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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第26話 同じ名前を持つ少年へ、どちらが本物かを今は決めないことにしました

第26話 同じ名前を持つ少年へ、どちらが本物かを今は決めないことにしました


 透明な保存槽の向こう側で、小さな手が止まっていた。


 俺が重ねた掌よりもずっと小さく、指も細い。長い眠りの中へ置かれていたせいなのか、七歳くらいの子供として見ても血色がいいとは言えなかった。それでも、古い透明板を挟んで俺の手と重なる位置へ、自分から手を上げたという事実だけは、魔導具の記録でも二十年前の研究記録でもない。


 今、そこにいる少年自身が選んだことだった。


 白鴉療養所地下最奥の封印区画は、ほかの場所とは明らかに空気が違う。長く閉ざされていた石室には冷気が溜まり、壁際へ並ぶ古い魔導具からは低い駆動音が途切れず響いていた。天井へ埋め込まれた魔導灯も半分ほどしか点いておらず、薄青い光が保存槽の表面をなぞるたび、その少年の顔が浮かんでは暗がりへ沈んでいく。


 その顔は、見れば見るほど嫌になるくらい覚えがあった。


 今の俺を映した鏡ではない。けれど、幼い頃の自分を描いた肖像画や、王宮の古い記録画に残っていた七歳前後のアルフォンス・ガイゼンと、あまりにもよく似ている。


 髪の色。


 眉の形。


 鼻筋。


 閉じた唇の形まで。


 違いを探そうと思えば探せるのかもしれない。だが、今の俺には、むしろ同じ部分ばかりが目へ入った。


「主様」


 通信石越しではなく、今はすぐ隣からセリーの声がする。


 俺が塔から療養所へ戻るまで、彼女は言われた通り少年へ触れず、保存槽も開けず、フェリクスとブラットを入口側へ下げたまま待っていた。ガルムたちは療養所内の患者救助と封鎖を続けており、この最奥区画へ入っているのは、必要最小限の人数だけだ。


「呼吸は?」


「安定しています。ただし、目覚めた直後より少し速くなっています」


「怖いからか」


「可能性は高いと思います」


 セリーの言葉を聞いていたのか、保存槽の中の少年が僅かに指を動かし、透明板の向こうから俺の掌へ近づけた。


「怖い?」


 尋ねると、少年はすぐには答えなかった。


 青い瞳が俺の顔からセリーへ、さらに少し離れた場所へ立つフェリクスとブラットへ動く。知らない大人ばかりに囲まれているのだから、怖くない方がおかしい。


「……ちょっと」


「どのくらい?」


「分かんない」


「それでいい。無理に数へしなくても、怖いなら怖いでいい」


 少年は小さく頷いたが、そのあと少し迷うように目を伏せた。


「眠りたくない」


 幼い声だった。


 けれど、その一言が出た瞬間、石室の冷気とは別のものが胸の奥へ入り込んだ。


「また眠らされると思ってる?」


 少年は今度も小さく頷く。


「起きたら、みんな、いなくなるから」


 その言葉が痛かった。


 ミーナも似たことを言っていた。助けると言った者がいなくなる。名前を呼んだ者がいなくなる。目を覚ました時には誰もいない。


 この療養所では、人が消えることそのものが日常だったのかもしれない。


「今すぐ、お前を眠らせるつもりはない」


「ほんと?」


「ああ。ただ、身体を守るために休まないといけないことはあるかもしれない」


 安心させたいだけなら、絶対に眠らせないと言えばいい。だが、保存槽から出す過程で鎮静や休息が必要になる可能性はある。そこで嘘をつけば、あとからまた同じ恐怖を与えることになる。


 少年の表情は、それだけでも強張った。


「でも、その時は先に話す。何をするのか、なぜ必要なのか、お前に分かるように説明する」


「嫌って言ったら?」


 背後でフェリクスが僅かに息を吸った。


 状態次第では、拒否をそのまま受け入れられないこともある。研究者でなくても、治療へ関わるなら分かる。


 だから、俺も言葉を選んだ。


「まず、何で嫌なのか聞く。それでも嫌で、すぐ命に関わる状態じゃなければ、別の方法を探す」


「死ぬなら?」


「その時は、お前を守るためにやるかもしれない」


「勝手に?」


「そこまで危ないなら、そうなることもある」


 少年の眉が下がった。


「……嫌」


「ああ」


「でも死ぬのも嫌」


「ああ。どっちも嫌でいい」


「選べない」


「選べない時は、一緒に考える」


 口にしてから、今日だけで何度似たようなことを言っただろうと思った。


 町の代表へ。


 クララへ。


 ミーナへ。


 けれど、同じ言葉でも相手と状況が違えば意味も変わる。


 そして今、目の前には自分と同じ名前を名乗る少年がいる。


「ねえ」


「何だ」


「名前、取らない?」


「ああ」


「ほんとに?」


「ああ」


「でも、あなたもアルフォンスなんでしょ?」


「そうだ」


「二人いたら、おかしい」


「そうか?」


「だって、一人しかいないって言われた」


「誰に」


 聞いた瞬間、少年の顔が曇る。


「……先生」


「名前は分かる?」


「言いたくない」


「分かった。なら、今は聞かない」


 俺がすぐに引くと、少年は少し驚いたように目を瞬いた。


「怒らない?」


「怒らない」


「でも、知りたいでしょ」


「ああ」


「なのに?」


「俺が知りたいことと、お前が今話したくないことは別だからだ」


 少年はしばらく俺を見ていた。


 青い瞳にはまだ疑いがある。それでいい。一度会ったばかりの相手を、すぐに信じる必要などない。


「主様」


 隣からセリーが小さく呼ぶ。


「何だ」


「フェリクスさんが限界です」


「何の」


「質問したそうです」


 振り返る。


 フェリクスは一応、保存槽から距離を取って立っている。勝手に近づいてもいないし、魔導具へ触れてもいない。


 だが。


 顔だけは完全に研究者だった。


「聞きたいことは?」


「七十七ほど」


「多い」


「今、減らしました」


「元はいくつだ」


「百を超えていました」


「黙っていろ」


「一つだけ」


「駄目だ」


「では二つ」


「増やすな」


 保存槽の中で、少年が少し目を丸くした。


「この人、変」


「ああ」


「アルフォンス殿」


「事実だ」


「そこは否定していただけませんか」


「無理だな」


 ブラットが横で小さく咳払いをする。


「少年の前です」


「お前も同じ意見だろ」


「否定はしません」


「ほら」


「私まで巻き込まないでください」


 少年の口元が僅かに動いた。


 笑ったというほどではない。


 けれど、さっきまで強張っていた表情へ、ほんの少しだけ別のものが混じった。


「名前、何?」


 少年がフェリクスを見る。


「私ですか?」


「うん」


「フェリクス・ハルトマンです。王宮魔導研究所の研究者でした」


「研究者」


 少年の顔から一瞬で表情が消えた。


 フェリクスも気づいた。


「今は」


 彼はすぐに説明を重ねず、一度言葉を止めた。


「研究より、あなたが安全にここから出られる方法を確認する役割です」


「研究しない?」


「あなた自身を、勝手に研究対象へはしません。ただ、あなたが入っている保存槽と周囲の術式は調べます。開け方を間違えると、あなたが危険だからです」


「触る?」


「勝手には触りません」


 そこでフェリクスが俺を見る。


「許可を取ります」


「俺にじゃない」


「あ」


 視線が少年へ戻る。


「あなたと、現在この場所を管理している者たちへ確認します」


「いっぱい?」


「はい。一人だけで決めないようにしています」


「何で?」


「一人だと、間違えることがあるからです」


 フェリクスはそう答えた。


 少し意外だった。


 以前なら、研究結果の正確性を高めるため、とでも言ったかもしれない。だが今は、人が間違えることを先に認めている。


「俺も間違える」


 俺が言うと、少年がこちらを見る。


「王子様なのに?」


「元だ」


「元王子様でも?」


「ああ」


「王子様は何でも知ってるって言われた」


「誰に」


「先生」


「その先生は間違ってる」


「先生が?」


「ああ」


「先生、偉いよ」


「偉くても間違える」


「王様も?」


「ああ」


「お父さんも?」


 その言葉で、胸の奥が僅かに固くなった。


「父上もだ」


「同じ?」


「何が」


「あなたのお父さん」


 少年が自分の胸へ小さな手を置く。


「僕のお父さんも?」


 石室が静かになった。


 フェリクスが視線を落とし、ブラットも何も言わない。セリーだけが、答えを急がせることなく俺を見ていた。


「分からない」


 俺は答えた。


「今は、同じかもしれないし、違うかもしれない」


「じゃあ、僕は誰?」


 その問いには、すぐ答えられなかった。


 名前はある。


 アルフォンス。


 顔も同じ。


 王家の血統反応も一致し、魔力の基礎特性までよく似ている。


 そして、複写された記録には、分離体、AG-01、感情負荷抽出といった言葉が残されていた。


 だが、それは全部、誰かが書いたものだ。


「今のお前について、言えることならある」


「何?」


「名前はアルフォンスだ」


「うん」


「眠るのが怖い」


「うん」


「外へ出たい」


「うん」


「名前を取られたくない」


 少年は小さく頷いた。


「それだけでも、今のお前のことだろ」


「でも、どっちが本物?」


 やはり、そこへ戻る。


「分からない」


「僕が偽物かも」


「ああ」


「あなたが偽物かも?」


「ああ」


 フェリクスが顔を上げた。


 ブラットも僅かにこちらを見る。


 それでも、セリーは口を挟まない。


「怖くない?」


「怖い」


 正直に答えると、少年が目を見開いた。


「え?」


「普通に怖い」


「王子様なのに?」


「関係ない。自分と同じ顔で、同じ名前の子供が二十年間眠っていたと言われたら、怖いだろう」


「嫌?」


 少し考える。


「嫌というより、分からない」


「僕がいたら、困る?」


 その問いは。


 たぶん、一番聞きたかったのだろう。


「困ることは増える」


 少年の表情が沈む。


「でも、お前がいなくなれば楽になるとは思わない」


 少年が顔を上げた。


「何で」


「もう話したからだ」


「それだけ?」


「名前も聞いた」


「同じだけど」


「ああ」


「手も」


 透明板を挟み、俺たちの手はまだ重なっている。


「ああ」


「だから?」


「今はそれで十分だ」


 理由なんて、それ以上いらない。


「お前が何者か分からないからって、消していい理由にはならない」


 少年の唇が震えた。


「先生は……いらないって言った」


 セリーの瞳が僅かに細くなる。


「誰が?」


 俺が尋ねると、少年は目を閉じた。


「僕」


 石室には魔導具の低い駆動音だけが残った。


「僕はいらないから、ここにいるって」


 胸の奥が冷えていく。


「何がいらない?」


「怒るの。それと、泣くの」


 少年は目を閉じたまま、一つずつ思い出すように話した。


「怖いの。寂しいの。お母様がいなくて泣くの。父上が怖いって思うの。レイチェルが嫌いって思うの」


 呼吸が止まりそうになった。


 レイチェル。


 その名前。


「主様」


 セリーが呼んだが、俺は片手を少し上げて止めた。


「続けていい」


「言っていい?」


「ああ」


「先生が、王太子は怒っちゃいけないって。怖がっちゃいけないって。泣いたら駄目って言った」


 頭の奥が、ずきりと痛んだ。


 白い部屋。


 腕を押さえる手。


 泣くな。


 王太子だろう。


 感情を捨てろ。


 誰かの声。


 それが記憶なのか、目の前の少年の言葉に引きずられた想像なのか、まだ判断できない。


「主様」


「……大丈夫だ」


「今の反応は」


「分かってる。エル」


『外部精神干渉は確認されていません。記憶連動反応の可能性があります』


「記録」


 少年が小さく言った。


「何?」


「僕も、記録って言われた」


「どういう意味だ」


「覚えてなくていいものを、こっちに置くって」


 フェリクスの顔が変わった。


 研究者の興奮ではない。


 明らかな嫌悪だった。


「感情負荷抽出……」


「フェリクス」


「記録に同じ表現があります。ただ、この子の証言と一致するなら――」


「まだ決めるな」


「分かっています」


 フェリクスはすぐに口を閉じた。


 こういう時に止まれるようになった。


 本当に。


 少しずつだが。


「アルフォンス」


 俺は保存槽の中の少年へ呼びかけた。


 同じ名前。


 口にするたび、まだ妙な感覚が残る。


「なに?」


「怒ることは、いらないものじゃない」


「でも、王子様は怒っちゃ駄目って」


「怒っていい」


「人を殴る?」


「怒ることと、殴ることは別だ」


「怖いのも?」


「怖くていい」


「泣くのも?」


「ああ」


「寂しいのも?」


「ああ」


「嫌いも?」


 少しだけ間を置く。


「ああ。ただ、嫌いだから何をしてもいいわけじゃない」


「難しい」


「俺も難しい」


 少年が少しだけ笑った。


「また分からない」


「ああ」


「でも」


 彼は保存槽の内側へ額をつけた。


「僕がいらないんじゃない?」


「ああ」


「怒るのも?」


「ああ」


「怖いのも?」


「ああ」


「泣くのも?」


「ああ」


 返すたび、少年の目から涙が落ちた。


 頬を伝い、顎から透明な魔力媒体の中へ小さく消えていく。


「泣いていい?」


「聞かなくていい。泣きたいなら泣け」


 少年はしばらく我慢していた。


 唇を噛み、肩を小さく震わせ、それでも声を押し殺そうとしている。


 だが、やがて。


「怖かった……」


 細い声が漏れた。


「ああ」


「ずっと眠くて」


「ああ」


「起きても誰もいなくて」


「ああ」


「先生が来ると、また寝るって」


「ああ」


「僕、悪いから?」


「違う」


「怒ったから?」


「違う」


「泣いたから?」


「違う」


 俺は手を離さなかった。


「お前が悪いから、ここにいたんじゃない」


「じゃあ何で?」


「それを調べる」


「分かる?」


「今はまだ分からない」


「また」


「ああ」


 涙の向こうで、少年が少し笑った。


「でも調べる?」


「ああ」


「僕も聞いていい?」


「何を」


「僕のこと」


「もちろん」


「隠さない?」


 その問いへは、すぐ答えなかった。


 身体の状態。


 精神干渉の記録。


 王家との関係。


 二十年前の研究。


 子供本人へ、何をどこまで伝えるべきか。


 全部を一度に渡すことが正しいとは限らない。


「お前が知っても大丈夫な形にして、できるだけ隠さない」


「できるだけ?」


「ああ」


「全部じゃない?」


「まだ本当か分からないことや、一気に聞いたら怖すぎることまで、まとめて全部言うつもりはない」


「子供だから?」


「それもある」


 少年が少し不満そうな顔をする。


「でも、俺だって自分のことを全部一度に知るのは怖い」


「大人なのに?」


「ああ」


「元王子様なのに?」


「ああ」


「弱い」


「そうだな」


「僕も弱い?」


「今はな」


「同じ?」


「少し」


 少年の表情が、ほんの少しだけ安心したように見えた。


          ◇◇◇


 フェリクスが保存槽の話へ入ったのは、少年が泣き疲れ、呼吸も少し落ち着いてからだった。


 石室の入口側では、ブラットがガルムとの通信を続けている。療養所上階では患者救助が継続されており、クララとミーナを塔へ送ったあとも、残っている患者へ一室ずつ声をかけながら確認を進めているらしい。


「現在のところ、保存槽の強制解除は勧めません」


「理由は?」


「生命維持術式と封印機構が一体化しています。外側の蓋だけ開ければよい構造ではありません」


 フェリクスは保存槽から十分に距離を取り、複写した術式図を床へ広げた。以前なら本体へ顔を寄せて確認しただろうが、今は一度も触れていない。


「中のものは液体か?」


「完全な液体ではありません。高密度の魔力媒体です。身体の老化速度を極端に落とし、呼吸、栄養供給、魔力循環を補助しています」


「二十年も?」


「記録が正しければ」


「七歳のまま?」


「外見上は」


 俺は保存槽の中を見る。


「アルフォンス。聞いてる?」


「うん」


「分からない言葉があれば言え」


「いっぱい分からない」


「どれだ」


「老化」


「大人になることだ」


「僕、大人になってない?」


「そう見える」


「二十年?」


「ああ」


「じゃあ僕、二十七歳?」


「身体は七歳くらいだ」


「どっち?」


「それも、今は決められない」


「まただ」


「仕方ない」


 フェリクスが僅かに口元を緩めた。


「年齢には身体年齢、経過年齢、それから法的な年齢など複数の見方があります」


「難しい」


「すみません」


「今は七歳くらいでいいだろ」


 俺が言う。


「本人が大きくなりたいなら、その先でまた考えればいい」


「大きくなれる?」


 少年がすぐに聞いた。


 フェリクスは答えを急がなかった。


「まだ分かりません」


「アルフォンスと同じ」


「便利な言葉でしょう?」


 フェリクスがこちらを見る。


「お前が言うな」


「ですが、今は本当にそうです」


「大きくなれないかも?」


 少年の顔が曇る。


「可能性はあります」


「嫌」


「はい」


「僕、大きくなりたい」


「何になりたい?」


 俺が聞くと、少年は少し考えた。


「分かんない」


「それでいい」


「でも、大きくはなりたい」


「ああ。それは今のお前が決めたことだ」


 俺はエルへ視線を落とす。


「記録しておけ」


『本人希望として保存します』


「勝手に?」


 少年がすぐに腕輪を見た。


「嫌?」


「……分かんない」


「なら今のは一度保留だ」


『承知しました。本人希望記録を未確定へ変更します』


「消せる?」


『希望があれば削除可能です』


 少年の目が少し丸くなる。


「記録、消せるの?」


「ああ」


「先生は、消せないって言った」


「少なくとも、この記録についてはお前が決められる」


 少年はしばらく考えてから、小さく頷いた。


「じゃあ、残す」


「分かった」


『本人希望として確定します』


 少年は今度は、自分から言い直した。


「僕、大きくなりたい」


          ◇◇◇


「開放手順は三段階になります」


 フェリクスが術式図の端を指した。


「第一に、保存槽内部の生命維持機能を外部補助へ移す。第二に、身体が通常環境へ戻っても呼吸と魔力循環を維持できるか確認。第三に、封印そのものを解除して開放します」


「どれくらいかかる?」


「最低でも数時間。安全を優先するなら、一日以上かかる可能性もあります」


 保存槽の中で、少年の顔が強張った。


「まだここ?」


「ああ」


「嫌」


 俺はフェリクスを見る。


「短くする方法は?」


「あります。ただし、危険度は上がります」


「どのくらい?」


「現段階では正確に数値化できません」


「なら使わない」


「アルフォンス殿」


「本人へ聞く前に選択肢を消すな、って顔だな」


「はい」


 その通りだった。


 自分で何度も言ってきたことだ。


 危険を説明できるなら、説明する。


 選べるなら、選んでもらう。


「アルフォンス」


「なに?」


「方法は二つある。早く出る方法はあるが、身体に何が起きるか分からない部分が多い」


 少年の表情が変わる。


「もう一つは時間がかかる。でも、身体が大丈夫か確認しながら進められる」


「どのくらい?」


「たぶん、今日中はここかもしれない」


「夜も?」


「可能性はある」


「寝る?」


「無理に眠らせない」


「でも、眠くなったら?」


「寝てもいい」


「起きた時いる?」


 すぐに答えかけて止まった。


 ずっとここにいる。


 そう言えば安心するだろう。


 だが、療養所にはまだ救助を待つ患者がいる。クララとグレゴルもいる。町も動いている。


「交代で誰かはいる」


 少年の顔が曇る。


「あなたは?」


「できるだけいる」


「ずっとじゃない?」


「ずっととは言えない」


 少年は黙り込んだ。


「嫌なら嫌だって言っていい」


「嫌」


「ああ」


「あなたがいい」


 胸が少し痛む。


「分かった」


「じゃあ、いる?」


「できるだけ」


「また」


「ああ」


「でも、嘘じゃない?」


「ああ」


 少年は長く考えた。


 やがて、透明板越しに俺を見た。


「安全な方」


「いいのか?」


「うん」


「理由は?」


「大きくなりたいから」


 フェリクスが顔を上げた。


 セリーも、俺も。


「出て、すぐ死んだら、大きくなれない」


 幼い声だった。


 けれど。


 自分で選んだ。


「分かった。安全な方でやる」


「うん」


「途中で嫌になったら言え」


「変えられる?」


「状態次第だ」


「分からない?」


「ああ」


 少年が少し得意そうな顔をした。


「もう覚えた」


「何を」


「王子様、分からないっていっぱい言う」


「元だ」


「どっちでもいい」


「よくない」


 少年が初めて声を出して笑った。


 ほんの少しだけで、そのあとすぐ咳き込む。


「大丈夫か?」


「うん」


「セリー」


「呼吸は安定しています。笑ったことで少し乱れただけです」


「笑うのも危ないのか」


「今は少しだけです」


「じゃあ、いっぱい笑えるようになる?」


 少年が尋ねる。


「それを、これからの目標にしてもよいと思います」


 セリーが微笑んだ。


「目標?」


「これからしたいことです」


「じゃあ……いっぱい笑う」


 俺は先ほどのことを思い出し、先に確認する。


「記録する?」


 少年は少し悩んでから頷いた。


「する」


『本人希望として記録します』


「大きくなるのと」


『はい』


「笑うの」


『はい』


「あと……外へ出る」


『記録します』


 そこで少年の視線が俺へ向く。


「名前」


「何だ」


「アルフォンスって呼ばれたい」


 胸の奥が静かに揺れた。


「それも記録していい?」


「うん」


「分かった」


『本人希望呼称、アルフォンス。記録します』


 同じ名前。


 俺と。


 少年。


 やはり不思議な感覚は残る。


 けれど。


 今は、それでいい。


          ◇◇◇


 保存槽の調整を始める前に、俺たちは改めて役割を分けた。


 フェリクスは生命維持術式の解析。ただし一人では操作せず、エルがすべての変更を記録して監視する。セリーは少年の呼吸、心拍、魔力循環を確認し、少しでも異常が出れば停止をかける。


 ブラットは区画の出入口と外部通信。


 ガルムは引き続き療養所の患者救助と職員拘束。


 ヨアヒムは塔へ送ったエレナ、アメリア、クララを中心に治療を続ける。


 少年の存在については、町へまだ共有しないことにした。


 王家血統や二十年前の精神干渉研究まで絡む情報を、何も分かっていない段階で広く出せば、不必要な混乱を生むだけだ。


 ただし。


 誰にも知らせず、一人だけで抱えるわけでもない。


「アンナマリーにも共有する」


 俺が言うと、ブラットが振り返った。


「必要ですか?」


「ああ。今の記録管理を一緒にやっている」


「王家に関する機密ですが」


「だからこそ、一人で隠さない」


「ただし、少年本人の情報でもあります」


 正しい。


 俺は保存槽へ向き直った。


「アルフォンス」


「なに?」


「お前のことを、塔にいる別の者へ話していいか?」


「誰?」


「アンナマリー。俺の元婚約者だ」


「婚約者?」


「元だ」


「セリーさんじゃないの?」


「違う」


 隣のセリーが何も言わない。


 嫌な予感がした。


「まだです」


「言うと思った」


「聞かれましたので」


「聞かれてない」


 少年が目を丸くする。


「二人いるの?」


「何が」


「結婚する人」


「いない」


「セリーさんは?」


「主様」


「お前は黙れ」


 ブラットが顔を逸らした。


「笑うなよ」


「笑っていません」


「顔に出てる」


「否定はしません」


「余計悪い」


 少年は、俺たちを不思議そうに見ている。


「アンナマリーは、今俺たちと一緒に記録を整理している人だ」


「信用できる?」


「全部はまだ分からない。でも、今までどう動いたかは見ている」


「僕のこと言う?」


「必要な範囲だけだ」


「顔も?」


「見せない方がいいなら見せない」


 少年は少し考えた。


「名前は?」


「同じ名前だって言っていい?」


「……うん」


「顔は?」


「今は嫌」


「分かった」


「その嫌って言ったの、記録する?」


 今度は少年の方から聞く。


「ああ。残したい?」


「うん」


『外部共有条件を記録します。名前共有可、顔および映像共有不可』


 少年が小さく頷いた。


「町には?」


「今は言わない」


「何で?」


「お前のことを知らない大勢へ、今すぐ広く話す必要がないからだ」


「秘密?」


「隠すというより、守るに近い」


「違う?」


「たぶん」


「分からない?」


「少し」


 少年がまた笑う。


「便利」


「お前まで言うな」


          ◇◇◇


 最初の調整には、思った以上に時間がかかった。


 生命維持術式の一部を外部補助へ移すたび、少年の呼吸や魔力循環に小さな変化が出る。セリーがそのたびに止め、元へ戻し、フェリクスが原因を探す。


 一度目は、魔力循環が急に落ちた。


 二度目は、心拍が上がった。


 三度目は、少年が突然強い寒さを訴えた。


 そのたびに止めた。


 戻し。


 確認し。


 次の方法を考える。


 誰も急がなかった。


「僕、駄目?」


 三度目の中断後、少年が不安そうに言った。


「何が?」


「出られない?」


「まだ途中だ」


「三回失敗した」


「失敗じゃない」


「でも、止まった」


「危ない方法が三つ分かった」


「同じじゃない?」


「違う」


 俺は保存槽の前へ椅子を持ってきて座った。


「最初の方法では、お前の魔力が落ちる。二つ目は心臓へ負担がかかる。三つ目は体温が下がる。つまり、やらない方がいい方法が三つ分かった」


「じゃあ進んだ?」


「ああ」


 フェリクスも後ろから頷く。


「研究上も、その通りです」


「研究って言った」


 少年の顔がすぐ強張った。


「あ」


 フェリクスが言葉を止める。


「すみません」


「僕を?」


「違います。保存槽を安全に開ける方法についての調査です。あなた自身を研究対象と呼んだつもりはありません」


「ほんと?」


「はい」


「でも先生も……」


「私は」


 フェリクスはそこで一度口を閉じた。


「あなたが怖いと思ったなら、今の言い方が悪かったです」


 言い訳しなかった。


「以後、あなたに関する時は、安全確認か治療確認と呼びます」


「安全確認」


「はい」


「それならいい」


 フェリクスが少しだけ息を吐いた。


「ありがとうございます」


「何でありがとう?」


「言ってくれたからです」


「嫌って?」


「はい。言われなければ、私は気づかなかったかもしれません」


「大人なのに?」


「大人でも間違えます」


「アルフォンスと同じ」


 少年が俺を見る。


 フェリクスもこちらを見る。


「それは褒め言葉でしょうか」


「違うと思う」


「ですよね」


 石室へ小さな笑いが広がった。


「主様」


 その空気を切るように、セリーが隣へ来た。


「何だ」


「食事です」


「今?」


「今です」


「ここで?」


「ここでです」


「少年の調整中だぞ」


「現在は二十分の安定確認待機です」


 フェリクスが即答した。


「お前はどっちの味方だ」


「安全確認の味方です」


「便利な返しを覚えたな」


「主様」


 セリーが小さな包みを出す。


「パンと、匂いの強くないスープです」


「石室で食べるのか」


「食べられる時に食べます」


 保存槽の中から少年がこちらを見ていた。


「食べるの?」


「ああ」


「お腹空く?」


「ああ」


「僕は?」


 全員の動きが、一瞬止まった。


 保存槽の中の少年は、記録が正しければ二十年間も高密度の魔力媒体で生命を維持されていた。


 口から食事を取れるのか。


 胃腸が普通に動くのか。


 まだ分からない。


「フェリクス」


「今すぐ食べさせるのは危険です」


 少年の顔が曇る。


「食べられない?」


「今は、です」


「ずっと?」


「まだ分かりません。保存槽から出たあと、喉や胃が普通に動くか確認します」


「パン……」


 少年がぽつりと呟いた。


「食べたいですか?」


 セリーが尋ねると、少年の目が少しだけ明るくなった。


「食べたことある」


「何が好きでした?」


「白いパン」


「柔らかいものですか?」


「うん」


「味は?」


 少年は記憶を探すように視線を上げる。


「甘いジャム」


「何の果物でしょう」


「赤い」


「苺かもしれませんね」


「分かんない」


「では」


 セリーが笑った。


「外へ出たあと、安全に食べられると分かったら、一緒に確かめましょう」


「作る?」


「はい」


「僕の?」


「もちろんです」


「王子様だから?」


「いいえ」


 セリーは迷わず答える。


「食べたい方だからです」


 少年はしばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく。


「食べたい」


「目標へ追加しますか?」


「する」


 今度はエルが勝手に記録しないよう、少し待つ。


 少年が頷いたあと、腕輪の声が響いた。


『本人希望として記録します。柔らかい白いパンと、赤い果実のジャムを食べる』


「苺か分かりません」


「調べる」


「はい」


 俺は包みからパンを取った。


「主様」


「食べるよ」


「よろしいです」


「見られてる」


「はい」


 保存槽の少年がじっと俺を見ている。


「美味しい?」


「普通」


「主様」


「美味しい」


「今、言い直しましたね」


「普通に美味い」


「ならよいです」


 少年が、少しだけ笑った。


          ◇◇◇


 四度目の調整は成功した。


 保存槽内部の生命維持機能の一部を外部補助へ移し、十呼吸、二十呼吸、一分、五分と時間を延ばしていく。


 少年の心拍は上がらない。


 魔力循環も大きく乱れず、体温も呼吸も安定している。


「大丈夫?」


 俺が尋ねる。


「うん」


「寒くない?」


「さっきより平気」


「苦しい?」


「ない」


「怖い?」


「ある」


「ああ」


 少年は少しだけ息を整えてから続けた。


「でも、出られる?」


 フェリクスを見る。


 彼はすぐには頷かず、複写術式と計測値、それにエルの記録、セリーの確認まで順番に見てから口を開いた。


「次の段階へ進めます」


「開ける?」


「まだです」


 少年が明らかに不満そうな顔をした。


「次は、保存槽の中の魔力媒体を少しずつ減らします。あなた自身の身体で呼吸する割合を増やします」


「息できなくなる?」


「その兆候があれば、すぐ元へ戻します」


「痛い?」


「可能性はあります。胸や喉、それから頭が重くなることも考えられます」


「嫌」


「はい」


「でも出たい」


「はい」


 少年は少しだけ迷ったあと、自分で言った。


「やる」


 フェリクスが俺を見る。


「本人確認しました」


「ああ」


「始めます」


「待って」


 少年が声を出した。


「何?」


「手」


 俺の手は、まだ保存槽へ触れている。


「そのまま」


「ああ」


「離さない?」


「できる範囲では」


「またそれ」


「ああ」


「でもいい」


 俺は透明板へ掌を置いたまま、フェリクスを見る。


「始めろ」


「はい」


 保存槽の下部を走る淡い光が変わる。


 中を満たしていた青白い魔力媒体が、ほんの少しずつ減り始めた。


 少年の身体が初めて自分の重さを受け、肩が僅かに下がる。


 呼吸が深くなった。


「っ……」


「アルフォンス」


「大丈夫」


「無理に言うな」


「胸が……重い」


「停止」


 フェリクスが即座に操作を止める。


「戻す?」


 少年が聞いた。


「どうする」


「僕が?」


「ああ。ただし、身体が危なければこっちで戻す」


「止めたままじゃ駄目?」


「まず確認する」


 セリーが計測結果を見る。


「数値は安定しています。胸の重さは、呼吸筋が自力で動き始めたことによる可能性があります」


「危ない?」


「今すぐ危険な状態ではありません」


「なら……このまま」


「少し休む?」


「休む」


「分かった」


 すぐ隣でセリーが俺を見る。


「主様も休んでください」


「座ってる」


「食事もしましたか」


「した」


「水分は」


「飲んだ」


「ならよいです」


「確認が細かいな」


「役割です」


 保存槽の中で少年がまた少し笑う。


「セリーさん、強い」


「ああ」


「王子様より?」


「食事と休憩では」


「はい」


 セリーが即答した。


「お前は少し迷え」


「事実ですので」


「僕も、出たら言われる?」


「もちろんです」


「ご飯食べろ?」


「はい」


「寝ろ?」


「はい」


 少年は少し考えてから眉を下げた。


「それは、ちょっと嫌」


「慣れます」


「慣れるの?」


「俺は慣れてない」


「主様」


「少し慣れた」


「よろしいです」


 石室へまた笑いが落ちた。


          ◇◇◇


 安定確認の休憩中、ブラットが俺のそばへ近づいてきた。


「殿下」


「アルだ」


「今は正式な相談です」


「短く」


「町から連絡が来ています」


「何があった」


「仮代表会議で、療養所から救出された患者の受け入れについて話し合いが始まりました」


「もう?」


「アル様が療養所へ戻っている間に」


 少し驚いた。


「誰が言い出した?」


「マルタさんです。塔だけへ全員を預けるのは違うだろう、と」


「……そうか」


「治療が必要な者は塔。状態が安定した者については、町の治療院や空き家を使えるよう準備するそうです」


「イーダは?」


「治療院を一時的に増床するつもりです」


「町長は?」


「役場の旧倉庫を仮宿泊所へ転用する案を出しました」


「ハンスは」


「食事を出すと」


「肉?」


「肉です」


「だろうな」


「ベンノさんは、もう支援物資の帳簿を作り始めています。エドさんも寝具を運ぶ日雇いを集めているそうです」


 胸の奥へ何かが静かに落ちた。


 俺がいなくても、動いている。


 昨日。


 作り始めたばかりの仕組み。


 町長。


 町代表。


 近衛。


 塔。


 一人へ全部を任せないためのもの。


 まだ、たった一日しか経っていない。


 それでも。


「主様」


 セリーがこちらを見る。


「ああ」


「嬉しそうです」


「少し」


「顔に出ています」


「最近そればかり言われるな」


「以前より隠さなくなったからです」


「そうか」


 保存槽の中の少年が俺たちを見ていた。


「町?」


「ああ」


「僕も行く?」


「今はまだ分からない」


「行きたい」


「何で?」


「外」


 少年は少し考えてから続ける。


「塔も?」


「塔も外だ」


「町も?」


「ああ」


「パンある?」


「ある」


「赤いジャム?」


「たぶん」


「じゃあ行きたい」


「分かった」


「行ける?」


「まずここから出て、そのあと考える」


「また」


「ああ」


 少年は透明板へ手を当てた。


「でも、外へ出る」


「ああ」


「大きくなる」


「ああ」


「笑う」


「ああ」


「パン食べる」


「ああ」


「町行く」


「ああ」


 そこで少しだけ声が小さくなる。


「名前、アルフォンスでいい?」


 俺は自分の手を、透明板越しに彼の手へ重ねた。


「ああ」


「あなたも?」


「ああ」


「二人?」


「ああ」


「おかしい?」


「慣れるまでは変な感じがする」


「僕も」


「それでいい」


「どっちが本物?」


 また、その問いだった。


 けれど今度は、最初ほど怯えた顔ではない。


「今は決めない」


「ずっと?」


「必要になったら調べる」


「必要じゃなかったら?」


 考える。


 どちらが本物なのか。


 どちらが原体で、どちらが分離された側なのか。


 王家として。


 法的に。


 魔術的に。


 いずれ重要になる可能性はある。


 だが。


 今、この少年が生きるために最初に必要な答えなのか。


「決めなくても生きられるなら、急がない」


「二人ともアルフォンス?」


「ああ」


「変」


「ああ」


「でも」


 少年がほんの少し笑った。


「嫌じゃない」


 その言葉を聞き、胸の奥に固まっていた、自分でも名前を付けられない何かが少しだけほどけた。


「俺も」


「嫌じゃない?」


「ああ」


「怖い?」


「ああ」


「僕も」


「それでいい」


 誰が本物なのか。


 二十年前に何を分けたのか。


 誰がその研究を命じたのか。


 王家がどこまで関わっていたのか。


 俺が幼い頃、本当にここへ来たのか。


 何も分からない。


 けれど、今ここにいる少年が怖いと言い、外へ出たいと言い、大きくなりたいと言い、笑いたいと言い、パンを食べたいと言い、自分の名前を残したいと選んだ。


 それだけは、誰かが作った記録ではない。


「フェリクス」


「はい」


「次の段階は?」


「安定確認後です。あと十二分」


「急ぐな」


「はい」


「ブラット」


「はい」


「町へ返事を」


「何と?」


「任せる、と」


 ブラットが僅かに目を見開いた。


「それだけですか?」


「ああ。塔へ移す必要がある患者の条件だけヨアヒムと共有してくれ。それ以外は町で決めていい」


「アル様が確認しなくても?」


「だから作ったんだろ」


 俺がいなくても、動けるように。


 ブラットは少しだけ黙ったあと、静かに頷いた。


「承知しました」


「それと、保存槽の少年については、本人が許可した範囲だけアンナマリーへ共有する」


「名前のみ」


「ああ。顔と映像は出すな」


「承知しました」


「セリー」


「はい」


「次の休憩で――」


「食事ですか?」


「違う」


「残念です」


「少年用に、白いパンと赤いジャムを用意できるか」


 保存槽の中のアルフォンスを見る。


 少年の目がすぐに明るくなった。


「今すぐ食べさせるのではありませんね?」


「分かってる」


「でしたら、もちろんです」


「苺か分からない」


「では赤い果実を数種類用意しておきます」


「そんなに?」


「本人に選んでいただけばよいでしょう」


 少年が目を丸くした。


「選ぶ?」


「ああ」


「ジャムも?」


「ああ」


「どれが好きか?」


「ああ」


「全部好きだったら?」


「全部一気に食べるなよ」


「何で」


「腹を壊す」


「じゃあ、ちょっとずつ」


「それならいい」


「主様」


「何だ」


「食事許可が出てからです」


「分かってる」


「アルフォンスさんも」


「僕?」


「はい」


「分かった」


 同じ名前を呼ばれ。


 俺と少年が。


 同時にセリーへ振り返った。


 そこで初めて。


 セリーが少し困った顔をした。


「これは……」


「何だ」


「呼び分けが必要でしょうか」


「本物かどうかを今決めないって話と、呼び分けは別だろ」


「では、主様とアルフォンスさん」


「僕がアルフォンス?」


「はい」


「あなたは主様?」


 少年が俺を見る。


「嫌だ」


「主様」


「外で呼ぶなよ」


「では、アル様とアルフォンスさん」


 少年は少し考えた。


「僕もアルって呼ばれたい時ある」


「増えた」


 ブラットが口元を押さえる。


「笑うな」


「申し訳ありません」


 フェリクスまで肩を揺らしている。


「主様」


「何だ」


 セリーが少しだけ楽しそうに提案した。


「今は、大きいアルフォンスさんと小さいアルフォンスさんでは?」


「却下」


「僕、小さい?」


「今はな」


「大きくなる」


「ああ」


「じゃあ変わる」


「だから却下だ」


 少年が声を上げて笑った。


 今度は咳き込まなかった。


 その笑い声が、二十年間閉ざされていた地下最奥の石室へ、短く、それでも確かに残る。


 どちらが本物なのかは、まだ分からない。


 名前も同じ。


 顔もよく似ている。


 王家の血も。


 魔力も。


 そして過去さえ、どこかで重なっている。


 けれど今、俺の目の前にいる少年は、自分の意思で笑っていた。


 誰かが不要だと決めた感情で。


 誰かが切り離したと記録したものを、自分のものとして。


 ちゃんと笑っていた。


 なら、今はそれでいい。


 十二分後。


 保存槽を開けるための次の段階へ進む。


 急がず、一つずつ。


 少年自身へ、これから何をするのかを伝えながら。


 もう一人のアルフォンスを。


 古い研究記録の中の「分離体」ではなく、生きている一人の人間として。


 この場所の外へ連れ出すために。第26話 同じ名前を持つ少年へ、どちらが本物かを今は決めないことにしました


 透明な保存槽の向こう側で、小さな手が止まっていた。


 俺が重ねた掌よりもずっと小さく、指も細い。長い眠りの中へ置かれていたせいなのか、七歳くらいの子供として見ても血色がいいとは言えなかった。それでも、古い透明板を挟んで俺の手と重なる位置へ、自分から手を上げたという事実だけは、魔導具の記録でも二十年前の研究記録でもない。


 今、そこにいる少年自身が選んだことだった。


 白鴉療養所地下最奥の封印区画は、ほかの場所とは明らかに空気が違う。長く閉ざされていた石室には冷気が溜まり、壁際へ並ぶ古い魔導具からは低い駆動音が途切れず響いていた。天井へ埋め込まれた魔導灯も半分ほどしか点いておらず、薄青い光が保存槽の表面をなぞるたび、その少年の顔が浮かんでは暗がりへ沈んでいく。


 その顔は、見れば見るほど嫌になるくらい覚えがあった。


 今の俺を映した鏡ではない。けれど、幼い頃の自分を描いた肖像画や、王宮の古い記録画に残っていた七歳前後のアルフォンス・ガイゼンと、あまりにもよく似ている。


 髪の色。


 眉の形。


 鼻筋。


 閉じた唇の形まで。


 違いを探そうと思えば探せるのかもしれない。だが、今の俺には、むしろ同じ部分ばかりが目へ入った。


「主様」


 通信石越しではなく、今はすぐ隣からセリーの声がする。


 俺が塔から療養所へ戻るまで、彼女は言われた通り少年へ触れず、保存槽も開けず、フェリクスとブラットを入口側へ下げたまま待っていた。ガルムたちは療養所内の患者救助と封鎖を続けており、この最奥区画へ入っているのは、必要最小限の人数だけだ。


「呼吸は?」


「安定しています。ただし、目覚めた直後より少し速くなっています」


「怖いからか」


「可能性は高いと思います」


 セリーの言葉を聞いていたのか、保存槽の中の少年が僅かに指を動かし、透明板の向こうから俺の掌へ近づけた。


「怖い?」


 尋ねると、少年はすぐには答えなかった。


 青い瞳が俺の顔からセリーへ、さらに少し離れた場所へ立つフェリクスとブラットへ動く。知らない大人ばかりに囲まれているのだから、怖くない方がおかしい。


「……ちょっと」


「どのくらい?」


「分かんない」


「それでいい。無理に数へしなくても、怖いなら怖いでいい」


 少年は小さく頷いたが、そのあと少し迷うように目を伏せた。


「眠りたくない」


 幼い声だった。


 けれど、その一言が出た瞬間、石室の冷気とは別のものが胸の奥へ入り込んだ。


「また眠らされると思ってる?」


 少年は今度も小さく頷く。


「起きたら、みんな、いなくなるから」


 その言葉が痛かった。


 ミーナも似たことを言っていた。助けると言った者がいなくなる。名前を呼んだ者がいなくなる。目を覚ました時には誰もいない。


 この療養所では、人が消えることそのものが日常だったのかもしれない。


「今すぐ、お前を眠らせるつもりはない」


「ほんと?」


「ああ。ただ、身体を守るために休まないといけないことはあるかもしれない」


 安心させたいだけなら、絶対に眠らせないと言えばいい。だが、保存槽から出す過程で鎮静や休息が必要になる可能性はある。そこで嘘をつけば、あとからまた同じ恐怖を与えることになる。


 少年の表情は、それだけでも強張った。


「でも、その時は先に話す。何をするのか、なぜ必要なのか、お前に分かるように説明する」


「嫌って言ったら?」


 背後でフェリクスが僅かに息を吸った。


 状態次第では、拒否をそのまま受け入れられないこともある。研究者でなくても、治療へ関わるなら分かる。


 だから、俺も言葉を選んだ。


「まず、何で嫌なのか聞く。それでも嫌で、すぐ命に関わる状態じゃなければ、別の方法を探す」


「死ぬなら?」


「その時は、お前を守るためにやるかもしれない」


「勝手に?」


「そこまで危ないなら、そうなることもある」


 少年の眉が下がった。


「……嫌」


「ああ」


「でも死ぬのも嫌」


「ああ。どっちも嫌でいい」


「選べない」


「選べない時は、一緒に考える」


 口にしてから、今日だけで何度似たようなことを言っただろうと思った。


 町の代表へ。


 クララへ。


 ミーナへ。


 けれど、同じ言葉でも相手と状況が違えば意味も変わる。


 そして今、目の前には自分と同じ名前を名乗る少年がいる。


「ねえ」


「何だ」


「名前、取らない?」


「ああ」


「ほんとに?」


「ああ」


「でも、あなたもアルフォンスなんでしょ?」


「そうだ」


「二人いたら、おかしい」


「そうか?」


「だって、一人しかいないって言われた」


「誰に」


 聞いた瞬間、少年の顔が曇る。


「……先生」


「名前は分かる?」


「言いたくない」


「分かった。なら、今は聞かない」


 俺がすぐに引くと、少年は少し驚いたように目を瞬いた。


「怒らない?」


「怒らない」


「でも、知りたいでしょ」


「ああ」


「なのに?」


「俺が知りたいことと、お前が今話したくないことは別だからだ」


 少年はしばらく俺を見ていた。


 青い瞳にはまだ疑いがある。それでいい。一度会ったばかりの相手を、すぐに信じる必要などない。


「主様」


 隣からセリーが小さく呼ぶ。


「何だ」


「フェリクスさんが限界です」


「何の」


「質問したそうです」


 振り返る。


 フェリクスは一応、保存槽から距離を取って立っている。勝手に近づいてもいないし、魔導具へ触れてもいない。


 だが。


 顔だけは完全に研究者だった。


「聞きたいことは?」


「七十七ほど」


「多い」


「今、減らしました」


「元はいくつだ」


「百を超えていました」


「黙っていろ」


「一つだけ」


「駄目だ」


「では二つ」


「増やすな」


 保存槽の中で、少年が少し目を丸くした。


「この人、変」


「ああ」


「アルフォンス殿」


「事実だ」


「そこは否定していただけませんか」


「無理だな」


 ブラットが横で小さく咳払いをする。


「少年の前です」


「お前も同じ意見だろ」


「否定はしません」


「ほら」


「私まで巻き込まないでください」


 少年の口元が僅かに動いた。


 笑ったというほどではない。


 けれど、さっきまで強張っていた表情へ、ほんの少しだけ別のものが混じった。


「名前、何?」


 少年がフェリクスを見る。


「私ですか?」


「うん」


「フェリクス・ハルトマンです。王宮魔導研究所の研究者でした」


「研究者」


 少年の顔から一瞬で表情が消えた。


 フェリクスも気づいた。


「今は」


 彼はすぐに説明を重ねず、一度言葉を止めた。


「研究より、あなたが安全にここから出られる方法を確認する役割です」


「研究しない?」


「あなた自身を、勝手に研究対象へはしません。ただ、あなたが入っている保存槽と周囲の術式は調べます。開け方を間違えると、あなたが危険だからです」


「触る?」


「勝手には触りません」


 そこでフェリクスが俺を見る。


「許可を取ります」


「俺にじゃない」


「あ」


 視線が少年へ戻る。


「あなたと、現在この場所を管理している者たちへ確認します」


「いっぱい?」


「はい。一人だけで決めないようにしています」


「何で?」


「一人だと、間違えることがあるからです」


 フェリクスはそう答えた。


 少し意外だった。


 以前なら、研究結果の正確性を高めるため、とでも言ったかもしれない。だが今は、人が間違えることを先に認めている。


「俺も間違える」


 俺が言うと、少年がこちらを見る。


「王子様なのに?」


「元だ」


「元王子様でも?」


「ああ」


「王子様は何でも知ってるって言われた」


「誰に」


「先生」


「その先生は間違ってる」


「先生が?」


「ああ」


「先生、偉いよ」


「偉くても間違える」


「王様も?」


「ああ」


「お父さんも?」


 その言葉で、胸の奥が僅かに固くなった。


「父上もだ」


「同じ?」


「何が」


「あなたのお父さん」


 少年が自分の胸へ小さな手を置く。


「僕のお父さんも?」


 石室が静かになった。


 フェリクスが視線を落とし、ブラットも何も言わない。セリーだけが、答えを急がせることなく俺を見ていた。


「分からない」


 俺は答えた。


「今は、同じかもしれないし、違うかもしれない」


「じゃあ、僕は誰?」


 その問いには、すぐ答えられなかった。


 名前はある。


 アルフォンス。


 顔も同じ。


 王家の血統反応も一致し、魔力の基礎特性までよく似ている。


 そして、複写された記録には、分離体、AG-01、感情負荷抽出といった言葉が残されていた。


 だが、それは全部、誰かが書いたものだ。


「今のお前について、言えることならある」


「何?」


「名前はアルフォンスだ」


「うん」


「眠るのが怖い」


「うん」


「外へ出たい」


「うん」


「名前を取られたくない」


 少年は小さく頷いた。


「それだけでも、今のお前のことだろ」


「でも、どっちが本物?」


 やはり、そこへ戻る。


「分からない」


「僕が偽物かも」


「ああ」


「あなたが偽物かも?」


「ああ」


 フェリクスが顔を上げた。


 ブラットも僅かにこちらを見る。


 それでも、セリーは口を挟まない。


「怖くない?」


「怖い」


 正直に答えると、少年が目を見開いた。


「え?」


「普通に怖い」


「王子様なのに?」


「関係ない。自分と同じ顔で、同じ名前の子供が二十年間眠っていたと言われたら、怖いだろう」


「嫌?」


 少し考える。


「嫌というより、分からない」


「僕がいたら、困る?」


 その問いは。


 たぶん、一番聞きたかったのだろう。


「困ることは増える」


 少年の表情が沈む。


「でも、お前がいなくなれば楽になるとは思わない」


 少年が顔を上げた。


「何で」


「もう話したからだ」


「それだけ?」


「名前も聞いた」


「同じだけど」


「ああ」


「手も」


 透明板を挟み、俺たちの手はまだ重なっている。


「ああ」


「だから?」


「今はそれで十分だ」


 理由なんて、それ以上いらない。


「お前が何者か分からないからって、消していい理由にはならない」


 少年の唇が震えた。


「先生は……いらないって言った」


 セリーの瞳が僅かに細くなる。


「誰が?」


 俺が尋ねると、少年は目を閉じた。


「僕」


 石室には魔導具の低い駆動音だけが残った。


「僕はいらないから、ここにいるって」


 胸の奥が冷えていく。


「何がいらない?」


「怒るの。それと、泣くの」


 少年は目を閉じたまま、一つずつ思い出すように話した。


「怖いの。寂しいの。お母様がいなくて泣くの。父上が怖いって思うの。レイチェルが嫌いって思うの」


 呼吸が止まりそうになった。


 レイチェル。


 その名前。


「主様」


 セリーが呼んだが、俺は片手を少し上げて止めた。


「続けていい」


「言っていい?」


「ああ」


「先生が、王太子は怒っちゃいけないって。怖がっちゃいけないって。泣いたら駄目って言った」


 頭の奥が、ずきりと痛んだ。


 白い部屋。


 腕を押さえる手。


 泣くな。


 王太子だろう。


 感情を捨てろ。


 誰かの声。


 それが記憶なのか、目の前の少年の言葉に引きずられた想像なのか、まだ判断できない。


「主様」


「……大丈夫だ」


「今の反応は」


「分かってる。エル」


『外部精神干渉は確認されていません。記憶連動反応の可能性があります』


「記録」


 少年が小さく言った。


「何?」


「僕も、記録って言われた」


「どういう意味だ」


「覚えてなくていいものを、こっちに置くって」


 フェリクスの顔が変わった。


 研究者の興奮ではない。


 明らかな嫌悪だった。


「感情負荷抽出……」


「フェリクス」


「記録に同じ表現があります。ただ、この子の証言と一致するなら――」


「まだ決めるな」


「分かっています」


 フェリクスはすぐに口を閉じた。


 こういう時に止まれるようになった。


 本当に。


 少しずつだが。


「アルフォンス」


 俺は保存槽の中の少年へ呼びかけた。


 同じ名前。


 口にするたび、まだ妙な感覚が残る。


「なに?」


「怒ることは、いらないものじゃない」


「でも、王子様は怒っちゃ駄目って」


「怒っていい」


「人を殴る?」


「怒ることと、殴ることは別だ」


「怖いのも?」


「怖くていい」


「泣くのも?」


「ああ」


「寂しいのも?」


「ああ」


「嫌いも?」


 少しだけ間を置く。


「ああ。ただ、嫌いだから何をしてもいいわけじゃない」


「難しい」


「俺も難しい」


 少年が少しだけ笑った。


「また分からない」


「ああ」


「でも」


 彼は保存槽の内側へ額をつけた。


「僕がいらないんじゃない?」


「ああ」


「怒るのも?」


「ああ」


「怖いのも?」


「ああ」


「泣くのも?」


「ああ」


 返すたび、少年の目から涙が落ちた。


 頬を伝い、顎から透明な魔力媒体の中へ小さく消えていく。


「泣いていい?」


「聞かなくていい。泣きたいなら泣け」


 少年はしばらく我慢していた。


 唇を噛み、肩を小さく震わせ、それでも声を押し殺そうとしている。


 だが、やがて。


「怖かった……」


 細い声が漏れた。


「ああ」


「ずっと眠くて」


「ああ」


「起きても誰もいなくて」


「ああ」


「先生が来ると、また寝るって」


「ああ」


「僕、悪いから?」


「違う」


「怒ったから?」


「違う」


「泣いたから?」


「違う」


 俺は手を離さなかった。


「お前が悪いから、ここにいたんじゃない」


「じゃあ何で?」


「それを調べる」


「分かる?」


「今はまだ分からない」


「また」


「ああ」


 涙の向こうで、少年が少し笑った。


「でも調べる?」


「ああ」


「僕も聞いていい?」


「何を」


「僕のこと」


「もちろん」


「隠さない?」


 その問いへは、すぐ答えなかった。


 身体の状態。


 精神干渉の記録。


 王家との関係。


 二十年前の研究。


 子供本人へ、何をどこまで伝えるべきか。


 全部を一度に渡すことが正しいとは限らない。


「お前が知っても大丈夫な形にして、できるだけ隠さない」


「できるだけ?」


「ああ」


「全部じゃない?」


「まだ本当か分からないことや、一気に聞いたら怖すぎることまで、まとめて全部言うつもりはない」


「子供だから?」


「それもある」


 少年が少し不満そうな顔をする。


「でも、俺だって自分のことを全部一度に知るのは怖い」


「大人なのに?」


「ああ」


「元王子様なのに?」


「ああ」


「弱い」


「そうだな」


「僕も弱い?」


「今はな」


「同じ?」


「少し」


 少年の表情が、ほんの少しだけ安心したように見えた。


          ◇◇◇


 フェリクスが保存槽の話へ入ったのは、少年が泣き疲れ、呼吸も少し落ち着いてからだった。


 石室の入口側では、ブラットがガルムとの通信を続けている。療養所上階では患者救助が継続されており、クララとミーナを塔へ送ったあとも、残っている患者へ一室ずつ声をかけながら確認を進めているらしい。


「現在のところ、保存槽の強制解除は勧めません」


「理由は?」


「生命維持術式と封印機構が一体化しています。外側の蓋だけ開ければよい構造ではありません」


 フェリクスは保存槽から十分に距離を取り、複写した術式図を床へ広げた。以前なら本体へ顔を寄せて確認しただろうが、今は一度も触れていない。


「中のものは液体か?」


「完全な液体ではありません。高密度の魔力媒体です。身体の老化速度を極端に落とし、呼吸、栄養供給、魔力循環を補助しています」


「二十年も?」


「記録が正しければ」


「七歳のまま?」


「外見上は」


 俺は保存槽の中を見る。


「アルフォンス。聞いてる?」


「うん」


「分からない言葉があれば言え」


「いっぱい分からない」


「どれだ」


「老化」


「大人になることだ」


「僕、大人になってない?」


「そう見える」


「二十年?」


「ああ」


「じゃあ僕、二十七歳?」


「身体は七歳くらいだ」


「どっち?」


「それも、今は決められない」


「まただ」


「仕方ない」


 フェリクスが僅かに口元を緩めた。


「年齢には身体年齢、経過年齢、それから法的な年齢など複数の見方があります」


「難しい」


「すみません」


「今は七歳くらいでいいだろ」


 俺が言う。


「本人が大きくなりたいなら、その先でまた考えればいい」


「大きくなれる?」


 少年がすぐに聞いた。


 フェリクスは答えを急がなかった。


「まだ分かりません」


「アルフォンスと同じ」


「便利な言葉でしょう?」


 フェリクスがこちらを見る。


「お前が言うな」


「ですが、今は本当にそうです」


「大きくなれないかも?」


 少年の顔が曇る。


「可能性はあります」


「嫌」


「はい」


「僕、大きくなりたい」


「何になりたい?」


 俺が聞くと、少年は少し考えた。


「分かんない」


「それでいい」


「でも、大きくはなりたい」


「ああ。それは今のお前が決めたことだ」


 俺はエルへ視線を落とす。


「記録しておけ」


『本人希望として保存します』


「勝手に?」


 少年がすぐに腕輪を見た。


「嫌?」


「……分かんない」


「なら今のは一度保留だ」


『承知しました。本人希望記録を未確定へ変更します』


「消せる?」


『希望があれば削除可能です』


 少年の目が少し丸くなる。


「記録、消せるの?」


「ああ」


「先生は、消せないって言った」


「少なくとも、この記録についてはお前が決められる」


 少年はしばらく考えてから、小さく頷いた。


「じゃあ、残す」


「分かった」


『本人希望として確定します』


 少年は今度は、自分から言い直した。


「僕、大きくなりたい」


          ◇◇◇


「開放手順は三段階になります」


 フェリクスが術式図の端を指した。


「第一に、保存槽内部の生命維持機能を外部補助へ移す。第二に、身体が通常環境へ戻っても呼吸と魔力循環を維持できるか確認。第三に、封印そのものを解除して開放します」


「どれくらいかかる?」


「最低でも数時間。安全を優先するなら、一日以上かかる可能性もあります」


 保存槽の中で、少年の顔が強張った。


「まだここ?」


「ああ」


「嫌」


 俺はフェリクスを見る。


「短くする方法は?」


「あります。ただし、危険度は上がります」


「どのくらい?」


「現段階では正確に数値化できません」


「なら使わない」


「アルフォンス殿」


「本人へ聞く前に選択肢を消すな、って顔だな」


「はい」


 その通りだった。


 自分で何度も言ってきたことだ。


 危険を説明できるなら、説明する。


 選べるなら、選んでもらう。


「アルフォンス」


「なに?」


「方法は二つある。早く出る方法はあるが、身体に何が起きるか分からない部分が多い」


 少年の表情が変わる。


「もう一つは時間がかかる。でも、身体が大丈夫か確認しながら進められる」


「どのくらい?」


「たぶん、今日中はここかもしれない」


「夜も?」


「可能性はある」


「寝る?」


「無理に眠らせない」


「でも、眠くなったら?」


「寝てもいい」


「起きた時いる?」


 すぐに答えかけて止まった。


 ずっとここにいる。


 そう言えば安心するだろう。


 だが、療養所にはまだ救助を待つ患者がいる。クララとグレゴルもいる。町も動いている。


「交代で誰かはいる」


 少年の顔が曇る。


「あなたは?」


「できるだけいる」


「ずっとじゃない?」


「ずっととは言えない」


 少年は黙り込んだ。


「嫌なら嫌だって言っていい」


「嫌」


「ああ」


「あなたがいい」


 胸が少し痛む。


「分かった」


「じゃあ、いる?」


「できるだけ」


「また」


「ああ」


「でも、嘘じゃない?」


「ああ」


 少年は長く考えた。


 やがて、透明板越しに俺を見た。


「安全な方」


「いいのか?」


「うん」


「理由は?」


「大きくなりたいから」


 フェリクスが顔を上げた。


 セリーも、俺も。


「出て、すぐ死んだら、大きくなれない」


 幼い声だった。


 けれど。


 自分で選んだ。


「分かった。安全な方でやる」


「うん」


「途中で嫌になったら言え」


「変えられる?」


「状態次第だ」


「分からない?」


「ああ」


 少年が少し得意そうな顔をした。


「もう覚えた」


「何を」


「王子様、分からないっていっぱい言う」


「元だ」


「どっちでもいい」


「よくない」


 少年が初めて声を出して笑った。


 ほんの少しだけで、そのあとすぐ咳き込む。


「大丈夫か?」


「うん」


「セリー」


「呼吸は安定しています。笑ったことで少し乱れただけです」


「笑うのも危ないのか」


「今は少しだけです」


「じゃあ、いっぱい笑えるようになる?」


 少年が尋ねる。


「それを、これからの目標にしてもよいと思います」


 セリーが微笑んだ。


「目標?」


「これからしたいことです」


「じゃあ……いっぱい笑う」


 俺は先ほどのことを思い出し、先に確認する。


「記録する?」


 少年は少し悩んでから頷いた。


「する」


『本人希望として記録します』


「大きくなるのと」


『はい』


「笑うの」


『はい』


「あと……外へ出る」


『記録します』


 そこで少年の視線が俺へ向く。


「名前」


「何だ」


「アルフォンスって呼ばれたい」


 胸の奥が静かに揺れた。


「それも記録していい?」


「うん」


「分かった」


『本人希望呼称、アルフォンス。記録します』


 同じ名前。


 俺と。


 少年。


 やはり不思議な感覚は残る。


 けれど。


 今は、それでいい。


          ◇◇◇


 保存槽の調整を始める前に、俺たちは改めて役割を分けた。


 フェリクスは生命維持術式の解析。ただし一人では操作せず、エルがすべての変更を記録して監視する。セリーは少年の呼吸、心拍、魔力循環を確認し、少しでも異常が出れば停止をかける。


 ブラットは区画の出入口と外部通信。


 ガルムは引き続き療養所の患者救助と職員拘束。


 ヨアヒムは塔へ送ったエレナ、アメリア、クララを中心に治療を続ける。


 少年の存在については、町へまだ共有しないことにした。


 王家血統や二十年前の精神干渉研究まで絡む情報を、何も分かっていない段階で広く出せば、不必要な混乱を生むだけだ。


 ただし。


 誰にも知らせず、一人だけで抱えるわけでもない。


「アンナマリーにも共有する」


 俺が言うと、ブラットが振り返った。


「必要ですか?」


「ああ。今の記録管理を一緒にやっている」


「王家に関する機密ですが」


「だからこそ、一人で隠さない」


「ただし、少年本人の情報でもあります」


 正しい。


 俺は保存槽へ向き直った。


「アルフォンス」


「なに?」


「お前のことを、塔にいる別の者へ話していいか?」


「誰?」


「アンナマリー。俺の元婚約者だ」


「婚約者?」


「元だ」


「セリーさんじゃないの?」


「違う」


 隣のセリーが何も言わない。


 嫌な予感がした。


「まだです」


「言うと思った」


「聞かれましたので」


「聞かれてない」


 少年が目を丸くする。


「二人いるの?」


「何が」


「結婚する人」


「いない」


「セリーさんは?」


「主様」


「お前は黙れ」


 ブラットが顔を逸らした。


「笑うなよ」


「笑っていません」


「顔に出てる」


「否定はしません」


「余計悪い」


 少年は、俺たちを不思議そうに見ている。


「アンナマリーは、今俺たちと一緒に記録を整理している人だ」


「信用できる?」


「全部はまだ分からない。でも、今までどう動いたかは見ている」


「僕のこと言う?」


「必要な範囲だけだ」


「顔も?」


「見せない方がいいなら見せない」


 少年は少し考えた。


「名前は?」


「同じ名前だって言っていい?」


「……うん」


「顔は?」


「今は嫌」


「分かった」


「その嫌って言ったの、記録する?」


 今度は少年の方から聞く。


「ああ。残したい?」


「うん」


『外部共有条件を記録します。名前共有可、顔および映像共有不可』


 少年が小さく頷いた。


「町には?」


「今は言わない」


「何で?」


「お前のことを知らない大勢へ、今すぐ広く話す必要がないからだ」


「秘密?」


「隠すというより、守るに近い」


「違う?」


「たぶん」


「分からない?」


「少し」


 少年がまた笑う。


「便利」


「お前まで言うな」


          ◇◇◇


 最初の調整には、思った以上に時間がかかった。


 生命維持術式の一部を外部補助へ移すたび、少年の呼吸や魔力循環に小さな変化が出る。セリーがそのたびに止め、元へ戻し、フェリクスが原因を探す。


 一度目は、魔力循環が急に落ちた。


 二度目は、心拍が上がった。


 三度目は、少年が突然強い寒さを訴えた。


 そのたびに止めた。


 戻し。


 確認し。


 次の方法を考える。


 誰も急がなかった。


「僕、駄目?」


 三度目の中断後、少年が不安そうに言った。


「何が?」


「出られない?」


「まだ途中だ」


「三回失敗した」


「失敗じゃない」


「でも、止まった」


「危ない方法が三つ分かった」


「同じじゃない?」


「違う」


 俺は保存槽の前へ椅子を持ってきて座った。


「最初の方法では、お前の魔力が落ちる。二つ目は心臓へ負担がかかる。三つ目は体温が下がる。つまり、やらない方がいい方法が三つ分かった」


「じゃあ進んだ?」


「ああ」


 フェリクスも後ろから頷く。


「研究上も、その通りです」


「研究って言った」


 少年の顔がすぐ強張った。


「あ」


 フェリクスが言葉を止める。


「すみません」


「僕を?」


「違います。保存槽を安全に開ける方法についての調査です。あなた自身を研究対象と呼んだつもりはありません」


「ほんと?」


「はい」


「でも先生も……」


「私は」


 フェリクスはそこで一度口を閉じた。


「あなたが怖いと思ったなら、今の言い方が悪かったです」


 言い訳しなかった。


「以後、あなたに関する時は、安全確認か治療確認と呼びます」


「安全確認」


「はい」


「それならいい」


 フェリクスが少しだけ息を吐いた。


「ありがとうございます」


「何でありがとう?」


「言ってくれたからです」


「嫌って?」


「はい。言われなければ、私は気づかなかったかもしれません」


「大人なのに?」


「大人でも間違えます」


「アルフォンスと同じ」


 少年が俺を見る。


 フェリクスもこちらを見る。


「それは褒め言葉でしょうか」


「違うと思う」


「ですよね」


 石室へ小さな笑いが広がった。


「主様」


 その空気を切るように、セリーが隣へ来た。


「何だ」


「食事です」


「今?」


「今です」


「ここで?」


「ここでです」


「少年の調整中だぞ」


「現在は二十分の安定確認待機です」


 フェリクスが即答した。


「お前はどっちの味方だ」


「安全確認の味方です」


「便利な返しを覚えたな」


「主様」


 セリーが小さな包みを出す。


「パンと、匂いの強くないスープです」


「石室で食べるのか」


「食べられる時に食べます」


 保存槽の中から少年がこちらを見ていた。


「食べるの?」


「ああ」


「お腹空く?」


「ああ」


「僕は?」


 全員の動きが、一瞬止まった。


 保存槽の中の少年は、記録が正しければ二十年間も高密度の魔力媒体で生命を維持されていた。


 口から食事を取れるのか。


 胃腸が普通に動くのか。


 まだ分からない。


「フェリクス」


「今すぐ食べさせるのは危険です」


 少年の顔が曇る。


「食べられない?」


「今は、です」


「ずっと?」


「まだ分かりません。保存槽から出たあと、喉や胃が普通に動くか確認します」


「パン……」


 少年がぽつりと呟いた。


「食べたいですか?」


 セリーが尋ねると、少年の目が少しだけ明るくなった。


「食べたことある」


「何が好きでした?」


「白いパン」


「柔らかいものですか?」


「うん」


「味は?」


 少年は記憶を探すように視線を上げる。


「甘いジャム」


「何の果物でしょう」


「赤い」


「苺かもしれませんね」


「分かんない」


「では」


 セリーが笑った。


「外へ出たあと、安全に食べられると分かったら、一緒に確かめましょう」


「作る?」


「はい」


「僕の?」


「もちろんです」


「王子様だから?」


「いいえ」


 セリーは迷わず答える。


「食べたい方だからです」


 少年はしばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく。


「食べたい」


「目標へ追加しますか?」


「する」


 今度はエルが勝手に記録しないよう、少し待つ。


 少年が頷いたあと、腕輪の声が響いた。


『本人希望として記録します。柔らかい白いパンと、赤い果実のジャムを食べる』


「苺か分かりません」


「調べる」


「はい」


 俺は包みからパンを取った。


「主様」


「食べるよ」


「よろしいです」


「見られてる」


「はい」


 保存槽の少年がじっと俺を見ている。


「美味しい?」


「普通」


「主様」


「美味しい」


「今、言い直しましたね」


「普通に美味い」


「ならよいです」


 少年が、少しだけ笑った。


          ◇◇◇


 四度目の調整は成功した。


 保存槽内部の生命維持機能の一部を外部補助へ移し、十呼吸、二十呼吸、一分、五分と時間を延ばしていく。


 少年の心拍は上がらない。


 魔力循環も大きく乱れず、体温も呼吸も安定している。


「大丈夫?」


 俺が尋ねる。


「うん」


「寒くない?」


「さっきより平気」


「苦しい?」


「ない」


「怖い?」


「ある」


「ああ」


 少年は少しだけ息を整えてから続けた。


「でも、出られる?」


 フェリクスを見る。


 彼はすぐには頷かず、複写術式と計測値、それにエルの記録、セリーの確認まで順番に見てから口を開いた。


「次の段階へ進めます」


「開ける?」


「まだです」


 少年が明らかに不満そうな顔をした。


「次は、保存槽の中の魔力媒体を少しずつ減らします。あなた自身の身体で呼吸する割合を増やします」


「息できなくなる?」


「その兆候があれば、すぐ元へ戻します」


「痛い?」


「可能性はあります。胸や喉、それから頭が重くなることも考えられます」


「嫌」


「はい」


「でも出たい」


「はい」


 少年は少しだけ迷ったあと、自分で言った。


「やる」


 フェリクスが俺を見る。


「本人確認しました」


「ああ」


「始めます」


「待って」


 少年が声を出した。


「何?」


「手」


 俺の手は、まだ保存槽へ触れている。


「そのまま」


「ああ」


「離さない?」


「できる範囲では」


「またそれ」


「ああ」


「でもいい」


 俺は透明板へ掌を置いたまま、フェリクスを見る。


「始めろ」


「はい」


 保存槽の下部を走る淡い光が変わる。


 中を満たしていた青白い魔力媒体が、ほんの少しずつ減り始めた。


 少年の身体が初めて自分の重さを受け、肩が僅かに下がる。


 呼吸が深くなった。


「っ……」


「アルフォンス」


「大丈夫」


「無理に言うな」


「胸が……重い」


「停止」


 フェリクスが即座に操作を止める。


「戻す?」


 少年が聞いた。


「どうする」


「僕が?」


「ああ。ただし、身体が危なければこっちで戻す」


「止めたままじゃ駄目?」


「まず確認する」


 セリーが計測結果を見る。


「数値は安定しています。胸の重さは、呼吸筋が自力で動き始めたことによる可能性があります」


「危ない?」


「今すぐ危険な状態ではありません」


「なら……このまま」


「少し休む?」


「休む」


「分かった」


 すぐ隣でセリーが俺を見る。


「主様も休んでください」


「座ってる」


「食事もしましたか」


「した」


「水分は」


「飲んだ」


「ならよいです」


「確認が細かいな」


「役割です」


 保存槽の中で少年がまた少し笑う。


「セリーさん、強い」


「ああ」


「王子様より?」


「食事と休憩では」


「はい」


 セリーが即答した。


「お前は少し迷え」


「事実ですので」


「僕も、出たら言われる?」


「もちろんです」


「ご飯食べろ?」


「はい」


「寝ろ?」


「はい」


 少年は少し考えてから眉を下げた。


「それは、ちょっと嫌」


「慣れます」


「慣れるの?」


「俺は慣れてない」


「主様」


「少し慣れた」


「よろしいです」


 石室へまた笑いが落ちた。


          ◇◇◇


 安定確認の休憩中、ブラットが俺のそばへ近づいてきた。


「殿下」


「アルだ」


「今は正式な相談です」


「短く」


「町から連絡が来ています」


「何があった」


「仮代表会議で、療養所から救出された患者の受け入れについて話し合いが始まりました」


「もう?」


「アル様が療養所へ戻っている間に」


 少し驚いた。


「誰が言い出した?」


「マルタさんです。塔だけへ全員を預けるのは違うだろう、と」


「……そうか」


「治療が必要な者は塔。状態が安定した者については、町の治療院や空き家を使えるよう準備するそうです」


「イーダは?」


「治療院を一時的に増床するつもりです」


「町長は?」


「役場の旧倉庫を仮宿泊所へ転用する案を出しました」


「ハンスは」


「食事を出すと」


「肉?」


「肉です」


「だろうな」


「ベンノさんは、もう支援物資の帳簿を作り始めています。エドさんも寝具を運ぶ日雇いを集めているそうです」


 胸の奥へ何かが静かに落ちた。


 俺がいなくても、動いている。


 昨日。


 作り始めたばかりの仕組み。


 町長。


 町代表。


 近衛。


 塔。


 一人へ全部を任せないためのもの。


 まだ、たった一日しか経っていない。


 それでも。


「主様」


 セリーがこちらを見る。


「ああ」


「嬉しそうです」


「少し」


「顔に出ています」


「最近そればかり言われるな」


「以前より隠さなくなったからです」


「そうか」


 保存槽の中の少年が俺たちを見ていた。


「町?」


「ああ」


「僕も行く?」


「今はまだ分からない」


「行きたい」


「何で?」


「外」


 少年は少し考えてから続ける。


「塔も?」


「塔も外だ」


「町も?」


「ああ」


「パンある?」


「ある」


「赤いジャム?」


「たぶん」


「じゃあ行きたい」


「分かった」


「行ける?」


「まずここから出て、そのあと考える」


「また」


「ああ」


 少年は透明板へ手を当てた。


「でも、外へ出る」


「ああ」


「大きくなる」


「ああ」


「笑う」


「ああ」


「パン食べる」


「ああ」


「町行く」


「ああ」


 そこで少しだけ声が小さくなる。


「名前、アルフォンスでいい?」


 俺は自分の手を、透明板越しに彼の手へ重ねた。


「ああ」


「あなたも?」


「ああ」


「二人?」


「ああ」


「おかしい?」


「慣れるまでは変な感じがする」


「僕も」


「それでいい」


「どっちが本物?」


 また、その問いだった。


 けれど今度は、最初ほど怯えた顔ではない。


「今は決めない」


「ずっと?」


「必要になったら調べる」


「必要じゃなかったら?」


 考える。


 どちらが本物なのか。


 どちらが原体で、どちらが分離された側なのか。


 王家として。


 法的に。


 魔術的に。


 いずれ重要になる可能性はある。


 だが。


 今、この少年が生きるために最初に必要な答えなのか。


「決めなくても生きられるなら、急がない」


「二人ともアルフォンス?」


「ああ」


「変」


「ああ」


「でも」


 少年がほんの少し笑った。


「嫌じゃない」


 その言葉を聞き、胸の奥に固まっていた、自分でも名前を付けられない何かが少しだけほどけた。


「俺も」


「嫌じゃない?」


「ああ」


「怖い?」


「ああ」


「僕も」


「それでいい」


 誰が本物なのか。


 二十年前に何を分けたのか。


 誰がその研究を命じたのか。


 王家がどこまで関わっていたのか。


 俺が幼い頃、本当にここへ来たのか。


 何も分からない。


 けれど、今ここにいる少年が怖いと言い、外へ出たいと言い、大きくなりたいと言い、笑いたいと言い、パンを食べたいと言い、自分の名前を残したいと選んだ。


 それだけは、誰かが作った記録ではない。


「フェリクス」


「はい」


「次の段階は?」


「安定確認後です。あと十二分」


「急ぐな」


「はい」


「ブラット」


「はい」


「町へ返事を」


「何と?」


「任せる、と」


 ブラットが僅かに目を見開いた。


「それだけですか?」


「ああ。塔へ移す必要がある患者の条件だけヨアヒムと共有してくれ。それ以外は町で決めていい」


「アル様が確認しなくても?」


「だから作ったんだろ」


 俺がいなくても、動けるように。


 ブラットは少しだけ黙ったあと、静かに頷いた。


「承知しました」


「それと、保存槽の少年については、本人が許可した範囲だけアンナマリーへ共有する」


「名前のみ」


「ああ。顔と映像は出すな」


「承知しました」


「セリー」


「はい」


「次の休憩で――」


「食事ですか?」


「違う」


「残念です」


「少年用に、白いパンと赤いジャムを用意できるか」


 保存槽の中のアルフォンスを見る。


 少年の目がすぐに明るくなった。


「今すぐ食べさせるのではありませんね?」


「分かってる」


「でしたら、もちろんです」


「苺か分からない」


「では赤い果実を数種類用意しておきます」


「そんなに?」


「本人に選んでいただけばよいでしょう」


 少年が目を丸くした。


「選ぶ?」


「ああ」


「ジャムも?」


「ああ」


「どれが好きか?」


「ああ」


「全部好きだったら?」


「全部一気に食べるなよ」


「何で」


「腹を壊す」


「じゃあ、ちょっとずつ」


「それならいい」


「主様」


「何だ」


「食事許可が出てからです」


「分かってる」


「アルフォンスさんも」


「僕?」


「はい」


「分かった」


 同じ名前を呼ばれ。


 俺と少年が。


 同時にセリーへ振り返った。


 そこで初めて。


 セリーが少し困った顔をした。


「これは……」


「何だ」


「呼び分けが必要でしょうか」


「本物かどうかを今決めないって話と、呼び分けは別だろ」


「では、主様とアルフォンスさん」


「僕がアルフォンス?」


「はい」


「あなたは主様?」


 少年が俺を見る。


「嫌だ」


「主様」


「外で呼ぶなよ」


「では、アル様とアルフォンスさん」


 少年は少し考えた。


「僕もアルって呼ばれたい時ある」


「増えた」


 ブラットが口元を押さえる。


「笑うな」


「申し訳ありません」


 フェリクスまで肩を揺らしている。


「主様」


「何だ」


 セリーが少しだけ楽しそうに提案した。


「今は、大きいアルフォンスさんと小さいアルフォンスさんでは?」


「却下」


「僕、小さい?」


「今はな」


「大きくなる」


「ああ」


「じゃあ変わる」


「だから却下だ」


 少年が声を上げて笑った。


 今度は咳き込まなかった。


 その笑い声が、二十年間閉ざされていた地下最奥の石室へ、短く、それでも確かに残る。


 どちらが本物なのかは、まだ分からない。


 名前も同じ。


 顔もよく似ている。


 王家の血も。


 魔力も。


 そして過去さえ、どこかで重なっている。


 けれど今、俺の目の前にいる少年は、自分の意思で笑っていた。


 誰かが不要だと決めた感情で。


 誰かが切り離したと記録したものを、自分のものとして。


 ちゃんと笑っていた。


 なら、今はそれでいい。


 十二分後。


 保存槽を開けるための次の段階へ進む。


 急がず、一つずつ。


 少年自身へ、これから何をするのかを伝えながら。


 もう一人のアルフォンスを。


 古い研究記録の中の「分離体」ではなく、生きている一人の人間として。


 この場所の外へ連れ出すために。

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