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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第28話 元王太子、自分の名を名乗る少年へ本物かどうかを聞かない

 石室の扉が開く音に合わせるように、少年が握っていた俺の手へ少しだけ力を込めた。


 保存槽から出て、自分で選んだ淡い緑色の服へ着替えてから、まだそれほど時間は経っていない。服の袖は少し長く、指先が半分ほど隠れていたが、セリーが折ろうとしたところ本人が「このままがいい」と言ったため、そのままにしてある。


 足元には柔らかな布靴を履き、右手は俺と繋いでいる。左側には、いつでも身体を支えられる距離を保ったセリーが立っていた。


 ほんの少し前まで青白い魔力媒体の中へ浮かんでいた少年と同じ人物だと分かっているのに、こうして服を着て自分の足で立っている姿を見ると、まるで別人のように感じられた。


「開いた」


「ああ」


「向こう、暗い」


「地下だからな」


「ここも地下」


「そうだった」


 少年がゆっくり俺を見上げる。


「王子様、分かってない」


「元王子様も、たまには間違える」


「たまに?」


 横にいたフェリクスが、ちょうどその瞬間に小さく咳払いをした。


「どうしてそこで咳をする」


「何もありません」


「言いたいことがある顔だぞ」


「ありません」


「ブラット」


「私へ振らないでください」


 石室の入口側で待機していたブラットが、露骨に視線を逸らす。そんな大人たちを見比べて、少年の口元が少し緩んだ。


 まだ笑うと僅かに呼吸が乱れるものの、保存槽を出た直後のように咳き込むことはなくなっている。それを横目で確認していたセリーも、表情には出さなかったが少し安心したようだった。


「歩ける?」


 少年が尋ねる。


「少しなら大丈夫です」


 答えたのはセリーだった。


「ただし、この先へ進む前に身体の状態を確認します。保存槽から出られたからといって、すぐ普段通りに動いてよいわけではありません」


「また確認」


「はい」


「いっぱいある」


「長期間、保存状態に置かれていた方ですので」


 そこまで言ったところで、少年の表情が僅かに止まった。セリーもすぐに自分の言葉が少年の中の「二十年」へ繋がったことに気づいたらしい。


「……申し訳ありません。今の言い方は、少し急でした」


「何で?」


「まだ確定していないことを、決まっていることのように聞こえる言い方をしました」


 少年はセリーの顔を見たあと、自分の緑色の袖を指先で握った。


「二十年、嫌」


「はい」


「でも、ほんと?」


「残っている記録が正しければ、という段階です。ですから、それも含めて少しずつ確認していきます」


 セリーが穏やかに答えると、少年はわずかに肩の力を抜いた。


「じゃあ、確認」


「はい」


「でも痛いの嫌」


「何をするのか、一つずつ先に説明します」


「嫌って言っていい?」


「もちろんです」


「死ぬなら?」


 俺は一瞬、少年の横顔を見る。


 保存槽の中でも同じ話をした。嫌だと言うことと、命を守るためにどうしても必要な処置をすることは、必ずしも同じにはならない。


 セリーも覚えていたらしく、急いで安心させるだけの答えは返さなかった。


「これから予定している確認は、今すぐ行わなければ命に関わるものではありません。ですから、嫌でしたら止めます」


「分かった」


「では、移動しましょう。主様」


「何だ」


「歩かせすぎないでください」


「俺に言う?」


「主様は『本人が歩きたいと言ったから』という理由で、少し多く歩かせそうですので」


「否定しきれない」


「でしょうね」


 少年が俺とセリーを交互に見比べた。


「やっぱりセリーさんの方が強い」


「そこは認める」


「主様」


「何だよ」


 フェリクスが小さく笑い、ブラットも再び顔を逸らした。


          ◇◇◇


 身体の確認に使う場所は、最奥区画からすぐ外にある小さな処置室へ決まった。


 本来は療養所の職員が保存区画へ入る前後に使っていた部屋らしい。壁は白い石材で囲まれ、中央には簡素な寝台が置かれている。壁際の棚には古い治療器具が幾つも残されていたが、使用するつもりのないものについては、あらかじめ布を被せて見えないようにしてあった。


 ところが、少年は入口を越えた瞬間に足を止めた。


「どうした?」


「白い」


 声が急に小さくなる。


 白い壁。


 白い寝台。


 天井から照らす魔導灯。


 それだけで、保存槽の中で少年が話していた「白い部屋」の記憶と結びついてもおかしくない。腕を押さえられたことや、先生と呼ばれる者に眠らされたことまで、一緒に思い出している可能性がある。


「別の場所にする?」


 俺が尋ねると、少年はすぐには答えず、処置室の中を慎重に見回した。


「ここでやらないと駄目?」


「駄目じゃない。廊下でできる確認もあるし、塔へ着いてからできることもある。ただ、今ここから移動して大丈夫な状態かだけは先に見たい」


 少年の視線が寝台へ戻る。


「寝る?」


「寝なくていい」


「座るだけ?」


「ああ」


「先生いる?」


「今はセリーとフェリクスだ。必要ならヨアヒムへ通信で聞くことはある」


「ヨアヒムって?」


「治療する人だ」


 その言葉だけで、少年の身体が少し強張った。


「先生?」


「治療師だな。仕事が似ている部分はあるけど、ヨアヒムは勝手に触らない」


「ほんと?」


「クララも嫌だって言ったら、そこで止まった」


「クララ?」


「塔にいる子だ。ミーナと一緒にいる」


「僕より大きい?」


「少しな」


 そこまで聞いてから、少年はもう一度白い処置室へ目を向けた。


「扉、開けたまま?」


「いいぞ」


「あなた、ここにいる?」


「いる」


「セリーさんも?」


「もちろんです」


「フェリクスも?」


「必要な確認をしている間はいます」


 少し離れた位置からフェリクスが答えた。


「ただし、私が見ていること自体が嫌でしたら、入口の外へ下がります」


 少年はしばらくフェリクスを見つめた。


「見られるの嫌」


「では下がります」


「でも、確認するんでしょ?」


「エルとセリーさんで確認できることは任せます。私にしか判断できない術式反応が必要になった時だけ呼んでください」


「怒らない?」


「怒りません」


「研究者なのに?」


 フェリクスの表情が僅かに引きつった。


「……努力中です」


「何を?」


「勝手に近づかない努力を」


 少年が少し笑った。


「じゃあ、そこ」


 入口から二歩ほど外を指す。


「ここですか?」


「うん」


「承知しました」


 フェリクスは本当にその位置まで下がった。


 少年は、何かを確かめるようにその姿をしばらく見ていた。


「言ったら、ほんとに行った」


「ああ」


「先生は行かなかった」


「全部の大人が同じじゃない」


「変」


「そういうものだ」


「王子様も変」


「それは前から言われてる」


「誰に?」


「いろいろ」


「セリーさん?」


「かなり」


「主様」


「何だ」


「余計なことは言わなくてよろしいです」


 そのやり取りで、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


 少年はようやく部屋へ足を踏み入れたものの、中央の白い寝台は選ばなかった。代わりに壁際の木椅子を指差す。


「ここ」


「寝台じゃなくていい?」


「白いの嫌」


「分かった」


 セリーが木椅子の座面へ柔らかな布を敷いた。


「こちらへ座っていただけますか?」


「うん」


 少年は俺の手を離さないまま、ゆっくり椅子へ腰を下ろした。


          ◇◇◇


 身体の確認は、本当に一つずつ行った。


「最初は呼吸を見ます」


「触る?」


「まだ触りません。服の上から、胸やお腹が呼吸に合わせて動いているかを見るだけです」


「服の上?」


「はい」


「じゃあいい」


 セリーは真正面から覗き込むことを避け、少し斜めの位置から少年の呼吸を確認した。エルも魔力循環を記録しているが、そのことは先に本人へ説明してある。


「次に手首へ触れて、脈を確認したいです」


「手首」


「ここです」


 セリーが自分の手首を示す。


「痛い?」


「指を当てるだけです」


「何秒?」


「十数えるくらいで終わります」


「僕が数える?」


「そうしましょうか」


「うん」


 少年が右手を差し出した。


 俺と繋いでいる方ではない。


 セリーは「今から触ります」と先に告げてから、手首へ指を置いた。


「いち、に、さん……」


 少年自身が数える。


 六まで来たところで一度セリーの指を見て、九になると俺の顔を見た。十まで終わった瞬間、セリーはすぐに手を離す。


「終わり?」


「はい」


「短い」


「長い方がよかったですか?」


「嫌」


「では、短くてよかったですね」


「うん」


 その後も、体温、瞳の反応、指が自分の意思で動くか、足先へ力が入るか、魔力を意識した時に痛みや眩暈が起きないかと、一つずつ確認していく。


 少年が嫌だと言えば止める。


 説明が足りなければ、分かるところまで言い直す。


 そして途中で、セリーが次の確認内容を告げた。


「次は、お腹へ手を当てて状態を確認したいです」


 その瞬間、少年ははっきり首を横へ振った。


「嫌」


「分かりました。では今はやめます」


「……それだけ?」


「はい」


「何で?」


「嫌だと聞きましたので」


「でも確認するんでしょ?」


「必要ではあります。ただ、別の方法を考えることもできますし、今すぐでなくても構いません」


「怒らない?」


「怒りません」


 少年は、しばらくセリーの顔を見つめていた。


「じゃあ……あとなら」


「あと、とは?」


「塔行ってから」


「分かりました。では、今は行いません」


「忘れない?」


「本人希望として記録へ残しますか?」


 少年は少し考える。


「『今は嫌』って?」


「はい」


「残す」


『腹部触診は本人希望により塔移動後へ延期します』


 エルの声が響く。


 少年は記録内容を確認するように頷いた。


「僕が決めた?」


「ああ」


「でも、必要なんでしょ?」


「必要でも、今すぐじゃなければ待てる」


「ふうん」


 その返事は、少しだけ嬉しそうだった。


          ◇◇◇


 ひと通りの確認を終えた結果、塔までの移動は可能と判断された。


 ただし、自力歩行は短距離に限る。階段の上り下りは禁止で、療養所から古の塔へ戻る際には、これまでと同じく旧採石場に登録されている転送地点を利用する。


 そこで問題になったのは、採石場まで少年をどう運ぶかだった。


「抱っこ?」


「嫌?」


 俺が聞くと、少年は即座に顔をしかめた。


「歩く」


「旧採石場まで全部は無理だ」


「どのくらい?」


「ここから地上へ出て、そのあと外を少し進む」


「歩ける」


「今、椅子へ座ってるだけでも少し疲れてるだろ」


「でも歩く」


「途中までなら」


「全部」


「そこは駄目だ」


「また選べない」


「倒れるまで歩く選択肢は渡せない」


「ずるい」


「ああ」


「王子様、ずるい」


「元だ」


 少年は不満そうに俺を見た。


 するとセリーが、俺たちの会話へ静かに入る。


「では、選択肢を増やしましょう」


「増やす?」


「主様に抱えていただく、私が抱える、運搬用の小型浮遊板へ座る、途中までご自分で歩いて疲れた時点でどれかへ切り替える。この四つです」


「浮遊板?」


「乗り物です」


「車?」


「車輪はありません」


「飛ぶ?」


「床から少しだけ浮きます」


 少年の目が明らかに変わった。


「見たい」


「ございます」


 セリーがエルへ確認し、廊下へ一台の搬送用魔導具を移動させる。


 それは古の塔にある古代魔導具ではなく、白鴉療養所へ残されていたものだ。エルがすでに安全確認を済ませており、床から掌二枚分ほど浮いた四角い板の上へ、身体を支える椅子が固定されている。


「……変」


「便利だぞ」


「乗る」


「決めるの早いな」


「選んだ」


「そうだな」


「自分で?」


「ああ」


 少年は少し得意そうな顔をした。


「ただし、乗る前に座るところを確認する」


「何で?」


「療養所で使われていたものだからだ」


 その言葉だけで、少年の顔から少し笑みが消えた。


「先生の?」


「使っていた可能性はある」


「嫌」


「じゃあ別の方法にする?」


「……待って」


 少年は浮遊板をじっと見た。


「これ、誰を運んだ?」


「分からない」


「僕も?」


「それも分からない」


「怖い」


「ああ」


「でも、歩けない」


「途中までなら歩ける」


「これ、今は誰の?」


 俺は少し考えてから答えた。


「今は、療養所から患者を安全に外へ出すためのものだ」


「先生のじゃない?」


「少なくとも今は、先生のためには使ってない」


「僕が乗っていい?」


「ああ」


「僕が決めたら?」


「ああ」


 少年は浮遊板へ手を伸ばしかけたが、途中で止まった。


「触っていい?」


「エル」


『安全確認済みです。現在、精神干渉術式および拘束術式は検出されません』


 少年はそれを聞いてから、指先だけでそっと板へ触れた。


「冷たくない」


「布を敷くか?」


「緑?」


「そこまで合わせるのか」


「ある?」


 セリーが少し笑う。


「ございます」


「あるのかよ」


「塔の生活用品を甘く見ないでください」


 薄い緑色の布が座面へ敷かれると、少年は満足そうに頷いた。


「これ」


「決まりだな」


「でも、最初は歩く」


「ああ」


「疲れたら乗る」


「ああ」


「僕が言う」


「言う前に倒れそうなら止めるぞ」


「それは?」


「危ない方だから、こっちで止める」


 少年は少し考えてから頷いた。


「分かった」


          ◇◇◇


 最奥区画から廊下へ出るだけでも、少年にとっては知らないものの連続だった。


 最初に壁を見上げ、次に天井へ視線を動かし、それから扉へ目を向ける。保存槽の石室にも似たものはあったはずだが、形や色が少し違うだけで、そのたびに足を止めた。


「これ、何?」


「灯り」


「知ってる」


「じゃあ聞くな」


「形違う」


「ああ」


「これは?」


「扉」


「それも知ってる」


「なら何で聞いた」


「色違う」


 少年は真面目な顔で答えた。


「お前、外へ出たら全部聞くつもりか」


「うん」


「大変だな」


「誰が?」


「俺が」


「王子様だから?」


「違う」


「元王子様だから?」


「それも違う」


「じゃあ何で?」


「一緒にいるから」


 少年は少し黙った。


 やがて小さく「そっか」と答えると、握っていた俺の手から僅かに力が抜けた。


 怖くなくなったわけではないのだろう。それでも、知らないものを一人で全部見なければならないわけではないと、少しだけ理解したのかもしれない。


 廊下の途中で、一つの部屋の前を通りかかった時だった。


 扉には五桁の古い管理番号が残っている。


 それを見た瞬間、少年の足が止まった。


「番号」


「ああ」


「呼ばれる?」


「今は呼ばない」


「みんなも?」


「本人が名前を言いたくなければ、その人が嫌じゃない別の呼び方を決める」


「番号じゃない?」


「ああ」


「じゃあ、あれは?」


「昔の管理記録だ」


「消す?」


「勝手には消さない。何があったか確かめる証拠でもあるからな」


「嫌でも?」


「見たくない人がいるなら、普段は見えないようにすることはできる」


「僕の01も?」


「ああ」


「消さない?」


「証拠としては残す。でも、お前を呼ぶ名前にはしない」


「アルフォンス?」


「ああ」


 少年は扉の番号をしばらく見つめていた。


 やがて、自分が選んだ緑色の袖を握り直す。


「行く」


「ああ」


 俺たちは、その番号を背にして先へ進んだ。


          ◇◇◇


 地上へ続く階段の手前へ着いた頃、少年の足はもうはっきり震えていた。


「まだ歩く」


 息を少し弾ませながら、それでも先へ進もうとする。


「今日はここまでだ」


「まだ」


「足が震えてる」


「大丈夫」


「大丈夫って言う時ほど大丈夫じゃない」


「誰が言った?」


「俺」


「ずるい」


「便利だろ」


 少年は悔しそうに俺を睨んだあと、廊下の後ろから付いてきている浮遊板を見る。


「浮くやつ」


「ああ」


「自分で乗る」


「分かった」


 セリーが浮遊板を横へ寄せた。


 少年は一度俺の手を離し、自分の力だけで椅子へ座ろうとする。だが、膝へ思うように力が入らず、身体が少し揺れた。


「……できない」


「手伝いますか?」


 セリーが尋ねる。


 少年は唇を噛んだ。


「自分でやりたい」


「できます。ただ、今は長く歩いたあとで足へ力が入りにくくなっています」


「でも」


「できないことと、悪いことは同じじゃない」


 俺が言うと、少年がこちらを見る。


「服はできた」


「ああ」


「これは?」


「今日は少し手伝ってもらって、次にまたやればいい」


「次ある?」


 その問いだけが、急に小さくなった。


「ある」


 今度は迷わず答えた。


「塔へ行って、身体を休める。また歩く練習をする。何回でもやればいい」


「またここ?」


「ここへ戻る必要はない」


「じゃあ次、どこ?」


「塔の中でもいい。町でもいいし、本当の外でもいい」


「外」


「ああ」


 少年は少し迷ったあと、セリーへ自分から手を伸ばした。


「手伝って」


「はい」


 セリーが腰を支え、俺が腕を支える。


 二人で抱き上げるほどではなく、少年自身が立って座ろうとする力へ、ほんの少しだけ足す。


 それだけで椅子へ腰を下ろすことができた。


「できた?」


「半分くらいは自分でな」


「半分」


「次は増えるかもしれない」


「ほんと?」


「たぶん」


「また分からない」


「ああ」


 それでも少年は、今度は不満そうにせず笑った。


          ◇◇◇


 地上へ近づくにつれて、地下にはなかったものが少しずつ混じり始めた。


 最初に少年が気づいたのは風だった。


 階段の上から流れ込んできた冷たい空気が、金色の髪を微かに揺らす。


「何?」


「風だ」


「これが?」


「ああ」


「保存槽の中、なかった」


「そうだろうな」


 少年は浮遊板の上で目を閉じた。


 誰かが触れているわけでもないのに、髪が動く。服の袖も僅かに揺れ、頬へ冷たい空気が触れて通り過ぎていく。


「動いてる」


「ああ」


「誰が?」


「風が」


「誰も動かしてない?」


「そうだ」


「魔導具じゃない?」


「違う」


「変」


「外は、そういうものが多いぞ」


「もっとある?」


「ああ」


「見たい」


「ああ」


「今?」


「このまま上がれば見える」


 少年が目を開いた。


「行く」


 その一言には、さっきまでより少し力があった。


 浮遊板の補助機構が階段へ合わせて高さを変え、ゆっくりと上へ進んでいく。一段進むたびに明るさが増し、風の匂いも強くなった。


 やがて、少年は白鴉療養所の建物から、本当の意味で初めて外へ出た。


 夕方の柔らかな光が山肌へ落ちている。


 冷たい風が木々を揺らし、曇った空の下では、湿った土と草の匂いが混じっていた。遠くでは鳥の声が聞こえ、療養所の中にはなかった無数の音が、止まることなく流れている。


 少年はしばらく何も言わなかった。


 ただ、目だけが忙しく動いていた。


「……広い」


「ああ」


「天井ない」


「空だ」


「空」


「知らない?」


「知ってる」


「見たことは?」


 少年は答えようとして止まり、空を見たまま少し考えた。


「……覚えてない」


「そっか」


「青じゃない」


「今日は曇ってるからな」


「晴れたら?」


「青い」


 少年の表情が、少しだけ変わった。


「青?」


「ああ」


「保存槽の青と違う?」


「全然違う」


「見たい」


「ああ」


「明日?」


「晴れたらな」


「雨だったら?」


「次の日」


「ずっと雨だったら?」


「その次だ」


「いっぱい待つ?」


「ああ」


「でも外で?」


「ああ」


 少年は再び空を見上げた。


「じゃあ、待つ」


 その言葉を、俺は黙って聞いた。


 記録が正しければ二十年間。


 自分ではどうにもできない場所で、眠らされ、待たされ続けていた少年が。


 今度は、自分の意思で晴れる日を待つと言った。


 同じ「待つ」でも、たぶん意味はまるで違う。


          ◇◇◇


 旧採石場の転送地点へ着いた頃には、少年はかなり疲れていた。


 浮遊板の背もたれへ身体を預け、瞼も何度かゆっくり閉じかける。それでも以前のように「眠りたくない」と繰り返すことはなく、代わりに俺へ小さく尋ねた。


「目、閉じてもいい?」


「ああ」


「寝てもいい?」


「ああ」


「起きる?」


「起きる」


「塔で?」


「塔へ着いてからな」


「あなたいる?」


「転送まではいる。そのあとも、すぐどこかへ行くつもりはない」


「できるだけ?」


「ああ」


「もう覚えた」


「便利だろ」


「ずるい」


 少年はそう言いながら目を閉じたが、緑色の袖から出た指は俺の服を掴んだままだった。


「転送します」


 セリーが声をかけると、少年はすぐに目を開く。


「痛い?」


「少し身体が軽くなるように感じるかもしれません」


「怖い?」


「初めてなら驚くと思います」


「王子様は?」


「俺はもう慣れた」


「じゃあ手」


「ああ」


 浮遊板の横へしゃがみ、少年の手を握る。


「行くぞ」


「うん」


 転送光が足元から広がった。


 古い採石場の岩肌も、山の冷たい風も、遠くに見えた白鴉療養所も光の中へ溶けていく。


 そして次の瞬間、周囲は古の塔の転送室へ変わっていた。


「……変」


「だろ」


「戻った?」


「塔だ」


「ここが?」


「ああ」


 少年は浮遊板へ座ったまま周囲を見回した。


 白鴉療養所とはまるで違う。


 魔導灯は柔らかく、空気は暖かい。石造りの床や壁も地下療養所ほど冷え切っておらず、人が暮らしている場所の匂いが微かに残っている。


 その時、廊下の奥から足音が聞こえた。


 少年の身体が一瞬で固くなる。


「誰?」


「待って」


 俺が立ち上がり、セリーも浮遊板の少し前へ出る。


 廊下の向こうから最初に顔を出したのは、ミーナだった。


 ただ、以前の彼女なら走ってきたかもしれないところを、今日はかなりゆっくり歩いてくる。塔へ戻ってから、ガルムかヨアヒムにでも「急に近づくな」と言われたのかもしれない。


 ミーナは少し離れたところで止まった。


「……王子様」


「俺?」


「そっちの」


「もう増えたから分かりにくいな」


「大きい方」


「それは嫌だ」


「じゃあ元王子様」


「それでいい」


 ミーナの視線が浮遊板へ座る少年へ移る。


 少年も、知らない少女をじっと見ていた。


 どちらもすぐには近づかない。


「ミーナ?」


 少年が小さく尋ねた。


 少女が頷く。


「うん」


「僕、アルフォンス」


「知ってる」


 ミーナはそこで一度言葉を止めた。


 名前を言えば取られる。


 そう思い込まされていた恐怖は、まだ完全に消えたわけではない。


 それでも彼女は自分で息を吸った。


「私は、ミーナ・ベル」


 少年の目が少し大きくなる。


「名前、言った」


「うん」


「大丈夫?」


「今は大丈夫」


「取られない?」


「今のところ」


 どこか俺に似た答え方をするミーナに、少年が少しだけ笑った。


「王子様と同じ」


「何が?」


「すぐ決めない」


「王子様、いっぱいそう言うよ」


「そう」


「元だ」


 二人が同時に俺を見る。


「王子様でいい」


「僕もそう思う」


「増えたな」


 セリーが口元を少し緩めた。


「主様、そろそろ諦めてはいかがでしょう」


「嫌だ」


 ミーナが一歩だけ近づく。


「見ていい?」


 少年はすぐ答えず、少し考えた。


「顔?」


「うん」


「見るだけ?」


「うん」


「触らない?」


「触らない」


「じゃあいい」


 ミーナがもう一歩だけ進んだ。


 淡い緑色の服。


 金色の髪。


 青い瞳。


 そして、俺の幼い頃とよく似た顔。


 ミーナはかなり長い間、少年を見つめた。


「似てる」


「うん」


「小さい」


「大きくなる」


「王子様も小さかった?」


「たぶんな」


「そっちじゃない」


「分かってる」


 少年は少し困った顔になる。


「僕、二十七歳かもしれない」


「え?」


「身体は七歳くらい」


「え?」


「僕もまだよく分からない」


「……変」


「うん」


 そこで二人とも少し笑った。


 そして少年は、ほんの少し背筋を伸ばした。


「こんにちは」


 自分から言った。


 保存槽の中で何度も自分が誰なのかを聞き、どちらが本物なのかと怯えていた少年が。


 今は、知らない相手へ向かって、自分から挨拶をした。


 ミーナは一瞬だけ目を丸くしたあと、同じように返した。


「こんにちは」


「ここ、怖い?」


 少年が尋ねる。


 ミーナは塔の中を見回した。


「最初は怖かった」


「今は?」


「ちょっとだけ」


「僕も」


「でも、ご飯ある」


「パン?」


「ある」


「赤いジャム?」


「あると思う」


「ほんと?」


「セリーさんに聞いた方がいい」


「ございます」


 セリーが即答したため、二人が同時にそちらを見る。


「赤い果実のジャムを三種類用意しております」


「三つ?」


 少年の目が輝いた。


「今すぐ食べていい?」


「先に喉と胃の確認です」


「また」


 ミーナが少し笑う。


「セリーさん、そこ強いよ」


「知ってる」


「王子様より」


「それも知ってる」


「お前ら、仲良くなるの早くないか?」


 誰も答えなかった。


 後ろでブラットが小さく笑う。


「アル様」


「何だ」


「よろしいのでは」


「何が?」


「塔へ帰ってきた感じがします」


 その言葉へ、少年が反応した。


「帰る?」


「ここ?」


 ミーナが聞く。


「うん」


「私は、帰ってきた時に『ただいま』って言った」


「何で?」


「帰ってきたと思ったから」


「僕も言う?」


「言いたいなら」


 少年は俺を見た。


 次にセリー。


 それからミーナを見て、最後にまだ何も知らない塔の転送室をゆっくり見回した。


「ここ、僕の家?」


 すぐに「そうだ」と言うことはできなかった。


 この少年が今後どこで暮らすのかも、本人が何を望むのかも、まだ決まっていない。


「今は、安心して住んでいい場所だ」


「ずっと?」


「そこまではまだ決めてない」


「また」


「ああ」


「追い出す?」


「身体を休める場所が必要な間に追い出すことはない。その先は、お前がどうしたいかも含めて一緒に考える」


 少年はしばらく考えた。


 やがて小さな声で言う。


「じゃあ……ただいま」


 俺が答えるより先に、ミーナが笑った。


「おかえり」


 少年が目を丸くしてミーナを見る。


「ミーナが言うの?」


「私も今ここに住んでるから」


「そうなの?」


「今は」


「同じ」


「うん」


 二人の間に、少し照れたような笑いが生まれた。


 俺も、それ以上余計なことは言わなかった。


 今日はもう十分だ。


 保存槽から出た。


 緑色の服を選んだ。


 外の風を知った。


 曇った空を見上げた。


 移動する方法も自分で選んだ。


 そして塔へ来て、知らない少女へ自分から名前を名乗り、「こんにちは」と言った。


「セリー」


「はい」


「今日はもう、これ以上あれこれ聞かせるな」


「主様もです」


「俺?」


「一番聞きたがっているのは主様でしょう」


「……否定できない」


「フェリクスさんもです」


「私はすでに質問を七十三まで減らしました」


「何が?」


「確認したいことの数です」


「増えてない?」


「四つ減っています」


「少ない」


 少年が笑った。


「研究者、変」


「私は一応、真面目です」


「知ってる」


「それはよかったです」


「でも変」


「そこは外れないのですね」


 ミーナまで一緒になって笑う。


 セリーが浮遊板をゆっくり動かし始めた。


「まずお部屋へ行きましょう。身体を休めてから、食事が可能か確認します」


「パン」


「はい」


「赤いジャム」


「はい」


「三つ?」


「はい」


「全部ちょっとずつ?」


「喉と胃に問題がなければ」


「楽しみ」


 少年がそう言った。


 怖いでもない。


 嫌でもない。


 自分が何者なのかを確かめる言葉でもない。


 これから起きることを少しだけ待ちたいと思う、ただそれだけの言葉だった。


 俺はその声を聞きながら、浮遊板の横を歩いた。


 少年はもう俺の手を握っていない。


 代わりに、緑色の袖から出た小さな指で浮遊板の縁を掴み、自分の目で塔の廊下を見ていた。


 前にはミーナが歩き、その隣にはセリーがいる。後ろからはブラットとフェリクスが少し距離を取ってついてきていた。


 必要なら、いつでも手を伸ばせる。


 けれど今は、こちらから先に伸ばす必要はない。


 少年が自分の目で知らない場所を見て、自分の意思で先へ進もうとしているからだ。


 もう一人のアルフォンスは、誰が本物なのかという答えをまだ持っていない。


 それでも今日初めて会った相手へ自分の名前を名乗り、自分から挨拶をして、これから食べるかもしれないパンとジャムを「楽しみ」と言った。


 なら今は、その小さな変化を誰かの研究記録へ押し込めるのではなく、この少年自身が選んだ一歩として、そのまま大事にしておけばいい。

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