えている。


 それでも、少年から離れることも、勝手に近づくこともしなかった。


「今日、俺が四分の一にした?」


「ああ」


 俺が答える。


「言わされた」


「提案はした。でも、最後に四分の一って言ったのはお前だ」


「先生がいたら違った」


「そうかもしれない」


「先生に聞かないと」


「今夜はいない」


「帰ってくる」


「可能性はある」


「逃げたんだろ」


 少年の声が少し震える。


「今確認できている範囲では、療養所から離れた」


「俺を置いて?」


「そう見える」


「違う」


「そう思いたい?」


「違う!」


 呼吸が速くなる。


 セリーが僅かに身体を動かしたが、近づかない。


「薬を飲まないと、夢を見る。名前も……父上も……」


「命令はしない」


 俺は声を落とした。


「今、何が一番怖い?」


「怖くない」


「分かった。じゃあ、薬を飲まないと何が起きると思ってる?」


 少年は唇を噛んだ。


「父上を忘れる」


「誰に言われた?」


「先生」


「手紙の内容も?」


「俺が王子だってことも」


「忘れたくない?」


「当然だ!」


 胸元へ手が伸びる。


 赤い布に包んだ手紙は、寝台脇の小机へ置かれている。


「なら、手紙は近くに置いておけ」


「薬を減らして記憶が曖昧になっても、読みたい時に確認できる」


「でも……」


 少年の声が止まった。


「何だ」


「……手紙が偽物だったら」


 本人が口にした。


 直後、顔が強張る。


「今、自分で可能性を考えたな」


「言ってない」


「責めてない」


「王子は父上を疑わない」


「疑う王子もいる」


「お前?」


「ああ」


「父上を疑った?」


「何度も」


「それでも名前は?」


「アルフォンス・ガイゼンのままだ」


 少年が俺を見る。


「怖くない?」


「怖い」


「父上が、お前を息子じゃないって言ったら」


「怖い」


「手紙が偽物だったら」


「それも怖い」


「先生が、俺を置いて逃げたなら」


 声が急に小さくなる。


「それも怖い」


「お前も?」


「ああ」


「何が」


 すぐには答えられなかった。


 父上。


 母上。


 弟。


 王宮。


 アンナマリー。


 ブラット。


 昔の自分。


 誰か一人の顔ではない。


「大切だと思っていた相手に、自分は同じくらい大切ではなかったと分かることが怖い」


 少年は黙った。


 灰色の瞳が揺れた。


「でも、怖いからって今夜全部決める必要はない」


「父上の手紙が本物かも?」


「ああ」


「先生が逃げた理由も?」


「ああ」


「俺が本物か、お前が偽物かも?」


「それも今夜は決めない」


「じゃあ何を決める」


「今夜のことだけだ」


 少年が眉を寄せた。


「薬をどうするかは、もう決めた。次は、どこで眠るか。誰が近くにいた方がいいか。灯りをどうするか。扉を閉めるか。今夜はそれだけでいい」


「少なすぎる」


「一晩には十分だ」


 少年は少し考えたあと、寝台の背へ身体を預けた。


「ここで寝る」


「三〇八号室?」


「ああ」


「分かった」


「嫌なのか」


「いや。ここが一番知ってる場所なんだろ」


「……そうだ」


 三〇八号室は、閉じ込められていた場所でもある。


 薬を飲まされ、鏡を見せられ、父上からの手紙を何度も読まされた場所かもしれない。


 それでも同時に、少年が六年間暮らした可能性のある場所でもあった。


 こちらが「悪い場所だから出よう」と決めることはできない。


「扉は閉める?」


「閉める」


「鍵は?」


「内側からかける」


「ああ」


「外から勝手に開けるな」


「緊急時以外は開けない」


「緊急時って?」


「呼吸が止まりそうな時。大きな魔力暴走が起きた時。お前が自分で助けを呼べない状態で、命に関わる危険がある時」


「生活は見る?」


「見ない」


「夢も?」


「見ない」


「声は?」


「お前が呼んだ時だけ繋ぐ」


 少年はしばらく考えた。


「助けてって言うのは嫌だ」


「別の言葉にする?」


「……アル」


 胸の奥が少し動く。


「それなら言える?」


「お前を呼ぶだけだ」


「ああ」


「同じ名前なのに?」


「俺は町でアルって呼ばれてる。たぶん分かる」


「本当に?」


「ああ」


「エル」


『緊急呼びかけの言葉として「アル」を登録できます』


「夜だけ」


『時間条件を設定します』


「怖い夢を見た時と、身体がおかしくなった時」


『条件を追加します。ただし、本人による呼びかけが前提です』


「それでいい」


『登録しました』


 少年の肩から少しだけ力が抜けた。


「セリーも来る?」


「はい」


「アルも?」


「ああ」


「フェリクスは?」


「私は――」


「来なくていい」


「まだ何も言っていません」


「夢を研究されそう」


「しません」


「顔がする」


「どういう顔でしょう」


「来るな」


「分かりました」


 少し傷ついた顔をするフェリクスを見て、少年の口元がほんの僅かに緩んだ。


「ドーラも来なくていい」


 廊下へ向けて言う。


「はい」


 ドーラはそれだけ答えた。


「でも、朝に薬を持ってくるなら」


 少年は少し迷う。


「セリーと一緒」


「……はい」


「顔は見せるな」


「はい」


 今はそれでいい。


 許したわけでも、信じたわけでもない。


 ただ、「来るな」だけだったところから、「セリーと一緒なら朝は来てもいい」へ変わった。


 それを大きく扱う必要はない。


 少年が自分で決めた距離として、そのまま尊重すればいい。


          ◇◇◇


 少年がもう一度休む前に、フェリクスが白い薬を四分の一だけ飲んだ後の状態を確認した。


 呼吸、心拍、魔力循環には大きな乱れはない。眠気と、わずかな時間感覚の曖昧さは出ているが、会話は成立している。


「もし今夜、意識を失った場合について確認しておきたいことがあります」


 フェリクスが廊下から言った。


「何だ」


「あなたが意思表示できない状態で、生命に関わる異常が起きた時の治療です」


「勝手に薬を飲ませる?」


「その可能性はあります。ただし、今のうちに使ってほしくない薬や、優先してほしい方法を記録できます」


「紫は嫌だ」


「分かりました」


「青も」


「はい」


「白は?」


 少年は少し考える。


「必要な分だけ」


「はい」


「先生が戻って、飲ませろって言っても」


「あなたへ確認します」


「意識がなかったら?」


「今の希望を記録として優先します」


「死にそうだったら」


 少年が毛布を握った。


「助けろ」


「はい」


「でも、何でも勝手に使うな」


「承知しました」


「記録」


『紫薬と青薬は本人拒否。白薬は必要最小量を希望。意識喪失時、生命維持に必要な治療を許可。ただし、可能な限り既存希望を優先する、と記録しました』


「俺にも後で聞かせろ」


『本人から求められた場合に再生します』


 少年は小さく頷いた。


 治療の全部を自分で判断できるわけではない。


 それでも、判断できなくなった時にどうしてほしいかを、今のうちに残すことはできる。


 選択肢を渡すというのは、何でも本人一人へ押しつけることではない。


 選べない時に一緒に考えることも、今だけは任せると決めることも、その人の意思になり得る。


          ◇◇◇


 少年が再び寝台へ横になる前に、セリーが水と残りの焼き菓子を確認した。


 丸いものと、星に見えなくもないもの、それから片側の花弁が少し潰れた花形。さっき食べたものとは別に、朝用として二つ残してある。


「これ、朝まで置いとけ」


「承知しました」


「勝手に食べるな」


「誰への注意ですか?」


「全員」


 少年が俺たちを順番に見る。


「俺は食べない」


「私は人の焼き菓子を勝手に食べません」


 フェリクスが答える。


「薬は触ろうとするくせに」


「確認です」


「それ、何回言うんだ」


 少年が今度ははっきり笑った。


 大きな笑いではない。


 けれど、さっきまで強張っていた目元が僅かに緩んでいる。


「明日、花のやつ食べるかもしれない」


「朝に確認します」


 セリーが答える。


「食べなかったら?」


「残します」


「捨てない?」


「保存できる範囲なら」


「分かった」


 少年は満足したように頷いた。


「それから、明日」


 赤い布へ包まれた手紙を見る。


「手紙を一枚だけ見る」


「ああ」


「俺が選ぶ」


「ああ」


「父上の手紙だって認めろ」


「お前が父上から届いたと信じている手紙として見る」


「変な答え」


「まだ本物だと確認してないからな」


「すぐ偽物だとも言わない?」


「ああ」


「奪わない?」


「奪わない」


「誰と見る」


「まず、お前が決める」


「俺?」


「お前が持っていた手紙だ」


 少年の灰色の瞳が少し揺れた。


「エルは?」


「記録が必要なら」


「セリーは?」


「お前がいいなら」


「ブラットは?」


「王家文書を見るなら役に立つ」


「フェリクスは?」


「筆跡と魔力処理を見るなら役に立つ」


「ガルムは?」


「証拠保全なら役に立つ」


「多い」


「だから選べ」


 少年はそれぞれの名前を思い浮かべるように黙った。


「……明日決める」


「ああ。それでいい」


          ◇◇◇


 俺たちが三〇八号室を出る前、少年は一度寝台から身体を起こした。


「アルフォンス」


「何だ」


「明日、来い」


「ああ」


「遅れるな」


「何時にする?」


 少年が止まる。


「……分からない」


「朝食のあとでいいか?」


「朝食って、何時」


「この療養所は鐘を使ってた?」


 セリーが首を振る。


「一定ではなかったようです」


「じゃあ、皆へ聞いて朝の案内音を作るか」


「何で皆に聞く」


「音が嫌いな人もいるからだ」


「面倒」


「ああ」


「でも、そうしろ」


「分かった」


「俺は朝になったら」


 少年が少し考える。


「扉を二回叩け」


「ああ」


「勝手に入るな」


「ああ」


「返事がなくても」


「危険がなければ入らない」


「約束?」


「ああ」


『記録しました』


「何でも記録するな」


『本人から記録要求が繰り返されているため、確認用に保存しています』


「……それならいい」


 セリーが立ち上がった。


「では、お休みなさい」


「王子に?」


「あなたに、です」


「名前で呼ばない?」


「呼んでほしいですか?」


 少年は少し迷った。


「今は、アルフォンス」


「お休みなさい、アルフォンス」


「……ああ」


 俺も扉へ向かいかけて、足を止める。


「お休み」


 少年がこちらを見る。


「名前は」


 言われて、今度は迷わなかった。


「お休み、アルフォンス」


 同じ名前を、静かな声で呼ぶ。


 少年はしばらく俺を見ていた。


「……お休み、アル」


 胸の奥が一瞬だけ止まったように感じた。


「今、何て」


「何も言ってない」


「言っただろ」


「エル」


『直前の発言は、本人意思により公開範囲を設定できます』


「消せ」


『削除しますか?』


 少年は少し考えた。


「……今は残せ」


『本人保留記録として保存します』


「誰にも聞かせるな」


『本人の同意なく再生しません』


「分かった」


 少年が内側から扉を閉める。


 少しして、鍵がかかる音がした。


 俺たちはその場へ近衛を置かなかった。


 廊下の角まで下がり、見えない距離を取る。


 けれど、「アル」と呼ばれれば届く距離にはいる。


          ◇◇◇


 一階の食堂へ戻ると、患者と残った職員、それから警戒を担当する近衛たちが集まっていた。


 ガルムとブラットも外周確認から戻っている。


「レイハンは?」


「本人は見つかっていない」


 ガルムが地図を広げた。


「北側へ残した痕跡は、やはり撹乱だった可能性が高い。南へ向かう馬の跡を見つけた」


「追った?」


「二名だけ出した。深追いはさせていない」


「何か運び出した形跡は?」


「まだ分からん」


 フェリクスが腕を組む。


「患者ではなく、記録を移した可能性があります」


「薬品室に調合記録がなかった件か」


「はい。精神誘導の原記録、王宮側との通信記録、研究対象の一覧などが別施設へ移されているなら、レイハン本人より先に証拠を消される可能性もあります」


「今から追う?」


 ブラットが尋ねた。


 行きたい気持ちはある。


 証拠は時間が経つほど失われる。


 レイハンもまた遠ざかる。


 けれど、今ここには、薬を初めて減らした三〇八号室の少年がいる。


 外へ出るかどうか決めていない患者もいる。


 兵士の姿を見るだけで身体を固くする子供もいる。


 自分が何をしていたのか理解し始めた職員もいる。


 今夜を一人で過ごせない者たちがいる。


「今夜は俺たちから大きく追わない」


 ガルムが顔を上げる。


「証拠を逃すぞ」


「可能性はある」


「レイハンもだ」


「ああ」


「それでも?」


「療養所側を空ければ、また外から干渉される。患者を連れ出す隙にもなる」


「近衛を半分残して半分追わせる手もある」


「それは近衛側で必要なら判断してくれ。ただ、俺は今夜ここを離れない」


 ガルムは少しだけ眉を上げた。


「お前が追跡を指揮しない、という意味か」


「ああ。全部俺がやる必要はないだろ」


「ようやく覚えたか」


「うるさい」


 それでも、ガルムの口元はほんの少し緩んだ。


「今夜は患者へ、明日以降の選択肢を説明する。ただし、今夜中に塔へ行くか、町へ行くか、ここへ残るかまで決めさせるつもりはない」


「では何を聞く?」


「今夜どこで眠りたいかだけ」


 食堂にいた数人がこちらを見る。


「元の部屋へ戻りたい人。空き部屋へ移りたい人。食堂で誰かと一緒にいたい人。一人がいい人。扉を開けてほしい人、閉じたい人。灯りを残したい人。それだけでもいい」


「その程度から?」


 ガルムが聞く。


「その程度が、自分で決められなかった人もいる」


 明日どこへ行くのか。


 誰を信用するのか。


 療養所を出たあと何をするのか。


 そんな大きな問いへ、今すぐ答えられる者ばかりではない。


 なら、今夜だけでいい。


「今日は、どこで眠りたいかを聞く。それで十分だ」


 食堂の隅で毛布を肩に掛けていた少年が、おそるおそる手を上げた。


「俺、ここ」


「食堂?」


「人がいるから」


「分かった」


「でも灯りは、今より少し暗くしてほしい」


「聞いたか?」


 職員の一人が頷く。


「他の方にも確認して、暗すぎない程度にします」


 ミーナも手を上げた。


「私は二階」


「一人?」


「リディアさんの隣がいい」


 近くにいたリディアが少し驚く。


「私でよろしいのですか?」


「嫌?」


「いいえ」


「じゃあ隣」


「扉はどうします?」


「少し開ける」


「分かりました」


 別の女性は、自分の元の部屋へ戻りたいと言った。


 年配の男は、窓がある部屋を希望した。


 看護補助の一人は「今夜だけ食堂で患者と一緒に眠りたい」と言う。


「なぜ?」


「逃げないことを見せたいんです」


「それだけならやめた方がいい」


 職員が目を見開く。


「なぜですか」


「信用されるための罰にするな。お前自身はどこで眠りたい?」


 しばらく考えたあと。


「……食堂です」


「理由は?」


「今夜、一人になるのが怖いです」


「なら、それでいい」


 患者だけが怖いわけではない。


 職員も、自分たちが何へ加担していたのか、明日どうなるのか、レイハンが戻るのか分からない。


 怖さを理由に責任から逃げることと、怖がることそのものは別だ。


 罰として同じ場所へ寝る必要はない。


 本人がそこで眠りたいなら、それでいい。


「近衛は?」


 ガルムが部下たちへ視線を送る。


「外周三。正面と裏口に一人ずつ。残りは交代で休め」


「隊長は?」


「俺は外周を一度回ってから休む」


「寝ろ」


「お前にだけは言われたくない」


「俺は今日二時間くらい寝た」


「それを自慢するな」


 ブラットが顔を伏せた。


 笑っている。


 そんな時、食堂に置かれた通信石からアンナマリーの声がした。


『アル様』


「何だ」


『皆さんへお尋ねしたのであれば、アル様にもお聞きしてよろしいですか?』


「何を」


『今夜、どこでお休みになりますか?』


 食堂にいる者たちの視線が集まる。


「俺は……」


 三〇八号室のある上階へ目を向けた。


「三〇八号室の近くの空き部屋」


『少年の近くへ?』


「ああ。ただし部屋には入らない」


「私は主様と同じ部屋で休みます」


 セリーがすぐに答える。


「待て」


「何でしょう?」


「自分の部屋は?」


「塔から寝台を一つ転送します」


「そういう意味じゃない」


「主様が床で眠らないよう監視します」


「俺は床で寝ない」


「本当ですか?」


「……寝台で寝る」


 食堂のあちこちから小さな笑いが起こった。


『それなら安心しました』


 アンナマリーまで少し笑っている。


「そっちは?」


『リュネの町は今のところ異常ありません。代表者の方々が、明日の受け入れ準備を続けています』


「グレゴルは?」


『証言整理を続けています。クララさんとの時間も取っています』


「無理させるな」


『ヨアヒムさんが止めています』


「ならいい」


『それからエマさんですが、青い砂糖菓子の試作品を食べました』


「どうだった?」


『冷たすぎるそうです』


「俺と同じ感想だな」


『ですが、次も食べると言っています』


「そうか」


『花の形も作ってみたいそうです』


「こっちでは焼き菓子の花に失敗した」


『では競争ですね』


「何の?」


『どちらが先に、きちんと花に見えるものを作れるかです』


「子供を巻き込むな」


『エマさんから言い出しました』


「なら仕方ない」


「主様」


 セリーがこちらを見る。


「療養所側も負けません」


「何に勝つんだ」


 今度は、少し大きな笑いが広がった。


 この場所でそんな声が響くこと自体が、昨日までとは違う。


 レイハンは逃げた。


 証拠がどこかへ運ばれた可能性もある。


 王宮の秘密も、父上の手紙も、三〇八号室の少年が本当に誰なのかも分からない。


 それでも今夜、誰がどこで眠るのかを本人へ聞いた。


 小さなことだった。


 けれど、この療養所では長い間、その程度のことすら本人へ聞かれていなかった。


          ◇◇◇


 深夜。


 俺は三階の小さな空き部屋へ入った。


 壁一枚向こうが三〇八号室になっている。


 セリーが塔から運び込んだ簡素な寝台が二つあり、小机と水差し、それから最低限の着替えだけが置かれていた。


「本当に二つ出したのか」


「はい」


「長椅子じゃなく?」


「主様が床へ移動する可能性を減らすためです」


「信用がない」


「実績があります」


「いつ」


「塔で何度も」


「……寝るぞ」


「はい」


 魔導灯は完全には消さなかった。


 少年が自室へ残した灯りと同じくらいの明るさだけを残す。


 寝台へ横になる。


 目を閉じれば眠れると思った。


 だが、頭の中にはレイハンの顔や、帳簿に書かれていた「自己防衛命令」の文字、赤い布へ包まれた手紙が何度も浮かんだ。


「主様」


「起きてる」


「呼吸が浅いです」


「分かってる」


「手を握りますか?」


「子供じゃない」


「存じています」


 暗い室内で、セリーの手が二つの寝台の間へ置かれる。


「必要でしたら」


 俺はすぐには触れなかった。


 その時、壁の向こうから小さな物音が聞こえた。


 身体を起こす。


「エル」


『三〇八号室に危険魔力反応はありません』


「呼びかけは?」


『まだありません』


 なら、行かない。


 物音がしたからといって、勝手に扉を開ければ約束を破る。


 俺は寝台へ座ったまま待った。


 数呼吸ほどして。


 壁の向こうから、とても小さな声が聞こえた。


「……アル」


 すぐに立つ。


『登録された呼びかけを確認しました』


「行く」


「私も参ります」


 セリーと廊下へ出る。


 三〇八号室の扉まで行き、約束通り二度叩いた。


「アルフォンス。呼んだ?」


 すぐには返事がない。


「勝手には入らない。扉の前にいる」


「私もおります」


 セリーも声をかける。


 少しして、内側から掠れた声がした。


「夢、見た」


「ああ」


「父上が」


「ああ」


 言葉が止まった。


 急かさない。


 聞きたいことはあっても、本人が続きを言うまで待つ。


「父上が、俺を見て……お前は誰だって言った」


「ああ」


「名前が言えなかった」


「怖かった?」


「……違う」


「分かった」


「でも、アルフォンスって言おうとしたら、お前が出てきた」


「夢に?」


「ああ」


「俺は何をした?」


「何も。そこにいただけ」


「それで?」


「お前がいるから、俺がアルフォンスって言えなくなった」


「そう思った?」


「ああ」


「今も?」


 長い沈黙。


「……分からない」


「ああ」


「でも」


 扉の向こうから、少し震える声が続く。


「一人になるのが怖かった」


 王子だから。


 王太子だから。


 本物だから。


 そんな言葉を使わずに。


 初めて、ただ自分が怖いと言った。


 それだけで十分だった。


「扉を開ける?」


「入る?」


「お前が望むなら」


「四歩」


「ああ」


「セリーも」


「はい」


 内側で鍵が外れる。


 扉がゆっくり開いた。


 俺とセリーは約束通り、入口から四歩のところで止まる。


 少年は寝台の上へ座り、毛布を肩まで被っていた。赤い布に包んだ手紙を胸元へ抱えている。


「夢は本物?」


「夢の内容が事実かって意味なら、まだ分からない」


「役に立たない」


「ああ」


「でも……」


 少年が毛布を握る。


「朝まで、ここにいて」


「四歩のところで?」


「ああ」


「分かった」


 俺は入口側に置かれていた椅子へ座った。


 前なら床へ座っていたかもしれないが、セリーが無言でこちらを見たため、今回は最初から椅子を使う。


 セリーもその横へ座った。


「俺が寝たら帰る?」


「朝までいる」


「本当に?」


「ああ」


「約束?」


「ああ」


『記録しました』


 少年が少しだけ毛布から顔を出した。


「焼き菓子」


「今は食べない方がいい」


「何で」


 セリーが答える。


「夜中ですので。胃を休めた方がよいです」


「アルも食べない?」


「ああ」


「本当に?」


「俺も朝まで食べない」


「なら、待つ」


「花のやつは?」


「残してあります」


「一番ましな形?」


「はい」


 少年は少しだけ安心したようだった。


          ◇◇◇


 やがて、少年は再び寝台へ横になった。


 手紙は胸元から離さない。


 俺たちは取り上げない。


 今夜は開かない。


「アル」


「何だ」


「帰る場所って」


 少年の声が毛布の中から聞こえる。


「王宮?」


「それも候補にはなる」


「塔?」


「ああ」


「ここ?」


「残りたいなら、それも考えられる」


「先生が逃げたのに?」


「この療養所をレイハンの物だと決める必要はない」


「父上は?」


「明日以降に調べる」


「俺は、どこへ帰るんだ」


 帰る。


 その言葉が、少年の中ではまだどこにも結びついていないのだろう。


 王宮を家だと教えられた。


 父王が迎えに来ると信じた。


 白鴉療養所で何年も待った。


 それなのに今、先生は消え、父王の手紙さえ本物なのか疑い始めている。


「明日、考えればいい」


「また先にする」


「ああ」


「逃げてない?」


「今回は逃げてない」


「どう違う」


「今夜の答えは、もう出したからだ」


 少年が少し顔をこちらへ向ける。


「何を」


「今夜、お前は三〇八号室で眠るって決めた。扉は閉める。鍵は内側からかける。灯りは少し残す。怖い夢を見たら『アル』って呼ぶ。今は俺とセリーに四歩の距離にいてほしい。それを全部、お前が決めた」


「小さい」


「ああ」


「帰る場所より?」


「ずっと小さい」


「それでいい?」


「ああ」


「帰る場所を決める前に、今夜眠る場所を決めた。それで十分だ」


 少年はしばらく何も言わなかった。


 やがて、毛布を少しだけ引き上げる。


「今夜は、ここ」


「ああ」


「お前たちは四歩」


「ああ」


「朝まで」


「ああ」


「記録」


『記録しています』


「消すな」


『保存します』


 少年の呼吸が少しずつ落ち着いていく。


 セリーが俺の隣で小さく息を吐いた。


「主様」


「何だ」


「今夜は眠れませんね」


「ああ」


「後悔していますか?」


「少し」


「でも、戻りますか?」


「戻らない」


「はい」


 俺たちは四歩の距離を保ったまま、少年の呼吸が再び深くなるのを待った。


 王宮へ帰るのか。


 古の塔へ来るのか。


 この療養所へ残るのか。


 あるいは、まったく別の場所へ行くのか。


 その答えは明日になっても出ないかもしれない。


 何日も、何か月も、もっと時間がかかるかもしれない。


 それでも、大きな答えを急がせる前に、今夜どこで眠りたいかを聞くことはできた。


 誰に近くへいてほしいか。


 扉を閉めたいか。


 灯りを残したいか。


 怖い時、何と呼ぶか。


 少年は一つずつ、自分の言葉で決めた。


 昨日まで「三〇八号室」と番号で呼ばれていただけの部屋が、今夜だけは少し違って見える。


 閉じ込められるための部屋ではなく。


 本人が「ここで眠る」と選んだ部屋になった。


 窓の外では、夜明け前の冷たい風が山の木々を揺らしている。


 白鴉療養所の長い夜は、まだ終わらない。


 レイハンも。


 王宮も。


 父王から届いたという手紙も。


 自己防衛命令も。


 何一つ解決していない。


 それでも今、少年は薬で無理に眠らされているのではなかった。


 自分で選んだ部屋で、自分で残した灯りの下に横たわり、怖くなれば呼べる相手が四歩先にいることを知っている。


 そのうえで、自分の意思でもう一度目を閉じた。


 帰る場所はまだ決まっていない。


 けれど今夜、眠る場所だけは自分で決めた。


 今は、それで十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。