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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第22話 消された記録を、今度は一人だけで読まないことにしました

第22話 消された記録を、今度は一人だけで読まないことにしました


 翌朝、古の塔の食堂には、いつもより多くの紙が並んでいた。


 食事用の机へ書類を持ち込むことを、セリーは本来なら許さない。王太子だった頃から、食事の最中まで書類を読み続ける癖が抜けきらない俺へ、彼女は何度も「食べる時は食べてください」と言い続けてきたからだ。


 だが、今朝だけは例外だった。


 正確には、食卓の左半分が食事用で、右半分が記録確認用。そして中央には、セリーがわざわざ引いた一本の青い線がある。魔術的な意味は何もない、ただの線だ。それでもセリーの表情を見る限り、この食卓では塔の防衛結界より強い効力を持っているらしい。


「この線を越えて、書類を置かないでください」


「分かっている」


「パンくずも越えないようにお願いします」


「それは無理だろう」


「できます」


「どうやって」


「丁寧に食べます」


「俺が?」


「はい」


 当然のように返され、俺は手にしていたパンを見下ろした。


 昨日は昼食を三度後回しにしたらしい。


 らしい、というのは俺自身が回数を数えていなかったからだ。セリーはきっちり数えていた。エルに確認したところ、本当に三回だった。


 町の代表を決め。


 町長から話を聞き。


 仮の連絡拠点を作り。


 クララの行方に新しい疑問が出た。


 食事を忘れていた自覚はある。


 だから今日は、反論しにくい。


 向かいの席では、フェリクスが昨夜まとめた薬品記録を読みながら、片手でパンを口へ運ぼうとしていた。


「フェリクスさん」


「はい」


「書類を見ながら食べないでください」


「今、重要な箇所でして」


「書類を置いてください」


「あと三行だけです」


「置いてください」


 セリーの声が僅かに低くなった。


 フェリクスは一瞬だけ紙とセリーを見比べ、それから大人しく書類を机へ置いた。


「なぜ俺へ言う時より強いんだ」


「フェリクスさんは、スープへ書類を落としそうですので」


「落としません」


「昨日、インク壺へ袖を入れました」


「あれは事故です」


「一昨日は、迎撃庭園の椅子へ固定されました」


「それは食事とは関係ありません」


「あります」


「どういう関係だ?」


 俺が聞いてみる。


「放っておくと何か起こすという共通点があります」


「なるほど」


「納得しないでください、アルフォンス殿」


「アルだ」


「今は食事ですからアル様でよいですか?」


「何で俺に聞く」


「昨日から呼称規則が複雑で」


「好きにしろ」


「ではアル様」


「急に馴れ馴れしく感じるな」


「殿下へ戻しますか?」


「それはもっと嫌だ」


 フェリクスが真剣に悩み始める。


 研究者というのは、どうでもいいところまで考えるらしい。


「主様」


「何だ」


「笑っていないで食べてください」


「食べている」


「パンくずが線を越えました」


 見ると、本当に小さな欠片が一つ、青い線の向こう側へ落ちている。


「一つだけだ」


「一つから始まります」


「何が」


「混乱です」


「大げさだろう」


「王国の不正も、最初は一件だったのでは?」


 言葉に詰まった。


 セリーは真面目な顔をしている。


 しかし目元だけは、明らかに少し笑っていた。


「食卓のパンくずと一緒にするな」


「一つを見逃さないという意味では同じです」


「上手いことを言った顔をするな」


「していません」


 している。


 隣の席では、アンナマリーが口元へ手を添えて小さく笑っていた。


 昨日、町から塔へ戻ったあと。


 彼女はエマとの約束を果たすため、セリーと一緒に王都の砂糖菓子について調べ始めた。


 結果、塔の厨房では夜遅くまで青い砂糖菓子の試作が続いたらしい。


 俺は関わっていない。


 正確には、関わらないと宣言した。


 だが、今朝の皿の端には、どう見ても試作品らしい透明な青い欠片が一つ置かれている。朝日に照らされたそれは、小さな氷片のように淡く光っていた。


「これは?」


 指で示すと、アンナマリーの表情へ僅かな緊張が走る。


「試作品です」


「食べるのか」


「できれば、感想をいただきたいです」


「毒は?」


「ありません」


 セリーが即答した。


「エルさんにも確認していただきました」


『有害物質は検出されていません』


「味は?」


『分類上、甘味です』


「それだけか」


『追加評価を求められていません』


「こういう時に役に立たないな」


『客観性を維持しています』


 青い欠片を指先で摘み、朝日に透かしてみる。


 薄い水色で、透明感もある。形はまだ不揃いだが、見た目だけならエマが喜びそうだった。


「食べないのですか?」


 アンナマリーが尋ねる。


「今からだ」


 口へ入れる。


 甘い。


 そこまでは普通だった。


 だが次の瞬間、舌の上を冷たい風が駆け抜けた。喉まで凍るほどではないが、思わず眉を寄せる程度には冷たい。


「冷たいな」


「成功ですか?」


「少し冷たすぎる」


「どのくらいでしょう」


「冬の窓を舐めたような」


「主様は冬の窓を舐めたことがあるのですか?」


「例えだ」


「分かりにくいです」


 セリーが真剣な顔で考え込み、アンナマリーは慌てて記録帳を開いた。


「では、冷却魔術を少し弱めます。甘さは?」


「少し強い」


「色は?」


「悪くない」


「形は?」


「今はただの欠片だな」


「まだ型を作っていません」


「花の形にするんだろう?」


「はい」


「なら、その方がいい」


 アンナマリーは嬉しそうに頷いた。


「エマさんへ持っていけるでしょうか」


「まだ早い」


「はい」


「でも、悪くない」


 その一言だけで、彼女の表情が明るくなる。


「ありがとうございます」


「厨房を壊していないことも含めてな」


「壊していません」


「鍋が一つ凍りました」


 セリーがすぐに補足した。


「それは……少しだけです」


 アンナマリーが視線を逸らす。


「鍋は凍るものではない」


「ちゃんと溶けました」


「戻ればいいという話じゃないだろう」


 そう言いながら、不思議な気分になった。


 王都で婚約していた頃、アンナマリーと朝食を共にしたことは何度もある。


 けれど、こんな話はしなかった。


 失敗した菓子。


 凍った鍋。


 病気の少女との小さな約束。


 俺が何を食べてどう感じたか。彼女が何を作ろうとして失敗したか。


 婚約者だった頃よりも。


 今の方が、彼女のことを知っている気がする。


「アル様」


「何だ」


「何か?」


「いや」


「そうですか」


 アンナマリーはそれ以上踏み込まなかった。


 それでいい。


 今はまだ、言葉にできないものを急いで名前へ変える必要はない。


「フェリクス」


「はい」


「食べ終わったな」


「はい」


「昨夜の結果を聞かせてくれ」


 空気が切り替わった。


 フェリクスも分かっていたのだろう。皿を脇へ寄せ、先ほどセリーに置かされた紙を改めて広げる。アンナマリーも砂糖菓子の記録帳を閉じ、セリーは空になった皿を静かにまとめながら話へ耳を向けた。


「まず、クララ・キースへ処方されていた薬についてです」


 昨日。


 領都の施療館名簿では、クララは三か月前に転院したことになっていた。


 転院先は空欄。


 しかし薬品払い出し記録だけは、その一か月後まで続いている。


「薬の一部は、呼吸器系の慢性疾患へ使用されるものです」


「エマと同じか」


「一部は」


「一部?」


「クララさんへ処方されていたものには、症状を抑える一般薬だけではなく、魔力性肺障害へ使用される薬も含まれていました」


 フェリクスが一枚の紙をこちらへ向ける。


「魔力性?」


「はい」


「普通の病気ではない?」


「そこまでは断定できません」


「また分からないか」


「医学は、分からないことが多いのです」


 昨日まで俺が何度も使った言葉を返され、少しだけ腹立たしくなる。


「続けろ」


「魔力性肺障害は、強い魔力環境へ長期間晒された場合や、外部から魔力を無理に流された場合などに起こります。治療魔術の失敗、呪具、強制的な魔力循環。それから――精神干渉系術式の副作用などです」


 最後の一言で、食堂の空気が変わった。


 さっきまで砂糖菓子の冷たさについて話していた同じ机とは思えないほど、重い沈黙が落ちる。


「精神干渉?」


「可能性の一つです」


「俺と同じ?」


「同じとは言えません」


「なぜ」


「症状も、使われた可能性のある術式も異なります」


 フェリクスは普段より慎重に言葉を選んでいる。


「ただし、精神系術式は脳や神経だけへ作用するものではありません。長期間、あるいは高出力で使用された場合、魔力循環全体へ悪影響が残ることがあります」


「つまり」


 俺は机上の紙を見る。


「クララが、何かを受けていた可能性はある?」


「あります」


 グレゴルの妹。


 病気だから、人質にされた。


 そう考えていた。


 だが。


 病気そのものが、何かをされた結果なのだとしたら。


 人質にされたのではなく、人質として使いやすい状態へされた可能性すら出てくる。


 そこまで考えた瞬間。


 自分の思考が先へ走っていることへ気づいた。


 まだ。


 何も確定していない。


「エマは?」


 アンナマリーが尋ねる。


「エマさんの診断書にも、同系統の薬が一度だけ記載されています」


「一度だけ?」


「はい」


「実際に処方されたのですか?」


「記録上は」


「実際には?」


「イーダさんの治療記録では、受け取っていません」


 町では申請を却下。


 治療院には薬が届いていない。


 なのに、領都側では処方したことになっている。


「金だけ使われた?」


「その可能性があります」


 支援金を請求する。


 薬は渡さない。


 あるいは、別の場所へ流す。


 そのどちらか。


 もしくは、俺たちがまだ知らない別の理由。


「医師レイハンは?」


「クララさんとエマさん。双方の記録へ署名しています」


「ローレンとも関係がある」


「町長の証言では」


 同じ名前が、いくつもの糸へ繋がっていく。


「さらに」


 フェリクスが別の紙を出した。


「王宮魔導研究所の外部医療協力者名簿に、レイハンの名がありました」


「王宮に?」


「正式所属ではありません。外部協力医師です」


「何の研究へ協力していた」


 フェリクスの表情が曇った。


「精神系魔術の後遺症です」


 誰もすぐには声を出さなかった。


「いつから」


「五年前から三年前まで」


「今は?」


「協力者登録を解除されています」


「理由は」


「記録がありません」


「また消えているのか」


「解除された事実そのものは残っています。ただ、解除理由欄だけが空白です」


 意図的に消された。


 そう決めるには早い。


 けれど偶然で片づけるには、不自然な空白が増えすぎている。


「俺の検査へレイハンが関わった可能性は?」


「現時点では確認できません」


「だが、研究分野は同じ」


「はい」


 町の不正。


 医療支援。


 クララ。


 エマ。


 ローレン。


 俺への精神干渉。


 全部が同じ事件だと決めることはできない。


 無理に繋げれば、また見たいものだけを見ることになる。


 それでも。


 無視することもできない。


 視線を落とすと、いつの間にか右手を固く握っていた。


「主様」


 セリーが静かに呼んだ。


「ああ」


「呼吸が浅くなっています」


「大丈夫だ」


「今、大丈夫かどうかは聞いていません」


「では何だ」


「ゆっくり息をしてください」


 言われて、自分が身体まで前のめりになっていたことへ気づく。


 指を開く。


 背もたれへ身体を預ける。


 息を吸う。


 ゆっくり吐く。


「……これでいいか」


「はい」


「監視が細かいな」


「主様がご自分を監視しないので」


「言い方」


「事実です」


 反論できない。


「フェリクス」


「はい」


「俺の医療記録と、レイハンの名前を照合してくれ」


「すでに始めています」


「早いな」


「研究者ですので」


「今は便利な言葉として使っていい」


「ありがとうございます」


「褒めてはいない」


「分かっています」


「それと、この結果を町へ持っていく」


 アンナマリーが顔を上げた。


「全部ですか?」


「患者本人の病状は除く。クララとエマに関する細かな症状も出さない。医師名と支援記録の不一致、それからレイハンが王宮研究所の協力医師だった事実。その範囲だ」


「町代表へ見せるのですね」


「ああ」


 フェリクスが僅かに眉を動かした。


「医学的な内容を一般の方へ説明するのですか?」


「だから、お前も一緒に来い」


「私も町へ?」


「ああ」


「塔の外へ出てよいのですか」


「今度は椅子へ触るな」


「触りません」


「花壇も」


「努力します」


「努力では困る」


「触りません」


 セリーが静かにエルへ視線を向ける。


『町滞在中、フェリクスへの接触制限を設定可能です』


「必要ありません」


「設定しておけ」


『承知しました』


「待ってください」


「信用は行動で示せ」


「町に研究設備などないでしょう」


「薬箱がある」


「触りません」


「本当に?」


「……確認だけなら」


「設定を強くしろ」


『半径一メートル以内の医療器具へ接近した場合、警告を出します』


「厳しすぎませんか?」


「昨日までの自分を恨め」


 フェリクスが不満そうに口を閉じる。


 アンナマリーがまた小さく笑い、張り詰めた空気がほんの少し緩んだ。


          ◇◇◇


 食事を終えたあと、俺たちは第一迎撃庭園へ移った。


 朝の庭園には昨夜の冷気がまだ残り、薄い霧が花壇の縁へ溜まっている。石床を走る古い魔力線だけが淡く青く光り、その向こうには王国軍の野営地へ繋がる外周門が静かに閉じていた。


 ガルムはすでに待っていた。


 鎧姿。


 ただし剣は外へ預けている。


 その隣では、ブラットが腕を組んで立っていた。昨夜、近衛野営地との連絡役として何度も出入りしたらしく、目元へ疲労が残っている。


「寝たか」


 俺が尋ねる。


「二時間ほど」


「少ないな」


「殿下に言われたくありません」


「アルだ」


「今は正式報告ですので、アルフォンス殿」


「長い」


「我慢してください」


 ガルムが呆れた顔でこちらを見る。


「朝から何の話をしている」


「睡眠だ」


「もっと重要な話があるだろう」


「ああ」


「なら始めろ」


 石机へフェリクスが記録を並べた。


 クララの患者名簿。


 薬品払い出し記録。


 エマの診断書。


 レイハンの王宮研究協力記録。


「これは」


 ガルムの表情が険しくなる。


「外部協力医師?」


「はい」


 フェリクスが説明を始める。


「王宮魔導研究所へ、精神系魔術の後遺症について協力していました」


「私が近衛へ入る前か」


「登録開始は五年前です」


「解除理由なし」


「はい」


「王宮側の記録を調べられるか」


 ガルムがブラットへ向いた。


「私の権限では難しいです」


「近衛なら?」


「医療研究記録は管轄外だ」


「なら、王都へ照会を出す」


 ガルムは迷わず言った。


「待て」


「なぜ」


「誰へ送る」


「近衛本部だ」


「そこから研究所へ?」


「ああ」


「漏れる可能性がある」


 ガルムが口を閉じた。


「レイハンが王宮側の誰かと今も繋がっているなら、通常経路で照会した瞬間、こちらが何を調べているか伝わる」


「では、どうする」


「父上への正式報告とは別に、お前個人の名で送れる相手はいないのか」


「いる」


「誰だ」


 ガルムは少し考えた。


「近衛副長」


「信用できる?」


「ああ」


「理由は」


「私の剣術教官だった」


「それだけか」


「王宮で、私より命令へ逆らう」


 少し意外だった。


「それは信用する理由になるのか」


「民間人が危険な時に限る」


 ブラットが横から口を挟む。


「ガルム隊長と同じですね」


「黙れ」


「以前も言いましたが」


「本人へ言うなと言われただろう」


 ガルムが俺を見る。


「なぜ俺を見る」


「お前が言ったのか」


「言っていない」


「顔が笑っている」


「気のせいだ」


 ガルムは深く息を吐いた。


「副長へ送る。内容は最小限だ。医師名、研究分野、登録解除理由の照会。それ以上は書かない」


「返答は?」


「暗号便を使う。早ければ二日」


 二日。


 その間に証拠が消える可能性はある。


 だが、焦って大きく動けば、こちらが何を知っているか全部教えることにもなる。


「領都の先行班は?」


「夜の間も施療館周辺を監視した」


「動きは」


「代官府兵二名が交代した」


「レイハンは?」


「戻っていない」


「自宅は」


「施療館職員も知らないと言っている」


「医師なのに?」


「ああ」


「宿舎は?」


「使っていない」


 不自然だ。


「どこから通っていた?」


「馬車だ。北門側から来ていたらしい」


 領都の北。


 昨日、別の証拠を積んだ荷車が向かった方向でもある。


「旧製粉所の件は?」


 ガルムの表情が変わった。


「まだ報告していなかったな」


「何があった」


「昨夜、建物の一部から煙が上がった」


「燃やしたのか」


「その可能性が高い」


「止めた?」


「消火を優先した」


 俺が出した条件通りだった。


 証拠より人命。


 火が広がる前に止める。


「人は?」


「六名拘束」


「逃げた者は」


「八名以上」


「証拠は」


「箱二つを回収した」


「五つあったはずだ」


「三つは焼失した」


 胸の奥へ重いものが落ちる。


 間に合わなかった。


 残った二箱だけを見れば成果はある。


 だが。


 燃えた三箱へ何が入っていたのかは、もう分からない。


 誰の名前があったのか。


 どの金が動いたのか。


 誰が消したかったのか。


 その問いに答える紙そのものが、灰へ変わったかもしれない。


「金庫は?」


「開けられていた」


「中身は」


「銀貨と領収書の一部」


「帳簿は?」


「焼け残ったものが少し」


「別の荷車は?」


「見つけた」


 ガルムが地図を広げた。


 旧製粉所から北西。


 川沿い。


「途中で荷を馬へ移している」


「その先は?」


「森へ入った」


「見失った?」


「ああ」


 悔しそうではある。


 だが、誤魔化さない。


「追跡班二名が足跡を追ったが、川で消えた」


「転移魔術?」


「痕跡なし」


「舟か」


「可能性が高い」


「川の行き先は」


「リュネ方面ではない。北だ」


 町の北には山地がある。


 小さな集落も。


 さらにその先へ行けば、国境へ抜ける道もある。


「証拠を国外へ出すつもりか」


「分からない」


「人も?」


 クララ。


 レイハン。


 ローレンの家族。


 名前が頭の中で並び。


 それぞれの間へ線が伸び始める。


「主様」


 セリーが静かに呼んだ。


「ああ」


「今、全部を一つへ繋げようとしています」


「分かっている」


「まだ、分からないことが多いです」


「ああ」


「でも、答えを急いでいます」


 その通りだった。


 同じ名前が出る。


 同じ方向が出る。


 だから、早く全体像を作りたくなる。


 だが、それをやれば。


 また俺は、一枚の報告だけを信じた王太子へ戻る。


「そうだな」


 息を吐く。


「事実だけ分けよう」


 ガルムがこちらを見る。


「何だ」


「今分かっていることと、俺たちが推測していることを分ける」


「当然だろう」


「今まで俺ができてなかった」


「自覚があるならよい」


「腹立つな」


「事実だ」


 フェリクスが紙を一枚取る。


「では、確定している記録だけ挙げます」


 クララは施療館名簿上、三か月前に転院。


 転院先は空欄。


 その一か月後まで、クララ名義の薬品払い出しあり。


 署名はレイハン。


 レイハンは王宮魔導研究所の外部協力医師だった。


 旧製粉所から北へ向かった荷がある。


 それだけ。


「クララが北へ運ばれた証拠はない」


「ありません」


「レイハンが荷車へ乗っていた証拠も」


「ありません」


「ローレンの家族も?」


「領都へ移ったという町長証言のみです」


「分かった」


 線を引く。


 今はまだ。


 繋げない。


「ガルム」


「何だ」


「回収した証拠を、町へ見せる」


「駄目だ」


 即答だった。


「なぜ」


「王国軍が押収した捜査資料だ」


「町の金と支援記録が入っている可能性が高い」


「まだ中身を確認し終えていない」


「だから一緒に確認する」


「民間人へ捜査資料を見せるのか」


「被害を受けた本人たちだ」


「それでも、捜査情報には公開できないものがある。協力者の名前を出せば逃亡へ繋がる。患者情報もあるかもしれない」


「ああ。だから全部は見せない」


「誰が線を決める」


「俺」


 そこまで言って。


 止まった。


 昨日。


 俺は町へ、一人だけへ任せるなと言った。


 なのに。


 自分が決めるつもりになっている。


「……違う」


「何だ」


「町代表。近衛。イーダ。フェリクス。それから俺。複数で決める」


 ガルムが眉を寄せる。


「時間がかかるぞ」


「ああ」


「証拠隠滅は待ってくれない」


「ああ」


「それでもか」


「全部を合議へするわけじゃない。追跡や救助まで町代表を待たない。公開する範囲だけ複数で決める」


「緊急判断は?」


「俺とお前」


「そこは二人か」


「一人よりましだ」


「私がお前と意見を違えたら」


「止めろ」


 ガルムの眉が僅かに動いた。


「止めていいのか」


「ああ」


「王族へ?」


「元だ」


「便利だな、その言葉」


「何度でも使う」


 ガルムはしばらく俺を見たあと、ようやく頷いた。


「分かった。ただし原本管理は近衛が担当する」


「保管場所は塔」


「なぜ」


「燃やされない」


「野営地でも守れる」


「襲撃されたら?」


「塔は安全だと?」


「ああ」


 ガルムは少し黙った。


 昨日までなら、塔の安全性を認めることすら嫌がったかもしれない。


「そこは認める」


「では決まりだ」


「勝手に決めるな。封印記録は双方で残す」


「町代表も」


「……増えるな」


「一人にしないからな」


「面倒な仕組みを作ったものだ」


「便利な仕組みより長持ちするかもしれない」


「まだ始めたばかりだ」


「だから分からない」


 ガルムが鼻から息を吐く。


「その言葉だけは上手くなったな」


「褒めてる?」


「違う」


「そうか」


「ガルム」


「まだあるのか」


「お前も町へ来い」


「私が?」


「ああ」


「近衛隊長が入れば、町が警戒する」


「昨日よりはましだ」


「なぜ」


「二人が働いた」


 ルーカスとニール。


 町で命令せず。


 武器を抜かず。


 食料を買い。


 記録を残し。


 町の側から見られる役割を受けた。


「部下の行動で、私まで判断されるのか」


「隊長だろう」


「厳しいな」


「嫌なら来なくていい」


「行く」


「早いな」


「部下だけ町へ置いて、自分だけ森へ残るわけにはいかない」


 命令ではない。


 自分で選んだ答えだった。


          ◇◇◇


 リュネへ着いた頃には、役場前へすでに何人もの町人が集まっていた。


 昨日選ばれた仮代表五人。


 町長。


 イーダ。


 ルーカス。


 ニール。


 さらに、代表へ選ばれていない住民たちも少し離れたところで様子を見ている。


 昨日までは、何かが決まるなら役場の中。


 住民は、あとから知らされる側だった。


 今日は違う。


 中へ入らない者たちまで、何が始まるのかを自分の目で確かめようとしている。


「早いな」


 俺が言うと、ハンスが腕を組んだまま返した。


「アルが遅い」


「まだ朝だぞ」


「町はもう動いてる」


「肉屋は?」


「女房がいる」


「昨日も聞いた」


「毎日聞くな」


 その時。


 俺の後ろからガルムが出てくる。


 白銀鎧は着ていない。


 地味な外套。


 剣も預けてある。


 それでも、立ち方だけで兵だと分かる。


「誰だ」


 エドが警戒した声を出す。


「近衛の隊長だ」


 俺が答えると、空気が一気に硬くなった。


「ガルム・レイスだ」


 ガルムは自分から名乗る。


「森の外にいる近衛第三小隊を率いている」


「王様の命令で来たの?」


 マルタが尋ねた。


「ああ」


「塔を取り戻すため?」


 ガルムは一瞬だけ言葉を選ぶ。


「命令の優先順位には、塔の調査と遺産保全が含まれていた」


「元王太子より先に?」


 どこかから声が飛んだ。


 昨日、広場で話したことが町中へ広がっているらしい。


「ああ」


 ガルムは誤魔化さなかった。


 町人たちの表情が険しくなる。


「でも、今は?」


 イーダが聞く。


「町で起きた不正を調べている」


「王命が変わった?」


「変わっていない」


「なら、なぜ」


「見たからだ」


 ガルムの声は低かった。


「未成年医療支援の申請書。抜かれた補償金。焼かれた記録。証人を襲った領主府兵。命令書へ書かれていなくても、放置できないものを私は見た」


 それでも町人たちは、すぐには頷かない。


「信用しろって?」


 ハンスが聞いた。


「言わない」


 ガルムは俺と同じ答えを返した。


「行動を見て決めてくれ」


 ルーカスとニールが僅かに姿勢を正す。


「隊長」


 ルーカスが小声で呼んだ。


「何だ」


「昨日、私たちも同じことを言われました」


「知っている」


「報告しましたか」


「した」


「何と」


「お前たちが訓練で自分の足を縛ったことまで」


 町人の一部が吹き出す。


 ルーカスの顔が一気に赤くなった。


「隊長!」


「事実だ」


「訓練中です!」


「二人揃ってか」


「ニールは私を庇って」


「もういい」


 ニールが顔を伏せる。


「俺は最初から言わなくていいと思ってました」


「言ってないだろう」


「心では思ってました」


「伝わらん」


 今度はハンスまで笑った。


 張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。


 近衛隊長が。


 王都から来た怖い兵ではなく。


 昨日、自分の足を縛った二人の上司として見える。


 それだけでも。


 昨日より材料は増えた。


          ◇◇◇


 役場の会議室へ入ると、昨日よりも明らかに狭く感じた。


 町代表五人。


 町長。


 書記二人。


 イーダ。


 ガルム。


 ルーカスとニール。


 ブラット。


 フェリクス。


 俺。


 セリー。


 アンナマリー。


 人数だけでも多い。


 その上、中央の机へ置かれた二つの箱が、部屋全体へ重い圧力を生んでいた。


 旧製粉所から回収された証拠。


 表面は焦げている。


 一つは角が黒く炭化し、もう一つは蓋の半分が焼け落ちていた。近づけば、煤と湿った木の匂いがまだ残っている。


「これが……」


 ハンスが低く呟く。


「ああ」


 ガルムが答える。


「昨夜回収したものの一部だ」


「誰が持ち出した」


「拘束した者を取り調べている」


「名前は」


「まだ出せない」


「なぜ」


 エドが苛立った声を出す。


「共犯が逃げる可能性がある」


「また隠すのか」


「人を守るためだ」


 俺が言う。


「昨日決めただろう。何を見せるか、複数で線を決める」


「でも、名前が分からなきゃ」


「分かる部分から始める」


 急ぎたい。


 全員がそう思っている。


 だが、人名だけを先へ出せば、怒りが本人だけでなく家族へ向かう可能性もある。


 町は今、怒る理由を持ちすぎている。


 だからこそ。


 誰へ向けるべき怒りなのかを、急いで決めてはいけない。


「まず封印を確認します」


 ニールが箱へ近づく。


 回収時の封印番号。


 近衛側の記録。


 塔側の記録。


 一つずつ照合していく。


「一致しました」


 ベンノが町側の帳簿へ書き込む。


「町でも残すのか?」


 エドが尋ねる。


「はい」


「同じことを何回書くんだよ」


「どちらかが後から書き換えた時、分かります」


「近衛を疑ってる?」


「全員を疑います」


 ベンノは平然と答える。


「私自身も含めて」


「自分も?」


「はい」


「変なの」


「帳簿は、人を信用しすぎないためにあります」


 ガルムが僅かに頷いた。


「正しい」


「隊長も?」


「ああ」


「軍でも?」


「武器庫は三重確認だ」


「それでもなくなる?」


「たまにな」


「あるのかよ」


「だから確認する」


 ほんの少し。


 町と近衛の距離が縮まった。


「開けるぞ」


 ガルムが箱へ手を伸ばす。


「待ってください」


 マルタが止めた。


「何だ」


「誰が最初に見るのです?」


「全員だ」


「病気の子供の名前があった場合は?」


 部屋が静まった。


 昨日なら。


 俺かガルムが先に出した問いかもしれない。


 今日は、町の側から出た。


「隠す」


 俺が答える。


「どうやって」


「フェリクスが先に医療記録だけ分ける。ただし、一人ではやらせない」


「私が?」


 本人が驚く。


「そのために連れてきた」


「触ってよいのですか」


「紙だけだ」


「薬箱ではなく?」


「紙だけ」


「分かりました」


「エル」


『監視しています』


「信用がありませんね」


「行動で示せ」


「はい」


 フェリクスの隣にはガルムとニール。


 医療側としてイーダ。


 町代表からマルタとベンノ。


 誰か一人だけで分類しない。


 一人だけで読む前に。


 別の目を置く。


「開ける」


 今度こそ。


 箱の蓋がゆっくり持ち上がった。


 焦げた紙の匂い。


 煤。


 湿った布。


 中には焼け残った帳簿、封筒、小さな薬瓶、印章、銀貨袋が詰め込まれていた。


「薬瓶があります」


 フェリクスの目が一瞬で輝く。


「触るな」


「分かっています」


 そう言いながら、手が伸びかける。


「今、触ろうとしただろ」


「確認のためです」


「エル。設定を強く」


『接触防止を有効化します』


 薬瓶の周囲へ、薄い透明な壁が浮かぶ。


「厳しすぎませんか」


「自業自得だ」


「主様」


 セリーが小さく笑った。


「何だ」


「町の方々も、フェリクスさんの扱いを覚え始めています」


 見ると。


 ハンスが薬瓶とフェリクスの間へ椅子を置いていた。


「何をしている」


「近づかないように」


「私は子供ではありません」


「椅子に固定されたんだろ」


「誰から聞きました」


「町は噂が早い」


 部屋へ小さな笑いが起こった。


 笑ったのは。


 ほんの一瞬だけ。


 最初の帳簿を開いた途端、空気はまた重くなる。


「未成年医療支援」


 イーダの顔が険しくなった。


「申請番号だけ読め」


 俺が言う。


「患者名は出さない」


「番号三一七」


「町の台帳では?」


 書記が慌てて確認する。


「エマ・ローデ――」


 名前が途中まで出た。


 部屋が静まる。


 書記自身も、口にした直後に気づいたらしい。顔から血の気が引いていた。


「今後、名前は声へ出すな」


「申し訳ありません」


「責めていない。次から気をつければいい」


「はい」


「それと、次から一人で照合するな。番号だけ別の者へ渡して、名前を声へ出さず確認できる形を作る」


 ベンノがすぐに頷く。


「対応表を作ります」


「頼む」


 失敗した。


 なら。


 同じ失敗が起きにくい形へ変える。


 エマの申請。


 領都側の帳簿には。


 支給済み。


 薬品購入済み。


 治療完了。


「全部、嘘だ」


 イーダの声が震えた。


 杖を握る手へ力が入っている。


「薬なんか一度も届いてない。治療完了どころか、あの子は今も治療院の寝台にいる」


「金額は」


 ベンノが身を乗り出した。


「金貨二枚と銀貨六十」


「そんなに」


 マルタが息を呑む。


「一人で?」


「一年分の支援なら、それくらいになる」


 イーダが答えた。


「でも、エマには一枚分だって届いてない」


「どこへ行ったんだよ」


 エドの声へ怒りが混じる。


「次を見る」


 俺が止める。


「まだ分からない」


「でも!」


「だからこそ、全部を見る」


 エドは唇を噛み、椅子へ深く座り直した。


 帳簿を進める。


 同じ形式。


 町では却下。


 領都側では支給済み。


 次も。


 その次も。


 読むほどに。


 部屋の誰もが、最初より口数を失っていく。


「二十七件」


 やがて、フェリクスが言った。


「塔側で確認していた却下件数と一致します」


「全部?」


 マルタが尋ねる。


「はい」


「全部、領都では支給済みになっている」


 部屋が重く沈んだ。


「合計を」


 ベンノが計算を始める。


 途中で一度数え直し。


 町側の書記にも確認させ。


 近衛側でも別計算を行う。


 三つの結果が一致するまで。


 誰も先へ進まなかった。


「金貨四十二枚です」


 ベンノが言う。


 誰もすぐには言葉を出せなかった。


 一家族が一年暮らせる金額を、遥かに越える。


「子供の薬だけで……これだけ」


 マルタが呟く。


 三人の子供を育てている彼女には。


 数字ではなく。


 何人もの子供の顔に見えているのかもしれない。


「次の欄」


 フェリクスが示す。


「薬品仕入れ先」


「ハイゼン商会」


 ベンノの顔が変わった。


「私へ指定された商会です」


「医師署名」


「レイハン」


「承認者」


「オズワルド・レーム」


 医師。


 商会。


 財務責任者。


 別々に出ていた名前が、一つの帳簿の中で並んだ。


「町長」


 全員の視線が老人へ向く。


「知っていたか」


「知らん」


「本当に?」


「ああ」


 町長の声は低い。


「町長印は?」


「ない」


 帳簿へ押されているのは、領主府側の承認印だけだった。


「つまり」


 ニールが記録へ顔を近づける。


「町側では申請を却下したあと、領都側では支給したことにして処理した」


「二重記録?」


「現時点では、そう読めます」


 断定しない。


 だが、記録は一致している。


「グレゴルは?」


 ハンスが尋ねる。


「あいつは知っていたのか」


「証言では、一部だけだ」


「一部?」


「町で却下処理したことは認めている。だが、その後に領都側で支給済みに変えられたことは知らなかったと言っている」


「信じるのか」


「確認する」


 この帳簿を。


 グレゴル自身へ。


 町代表の前で。


「ここへ連れてくるのか?」


「まだだ」


「なぜ」


「危険だからだ」


「誰にとって」


「全員に」


 町人の怒り。


 領主府からの襲撃。


 そしてグレゴル本人。


 昨日までなら。


 守るためという理由だけで。


 俺が会わせないと決めたかもしれない。


 だが。


 今日は違う。


「通信なら繋げられる」


 塔から。


 姿を見せず。


 声だけ。


「逃げるじゃないか」


 ハンスが言う。


「塔の中だから逃げない」


「そうじゃない」


 声が強くなる。


「言葉から逃げるかもしれない」


 その通りだった。


「なら、先に決める」


「何を」


「怒るなとは言わない」


 ハンスが眉を上げる。


「いいのか」


「怒鳴るなとも言わない。許せないなら声が強くなることもある。ただ、一人ずつだ。同時に責めない。質問へ答える時間を置く」


「答えたくないと言ったら?」


「それも記録する」


「嘘をついたら?」


「証拠と照合する」


「許してくれと言ったら?」


「聞く義務はない」


 助けること。


 許すこと。


 証言すること。


 罪が消えること。


 全部別だ。


「グレゴルにも選ばせる」


「何を」


「答えるか。沈黙するか」


「沈黙したら?」


「その結果も隠さない」


 町代表たちはしばらく黙った。


 すぐに全員が同じ答えになるわけではない。


 それでいい。


「分かった」


 最初に言ったのはイーダだった。


「繋ぎな」


          ◇◇◇


 通信石が淡く光った。


 映像はない。


 音だけ。


 それでも、石の光が強くなるにつれて、会議室の空気まで狭くなっていくように感じる。


 やがて。


『聞こえています』


 グレゴルの声が響いた。


 部屋の空気が凍る。


「グレゴル」


 町長が呼んだ。


『町長』


「生きておったか」


『はい』


「なぜ儂へ何も言わなかった」


 長い沈黙。


『怖かったからです』


 昨日。


 町長自身が口にしたのと同じ言葉だった。


『クララを失うのが』


「町を失っても?」


『はい』


 部屋へ怒りが走る。


「ふざけるな!」


 ハンスが机を叩いた。


「俺たちの子供より妹か!」


『はい』


 グレゴルは否定しなかった。


 それが。


 さらに痛かった。


『あの時の私は、そう選びました』


「今もか」


『分かりません』


「逃げるな!」


『逃げていません』


「なら答えろ!」


『今、同じ状況になったら』


 グレゴルの声が震える。


『また、妹を選ぶかもしれません』


 部屋が静まった。


 綺麗な答えではない。


 今度は町を選ぶ。


 反省した。


 二度としない。


 そう言えば。


 少しは許されやすい。


 だが、言わなかった。


『だから、私が正しかったとは言いません。許してほしいとも言いません。ただ、妹のためだったという言葉だけで、私がしたことを軽くしたくありません』


 ハンスの拳が震えている。


「エマの申請を止めたな」


『はい』


「薬がなくて苦しんだ」


『はい』


「知っていたか」


『途中から』


「途中?」


『最初は、本当に予算調整だと思っていました』


「いつ分かった」


『二件目の申請が戻された時です』


「それでも続けた」


『はい』


「何で!」


『クララの治療を止めると言われたからです』


「だからって!」


『はい』


「俺たちの子供を!」


『はい』


 言い訳を重ねない。


 それが逆に、怒りの行き場をなくしていく。


 ハンスはもう一度机を叩きかけ。


 途中で拳を止めた。


「この帳簿を知っているか」


 俺が間へ入る。


『どの帳簿ですか』


「町で却下した医療申請が、領都では支給済みになっている」


 沈黙。


『知りません』


「本当に?」


『はい』


「仕入れ先はハイゼン商会」


 返事がない。


「医師署名はレイハン」


 通信の向こうで、息を呑む音がした。


「知っているな」


『クララの医師です』


 部屋の全員が顔を上げる。


「いつから」


『領都へ移ってからです』


「どんな医師だった」


『親切でした』


「最初は?」


『……はい』


「途中から?」


『面会を制限されるようになりました』


「誰に」


『レイハン医師に』


「理由は」


『クララが私を見ると不安定になると言われました』


「手紙は?」


『医師を通していました』


 クララの最後の手紙。


 兄が、自分のために悪いことをしていないか。


 あの手紙すら。


 医師の目を通っていた可能性がある。


「薬の内容は知っていた?」


『いいえ』


「魔力性肺障害の薬が含まれている」


 長い沈黙。


『何ですか、それは』


「普通の慢性病では使わない薬だ」


『では』


 グレゴルの声が崩れた。


『クララは、何をされたのですか』


「まだ分からない」


『調べてください』


「頼む立場かよ」


 エドが低く言った。


 グレゴルは黙る。


「お前のせいで、俺の弟は仕事を失った」


『名前を教えてください』


「エドだ」


『エド』


「弟はカイ」


『倉庫の日雇いをしていた』


「知ってるのか」


『はい』


「なら、どうして」


『領主府指定業者へ契約を変更する書類を処理しました』


「お前が?」


『はい』


「理由は?」


『町の雇用を減らし、領都への依存を強めるためです』


 部屋が静まり返った。


「何だと」


 町長が呟く。


『ベルナールの命令でした』


「町を弱らせるため?」


『はい』


「なぜ」


『支援削減へ反発する余力をなくすためです』


 仕事を奪う。


 収入を減らす。


 支援を止める。


 領主府へ逆らえなくする。


 金を抜くだけではない。


 町が自分で立てなくなるように。


 少しずつ足場を削った。


「お前は、それを知ってやったのか」


 エドの声が震える。


『はい』


「弟は町を出た」


『はい』


「今、どこにいるかも分からない」


『はい』


「謝るのか」


 長い沈黙。


『謝りたいです』


「俺は聞きたくない」


『分かりました』


 グレゴルはすぐに引いた。


『では、謝りません』


 エドの顔が歪む。


「簡単に引くなよ」


『聞きたくないと』


「そう言った!」


『はい』


「でも……!」


 言葉が続かない。


 謝ってほしい。


 でも聞きたくない。


 責めたい。


 でも答えもほしい。


 全部が同時にある。


「エド」


「何だよ」


「今、決めなくていい」


「でも」


「聞きたい時に聞け。聞きたくないなら、聞かなくていい」


「……分かった」


 彼は椅子へ座り直す。


 拳はまだ震えている。


「グレゴル」


『はい』


「レイハンとローレンの関係を知っているか」


『知っています』


 全員が顔を上げた。


「何を」


『ローレンさんは、医療支援記録の不一致へ気づきました』


「いつ」


『事故死する一週間前です』


「誰へ話した」


『私へ』


「それだけ?」


『町長へ行くと言っていました』


 町長が目を閉じる。


「来た」


 掠れた声だった。


「儂のところへ来た。何か話そうとして……途中で帰った」


『そのあと、レイハン医師が役場へ来ました』


「何のため」


『ローレンさんの記録閲覧履歴を確認するためです』


「なぜ医師が」


『オズワルドの許可証を持っていました』


「その翌日」


『ローレンさんは死にました』


 糸がさらに濃くなる。


「事故現場は」


『領都北門近くの川沿いです』


「旧製粉所の近くか」


『はい』


 昨日。


 証拠が燃やされた場所。


「ローレンの家族は」


『事故後、レイハン医師が手配した馬車で領都を出ました』


「どこへ」


『知りません』


「北か?」


『はい』


 同じ方向。


 クララ。


 レイハン。


 ローレンの家族。


 頭の中でまた線が伸びかける。


 だが。


 今は止める。


 聞いた事実だけを置く。


「グレゴル」


『はい』


「この話を、なぜ証言書へ書かなかった」


 沈黙が落ちた。


『自分の罪を先に書こうと思いました』


「それだけか」


『違います』


「何だ」


『ローレンさんの死に、私も関わっています』


 部屋の空気が止まった。


「何をした」


『事故の日』


 声が震える。


『彼が役場を出た時間を、レイハン医師へ伝えました』


 町長が息を呑んだ。


「お前……」


『殺されるとは思っていませんでした』


「本当に?」


『はい』


「でも、何かされるとは思っていた?」


『はい』


「何を」


『脅されるか、記録を奪われるか』


「それでも教えた」


『はい』


「なぜ」


『クララの薬を止めると言われたからです』


 また。


 妹。


 同じ理由。


 しかし今回は。


 一人が死んだ。


「グレゴル」


 町長の声が掠れる。


「ローレンは、お前を信じていた」


『はい』


「それを」


『はい』


「お前が」


『はい』


 町長はそれ以上、言葉を出せなかった。


 昨日、自分も見て見ぬふりをしたと認めた老人だからこそ。


 グレゴルだけへ全部を投げることもできない。


 それでも。


 ローレンは死んだ。


 その事実は消えない。


 イーダが目を伏せる。


 町代表も。


 近衛も。


 誰も簡単には口を開けなかった。


『私は』


 グレゴルの声が続く。


『このことを、最後に書こうとしていました』


「なぜ最後だ」


『書けば』


 呼吸が震えている。


『自分が、人を殺した側だと認めることになるからです』


 直接、剣を振るったわけではない。


 毒を盛ったわけでもない。


 だが。


 時間を教えた。


 何かされる可能性を知っていながら。


「今、認めるのか」


『はい』


「罪名は近衛が判断する」


『はい』


「町が許すかは、町が決める」


『はい』


「ローレンの家族にも向き合え」


『はい』


「逃げるな」


『逃げません』


 言葉だけでは、まだ分からない。


 だが。


 今は、この証言を残す。


「エル」


『記録しています』


「近衛も」


 ガルムが頷く。


「正式証言として保全する。発言時刻、参加者、通信経路も含める」


「町側も」


 ベンノが震える指で記録を続けた。


「残します」


 一人では読まない。


 一人では決めない。


 一人では隠さない。


「今日はここまでだ」


 俺が言った。


「まだ――」


 ハンスが言いかける。


「グレゴルが限界だ」


 通信の向こうから、明らかに乱れた呼吸音が聞こえている。


 声も。


 さっきより遠い。


「セリー」


「はい」


「客室へ」


『すでに治療補助機能を起動しています』


「休ませろ」


『承知しました』


「グレゴル」


『はい』


「次に話せる状態になった時、ローレンの件から続きを聞く」


『はい』


「逃げるな」


『はい』


 通信が切れた。


 石の光が消える。


 部屋には、誰もすぐに動けないほどの重さが残った。


          ◇◇◇


 最初に立ち上がったのは、エドだった。


「帰る」


 声が低い。


 机の上の帳簿を見ることもなく、出口へ身体を向けている。


「代表の仕事は」


 ハンスが声をかける。


「今日は無理だ」


「でも」


「いい」


 俺が止めた。


「帰っていい」


「逃げても?」


「休むことは逃げることじゃない」


「俺、何もできなかった」


「質問した」


「怒鳴っただけだ」


「知りたいことを、自分の言葉で聞いた」


「でも、弟は戻らない」


「ああ」


「グレゴルが謝っても」


「ああ」


「何も戻らない」


「ああ」


 エドの目へ涙が浮かぶ。


 それを隠そうともせず、彼は唇を噛んだ。


「何で、あいつの妹まで助けるんだよ」


 全員が俺を見る。


「助ける必要、あるのか」


「ある」


「何で」


「クララは、グレゴルの罪を選んでいない」


「でも、あいつは妹のために」


「ああ」


「なら、妹がいなければ――」


「グレゴルがしたことは変わらない」


「でも!」


「クララへ責任を移すな」


 思っていたより強い声が出た。


 エドの肩がびくりと揺れ、すぐに顔を歪める。責められたと思ったのかもしれない。だが、ここで曖昧にすれば、彼が抱えている怒りの行き先まで曖昧になる。


「……分かってる」


 声が掠れていた。


「分かってるけど、じゃあ俺は誰を憎めばいいんだよ」


 その問いに、すぐ答えられる者はいなかった。


 弟の仕事がなくなった。


 町を出た。


 今どこにいるのかも分からない。


 その原因の一部へグレゴルが関わっていたことも、今本人の口から聞いたばかりだ。頭で整理できるほど、軽い話ではない。


「助けたくないと思ってもいい」


 俺は少し声を落とした。


「本当に?」


「ああ。クララを心配できなくてもいいし、今すぐ助かってほしいと思えなくてもいい」


「それでも探すのか」


「探す」


「何で」


「クララ自身が何をしたのか、まだ何も分かっていないからだ」


 グレゴルの妹であることと、グレゴルの罪を背負うことは違う。


 それを一緒にしてしまえば。


 俺を王太子だったからという理由だけで利用しようとした者たちと、何も変わらなくなる。


「でも、邪魔はするな」


 そこだけは、はっきり言う。


「助けに行く者を止めるな。情報を隠すな。クララへ何かしてやりたいと思えなくてもいい。でも、自分が傷ついたからという理由で、別の誰かが傷つく方を選ばないでくれ」


 エドはしばらく俯いていた。


 拳はまだ震えている。


 やがて、指が少しずつ開いた。


「……分かった」


「ああ」


「今日は帰る」


「帰れ」


「明日も代表?」


「自分で決めろ」


 エドはすぐには答えなかった。


 扉へ一歩進んで。


 そこで止まる。


「……来る」


 振り返らないまま言った。


「まだ聞きたいことがある」


「分かった」


「弟のことも」


「ああ」


「グレゴルに、まだ聞く」


「聞け」


 それでようやく、エドは部屋を出ていった。


 扉が閉まったあとも。


 誰もすぐには話し始めなかった。


 ハンスは空いた椅子を見つめ。


 マルタは膝の上で指を組み。


 ベンノは帳簿へ視線を落としたまま、しばらく筆を動かさなかった。


「主様」


 セリーが隣へ来る。


「何だ」


「今の判断は、よかったと思います」


「正しいかは分からない」


「はい」


「明日、エドが来ない可能性だってある」


「それも、エドさんが決めます」


「ああ」


 役割を渡す。


 だが。


 役割へ縛りつけない。


 昨日。


 俺は町そのものへ、町を守る役割を渡した。


 けれど、その役割を持った瞬間から、疲れても苦しくても続けなければならないなら。


 それは別の形の命令になる。


「ガルム」


「何だ」


「クララの捜索を早めたい」


 ガルムはすぐに姿勢を変えた。


「具体的には」


「旧製粉所の北。川沿い。それからレイハンが施療館へ通っていた経路」


「近衛を増やす」


「何人出せる」


「六人」


「町の警護は?」


「ルーカスとニールを残す。野営地側は残りで維持する」


「相手の戦力が分からない」


「ああ。だから追跡優先だ。見つけても即座に踏み込ませない」


「それでいい」


「塔側からは?」


 ブラットが顔を上げる。


「俺も出るのですか」


「ああ」


「戦闘要員として?」


「違う」


「では」


「お前は王都と領都の文書形式を知っている。レイハンが別名を使っていても、印章、紙、書式、略号から何か分かるかもしれない」


「なるほど」


 ブラットは少し考え、頷いた。


「分かりました」


「フェリクスも」


 名前を呼んだ瞬間、研究者の目が明らかに輝いた。


「医療記録ですね」


「ああ」


「薬瓶も?」


「見るだけ」


「成分分析は」


「エルの監視下」


「少量なら」


「監視下」


「……承知しました」


 少し残念そうなのが腹立たしい。


「セリー」


「はい」


「お前は――」


「主様と一緒です」


「まだ何も言っていない」


「一緒です」


「危険かもしれない」


「はい」


「町へ残る選択もある」


「しません」


「自分で決めた?」


「はい」


 迷いはなかった。


「分かった」


「主様は?」


「行く」


「それなら決まりですね」


「勝手に決めるな」


「主様が今、行くと仰いました」


「そうだった」


 ガルムが額へ手を当てる。


「お前たちは、緊張感というものをどこへ置いてきたんだ」


「塔にある」


「持ってこい」


「必要ならエルに探させる」


『検索対象が曖昧です』


「本当に探すな」


 少しだけ。


 部屋へ笑いが戻った。


 それでも。


 長くは続かない。


 グレゴルの証言も。


 クララの行方も。


 レイハンも。


 全部まだ途中だ。


「主様」


 セリーが改めて呼んだ。


「何だ」


「今日は、ここまでにしましょう」


「まだ昼前だぞ」


「時間の問題ではありません」


 セリーは会議室を見回す。


 町長。


 ハンス。


 マルタ。


 ベンノ。


 イーダ。


 誰も朝と同じ顔をしていない。


 知ったことで。


 疲れている。


 怒るにも。


 考えるにも。


 体力がいる。


「一度、止める必要があります」


 俺は返事をせず、机の上を見る。


 帳簿。


 記録紙。


 焦げた箱。


 半分まで減った水差し。


 ベンノの筆先には、墨が乾きかけていた。


「……そうだな」


 認める。


「今日は一度止める」


 ハンスがすぐ顔を上げた。


「本当に?」


「ああ」


「クララは?」


「探す」


「レイハンは?」


「調べる」


「じゃあ俺たちは?」


「帰って飯を食え」


「それが役割か?」


「今日はな」


 ハンスが顔をしかめる。


「アルみたいなこと言うな」


「俺が言ってる」


「ああ、そうだった」


 今度はマルタが笑った。


「町側は今日の記録を整理する」


 俺が続ける。


「ベンノ」


「はい」


「一人で全部まとめるなよ」


「分かっています」


 彼はすでに町側の書記へ帳簿を一冊渡していた。


「町代表用、役場保管用、確認用に分けます」


「確認用は?」


「近衛へ一時的に預けます」


 ガルムが眉を動かした。


「我々が?」


「嫌ですか」


「嫌ではない。だが、町側から提案されるとは思わなかった」


「信用しているわけではありません」


「そこは強調するのだな」


「はい」


 ベンノは平然としている。


「だから、預けられます」


「どういう理屈だ」


「信用していない相手へも同じ記録を持たせれば、一方だけが都合よく直しにくくなります」


 ガルムが少し黙った。


「理屈は通っている」


「でしょう」


「嬉しそうだな」


「帳簿の話ですので」


 どうやらベンノにもフェリクスと似た部分があるらしい。


「近衛は?」


 俺がガルムへ向く。


「旧製粉所から回収した残りの資料を分類する。人名、患者情報、軍務関連を分ける」


「一人で?」


「……二人一組にする」


「覚えたな」


「お前に言われたくない」


「塔側はレイハンの記録を洗う」


 フェリクスが即座に頷く。


「王宮研究所側の外部協力記録、医療局側の紹介状、研究予算の記録も確認します」


「予算まで?」


「外部協力医師には、研究ごとに謝礼が支払われる場合があります」


「そこから所属先が分かる?」


「可能性があります」


「やれ」


「はい」


「ただし、クララの病状を勝手に推測して確定扱いするな」


「分かっています」


「本当に?」


「……努力します」


「エル」


『監視項目へ追加します』


「なぜですか」


「信用は行動で示せ」


「今日何回目ですか、それ」


「数えていない」


『四回目です』


「数えるな」


 また、小さな笑いが起きる。


 マルタがその様子を見ながら、ふと机の上へ目を落とした。


「昨日から、そればかりですね」


「何が」


「一人に任せないことです」


「ああ」


「町長一人に決めさせない。代表一人にも決めさせない。近衛一人にも。アルにも」


「最後だけ刺さるな」


「事実です」


「ガルムみたいなこと言うな」


「それは嫌です」


「なぜ私が巻き込まれる」


 ガルムが不満そうに口を挟む。


 マルタは少し笑ったあと、三冊の帳簿へ視線を戻した。


「面倒です」


「ああ」


「時間もかかります」


「ああ」


「同じ内容を何度も書くことになります」


「ああ」


「でも」


 彼女の声が少しだけ変わる。


「誰かが一冊を消しても、全部は消えませんね」


 部屋の視線が。


 机の上へ集まった。


 町の記録。


 近衛の記録。


 塔の複写。


 同じ出来事。


 少しずつ違う者の手で残されたもの。


「そうだ」


 俺はゆっくり頷いた。


「今までは、一つの報告を俺が信じた」


 リュネは平穏。


 緊急性なし。


 その一枚。


「町長も、グレゴルがやっているからと見なくなった」


 老人が目を伏せる。


「領都では、町で却下された申請が支給済みに変わっていた」


 同じ出来事でも。


 見る場所が変われば。


 記録は違う。


 なら。


 一つだけを正しいと決める方が危険だ。


「だから今度は、一人だけで読まない」


「軍としては面倒だ」


 ガルムが言う。


「町としても面倒だ」


 ハンスも続ける。


「研究者としても非常に効率が悪いです」


 フェリクスまで加わった。


「でも、お前は一人にすると薬瓶へ触る」


「それは別問題です」


「別ではありません」


 セリーが即座に返す。


「私だけ扱いが違いませんか」


「違います」


「なぜ断言するのです」


「フェリクスさんだからです」


「理由になっていません」


 今度はイーダまで笑った。


 ほんの少し。


 重い空気が緩む。


 けれど。


 何も消えてはいない。


 グレゴルがしたことも。


 ローレンが死んだことも。


 支援金が抜かれたことも。


 エマへ薬が届かなかった時間も。


 全部残っている。


 笑ったからといって。


 許したわけではない。


 ただ。


 重さを抱えたままでも。


 次のことを考えられるようにする。


 それも必要なのだと思う。


「今日はここで止める」


 俺が改めて言った。


「町代表は午後から普通の仕事へ戻れ」


「代表の仕事は?」


 ベンノが尋ねる。


「緊急連絡があれば呼ぶ。なければ今日は終わり」


「本当に?」


「ああ」


「町長は?」


 ハンスが聞く。


「残る」


「何でだよ」


「役場の人間だからだ」


「ずるいぞ」


「何がずるい」


「俺たちだけ帰すな」


「帰りたいのか残りたいのかどっちだ」


「……帰る」


「帰れ」


 ハンスが立ち上がる。


「肉屋も開けないと女房に怒られる」


「それが一番怖いんだろ」


「当たり前だ」


「近衛より?」


「近衛は肉切り包丁を持って追ってこない」


 ガルムが真顔で聞いた。


「奥方は追ってくるのか」


「怒らせればな」


「町の治安上、把握しておくべきか」


「するな!」


 また笑いが起きる。


 今度は。


 さっきより少しだけ長かった。


          ◇◇◇


 人が一人ずつ会議室を出ていく。


 ハンスは肉屋へ。


 マルタは畑へ。


 ベンノは店へ戻る前に、町側の帳簿をもう一度書記へ確認させていた。


 イーダはエマの様子を見るため治療院へ戻る。


 エドの椅子だけは、最後まで空いたままだった。


「主様」


 セリーが静かに呼ぶ。


「何だ」


「気にしていますか?」


「エド?」


「はい」


「ああ」


 気にならないと言えば嘘になる。


「戻ってくると言っていた」


「はい」


「でも、戻らなくてもいい」


「はい」


「役割を渡したのに、辞めてもいいと言うのは矛盾してる気もする」


「私は、そうは思いません」


「なぜ」


「選んだ役割から離れることも、選択です」


 セリーはそう言って、空いた椅子を見る。


「嫌なのに続けさせれば、それは役割ではなく命令になります」


「……そうだな」


 王太子。


 その役割を。


 俺自身はいつから選ばなくなったのだろう。


 生まれた時から決まっていた。


 父上に認められる。


 国を背負う。


 婚約する。


 王になる。


 全部。


 やるものだと思っていた。


 やりたいかどうかを考えることすらなかった。


「主様?」


「何でもない」


「本当に?」


「ああ」


 セリーは少しだけ俺の顔を見る。


 だが、無理に聞かなかった。


 その距離がありがたい。


「ガルム」


「何だ」


「町へ残す二人へ、無理に住民から信頼を得ようとするなと言っておいてくれ」


「何だそれは」


「信用されるために動き始めたら、また相手の顔色を見る」


 ガルムは少し考えた。


「自分の役割をやれ、と」


「ああ」


「結果として信用されるならよい」


「ああ」


「分かった」


「ブラット」


「はい」


「領都へ行く前に一度塔へ戻る」


「なぜです」


「記録を持ち出す準備と」


 俺はフェリクスを見る。


「こいつへ触らせていい道具の確認」


「私の扱いが完全に危険物ですね」


「違うのか」


「研究者です」


「危険な研究者」


「否定しきれません」


「認めるんだな」


「昨日の椅子については反省しています」


「花壇は?」


「美しかったです」


「反省していない」


「観察しただけです」


「触った」


「少しです」


「エル」


『外出時監視項目へ花壇を追加します』


「増やさないでください」


 アンナマリーが口元を押さえて笑った。


 その手には、朝から続けていた記録帳がある。


「アンナマリー」


「はい」


「お前は町へ残れるか」


 笑みが少し消える。


「残る、というのは?」


「午後。町代表と一緒に今日の記録を整理してほしい」


「私が?」


「ああ」


「アル様は?」


「一度塔へ戻って、その後必要なら領都方面へ出る」


 アンナマリーの指が記録帳の端を少し強く握る。


「危険では?」


「分からない」


「また、それですか」


「ああ」


「便利な言葉ですね」


「ガルムにも言われた」


「では、私も言います」


「増えたな」


 アンナマリーは少しだけ笑った。


 けれど。


 すぐには返事をしない。


 以前なら。


 俺が「残れ」と言えば。


 たぶん従った。


 理由を聞かず。


 自分がどうしたいかも言わず。


 今は違う。


「残る理由を聞いても?」


「ああ」


「私である必要は?」


「ある」


 彼女が僅かに目を見開く。


「今日の会議記録を最初から取っていた。町側、近衛側、俺たち側のどこにも完全には属していない」


「王都側では?」


「今は違うだろ」


 少なくとも。


 俺はそう思っている。


「それに、エマの砂糖菓子もある」


「それは町へ残る理由ですか?」


「治療院へ寄れる」


「……なるほど」


「嫌なら断っていい」


 アンナマリーは。


 すぐ答えなかった。


 一度窓の外を見る。


 役場前。


 町人たちが少しずつ日常へ戻っていく姿。


 そして。


「残ります」


 自分で答えた。


「分かった」


「ただし」


「何だ」


「アル様が戻ったら、今日の記録を一緒に確認してください」


「ああ」


「一人だけでは読みません」


 その言葉で。


 少しだけ笑った。


「覚えたな」


「今日、何度も聞きましたので」


「確かに」


 アンナマリーも笑う。


 昨日。


 彼女はエマへ。


 知らないまま決めることの方が怖いと言った。


 今日は。


 記録を一人だけで読まないと言う。


 少しずつ。


 変わっている。


 俺だけではなく。


 周囲も。


          ◇◇◇


 塔へ戻る前。


 俺は役場の一室へ残された三冊の帳簿をもう一度確認した。


 町側。


 近衛側。


 塔側。


 同じ内容。


 だが。


 書き手も。


 保管場所も。


 確認する者も違う。


「エル」


『はい』


「この三つの記録へ、改ざん検知を付けられるか」


『可能です』


「全部?」


『塔側記録板へは完全保護が可能です。紙媒体へは簡易識別印を付与できます』


「識別印?」


『本文を書き換えた場合、印の一部が変色します』


 ベンノが戻りかけた足を止める。


「それは便利ですね」


「使う?」


「待ってください」


 即答ではなかった。


「何だ」


「塔の魔導具でしか確認できない仕組みですか?」


『いいえ。変色は肉眼で確認可能です』


「なら使いたいです」


「理由は?」


「塔だけが真偽を判定できる仕組みにすると、今度は塔を信用しなければ何も確認できなくなります」


 俺は一瞬。


 言葉を失った。


「……正しいな」


「主様」


 セリーが少し笑う。


「何だ」


「町の方々も、主様を止めるようになりました」


「ああ」


 昨日。


 それを作ろうとした。


 一人だけへ任せない。


 なら。


 俺も。


 止められる側でなければおかしい。


「エル。肉眼で確認できる方法だけ使え」


『承知しました』


「塔側の記録だけ完全保護」


『はい』


「町と近衛は変色印」


『設定します』


 薄い光が紙面へ走った。


 派手ではない。


 紙の隅へ。


 小さな青い点が一つずつ現れる。


「これだけ?」


 ハンスならたぶん言っただろう。


 俺が代わりに言う。


『十分です』


「地味だな」


『機能性を優先しています』


「セリーの線みたいだ」


「主様」


「何だ」


「食卓の線も機能しています」


「パンくずを止められてない」


「主様が守らないからです」


「そこへ戻るのか」


 昼食。


 忘れていない。


 そう言おうとして。


 ふと気づいた。


「セリー」


「はい」


「昼は?」


「塔へ戻ってからです」


「時間は?」


 セリーが腕輪を見る。


「あと半刻ほどで昼です」


「今日は早いな」


「昨日が遅すぎました」


「そうか」


「はい」


「分かった」


 今日は。


 食べる。


 そのあと動く。


 何も全部を一度に終わらせる必要はない。


 俺はもう一度。


 三冊の記録を見る。


 一冊なら。


 消される。


 一人なら。


 見ないふりができる。


 一つの報告なら。


 信じて終われる。


 だから。


 増やす。


 目を。


 手を。


 問いを。


 そして。


 止める人間を。


「主様」


「何だ」


「帰りましょう」


「ああ」


 今度はすぐ答えた。


 役場の窓から、外の光が机へ差し込んでいる。


 その光の中で。


 三冊の記録へ付けられた小さな青い印が並んでいた。


 全部同じではない。


 全部が正しいとも限らない。


 だから。


 一人だけで読まない。


 誰かが見落とした時。


 別の誰かが気づけるように。


 誰かが隠そうとした時。


 別の誰かが止められるように。


 消された記録へ。


 今度は。


 一人だけの答えを返さないために。

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