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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第25話 元王太子、兄の名を呼べない妹へ帰る場所を先に渡す

白鴉療養所の地下から三階へ続く階段は、途中で二度大きく折れ曲がっていた。


 壁には古い案内板が残され、剥がれかけた文字で診察室、静養室、観察区画と記されている。長い間ほとんど手入れされていないらしく、文字の周囲には細かな亀裂が走り、石壁の継ぎ目には薄い苔まで生えていた。


 地下から離れるにつれて薬品の匂いは少しずつ薄くなっていったが、その代わりに湿った布と、長く閉め切られた部屋特有の重い空気が鼻へまとわりつく。外では冷たい山の風が吹いていたはずなのに、建物の中だけは時間そのものまで淀み、何年も同じ空気を抱え込んでいるようだった。


 俺の右手は、ミーナの左手を握っている。


 最初は力加減が分からなかった。強く握れば痛いだろうし、かといって指先を離せば、また不安になるかもしれない。だから地下を出たばかりの頃は、互いの指先が触れる程度にしていたのだが、階段を一段ずつ上がるうち、ミーナの方から少しずつ握る力を強めてきた。


 今は互いの手のひらが触れ、細い指が俺の指へしっかり絡んでいる。


「王子様」


「アルでいい」


「王子様じゃないの?」


「元だ」


「元でも王子様」


「町の子供にも同じことを言われた」


「その子、賢いね」


「どこが」


「分かってる」


「何を」


「王子様は、王子様」


 話がまったく進まない。


 けれど、今はそれでよかった。地下の暗い隔離室へ閉じ込められ、自分の名前を口にすることすら怖がっていた少女が、こうしてどうでもいいことを言えるくらいには、少しだけ周囲を見る余裕が戻っている。


 俺たちの少し後ろでは、セリーが意識を失った女性を両腕で抱えていた。地下でミーナと同じ部屋にいた患者で、自分の名前を思い出せないという女性だ。身体は異様なほど痩せているが、それでも人一人を抱えたまま長い階段を上がるのは、人間なら決して楽ではない。


「重くないか」


「大丈夫です」


「無理はするなよ」


「していません。主様こそ、前ばかり見ずに足元も確認してください」


『セリーの出力は通常範囲内です』


 エルまで補足してくるので、俺は一度だけ振り返った。セリーの歩調も呼吸も乱れていない。なら、今は任せていい。


「分かった。無理が出たら言え」


「はい。ですが、その前に主様へ一つ」


「何だ」


「ミーナさんの歩幅へ、もう少し合わせてください」


「合わせている」


「少し速いです」


 言われて足元を見ると、ミーナは俺より一段下にいて、確かに足を持ち上げる動きが少し遅れていた。地下ではほとんど身体を動かしていなかったのだろう。細い脚へ力を入れるたび、膝が僅かに震えている。


「悪い。疲れたか?」


「分からない」


「足は痛い?」


「少し」


「なら休むか」


 俺が足を止めると、ミーナは一瞬だけ階段の上を見た。


「先生が来る」


「先生は逃げた」


「戻るかも」


「近衛が止める」


「近衛?」


「兵だ」


 その説明をした瞬間、ミーナの足がぴたりと止まった。


「兵は嫌」


 声は小さかったが、握っていた手へ強い力が入る。


 俺も一段上で足を止めた。


「なぜ」


「白い服の人と一緒に来る」


「この療養所の警備か?」


「分からない。でも、剣を持ってた」


「何をされた」


 ミーナは俺の手を握ったまま俯いた。答えたくないのなら、それ以上聞くつもりはなかったが、しばらく待つと、細い声が落ちてくる。


「名前を呼んだ子を連れていった」


 胸の奥が冷えた。


「どこへ?」


 ミーナは首を横へ振る。


「戻ってこない」


「何人くらい?」


「分からない」


 数えることすらできないほど何度も見たのか、それとも怖くて数えられなかったのか。どちらにしても、今ここで無理に思い出させる必要はない。


「ミーナ。今来ている兵は、俺たちと一緒に来た」


「同じじゃない?」


「違う」


 反射的に言い切ったあと、それが俺自身の判断にすぎないことへ気づいた。


 俺はガルムや近衛たちが昨日からどう動いたかを見ている。町へ入り、武器を抜かず、住民と同じ帳簿を確認し、王命に書かれていない町の問題へ目を向けた。命令よりも、目の前で起きていることを選ぼうとしている姿も見た。


 だが、ミーナは知らない。


「少なくとも、今は俺が見ている」


「王子様が?」


「ああ」


「王子様がいなくなったら?」


 その問いは、思ったより深く胸へ刺さった。


「セリーが見る」


「セリーさんもいなくなったら?」


「ガルムがいる」


「ガルムさんもいなくなったら?」


「全員いなくなる前提にするな」


「でも……みんないなくなった」


 その一言で、冗談にはできなくなった。


 昨日まで話していた者。助けると言った者。名前を呼んだ者。次の日には、いなくなる。


 この療養所で、それが何度も繰り返されてきたのだろう。


「今すぐ、ずっといるとは言えない」


 俺は正直に答えた。


「何で?」


「嘘になるかもしれない」


「嘘つかない?」


「つく時もある」


「つくの?」


「ああ」


「悪い人」


「そうだな」


「でも、自分で言うの変」


「よく言われる」


 ミーナは少しだけ考え込み、やがて俺を見上げた。


「じゃあ、何を言える?」


「戻るために動く」


「それ、クララさんも言ってた」


 上がりかけていた足が、自然に止まった。


「クララが?」


「うん」


「いつ?」


「歌わなくなる前」


「誰へ言った?」


「私に」


「何と?」


 ミーナは少しだけ顔を伏せる。


「兄さんが迎えに来るから、それまで戻るために生きるって」


 階段の上から冷たい風が流れてきた。どこかの窓が開いているのか、それとも三階の結界が弱くなっているのか。冷たい空気が頬を撫でても、胸の奥へ沈んだ重さは消えなかった。


「兄の名前は言った?」


 ミーナは首を横へ振った。


「言わなかった」


「なぜ」


「名前を言うと、先生に取られるから」


「クララも、そう思っていた?」


「うん」


「兄を守るために?」


「たぶん」


 グレゴルは、妹を守るために罪を重ねた。


 クララは、兄を守るために、その名前を口へしなくなった。


 互いに相手だけは守りたいと思いながら、それぞれ別の場所で、相手が何をしているのかも知らないまま傷を深くしていた。


「主様」


 セリーが静かに呼ぶ。


「ああ」


「急がなくて大丈夫です。クララさんは逃げませんし、レイハンさんについてもガルムさんたちが建物を押さえています」


 俺は小さく頷き、通信石へ魔力を流した。


「ガルム」


『聞こえている』


「三階東端へ誰か入ったか」


『今のところ確認していない』


「レイハンは?」


『地下東通路から外へ出た痕跡が見つかった。逃走した可能性が高い』


「追跡は?」


『ミラとヴァルターが続けている』


「深追いするなと伝えたな」


『伝えてある』


「療養所内の人数は?」


『正面側で警備員四名を拘束。職員と思われる者が七名。患者と思われる者は、一階と二階で十八名確認した』


「抵抗は」


『職員二名からあった。患者からは今のところない』


「武器は向けていないな」


『何度聞く』


「確認だ」


『向けていない』


「上階へ来るな。クララへ先に会う」


 短い沈黙が落ちる。


『分かった』


「早いな」


『理由があるなら待つ』


「仲良し」


 隣でミーナが呟いた。


「違う」


『誰だ』


「ミーナ」


 俺が答える。


『患者か』


「名前で呼べ」


 通信の向こうで、ほんの少し間があった。


『ミーナ。こちらは正面玄関付近で待っている』


 ミーナの手へ力が入る。


「兵?」


『そうだ』


「剣持ってる?」


『持っているが、今は鞘に収めている』


「抜かない?」


『必要がなければ』


「必要って?」


 今度はガルムが答えに詰まった。


『誰かが、誰かを傷つけようとした時だ』


「私が怖くて叩いたら?」


『止める』


「剣で?」


『いや』


「何で」


『腕で受ける』


「痛いよ」


『鎧がある』


「今着てる?」


『軽装だ』


「じゃあ痛い」


 ガルムが黙った。


 少しして、低い声が返る。


『痛くても、剣は抜かない』


「本当?」


『兵として誓う』


 ミーナは通信石をじっと見つめてから、小さく首を傾げた。


「変な兵」


『よく言われる』


 俺は思わず笑った。


「真似するな」


『お前に似たのかもしれない』


「困る」


「仲良し」


「違う」


 今度はセリーまで小さく笑った。


 ほんの少しだけ、ミーナの手から力が抜ける。それを確かめてから、俺たちは再び階段を上り始めた。


          ◇◇◇


 三階へ着くと、廊下は地下よりも明るかった。


 窓を塞いでいた木板の一部が外され、曇天の灰色の光が床へ細長く差し込んでいる。壁には汚れた白布が垂らされ、それぞれの部屋の扉には名前ではなく番号だけが書かれていた。


 三〇一。


 三〇二。


 三〇三。


 進むたび、扉の向こうから小さな物音が聞こえてくる。咳や布を擦る音、寝台が僅かに軋む音。誰かがいるのは間違いないのに、声だけは聞こえなかった。


「皆、起きてる」


 ミーナが言った。


「分かるのか」


「音で」


「出てこない?」


「先生が、廊下に出ると名前を取るって言ってた」


「本当に取られるのか」


「分からない。でも、皆そう思ってる」


 俺たちが扉へ近づくたび、中の気配がさらに静かになっていく。職員が来たと思っているのかもしれないし、職員とは違う、もっと知らない何かが来たと怯えているのかもしれなかった。


「主様。大きな声は出さない方がよいと思います」


「ああ」


「一室ずつ声をかけますか?」


「先にクララだ。今ここで全室を開けて回ったら、余計に混乱する」


「分かりました」


 まずは三〇七。


 廊下の最奥、窓に近い部屋だ。


 外から見た時には二階の窓へ人影が立っていたように見えたが、この建物は斜面に沿って建て増しされている。こちら側では三階でも、外から見れば位置によって二階相当に見えるのだろう。


 扉の前へ着く。


 銀色の鍵穴があり、その周囲から扉全体へ薄い魔力膜が張られていた。


「結界です」


 セリーが言う。


「何の?」


「内側から出られないようにするものです。外から開けるには鍵が必要ですが、破壊自体は可能です」


「音は」


「かなり小さくできます」


 俺は扉へ少し顔を近づけた。


「クララ」


 返事はない。


「クララ・キース。グレゴルの妹のクララ」


 中で何かが倒れる音がした。


「主様」


「ああ。間違いなく誰かいる」


 俺は扉から少しだけ距離を取り、もう一度声をかける。


「兄から頼まれて来た」


 また小さな物音がしたが、返事はない。


「今から扉を開ける。できるだけ大きな音は出さない。嫌なら扉を一度叩いてくれ。開けてよければ二度だ」


 待つ。


 一秒、二秒。


 時間が妙に長く感じた。


 やがて、扉の向こうから小さな音が返る。


 こつ。


 少し間を置いて、もう一度。


 こつ。


 二度。


「開ける」


 セリーが結界へ手を触れた。


「外します」


 魔力膜が端からゆっくり剥がれていく。鍵そのものはないが、結界が消えたあと、セリーは扉の蝶番側へ細い銀糸を滑り込ませた。


「内側の閂を動かします」


「できるのか」


「隙間があります」


 金属の擦れる小さな音がして、扉が僅かに開く。


 部屋の中は暗かった。


「クララ」


 返事はない。


 けれど、窓の前には一人の人影がいた。


 細い女性。


 長い髪。


 外から見えた人物と同じだ。


 彼女は俺たちへ背を向け、肩を小刻みに震わせていた。


「入っていいか」


 聞く。


 返事はない。


「一歩だけ入る」


 俺が足を進めた、その瞬間だった。


「止まって」


 かすれた声がした。


 すぐに止まる。


「それ以上、来ないで」


「分かった」


 俺の後ろで、ミーナが小さく息を呑んだ。


「クララさん」


 女性の肩が大きく揺れる。


「ミーナ?」


「うん」


「どうして」


「王子様と来た」


「王子……」


 クララがゆっくり振り返った。


 顔色は悪い。頬はこけ、唇も乾いている。けれど、その瞳には確かな意識が残っていた。


 俺を見る。


 次の瞬間、その顔がはっきりとした恐怖へ変わる。


「王太子」


「元だ」


「来ないで」


 クララが後ずさる。


「あなたが……あなたが兄さんを」


「何を聞いた」


「兄さんは処刑された」


 胸が止まりそうになる。


「誰に聞いた」


「先生」


「レイハンか」


「名前を呼ばないで!」


 クララが両耳を塞いだ。


「来る。呼ぶと来る」


「大丈夫だ」


「大丈夫じゃない!」


 叫び声が廊下へ響き、その音へ反応するように、ほかの扉の向こうでも複数の気配が動いた。


「主様」


「ああ」


「クララさんを刺激しています」


「分かっている」


 クララの瞳にあるのは、怯えだけではない。


 怒りもある。


 絶望も。


 疑いも。


 その全部が、俺へ向けられていた。


「兄さんを騙した」


「俺が?」


「王太子が命令したって」


「何を」


「兄さんが町の金を盗んだから、古の塔で処刑されたって」


 実際、グレゴルは町の金を抜く仕組みに関わった。命令され、妹を人質にされ、追い詰められていた。それでも自分の手で書類を処理し、支援を止めた。


 だからこそ、簡単に「全部嘘だ」と言ってしまうことはできない。


「誰がそう言った」


「先生」


「グレゴルは生きている」


 クララの動きが止まった。


「嘘」


「生きている」


「嘘」


「塔にいる」


「嘘!」


 窓辺の小さな机から、クララが陶器の椀を掴んだ。


 こちらへ投げる。


「主様!」


 セリーの前へ防壁が出かける。


「出すな」


 俺が止めた。


 次の瞬間、椀が右肩へ当たる。


「っ……」


 強い痛みが走り、椀は床へ落ちて砕けた。


「主様!」


「大丈夫だ」


『右肩へ打撲を確認。骨損傷なし』


「近づくな」


 セリーへ言う。


 クララは自分が投げた椀を見て、さらに怯えていた。


「ごめんなさい」


「謝らなくていい」


「怒る」


「怒らない」


「嘘」


「今は怒っていない」


「処刑する」


「しない」


「兄さんも」


「生きている」


 同じ言葉を繰り返すだけでは届かない。


 証明が必要だ。


「通信を繋ぐ」


 通信石へ触れようとした瞬間、クララがさらに強く叫んだ。


「待って!」


「誰へ繋ぐか聞きたい?」


「誰へ」


「兄へ」


「駄目!」


「なぜ」


「先生に聞かれる」


「先生は逃げた」


「嘘」


「今、近衛が追っている」


「近衛も先生の仲間」


「そう思う理由は?」


「いつも一緒だった」


 レイハンと白銀鎧の兵。


 王宮の者たち。


 ミーナが兵を怖がっていた理由とも繋がる。


「今いる近衛は、レイハンを追っている」


「嘘」


「ガルム」


『聞こえている』


 通信石から突然声が聞こえ、クララが身体を震わせた。


『クララ・キース――』


「名前を呼ぶな!」


『すまない』


 ガルムはすぐに止めた。


『私は近衛騎士団第三小隊長、ガルム・レイスだ』


「近衛……」


『ああ』


「先生の?」


『違う』


「皆そう言う」


『そうか』


「兄さんを殺した?」


『殺していない』


「知ってる?」


『今は古の塔で保護されている』


「証拠は?」


『本人と話すか』


 クララの呼吸が乱れた。


「駄目」


『なぜ』


「兄さんじゃないかもしれない」


『声だけでは信じられない?』


「先生は、声を作れる」


 レイハン。


 精神系魔術。


 記憶と声を利用する術式。


 通信だけでは確かに証明にはならない。


「主様」


 セリーが静かに言った。


「通信だけでは難しいです」


「ああ。塔へ戻せば直接会える。だが、それもクララが選ぶ」


 俺は彼女を見る。


「兄へ会う方法がある」


「嘘」


「今すぐ信じなくていい」


「会ったら、偽物かも」


「ああ」


「どうしたら……」


「お前だけが知っていることを聞け」


 クララの目が揺れる。


「二人だけのことだ。手紙にも書いていないこと」


「先生が知ってる」


「全部?」


「手紙を読んだ」


「なら、手紙以外だ」


 クララが黙った。


「子供の頃のことでもいい。誰にも話していないこと」


「兄が忘れているかも」


「それなら、忘れていると言うだろ」


「嘘をついたら?」


「お前が決めろ」


「何を」


「信じるか」


 クララの呼吸はまだ速い。


 けれど、先ほどよりはこちらの言葉を聞いている。


「兄さん……生きてる?」


「ああ」


「本当に?」


「ああ」


「何で塔に」


「領主府の兵から逃げたからだ」


「王太子が助けた?」


「俺が」


「何で」


「証言すると決めたから」


 クララは何度か瞬きをした。


「兄さんは、悪いことした?」


 部屋へ沈黙が落ちる。


 ここで嘘をつけば、今だけなら安心させられるかもしれない。


 けれど、あとで真実を知った時、さらに深く壊す。


「ああ」


 俺は答えた。


「町の支援を止めた。金を抜く処理にも関わった」


「何で言うの」


「本当だからだ」


「兄さんは、私のために」


「ああ」


「なら悪くない」


「それを決めるのは、お前だけじゃない」


 クララの顔が歪む。


「でも!」


「町で薬を待っていた子供がいた。夫を失った家族も、仕事を失った者もいる」


「兄さんは……」


「お前を守ろうとした」


 少しだけ間を置いた。


「同時に、ほかの人を傷つけた。両方だ」


「そんな……」


「兄自身も、それを認めた」


「嘘」


「自分の罪を町へ話すと決めた」


「誰に」


「町の人たちへ」


「殺される」


「処刑するかどうかを、俺一人が決めることはない」


「王子なのに?」


「元だ」


「でも力がある」


「ああ」


「助けて」


「何を」


「兄さんを罰しないで」


 クララが床へ膝をついた。


「お願い。何でもする」


「立て」


「名前も……渡すから」


 喉の奥が冷えた。


「やめろ」


「兄さんを助けるなら――」


「やめろ!」


 声が強くなった。


 クララがびくりと身体を震わせる。


 しまった。


「悪い」


 すぐに声を落とした。


「怒ってない」


「でも」


「お前が自分を差し出す必要はない」


「兄さんを助けるには……」


「お前が何かを失う必要はない」


「先生は」


 クララの唇が震える。


「先生は、兄さんを助けたければ、名前を忘れろって」


 胸の奥が冷える。


「何をされた」


「薬と……夢」


「夢?」


「兄さんが泣く。町の人が兄さんを殺す。王太子が笑う」


 俺の姿が、夢の中で使われていた。


 王太子としての俺。


 恐怖を植えつけるための顔として。


「それで、兄の名を呼ばなくなった?」


 クララは頷いた。


「呼ぶと先生に見つかる。先生が兄さんを殺す。だからずっと……兄さんってだけ」


 グレゴルの名前を、クララは兄を守るために、失わないために、自分の中からも隠そうとしていた。


「今も言えない?」


 クララの口が開く。


 けれど、音は出なかった。


「無理に言わなくていい」


「でも」


「兄は、お前が呼べなくても兄だ」


「名前を呼ばないと……消える」


「消えない」


「本当に?」


「ああ」


「王子様も?」


 ミーナが口を挟んだ。


「名前を取られなかった」


 クララがミーナを見る。


「ミーナ……言ったの?」


「うん」


「怖くなかった?」


「怖かった。でも、王子様が言わなくても助けるって」


「先生は?」


「逃げた。ガルムさんが追ってる」


 ミーナは、つい先ほどまで自分も疑っていた近衛隊長の名前を、今は普通に口へしている。


「クララさん」


「何」


「一緒に行こう」


「どこへ」


「外」


「怖い」


「私も。でも、王子様が戻るために動くって」


 クララが俺を見る。


「戻る場所なんてない」


「ある」


「どこ」


「古の塔」


 口にしてから、その言葉の重さへ気づいた。


 塔は俺とセリーの家だ。


 今はグレゴルもいる。


 ブラットやアンナマリー、フェリクスも滞在している。


 患者を何人まで受け入れるのか。どこまで塔を開くのか。まだ何も決めていない。


 だからこそ、約束できる範囲だけを口にする。


「少なくとも今は、お前が安全に兄へ会える部屋を用意する」


「ずっと?」


「ずっととは言えない」


「また」


「ああ。嘘をつきたくない」


 クララは目を伏せた。


「会ったあと、兄さんは捕まる?」


「可能性はある」


「離れる?」


「ああ」


「嫌」


「ああ」


「助けてくれないの」


「逃がすことはしない」


「何で」


「兄も、それを望んでいない」


「嘘」


「本人へ聞け」


 クララの顔へ怒りが浮かんだ。


「何で、全部本人に決めさせるの!」


 強い声だった。


「王子なら決めてよ!」


「決めた結果、ここへ来た」


 口にした言葉は、そのまま自分の胸へも刺さった。


「人の代わりに決めることに慣れすぎた。だから今は、本人が選べるなら選ばせたい」


「選べない時は?」


「守る」


「選んだら失う時は?」


「一緒に考える」


「正しい答えがない時は?」


「分からないと言う」


 クララが泣きながら、僅かに笑った。


「変な王子」


「元だ」


「どっちでもいい」


「よくない」


「皆、そう言う?」


「ああ」


「じゃあ、どっちでもいい」


 少しだけ、部屋の空気が変わった。


「クララ」


 もう一度、彼女の名前を呼ぶ。


「俺たちと来るか」


「兄さんに会える?」


「ああ」


「本物か確認していい?」


「ああ」


「違ったら?」


「戻れる場所は別に用意する」


「どこ」


「塔の別室」


「王子様は?」


「同じ塔にいる」


「セリーさんも?」


「ああ」


「ミーナは?」


 ミーナを見ると、少女はクララへ身体を向けた。


「私は一緒がいい」


「なら、一緒に来る」


 クララの視線が、セリーに抱かれている女性へ向いた。


「この人は?」


「名前を思い出せないって」


 ミーナが答える。


「三〇四の人」


「知ってる?」


「アメリア」


 クララが言った。


「アメリア・ノース」


 ミーナが目を大きく見開く。


「名前、覚えてたの?」


「歌を教えてくれたから」


「名前は言うなって」


「心の中で呼んでた」


 セリーが抱いている女性へ視線を落とす。


「アメリアさん」


 呼吸は弱い。


 けれど、まだ生きている。


「エル」


『名前を記録しました』


「被験体番号は?」


『記録上は照合します。ただし、呼称には使用しません』


「そうしろ」


 クララがゆっくり立ち上がった。


 足が震えている。


「歩けるか」


「分からない」


「支える?」


 俺が手を差し出すと、クララはその手を見たまま、すぐには取らなかった。


「セリーさんは」


「アメリアさんを抱いている」


「ミーナは」


「俺の右手を握ってる」


 自分で言ってから、少し困った。


「俺しかいないな。嫌なら近衛の女性を呼べる」


「兵?」


「ああ」


「嫌」


「なら、俺だ」


 クララは迷った末、俺の左袖を掴んだ。


「手じゃなくていい?」


「ああ」


「離さないで」


「お前が離すまで」


「王子様からは?」


「離さない」


 言い切った。


 今、この廊下を出るまで。


 塔へ着くまで。


 少なくとも、自分が約束できる範囲なら。


「行くぞ」


「待って」


「何だ」


「部屋に……手紙がある」


 クララが窓際の机を指差した。


「兄さんへ書いた。出せなかった」


「持っていく?」


「うん」


 俺はすぐには近づかなかった。


「自分で取れる?」


「怖い」


「なぜ」


「机の下に先生の印がある。触ると夢を見る」


 確認すると、机の脚元には確かに細い魔術線が走っていた。


「セリー」


「私はアメリアさんを抱いています」


「なら俺が――」


「待って」


 クララが袖を強く掴んだ。


「行かないで」


「ここにいる」


「でも手紙……」


「エル」


『遠隔回収可能です』


「最初から言え」


『求められませんでした』


 机の引き出しが淡い光に包まれる。


 ゆっくりと開き、中から折り畳まれた紙束が浮かび上がって、そのままこちらへ運ばれてきた。


「これ?」


 クララが頷く。


「開かないで」


「開かない」


「兄さんにも」


「お前が決めるまで渡さない」


「うん」


 手紙を内衣のポケットへ入れる。


「行こう」


 今度こそ、部屋を出た。


          ◇◇◇


 三階の廊下へ出ると、いくつもの扉の隙間から目が覗いていた。


 クララ。


 ミーナ。


 セリーに抱かれているアメリア。


 そして、外から来た俺。


 何が起きているのか。本当に出ていいのか。皆、声も出さずにこちらを見ている。


「助けに来た」


 大きすぎない声で言った。


 返事はない。


「今すぐ出なくていい。名前も言わなくていいし、扉を開けたくなければ、そのままでいい」


 少し間を置く。


「でも、具合が悪い者がいるなら、扉を二度叩いてくれ」


 静寂。


 しばらくして、三〇二号室から、こつ、こつ、と二度。


 三〇五号室からも、同じように二度。


 さらに三〇八号室からも、弱い音が二度返った。


「三室です」


 セリーが言う。


「エル、ガルムへ伝えてくれ。治療師を上げる。武器は廊下へ持ち込ませない」


『承知しました』


「クララ」


「何」


「少し待てるか」


「兄さんは?」


「塔にいる」


「逃げない?」


「今は出られない部屋にいる」


「閉じ込めてるの」


「ああ」


「何で」


「狙われているからだ。それと、罪について確認する必要もある」


 クララは複雑な顔をした。


「兄さん、怒ってる?」


「自分へは」


「私に?」


「心配している」


「本当に?」


「ああ」


「何て」


「頼まれた」


「何を」


「お前を探してくれと」


 クララの目に涙が浮かぶ。


「名前……」


「何」


「兄さんの名前」


 唇が震える。


 けれど、声は出ない。


「言わなくていい」


「でも」


「塔で本人の前へ行ってからでもいい」


「呼べなかったら?」


「呼べなくても会える」


「兄さん、悲しむ」


「悲しむかもしれない。でも、待つと思う」


「王子様が決めるの?」


「兄なら、そうすると思うだけだ」


「分からない」


「なら本人へ聞く」


「また」


「それしかない」


 クララは泣きながら、それでも俺の袖を離さなかった。


          ◇◇◇


 少しして、階段の下からガルムたちが姿を見せた。


 ガルムは鎧を着ておらず、剣も持っていない。その後ろには治療師のヨアヒムと、担架を持ったオスカーが続いている。二人も武器は下へ置いてきたらしい。


「そこまで」


 俺が言うと、三人ともすぐに足を止めた。


「患者が怖がる」


「ああ」


「クララ」


「何」


「あれがガルム」


「変な兵?」


 ガルムの眉が動いた。


「何を話した」


「お前が変だと」


「王子様と仲良し」


「違う」


「違う」


 俺とガルムの声が綺麗に重なった。


 ミーナが少し笑う。


 クララも涙を残したまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「治療師のヨアヒムだ。剣は持っていない」


 俺が紹介すると、ヨアヒムは両手を見える位置へ出した。


「近づいてもよいですか」


 クララだけではなく、廊下にいる全員へ聞くような声だった。視線は、セリーが抱いているアメリアへ向いている。


「クララ」


「何」


「決めていい」


「私が?」


「ああ」


「アメリアさん……苦しい?」


「かなり」


 セリーが答える。


 クララは迷ってから、ヨアヒムを見た。


「治して」


 それから少し頭を下げる。


「お願いします」


「分かりました。ゆっくり近づきます」


 ヨアヒムは宣言してから歩き始めた。


 走らない。


 急に触れない。


「まず脈を確認します。腕へ触れます。そのあと、呼吸を確認します」


 一つずつ伝える。


 セリーがアメリアを担架へ静かに下ろすと、ヨアヒムの表情がすぐに険しくなった。


「紫鈍草の影響が強いです。すぐに解毒が必要ですが、ここで行うのは応急処置までにします。その後は、設備が整った場所へ移した方がいい」


「塔へ運ぶ」


 俺が言う。


「エレナは?」


「後方で状態は安定しました」


「塔へ移せる?」


「今なら可能です」


「なら二人とも先に」


「クララとミーナも?」


 ガルムが尋ねる。


「本人たちへ聞く」


 ガルムは何も言わず頷いた。


「クララ。今から古の塔へ行く。転移扉を使う」


「兄さんがいる?」


「ああ」


「怖い」


「ああ」


「でも、行く」


「分かった」


「ミーナは?」


「私も行く」


「分かった」


 ミーナは答えたあと、廊下の扉を見回した。


「ほかの人は? 置いていく?」


「置いていかない」


「本当に?」


「ああ。でも、今は状態が重い者を先へ運ぶ。それから一室ずつ確認する」


「名前を言わなくても?」


「助ける」


「王子様が戻る?」


「戻る」


「約束?」


 一瞬だけ、言葉が止まった。


 戻るために動く。


 アンナマリーとも。


 セリーとも。


 約束した。


「約束する」


 今回は、はっきり言う。


「ここへ戻る」


 ミーナが頷いた。


「待つ人に言う」


「頼む」


 彼女は廊下へ向き直った。


「王子様、戻るって!」


 小さな声だが、静かな廊下には十分響いた。


 すぐには返事がない。


 やがて三〇二号室から、こつ、と一度。


 三〇五号室からも一度。


 三〇八号室からも一度。


 それから、今まで何の反応もなかった部屋からも、一度ずつ音が返り始めた。


「一度は何だ?」


 俺が尋ねる。


 ミーナが答えた。


「聞こえた」


 そういう意味らしい。


「分かった」


 俺も廊下へ向けて言う。


「必ず戻る」


 誰も声にはしない。


 それでも今度は、幾つもの扉の向こうから、一度ずつ返事が返ってきた。


          ◇◇◇


 療養所正面玄関付近へ戻ると、エルが一時転移扉を開いた。


 この場所は正式な登録地点ではないため、塔へ直接繋ぐことはできない。旧採石場の登録地点を経由する、二段階の転移になる。


「最初にアメリア。次にエレナ。そのあとクララ、ミーナ、ヨアヒム」


 順番を決める。


「俺も行く」


 その言葉に、クララが俺の袖を掴む力を強めた。


「療養所へ戻るんじゃ……」


「塔へ一度行く」


「なぜ」


「グレゴルへ会わせる」


「すぐ?」


「ああ」


「本物か確認する」


「ああ」


「そのあと戻る?」


「ああ」


「私も」


「クララは塔へ残れ」


「嫌」


「兄と話す必要があるだろ」


「でも」


「療養所は近衛とセリーが――」


「主様」


 セリーが口を挟んだ。


「私は主様と戻ります」


「患者は?」


「ガルムさんたちが守ります」


「全部任せるのか」


「役割を渡したのでしょう?」


 俺が何度も使った言葉だった。


「でも」


「主様がクララさんを塔へ連れていき、私が療養所へ残る。それでも構いません」


「一緒ではないぞ」


「はい」


「いいのか」


「嫌です」


 即答だった。


「でも、必要です」


 胸が少しだけ痛む。


「戻る」


「はい」


「必ず」


「はい」


 ガルムを見る。


「療養所を任せる。患者保護を最優先」


「分かっている」


「証拠は」


「二人以上で触れる」


「レイハンが戻ったら」


「拘束する」


「殺すな」


「分かっている」


「フェリクスは」


「ブラットに見張らせる」


「薬品へ」


「一人で触らせない」


「患者へ質問する時は」


「本人が拒めば止める」


「扉は」


「勝手に壊さない」


 全部、俺が最後まで言う前に答える。


「そこまで覚えているならいい」


「お前が何度も言うからだ」


「確認だ」


「早く行け」


 ガルムが言った。


「クララを待たせるな」


「ああ」


「そして戻れ」


「ああ」


「兵としてではない」


 ガルムの目が、少しだけ柔らかくなる。


「今、ここにいる者として言う。戻れ」


「分かった」


 セリーを見る。


「行ってくる」


「はい」


「お前も気をつけろ」


「主様も」


 クララとミーナが、俺たちの間を交互に見た。


「夫婦?」


「違う」


「まだです」


 セリーが答えた。


「お前は」


「戻ってから話します」


「何を」


「夫婦について」


「話さない」


 ミーナが笑う。


 クララも今度は、少しだけ声を出して笑った。


 ほんの僅かな時間だったが、それでも笑えたこと自体が、ここでは小さくない変化だった。


          ◇◇◇


 古の塔へ戻ると、転移室にはすでに治療用の寝台が二つ用意されていた。


 アメリアとエレナがそれぞれ静かに寝かされ、ヨアヒムと塔の治療魔導具、それにエルが状態を確認していく。魔導具の淡い光が二人の身体を包み、壁際には治療に必要な水や布も並べられていた。


「クララ」


「何」


「兄へ会う前に、身体を診せてくれ」


「嫌」


「なぜ」


「先生みたい」


「ヨアヒムは違う」


「分からない」


「ああ」


 クララにとっては、その通りだ。


 俺が違うと言っただけで、違うと信じる理由にはならない。


「なら、今は無理にしない」


 ヨアヒム自身が答えた。


「呼吸だけ遠くから確認します。触りません」


「薬も?」


「使いません」


「分かった」


 彼は十分な距離を保ったまま、クララへ質問する。


「歩いたあとに息切れはありますか」


「少し」


「胸は痛いですか」


「今はない」


「咳は?」


「夜」


「血は出ますか」


 クララが黙った。


 ヨアヒムは急かさない。


 少し待つと、クララが小さく答えた。


「……少し」


 グレゴルが聞けば、どんな顔をするだろう。


「急いで会わせる」


 ただ、その前に。


「グレゴルへ、クララを見つけたことを伝える」


「直接じゃ駄目?」


「急に扉を開ければ、互いに身体がついていかないかもしれない」


「兄さんが私を傷つける?」


「違う。感情が強すぎると、身体へ負担がかかる」


「兄さんも?」


「ああ」


「弱いの?」


「今はな」


「私も?」


「ああ」


 クララは少し不満そうな顔をした。


「兄妹だな」


「何が」


「同じ顔をする」


「知ってるの?」


「ああ」


「本物?」


「会って決めろ」


 客室区画第五室へ通信を繋ぐ。


「グレゴル」


『はい』


「見つけた」


 長い沈黙。


『誰を』


 その声は、もう震えていた。


「クララを」


 通信石の向こうで、何かが倒れる音がした。


「グレゴル!」


『大丈夫です』


「座れ」


『はい』


「今、転移室にいる」


『生きて……』


「ああ」


『本当に』


「ああ」


『話せますか』


「待て」


 クララを見る。


「兄へ繋がっている。声を聞く?」


 クララは頷いた。


 けれど、声は出ない。


「グレゴル」


『はい』


「クララは今、聞いている」


『クララ』


 その名前が呼ばれた瞬間、クララの膝から力が抜けた。


 俺が身体を支える。


「大丈夫か」


「兄さん……」


『クララ』


「兄さん」


『生きて……』


「兄さん」


 名前はまだ出ない。


 関係だけを、何度も口にする。


『ごめん』


 グレゴルの声が崩れた。


「何で」


『迎えに行けなかった』


「来るって」


『行けなかった』


「戻るって」


『ごめん』


「名前」


『何?』


「言って」


『何を』


「子供の頃、私が熱を出した時。兄さんが作ったもの」


 沈黙。


 やがて。


『青い鳥』


 クララの呼吸が止まりそうになる。


「何で青?」


『絵の具が、それしかなかった』


「鳥じゃなかった」


『犬だった』


 転移室へ、泣きながら笑う声が響いた。


「鳥だった」


『犬だ』


「羽あった」


『耳だ』


「兄さん」


『クララ』


「グ……」


 言葉が止まる。


 唇が震える。


「無理に言わなくていい」


 俺が言う。


 だが、クララは首を横へ振った。


「言う」


 息を吸う。


 ゆっくり吐く。


「先生に取られない」


「ああ。ここにはいない」


「兄さん……」


 もう一度、息を吸う。


「グレゴル」


 その名前が、ようやく口から出た。


 通信石の向こうで、グレゴルが声を殺して泣いている。


『クララ』


「グレゴル兄さん」


『ああ』


「本物?」


『分からない』


「何で」


『お前が決めてくれ』


 俺と同じ言葉だった。


 クララは泣きながら、しばらく通信石を見つめる。


「本物」


 やがて、自分でそう言った。


「会う」


『ああ』


「逃げないで」


『逃げない』


「罰を受けるの?」


 長い沈黙。


『ああ』


「嫌」


『ああ』


「私のためだった」


『それでも』


「嫌!」


『クララ』


「嫌!」


 堰を切ったように感情が溢れた。


「兄さんがいなくなるなら、私、戻らなければよかった!」


『言うな』


「だって!」


『お前が戻ったことと、私の罪は別だ』


 グレゴルの声も震えている。


 それでも、逃げない。


『お前が生きていたことを、私の言い訳にしたくない』


「兄さん……」


『会おう』


「今?」


『ああ』


「でも」


『怖い』


 グレゴルが言った。


『会うのが怖い』


「私も」


『それでも』


「うん」


 クララは涙を拭わないまま頷いた。


「会う」


 俺はエルへ、客室区画の扉を開くよう頼む。


『第五室の隔離を一時解除します』


「危険魔力だけ監視」


『承知しました』


「クララ。歩ける?」


「分からない」


「袖を掴む?」


「うん」


「ミーナは?」


「私も行く」


「最初は兄妹だけにする」


「でも」


「扉の外で待つ。俺も一緒だ」


「王子様も?」


「ああ」


「じゃあ待つ」


 クララがまた俺の袖を掴む。


 客室区画へ向かい、一歩ずつ歩いていく。


          ◇◇◇


 第五室の前へ着いた。


 扉一枚の向こうに、グレゴルがいる。


「開けるぞ」


 俺が言うと、中から掠れた返事が届いた。


『はい』


「クララ」


「うん」


 扉がゆっくり開く。


 部屋の中央に、グレゴルが立っていた。


 右腕には治癒布が巻かれ、顔は痩せ、目は赤く腫れている。


 兄と妹は、互いの姿を見たまま動かなかった。


「兄さん」


「クララ」


 どちらからも、最初の一歩が出ない。


 言葉だけでは確認できなかった。


 通信石の向こうにいた兄が本物なのか。


 目の前にいる妹が、本当に生きて帰ってきたのか。


 互いに、それを自分の目で確かめる時間が必要だったのだろう。


 長い沈黙のあと、クララが俺の袖を離した。


 一歩。


 前へ進む。


 グレゴルも、同じように一歩進んだ。


「本当に……生きてた」


「ああ」


「遅い」


「ごめん」


「謝らないで」


「でも」


「今は」


 クララが兄の胸へ額をつけた。


「今は、謝らないで」


 グレゴルの両腕が上がる。


 けれど、すぐには抱きしめなかった。


「触っていいか」


 クララの顔がさらに歪む。


「兄さんなのに」


「聞きたい」


 少しの間。


 それから、クララが小さく頷く。


「いい」


 その言葉で、グレゴルは妹を抱きしめた。


 強すぎないように。


 痩せた身体を壊さないように。


 震える腕で、ゆっくりと。


「クララ」


「兄さん」


「クララ」


「うん」


 名前を何度も呼ぶ。


 取られない。


 消えない。


 誰も止めない。


 クララも、今度は逃げなかった。


 兄の胸へ額を押しつけたまま、長い間口へできなかった名前を、掠れた声でもう一度呼ぶ。


「グレゴル兄さん」


「ああ」


「グレゴル兄さん」


「ああ。ここにいる」


 その言葉を聞いてから、俺は静かに扉を閉めた。


 完全には閉じず、何かあれば声が届く程度の隙間だけ残す。


「王子様」


 隣で待っていたミーナが小声で呼んだ。


「何だ」


「帰る場所、あったね」


「ああ」


「兄さんが?」


「それだけじゃない」


「何?」


「塔もだ」


 ミーナは廊下を見回した。


「ここも?」


「ああ」


「私も?」


「今は」


「ずっとは?」


「まだ言えない」


「また」


「ああ」


 ミーナは少し考えてから、今度は小さく笑った。


「でも、今は帰っていい?」


「ああ」


「ただいまって言う?」


 胸の奥が少しだけ温かくなる。


「言ってみろ」


 ミーナは少し照れたように俯いてから、小さな声を出した。


「ただいま」


 俺は答える。


「おかえり」


 セリーは今、療養所にいる。


 けれど、この言葉は俺が言ってもいい気がした。


 塔が俺だけの場所ではなくなっている。


 セリーと暮らす場所で。


 ブラットやアンナマリーが滞在し。


 グレゴルが罪と向き合う場所になり。


 今は傷ついた患者たちが眠っている。


 その形が、この先も同じままかは分からない。


 それでも。


 今だけは。


 帰ってきた者へ「おかえり」と言える場所でいい。


 ミーナが笑う。


「王子様も言えるんだ」


「何を」


「おかえり」


「ああ」


「セリーさんだけじゃない」


「ああ」


 その時だった。


『主様』


 エルの声が、静かな廊下へ響いた。


 それまでの穏やかな声とは違う。


「何だ」


『白鴉療養所より緊急通信です』


 空気が変わった。


「繋げ」


『主様!』


 セリーの声だった。


 普段より明らかに呼吸が荒い。


「どうした」


『地下最奥で封印区画が開きました』


「誰が」


『レイハンです』


「戻ったのか」


『いいえ。遠隔起動です。建物外部から、あらかじめ設定されていた術式を動かしたものと思われます』


 通信の向こうでは、低い警報音が鳴り続けている。人の声も幾つか重なり、ガルムたちが何かを指示しているのが遠くに聞こえた。


「患者は?」


『現在確認中です。地下最奥へ通じる扉だけが開きました。ガルムさんが周囲を封鎖しています』


「中へ入ったのか」


『私とフェリクスさん、ブラットさんが入口まで確認しました。ですが――』


 そこでセリーが一度、息を呑んだ。


『内部に、主様と同じ魔力反応を持つ方がいます』


 意味が、すぐには理解できなかった。


「俺と同じ?」


『はい』


「どのくらい似てる」


『似ている、という表現では足りません』


 セリーの声が僅かに震えている。


『王家血統反応が一致しています。魔力波形についても、現在の主様とは成長による差がありますが、基礎特性はほぼ同一です』


「待て」


 自分の声が少し掠れた。


「王家の誰かじゃないのか」


『その可能性も検討しました。ですが、記録があります』


「何の」


『封印区画内の保存記録です。二十年前から継続しているものに、アルフォンス・ガイゼンという名前があります』


 客室区画の廊下が、急に遠く感じた。


「俺の?」


『はい』


 レイハンの言葉が蘇る。


 あなたは、この療養所へ初めて来たと思っているのでしょう。


 幼い頃、一度だけ白鴉療養所へ来ています。


 知らないはずなのに覚えていた薬の匂い。


 湿った石壁。


 白い廊下。


 泣く声。


「あれは……嘘じゃなかったのか」


『まだ断定できません』


 セリーがすぐに答えた。


『記録が偽造されている可能性もあります。レイハンさんが主様を動揺させるために用意したものかもしれません』


「そうだな」


『ですから、今は記録だけで決めないでください』


「ああ」


 そう返した。


 それでも、身体の奥へ冷たいものが広がっている。


「主様」


 セリーの声がさらに低くなる。


『記録だけではありません』


 俺の指が通信石へ食い込む。


「何がいる」


『眠っている少年です』


「患者か?」


『分かりません』


「状態は」


『生命反応があります。非常に弱いですが、安定しています。保存槽のような古代魔導具の中にいます』


「年齢は」


 一瞬。


 セリーが答えない。


「セリー」


『見た目では、七歳前後です』


 俺は言葉を失った。


 七歳。


 レイハンが言った、幼い頃。


「誰だ」


『分かりません』


「記録には?」


『まだ全て確認できていません。封印解除と同時に一部の記録が破損し始めていて、フェリクスさんが保全を優先しています』


「顔は」


 口にした瞬間。


 なぜか、聞きたくないと思った。


 けれど。


 聞かないままではいられなかった。


「顔がどうした」


『主様』


「言え」


 通信へ雑音が混じる。


 その向こうで、何か重いものが動く音がした。


『保存槽の表面が曇っていて、完全には確認できません。ですが――』


 セリーが息を整える。


『髪の色も』


『顔立ちも』


『目を閉じた時の輪郭も』


 一つずつ。


 聞くたびに。


 胸の奥が冷えていく。


『幼い頃の主様と、同じです』


 何も言えなかった。


 廊下の壁も。


 隣にいるミーナも。


 扉の向こうで再会した兄妹の声も。


 急に遠くなったように感じた。


 幼い頃の俺。


 白鴉療養所。


 二十年前から残る、アルフォンス・ガイゼンという名の治療記録。


 そして。


 今も地下最奥で眠っている。


 俺と同じ顔を持つ少年。


 答えを急ぐな。


 分からないものを、分からないまま置け。


 何度も自分へ言い聞かせてきた言葉が、今ほど難しく感じたことはなかった。


「主様」


 セリーが呼ぶ。


「……ああ」


『今すぐ戻ってきますか』


 口を開きかける。


 すぐに戻りたい。


 見たい。


 確かめたい。


 あれが何なのか。


 なぜ俺の名前があるのか。


 幼い頃の俺に、何があったのか。


 だが。


 すぐ隣では、ミーナが俺を見上げている。


 扉の向こうには、ようやく名前を呼び合えた兄妹がいる。


 転移室では、エレナとアメリアが治療を受けている。


 療養所には、まだ救助を待つ者たちがいる。


 俺一人の過去だけで、今ここにいる者を全部置いていくわけにはいかない。


「セリー」


『はい』


「触るな」


『少年へ、ですか』


「ああ。保存槽も、本人も、俺が戻るまで勝手に開けるな」


『承知しました』


「記録は複写だけ取れ。原本へ直接手を入れるな」


『はい』


「フェリクスにも言え」


「自分で読もうとするな。保存を優先しろ」


『すでに伝えています。フェリクスさんも同意しています』


「ブラットは?」


『封印区画の入口にいます。中へ入った者と外にいる者を記録しています』


「ガルムは」


『地下へ続く通路を封鎖しています。療養所の患者さんたちには、封印区画へ近づかないよう伝えています』


「レイハンの追跡は?」


『ミラさんとヴァルターさんから、まだ連絡はありません』


「分かった。追跡を理由に人を増やすな。あいつが遠隔で封印を開けたなら、こっちを見ている可能性がある」


『はい』


「それから――」


 言葉が止まった。


 何を言うべきか。


 少年を守れ。


 そう言えばいいだけなのに、なぜか口から出てこなかった。


 俺と同じ顔をしている。


 俺と同じ魔力を持っている。


 俺の名前が記録されている。


 けれど、あれが俺だと決まったわけではない。


 偽物かもしれない。


 何かの魔導具かもしれない。


 レイハンが作った罠かもしれない。


 それでも。


 七歳くらいの少年が、二十年もの間、地下の最奥で眠らされている。


 それだけは、今のところ事実なのだ。


「その子を守れ」


 ようやく言葉が出た。


『はい』


「俺と同じ顔だからじゃない」


『分かっています』


「誰なのか分からなくてもだ」


『はい』


「起きた時に、いきなり剣を向けられていたら最悪だからな」


『誰にも向けさせません』


「……頼む」


『主様』


「何だ」


『私はここにいます』


「ああ」


『主様が戻るまで、ここにいます』


 胸の奥へ張りついていた冷たいものが、ほんの僅かに緩んだ。


「分かった」


『はい』


「俺も戻る」


『待っています』


 通信が切れた。


 廊下へ静けさが戻る。


 けれど、さっきまでの静けさとはまるで違っていた。


 俺は通信石を握ったまま、しばらく動けなかった。


「王子様」


 ミーナの声がする。


「ああ」


「怖い?」


 反射的に否定しそうになった。


 大丈夫だ。


 問題ない。


 そう答える方が簡単だった。


 けれど、それを言えば、さっきクララへ話したことまで嘘になる気がした。


「怖い」


 俺は答えた。


「かなり」


「王子様でも?」


「ああ」


「何が?」


「分からないことが」


 ミーナは少し考えたあと、首を傾げた。


「分からないなら、本人に聞く?」


 思わず彼女を見る。


「誰に」


「寝てる子」


「起きたらな」


「また本人に決めさせる?」


「ああ」


「王子様、そればっかり」


「悪いか」


「分からない」


「なら同じだな」


「何が?」


「俺も分からない」


 ミーナは少しだけ笑った。


 俺も、ほんの僅かに息を吐く。


 七歳の俺と同じ顔をした少年。


 考え始めれば、いくらでも想像できる。


 俺の複製。


 俺の身体から何かを抜き取って作られた存在。


 王家が用意した代替品。


 精神干渉の実験体。


 あるいは――。


 そこまで考えたところで止めた。


 今は、どれも想像にすぎない。


 俺は何度も、分からないことへ勝手に答えをつけられてきた。


 王太子だから。


 王家の血だから。


 弟より優れているから。


 国を背負う者だから。


 そうやって周囲が俺の代わりに意味を決め、俺自身もそれへ従ってきた。


 なら。


 地下で眠っている少年へ、同じことをするべきではない。


「アルフォンス」


 突然、扉の向こうから声がした。


 振り返る。


 第五室の扉が少しだけ開いていた。


 グレゴルが立っている。


 その後ろにはクララもいた。目は赤く腫れているが、先ほどより表情が落ち着いている。


「聞こえたか」


「全部ではありません」


 グレゴルは答えた。


「ですが、白鴉療養所で何かあったことは」


「ああ」


「戻るのですか」


「ああ」


 即答した。


 クララの顔が曇る。


「兄さんも?」


「いや」


 俺が答える。


「グレゴルはここへ残る」


「何で」


「今戻す理由がない。それに、お前もいる」


「でも王子様は戻る」


「ああ」


「危ないの?」


「分からない」


「またそれ」


「分からないものは分からない」


 クララは唇を噛んだ。


「じゃあ、行かない方がいい」


「それも選べる」


「なら」


「でも、俺は戻る」


「何で?」


 俺は少し考えた。


 自分の過去を知りたいから。


 それもある。


 あの少年が何者なのか確かめたい。


 それもある。


 けれど、それだけではない。


「戻るって約束したからだ」


 クララが黙る。


「三階で待っている人たちへ、戻ると言った」


「でも、怖いんでしょ」


「ああ」


「約束って、怖くても守らないと駄目?」


「全部じゃない」


「じゃあ何で」


「今の俺には守れると思うからだ」


 無理な約束なら、破ることもある。


 命を捨ててまで守る約束なら、考え直す。


 だが今は違う。


 仲間がいる。


 塔がある。


 エルがいる。


 セリーがいる。


 ガルムたちもいる。


 俺一人で地下へ潜るわけではない。


「それに、俺だけのために戻るわけじゃない」


「寝てる子?」


「ああ」


「王子様と同じ顔の?」


 ミーナが言った。


 グレゴルとクララの表情が同時に固まる。


「同じ顔?」


「ミーナ」


「言っちゃ駄目だった?」


「いや」


 隠す必要もない。


 少なくとも、この二人へは。


「療養所の地下に、俺の幼い頃と同じ顔をした少年がいるらしい」


 グレゴルの顔色が変わった。


「それは……」


「まだ何も分からない」


「ですが」


「決めつけるな」


 少し強く言うと、グレゴルは口を閉じた。


「悪い」


「いえ」


「俺自身が、一番決めつけそうになってる」


 自嘲するように言うと、グレゴルは何も返さなかった。


 代わりにクララが、俺の顔をじっと見た。


「その子も、名前を取られたの?」


「分からない」


「名前は?」


「記録には俺の名前がある」


「アルフォンス?」


「ああ」


 その瞬間。


 自分の名前を他人の口から聞いたことが、妙に重く感じられた。


 アルフォンス・ガイゼン。


 俺の名前。


 生まれた時から与えられたもの。


 王太子でなくなっても残ったもの。


 塔の外ではアルと名乗り始めたが、それでも捨てたわけではない。


 その名前が、二十年前から地下に眠る少年の記録にも残っている。


「王子様」


「何だ」


「名前、二人で使えるの?」


 ミーナの問いに、答えが詰まる。


「分からない」


「同じ名前だったら?」


「その時考える」


「取らない?」


 その言葉で、ようやく気づいた。


 ミーナにとって名前は、奪われるものだった。


 一つしかないから。


 誰かが持てば、自分からなくなる。


 そう教え込まれてきた。


「取らない」


 俺は答えた。


「俺と同じ名前でも、取り上げない」


「王子様のなのに?」


「名前は物じゃない」


「でも先生は」


「先生が間違ってた」


 ミーナは黙る。


 クララも、自分の口元へ手を当てていた。


 さっきようやく兄の名前を呼べたばかりだ。


「グレゴル」


 俺が呼ぶ。


 クララの肩が一瞬だけ揺れた。


 それでも。


 何も起きない。


「グレゴル」


 もう一度。


「はい」


「クララ」


「……何」


「ほら」


「何が」


「取られない」


 クララの目から、また涙が落ちた。


「兄さん」


「ああ」


「グレゴル兄さん」


「ああ」


 グレゴルが答える。


「ここにいる」


 クララは泣きながら頷いた。


 俺はその二人を見てから、自分の胸へ手を当てた。


「アルフォンス」


 口にしてみる。


 久しぶりに、自分で自分の名を確かめるように。


「俺は、アルフォンス・ガイゼンだ」


 王太子ではない。


 王位を奪われた男でもない。


 塔の主だけでもない。


 それらは俺についているものの一部でしかない。


 そして。


 地下の少年が同じ名を持っていたとしても。


 それだけで、どちらかが偽物になるわけではない。


「王子様?」


「確認しただけだ」


「何を」


「名前を言っても消えないことを」


 ミーナが目を丸くして。


 それから笑った。


「本当だ」


「ああ」


「いるね」


「ああ」


 いる。


 ここに。


 少なくとも今は。


 それでいい。


          ◇◇◇


 転移室へ戻る前に、俺はグレゴルとクララへ幾つか確認した。


「グレゴル。第五室の隔離は戻す」


「はい」


「嫌か?」


「……いいえ」


「本当に?」


「今は、必要だと思っています」


 グレゴルはクララを見る。


「ですが」


「何だ」


「妹と話す時間を、もう少しいただけませんか」


「いい」


 俺は即答した。


「隔離は外へ出られないだけだ。クララが中にいることまで止めない」


「ありがとうございます」


「クララは?」


「いる」


「兄と?」


「うん」


「嫌になったら?」


「出る」


「誰へ言う」


「エル」


『常時応答可能です』


 突然返事がして、クララがびくりとする。


「びっくりした」


『申し訳ありません』


「エルさん?」


『はい』


「ずっと聞いてるの?」


『安全管理に必要な範囲で音声を認識しています。ただし、会話内容を常時記録しているわけではありません』


「難しい」


「困ったら呼べば来ると思えばいい」


「エルさんって、人?」


「腕輪だ」


「腕輪?」


「俺も説明に困ってる」


『検索補助型古代魔導具です』


「もっと分からない」


「だろ」


 クララが少し笑った。


「ミーナは?」


「私も残る」


「クララと?」


「うん」


 クララを見る。


「いい?」


「いいよ」


「なら頼む」


「王子様は?」


「療養所へ戻る」


「セリーさん迎えに?」


「ああ」


「寝てる子も?」


 少しだけ迷う。


「助けられるなら」


「連れて帰る?」


「それも、まだ決めない」


「起きたら聞く?」


「ああ」


「やっぱり」


「何だ」


「本人に決めさせる」


「悪いか」


「変」


「知ってる」


 ミーナが笑った。


 俺は二人へ背を向けかけて。


 止まった。


「クララ」


「何」


「手紙」


 内衣のポケットから、折り畳まれた紙束を出す。


「どうする」


 クララの視線が、手紙へ落ちる。


 しばらく迷ってから。


「今は、私が持つ」


「分かった」


 渡す。


 クララは両手で受け取った。


「兄さんには?」


「あとで、自分で渡す」


「そうしろ」


「読まないでって言ったの、守った?」


「ああ」


「本当に?」


「疑うなら封を見ろ」


 クララは紙束を確認した。


 地下で見た時と同じ折り目。


 同じ細い紐。


 その結び目も崩れていない。


「ありがとう」


「礼はいらない」


「でも」


「なら、あとで兄へ自分で渡せ」


「うん」


 クララが手紙を胸へ抱く。


 あの地下の部屋では。


 兄へ届くことなどないと思いながら書いたのだろう。


 それが今は。


 扉一枚向こうにいる本人へ、自分の手で渡せる。


 それだけでも。


 ここまで来た意味はあった。


「行ってくる」


「王子様」


「何だ」


「戻ってきて」


 クララが言った。


 その言葉に、ミーナも重ねる。


「戻るって約束した」


「ああ」


「じゃあ待つ」


「ああ」


 俺は頷いた。


「行ってくる」


          ◇◇◇


 転移室では、ヨアヒムがアメリアの治療を続けていた。


 エレナは隣の寝台で眠っている。先ほどより呼吸が深くなっており、顔色にも僅かだが赤みが戻っていた。


「状態は?」


「アメリアさんはまだ予断を許しません。ただ、解毒魔導具の反応はあります」


「エレナは?」


「安定しています。少なくとも今すぐ命に関わる状態ではありません」


「分かった」


「戻られるのですか」


「ああ」


 ヨアヒムの顔が少し曇った。


「地下で何か見つかったと」


「聞いた?」


「エルから、緊急事態が発生したことだけ」


「俺と同じ顔をした子供がいるらしい」


 ヨアヒムの手が止まった。


「同じ……?」


「まだ何も分からない」


「分かりました」


 それ以上聞かなかった。


 ありがたかった。


「二人を頼む」


「お任せください」


「クララは診察を嫌がってる」


「承知しています」


「無理に触るな」


「しません」


「グレゴルも」


「状態を確認しておきます」


「本人の同意を取ってからな」


「はい」


 そこまで聞いて、俺は転移台へ上がった。


「エル」


『旧採石場登録地点を経由し、白鴉療養所前臨時座標へ接続します』


「頼む」


 足元へ光が広がる。


 その直前。


 俺は誰もいない転移室の入口を振り返った。


 ミーナも。


 クララも。


 グレゴルもいない。


 セリーもいない。


 それでも。


 さっき聞いた言葉が残っている。


 戻ってきて。


「戻る」


 誰へ言うでもなく呟いた。


 光が視界を覆った。


          ◇◇◇


 旧採石場を経由し、白鴉療養所の正面へ戻った時には、空から細かな雪が落ち始めていた。


 山の冷たい風が頬を打つ。


 数時間前まで曇っているだけだった空はさらに暗くなり、療養所の古びた屋根へ白い粒が薄く積もり始めている。


「アル!」


 入口からガルムが出てきた。


「状況は」


「封印区画以外は大きな変化なし。三階の患者は順に治療師が確認している。扉を開けた者は六名。まだ出たくないと言っている者は、そのままにしている」


「名前は?」


「無理に聞いていない」


「よし」


「レイハンの追跡は中断した」


「なぜ」


「痕跡が二つに分かれた」


「囮?」


「可能性が高い。ミラが一方を追ったところ、途中で人の足跡ではなく魔導具による偽装だと判明した」


「ヴァルターは」


「戻している」


「正解だ」


「お前は?」


「何が」


「顔色が悪い」


「俺と同じ顔の子供がいると聞いた直後だぞ」


「そうだったな」


 ガルムが少しだけ視線を逸らした。


「悪い」


「謝るな」


「見るか」


「ああ」


「その前に」


「何だ」


「お前一人で中へ入るな」


「分かってる」


「本当に?」


「セリーがいる」


「そういう意味ではない」


「分かってる」


「ならいい」


 療養所へ入る。


 正面玄関には、先ほどまでなかった簡易の案内板が置かれていた。


 外へ出たい者。


 治療を受けたい者。


 部屋に残りたい者。


 名前を言いたくない者。


 それぞれに印が描かれ、声を出せなくても指差せるようになっている。


「これ」


「ミラが作った」


「いいな」


「ああ」


「あとで塔にも似たものを作る」


「増えるのか」


「必要なら」


「塔が療養所になるぞ」


「それは困る」


「だろうな」


 けれど。


 困ると言いながらも、完全に嫌だとは思わなかった。


 俺はこの塔で自由に生きると決めた。


 自由に生きることと。


 誰も入れないことは。


 同じではないのかもしれない。


「主様!」


 地下へ続く階段の方から、セリーが現れた。


 俺を見るなり歩調が速くなる。


「戻りましたか」


「ああ」


「怪我は」


「ない」


「右肩」


「クララに椀を投げられた」


「聞いています」


「何で聞く」


「確認です」


「ガルムみたいになってるぞ」


「困ります」


「俺も同じこと言った」


 セリーは俺の右肩へ触れかけて。


 途中で止めた。


「痛みは?」


「もうほとんどない」


「あとで確認します」


「ああ」


「主様」


 今度は声が真剣になる。


「少年について、追加で分かったことがあります」


「歩きながら聞く」


「はい」


 地下へ向かう。


 ガルムも後ろからついてきた。


「保存槽は?」


「未開封です」


「変化は」


「ありません」


「生命反応」


「維持されています」


「記録は?」


「フェリクスさんが破損しかけた部分を複写しました」


「原本は」


「触れていません」


「内容は」


 セリーが一度、言葉を選んだ。


「主様の名前が最初に記録されたのは、二十年前です」


「ああ」


「当時の年齢は七歳」


「一致するな」


「はい」


「治療理由は?」


「精神魔力暴走」


 足が止まりそうになった。


 だが止めない。


「続けろ」


「王家血統者特有の高魔力による精神不安定と記されています。ただし、その下に別の記載があります」


「何だ」


「上書きされています」


「元の記録は?」


「完全には読めません。ただ、精神干渉、記憶分離、定着という単語が残っています」


 地下へ下りるほど、空気が冷たくなる。


 薬品の匂いも濃くなる。


 知っている。


 この匂いを。


 そう思ってしまう自分が嫌だった。


「主様」


「大丈夫だ」


「まだ何も言っていません」


「言いそうだった」


「顔色が悪いです」


「ガルムにも言われた」


「なら悪いのでしょう」


「二人で組むな」


「組んでいない」


「組んでいません」


 同時に答える。


「仲良し」


 反射的にミーナの声が聞こえた気がした。


 もちろん、ここにはいない。


 少しだけ笑いそうになって。


 そのおかげで、呼吸が戻った。


「続けてくれ」


「はい」


「少年の記録は」


「名前欄が複数回変更されています」


「何と」


「最初は、アルフォンス・ガイゼン」


「次は?」


「AG―01」


 足が止まった。


「番号?」


「はい」


「その次は」


「空欄です」


「名前を消された?」


「記録上は」


 クララが言っていた。


 名前を呼ぶと取られる。


 ミーナも。


 アメリアも。


 名前ではなく番号で管理されていた。


「……二十年前からか」


「可能性があります」


「レイハンは当時からいた?」


「年齢上は可能です。ただし、当時の責任者欄は別の人物です」


「誰だ」


「主任治療師、オルディス・レイハン」


「同じ姓」


「はい」


「父親か」


「まだ確認できません」


「決めつけない」


「はい」


「フェリクスは?」


「封印区画前にいます」


「ブラットも?」


「はい」


 地下の最奥へ近づく。


 これまで閉ざされていた通路の先。


 壁の一部だと思っていた場所が、大きく左右へ開いていた。


 その奥から。


 青白い光が漏れている。


 足が止まる。


 知らない場所。


 そう思う。


 なのに。


 胸が苦しい。


 頭の奥で。


 何かが。


 小さく軋んだ。


「主様?」


 セリーの声。


 次の瞬間。


 白い天井が見えた。


 今いる地下ではない。


 もっと明るい。


 白い部屋。


 誰かの手。


 小さな自分の腕。


 押さえつけられている。


『殿下、すぐに終わります』


 知らない声。


『眠れば、怖くありません』


 白い布。


 甘い匂い。


『こちらの記憶は不要です』


 頭が割れるように痛んだ。


「っ……!」


 膝が崩れる。


「主様!」


 セリーが俺の身体を支えた。


「アル!」


 ガルムの声もする。


「触るな……いや、違う」


 何を言っている。


「主様、戻りますか」


「待て」


「しかし」


「今のは……」


 記憶か。


 幻覚か。


 レイハンが仕込んだものか。


 分からない。


「エル」


『主様の精神波形に一時的な乱れを確認しました』


「外部干渉は」


『現時点では検出されていません』


「なら俺の中か」


『その可能性があります。ただし断定できません』


「そうか」


 息を整える。


 一度。


 二度。


 三度。


「立てますか」


「ああ」


「無理をしないでください」


「してない」


「今、膝をつきました」


「転んでない」


「同じです」


「違う」


「主様」


「分かった」


 セリーの肩を借りて立つ。


「あと一度、同じことが起きたら止まる」


「一度ですか」


「二度」


「今ので一度目です」


「……次で止まる」


「約束してください」


「ああ」


「ガルムさん」


「聞いた」


「証人です」


「お前ら」


「行くなら条件をつけろと言ったのはお前だ」


 言い返せない。


「分かった」


 前を見る。


 青白い光。


 開いた封印区画。


 そして、その入口で。


 フェリクスが待っていた。


「アルフォンス」


「顔が怖いぞ」


「君に言われたくない」


「何が分かった」


「見た方が早い」


「罠は」


「分からない」


「正直だな」


「君の悪影響だ」


「困る」


 ブラットは少し離れた壁際に立っていた。


「アル」


「何だ」


「俺は中まで行ってない」


「なぜ」


「お前が先に見るべきだと思った」


「気を遣った?」


「違う。怖かった」


 ブラットははっきり言った。


「お前と同じ顔のガキが寝てるって聞いて、普通に怖かった」


「そうか」


「悪いか」


「いや」


 少しだけ安心した。


「俺も怖い」


 ブラットが目を丸くする。


「お前が言うの珍しいな」


「最近は言うようにしてる」


「変わったな」


「塔に来てからな」


「行くか」


「ああ」


 俺は一歩。


 封印区画へ入った。


          ◇◇◇


 内部は、療養所のほかの場所とは明らかに違っていた。


 石壁ではない。


 白い。


 継ぎ目のほとんどない壁。


 床には細い銀色の線が何本も走り、天井には古代魔導具らしい照明が今も淡く光っている。


「二千年前のものか?」


 俺が尋ねる。


 セリーが壁へ触れずに観察する。


「基礎部分は古代式です。ただし、何度も改修されています。二十年前にも大規模な手が入っています」


「王家が?」


「記録を確認しなければ分かりません」


 奥へ進む。


 一部屋目。


 空。


 二部屋目。


 古い器具。


 三部屋目。


 壁一面の記録棚。


 そして。


 最奥。


 透明な扉の向こうに。


 それはあった。


 縦長の保存槽。


 青白い液体。


 無数の細い管。


 その中央。


 小さな身体が浮かんでいる。


 足が止まった。


 七歳。


 確かに、それくらいだ。


 金色の髪。


 閉じた目。


 幼い頬。


 細い腕。


 俺は。


 この顔を知っている。


 鏡で見たわけではない。


 王宮に残っていた肖像画。


 七歳の誕生日。


 父の隣で。


 母の前で。


 王太子として初めて正式な礼装を着た俺。


 同じだ。


「……俺だ」


 声が出た。


「主様」


「違う」


 すぐに否定する。


「今のは違う」


 俺は保存槽へ近づかないまま、少年を見る。


「似てるだけだ」


「はい」


「同じ顔でも、俺だと決めるな」


「はい」


「俺にも言ってる」


「分かっています」


 保存槽の横に、小さな金属板がある。


 文字が刻まれていた。


 フェリクスが指差す。


「そこだ」


「読む」


 近づく。


 触れない。


 文字だけを追う。


 王家精神安定化計画。


 対象。


 アルフォンス・ガイゼン。


 七歳。


 第一段階。


 記憶分離。


 第二段階。


 感情負荷抽出。


 第三段階。


 人格定着。


「……何だ、これ」


 誰も答えない。


 さらに下。


 小さな文字。


 処置後、原体は王宮へ帰還。


 分離体は保存。


 俺は。


 そこから先を。


 しばらく読めなかった。


「原体」


 ガルムが低く呟く。


「分離体」


 ブラットも。


「言うな」


 二人とも黙った。


「まだ意味は決まってない」


「ああ」


「この記録が本物かも分からない」


「ああ」


「エル」


『はい』


「文字の年代は」


『金属板そのものは約二十年前に加工されています』


「後から作った可能性」


『あります』


「内容の真偽」


『判定不能です』


「よし」


 何が、よしなのか。


 自分でも分からなかった。


 それでも。


 分からないと確認できた。


 今は、それでいい。


「主様」


 セリーが保存槽の下を見ていた。


「何だ」


「こちらに手動記録があります」


「読むな」


「はい」


「俺が読む」


 しゃがむ。


 透明な板。


 そこに。


 古い文字で。


 一行だけ。


 書かれていた。


 処置完了。


 王太子殿下は正常化。


 不要感情は分離体へ定着。


 喉が。


 動かなかった。


 不要感情。


 何だ、それは。


 怖い。


 寂しい。


 嫌だ。


 助けてほしい。


 王太子になりたくない。


 そういうものか。


 それを。


 不要だと。


「アル」


 ガルムの声がする。


「大丈夫だ」


「聞いてない」


「言うと思った」


 視線を上げる。


 保存槽の少年。


 目を閉じている。


 眠っている。


 もし。


 この記録が本当なら。


 あの子は。


「俺が捨てたものなのか」


 口から出た。


「主様」


「違うな」


 すぐに訂正する。


「俺が捨てたと決めるな」


「はい」


「七歳の俺が、自分で選んだかも分からない」


「はい」


「何も分からない」


「はい」


「……くそ」


 拳を握る。


 殴る場所はない。


 殴る相手も。


 まだ分からない。


 だから。


 開いた。


「アルフォンス?」


 フェリクスが俺を見る。


「何だ」


「今、何を」


「手を開いただけだ」


 握った拳を見せる。


「先に殴らない」


「……そうか」


「誰がやったか分かるまで、誰も殴れない」


「分かっても殴るな」


 ガルムが言う。


「考える」


「そこは約束しろ」


「嫌だ」


「お前な」


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 呼吸が楽になった。


 その時だった。


『主様』


 エルの声。


「何だ」


『保存槽内部の生命反応に変化』


 全員が少年を見る。


「何が起きた」


『心拍数上昇』


「原因は」


『不明』


「外部操作?」


『検出なし』


「下がるか」


『上昇継続』


 青白い液体の中。


 少年の指が。


 動いた。


「下がれ」


 俺が言う。


 全員が一歩下がる。


「セリー、防壁は」


「いつでも」


「出すな。危険が確認されるまで」


「はい」


「ガルム、剣」


「抜かない」


「ブラット」


「分かってる」


「フェリクス」


「触らない」


 少年の指がもう一度動く。


 次に。


 瞼が震えた。


 俺は息を止めそうになり。


 意識して吐いた。


 保存槽の中で。


 ゆっくり。


 ゆっくりと。


 少年の目が開く。


 青い瞳。


 俺と同じ。


 七歳の頃の俺と。


 同じ色。


 焦点は合っていない。


 けれど。


 少しずつ。


 こちらを見る。


 俺を。


 見た。


 少年の口が動く。


 液体の中だから、声は聞こえない。


 それでも。


 唇の形は。


 読めた。


 ――だれ。


 俺は保存槽の前へ一歩進んだ。


「主様」


「大丈夫だ」


 少年の目が俺を追う。


 怖がっている。


 その顔を見て。


 胸の奥が痛んだ。


 見覚えがある。


 顔が同じだからではない。


 怖いのに。


 怖いと言っていいか分からない顔。


 それを。


 俺は知っている。


「聞こえるか」


 返事はない。


「エル。外から声を届けられる?」


『保存槽の通話機能を確認します』


 数秒。


『可能です』


「繋げ」


『接続します』


 小さな音がした。


 俺は少年を見る。


「聞こえるか」


 少年の目が僅かに大きくなる。


 唇が動く。


 今度は。


 小さな声が。


 保存槽の外へ届いた。


『……だれ?』


 七歳くらいの。


 震えた声。


 誰も答えない。


 俺が答えるしかない。


「アルだ」


 いつもの名前を。


 口にしかけて。


 止めた。


 なぜ止めたのか。


 自分でも分かった。


 この少年の記録に。


 俺の名前があるからだ。


 なら。


 隠すべきではない。


「アルフォンス」


 俺は言った。


「アルフォンス・ガイゼンだ」


 少年の目が。


 大きく見開かれた。


『……アルフォンス?』


「ああ」


『ぼくも』


 心臓が。


 強く鳴った。


『ぼくも……アルフォンス』


 誰も動かなかった。


 誰も否定しなかった。


 俺も。


 否定しなかった。


「そうか」


 それだけ答えた。


『とらない?』


「何を」


『なまえ』


 クララ。


 ミーナ。


 アメリア。


 この療養所で。


 何度も聞いた恐怖。


 名前を取られる。


 呼べば消える。


 そして。


 その始まりが。


 二十年前からここにいたのだとしたら。


「取らない」


 俺は言った。


「同じでもいい」


『おなじ?』


「ああ」


『ふたり?』


「ああ」


『どっちが……ほんもの?』


 胸を抉られるような問いだった。


 ガルムが息を呑む。


 セリーの指が僅かに震えた。


 けれど。


 俺は。


 今だけは。


 迷わなかった。


「知らない」


 少年が瞬きをする。


「まだ、分からない」


『わからない?』


「ああ」


『おこらない?』


「怒らない」


『ぼくが、アルフォンスでも?』


「ああ」


『きみも?』


「ああ」


『へん』


「よく言われる」


 少年の口元が。


 ほんの僅かに。


 動いた。


 笑ったのか。


 泣きそうになっただけなのか。


 分からない。


『そと』


「何だ」


『そと、ある?』


「ああ」


『ここじゃない?』


「ああ」


『いっていい?』


 俺はすぐには答えなかった。


 保存槽を開ける危険。


 少年の身体状態。


 術式。


 罠。


 確認しなければならないことが多すぎる。


「今すぐは駄目だ」


 少年の顔が曇る。


『だめ?』


「お前を傷つけずに出せるか、調べる」


『また、ねる?』


「寝たい?」


 少年は首を横へ振ろうとして。


 管に引かれ。


 僅かに顔を歪めた。


『ねたくない』


「分かった」


『でも、こわい』


「ああ」


『どうしたらいい?』


 俺は。


 保存槽の透明な壁へ。


 手を伸ばした。


 触れる直前で止める。


「ここへ手を置いていいか」


 少年が俺の手を見る。


 しばらくして。


 小さく頷いた。


『いい』


 俺は透明な壁へ手のひらを置く。


 冷たい。


 その向こうで。


 少年も。


 ゆっくり。


 小さな手を上げた。


 同じ場所へ。


 内側から。


 手のひらを重ねる。


 透明な壁一枚を挟んで。


 大人になった俺の手と。


 七歳の俺と同じ顔をした少年の手が。


 重なった。


『アルフォンス』


「ああ」


『ぼくも、よんでいい?』


「何を」


『アルフォンス』


 一瞬。


 答えが遅れた。


 自分の名前を。


 自分と同じ名前の誰かから呼ばれる。


 そんなことを考えたこともなかった。


「いい」


『アルフォンス』


「ああ」


 なら。


 俺も。


 呼ぶ。


「アルフォンス」


 少年の目から。


 涙が一粒。


 液体の中へ溶けた。


『うん』


 名前を呼んでも。


 取られない。


 同じ名前でも。


 消えない。


 どちらかが偽物だと。


 今すぐ決める必要もない。


「アルフォンス」


『うん』


「俺たちは、お前をここから出す方法を調べる」


『うん』


「怖かったら言え」


『うん』


「嫌なら嫌と言え」


『……いいの?』


「ああ」


『やめてって、いっていい?』


「ああ」


『ねたくないって?』


「ああ」


『アルフォンスって、いっていい?』


「ああ」


 少年の手が。


 透明な壁の向こうで。


 ほんの少し強く押しつけられた。


『じゃあ』


 震える声。


『ここにいて』


 俺は。


 答える前に。


 自分が守れる範囲を考えた。


 ずっととは言えない。


 何時間かかるかも分からない。


 療養所には、まだ助けるべき者がいる。


 けれど。


 今。


 この瞬間なら。


「いる」


 俺は答えた。


「出す方法が分かるまで、ここにいる」


『ほんと?』


「ああ」


『やくそく?』


「ああ」


 透明な壁へ手を置いたまま。


 俺は。


 もう一度。


 自分と同じ名前を持つ少年を見た。


「約束する」


 少年は目を閉じなかった。


 眠りたくないと言ったから。


 俺も。


 目を逸らさなかった。


 二十年前。


 この場所で何が起きたのか。


 俺から何を分けたのか。


 王家が何をしたのか。


 レイハンが何を知っているのか。


 まだ何一つ分からない。


 それでも。


 一つだけ。


 今ここで決められることがあった。


 目の前の少年を。


 俺の過去を知るための道具にはしない。


 俺が本物だと証明するために。


 この子を偽物にはしない。


 アルフォンスという名前を。


 俺だけのものだと言って取り上げることもしない。


 名前は。


 誰かを縛るためにあるものではない。


 少なくとも。


 これからは。


「アルフォンス」


 俺が呼ぶ。


『うん』


「ここにいる」


 少年が。


 小さく頷いた。


 透明な壁を挟んだ二つの手は。


 まだ離れなかった。

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