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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第24話 元王太子、名前を奪う部屋で最初に扉を壊さない

 白鴉療養所は、近づくほど大きく見えた。


 山道から見上げた時には、木々の間へ埋もれた古い建物にしか見えなかった。だが、崩落地点を越え、正面へ続く緩い坂道へ足を踏み入れると、灰色の外壁は三階分の高さがあり、その背後にも幾つもの棟が連なっていることが分かる。斜面に沿って建て増しされたらしく、正面からでは見えなかった低い建物や渡り廊下が、山肌へ貼りつくように伸びていた。


 窓の多くは木板で塞がれている。白かったはずの壁には雨水が流れた黒い跡が残り、屋根の端から伸びた蔦は、建物を山へ縫いつけるように絡みついていた。


 二十年前に閉鎖され、今はもう誰も使っていない療養所。王宮側に残された古い記録だけを読めば、ここはそういう場所だったはずだ。


 けれど、目の前にあるものは違う。


 正面階段の中央だけ苔が薄い。玄関脇には乾燥しきっていない薪が積まれ、建物の裏手から伸びる煙突からは、曇った山の空へ溶けるほど細い煙が上がっている。


 古い場所へ、誰かが今も暮らしている。それも、一日や二日ではない。


「使われていますね」


 セリーが隣で静かに言った。


「ああ」


「一時的な隠れ場所ではありません」


 リディアは俺たちより少し前へ立ち、建物全体へ視線を巡らせていた。剣へ手は添えているが抜いてはいない。先ほどまでの山道とは違い、足元から感じる魔力へ神経を集中させているのが分かる。


「結界も維持されています。古い基礎術式の上へ、別の術式が重ねられています」


「新しく作られたものか?」


「全てではありません。建物そのものに組み込まれた部分は、閉鎖前からあったのでしょう。ただ、補修された箇所があります」


「いつ頃だ」


「正確には分かりませんが、一年以内です」


「誰が直したかは?」


「そこまでは」


 レイハン。その名前が頭へ浮かんだが、すぐに飲み込んだ。


 ここへ通じる記録にレイハンの名前が出た。クララの薬品払い出し記録にも、エマの診断書にも、王宮魔導研究所の協力者名簿にも。


 それでも、目の前の結界を直した者までレイハンだと決める証拠はない。


「今、レイハンだと思いましたね」


 セリーが横から言う。


「顔に出たか」


「少しだけ」


「最近、皆それを言うな」


「主様が以前より隠さなくなったからだと思います」


「それはいいことなのか?」


「少なくとも、私は分かりやすくて助かります」


 俺はもう一度、建物を見上げた。


 崩落地点で拘束した四人は、オスカーとヴァルターが見張っている。短弓を持っていた者も含め、全員が「患者を運んでいただけだ」と主張したらしい。


 だが、運ばれていた少女――エレナ・ハイスの腕には、番号と共に「被験体」と刻まれていた。自分の首へ下げられた札に書かれた名前すら、自分のものなのか分からないと怯えていた少女だ。


 患者を運んでいただけ。


 その言葉を、そのまま受け入れる気にはなれない。


「主様」


「何だ」


「呼吸が浅くなっています」


「分かっている」


「分かっている時も呼吸は必要です」


「止めてはいない」


「浅いです」


 言われた通り、息を吸う。


 冷たい空気が肺へ入り、湿った土や古い木材、山の草の匂いが鼻を抜けた。その中へ、療養所の方向から流れてくる僅かな薬品の匂いが混じっている。


 その匂いへ意識を向けた瞬間、胸の奥が妙にざわついた。


 知っているような気がする。


 だが、どこで嗅いだかは分からない。


「どうしました?」


「いや」


「本当に?」


「薬の匂いがする」


「はい」


「どこかで嗅いだ気がした」


 セリーの表情が僅かに変わった。


 それでも、彼女はそこから何かを決めつけようとはしなかった。


「今は、それだけにしましょう」


「ああ」


「思い出そうとしなくていいです」


「分かっている」


「はい」


 セリーの声は穏やかだった。


「主様が怒っていることは、悪くありません。ですが、怒りだけで中へ入ると、見えないものが増えます」


「分かっている」


「患者の方が、私たちを敵だと思う可能性もあります」


「ああ」


 分かっている。


 だからこそ、正面玄関を蹴破りたい衝動をまだ抑えている。


 先ほど二階の窓にいた人影はこちらを見て、片手を上げた。助けを求めていたのか、来るなと伝えたかったのか。それすら分からないまま、背後から伸びた手に肩を掴まれ、暗い部屋へ引き戻された。


 クララかもしれない。別人かもしれない。


 顔が見えない以上、まだ分からない。


「正面へ合流しますか?」


 リディアが尋ねた。


「いや。先に外周を見る」


「このまま東側へ?」


「ああ」


 療養所へ入る道が、正面玄関一つとは限らない。古い施設なら、物資搬入口、職員通用口、避難経路もある。正面から近衛が大勢で踏み込めば、内部の者が患者を移動させる可能性もあった。


「ガルムへ連絡する」


 通信石へ魔力を流す。


「ガルム」


『聞こえている』


「正面では動くな。先に外周を確認する」


『もう入口前だ』


「扉へ触ったか?」


『まだだ』


「なら待て」


『内側から施錠されている。窓にも結界がある』


「壊すなよ」


『分かっている』


「本当に?」


『お前に言われなくても、患者がいる可能性のある建物へ力任せに入ったりはしない』


「確認しただけだ」


『信用がないな』


「お互い様だろ」


 通信の向こうで、ガルムが小さく息を吐く。


『十分待つ』


「十五分」


『長い』


「建物が広い」


『十二分』


「十四」


『十三』


「何の交渉だ」


『お前が始めた』


「十三分でいい」


『決まりだ』


 通信を切ると、隣にいたセリーが楽しそうにこちらを見ていた。


「主様」


「何だ」


「ガルムさんと仲良くなりましたね」


「なっていない」


「今の会話は少し楽しそうでした」


「気のせいだ」


 横を見ると、リディアが口元へ手を当てている。


「笑ったか?」


「いいえ」


「顔に出ている」


「少しだけです」


 近衛は、隊長へ似るのかもしれない。


          ◇◇◇


 療養所の東側には、細い石道が残っていた。


 古い案内板の文字からすると、かつて薬草園へ続いていた道らしい。周囲は腰の高さまで雑草が伸びているが、石畳の中央だけ踏み固められた跡があり、人が定期的に通っていることが分かる。


 石塀に囲われた薬草園へ入ると、その違和感はさらに大きくなった。


 全体の半分以上は荒れ、枯れた茎や絡み合った蔦、野生化した草花に覆われている。しかし、一角だけは明らかに手入れされていた。


「誰かが世話をしています」


 セリーが畑の手前でしゃがみ込む。


「種類は分かるか?」


「鎮静草、咳止め草、熱下げ草。こちらは傷薬へ使うものです。それから――」


 彼女の視線が少し奥へ移る。


 他の薬草と区切られた小さな畝には、紫色の細長い葉が何列も並んでいた。


「触るな」


「はい」


 セリーは手を伸ばしていなかったが、先に言っておく。


「何だ?」


「紫鈍草です」


 答えたのはリディアだった。


「知っているのか」


「拘束任務で使用例があります。一定量を摂取すると、魔力循環が鈍くなります」


「術者を弱らせるため?」


「主にそうです。暴走した魔術師を治療までの間だけ抑える用途もあります」


「患者へ使うことは?」


「量次第です。強い魔力暴走を起こした患者へ、ごく少量使用することはあり得ます。ただ――」


「この量は多い?」


 畑を見る。


「一つの療養所で常用するには、随分多いです」


 魔力を鈍らせ、抵抗する力を奪う。


 エレナの青白い顔が浮かぶ。


「エレナにも使われていた可能性は?」


「ヨアヒムへ確認します」


 リディアが通信石を取り出す。


「ヨアヒム。保護した少女から、紫鈍草の反応はありますか?」


 少しの間を置いて、返答はすぐに届いた。


『あります。呼気と皮膚から残留反応があります。少量ではありません。数日以上、継続的に投与された可能性があります』


「身体への影響は?」


『魔力循環の低下だけではありません。呼吸と心拍も弱っています。解毒は始めていますが、一気に魔力循環を戻すと身体へ負担がかかるので、段階的に行います』


「意識は?」


『まだ戻っていません』


「名前は?」


 一瞬、通信の向こうが静かになった。


『エレナ・ハイスとして記録しています』


 その答えを聞いて、胸の奥に入っていた力が少しだけ抜けた。


「頼む」


『はい』


 通信を切る。


 目の前の薬草園が、最初に見た時とは違って見えた。


 薬を育てる場所だ。咳を止め、熱を下げ、痛みを和らげ、病人を助けるためのものもある。


 けれど同時に、ここでは抵抗する力を奪うためにも使えるものが育てられている。


「全部抜きますか?」


 セリーが尋ねた。


「いや。今は触らない」


「証拠として?」


「ああ。それに、患者へ必要な薬まで混じっている」


 怒りに任せて燃やしたり、引き抜いたりするのは簡単だ。


 だが、それで困るのが誰なのか。


 レイハンか。施設の管理者か。


 それとも、薬がなければ苦しむ患者なのか。


「記録だけ取る」


『映像、位置、魔力反応、植生量を保存しました』


 エルが答える。


「採取は後だ」


『承知しました』


 薬草園の奥へ進むと、外壁と山肌の隙間に、半分土へ埋もれた木製の扉があった。


「地下入口か」


「可能性があります」


 リディアが近づき、扉の前で足を止める。


「施錠されています。正面玄関よりは術式が弱いです」


「罠は?」


「扉そのものにはありません」


「その言い方だと周囲にあるな」


「はい」


 彼女が地面を指す。


 何も見えない。


 だが、言われて魔力感知を意識すると、ごく細い魔力の流れが扉の前へ幾何学模様を描くように走っている。


「踏むと?」


「内部へ警報が届きます」


「解除できる?」


「できます」


「痕跡を残さず?」


「その方がよいでしょう」


「時間は」


「十五分ほど」


「ガルムとの約束は十三分だぞ」


「延長していただいては」


「また交渉になる」


「主様」


 セリーが少し楽しそうに俺を見る。


「楽しんでないか?」


「少しだけです」


 今日は、皆が正直すぎる。


「ガルム」


『何だ』


「十五分追加」


『理由は』


「地下入口を見つけた。警報式あり。今リディアが解除する」


 通信の向こうが静かになり、今度はすぐに返事が来た。


『分かった。待つ』


「早いな」


『理由があるなら待つ』


「最初からそうしろ」


『最初は理由を言っていなかっただろう』


 正しい。


「正面で変化は?」


『中から物音がする』


「どんな」


『重い家具を動かすような音だ。二階でも人影が動いている』


 患者を移動させているのか。それとも、証拠を隠しているのか。


「侵入しそうな動きは?」


『ない』


「分かった。急ぐ」


『無理はするな』


「お前に言われたくない」


『その言葉は聞き飽きた』


 通信が切れた。


「やはり仲が」


「言うな」


          ◇◇◇


 リディアが警報術式を解く間、俺とセリーは周囲を確認した。


 扉脇の外壁には古い金属板が残っている。錆びてはいるが、刻まれた文字はまだ読めた。


『物資搬入路 三号』


「三号か。ほかにもあるようだな」


「はい」


「エル」


『検索します』


 腕輪が淡く光る。


『西側地下に二か所の出入口跡を確認。一号は落石により閉塞。二号は建物内部からのみ開閉可能な構造です』


「三号が、外から入れる唯一の地下入口?」


『現時点で確認できる範囲では』


「地下の用途は?」


『旧設計記録を参照します。薬品庫、保存食庫、魔力治療室、隔離室、職員休憩区画、緊急避難路が存在します』


「隔離室か」


 口にした瞬間、嫌な響きに聞こえた。


「療養所ですから」


 セリーが言う。


「ああ」


「本来は、患者を守るために必要だった可能性があります」


「ああ」


 精神系魔術の後遺症で、自分の意思とは関係なく暴れる者もいるだろう。幻覚を見たり、自分や周囲を傷つけたりする危険があるなら、安全な部屋へ一時的に隔離し、落ち着くまで治療する必要もある。


 それ自体が悪なのではない。


「悪用されたからといって、最初から悪い場所だったとは限りません」


 セリーが静かに続ける。


「俺も今それを考えていた」


「はい」


「でも、今ここで何が行われているかは別だ」


 被験体と刻まれた腕。魔力を弱らせる薬。そして、自分の名前を確かめることすらできなかったエレナ。


「はい」


 その時、建物の中から何か重いものが落ちる音がした。


 続いて、小さな叫び声。


 俺とセリーは同時に建物を見上げた。


「聞こえたか」


「はい」


 子供か女性かは判別できない。


 少し遅れて誰かが怒鳴る声も聞こえたが、言葉までは届かなかった。


 身体が自然に扉へ向きかける。


「主様」


「ああ」


「今すぐ入りたいですね」


「ああ」


「待てますか?」


 リディアは術式から目を離さない。


 俺は閉ざされた扉を見つめたあと、短く息を吐いた。


「待つ」


 大義はある。病人を助け、悪事を働いている者を捕らえる。


 俺が元王太子だった頃なら、それだけで正面から兵を入れたかもしれない。


 だが、中にいる者から見れば、突然知らない武装集団が扉を壊し、剣を持って入ってくるのだ。


 それが本当に「救助」に見えるとは限らない。


「二つ目を解除しました。残り三つです」


 リディアの声を聞きながら、俺はその場に留まった。


 待つ時間がひどく長く感じる。


 それでも、急がせない。


「セリー」


「はい」


「中へ入ったら、最初に何をする」


「患者の位置を確認します」


「次は」


「武器を持つ者と、持たない者を分けます」


「患者が攻撃してきたら」


「まず距離を取ります」


「拘束は?」


「すぐにはしません」


「なぜ」


「怖がっている可能性があるからです」


 俺が考えていたのと同じ答えだった。


「俺もそうする」


「はい」


「エル」


『記録しました』


「記録させるために言ったんじゃない」


『現地行動条件として保存します』


「それならいい」


 三つ目、四つ目と術式が解除されていくにつれ、リディアの額へ薄く汗が浮かび始めた。


「休めるか」


「途中では無理です」


「魔力は」


「まだ余裕があります」


「倒れるまでやれとは言っていない」


「倒れません」


 声も呼吸も安定している。


 それでも俺は彼女の横顔を確認した。


「異常が出たら言え」


「はい」


 セリーがリディアの横へ水筒を置く。


「終わったら、すぐ飲んでください」


「ありがとうございます」


「食事もあります」


「今ですか?」


「終わってからです」


「安心しました」


 リディアの口元が少し緩む。


「なぜ皆さん、私が任務中に無理やり食べさせると思うのでしょう」


「ガルム隊長から聞きました」


「何をですか?」


「食べるまで動かさないことがあると」


「正しい情報です」


「正しいのか」


 最後の魔力線が薄く浮かび、そのまま静かに消えた。


「解除完了です」


 リディアが息を吐くと、セリーがすぐに水筒を渡した。


「飲んでください」


「はい」


「少しでいいです」


「……近衛隊長より厳しいですね」


「健康管理では負けません」


 リディアは本当に数口飲んだ。


 少し休ませてから、俺は扉へ視線を戻す。


「鍵は?」


「物理錠と古い魔力錠です」


「壊さず開けられる?」


「物理錠なら」


 リディアが腰の小袋から細い器具を取り出す。


「近衛は鍵開けまでやるのか」


「必要な任務では」


「便利だな」


「褒めていますか」


「少しだけ」


 細い金属音が一度、二度と響く。


 やがて、小さな音と共に錠が外れた。


「魔力錠は」


『解析済みです』


 エルの声。


「塔の所有権で強制解除するなよ」


『承知しています。一般解除式を適用』


 淡い光が走り、扉へ刻まれていた古い紋様が一つずつ消えていく。


『解除完了』


「開けるぞ」


「はい」


 俺は扉へ手をかけた。


 湿気を吸った木は冷たく、重い。力を込めて少しずつ引くと、蝶番が低く軋み、内側から冷えた地下の空気が流れ出してきた。


 湿った石と古い薬の匂い。


 その匂いを吸い込んだ途端、胸がまた僅かにざわつく。


「主様?」


「大丈夫だ」


「本当に?」


「今は進む」


 セリーは何も言わず、ただ俺のすぐ隣へ立った。


          ◇◇◇


 地下へ続く階段は暗かった。


 壁には古い魔導灯が等間隔に並んでいるが、半分以上が消えている。残っているものも弱く、青白い光が石壁の表面をぼんやり照らす程度だった。


「明かりは」


「弱くします」


 セリーが指先へ小さな光を灯す。


 強く照らせば、こちらの位置を知らせることになる。


 先頭をリディア、次に俺、その後ろをセリーという順で階段を下りていく。


「三人で入るのは、隊長に怒られそうですね」


 リディアが小声で言う。


「怒られるだろうな」


「分かっていて?」


「ああ」


「主様」


 後ろからセリーの声が飛んでくる。


「私も怒ります」


「お前は一緒に入ってるだろう」


「三人で入る判断についてです」


「今言うのか」


「今は短く。あとで詳しく」


「あとでは要らない」


「必要です」


「何が」


「反省です」


「帰ってからにしろ」


「はい」


 帰ってから。


 自分で口にしたその言葉が、少しだけ胸へ残った。


 戻るために動く。


 昨日、アンナマリーとも約束した。


 階段を下り切ると、正面には細い廊下が伸びていた。右手には薬品庫らしき木扉があり、左側には鉄格子のついた部屋が並んでいる。


「隔離室」


 リディアの声が低くなる。


 鉄格子の向こうは暗い。


「誰かいるか」


 声を張りすぎないように呼ぶ。


 返事はない。


 一つ目は空だった。


 二つ目には古い寝台と桶だけが残されている。


 三つ目。


 その奥に、人影があった。


「止まってください」


 リディアが腕を出した。


「また術式か」


「はい。ただし警報ではありません」


「何だ」


 リディアの顔が険しくなる。


「精神誘導術式です」


 その言葉だけで、胸の奥が冷えた。


「踏むと?」


「音を聞かされる可能性があります」


「音?」


「術者が記録した声、あるいは対象の記憶へ近い音を引き出す術式です」


 頭の中へ過去の声が蘇る。


 レイチェルの声。


 信じている。愛している。周囲は敵だ。お前だけが正しい。


 胸の奥から強い不快感が込み上げた。


「主様」


「大丈夫だ」


「手を」


 セリーが差し出す。


 今は迷わず、その手を握った。


「エル」


『精神防護を最大出力へ変更します』


「リディアにも」


『付与します』


 頭の周囲を薄い膜で包まれるような感覚が広がる。


「解除できるか?」


「できます。五分ほど」


「頼む」


 リディアがその場へ片膝をつく。


 格子の奥では、人影が僅かに動いた。


 痩せた女性が壁際に座っている。長い髪が顔を覆い、胸だけが弱く上下していた。


「聞こえるか」


 呼びかけても反応はない。


「名前は――」


「近づかないで」


 突然、かすれた声がした。


 女性ではない。


 さらに奥の暗闇から、子供の声が聞こえてくる。


「誰だ」


「来ないで」


「危害は加えない」


「嘘」


 即答だった。


「ここに来た人は、みんな最初にそう言う」


 セリーの指へ少し力が入る。


「俺たちは取らない」


「何を」


「お前が怖がっているものを」


 少しの沈黙があった。


「名前」


 子供が言う。


「ここに来た人は、名前を取られる」


 リディアの手が一瞬だけ止まりかけたが、すぐに解除作業を続ける。


「俺たちは取らない」


「嘘」


「嘘じゃない」


「皆、最初はそう言った」


「そうか」


「名前を聞くんでしょう」


 俺は口を閉じた。


 本当なら、誰なのか知りたい。記録と照らしたい。クララなのか、それとも別の患者なのか。


 だが、今それを優先する必要はない。


「言いたくないなら聞かない」


 格子の向こうが静まった。


「……聞かないの?」


「ああ」


「何で」


「言いたくないんだろう」


「でも、名前が分からなかったら」


「助けられないわけじゃない」


「変」


「よく言われる」


「王子様も?」


 胸が僅かに強張った。


「なぜ」


「声を知ってる」


「どこで」


「夢の部屋」


「何だ、それは」


「白い部屋」


 子供の声が少し震える。


「眠ると連れていかれる」


「そこで何をされた」


「言いたくない」


「分かった」


「聞かないの?」


「ああ」


「……変」


「それも聞いた」


 格子の奥で、小さく息を吐く音がした。


「アルフォンス王太子」


 今度は、はっきりと俺の名前が呼ばれた。


「悪い人」


 その言葉に呼応するように、格子の奥で壁際に座っていた女性が顔を上げる。


 青白い頬。濁った瞳。


 震える唇が、ゆっくりと言葉を作った。


「王太子が、私たちをここへ送った」


 リディアが息を呑んだ。


「違う」


 反射的に言いかけて、止める。


 俺が直接、誰かをここへ送れと命じた記憶はない。


 けれど、王宮魔導研究所は王家の管轄にあった。


 監査を延期した。


 報告を読まなかった。


 見なかった。


 知らなかった。


「俺は、お前たちをここへ送れと命じていない」


「でも王太子だった」


「ああ」


「王家の人」


「ああ」


「同じ」


「お前から見れば、そうかもしれない」


 しばらく返事はなかった。


「言い訳しないの?」


「俺が知らなかったことは事実だ」


「知らなかったら悪くない?」


「違う」


「じゃあ、悪い人?」


 俺は少し考えた。


「分からない」


 子供が小さく笑う。


「王子様なのに、分からないこと多い」


「最近、何度も言われる」


「変」


「ああ」


「本当に助ける?」


「ああ」


「名前を言わなくても?」


「ああ」


「じゃあ」


 暗闇から小さな手が伸びた。


 格子の隙間から出てきたのは、細く、汚れた指だった。


「この人を先に。息が苦しい」


「分かった」


「鍵は廊下の奥」


「誰が持ってる」


「先生」


「誰だ?」


 子供が手を引っ込める。


 俺はすぐに言葉を続けた。


「答えなくていい」


「……うん」


「リディア」


「あと少しです」


 やがて精神誘導術式の最後の線が消えた。


「道は安全です」


 格子へ近づく。


 女性の呼吸は、遠くから見た以上に浅かった。


「セリー」


「はい」


 セリーが格子越しに状態を確認する。


「呼吸低下。体温も低いです。魔力循環も弱っています」


「エレナと似ている?」


「はい」


「紫鈍草は」


「残留反応があります」


「鍵を探す時間は」


「主様」


 セリーが俺を見る。


「この方は、あまり待てないと思います」


 格子は壊せる。


 だが、音が出る。


 中の者を怖がらせるかもしれない。


「なあ」


 子供へ声をかける。


「何」


「格子を壊す。大きな音がするかもしれない」


「怖い?」


「ああ」


「どうして聞くの」


「お前がここにいるからだ」


 少しの間があった。


「怖い」


「ああ」


「でも、この人死ぬ?」


「このまま待てば危ない」


 小さな手が格子を掴む。


「じゃあ壊して」


「分かった」


 勝手に決めない。


 中にいる者へ何が起きるかを伝え、選べるなら選んでもらう。


「セリー」


「はい」


「格子だけだ」


「壁と床への衝撃は抑えます」


 銀色の糸が何本も格子へ絡みつき、金属が低く軋んだ。


 爆発音はない。


 格子の枠だけが少しずつ歪み、やがて壁から外れる。


「壊すというより外したな」


「怖いとおっしゃいましたので」


 格子を横へ置き、部屋の中へ入る。


 子供は女性の背後へ隠れていた。


 顔はまだよく見えない。


「近づくぞ」


「うん」


「この人へ触ってもいいか」


「助けるなら」


「分かった」


 セリーが女性の首元へ触れる。


「脈が弱いです」


「運べる?」


「はい」


 女性を抱き上げる。


 あまりにも軽い。


 その細さを見た瞬間、また胸の奥へ怒りが込み上げた。


「主様」


「ああ」


「怖い顔になっています」


「分かっている」


「今は、この方を見てください」


「ああ」


 怒るのは、あとでもできる。


「一緒に行く?」


 子供へ聞く。


 暗闇から少しだけ顔が見えた。短く切られた髪に、痩せた頬。年齢はエレナと大きくは変わらないように見える。


「外は怖い」


「ああ」


「でも、ここも怖い」


「ああ」


「どうしたらいい」


「今すぐ決めなくていい」


「でも先生が来る」


 その言葉と同時に、遠くから複数の足音が聞こえてきた。


 地下廊下の奥からだ。


「人数」


 リディアが立ち上がる。


「四人です。一人、強い魔力があります」


 セリーが答える。


「術者か患者か」


「そこまでは分かりません」


 足音が近づいてくる。


「リディア」


「前へ出ます」


「殺すな」


「はい」


 廊下の角から、最初に現れたのは白衣の男二人だった。


 その後ろに短剣を持った警備らしき男が続き、最後に細身の男が姿を見せる。


 白髪の混じった黒髪。


 丸い眼鏡。


 細い顔。


 そして、穏やかな笑み。


 山奥の療養所で突然侵入者へ出会った人間には見えない。


「これは」


 男は立ち止まり、俺を見る。


「アルフォンス殿下」


 俺の名前を知っている。


「レイハンか」


 男は少しだけ首を傾げた。


「その名で呼ばれるのは久しぶりです」


 否定しない。


「患者を返してください」


「患者?」


「はい」


「腕へ被験体と刻んでいる人間も、患者と呼ぶのか?」


 レイハンの笑みは崩れない。


「管理上必要な識別です」


「名前がある」


「名前?」


 本当に不思議そうに首を傾げた。


「この方々は、名前を持つことで苦しんでいるのですよ。名前を忘れれば、罪も、痛みも、誰かに捨てられた記憶も薄れる」


 背後で子供の身体が震えた。


「だから奪った?」


「治療です」


「本人が望んだのか」


「判断能力のない患者もいます」


「なら、お前が決める?」


「医師ですから」


 胸の奥へ熱いものが膨らむ。


「主様」


 セリーの声で、自分の呼吸がまた浅くなっていたことに気づいた。


「ああ」


「呼吸を」


 息を吸い、ゆっくり吐く。


 レイハンは、そんな俺たちのやり取りを興味深そうに眺めていた。


「素晴らしい」


「何が」


「感情制御です。殿下の精神状態は以前より安定していますね」


「俺を知っているな」


「もちろん」


「俺への精神干渉へ関わったか」


 ほんの僅かに沈黙が落ちた。


「その質問へ答える前に」


 レイハンが白衣の袖から、小さな銀色の鍵を取り出す。


「クララさんへ会いたくありませんか」


 グレゴルの妹。


「どこにいる」


「上階です」


「生きているか」


「はい」


「無事か」


「無事、という言葉をどこまで含めるかによります」


 リディアの手が剣へ伸びる。


「まだだ」


 俺が止めた。


「しかし」


「クララの場所を先に確認する」


 レイハンが満足そうに笑う。


「冷静になられましたね」


「お前のおかげではない」


「いいえ」


 男は俺の顔をじっと見た。


「私たちの研究成果かもしれません」


 地下の空気が、さらに冷えたように感じた。


「私たち?」


「殿下」


 レイハンが鍵を指先で揺らす。


「あなたは、この療養所へ初めて来たと思っているのでしょう」


 頭の奥が、ずきりと痛んだ。


「何を言っている」


「本当に?」


 白い廊下。


 薬の匂い。


 泣いている声。


 誰かの手。


 知らないはずの景色が、一瞬だけ頭の中を通り過ぎる。


「っ……」


「主様!」


 セリーが肩を支える。


「エル」


『精神反応の急激な乱れを確認。外部からの新規干渉術式は検出されていません』


「記憶?」


『可能性は否定できません』


 レイハンは笑っている。


「やはり」


「何をした」


「何もしていませんよ」


 そこで一度言葉を切り、レイハンは薄い笑みを浮かべた。


「今は」


 その言い方に、背筋が冷える。


「殿下は幼い頃、一度だけ白鴉療養所へ来ています」


「嘘だ」


「では、なぜこの場所の匂いを覚えているのです?」


 レイハンの視線が俺の顔へ向く。


 薬と湿った石、それに紫鈍草の混じった匂い。


 確かに、知っている気がする。


 だが、理由は分からない。


「主様」


 セリーが俺の顔を覗き込む。


「今、思い出さなくていいです」


「ああ」


「レイハンさんの言葉を信じる必要もありません。でも、全部を嘘だと決める必要もありません」


「ああ」


 彼女の声を聞く。


 今、ここにいる。


 俺の手は、セリーが握っている。


「レイハン」


「はい」


「クララへ会わせろ」


「条件があります」


「何だ」


「その女性を置いていってください」


 レイハンは、セリーが抱いている患者へ視線を向けた。


「治療が必要です」


「お前の治療は受けさせない」


「では死ぬ可能性があります」


「ヨアヒムがいる」


「近衛の治療師では、この方の魔力循環を正常へ戻せません」


「なぜ分かる」


 レイハンの笑みが少しだけ薄くなった。


「私が作った症状だからです」


 誰も、すぐには動かなかった。


 あまりにも簡単に言った。


 背後で子供が小さく息を呑み、リディアの剣が半分まで抜かれる。


「待て」


「ですが!」


「本人が認めた」


「拘束する理由は十分です」


「ああ」


「なら」


「クララの場所を先に聞く」


 リディアが一瞬俺を見る。


 やがて、剣を完全には抜かずに止めた。


「三階のどこだ」


 俺が聞く。


「言うと思いますか?」


「お前へ選ばせる」


「私に?」


「ああ」


 通信石へ魔力を流す。


「今、クララの場所を言うか――」


『聞こえている』


 ガルムの声が割り込んだ。


『こちらは正面、裏手、屋上へ上がれる経路を確保した』


 レイハンの表情が初めて僅かに変わる。


「それとも、近衛が建物全体へ入る」


『指示を』


「まだ入るな」


『なぜ』


「患者が怖がる」


 ほんの一秒。


『分かった』


 短い返事だった。


 それだけでいい。


 レイハンが俺を見る。


「近衛が、あなたの命令へ従うとは」


「命令じゃない」


「では?」


「役割を分けた」


「それが何を」


「お前には分からないかもしれない」


 従わせる。奪う。名前を消す。


 本人の代わりに、全部を決める。


 それしかやってこなかった者には、分からないのかもしれない。


「クララはどこだ」


 沈黙が続いた。


 やがて、レイハンが口を開く。


「三階、東端です」


「部屋番号」


「三〇七」


「鍵は」


 レイハンの指先には、まだ銀色の鍵がある。


「これです」


「投げろ」


「嫌です」


「なら拘束する」


「できると思いますか?」


 その瞬間、レイハンの背後にいた白衣の男二人が、同時に薬瓶を床へ叩きつけた。


「下がれ!」


 割れた瓶から紫色の煙が一気に広がる。


 紫鈍草だ。


「セリー!」


「防壁を!」


 透明な膜が俺たちを包み、紫の煙を外側へ押し流す。


 警備の男が短剣を抜いた。


「リディア!」


「非殺傷で止めます!」


 剣が抜かれる。


 リディアは刃ではなく柄を使い、男の手首を打った。乾いた音と共に短剣が床へ落ちる。


 もう一人の白衣の男が、何かの札を投げた。


「精神誘導!」


 リディアの声が飛ぶ。


「エル!」


『防護を維持します』


 次の瞬間、耳元へ声が聞こえた。


 戻れ。


 お前は悪い王子だ。


 誰も信じるな。


 セリーも、お前を騙している。


「主様」


 本物の声がする。


「私を見てください」


 見る。


 淡い青の瞳。


「私は誰ですか」


「セリー」


「はい。ここは?」


「白鴉療養所」


「はい。主様のお名前は?」


 一瞬、言うのが怖くなった。


 名前を呼ばれたら、連れていかれる。


 さっき、子供がそう言った。


 それでも。


「アルフォンス」


 声へ出す。


「アルフォンス・ガイゼン」


「はい。今、何をしますか」


「患者を守る」


「はい」


 耳の奥に響いていた偽物の声が、少しずつ遠ざかっていった。


「レイハンは?」


 煙の向こうを見る。


 白衣の二人と警備の男はいる。


 だが、レイハンだけがいない。


「隠し通路です!」


 リディアが壁を見る。


 古い石壁の一部が開いていた。


「追うか」


「クララさんが先です」


 セリーが即答する。


 俺も同じだった。


「ガルム!」


『聞こえている』


「レイハンが地下東通路へ逃げた」


『ヴァルターとミラを回す』


「深追いするな」


『分かった』


「俺たちは三階へ行く」


『正面から合流する』


「患者へ武器を向けるな」


『何度言う』


「確認だ」


『分かっている』


 煙が薄れていく。


 白衣の男二人と警備一人は、全員リディアの結界で拘束されていた。


「怪我は」


「警備の男に手首の打撲。ほかはありません」


「ヨアヒムへ回せ」


「敵でも?」


 リディアが尋ねる。


「役割を覚えてるな」


「確認です」


「治療させろ」


「はい」


 格子の奥から、子供がこちらを見ていた。


 暗闇の中で、その目だけが真っ直ぐ俺へ向けられている。


「王子様」


「何だ」


「名前、取られなかった?」


「ああ」


「どうして」


「呼んでくれる者がいた」


 セリーを見る。


 そして、もう一度子供へ向き直る。


「お前も、言いたくなった時でいい」


「何?」


「名前だ」


 子供が少しずつ前へ出た。


「言わなくても助ける?」


「ああ」


「でも」


 唇が小さく震える。


「呼ばれたい」


「何と」


 少し長い間があった。


「ミーナ」


 ようやく、小さな声が聞こえた。


「ミーナ・ベル」


「そうか」


 俺はすぐにはその名前を呼ばなかった。


「呼んでいいか?」


 子供が目を見開く。


「聞くの?」


「ああ」


「……うん」


「ミーナ」


 その瞬間、彼女の目から涙が落ちた。


「もう一回」


「ミーナ」


「もう一回」


「ミーナ・ベル」


 今度は、声を震わせながら少し笑った。


「この人は」


 ミーナが、セリーに抱かれている女性を見る。


「名前、忘れちゃった。何回聞いても、分からないって」


「そうか。なら、本人が思い出すまで待つ」


「戻る?」


「分からない」


「でも?」


「戻せるように動く」


 ミーナが小さく頷いた。


「一緒に来るか?」


「三階へ?」


「ああ」


「クララさん?」


「知っているのか」


「少しだけ」


「どんな人だ」


「歌を歌う」


 胸の奥が僅かに揺れる。


 グレゴルの妹。


 最後まで兄を心配していた女性。


「今も?」


 ミーナは首を横へ振った。


「最近、歌わない」


「なぜ」


「先生が――」


 そこでミーナの口が閉じた。


「言わなくていい」


「……うん」


「一緒に来る?」


 ミーナは階段の方向を見た。


「怖い」


「ああ」


「でも、ここに一人も怖い」


「ああ」


「手」


 小さな手が差し出された。


 俺はすぐには握らない。


「俺でいいか」


「うん」


 その返事を聞いてから、手を握った。


 冷たい。


 細い。


 けれど、確かに生きている。


「セリー」


「女性は私が運びます」


「リディア」


「拘束者を正面班へ引き渡したあと、追いつきます」


「頼む」


「はい」


「ミーナ」


「うん」


「上へ行く」


 地下廊下の先には、上階へ続く階段がある。


 三階、東端、三〇七号室。


 そこへクララ・キースがいる。


 レイハンは逃げた。


 俺が幼い頃にここへ来たという言葉も残った。


 知らないはずの匂い。


 白い廊下。


 泣き声。


 頭の奥には、確かに何かがある。


 だが、今は思い出すことを優先しない。


 俺の手の中には、ミーナの小さな手がある。


「主様」


「何だ」


「今度は、私の手が空いていません」


 セリーは女性を抱いている。


「ああ」


「ですので、転ばないでください」


「子供ではない」


 ミーナがこちらを見上げる。


「王子様、転ぶの?」


「転ばない」


「前に転んだ?」


「膝をついただけだ」


「それ、転んでる」


「違う」


 ミーナが、ほんの少しだけ笑った。


 その笑いを聞きながら、俺たちは階段へ向かう。


 扉を壊す前には声をかける。


 名前を聞く前には、聞いていいかを確かめる。


 怖いなら、怖いと言っていい。


 分からないなら、分からないままでいい。


 奪われたものを、俺たちが勝手に返したつもりにはならない。名前も、選ぶことも、本人が望んだ時に一つずつ本人の手へ戻していく。


 三階、東端、三〇七号室。


 クララ・キースがいるという場所へ。


 俺はミーナの手を握ったまま、古い階段を上り始めた。

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