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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第29話 元王太子、父から届いた手紙を本人の手から奪わない

白鴉療養所の薬品室は、一階北側の奥まった場所にあった。


 窓は一つもなく、厚い石壁に囲まれた細長い部屋の入口には、他の部屋より明らかに頑丈な鉄製の扉が取りつけられている。エルに安全を確認させてから中へ入ると、乾燥薬草の青臭さと、鼻の奥へ刺さるような消毒薬の匂いが混ざって流れ込んできた。


 壁一面には木製の棚が並び、大きさも形も違う薬瓶や木箱が隙間なく収められている。その一つ一つには白い札が吊るされ、薬の名称や一日の使用量、保管期限、それから対象となる部屋番号が細かな文字で書き込まれていた。


 だが、どこを見ても患者の名前はなかった。


 三〇八号室、二一四号室、一〇七号室。


 呼び名として番号を使っていたこと自体は、すでに上の階で確認している。それでも、これだけ大量の薬が、人の名前ではなく番号だけで管理されている光景を目にすると、この療養所が患者をどう見ていたのかを改めて突きつけられるようだった。


「フェリクス」


「まだ何にも触っていません」


「俺はまだ何も言ってない」


「先に申し上げた方がよいかと思いまして」


 薬品室へ入って早々、フェリクスは両手を背中へ回し、棚から一歩離れた位置へ立っていた。


 以前なら気になる瓶を見つけた瞬間に顔を近づけていた男が、自分から距離を取っている。少しは学習したらしい。


 フェリクスの右側にはブラット、左側には先ほど保護した看護補助のドーラがいる。入口にはガルムが立ち、俺とセリーは部屋全体が見える中央付近へ位置を取った。


 一人で見ない。


 一人で触れない。


 一人の判断だけで、薬や記録を処分しない。


 リュネの町で帳簿を確認した時と同じだ。誰か一人へ権限も責任も集めれば、間違えた時に止める者がいなくなる。


「三〇八号室で使っていた薬はどれだ?」


 俺が尋ねると、ドーラはすぐには棚へ近づかず、奥の上段を指差した。


「一番上の段にある、青い布を巻いた箱です」


「布が巻かれている理由は?」


「特別管理薬だからです。他の患者へ使う薬と混ざらないように、とレイハン先生から言われていました」


「他の患者には使っていない?」


「少なくとも、私が配薬を担当していた間は使っていません」


「調合したのは?」


「レイハン先生です」


「外部から完成品が届いたことは?」


「ありません。材料だけを私たちが用意して、先生が一人で薬品室へ入って調合していました」


 フェリクスの表情が僅かに険しくなる。


「調合記録は残っていますか?」


「先生が自分で持っていました。私たちには見せませんでした」


「材料の払い出し記録なら?」


 ドーラが部屋の隅に置かれた机を見る。


「そちらの帳簿です。薬草や触媒を何日にどれだけ出したかは、私たちも記録させられていました」


 すぐに机へ向かうことはしなかった。


「エル。この部屋に術式は?」


『複数確認しています。現時点で直接的な攻撃術式はありませんが、棚と帳簿に監視系統と思われる術式が残っています』


「何を監視してる?」


『棚の開閉、薬品箱の開封、一部書類への接触です。誰が触れたかを魔力反応として記録する構造があります』


「外へ送っているのか?」


『送信先は特定できません。ただし、外部へ伝達するための経路と思われる部分があります』


 ガルムが腕を組んだ。


「つまり、ここを調べればレイハン側に気づかれる可能性がある」


『はい』


「解除は?」


『可能です。ただし、術式が停止したこと自体を受信側が検知する可能性があります』


「偽の記録を残せる?」


 フェリクスが尋ねる。


『技術的には可能です。しかし相手側の術式構造を完全には把握できていないため、不自然な偽装はかえって警戒を強める可能性があります』


 何も見なければ、こちらが薬について知らない状態を維持できる。


 だが、その間にも三〇八号室の少年は薬を飲まずにいる。保存槽から塔へ移した幼いアルフォンスとは別に、三階には「自分こそアルフォンス・ガイゼンだ」と信じている少年が残っていた。


 十四歳ほどに見える彼は、父王から手紙が届いていると話し、俺を自分の地位と身体を奪った偽物だと信じている。


 その認識に、薬や精神誘導が関わっている可能性は高い。


「解除する」


 俺が言うと、ガルムが眉を寄せた。


「レイハンへ知らせることになるかもしれないぞ」


「ああ」


「追跡を振り切った直後だ。向こうがここへ戻る可能性もある」


「それなら動いた痕跡は拾える」


「患者が狙われる」


「だから、解除と同時に療養所側の防護を上げる」


 ガルムはまだ納得していない。


「塔へ移してしまえば早い」


「移りたい人はな」


「今ここへ残ること自体が危険だと説明した上でもか?」


「ああ。危険を知らせる。その上で選んでもらう」


「判断できない状態の患者はどうする?」


「本人が明確に嫌がっているなら、緊急性がない限り無理には動かさない。その代わり、療養所そのものへ塔の防護を一時的に重ねる」


『可能です』


 エルがすぐに答えた。


『ただし、古の塔本体から離れているため恒久的な防護にはできません。現在の転移接続と外部中継を維持した場合、安定運用はおよそ二日間です』


「二日あれば十分だ。その間に移るか残るか、治療をどうするか、患者ごとに確認する」


「二日でレイハンが動かなかったら?」


「その時点で次を考える」


 俺が答えると、ガルムはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。


「分かった。ただし、防護を先に張れ」


「ああ。そこは同意する」


 エルへ指示を出し、療養所全域へ一時防護を重ねる。転送設備や患者の生命維持装置を邪魔しないよう、外部からの侵入と遠隔術式だけを優先して阻害する設定にした。


 それが済んでから、薬品室の監視術式を解除する。


『停止処理を開始します』


 俺の腕輪から伸びた青い光が、部屋の四隅と棚の縁を順番に走った。木材へ刻まれていた細い術式紋が一瞬だけ赤く輝き、次の瞬間には光を失う。


『警戒術式を停止しました。解除時に短い魔力波が発生しています。受信者が存在する場合、異常へ気づいた可能性があります』


「分かった。ここからは急がず、でも止まらずに進める」


 もう「見なかったこと」には戻れない。


「まず三〇八号室の薬を確認する」


「はい」


 ドーラが脚立を持ってきた。


 ところが、青い布の箱へ手を伸ばす直前で、その手が止まった。


「どうした?」


「……私が取ってよいのでしょうか」


「嫌なら別の者がやる」


「怖いです。でも、私がやります」


 ドーラは首を横へ振った。


「私は毎日、この箱から薬を取り出して三〇八号室へ運びました。中に何が入っているのかも知らず、先生から言われた量を、そのまま」


「なら、今は見る?」


「はい」


 声は震えている。


 それでもドーラは脚立へ上がり、青い布を巻かれた箱を両腕で抱えた。慎重に机まで運び、音を立てないように置く。


 箱の四方には銀色の留め具があり、正面には王家の紋章に似た刻印が入っていた。


「王家の印じゃないな」


 ブラットがすぐに言う。


「翼の枚数が違います」


 フェリクスが一歩身を乗り出しかけたところで、ブラットが無言で肩へ手を置いた。


「近づいていません」


「半歩動きました」


「見ようとしただけです」


「そこからでも見えます」


「……はい」


 妙に素直になったフェリクスが、机から距離を保ったまま刻印を見つめた。


「これは旧王立魔導研究所で使われていた医療管理印です。特に精神魔術による治療や、その補助薬を扱う部署で使われていました」


「今も?」


「廃止されています」


「いつ?」


「十七年前です。精神系補助薬の調合事故が複数発生し、制度そのものが見直されました」


 ガルムの表情が硬くなる。


「なら、今もこの印を使っているのはおかしい」


「はい。ただし、箱そのものが当時の物を流用している可能性もあります。印だけで現在の研究所が関与しているとは断定できません」


「そこは分けよう」


 俺が言うと、フェリクスが頷いた。


「開ける。フェリクス、ブラットと二人でやれ」


「承知しました」


 二人が箱の前へ立ち、四隅の留め具を一つずつ外していく。エルには開封の順番、触れた人物、箱の状態まで記録させた。


 最後の留め具が外れ、蓋がゆっくり持ち上げられる。


 中には細長い薬瓶が十二本。


 白、青、薄い紫。


 三種類の瓶が並んでいた。


「ドーラ。一日にどれを?」


「朝に白を一本。昼に青を半分。夜に紫を一本です」


「青の残り半分は?」


「翌日の昼に使っていました」


「いつから?」


「私がここへ勤め始めた時には、すでに同じ薬を飲んでいました」


「量が変わったことは?」


「あります。先生の指示で何度か増やしました」


「どういう時に?」


 ドーラの顔が曇る。


「暴れた時。夢がおかしいと訴えた時。それから……父王から届いた手紙を疑った時です」


 薬品室の空気が変わった。


「手紙を疑うと、何が増えた?」


「紫色です。先生は、記憶の混乱が強くなっているから必要だと説明していました」


 フェリクスが紫の瓶へ目を向ける。


「エル、開封せず分析できますか?」


『可能です。非接触分析を開始します』


 薬瓶の周囲へ淡い光の輪が浮かび、一本ずつ成分が読み取られていく。


『紫色薬剤の主成分を確認。睡眠誘導薬、記憶定着補助剤、感情抑制剤。加えて微量の精神誘導触媒が含まれています』


「精神誘導触媒?」


 ブラットの声が低くなる。


『薬剤単体では特定の記憶や命令を与える作用はありません。ただし、服用後に外部から与えられた音声、映像、記憶情報を受け入れやすくする可能性があります』


「鏡だ」


 俺がドーラを見る。


「レイハンが鏡を持ってきた夜、紫を飲ませた?」


「……はい。必ず」


 フェリクスが今度は身体を前へ出さず、考えを言葉にする。


「薬で抵抗を弱めたあとに、鏡や音声で特定の記憶を反復した可能性があります。少年が話していた、父王との面会、自分が本来の王太子であること、身体を偽物へ奪われたという話も、その過程で強化されたかもしれません」


「可能性だな」


「はい。まだ断定はしません」


「青は?」


『身体成長抑制作用、魔力循環制限作用、血統反応増幅作用を確認しました』


 ガルムが眉を寄せる。


「血統反応を増幅する?」


 フェリクスが説明する。


「王家固有の魔力反応を検査する際、反応が本来より強く出るよう補助する薬です。元々王家の血がある者へ使えば、より明確に王族と判定されやすくなる」


「王家の血がなくても?」


「完全に無反応な人物へどこまで通用するかは、実際の薬量と個体差を見ないと分かりません。ですから、三〇八号室の少年が王家と無関係だと結論づける材料にはなりません」


「逆も同じか」


「はい。薬を飲んでいる状態で王家反応が出ても、それだけでは素の状態を証明できません」


「白は?」


『精神安定作用、記憶混濁作用、時間感覚低下作用を確認しています』


 俺はゆっくり息を吐いた。


「少年が日付を数えられなかった理由の一つかもしれないな」


「はい」


 フェリクスも苦い顔をする。


「継続的に使えば、昨日と今日の境界が曖昧になる可能性があります。一定期間を正確に把握させない目的で使うこともできます」


 三〇八号室の少年は、「父上から迎えが来る」と何度も話していた。


 迎えの日がいつなのかは答えられなかった。


 今日が何日なのかも、分かっていなかった。


 もし時間そのものを曖昧にされていたのなら、いつまで待っても父が来ないという矛盾へ気づくことすら難しくなる。


「ドーラ。この薬を飲ませたあとの少年はどうなった?」


 彼女は紫色の瓶から目を離さない。


「静かになりました」


「どういう意味で?」


「怒らなくなりました。先生へ質問もしなくなって、食事も残さなくなりました。それから、先生が言ったことを、そのまま繰り返すようになりました」


 セリーが穏やかに尋ねる。


「それを見て、良くなったと思いましたか?」


「最初は」


 ドーラの両手が強く握られる。


「暴れなくなったから。夜に叫ばなくなったから。食事も全部食べるようになったので、私は……治療が効いているんだと思いました」


「途中からは?」


「話さなくなりました」


「何をですか?」


「自分のことです」


 ドーラが目を伏せる。


「今日は寒いとか、肉が硬いとか、窓を開けたいとか、眠りたくないとか。そういうことを、言わなくなりました」


 俺は黙ってそれを聞いた。


 保存槽から出た幼いアルフォンスも、自分で服の色を選び、パンやジャムの話をした。あの少年とは別人だが、自分の好みや不満を口にすることが「回復」ではなく「問題」とされていた構図は、あまりにも似ている。


「昨日から薬は?」


「飲ませていません。先生がいなくなり、誰も量を決められなくなったので」


「それで混乱が強まった?」


「はい。怒る回数も増えました。でも……自分の言葉も増えました」


 薬を全部止めればいい。


 そう思いたくなる。


 けれど。


「フェリクス」


「急に完全中止するのは危険です」


 俺が聞く前に答えが返ってきた。


「特に白と紫は、長期服用していた場合に身体が依存している可能性があります。急に止めれば、強い不眠、錯乱、痙攣、呼吸の乱れ、魔力循環の急変などが起こる可能性があります」


「どうする?」


「減量しながら経過を見るか、作用の弱い代替薬へ切り替える方法があります。ただし、服用期間も正確な総量も不明です。最初の一晩はかなり慎重に見るべきです」


「本人へ説明する」


 俺が言うと、フェリクスがこちらを見る。


「本人が拒否した場合は?」


「危険も説明する。それでも嫌なら、今すぐ生命に関わる状態でない限り無理には飲ませない」


「十四歳ほどの少年です。医学的な判断を全部任せるのは難しい」


「全部を一人で決めさせるとは言ってない」


 俺は薬瓶を見る。


「今夜だけ少量を飲む。別の薬へ切り替える。飲まずに経過を見る。それぞれ何が起こる可能性があるか説明する。その上で、本人がどこまでなら受け入れられるか聞く」


「もし、判断を拒否したら?」


「その時は『今夜だけ俺たちへ任せる』という選択肢も出す」


「それも選択肢ですか」


「ああ。選べない時にまで無理に選ばせる必要はない」


 フェリクスは少し考え、やがて頷いた。


「分かりました。薬の説明は私がします」


「一人では行かない」


「セリーさんと?」


「ドーラもだ」


 呼ばれたドーラが驚いたように顔を上げた。


「私も、ですか」


「ああ。これまで実際に薬を運んでいたのはお前だ。ただし、謝罪を押しつけるために連れていくんじゃない。少年が顔も見たくないと言えば、そこで下がる」


「……怖いです」


「嫌なら行かなくていい」


「行きます」


 ドーラは少し震えながら、それでもはっきり答えた。


「謝って許してもらうためではありません。何を渡していたのか、私は何をしていたのか、それを本人が聞きたいと言ったなら私の口から話します」


「それでいい」


          ◇◇◇


 次に確認したのは、机の引き出しへ保管されていた払い出し帳簿だった。


 三冊あり、表紙には年号ではなく部屋番号が書かれている。そのうち一冊が三〇八号室専用だった。


「一人で開かない。俺、フェリクス、ドーラ、ガルムで見る。ブラットは他の記録との照合を頼む」


「セリーさんは?」


 ブラットが聞く。


「俺を見てる」


「書類ではなく?」


「俺が無理をしないようにだ」


 ガルムが鼻から息を吐いた。


「それも必要だな」


「必要ありません」


「必要です」


 セリーに即座に返される。


「主様は、自分に関係する記録が出ると休憩を忘れますので」


「まだ何も出てない」


「出る前から言っております」


「……開くぞ」


 これ以上続けると負ける気がした。


 最初の頁には、三〇八号室へ入った少年についての記録が残されていた。


『入所六年前』


『推定年齢十三歳』


『出生地不明』


『両親不明』


『身元保証人――』


 その先は黒い線で塗り潰されている。


「エル。下の文字を拾える?」


『表面の墨は後から重ねられています。筆圧痕を確認します』


 青い光が紙面をなぞり、削られた文字が薄く浮かび上がる。


『身元保証人 王宮医務局特別保護課』


 ブラットの顔が変わった。


「そんな部署は知りません」


「今は存在しない?」


「少なくとも現行の王宮組織にはありません。私が王宮で勤務していた時にも聞いたことがない」


「昔なら?」


「表向きの組織図にはありませんでした」


 ガルムが低く言う。


「表向きには、か」


「そういう部署が存在しなかったとは断言できません」


「担当者名は?」


 フェリクスが続きの文字を読む。


「リオネル・ヴァイス」


 ガルムの視線が止まった。


「知ってるのか?」


「名前だけなら近衛の古い記録にある。十五年前、王宮から失踪した医務官だ」


「当時の年齢は?」


「四十二」


「生きていれば五十代後半か」


「そうなる」


「レイハンとの関係は?」


「まだ不明だ」


「記録しておけ」


『記録しました』


 頁を進める。


 四年前。


『精神同一性不安定』


『自己認識不足』


『王家血統反応、基準以下』


『記憶補強処置開始』


「入所時十三歳。現在の見た目が十四歳ほど」


 フェリクスが青い薬の記録と照らし合わせる。


「成長抑制薬の投与開始は入所後半年。六年間で外見上ほとんど成長していない理由としては整合します」


 次の帳簿には、白、青、紫の薬量が日ごとに記されていた。


 その横には、鏡を使った日。


 父王からの手紙を渡した日。


 少年が「父王の言葉と先生の説明が違う」と訴えた日。


 薬の増量日。


 不自然なほど同じ周期が繰り返されている。


「手紙はほぼ一か月に一度」


 ブラットが記録を追う。


「手紙を渡した日か、その翌日に紫が増えている」


「従った時は?」


「数日後に減量されています」


 フェリクスの口元が硬くなった。


「薬と手紙、鏡を使って認識を補強していた可能性が高いです。疑えば抑制と誘導を強くし、受け入れれば弱める」


「条件づけか」


「はい」


 さらに最近の記録へ進む。


 半年前から、王家血統反応を測定する回数が急激に増えている。


「半年前」


 ブラットが俺を見る。


 俺が古の塔へ入った時期と近い。


 塔の所有者として認証され、俺が生きていることを王都側が把握し始めた頃。


「俺が塔に入ったことと関係している可能性がある」


「少年を何かに使う準備を始めた?」


 ブラットの声には怒りが滲んでいた。


「可能性はある。でも、まだ決めない」


「最後の記録があります」


 フェリクスの指が、一番新しい頁で止まった。


 日付は、俺たちが白鴉療養所へ入る前日。


『対象、最終安定段階へ移行』


『王家帰還準備を開始』


『偽体との接触前に、自己防衛命令を定着させる』


 誰もすぐには言葉を出さなかった。


 偽体。


 今までの少年の言葉を考えれば、俺を指している可能性が高い。


「自己防衛命令」


 ガルムが低く繰り返す。


「三〇八号室の少年は、お前を攻撃するよう仕込まれている可能性がある」


「ああ」


「しかも本人は、お前を消せば自分が本物として戻れると信じている」


「ああ」


「それでも拘束しないのか」


「危険が出ていない今はしない」


「命令がいつ発動するか分からない」


「だから伝える」


 ガルムが眉を寄せる。


「本人へ、自分の中にお前を攻撃させる命令が埋め込まれているかもしれないと?」


「ああ」


「混乱するぞ」


「するだろうな」


「自分を怪物だと思う可能性もある」


「だから、『命令があるかもしれないこと』と『それが本人の意思とは限らないこと』を一緒に伝える」


 本人が何も知らず俺へ近づき、突然身体を操られたように襲いかかったら。


 傷ついたのが俺だけだったとしても、少年は自分を責めるだろう。


 周囲も「危険な患者」として見る。


 それを避けるために隠すという判断もある。


 だが、何も知らされず薬を飲まされ続けた少年へ、また都合の悪い情報だけ隠すのは違うと思った。


「攻撃したくなった時。頭の中へ声が聞こえた時。身体が勝手に動きそうになった時。助けを呼ぶ方法も一緒に決める」


「お前が話すのか?」


「ああ」


「恨まれるぞ」


「もう十分嫌われてる」


「さらにだ」


「それでも俺に関する命令なら、俺が逃げるのは違う」


 ガルムはしばらく俺を見ていたが、やがてそれ以上反論しなかった。


「薬と帳簿はどうする?」


「原本を勝手に塔へ持っていかない」


「証拠だぞ」


「だからこそだ。患者の記録でもあり、療養所の犯罪記録でもある。誰か一人の持ち物みたいに扱わない」


「管理者は?」


「今は空白だろ」


「レイハンを認めないならな」


「ああ。だから、患者側、保護に入っている近衛、療養所の残った職員、塔側で保全方法を決める。それまではこの部屋を封鎖して、複数人で出入りを記録する」


 ガルムが少し苦い顔をする。


「面倒な仕組みだ」


「簡単に一人へ任せ続けた結果が、これだ」


「……それを言われると反論しづらいな」


          ◇◇◇


 薬品室を出る直前、ドーラが紫色の薬瓶を見つめたまま動かなくなった。


「どうした?」


 声をかけると、彼女はしばらく答えなかった。


「これを、私は何度も運びました」


「ああ」


「三〇八号室の子が嫌がった日も」


「ああ」


「吐き出した時は、もう一度飲ませました」


 唇が震えている。


「レイハンに命じられた?」


「はい。でも、押さえたのは私です。他の職員と一緒に、口を開けさせました」


 両手を見つめる。


「謝れば、少しは楽になるんでしょうか」


「お前が?」


「……はい」


「少年は、今お前の謝罪を聞きたいと思ってる?」


「分かりません」


「なら、先にそこを聞こう」


「何を?」


「お前の顔を見たいか。説明を聞きたいか。薬についてお前から話してほしいか。嫌だと言われたら、それで下がる」


「許してもらえなかったら?」


「受け入れるしかない」


 ドーラの目から涙が落ちた。


「怖いです。嫌われるのが」


「ああ」


「でも、私が怖いなんて言う資格は――」


「ある」


 そこでだけはすぐに答えた。


「お前がしたことと、今怖いと感じていることは別だ。怖いから責任が消えるわけでもないし、責任があるから怖がってはいけないわけでもない」


「……はい」


「ただ、怖いから逃げるなら、それはまた別の話になる」


 ドーラは泣きながら頷いた。


「行きます」


「ああ」


「許してほしいとは言いません」


「それでいい」


 セリーがドーラの肩へ手を伸ばしかけて止めた。


「触れてもよいですか?」


 ドーラが驚いた顔でセリーを見る。


 少ししてから、ゆっくり頷いた。


「はい」


 セリーの手が震える肩へ触れる。


「一緒に行きます。ただし、ドーラさんの言葉を私が代わりに言うことはしません」


「はい」


「途中で逃げたくなったら、まず口にしてください」


「……もう逃げたいです」


 ドーラは本当にすぐ言った。


 セリーがほんの少し目を細める。


「では、今はどうしたいですか?」


「怖いです。でも、行きたいです」


「分かりました。一緒に行きましょう」


          ◇◇◇


 三〇八号室へ向かう前に、俺たちは一度食堂へ寄った。


 療養所に残っている患者へ配るため、セリーが簡単な焼き菓子を用意していた。古の塔から材料だけ転送し、療養所の厨房を安全確認した上で作ったらしい。


 皿の上には、丸いもの、少し潰れたもの、花の形にしようとして途中で失敗したものまで混ざっている。


「なぜこんなに形が違う」


「短時間で人数分を作ったからです」


「セリーでも失敗するんだな」


「失敗ではありません。個性です」


「さっき自分で失敗したって言っただろ」


「主様」


「何だ」


「ミーナさんが二つ欲しいそうです」


「話を逸らしたな。一つだ」


「聞こえてるよ!」


 食堂の入口から声が飛んできた。


 振り返ると、ミーナが小皿を持って立っている。その後ろには、まだ毛布を肩へ掛けている患者や、食堂まで出てこられるようになった数人が、焼き菓子の匂いにつられたように集まっていた。


「王子様は三〇八号室の子と食べるんでしょう?」


「ああ」


「じゃあ私は毛布の子と食べるから、二個」


「一人一個だ」


「半分ずつ二種類なら一個分」


「知恵を使う方向が違う」


 毛布を掛けた少年が、ミーナの後ろで小さく笑った。


 セリーは皿を持ったまま、集まった患者へ向き直る。


「食べたい方だけお取りください。甘いものが苦手な方、薬との相性で食べられない方は、別のものを用意します。今はいらないという方も、あとで欲しくなれば言ってください」


 一人の女性が手を上げる。


「甘いのは嫌い」


「では、薄い塩味の柔らかなパンにしますか?」


「それなら食べたい」


「俺は二つ」


 別の大柄な男が言う。


「一つです」


「身体が大きい」


「では大きさを少し変えます。ただし夕食前ですので、量は控えめに」


「子供と同じじゃないならいい」


 甘いもの。


 塩気のあるもの。


 柔らかいもの。


 今はいらない。


 あとで欲しい。


 以前なら、同じ時間に同じ薬を飲まされ、決められた食事を残さず食べることを求められていた場所で、今は小さな希望がいくつも重なっている。


「主様。三〇八号室へはどの形を持っていきますか?」


「本人に選ばせればいい」


「では、数種類見せます」


「全部持っていくのか?」


「選択肢です」


「食べきれないぞ」


「残して構いません」


 その言葉に、俺自身が一瞬止まった。


 王太子だった頃は、食べ物を残さないことも教育の一つだった。料理人への礼儀、国民の模範、王族としての振る舞い。


 けれど、食べられる量まで他人に決められ続けた人間へ、今度はこちらが「全部食べろ」と言う必要はない。


「持っていこう」


「はい」


          ◇◇◇


 三階へ戻り、三〇八号室の前まで来る。


 扉の前へ立つのは、俺、セリー、フェリクス、ドーラの四人だけにした。ガルムとブラットは廊下の角からこちらを確認できる位置へ残り、必要があればすぐ来られるようにする。


 扉を二度叩く。


 返事はない。


「アルフォンス」


 あえて本人が名乗っている名前で呼ぶ。


「薬について話したい」


 扉の向こうで何かが動く音がした。


『先生は?』


「戻っていない」


『薬は飲まない』


「飲ませに来たんじゃない。中身が分かったから説明しに来た」


 少し間が空く。


『嘘だ』


「白、青、紫。毎日飲んでいたな」


 扉の向こうが静かになった。


『先生が必要だって言った』


「ああ。だが、今すぐ全部を止めると身体へ負担が出る可能性があることも分かった」


『脅すのか』


「違う。何をするか選ぶために、危険も含めて話す」


『何を選ぶ』


「少しずつ量を減らす。別の薬へ切り替える。今夜は飲まずに経過を見る。どれにも利点と危険がある」


 しばらく沈黙が続いた。


『先生じゃないと分からない』


「だからフェリクスを連れてきた」


『誰だ』


「元王立魔導研究所の研究者だ」


 扉の向こうの気配が固くなる。


『王宮の奴か』


「以前は研究所に所属していました」


 フェリクスが自分で答える。


「フェリクス・ハルトマンです。現在は王宮の命令であなたを調べに来たわけではありません」


『父上の部下か』


「国王陛下直属ではありません」


『じゃあ使えない』


「それはなかなか厳しい評価ですね」


「お前、そこで普通に返すのか」


「事実ですので」


 扉の向こうから、ほんの僅かに息が漏れる音がした。


 笑ったのかもしれない。


「入らない」


 俺は続けた。


「扉越しでいい。薬の説明を聞く?」


 長い沈黙のあと。


『ドーラがいる』


「ああ」


『何で』


「本人が話したいと言った」


『嫌だ』


 ドーラの身体が強張った。


 俺は彼女へ視線を向ける。


「聞いたな」


「はい」


「戻る?」


 ドーラは扉を見つめたまま、しばらく答えられなかった。


 やがて、小さく息を吸う。


「一つだけ、伝えてよいですか」


 今度は扉の向こうへ向かって尋ねる。


「返事は要りません。終わったらすぐ離れます」


『嫌だって言った』


「はい。ですから、顔は見せません。謝罪を聞いてほしいとも言いません」


 声が震える。


「ただ、私はあなたが薬を嫌がった時に身体を押さえました。吐き出した薬を、もう一度飲ませたこともあります」


 セリーは隣にいる。


 けれど、代わりに言葉を足さない。


「先生に言われたからです。でも、実際に押さえたのは私です。薬の中身は知りませんでした」


 ドーラの指が震える。


「途中から、薬を飲んだあとのあなたが、以前のあなたとは違うように見えていました。今日は寒いとか、肉が嫌だとか、そういうことすら言わなくなっていたのに、それでも私は続けました。先生に逆らうのが怖かったからです」


 一度、言葉が詰まる。


「ごめんなさいとは、今は言いません。あなたが聞きたくないのに、私が楽になるためだけに謝るのは違うと思うからです」


 扉の向こうから音はしない。


「いつか、あなたが聞きたいと思ったら聞いてください。聞きたくないなら、それでも構いません」


 しばらくして、少年の声が返ってきた。


『終わり?』


「はい」


『帰れ』


 ドーラの顔が一瞬歪む。


 それでも。


「分かりました」


 それだけ答えて、扉へ背を向けた。


 二歩ほど進んだところで、向こうからもう一度声がする。


『薬』


 ドーラの足が止まる。


『今日も持ってる?』


「ここには持ってきていません」


『捨てた?』


「いいえ」


『何で』


 ドーラは振り返らなかった。


「あなたへ使われていたものを、あなたへ何も言わず捨ててはいけないと思ったからです」


『先生の物だ』


「薬を作ったのは先生でも、使われていたのはあなたです。記録もあります」


『俺の?』


「あなたに関する記録です」


『触るな』


「必要な確認以外は触れません。確認する時も、できる限り先に伝えます」


 再び沈黙が落ちる。


『……帰れ』


「はい」


 ドーラは今度こそ歩き出した。


 廊下の角へ消えるまで、泣かなかった。


「フェリクス。説明を頼む」


「扉越しで?」


「ああ」


 フェリクスは普段の研究発表のような早口を抑え、一つずつ言葉を選ぶように話し始めた。


「白い薬は、精神を落ち着かせる作用があります。ただし同時に、記憶と時間の感覚を曖昧にする作用があります」


『知ってる。落ち着く薬だ』


「飲んだあとに、今が何日なのか分からなくなることはありませんでしたか?」


 返事がない。


「青い薬は、身体の成長と魔力循環を抑える作用があります」


『王子の身体を守るためだ』


「そのように説明されたのですね」


『そうだ』


「もう一つ、王家特有の魔力反応を強く見せる作用もありました」


 扉の向こうで物音が止まった。


『何だよ、それ』


「血統検査で、元々持っている反応を増幅して見せる作用です。ただし、この薬が使われていたからといって、あなたに王家の血がないとは言えません」


『……弱かったら』


 少年の声が急に小さくなる。


『薬がないと弱かったら、俺は王子じゃない?』


「血の反応だけで、お前が何者か全部は決まらない」


 俺が答えた。


『王家の血がなかったら、王太子じゃないだろ!』


「その可能性はある」


『やっぱり消す気だ!』


「違う」


『王子じゃなかったら、俺には何もない!』


 扉の内側で何かが倒れた。


 近づきたくなるが、動かない。


「アルフォンス。俺たちはここから動かない」


『黙れ!』


「紫の薬には」


 フェリクスが、それでも説明を続ける。


「外から与えられた記憶や映像を、自分のものとして受け入れやすくする作用があります」


『黙れ!』


「鏡を見せられた夜に飲んでいたはずです」


『父上に会った!』


「そう見えた記憶そのものを否定するつもりはありません」


『会ったんだ!』


「その相手が本当に国王陛下だったのか。それとも別の映像だったのか。それをこれから確認できます」


『嫌だ!』


「怖いか」


『怖くない!』


「分かった。今は怖くないって言うんだな」


『お前は何も分かってない!』


「ああ。お前が何を見たのか、俺は見てない。だから全部は分からない」


 扉越しに荒い呼吸が聞こえる。


「でも、今夜の薬をどうするかは一緒に考えられる」


『先生が決める』


「今まではな」


『父上が決める』


「父上から、薬の種類や量まで書かれた手紙が来てる?」


 沈黙。


『王子として正しくあれって書いてある』


「薬を飲めとは?」


『先生が説明した』


「なら、父上が書いた言葉と、レイハンの説明は分けて考える」


『同じだ!』


「お前は今、同じだと思ってる」


『同じだ!』


「ああ。そこも今すぐ変えろとは言わない」


 フェリクスが俺を見る。


 さっき相談した減量案で進めても危険が大きすぎないかという確認だ。


 小さく頷く。


「今夜は、白い薬を普段の四分の一だけ飲む。青と紫は飲まない。その代わり、エルとセリーが身体の状態を確認する。苦しくなったり、眠れなくなったり、身体が勝手に動きそうになったらすぐ知らせる」


『白だけ?』


「ああ」


『夢を見たら』


「セリーか俺を呼べ」


『お前を?』


「俺が嫌ならセリーだけでもいい」


『先生は?』


「今は呼んでも来ない」


 長い沈黙。


「今すぐ決められないなら、今夜だけ俺たちへ任せるという方法もある」


『命令?』


「違う。提案だ」


『断ったら?』


「薬を飲まない方法で経過を見る」


『苦しくなったら?』


「助ける」


『何で』


「死なせたくないからだ」


『偽物なのに』


「俺は、お前を偽物だと決めていない」


『俺はお前を偽物だと思ってる』


「ああ」


『それでも?』


「ああ」


 長い沈黙が続いた。


 廊下の誰も急かさない。


 やがて。


『白を』


 掠れた声が届く。


『四分の一』


「分かった」


『ドーラには持ってこさせるな』


「ああ」


『セリーが持ってこい』


「はい」


 セリーが扉へ向かって返す。


『目の前で量を分けろ』


「瓶を開け、必要な量だけ取り分けます」


『残りは?』


「保管します。勝手に誰かへ使うことはしません」


『記録しろ』


『記録しました』


 エルが答える。


『うるさい』


『今後、音量を下げます』


 それまで張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


「焼き菓子もあるぞ」


 俺が言うと、扉の向こうが妙に静かになった。


『……何で今その話』


「薬のあと、口が苦いかもしれないだろ」


『子供扱いするな』


「俺も食べる」


『お前も薬飲むのか』


「菓子だけだ」


『ずるい』


「なら薬も一緒に――」


「主様」


「冗談だ」


『変な奴』


「町でも言われる」


 扉の向こうから、小さく何かを動かす音が聞こえた。


 先ほど倒れた椅子でも起こしているのかもしれない。


『菓子、どんなの』


「丸いのと、少し歪んだ丸と、花の形にしようとして失敗したやつ」


『まともなのないのか』


「味は同じです」


 セリーが静かに補足する。


『じゃあ』


 少し迷う。


『花に失敗したやつ』


「分かりました」


『一番ましな形の』


「選んで持ってきます」


『触りすぎるな』


「はい」


「注文が多いな」


『王子だから』


「そうか」


 否定しない。


 それを今ここで争う必要はない。


『薬を持って戻ってこい』


「ああ」


『扉は二回叩け』


「ああ」


『勝手に入るな』


「ああ」


 そこで少し間があった。


『……戻ってこい』


 胸の奥が僅かに揺れる。


「戻る」


『約束?』


「ああ」


『記録』


『記録しました』


「それじゃあ、薬を用意してくる」


 俺たちは扉から離れた。


          ◇◇◇


 数歩進んだところで、セリーが俺の隣へ並んだ。


「主様」


「何だ?」


「父王から届いたという手紙については、まだ確認しませんでしたね」


「ああ。今夜は薬を先にする」


「予定では、一枚だけでも確認する案がありました」


「手紙は逃げない」


「レイハンが戻れば奪われる可能性はあります」


「なら、奪われない方法を本人へ聞く」


 手紙を塔へ複写してよいか。


 部屋へ防護を追加するか。


 本人が自分で持っていたいのか。


 こちらが勝手に持ち出す理由にはならない。


「主様」


「何だ」


「もし、本当に国王陛下が書いた手紙だったら、どうなさいますか?」


 足が止まる。


 父上が。


 俺とは別のアルフォンスを王太子だと認め、王になることだけが生まれた意味だと教え、俺を偽物と呼んでいたとしたら。


「怖いな」


「はい」


「たぶん怒る」


「少年へ?」


「違う。父上へだ」


 そこだけは即答できた。


「でも、本当に父上が書いたとしても、なぜそこまでしたのかは聞く」


「答えてくださるでしょうか」


「それは知らない」


「はい」


「筆跡が似ているだけかもしれない。王家印が偽造されているかもしれない。父上本人も、何か違う説明を受けていた可能性だってある」


 全部を確かめるまでは決めない。


 ただし。


 本物の手紙でも。


 偽物の手紙でも。


 三〇八号室の少年が「父上から届いたもの」だと信じて何年も抱えてきた時間は消えない。


「いきなり奪わない」


「はい」


「偽物だと決めつけない。でも、本物だから信じ続けろとも言わない」


 セリーは静かに頷いた。


「では、まず薬ですね」


「ああ」


「焼き菓子も」


「ああ」


「主様の分は普通の丸でよろしいですか?」


「何でもいい」


「花に失敗したものは?」


「三〇八号室のアルフォンスが選んだ」


「はい。一番ましな形を探します」


「同じ味だろ」


「本人が選びましたので」


 その一言で、何も返せなくなる。


 選んだ。


 薬も。


 菓子も。


 大きなことではない。


 それでも、誰かに「王子として正しい形」を決められ続けた少年が、自分で今夜の薬の量を決め、食べる菓子の形まで選んだ。


「一番ましなものにしろ」


「承知しました」


「でも、少しくらい歪んでいていい」


「なぜです?」


「失敗した花を選んだんだ。綺麗すぎたら別物だろ」


 セリーが少し目を細めた。


「分かりました。歪んでいて、それでも花には見えるものを探します」


「頼む」


          ◇◇◇


 薬品室へ戻る廊下の窓から、夕日が山の向こうへ沈み始めているのが見えた。


 白鴉療養所へ夜が来る。


 これまでなら、三〇八号室の少年は白い薬を飲み、青い薬で身体を抑え、夜には紫の薬を飲んでいた。そのあと鏡を見せられ、父王から届いたという手紙を読み、「自分こそ本物のアルフォンスだ」と何度も確かめる夜を過ごしていたのかもしれない。


 今夜は、少しだけ違う。


 白い薬を四分の一だけ。


 青と紫は飲まない。


 苦しくなれば呼ぶ。


 眠れなければ知らせる。


 身体が勝手に動きそうになった時も隠さない。


 薬のあとには、少し歪んだ花の焼き菓子を一つ。


 それだけだ。


 けれど、今夜の過ごし方を初めて本人が決めたという意味では、大きく違う。


「エル」


『何でしょうか』


「三〇八号室は、危険な魔力反応だけ見てくれ。生活そのものを覗くな」


『承知しました。生命危機、精神干渉、急激な魔力暴走、自傷・他害につながる強制術式のみ検出対象とします』


「本人から呼ばれたら?」


『通信を接続します』


「レイハンが外から術式を飛ばした場合は?」


『療養所防護へ接触した時点で検出します』


「王家式の権限鍵も」


『再使用を検出した場合、遮断を試みます』


「手紙は?」


『本人の許可なく走査しません』


「ああ。それでいい」


 今夜、何が起きるのかはまだ読めない。


 薬を減らした反動で強い夢を見るかもしれない。帳簿に書かれていた「自己防衛命令」が動くかもしれないし、監視術式の停止に気づいたレイハンが何か仕掛けてくる可能性もある。


 それでも。


 本人へ何も知らせず、薬を増やし、眠らせて、都合のいい言葉だけを残す夜へ戻すつもりはない。


「主様」


「何だ」


「少し笑っています」


「そうか?」


「はい」


「なぜでしょう」


「知らない」


 答えながら、さっきの三〇八号室の扉を思い出す。


『戻ってこい』


 確かに。


 少年はそう言った。


「戻ると約束した相手が、また一人増えたからかもしれない」


「また守るものが増えましたね」


「そういう言い方をするな」


「嬉しくありませんか?」


「少しはな」


 セリーが笑う。


「では、歪んだ花を探しましょう」


「ああ」


 父上から届いたという手紙は、まだ三〇八号室の少年の手元にある。


 今夜は奪わない。


 開かせもしない。


 まずは、自分で選んだ薬を届ける。


 自分で選んだ焼き菓子を渡す。


 父上の言葉を調べるより先に。


 王家の血が本物かを確かめるより先に。


 AG-02と刻まれた銀の鍵が、この少年へ繋がっているのかを急いで決めるより先に。


 目の前の少年が、今夜をどう過ごしたいのかを見失わない。


 白い薬を四分の一。


 紫と青は飲まない。


 夢を見たら、誰かを呼ぶ。


 そして、少し歪んだ花の焼き菓子を食べる。


 誰かから与えられた「王子として正しい夜」ではなく。


 三〇八号室の少年自身が選んだ、最初の夜にするために。

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