第23話 名前を知らないまま、助けた人数だけを数えないことにしました
白鴉療養所へ向かう準備は、ガルムが要求した二十五分では終わらなかった。
正確には、近衛側の準備は二十三分で整った。
遅れたのは、フェリクスだった。
「この薬瓶だけは必要です」
「置いていけ」
「ですが、現地で同系統の薬品が見つかった場合、成分を比較できます」
「エルが記録した」
「記録と現物では違います。沈殿物、保存状態、魔力残留、瓶そのものへ付着した術式まで含めれば、現物同士を比較する方が確実です」
「お前が持つ必要はない」
「では、ブラットに」
「私ですか?」
突然話を振られたブラットが、露骨に嫌そうな顔をした。
古の塔の第一迎撃庭園には、出発する者たちが集まっている。
俺。
セリー。
ブラット。
フェリクス。
ガルム。
そして、ガルムが選んだ五名の近衛騎士。
町へ残したルーカスとニールを除き、森の外へ待機していた第三小隊から、索敵、治療、結界解除に適性を持つ者が選ばれていた。
全員が白銀の鎧を脱ぎ、山歩きに適した暗い色の軽装へ着替えている。
王国近衛騎士団が正規任務で動いているようには見えない。
それが目的だった。
白鴉療養所。
昨日までは、その名前すら俺たちは知らなかった。
だが、旧製粉所から回収された焼け残りの記録と、グレゴルの証言を照合したことで、その存在が浮かび上がった。
領都から北。
旧採石場を越えた山中。
二十年近く前に閉鎖されたことになっている、慢性疾患患者向けの療養施設。
そして。
クララ・キースの転院先として空欄になっていた箇所へ、本来記されていた可能性が高い場所。
さらに、ローレン・ハイスの家族が事故後に向かった方角とも重なる。
まだ。
クララがそこにいるとは決まっていない。
ローレンの家族がいるとも。
レイハンがいるとも。
だからこそ、確認へ行く。
確かめる前から答えを作らないために。
「ブラットなら、薬瓶へ勝手に触れない」
「私も触れません」
「先ほど触ろうとした」
「あれは成分比較のためです」
「同じだ」
「違います」
「どこが」
「目的が明確です」
「勝手に触る目的が明確でも困る」
フェリクスは納得していない顔をしている。
「では、私が持ちます」
ブラットが諦めたように手を出した。
「ただし、私の判断で勝手に開けません。必要になった場合はフェリクス、アル様、近衛側の誰か一人。最低三人で確認してから開封します」
「そこまでしますか?」
「昨日、一人だけで決めないと決めたばかりでしょう」
「研究上の判断は専門家へ任せるべきです」
「その専門家が勝手に迎撃庭園の椅子へ触った結果、固定されました」
「あれは――」
「さらに花壇にも触りました」
「観察です」
「薬瓶にも触ろうとしました」
「研究です」
「だからです」
ブラットが薬瓶を受け取り、厚手の布で包んで鞄へ収める。
「私が持ちます」
「……分かりました」
フェリクスが不満そうに引き下がった。
「意外だな」
俺が言う。
「何がです?」
「お前が一番覚えている」
「何を」
「一人にしないこと」
ブラットの手が少し止まる。
それから、鞄の留め具を閉じた。
「失敗しましたから」
短い答えだった。
何の失敗か。
聞かなくても分かる。
俺を。
一人の王太子ではなく、役割として見た。
命令に従うことを優先した。
あの時。
ブラット自身も、一人で決めた。
「そうか」
「はい」
それ以上は言わなかった。
今は。
過去を何度も責めるために一緒にいるわけではない。
隣では、セリーが大きな鞄の紐を結び直していた。
十二人分と宣言していた弁当は、最終的に十人分となった。
人数が減ったからではない。
近衛の五人が、それぞれ非常食を持っていると主張したためだ。
だが、セリーは彼らの非常食を確認したあと、無言で弁当を追加した。
「固い焼きパンと干し肉だけでは、食事とは呼べません」
「軍用携行食です」
近衛の一人が反論した。
名前はヴァルター。
三十代半ばほどの、濃い茶髪を短く切った男だ。山岳偵察の経験があり、今回の先導役として選ばれている。
「必要な栄養は取れます」
「美味しいですか?」
「美味しさは求めていません」
「では、私のお弁当も持っていきます」
「重量が増えます」
「私が持ちます」
「なら問題ないな」
ガルムが簡単に決める。
ヴァルターは隊長を見る。
「よいのですか」
「食える時に食え」
「軍規では」
「今は隠密調査だ。腹が減って判断を誤るよりいい」
セリーが満足そうに頷く。
「ガルムさんは理解がありますね」
「隊長と呼べ」
「私は近衛ではありません」
「では、レイス殿と」
「ガルムでいい」
「はい、ガルムさん」
「さんは要らん」
「細かいですね」
「お前たちに言われたくない」
準備を進めながら、俺は出発者の顔を一人ずつ見ていた。
ガルムが選んだ近衛は五人。
山岳偵察のヴァルター。
結界術を専門とする黒髪の女性騎士、リディア。
治療術を扱う金髪の青年、ヨアヒム。
短弓と遠距離索敵を得意とする、小柄な女性騎士ミラ。
最後は、大盾を扱う体格のよい男、オスカー。
近衛としての能力だけを考えれば、十分な編成だろう。
だが。
能力だけでは足りない。
「出発前に確認する」
俺が声を出すと、庭園の会話が止まった。
全員の視線が集まる。
石机の上へ地図を広げた。
「今回の目的は、白鴉療養所の調査だ」
地図には、旧採石場から北へ続く一本の細い線が描かれている。
その先。
山中へ、小さな四角。
白鴉療養所。
「第一に、クララ・キースを含む移送患者三名の所在確認」
「第二に、生存者がいる場合は保護」
「第三に、療養所が現在も使われているか確認する」
「第四に、レイハン医師および関係者の記録を確保する」
ガルムが続ける。
「敵対者が確認された場合は拘束。抵抗が激しい場合は、現場判断で武器使用を許可する」
「殺すな」
俺が言う。
「当然だ」
「近衛の当然と、俺の当然が同じか確認した」
ガルムの眉が動く。
「命へ危険が迫れば、部下は剣を使う」
「それは止めない」
「では何だ」
「先に殺す方法を選ぶな」
「近衛は殺人集団ではない」
「領主府兵も、自分たちは正規兵だと言っていた」
庭園の空気が僅かに硬くなる。
近衛の五人は、誰も反論しなかった。
「信用していないのですか」
リディアが尋ねた。
静かな声だった。
「ああ」
俺はそのまま答えた。
「それでも同行を許す?」
「許す、という言い方は違うな」
「では?」
「役割を渡す」
「昨日、隊長から聞きました」
「嫌か」
「いいえ」
リディアは真っ直ぐ俺を見る。
「ですが、私たちもあなたを完全には信用していません」
「それでいい」
即答すると、彼女は少し驚いた顔をした。
「古代魔導具を多数所有し、王家の権限を拒み、元側近や元婚約者を塔へ置いている」
「アンナマリーは町へ残した」
「今は、です」
「ああ」
「近衛として、警戒しない方が不自然です」
「その通りだ」
信用していない者同士。
それでも。
人を助ける目的では一緒に動ける。
「だから、線を決める」
俺は続ける。
「療養所へ着いても、勝手に入るな。証拠を見つけても、一人で触るな。患者と思われる者を見つけても、急に近づくな」
「精神系術式の影響がある可能性があります」
フェリクスが補足する。
「強い精神干渉を受けた直後は、接近する者を敵と誤認する場合もあります。また、特定の言葉や行動をきっかけに反応する条件付けが施されている可能性も否定できません」
「だから、見つけたからといって急に掴むな」
俺は全員を見る。
「声をかける。反応を見る。危険が迫っている場合だけ保護を優先する」
ヨアヒムが頷いた。
「術式を見つけても、興味だけで起動するな」
「それは私へだけですよね」
フェリクスが言った。
「当然だ」
「少し不公平では」
「実績がある」
「否定できません」
素直に認めるところが、余計に不安だ。
「ブラット」
「はい」
「フェリクスを見ろ」
「承知しました」
「研究へ必要な範囲まで止めるな」
「判断は?」
「迷ったら止めろ」
「広いですね」
「お前ならできる」
ブラットが少しだけ目を見開いた。
「……承知しました」
任せる。
だが。
全部ではない。
「セリー」
「はい」
「俺と患者の保護」
「主様の保護が先です」
「患者が先だ」
「主様です」
「セリー」
「両方守ります」
譲らない顔だった。
「分かった」
「はい」
「だが、俺が危険へ行く必要がある時は」
「一緒に行きます」
「聞け」
「聞いています」
近衛の五人が、俺たちを不思議そうに見ている。
ガルムだけは、もう慣れ始めたのか何も言わなかった。
「最後に」
俺は全員を見る。
「名前を確認する」
「名前?」
オスカーが低い声で聞き返す。
「ああ」
「先ほど紹介を受けましたが」
「俺が覚えるためだ」
王太子の頃。
護衛の名前を全員覚えていたわけではない。
近くにいる側近。
隊長。
高位貴族出身者。
それだけは分かっていた。
だが。
同じ馬車を守った騎士。
廊下へ立っていた兵。
夜通し扉の前へいた者。
名前を知らないまま、役割だけで呼んでいた者も多い。
王太子を守る兵。
近衛。
護衛。
役割だけなら、それで足りた。
もし一人が倒れても。
報告書には、近衛一名負傷と書かれる。
俺も、それを読んで終わっていた。
「ヴァルター」
「はい」
「山道の先導」
「はい」
「危険だと思ったら、俺の判断を待たず止めろ」
「殿下でも?」
「アルだ」
「アル殿でも?」
「ああ」
「承知しました」
「リディア」
「はい」
「結界の確認」
「解除は勝手にするな」
「記録を取り、フェリクスさんと照合した上で報告します」
「二人で興奮するなよ」
「私はしません」
「フェリクスはする」
「見張ります」
ブラットに加え、もう一人増えた。
「ヨアヒム」
「はい」
「治療役」
「はい」
「敵でも怪我をしていれば診ろ」
一瞬だけ。
ヨアヒムの返事が遅れた。
「敵も?」
「ああ」
「こちらへ剣を向けた者でも?」
「拘束したあとだ」
「……承知しました」
完全に納得したわけではない顔だった。
それでいい。
その場で初めて迷うより。
今、迷うことを知れた方がいい。
「ミラ」
「はい」
「遠距離索敵」
「生存者らしき反応があれば、敵味方を決めつけず報告します」
「頼む」
「はい」
「オスカー」
「はい」
「前衛と退路確保」
「誰を優先しますか」
「何?」
「撤退時です」
オスカーは真剣だった。
「患者、調査員、近衛。順番を決めてください」
軍では必要な確認なのだろう。
俺は少し考える。
「決めない」
「しかし」
「状況で変わる」
「現場が混乱します」
「では、最初に自力で動けない者」
オスカーが頷く。
「次に負傷者。そのあと、近い者」
「身分は?」
「関係ない」
オスカーは俺を見る。
「元王太子でも?」
「ああ」
「主様は私が運びます」
セリーがすぐに言った。
「運ばれる前提にするな」
「念のためです」
「俺は歩ける」
「歩けない場合のお話です」
「その場合は俺より動けない患者を先にしろ」
「主様も患者になっています」
「面倒だな」
「主様が面倒な条件を出すからです」
オスカーは少しだけ口元を緩めた。
「承知しました。現場で判断します」
「ああ。それでいい」
一人ずつ。
名前と役割を確認する。
それだけで。
同じ人数でも、先ほどより少し違って見えた。
「主様」
セリーが小さく呼ぶ。
「何だ」
「全員のお名前を覚えましたか?」
「ああ」
「確認します」
「今?」
「はい」
「ヴァルター」
「はい」
「リディア」
「はい」
「ヨアヒム」
「はい」
「ミラ」
「はい」
「オスカー」
「はい」
「よろしいです」
「教師か、お前は」
「主様が忘れないようにです」
「忘れない」
「本当に?」
「ああ」
今日は。
役割だけで呼ばない。
戻った時。
誰か一人がいなくなっても。
十人で出て九人で戻った。
そんな数字だけで終わらせないために。
◇◇◇
白鴉療養所へ最も近い転移地点は、旧採石場だった。
古の塔から登録済みの転移扉を開き、全員が順番に越える。
扉の向こうへ出た瞬間、空気が一気に冷たくなった。
リュネ周辺より標高が高い。
灰色の岩肌。
低い灌木。
崩れた作業小屋。
風が吹くたび、岩の隙間へ残っていた細かな砂が乾いた音を立てる。
空は薄い雲に覆われ。
遠くの山頂には、季節外れのように白い雪が残っていた。
「寒いですね」
フェリクスが外套の襟を上げる。
「山だからな」
「薬品保存には適した気温です」
「最初の感想がそれか」
「研究者ですので」
「便利だな、その言葉」
「最近、アル様も『分からない』を便利に使っています」
「一緒にするな」
ガルムが地図を開く。
「ここから療養所まで、旧道を北へ進む」
「どれほどですか」
ブラットが尋ねる。
「地図上では徒歩三時間」
ヴァルターが答える。
「地図上では?」
「二十年前の道です。現在も残っている保証はありません」
旧採石場から北へ伸びる山道。
かつて白鴉療養所へ物資を運ぶために使われた。
だが、閉鎖後は整備されていない。
「エル」
『周辺地形を検索します』
俺の腕輪が淡く光る。
少しして。
『旧道の六割が残存。二か所で大規模崩落。小規模崩落が四か所。迂回経路を含めた到達予測は三時間四十分です』
「伸びたな」
「山道なら普通です」
ヴァルターが言う。
「日没前には着けるか」
「休憩を短くすれば」
「休憩は取ります」
セリーが即答する。
ガルムが眉を寄せる。
「誰へ言っている」
「全員へです」
「軍の行軍なら」
「疲れて判断を誤るよりよいと、先ほどご自分で言いました」
「食事の話だ」
「休憩も同じです」
「山中で長く止まる方が危険だ」
「短く何度か止まります」
ガルムが俺を見る。
「何とかしろ」
「無理だ」
「主ではないのか」
「そうだが、食事と休息では俺にも決定権がない」
近衛たちが少し驚いた顔をする。
「主様」
セリーが嬉しそうに笑う。
「今の言葉は記録しました」
「消せ」
『記録しました』
「エルまで」
「出発するぞ」
ガルムが強引に話を切った。
◇◇◇
山道は、想像していたより荒れていた。
最初の一時間は、まだ道と呼べる形が残っていた。
馬車の車輪が通った溝。
苔に覆われた石の標識。
切り株。
古い排水路。
ところどころには、荷馬車が休むために道幅を広げた跡まで残っている。
昔は。
ここを患者が通ったのだろう。
自分の足で歩いた者も。
馬車へ乗せられた者も。
家族に付き添われた者もいたはずだ。
白鴉療養所。
その名が。
当時、本当に病気の者を休ませるための場所だったのか。
それとも。
最初から別の目的があったのか。
まだ分からない。
「主様」
「何だ」
「足元」
「ああ」
木の根を跨ぐ。
「右にも」
「見えている」
「石が滑ります」
「分かっている」
「左は崖です」
「それも分かっている」
「では、手を」
「子供ではない」
「転んでからでは遅いです」
差し出された手を見る。
近衛たちがいる。
ブラットもいる。
「見られている」
「はい」
「恥ずかしいだろう」
「私は気にしません」
「俺が気にする」
「では、袖を掴みます」
「変わらない」
言いながら。
結局、セリーは俺の袖口を軽く掴んだ。
引っ張るわけではない。
足を滑らせた時に支えられる距離。
「殿下」
後ろからブラットが声をかける。
「アルだ」
「以前の山岳視察では、私が手を差し出した時に断りましたよね」
「覚えているのか」
「はい」
「お前の手は必要なかった」
「その直後に転びました」
「転んでいない」
「膝をつきました」
「転倒ではない」
「土で礼服が汚れました」
「昔の話をするな」
セリーが俺の袖を少し強く掴む。
「今度は転ばないようにします」
「お前まで」
「主様の過去を教えていただきました」
「余計な共有だ」
隊列の前から、ミラの小さな笑い声が聞こえた。
緊張を保つべき場所。
だが。
少し笑える余裕があるのは悪くない。
一時間半ほど進んだところで。
ヴァルターが右手を上げた。
全員が止まる。
空気が。
一瞬で変わった。
誰も言葉を発さない。
先ほどまで小さく笑っていたミラも、すでに短弓へ手をかけている。
「どうした」
ガルムが声を抑えて尋ねる。
「前方に足跡」
ヴァルターがしゃがみ込む。
道の端。
湿った土。
落ち葉の下へ。
複数の靴跡が残っている。
「新しいか」
「昨日か、今朝」
「人数は」
「最低四」
ミラも近づく。
「一人は軽い」
「子供?」
俺が尋ねる。
「分かりません」
ミラはすぐに否定も肯定もしなかった。
「歩幅は狭いです。ただ、自分で歩いた跡ではない可能性があります」
「どういう意味だ」
「こちらを」
土の上。
靴の跡の間に。
細い線が残っている。
一本ではない。
二本。
何かの端が地面へ擦れたような跡。
「引きずった?」
ブラットが低く言う。
「荷物かもしれません」
ヴァルターが答える。
「人かもしれません」
ヨアヒムの声が硬くなる。
誰も。
すぐに人だと決めない。
それでも。
可能性は置く。
足跡は。
山の上へ向かっている。
「白鴉療養所へ?」
セリーが尋ねる。
「方向は一致します」
ヴァルターが答える。
「追う」
ガルムが言う。
「待て」
俺は足跡の周囲を見る。
「罠の可能性」
「ああ」
「ミラ」
「先を見ます」
彼女は短弓を背負ったまま、道の脇へ移る。
低い枝。
斜面。
岩の隙間。
視線だけで追っていく。
「糸なし。魔力罠らしい反応もありません」
リディアも片膝をつき、土へ手を近づける。
触れる寸前で止めた。
「ただし」
「何だ」
「足跡の一部へ、認識阻害の痕跡があります」
「消そうとした?」
「完全に消すほど強くありません。道を知らない者が見落とす程度です」
フェリクスが興味を示し、一歩近づく。
「術式を――」
「止まれ」
ブラットが肩を掴んだ。
「まだ触っていません」
「近づきました」
「見るだけです」
「離れて見てください」
「距離があると術式構造が」
「エル」
『フェリクスの足元を固定しますか』
「必要ありません!」
フェリクスが自分から二歩下がる。
「下がりました」
「最初からそうしろ」
「認識阻害の種類だけ確認させてください」
リディアが術式痕を見つめる。
やがて。
「古い王宮式に似ています」
「王宮?」
俺の胸が僅かに硬くなる。
「二十年ほど前まで、王宮関係施設で使われていた形式です」
「白鴉療養所が使われていた時代」
「はい」
「新しく使われたのに、古い形式?」
「当時の結界設備を流用した可能性があります」
フェリクスが少し離れた位置から言う。
「あるいは」
「何だ」
「今も、同じ術式を使える者が管理している」
閉鎖されたはずの施設。
古い王宮式。
新しい足跡。
全部を繋げたくなる。
だが。
まだ。
「進む」
俺が言う。
「ただし、速度を落とす」
「追いつけなくなります」
ガルムが反論する。
「追いついて戦うことが目的ではない」
「患者が運ばれているなら」
「だからこそだ」
襲撃して。
運ばれている者が傷つけば意味がない。
「ミラを先へ出す」
「単独で?」
「ヴァルターと二人」
ガルムが決める。
「接触はするな。見つかりそうなら戻れ」
「了解」
二人が道の先へ消える。
「残りは十五分後に動く」
「主様」
セリーが鞄を下ろす。
「休憩ですね」
「今?」
「十五分あります」
「緊張が切れる」
「座る必要はありません」
彼女は小さな包みを取り出す。
「何だ」
「蜂蜜を固めた携行菓子です」
「近衛の非常食を否定していたのに」
「こちらは美味しいです」
「違いはそこか」
「大切です」
全員へ一つずつ配る。
オスカーは受け取った小さな菓子を見つめた。
「これで足りるのか」
「今は休憩です。食事ではありません」
「なるほど」
一口で食べる。
少し目を見開く。
「甘い」
「蜂蜜ですので」
「軍用にも向きそうだ」
「作り方は教えません」
「なぜ」
「主様用です」
「俺だけではないだろう」
「今日は特別です」
ヨアヒムが口へ入れ。
リディアも。
ガルムも、文句を言いながら食べた。
「悪くない」
「美味しいと言ってください」
「任務中だ」
「味は任務と関係ありません」
「……美味い」
「はい」
セリーは満足そうだった。
「お前は、誰にでもそれを言わせるのか」
「食事を作った方へ、感想を伝えるのは大切です」
「近衛隊長にも?」
「はい」
「強いな」
ブラットが小さく笑う。
「殿下も毎日負けています」
「アルだ」
「今は私的会話ですので、アル様」
「長い」
◇◇◇
十五分後。
ミラから通信が入った。
『前方、旧道の崩落地点まで到達』
「足跡は」
『続いています』
「人数」
『四名で間違いありません』
「引きずられているものは」
少し間がある。
『布に包まれた人の可能性があります』
空気が変わる。
「動いているか」
『確認できません』
「相手は見える?」
『崩落の先、約五百歩』
「見張りは」
『二名』
「残りは」
『人を運んでいます』
「療養所へ向かっている?」
『はい』
今。
追いつける。
「行くぞ」
ガルムが即座に動く。
「待て」
「またか」
「地形は」
俺が尋ねる。
『崩落で道幅が狭くなっています。最も狭い場所は一人分程度』
「戦えば?」
『落下の危険があります』
「別の道は」
『右斜面から回れます。ただし時間がかかります』
「どれくらい」
『二十分前後』
ガルムが険しい顔をする。
「その間に療養所へ入る」
「ああ」
「入口で止める方が安全かもしれない」
「建物の中へ入れば、人質にされる可能性がある」
「今ここで戦えば、運ばれている人間が落ちる」
どちらも危険。
正しい答えなど。
今は分からない。
「主様」
セリーが言う。
「私が行きます」
「何をする」
「布に包まれた方だけを、緊急保護膜で保護します」
「そんなものがあるのか」
「はい」
「人間を収納するのは禁止されているだろう」
「収納ではありません」
『補足します』
エルの声が腕輪から響く。
『緊急保護膜は生命体を最大十秒間、独立空間へ隔離し、使用者付近へ再配置する生活補助魔導具です』
「生活補助?」
『はい』
「どの生活で使う」
『セリーヌ様の記録では、寝台から落ちそうな幼児、階段から転落した者、水路へ落ちた者などの緊急救助を想定しています』
胸の奥が。
僅かに揺れる。
セリーヌ。
二千年前。
あの人が。
誰かを落とさないために作った道具。
前世の俺へ使ったことがあるのか。
今は。
考える時ではない。
「距離は」
『現在位置からは届きません』
「どこまで近づく」
『対象まで百歩以内』
「崩落地点へ行く必要がある」
「はい」
「一人では行かせない」
「主様も?」
「ああ」
「危険です」
「お前一人よりは」
「戦闘役をつける」
ガルムが割り込む。
「オスカー」
「盾は狭い道で不利だ」
「ではリディア」
「結界なら足場も作れる」
「ブラットも」
俺が言う。
「私ですか」
「ああ」
「理由は」
「保護した者を運ぶ人間が必要だ」
「なるほど」
「フェリクスはここへ残す」
「置いていかれるのですか」
「ああ」
「私も術式を確認できます」
「危険な場所で興奮する者は連れていかない」
「研究者としては異議があります」
「人間としては?」
「……反論できません」
自覚はあるらしい。
「俺、セリー、ブラット、リディア」
「四人で崩落地点へ」
ガルムが地形を確認する。
「私たちは右斜面を回る。オスカー、ヨアヒム、フェリクスを連れて療養所入口側へ出る」
「フェリクスを見ておけ」
「なぜ私まで」
「ブラットがいなくなるからだ」
「なるほど」
「納得するな」
「ミラとヴァルターは監視継続」
決まった。
「近づくまで、絶対に手を出すな」
『了解』
◇◇◇
崩落地点へ向かう道は、途中から一人ずつしか通れなかった。
左は岩壁。
右は深い斜面。
下には細い川が流れている。
落ちれば。
助からないとは言わない。
だが、重傷は避けられない。
先頭はリディア。
その後ろを俺。
セリー。
最後にブラット。
「足元へ結界を置きます」
リディアが小声で言う。
半透明の薄い板が、崩れた土の上へ一枚ずつ現れる。
「長くは持ちません。一枚につき十分程度です」
「十分だ」
進む。
一歩。
また一歩。
風が強い。
崖下から冷気が上がる。
土が。
靴の下で僅かに崩れる。
「主様」
「分かっている」
セリーが後ろから俺の外套を掴む。
「手を」
「今は外套でいい」
「落ちた時に破れます」
「縁起でもないことを言うな」
「手をください」
「セリー」
「ください」
仕方なく。
後ろへ手を伸ばす。
セリーの指が重なる。
冷たくはない。
人と同じ温度。
「前を見てください」
「お前が言わせたんだろう」
「はい」
リディアが少しだけ振り返る。
「仲がよいのですね」
「今それを言うか」
「緊張を保つためです」
「逆だろう」
「私は少し落ち着きました」
真面目な顔だった。
「ならいい」
前方。
岩の切れ目。
その向こうへ。
人影が見えた。
黒い外套の男が二人。
担架のような板。
布に包まれた細い身体。
足だけが見える。
裸足。
細い。
小さい。
「子供か」
「決めつけないでください」
リディアが小さく言う。
「ああ」
自分で言ったことを。
今度は近衛から返された。
少しだけ。
悪くないと思った。
「止まって」
セリーが囁く。
「保護膜の範囲まで、あと百三十歩」
「まだか」
「はい」
見張りの一人が振り返る。
全員が身を低くする。
岩陰へ。
息を殺す。
「気づいたか」
ブラットが小声で尋ねる。
「まだ」
リディアが答える。
見張りは山の下を確認しただけだった。
「進みます」
少しずつ。
急げない。
布の中の者は。
動かない。
「エル」
声に出さず問いかける。
『はい』
「生きているか」
『距離が遠く、生命反応の詳細判定はできません』
「魔力は」
『微弱な反応を検知』
微弱。
だが。
ある。
「生きている可能性がある」
小さく伝える。
セリーの手に力が入る。
「助けます」
「ああ」
あと百歩。
セリーの瞳が淡く光る。
「範囲へ入りました」
「すぐに?」
「保護膜を使えば、相手に気づかれます」
「ガルムは」
『右斜面迂回班、療養所入口側へ到達まで残り七分』
七分。
待てば。
相手が進む。
今使えば。
見張りがこちらへ気づく。
「担架を運んでいる二人の武器は」
ブラットが確認する。
「短剣」
「見張りは弓」
リディアが答える。
「布の中の者へ刃を向ける距離ではない」
「なら」
「今だ」
俺が言う。
「セリー」
「はい」
彼女が片手を伸ばす。
空気が。
僅かに歪む。
担架の上。
布に包まれた身体の周囲へ、透明な膜が現れた。
「何だ!」
見張りが叫ぶ。
担架を運んでいた男たちが足を止める。
「押さえろ!」
「消えるぞ!」
男が布へ手を伸ばす。
だが。
触れる直前。
膜が閉じた。
人の形ごと。
空間から消える。
「成功しました」
セリーが息を吐く。
次の瞬間。
俺たちの足元へ光が開いた。
布に包まれた小さな身体が現れる。
「主様!」
セリーがすぐに支える。
岩道の上。
このままでは危険だ。
「リディア!」
「足場を広げます!」
結界板が重なり、小さな床を作る。
「ブラット、支えろ!」
「はい!」
布を開く。
中にいたのは。
少女だった。
十歳前後。
青白い顔。
痩せた頬。
唇にはほとんど色がない。
長い髪は乱雑に切られ、首筋には細い針痕のようなものがいくつも残っている。
胸が。
僅かに上下していた。
「生きている」
ブラットが言う。
「エル」
『生命反応を確認。呼吸低下。体温低下。魔力循環に強い乱れがあります』
「治療できる?」
『応急処置のみ推奨。原因不明の魔力干渉が残存しています』
「クララか」
言ってから。
違うと分かった。
グレゴルの妹は十九歳。
この少女は。
どう見ても、それよりずっと幼い。
「違う」
俺は自分で訂正する。
「移送記録の三人目?」
リディアが尋ねる。
「分からない」
分からない。
だから。
確認する。
少女の腕へ。
焼き印のような番号がある。
四桁。
その下へ。
薄い文字。
「被験体……」
ブラットが読み上げる。
声が震えた。
胸の奥へ。
熱いものが走る。
患者ではない。
名前でもない。
番号。
被験体。
「名前は」
俺は少女を見る。
「何かないか」
首元。
細い革紐。
小さな金属札が下がっている。
セリーが慎重に指で持ち上げた。
表には番号。
裏へ。
文字が刻まれている。
「エレナ」
セリーが読む。
「エレナ・ハイス」
ブラットが息を呑む。
「ハイス?」
「ああ」
「ローレンの……?」
「家族の姓と同じだ」
「ですが」
ブラットの顔が険しくなる。
「町長から聞いた記録では、ローレン・ハイスには妻と息子が一人」
「ああ」
「娘はいません」
「なら、別人?」
「分かりません」
同じ姓。
それだけで。
娘だと決めることはできない。
「エレナ」
俺は呼ぶ。
「聞こえるか」
少女の瞼が。
僅かに動いた。
「エレナ」
もう一度。
今度は。
番号ではなく。
刻まれていた名前を呼ぶ。
唇が。
ほんの少し動く。
「……な……まえ」
「何?」
耳を近づける。
「主様、近づきすぎないでください」
「少しだけ」
少女の息が。
震える。
「……それ……わたし……?」
胸の奥が。
強く締めつけられた。
自分の名前を。
尋ねている。
「そう書いてある」
俺は答える。
「お前の首にある札に、エレナ・ハイスと書いてある」
「……エレナ」
「ああ」
「わたし……?」
「まだ、それがお前の本当の名前かは分からない」
セリーが僅かに俺を見る。
だが。
嘘は言えない。
「でも」
少女の細い指が。
布の上で僅かに動く。
「少なくとも、番号だけじゃない」
「……ばん、ごう」
「ああ」
「よん……いち……なな……」
「言わなくていい」
俺は遮った。
「今は名前でいい」
少女の瞼から。
細い涙が一筋だけ流れた。
「……エレナ」
「ああ」
「エレナ」
「ああ」
自分で。
二度。
確かめるように。
その直後。
少女の意識がまた落ちる。
「エレナ!」
『生命反応は維持されています』
「よかった」
「ヨアヒムへ運びましょう」
リディアが言う。
その時。
岩の向こうで。
弓弦の音がした。
「伏せろ!」
リディアが結界を広げる。
矢が透明な壁へ弾かれる。
「撃ってきた!」
ブラットがエレナを抱える。
「退路へ!」
「狭すぎる!」
男たちがこちらへ近づいてくる。
「返せ!」
「その患者を返せ!」
「患者?」
俺の胸に。
さっきとは違う熱が湧く。
怒り。
「腕へ被験体と刻んでおいて?」
男たちの足が止まる。
「何者だ」
「塔の者だ」
変貌はしていない。
男の一人が俺の顔を見て。
目を見開いた。
「アルフォンス……」
知っている。
「なぜここに」
「お前は誰だ」
「答える必要はない」
「なら、あとで聞く」
「できると思うか」
男が短剣を抜く。
見張りが二本目の矢をつがえる。
「リディア」
「あと二分、結界を維持できます」
「ブラット」
「エレナを守ります」
「セリー」
「主様を守ります」
「違う」
俺は岩の向こうを見る。
「道を作れ」
「何を」
「相手を落とさず止める道だ」
セリーが一瞬考える。
そして。
小さく笑った。
「できます」
彼女が両手を広げる。
崩れた道の上へ。
淡い青の光が走る。
岩壁から。
無数の銀色の糸が伸びた。
「何だ!」
男たちの足へ絡む。
腕へ。
腰へ。
だが。
締め上げない。
崖から落ちない位置へ。
身体を岩壁へ固定していく。
「動けない!」
「切れ!」
短剣を振るう。
糸へ刃が当たる。
弾かれる。
「非殺傷捕縛糸です」
セリーが言う。
「強く動くほど、安全に固定されます」
「安全?」
「落下しないという意味です」
「ふざけるな!」
「落ちたいのですか?」
男が黙る。
「セリー」
「何ですか?」
「煽るな」
「質問しただけです」
「今はやめろ」
「はい」
その間に。
リディアが見張りへ結界輪を飛ばす。
弓を持った腕が透明な環で固定される。
「ガルム」
『見えている』
通信石から声。
『入口側へ到着した』
「残りは」
『療養所内へ二名が入った』
「逃がすな」
『任せろ』
山の上。
木々の向こうで。
短い笛の音が響く。
近衛の合図。
「ブラット」
「はい」
「エレナをヨアヒムへ」
「この道を戻るのですか」
「今、足場を作る」
セリーがもう一度手を動かす。
崩落した道の外側へ。
青白い橋が伸びた。
半透明。
人一人が通れる幅。
「一時的なものです」
「何分」
「十五分」
「十分だ」
ブラットがエレナを抱き上げる。
軽い。
あまりにも。
十歳前後の子供を抱えているというより。
大きな毛布を抱えているように見えるほど。
「アル様」
「何だ」
「この子を」
ブラットの声が震えていた。
「ああ」
「必ず」
「分かっている」
助ける。
名前を知った。
もう。
被験体四一七ではない。
少なくとも。
俺たちがそう呼ぶことはない。
「先に行け」
「はい」
ブラットとリディアが橋を渡って戻る。
向こうでは。
ヨアヒムが治療具を広げて待っている。
「患者一名!」
ブラットが叫ぶ。
「少女! 意識低下! 魔力循環異常!」
「こちらへ!」
ヨアヒムが走る。
その瞬間。
さっきの言葉が。
俺の中へ引っかかった。
患者一名。
「ブラット!」
橋の途中で彼が振り返る。
「何です!」
「名前も伝えろ!」
一瞬。
ブラットが止まった。
そして。
「エレナ!」
叫ぶ。
「名前はエレナ・ハイス!」
「了解!」
ヨアヒムも。
今度は。
同じ名前で答えた。
「エレナをこちらへ!」
それでいい。
患者一名ではなく。
エレナ。
今日。
助けた人数だけを数えない。
俺たちがここから連れ帰るのは。
一人。
二人。
三人という数字ではない。
名前を持った。
一人ずつの人間だ。
「主様」
「ああ」
「私たちは進みますか?」
「行く」
捕らえた男たちは、銀糸へ固定されたまま動けない。
「この二人は?」
『ミラとヴァルターを向かわせる』
ガルムから通信が入る。
『拘束を引き継がせる。お前たちは入口へ来い』
「分かった」
『それと』
「何だ」
『勝手に突入するな』
「分かっている」
『本当か』
「信用がないな」
『お前も我々を信用していないだろう』
「それでいい」
『なら、お互い様だ』
通信が切れる。
「ガルムも覚えましたね」
セリーが言う。
「ああ」
「少し嬉しいですか?」
「少しだけな」
崩落の向こう。
古い道が続いている。
木々の隙間から。
建物が見えた。
白かったはずの壁は灰色へ変わり。
黒い屋根の上へ。
何羽もの鴉が止まっている。
風が吹いても。
飛び立たない。
窓の多くは板で塞がれていた。
正面玄関らしき場所には、錆びた鉄柵。
その周囲へ。
新しい足跡。
閉鎖された施設には見えない。
「主様」
セリーが小さく言う。
「二階」
「ああ」
一つだけ。
板で塞がれていない窓。
そこへ。
人影が立っている。
細い身体。
長い髪。
女性。
こちらを見ている。
「クララ?」
セリーが呟く。
「分からない」
距離があり。
顔は見えない。
グレゴルから詳しい外見も聞いていない。
だから。
決めない。
けれど。
人影は。
こちらを見ている。
そして。
ゆっくりと片手を上げた。
助けを求めているようにも。
近づくなと止めているようにも見える。
「何か伝えようとしてる」
「はい」
俺も手を上げようとして。
止めた。
向こうにいる者が。
俺たちを味方だと認識している保証はない。
その時。
窓の奥から。
別の手が伸びた。
人影の肩を掴む。
「っ!」
そのまま。
暗い部屋の中へ引き戻した。
窓から姿が消える。
「主様」
「ああ」
「生きています」
「ああ」
誰かが。
あそこにいる。
名前は。
まだ分からない。
だから。
クララ一人を見つけるだけでは終われない。
もし。
あの建物の中で。
番号だけで呼ばれている者がいるなら。
全員。
確認する。
「行くぞ」
俺は白鴉療養所を見上げる。
入口側では。
ガルムたちがすでに配置へついている。
崩落地点では。
捕らえた男たちの声が響いている。
後方では。
ヨアヒムがエレナの治療を始めている。
『アル』
腕輪からガルムの声が入った。
『正面入口は閉鎖されている。だが、内側に人の気配がある』
「何人」
『最低六』
「患者か?」
『分からん』
「武装は」
『二人確認』
「残りは」
『分からん』
「分かった」
分からない。
まだ。
それでいい。
見ればいい。
聞けばいい。
一人ずつ。
確かめればいい。
「主様」
「何だ」
「先ほどの方」
二階の窓。
もう誰もいない。
「クララさんでしょうか」
「分からない」
「はい」
「だから、会いに行く」
「はい」
一人を助けた。
エレナ。
十歳ほどの少女。
腕には番号。
被験体という文字。
自分の名前すら。
自分のものか分からなくなっていた。
なら。
療養所の中には。
まだ。
同じような者がいるかもしれない。
「今度は」
俺は歩き出す。
「中にいる者の名前を確かめる」
患者としてでも。
被験体としてでも。
人数としてでもない。
一人ずつ。
生きている人間として。
名前を持った誰かとして。
塔へ戻った時。
何人助けたと数える前に。
誰を助けたのか。
俺たち全員が言えるようにするために。




