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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第27話 元王太子、目を覚ましかけた少年へ自分の記憶を飲ませない

 十二分という時間は、ただ待つだけなら短い。


 けれど、自分と同じ名前を持つ少年が、二十年間眠っていた保存槽から出るための十二分となれば話は別だった。


 白鴉療養所地下最奥の石室では、壁際に並んだ古い魔導具が低い駆動音を響かせ続けている。フェリクスが床へ広げた複写術式図の上では、保存槽から外部補助へ移された生命維持機能を示す幾つもの光点が、呼吸するように一定の間隔で明滅していた。


 呼吸、心拍、魔力循環、体温。確認しなければならない項目は多く、一つでも大きく乱れれば、その時点で開放手順は中断することになっている。


 保存槽の中にいる少年が焦れるのは当然だったが、待っている俺にも、それほど余裕があるわけではなかった。


「あと何分?」


「九分」


「さっき十二分だった」


「三分経ったからな」


「三分、長い」


「ああ。俺もそう思う」


「何かしていい?」


「何をしたい?」


 少年は保存槽の内側からこちらを見ながら、真剣な顔で考え込んだ。


 内部を満たしていた青白い魔力媒体は先ほどより減っており、胸から上はすでに通常環境に近い状態へ移されている。足元にはまだ淡い光を帯びた媒体が残っているものの、少年の身体は以前のように完全に浮かされておらず、体重の大半を自分の脚で受けるところまで来ていた。


「歩く」


「今は駄目だ」


「選ばせるって言った」


「選べる範囲で、とは言った」


「ずるい」


「安全な方で出るって決めたのは、お前だろ」


 言い返すと、少年は一瞬だけ考えてから、不満そうに唇を尖らせた。


「そうだった」


「自分で決めたことまで俺のせいにするな」


「じゃあ、何なら選べる?」


「今なら……そうだな」


 俺も考える。


 保存槽はまだ開けられない。身体を大きく動かすこともできない。パンは食べられるかどうかの確認が必要で、本当の意味で外へ出るのもその先だ。


「保存槽から出たあと、最初に何をしたい?」


「パン」


「それは喉と胃が動くか確認してからだ」


「また駄目」


「食べ物以外」


「外」


「保存槽から出ること自体を今やってる」


「町」


「もっと先だ」


「いっぱい駄目」


 少年の眉間へ皺が寄り、今度は俺が困る番になった。


「セリー」


「はい」


「何かないか?」


「主様が考えてください」


「なぜ」


「アルフォンスさんは、主様へ聞いていらっしゃいますので。私が答えてしまえば、主様の役割を奪うことになります」


「こういう時だけ急に突き放すな」


「役割を奪わないようにしております」


「便利な言葉を覚えたな」


 保存槽の中で、少年がくすりと笑う。


「二人とも変」


「今のはセリーも含まれるぞ」


「私は正常です」


「一番強く否定するやつほど怪しい」


「主様」


「何だ」


「あと八分です」


「話を逸らしたな」


 横でブラットが顔を伏せた。肩が微かに揺れているのを見逃すほど、俺も余裕を失ってはいない。


「また笑ってるだろ」


「いいえ」


「肩が揺れてる」


「地下は冷えますので」


「石室の寒さのせいにするな」


 こんな場所で、こんな状況なのに、少し前までなら考えられなかったような会話をしている。


 けれど、そのやり取りの間に、保存槽の中にいる少年の肩から少しずつ力が抜け、呼吸も安定していた。なら、少なくとも無駄な時間ではない。


「ねえ」


「何だ」


「出たら、服は?」


「服?」


「これじゃ駄目なんでしょ?」


 少年が自分の身体へ視線を落とした。


 身につけているのは、白い薄布を簡単に縫い合わせただけのような衣服一枚だけだ。治療着だったのか、それとも保存槽へ入れるためのものだったのかは分からないが、少なくとも山中の療養所を歩ける格好ではない。


「寒い?」


「ちょっと」


「今は?」


「さっきより平気。でも外はもっと寒い?」


「ここは山の中だからな。上はもっと冷える」


「じゃあ服いる」


「ああ」


「それ、選べる?」


 俺はセリーを見る。


 今度は彼女が迷わず頷いた。


「もちろんです。身体を締めつけないものを中心に、いくつかご用意できます」


「いっぱい?」


「何十着もはありませんが、色を選べるくらいには」


「色も?」


「はい」


「青」


 少年は即答した。


「青が好きなのか?」


「分かんない」


「じゃあ、どうして青?」


 少年は少し考えたあと、自分の足元に残っている青白い魔力媒体を見下ろした。


「ずっと見てたから」


 それだけの言葉なのに、胸の奥が少し詰まった。


 二十年間、この少年がどれほどの時間を意識して過ごしていたのかは分からない。ずっと眠っていたのかもしれないし、ときどき目覚めていたのかもしれない。あるいは夢と現実の境界すら曖昧なまま、色や音だけを感じ続けていた可能性だってある。


 それでも、この青色だけは、少年にとって長い時間を知っている色なのだろう。


「青以外もある」


 俺はゆっくり言った。


「先に全部見てから決めてもいい」


「青じゃなくても?」


「ああ」


「あとで変えても?」


「服なら何度でも変えればいい」


「昨日は青で、明日は赤?」


「好きにしろ」


「名前は?」


 少年は自然に、けれど少しだけ慎重な声で尋ねた。


 また、そこへ戻る。


「名前も、いつか変えたいと思ったなら考えればいい」


「アルフォンスじゃなくても?」


「ああ」


 少年の表情が少し曇った。


「でも今はアルフォンス」


「分かってる」


「取らない?」


「取らない。同じ名前でもな」


 少年は俺の顔を確かめるようにしばらく見つめたあと、小さく頷いた。


「じゃあ、服見る」


「ああ。保存槽を出てからな」


「あと何分?」


「七分」


「長い」


「今の話で一分しか経ってないぞ」


          ◇◇◇


 保存槽の安定確認を待っている間にも、白鴉療養所全体の救助は続いていた。


 入口側で通信役を務めていたブラットの通信石へ、ガルムから新しい報告が届く。周囲へ聞こえない程度の声で応答したあと、ブラットが俺の方へ歩いてきた。


「三階の患者を追加で六名保護したそうです」


「状態は?」


「二名は自力歩行可能。三名は介助が必要です。残り一名はヨアヒムの判断で塔へ転送する準備をしています」


「名前は――」


 そこまで言って止めた。


 名前が必要なのは、管理する側の都合でもある。


「本人が名乗った者だけでいい」


「三名は自分から名乗りました。二名は言いたくないとのことです。残り一名は、自分の名前が分からないと」


「部屋番号は?」


「照合用としては記録します。ただし、本人への呼称としては使っていません」


「ああ。それでいい」


 ブラットは頷いたあと、もう一枚の複写紙へ視線を落とした。


「ガルム隊長から、もう一つ確認があります。拘束した療養所職員の中に、患者の逃亡を手伝っていた可能性が高い女性がいるそうです」


「何?」


「リゼット・フォーン。二十九歳。五年前から看護補助として勤務。残されていた記録によれば、過去一年の間に少なくとも四名を隔離区画から逃がそうとしています」


「成功したのは?」


「一名だけです」


「どこへ逃がした?」


「本人は知らないと」


「なぜ?」


「療養所の外にいた協力者へ渡しただけだそうです」


「その協力者の名前は?」


「今は言えない、と」


 俺はすぐに答えず、石室の奥から響く低い駆動音へ少し耳を傾けた。


 療養所へ勤めていたから敵。


 患者を逃がしたから味方。


 どちらか一つへ決めてしまうのは簡単だ。だからこそ、今は急いで決めるべきではない。


「無理に聞くな」


「ですが、逃亡経路を把握できれば――」


「必要なのは分かる。だが、ガルムへ伝えろ。あの女を『療養所職員』という一括りだけで扱うな。拘束は続けていい。ただし、他の職員と同じ部屋へ入れるな」


「口封じの可能性ですか」


「ああ。患者を逃がしていたなら、レイハン側から見れば裏切り者だ」


「分かりました」


「それと、患者側があの女をどう見ていたか確認する。ただし誘導するな。助けてくれた人だったのか、怖い人だったのか。それとも両方なのか。答えたくないなら聞かなくていい」


「承知しました」


 ブラットが通信へ戻っていく。


 そのやり取りを、保存槽の中の少年がじっと見ていた。


「どうした?」


「人を逃がした人」


「ああ」


「悪い人?」


「分からない」


「また」


「ああ」


 少年は、俺がそう答えることへ少し慣れてきたらしい。不満を見せるより、続きを待つような顔をしている。


「療養所で働いていた以上、悪いことへ関わった可能性はある。でも、患者を逃がしたのが本当なら、誰かを助けようとしたのも事実かもしれない」


「どっち?」


「両方かもしれない」


「一人なのに?」


「ああ。一人だからこそ、いろんなものを持ってる」


「変」


「人はだいたいそんなものだ」


「王子様も?」


「ああ」


「僕も?」


「たぶんな」


 少年は少し考え、自分の手を見つめた。


「僕、悪いのもある?」


「あるかもしれない」


 隣でセリーが僅かに俺を見る。


 けれど、ここで綺麗な答えだけを渡す方が違う。


「でも、今のお前がここで誰かを傷つけたわけじゃない」


「昔は?」


「覚えてないだろ?」


「うん」


「なら、誰かが書いた記録だけで、お前の全部を決めるつもりはない」


「僕が怒ったとか?」


「ああ」


「レイチェルが嫌いって思ったのも?」


「ああ」


「それ、悪い?」


「嫌うだけなら悪くない。嫌いだから殴っていい、傷つけていいとなれば話は別だ」


「でも王子様なのに、人を嫌っていいの?」


「王子でも嫌いな人くらいいる」


「誰?」


「今それを聞くのか」


「うん」


「……何人かいる」


「誰?」


「言いたくない」


 少年が目を丸くした。


「言わなくていい?」


「ああ」


「大人でも?」


「ああ。言いたくないことを全部言う義務なんてない」


 しばらく考えたあと、少年は楽しそうに笑った。


「同じ」


「そうだな」


          ◇◇◇


 やがて、十二分の安定確認が終わった。


 フェリクスは術式図だけでなく、エルが表示する数値と、セリーが確認している生体反応を順番に見比べる。以前の彼なら自分の判断を先に口にしていたかもしれないが、今は三つの結果が一致するまで待った。


「生命維持の外部移行率、六十八パーセント。呼吸、心拍、体温、魔力循環はいずれも許容範囲です」


『記録値と一致。次段階への移行可能と判断します』


 エルが答える。


「セリーは?」


「私も進められる状態だと思います。ただし、一度に媒体を抜かず、三段階へ分けた方が安全です」


「どれくらいかかる?」


「一段階ごとに十五分ほど安定確認を行います。全て問題がなければ、そのあと保存槽を開きます」


 少年の顔がぱっと明るくなった。


「開く?」


「ああ。ただし、順調ならだ」


「三回?」


「そうだ」


「いっぱい」


「二十年に比べれば――」


 そこまで言って、自分で止まりたくなった。


 遅かった。


 少年の顔から、さっきまでの明るさが消えていた。


「二十年」


「ああ」


「僕、二十年ここ?」


「記録が正しければな」


「みんな、どこ行った?」


 石室の空気が変わった。


 先生、職員、父、母、レイチェル。


 少年の中に残っている人物たちの多くは、二十年前の記憶にいる者だ。


「それも調べる」


「死んだ?」


 答えにくい。


 七歳ほどの姿のまま残された子供へ、二十年という時間をどう渡せばいいのか。それでも、誤魔化す気にはなれなかった。


「亡くなっている人もいると思う」


 少年の青い瞳が揺れる。


「お母様も?」


 喉の奥が詰まった。


 俺の母は、もういない。もしこの少年が俺と同じ母を持つのなら、その答えだけは変えられない。


「俺の母上と、同じ人をお母様と呼んでいるなら」


 一度、呼吸を整える。


「亡くなっている」


 少年の顔から血の気が引いた。


「いつ?」


「俺が幼い頃だ」


「僕、知ってる?」


「分からない」


「忘れた?」


「可能性はある。お前の記憶がどこまで残っていて、何を失っているのか、まだ確認できていないからだ」


 少年の呼吸が一気に速くなった。


「アルフォンスさん」


 セリーが保存槽へ近づく。


「私を見てください」


 少年がゆっくり彼女を見る。


「胸は苦しいですか?」


「ちょっと」


「痛いですか?」


「痛いんじゃない。変」


「では、ゆっくり息を吐けますか。吸うことより、吐くことを長く意識してください」


「……うん」


 少年が真似をする。


 俺も無意識に同じ呼吸を始めていた。


「主様もです」


「俺も?」


「はい。主様も浅くなっています」


 言われて初めて、自分の胸まで強張っていたことへ気づいた。


 ゆっくり吐く。


 少年と俺が、透明板を挟んで同じように呼吸を整える。


「お母様」


 少年がもう一度、確かめるように口にした。


「ああ」


「会えない?」


「ああ」


 誤魔化さない。


「嫌」


「ああ」


「覚えてないのに」


「ああ」


「泣いていい?」


「いい」


「でも、分かんない」


「何が?」


「悲しいかどうか」


「それでもいい」


「泣けない」


「なら無理に泣かなくていい」


 少年は困った顔をした。


「さっきは泣いていいって言った」


「泣きたい時はな。泣けないなら、泣かなくていい。悲しいか分からないなら、そのままでもいい」


「難しい」


「感情はだいたい難しい」


「先生は、いらないって」


「それは、楽な言い方だったのかもな」


「楽?」


「なくせば考えなくていい。悲しい理由も、怒っている理由も、怖い理由も全部」


 少年は胸元へ視線を落とし、自分の胸へ手を置いた。


「でも今は?」


「分からなくても持ってていい」


「ここに?」


「ああ」


「重い」


「そういう時もある」


「ずっと?」


「軽くなることもある」


「また重くなる?」


「ああ」


「嫌だ」


「ああ。俺も嫌な時はある」


「でも、捨てない?」


「お前がいつか自分で『いらない』と思うなら、一緒に考えればいい。でも、誰かが勝手に切り取っていいものじゃないと思う」


 少年はしばらく胸へ手を置いたまま黙っていた。


 本当に理解できたのかは分からない。


 今は、それでいい。


「続けますか?」


 フェリクスが、以前よりずっと柔らかい声で尋ねた。


 少年は保存槽の底へ視線を落とす。


「怖い」


「一度休んでも構いません」


「出るの遅くなる?」


「はい」


 少年は少しだけ眉を寄せたあと、こちらを見る。


「じゃあ、やる」


「怖いままで?」


「怖いけど、出たい」


 その選択を、俺たちは止めなかった。


「分かった。始めよう」


          ◇◇◇


 一回目の移行では、足元に残っていた魔力媒体をさらに減らした。


 少年の足が完全に底へ着き、これまで媒体に預けていた自分の重さを受け止める。身体が沈み込むような感覚があったのか、少年は思わず肩をすくめた。


「重い」


「どこが?」


「全部」


「身体が、自分の重さを感じ始めたんだと思う」


「こんな重いの?」


「長く支えてもらってたからな」


「歩ける?」


「今はまだ動くな」


「また」


「そこは譲らない」


 不満そうではあったが、少年は無理に動こうとはしなかった。


 そのまま十五分が経過し、呼吸も心拍も安定していることを確認する。


 二回目では媒体が足首ほどまで減った。今度は少年の膝が僅かに折れ、すぐにセリーが外側から補助術式を追加した。


「力、入らない」


「支えを入れますね」


 保存槽の内部へ薄い光の帯が伸び、腰と脇を包むように支える。


「触ってない?」


「これは魔力で作った帯です。直接は触れていません」


「セリーさんが?」


「はい」


「ならいい」


 その言葉を聞いたセリーの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「ありがとうございます」


「何でありがとう?」


「任せていただけたからです」


「信じた?」


「そういうことだと思います」


 少年は少しだけ考えたあと、慎重に言う。


「全部じゃない」


「はい」


「ちょっとだけ」


「十分です」


 十五分後、二段階目も問題なく終わった。


 そして三回目。


 足元を満たしていた魔力媒体が、ついに完全に排出された。


 少年の身体は補助帯へ支えられながらも、自分の肺で呼吸し、自分の心臓を動かし、自分の魔力を巡らせている。


 フェリクスは何度も数値を見直し、セリーは一瞬も少年から視線を外さない。俺は保存槽の透明板へ掌を置いたまま、ただ待った。


 一分。


 二分。


 五分。


 やがて少年の額へ薄い汗が浮かぶ。


「苦しい?」


「疲れた」


「座れるようにするか」


「保存槽の中で?」


「床を上げます」


 セリーが術式へ触れ、少年の背後から柔らかな座面を出した。


「座りますか?」


「うん」


 ゆっくり腰を下ろすと、少年は長い息を吐いた。


「出るの、疲れる」


「出てからも疲れると思うぞ」


「嫌」


「でも外へ出たいんだろ?」


「うん」


「なら、少しずつ慣れるしかない」


 フェリクスが数値を確認してから告げる。


「あと十分、安定していれば開放できます」


「十分……」


 少年は心底嫌そうな顔をした。


「さっきより短い」


「でも長い」


「分かる。俺も長く感じてる」


 俺がそう言うと、少年は少しだけ安心したように座面へ身体を預けた。


          ◇◇◇


 その十分の途中で、ガルムから通信が入った。


『アル』


「何だ」


『レイハン追跡班が戻った』


「本人は?」


『見失った』


 胸の奥へ、小さな苛立ちが走る。


「痕跡は?」


『山の北側で馬を一頭発見した。その先には古い王宮式の認識阻害が使われている』


「やはり北へ?」


『おそらくな』


「ミラとヴァルターは?」


『ミラが腕を少し擦った。ヴァルターは無傷だ』


「ならいい」


『それと、レイハンが落としたと思われるものを一つ回収した』


「何だ」


『銀色の鍵だ』


 俺の視線が、保存槽の周囲へ向く。


 レイハンが持っていた銀色の鍵。クララの三〇七号室を開けるものと、よく似た形。


「同じもの?」


『形は似ている。だが刻印が違う』


「何と書いてある」


 通信の向こうで、ガルムが一度黙った。


『AG-02』


 石室が静まった。


 フェリクスが顔を上げ、保存槽の少年も聞いていたらしく首を傾げる。


「ゼロツー?」


「まだ何を意味するか分からない」


『今、聞こえているのは誰だ?』


「アルフォンス」


『……どっちだ』


「増えたからな」


『お前じゃない方か』


「言い方」


『すまん』


 通信越しでも、ガルムはすぐに謝った。


 少年が俺を見る。


「僕じゃない方?」


「今のはガルムが言葉を間違えた」


『悪かった』


「AG-02って僕?」


「まだ決めない」


「僕、01だったよね」


「記録上ではな」


「じゃあ、02もいる?」


「可能性はある」


「僕のほかに?」


「ああ」


 少年の顔へ不安が戻る。


「またアルフォンス?」


「それも分からない」


「何人いるの?」


 その問いには、本当に答えがなかった。


「ガルム。鍵は封印して保管。回収してから触れた者も全部記録へ残せ」


『すでにやっている』


「さすが変な兵」


 保存槽の中から少年が言った。


 通信の向こうが、僅かに黙る。


『ミーナから聞いたのか』


「自分でも言われてるだろ」


『お前たちのせいで広がっている』


「人気者だな」


『嬉しくない』


「仲良し?」


 少年が尋ねる。


「違う」


『違う』


 俺とガルムの声が重なった。


 少年が声を出して笑う。


「同じ」


『……笑っているのか?』


 ガルムの声が少しだけ柔らかくなった。


「ああ」


『そうか』


「何だ」


『いや。出られそうなのか』


「あと少しだ」


『なら、そちらを優先しろ。療養所は任せておけ』


「ああ」


『それと、本人へ伝えてよいなら一つある』


 俺は少年を見る。


「聞く?」


「うん」


『アルフォンス』


 ガルムが呼んだ瞬間、俺と少年が同時に僅かに反応した。


『……面倒だな』


「言うな」


『保存槽にいる方のアルフォンス』


「それも嫌だ」


「僕は平気」


「お前はいいのか」


「分かりやすい」


『助かる』


 ガルムが小さく息を吐いた。


『外へ出られたら、ミーナが会いたいと言っている』


「ミーナ?」


「ああ。塔にいる子だ」


「僕のこと知ってる?」


「全部は知らない」


『同じ名前の子供がいる、とだけ聞いたらしい』


「会っていい?」


「お前が嫌じゃなければな」


 少年は少し考えた。


「顔、見られる?」


「会うならな」


「嫌って言ったのに」


「アンナマリーへ映像を見せるのは嫌だと言った。人と直接会うかどうかは別だ。そこもお前が決める」


「……ミーナ、怖い?」


「お前と同じくらいの子だ」


「じゃあ、会う」


『伝えておく』


「ガルム」


『何だ』


 今度は少年が通信石へ向けて言った。


「ありがとう」


『……誰だ』


「僕」


 短い沈黙のあと、ガルムの声が返る。


『そうか。どういたしまして』


 通信が切れた。


「変な兵」


「ああ」


          ◇◇◇


 最後の十分が終わった。


 フェリクスは最終数値を一つずつ確認し、エルとセリーへも確認を求める。三者の判断が一致してから、ようやくこちらを向いた。


「開放条件を満たしました」


 その一言で、石室の空気が変わった。


 俺も、フェリクスも、セリーも。そして何より、保存槽の中にいる少年自身が、その瞬間を待っていた。


「開く?」


「ああ」


「本当に?」


「ああ」


「痛い?」


「開けること自体は痛くないはずだ。ただ、外気が入れば寒く感じると思う」


「服」


「用意してある」


 セリーが少し離れた台を示す。


 柔らかな毛布と靴。それから、身体を締めつけない作りの服が三組置かれていた。


 青、灰色、淡い緑。


 少年の視線がすぐそちらへ向かった。


「青だけじゃない」


「見てから選ぶ、とおっしゃいましたので」


「緑もある」


「はい」


「灰色も」


「はい」


「触れる?」


「保存槽を出たあとなら」


 少年は三色をじっと眺めた。


「青じゃなくてもいい?」


「いい」


「あとで変えても?」


「いい」


 まだ決めなくていい。


 たったそれだけのことなのに、少年の表情が少しだけ明るくなった。


「では、開けます」


 フェリクスが術式盤へ向かう。


「アルフォンス」


 俺が呼ぶと、少年がこちらを見た。


「何?」


「今から保存槽が開く。少し大きめの音がするかもしれないし、冷たい空気も入る。足へ力が入らなかったら、セリーが支える」


「あなたは?」


「前にいる」


「手」


「ああ」


 透明板へ置いていた掌を、そのまま残した。少年も内側から、自分の小さな手を重ねる。


「開けろ」


「はい」


 フェリクスが術式を起動した。


 保存槽を取り囲んでいた古い魔力線が、下から一つずつ光を失っていく。やがて内部の圧を逃がす低い音が響き、透明板の縁へ細い隙間が生まれた。


 少年の目が大きくなる。


「怖い?」


「うん」


「止める?」


 少し迷ったあと、少年は首を横へ振った。


「出る」


「ああ」


 保存槽の前面が、ゆっくり横へ滑っていく。


 長く閉じ込められていた冷気が足元へ流れ、石室の空気へ溶けた。


 そして、俺たちの手の間から、二十年間そこにあった透明板がなくなる。


 少年の手が一度止まった。


 俺も、すぐには触れない。


「触っていい?」


 尋ねると、少年は俺の手を見て少し考え、それから自分で頷いた。


「うん」


 初めて直接、小さな手へ触れる。


 冷たい。


 けれど、ちゃんと人の体温が残っている。


 魔力の向こうではなく。


 透明板越しでもなく。


 今度は本当に、そこにいる少年へ触れていた。


「アルフォンス」


「うん」


「外だ」


 少年の唇が震えた。


「外?」


「ああ」


「まだ地下だよ」


「保存槽の外って意味だ」


「ずるい」


「嘘は言ってない」


「外はもっと外」


「ああ。そこにも行こう」


「今?」


「まず立てたらな」


 少年が身体を起こそうとする。


「ゆっくり」


「立てる」


「試すか?」


「うん」


「セリー」


「支えます」


 少年が彼女を見る。


「僕が決める?」


「ああ。右と左、どちらから支えてもらう?」


 少し考えたあと、少年はセリーを見た。


「左」


「はい」


「俺は?」


「右」


「分かった」


 セリーが左側へ回り、少年の腕と背へ触れる前に、もう一度確認する。


「支えてもよいですか?」


「うん」


 俺は右手を差し出した。


 少年が自分から握る。


 ゆっくり、保存槽の縁へ片足を出した。


 白い裸足が、初めて冷たい石床へ触れる。


「冷たい!」


 少年が身体を跳ねさせた。


「だから言っただろ」


「すごく冷たい!」


「靴も用意してある」


「早く言って!」


「今言った」


「王子様、意地悪」


「元だ」


 抗議しながらも、少年は笑っていた。


 一歩。


 保存槽の外へ。


 さらに、もう一歩。


 膝が震えたので、俺とセリーが少しだけ支える力を増やす。


「休むか?」


「まだ」


「無理するな」


「服見る」


「そこなのか」


「選ぶって決めた」


「ああ。そうだったな」


 ほんの数歩の距離を、少年は自分の脚で進んだ。


 台へ着く頃には呼吸が少し速くなっていたが、それでも自分から止まりたいとは言わなかった。


 セリーが三着を並べ直す。


「青です。こちらが淡い緑。そして、こちらが灰色です」


 少年は一着ずつ見比べた。


「触っていい?」


「もちろんです」


 最初に青へ触れ、指先で布を撫でる。次に緑へ触れ、最後に灰色へ指を滑らせる。


「どれが好き?」


 俺が聞くと、少年は遊びではなく、自分にとって大切なものを決めるような真剣な顔で考え始めた。


「青は、ずっと見てた」


「ああ」


「緑は、知らない」


「ああ」


「灰色は?」


「普通だと思う」


「普通?」


「ああ。よくある色だ」


 少年はまた三色を見比べる。


 そして、しばらく悩んだあと、指を伸ばした。


「じゃあ、これ」


 選んだのは緑だった。


「青じゃないのか」


「知らないから」


 思わず聞き返す。


「知らないものを選ぶのか?」


「うん」


「怖くない?」


「ちょっと」


「それでも?」


 少年は緑色の布を指先で掴んだ。


「外も知らない。パンも今の味知らないし、町も知らない。ミーナも知らない」


 そこで少し考え、その布を自分の胸へ引き寄せた。


「だから、知らないのも選ぶ」


 胸の奥へ、静かな温かさが広がった。


「分かった」


 隣でセリーも微笑んでいる。


「では、最初のお洋服は緑ですね」


「うん」


「着替えをお手伝いしてもよいですか?」


 少年はセリーを見る。


「全部?」


「必要なところだけです。ご自分でできるところは、ご自分でして構いません」


「自分でできる?」


「試しますか?」


「うん」


「難しかったら?」


「言う」


「はい。それで十分です」


 少年は緑の服を受け取った。


 保存槽から出たあと、最初に自分で選んだもの。


 王家の名前ではない。


 本物か偽物かでもない。


 AG-01でも、分離体でも、実験記録でもなかった。


 ただの、緑色の服だった。


 二十年間見続けた青ではなく、まだ知らない色を、自分で選んだ。


 それでいい。


 どちらが本物なのか。


 何を分けられたのか。


 AG-02とは何なのか。


 レイハンはどこへ逃げたのか。


 白鴉療養所と王宮が二十年前に何をしたのか。


 確認しなければならないことは、むしろ増え続けている。


 それでも今は、保存槽を出たばかりの少年が、緑色の上着を手にして困った顔をしていた。


「袖、どっち?」


「反対だ」


「分かんない」


「今、前後逆に持ってる」


「どうやって分かるの?」


「後ろに目印があるだろ」


「目印?」


「そこ」


「これ?」


「そう」


 少年は何度か服と俺の顔を見比べた。


「王子様、服着られるんだ」


「俺を何だと思ってる」


「何でもやってもらう人」


「……昔は少しそうだった」


「今は?」


「自分で着る」


「偉い?」


「普通だ」


 少年の手が止まる。


「じゃあ、僕も普通?」


 その問いにだけは、迷う必要がなかった。


「ああ」


 少年が少し目を丸くする。


「普通」


「ああ」


「いいね」


 今度は嬉しそうに笑った。


 最初の一度は腕を通す場所を間違え、二度目は頭を入れるところへ手を入れようとした。三度目でようやく片腕が正しく袖へ入り、少年はまるで大仕事を成し遂げたような顔になる。


「できた」


「片方だけな」


「でもできた」


「ああ」


「もう片方もやる」


 セリーが手を出しかけたものの、すぐに止める。


 少年は助けを求めなかった。


 なら、待つ。


 少し時間はかかった。


 腕がうまく上がらず、途中で一度休んだ。それでも最後には、少年自身の手で両腕が袖を通った。


「着られた」


「ああ」


「自分で?」


「ほとんどな」


「普通?」


「ああ」


 その言葉がよほど気に入ったらしい。


 少年――もう一人のアルフォンスは、自分が選んだ緑色の袖を何度も眺め、それから石室の入口へ視線を向けた。


「次は?」


「何が?」


「外」


「ああ」


 保存槽を出た。


 服を選んだ。


 その次には、あの重い石扉の向こうがある。


 療養所の廊下。


 古の塔。


 ミーナ。


 白いパン。


 赤いジャム。


 町。


 少年の知らないものは、まだいくらでも残っている。


「まず身体を診てもらう」


「また?」


「その次に、歩けるところまで外へ出る」


「本当の外?」


「今日はそこまで行けるか分からない」


「また分からない」


「ああ」


 少年は少しだけ不満そうにしたあと、自分の緑色の袖を握った。


「でも、行く」


「ああ」


「知らないところ」


「ああ」


「怖いけど」


「それでいい」


 今度は少年が、自分から俺へ手を差し出した。


「手」


「ああ」


 その手を握る。


 もう透明板はない。


 さっきまで冷たかった指には、少しずつ血の温かさが戻っていた。


 二十年間閉ざされていた保存槽の前で、少年は自分が選んだ緑色の服を着て、まだ知らない方へ一歩進もうとしている。


 誰かに決められた王太子としてでもない。


 不要だと切り分けられた感情としてでもない。


 記録番号としてでもない。


 アルフォンスという名前を、今は自分で選んでいる一人の少年として。


 だから俺たちは、その手を無理に引っ張らない。


 けれど、離しもしない。


 次の一歩を、本人が自分の意思で踏み出せるように。


 その隣で待つことにした。

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