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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第21話 元王太子、守られる町ではなく自分で選ぶ町にする

 市場を覆っていた騒ぎがひとまず収まったあとも、町の人々はなかなかその場を離れようとしなかった。


 倒れた屋台は起こされ、石畳へ散らばっていた野菜も少しずつ拾い集められている。それでも、いつもの市場へ戻ったわけではない。買い物籠を腕へ掛けたまま立ち尽くす者もいれば、店先から領主府兵を睨み続ける者もいて、昼前の陽射しに照らされた広場には、まだ冷めきらない怒りが澱のように残っていた。


 補償金を抜かれた者。支援申請を止められた者。薬を買えず、家族の身体が弱っていくのを見守るしかなかった者。領主府兵四人へ向けられている視線は、単純に「兵だから憎い」というものではない。それぞれが違う時間を耐え、それぞれ別のものを失った末に生まれた感情だった。


 役場警備の六人も、先ほどまで住民の進路を塞いでいた場所から離れている。武器は収めたままだが、その立ち位置は明らかに変わっていた。町長の指示も、領主府からの圧力も消えたわけではない。それでも今この瞬間、誰の前へ立つべきなのかを、一人ずつ考えた結果なのだろう。


「町長」


 俺が呼ぶと、老人は少し離れた場所からゆっくりこちらへ顔を向けた。


 市場へ来たばかりの時より、随分老け込んで見える。杖を握る手には力が入り、肩も僅かに落ちていたが、それでも逃げるように視線を逸らすことはなかった。


「話をするなら、役場へ来い」


「領主府兵はどうする?」


「ここへ置いていくわけにもいかん」


「なら、武器を預けさせる」


 俺がそう告げた瞬間、四人の領主府兵の表情が揃って硬くなった。中央に立つ男が、一歩も引く様子を見せず即座に口を開く。


「拒否する」


 礼拝堂へ現れた兵とは別人だが、黒い縁取りの入った外套と代官府警護章は同じだった。立ち方からして、この四人の中では最も上の立場らしい。


「なら、町から出てもらう」


「我々は代官府の命令で来ている!」


「正式な命令書は?」


「口頭でも命令は命令だ」


「その口頭命令が、町の出入りを封じることか?」


「治安維持だ」


 また、それだった。


 治安維持。便利な言葉だ。誰から誰を守るのか、何が危険なのか、なぜ薬師や行商人まで町の外へ出してはいけないのか。具体的な説明を求めるたび、その言葉だけが返ってくる。


「治安を乱したのは誰だよ」


 ハンスが低い声を出した。


 肉屋の主人は腕を組んでいるものの、普段の豪快さは消えている。領主府兵へ向けた目だけが鋭かった。


「市場の出口を塞いで、薬師まで止めて、挙げ句に俺たちへ家へ戻れって命令したのはお前らだろ」


「住民が指示へ従わなかったからだ」


「俺たちは囚人じゃない」


 その一言へ呼応するように、ハンスの後ろからいくつもの声が上がった。


「そうだ!」


「いつから町を出るのに許可が必要になったんだ!」


「薬を買いに来ただけの人まで止めただろ!」


 怒鳴り声が重なるたび、領主府兵たちの肩へ力が入る。それでも剣へ手を伸ばす者はいなかった。市場にいる人数を見れば、今ここで武器を抜くことが何を意味するのか、彼らにも分かっているのだろう。


 中央の男は住民へ答えず、僅かに町長へ視線を向けた。


「町長。代官府へ逆らうつもりですか」


「逆らう?」


 老人は杖へ両手を重ね、ほんの少し首を傾げる。


「儂は、正式な命令を見せろと言っておるだけだ」


「我々の言葉を疑うと?」


「疑わない理由がどこにある」


 静かな声だった。先ほどまで広場へ響いていた怒鳴り声より遥かに小さい。それでも、その一言で周囲のざわめきが自然と収まった。


「町の者を外へ出すなと言われた。行商人も薬師もだ。理由を聞けば、王国軍が接近しているからだという」


「ああ」


「なら聞こう」


 町長はルーカスとニールへ顔を向けた。


 二人は今も地味な外套姿のままだ。近衛であることを明かしたあとも剣は持たず、両手を町の人々から見える位置へ置いている。


「王国軍は、今この市場で剣を抜いたか」


「いいえ」


 ニールが答える。


「町の者へ命令したか」


「していません」


「行商人や薬師を止めたか」


「いいえ」


 町長はそこで領主府兵へ視線を戻した。


「では、領主府兵は?」


 誰も答えなかった。


 答える必要もなかった。


「もう答えは出ておるではないか」


 老人は杖の石突きを、一度だけ石畳へ落とした。


「武器を預けろ」


「できない」


「なら町から出ろ」


「代官府へ報告するぞ」


「好きにしろ」


 短かった。


 あまりにも短い返事だったせいで、むしろ周囲にいた町の人々の方が驚いていた。


「町長が……」


「今、好きにしろって言ったぞ」


「あの人が?」


 小声があちこちへ広がっていく。これまでの町長が、領主府へ強く逆らう人物ではなかったのだろう。それがよく分かる反応だった。


「町長」


 俺は老人を見る。


「本当にいいのか」


「何がだ」


「ここで追い返せば、代官府はお前を完全に敵と見る」


 町長は俺の顔をしばらく見たあと、乾いた笑いを漏らした。


「もう見られておるよ」


「いつから?」


「グレゴルが消えた時からだ」


 思わず眉が寄った。


「知っていたのか」


「何を」


「グレゴルが消される可能性を」


 老人の口が止まる。


 風が市場を通り抜け、屋台の天幕をばたつかせた。少し遠くでは、誰かが拾い忘れた葉野菜が石畳の上を転がっていく。先ほどまでなら誰かがすぐ拾っただろうが、今は皆、町長の次の言葉を待っていた。


「可能性だけはな」


 やがて、町長が答えた。


「だが、儂は動かなかった」


「なぜ」


「怖かったからだ」


 住民たちのざわめきが消えた。


 老人は、誰の顔も見ないまま言葉を続ける。


「代官府へ逆らえば、町ごと見捨てられると思った。支援を止められる。税を増やされる。兵を送られる。そうなれば、今よりもっと多くの者が困ると自分へ言い聞かせた」


 言葉を重ねるたび、杖を握る指が強くなる。


「だから、見て見ぬふりをした」


 市場の端で、誰かが小さく息を呑んだ。


「町長……」


「責めるなら責めろ」


 老人はそこで初めて住民たちへ向き直った。


「儂は、何も知らなかったわけではない。裏帳簿の中身も、誰がどれだけ抜いておったかも知らん。だが、何かがおかしいとは思っていた」


 補償金の支払いが遅くなった。薬の申請が次々と通らなくなった。役場の帳簿を見られる者が減った。グレゴルが日に日に痩せ、いつも周囲を気にするようになった。


「何度も、あいつが儂へ何か言おうとしておる顔を見た。それでも、儂は聞かなかった」


「どうしてだよ」


 住民の一人が吐き出すように尋ねた。


 町長はすぐには答えられなかった。目を閉じ、一度ゆっくり息を吐いてから、ようやく口を開く。


「聞けば、動かなければならなくなる。動けば、町が危険になる。そう自分へ言い聞かせた」


 老人の指先が震えていた。


「結果、何もせずとも町は危険になった」


 エマ。


 ミロ。


 マリア。


 トーマス。


 それ以外にも、俺がまだ名前すら知らない者たちがいる。


 大きな危険を避けるために、小さな痛みを見ないことにした。いや、小さいと思い込んだのだ。自分がすぐ困らないから。町全体が一度に崩れなかったから。


「町長」


 ハンスが低く尋ねる。


「俺たちを守るためだったって言いたいのか」


「言わん」


 町長は即座に首を横へ振った。


「守ったつもりになっていただけだ」


 その言葉が、妙に胸へ刺さった。


 国を守る。


 混乱を避ける。


 秩序を保つ。


 王太子だった頃の俺も、いくつもの大きな言葉の中へ逃げ込んでいた。


「アル」


 町長が俺を見る。


「元王太子なら、分かるか」


「ああ」


 分かりたくないくらい。


「俺も同じだった。この町は平穏だと書かれた報告を信じた。自分で見に来なかった」


「なら、儂らは似た者同士だな」


「嬉しくない」


「儂もだ」


 そんな状況だというのに、ハンスの近くから僅かな笑いが漏れた。張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。


「だが、今度は見る」


 町長は再び領主府兵へ向き直った。


「代官府へ逆らってでも?」


 兵の男が問う。


「ああ」


「後悔するぞ」


「もうしておる」


 迷いのない返事だった。


「武器を預けろ」


 三度目だった。


 長い沈黙のあと、一人の兵が腰の剣帯へ手をかける。


「おい」


 隊長らしい男が睨んだが、その兵は周囲を見渡したあと、ゆっくり剣帯を外した。剣が石畳へ置かれ、乾いた金属音が市場へ響く。


 二人目も続いた。三人目も。


 最後まで、中央の男だけが動かない。


「隊長」


 部下の一人が小さく言った。


「ここで抜けば、本当に全員が敵になります」


 男の視線が市場を一周する。


 町の住民。役場警備。近衛二人。セリー。アンナマリー。そして俺。


「預けるだけだ」


 俺は言った。


「今は拘束しない」


「信用できるか」


「しなくていい」


「何?」


「俺たちを信用しなくても、今ここで剣を抜くのと預けるのと、どちらが自分にとってましかは考えられる」


「選択を押しつけるな」


「押しつけていない」


「預けなければ町から出ろと言っただろう」


「武装したまま、他人の町へ居座る権利までお前にはない」


 選べる道が無限にあるわけではない。何をしても自由だという意味でもない。誰かの生活を壊さないために必要な線を引いた上で、その中から何を選ぶかを本人へ返す。


 男はしばらく俺を睨んでいたが、やがて歯を食いしばりながら剣帯を外した。


「……分かった」


 四本の剣、二本の短槍、一つの魔術杖。


 役場警備がそれらを受け取ろうとする。


「武器庫へは運ぶな」


 俺が止めると、町長がこちらを見た。


「なぜだ」


「役場の中に、領主府と通じる者がまだいる可能性がある」


「では、ここへ置いておけと?」


「近衛へ管理させる」


 俺はルーカスとニールを見る。


「できるか」


「はい」


 ルーカスが即答したあと、地面へ置かれた武器へ視線を落とす。


「ただし、我々の所有物ではありませんので、勝手な検分はしません。品目と数量、預かった時刻、返却相手だけを記録します」


「細かいな」


「軍装品ですので」


 ハンスが鼻を鳴らした。


「肉の代金より細かい」


「同じものとして比べないでください」


「肉の方が大事だ」


「それは違います」


 また誰かが笑った。


 憎しみだけで埋まっていた場所へ、ほんの少し別のものが入り込む。許したわけではない。忘れたわけでもない。ただ、怒りだけで全員が同じ方向を向かなくてもいい。


「役場へ行く」


 町長が言った。


「ここでは話せんことがある」


「町の人間は?」


 ハンスの声へ警戒が戻る。


「全員を入れるわけにはいかん」


「また中だけで決めるのか」


 空気が一瞬で変わった。


 町長が黙り、周囲の住民たちも同じ疑問を持ったように互いの顔を見る。


「今までと同じなら、役場へ入った途端、俺たちには何も分からなくなる」


「秘密にすべきこともある」


「それは分かる。でも、何を秘密にするかまで役場だけで決めるのか?」


 正しい。


 グレゴルの証言。患者の病状。まだ罪が確定していない者の名前。何でも全員の前で話せばいいわけではない。


 けれど、すべてを閉じれば、また同じことが起きる。


「代表を決めよう」


 俺が言うと、人々の目が集まった。


「何の代表だ?」


「町の人間の代表だ」


「町長がいるだろ」


「町長は行政側だ。町長は町長として会議へ出る。町の代表は別にする」


 老人は不快そうな顔をしなかった。むしろ考えるように目を細めている。


「役場の人間と、町の者を別に座らせるのか」


「ああ」


「誰を選ぶ」


「町の人間が決める」


 ざわめきが広がる。


「アルが選ばないのか?」


「選ばない」


「町長は?」


「儂も選ばん」


 老人自身が答えた。


「なぜ?」


「儂が選べば、選ばれた者が儂の顔色を見るようになる」


 自分がこれまで何をしてきたか、何をしなかったか。その意味を、町長自身も理解し始めているらしい。


「五人でどうだ」


 俺は続けた。


「少なくないか?」


「多すぎても話が進まない。今日は仮だ」


「仮?」


「三日くらいでいい。その後、続けるか、選び直すかは町で決めればいい」


「今から五人?」


「急すぎるだろ」


「商売もあるぞ」


 戸惑いの声が次々と上がる。当然だ。これまで役場へ任せていた者たちへ、いきなり自分たちで決めろと言っているのだから。


「ハンス!」


 誰かが声を上げる。


「肉屋がいい!」


「声が大きいからな!」


「それは理由か!」


 ハンスが怒鳴り返した。


「でも役場へ文句を言える!」


「さっき兵にも向かっていった!」


「それは危ねえって意味だろ!」


 別の場所からは、すぐ別の名前が上がる。


「イーダさん!」


「治療院のことが分かる!」


「誰も逆らえないし!」


「勝手に決めるんじゃないよ!」


 イーダが杖を石畳へ打ちつける。


「でも、必要ならやってくれるんでしょう?」


「必要ならね!」


「やるんだ」


 また笑いが起こった。


「商人から一人ほしい」


「農家もだ」


「日雇いも入れろ」


「女が少ないぞ」


「若い奴も必要じゃないか?」


 あちこちから声が飛ぶ。上手くまとまってはいない。同じことを二度言う者もいれば、自分の仕事の方が大切だと主張する者もいる。


 それでもいい。


 これまで「町長が決める」「役場が決める」で終わっていた者たちが、自分たちの生活へ誰の声が必要なのかを考え始めている。


「時間を決める」


 俺は少し声を張った。


「半刻後、役場前へ五人出してくれ」


「短いぞ!」


「今日は仮だ」


「あとで替えていいのか?」


「ああ」


「何度でも?」


「町が必要だと思えば」


 何人かの顔が変わる。


 一度決めたら絶対ではない。間違えば変えていい。失敗してもやり直せる。それを最初から伝えておくことは、たぶん大切だ。


「主様」


 セリーが隣から小さく呼んだ。


「何だ?」


「町の方々へ役割を渡しましたね。今度は、一人ではなく、町そのものへ」


 俺はまだ名前を呼び合いながら揉めている住民たちを見る。


「守るだけでは足りない」


「はい」


「守られる側が、自分たちの生活へ関わらなければ、俺がいなくなったら元へ戻る」


「主様は、この町へずっといるわけではありませんものね」


「ああ」


 俺は塔へ帰る。


 町の王にも、領主にもなるつもりはない。


 なら、俺がいなくても動ける形を残す必要がある。


          ◇◇◇


 役場へ入る前に、領主府兵四人は市場脇の詰所へ移された。


 拘束はしていない。武器だけは預けさせ、ルーカスが入口へ立つ。


「逃げないと思うか?」


 尋ねると、ルーカスは真面目な顔で首を横へ振った。


「思いません。逃走する可能性は十分あります」


「では、なぜ縛らない」


「まだ逃げようとしていませんので」


 少しだけ驚いた。


 昨日までの近衛なら、身分と危険性だけで先に拘束する方を選んだかもしれない。少なくとも今のルーカスは、「危険かもしれない」と「実際に何をしたか」を分けて考えようとしている。


「それでいい」


「ただ、一人で四人を見るのは少々不安です」


 ルーカスが詰所へ視線を向ける。


「拘束環がある」


「一度に一名しか拘束できません」


「自分を縛るなよ」


「もうしません」


 返事だけは妙に力強い。


「ニールも残すか」


「彼は役場内で必要では?」


 法的な確認、書類の見方、近衛側からの記録。確かに中へ一人は必要だ。


「ああ」


 少し考えたところで、背後から大きな声が飛んだ。


「俺がいるぞ!」


 ハンスだった。


「余計に不安だな」


「聞こえてるぞ!」


「詰所の外へいてくれ」


「中じゃなく?」


「中へ入ったら喧嘩する」


「しない!」


「本当に?」


「こいつらは肉を買った客だ」


 理由がおかしい。


「代金を払った客は殴らないのか」


「当然だ」


 詰所の中から領主府兵の一人が、何とも言えない顔をしてこちらを見た。


「では、ハンス。外だけ頼む」


「おう」


「近づきすぎるなよ」


「分かってる」


 絶対に分かっていない返事だった。


 それでも、ルーカス一人だけに任せるより、町の側にも目がある方がいい。


「問題があったら通信石で呼べ。市場側も同じだ」


「承知しました」


 役割は小さい。


 だが、小さいものを一つずつ渡す。


 何でも全部任せることだけが、信じることではない。


          ◇◇◇


 役場の会議室は、外から想像していたより狭かった。


 長い木製の机が中央に一つあり、その周囲へ古びた椅子が並んでいる。壁にはリュネ周辺の地図と数年前の税収一覧が貼られ、二つある窓の片方は立てつけが悪いらしい。風が吹くたび、木枠が小さくかたかたと鳴っていた。


 室内へ入ったのは、俺、セリー、アンナマリー、町長、ニール、役場の書記二人。


 そして、なぜかイーダまで当然のように椅子へ座っている。


「なぜイーダがいる」


「治療院の立場で来た」


「まだ代表は決まっていないだろ」


「儂は何も許可しておらんぞ」


 町長も眉を寄せる。


「なら、今許可しな」


 イーダは平然としていた。


 老人二人がしばらく睨み合い、先に町長が深く息を吐く。


「……許可する」


「早いな」


「昔から逆らっても無駄なのだ」


「よく分かってるじゃないか」


 どうやら付き合いは長いらしい。


「まず、町長」


 俺は老人の正面へ座った。


「領主府から最近どんな指示を受けたのか、全部話してくれ」


「全部か」


「ああ」


「拒否したら?」


「拒否したことを、そのまま町へ伝える」


 町長の片眉が僅かに上がる。


「脅しか?」


「違う」


「では何だ」


「選んだ結果を、俺が勝手に隠さないだけだ」


 老人はしばらく俺を見ていた。


「似ておる」


「何が?」


「儂が若い頃に、一度だけ会った王族と」


「誰だ」


「先代国王だ」


 祖父。


「祖父上と?」


「ああ。洪水の視察へ来た時にな」


 町長は遠いものを見るように、窓の外へ視線を向ける。


「先代陛下は、儂らへ選べと言った。川沿いの集落を捨てて高台へ移るか、今の場所へ残って堤防を作り直すか」


「王が決めなかったのか?」


「決められないと言った」


 土地、家、仕事、先祖の墓。移れば安全になる者もいれば、生活そのものを失う者もいる。


「どちらにも痛みがあったからだ」


「それで?」


「村は残る方を選んだ」


「堤防を作ったのか」


「ああ」


「成功した?」


 町長は苦く笑う。


「半分だな」


「半分?」


「翌年、また壊れた」


「それは成功と言わないだろ」


「だが、その失敗をもとに今の堤防が作られた」


 選んだからといって、必ず成功するわけではない。


 間違う。


 失敗する。


 それでも、自分たちが選んだ失敗として次へ残すことはできる。


「祖父上は何をした」


「費用を出した」


「全部?」


「半分」


「けちだな」


「村中が同じことを言った」


 ニールが咳払いで笑いを隠し、アンナマリーも僅かに口元を緩めた。


「話を戻そう」


「ああ」


 町長は両手を机へ置く。


「三日前だ」


 声色が変わった。


「代官府から使者が来た」


「誰だ」


「ロッケンという男だ。ベルナールの私設秘書をしておる」


 知らない名前だった。アンナマリーのペンがすぐに動き始める。


「何を言われた」


「町に不穏な旅人がいる、と。その旅人は王家の遺産を盗み出している可能性がある。目撃情報を集めろ。森へ入った場所を調べろ。町の外へ出る者の名を記録しろ」


「三日前から?」


「ああ」


 ミロやマリアと関わり始めた頃だ。


 俺の行動は、思っていた以上に早く領主府へ伝わっていた。


「今朝の封鎖命令は?」


「別だ」


「文書は?」


「ない。口頭だけだ」


「なぜ従った」


 町長は答えなかった。


「怖かったから、だけでは足りない」


「厳しいな」


「町を閉じ込めようとした」


「儂が直接命じたわけではない」


「でも止めなかった」


 老人の目が揺れる。


「封鎖を知ったのは?」


「広場の鐘が鳴る少し前だ」


「なら、なぜ広場へ来なかった」


「迷っていた」


「何を」


 町長はしばらく机を見つめたあと、低い声で答えた。


「代官府へ従うか、町を選ぶか」


「今は?」


「町を選んだ」


「なぜ」


 返ってきた答えは、俺が望んでいないものだった。


「お前が来たからだ」


 胸が重くなる。


「俺がいなければ?」


「従ったかもしれん」


「それでは駄目だ」


 町長の表情が固くなる。


「俺は、ずっとこの町へいるわけではない」


「塔へ戻るからか」


「ああ」


「王都へは?」


「戻らない」


「本当に?」


「ああ」


「王位へも?」


「ああ」


 老人は改めて俺の顔を見る。


「なぜそこまで」


「自分で決めた」


 今は、それでいい。


「だから町にも、自分で決めろと言うのか」


「そうだ」


「簡単に言う」


「簡単じゃない」


「間違えれば、町が潰れるかもしれん」


「ああ」


「それでも?」


「誰かへ全部任せて、何も知らないまま潰れるよりはいい」


 部屋が静かになる。窓枠だけが、風に揺れて小さく鳴っていた。


「俺は助ける。近衛にも手伝わせる。塔の魔導具も必要なら使う。証拠も探す」


 町長は黙って聞いている。


「でも、町の代わりに町のことまで全部決めるつもりはない」


 守ってやる。


 だから従え。


 それでは、やっていることが王宮と同じだ。


「聞いたかい、町長」


 イーダが言う。


「ああ」


「もう年寄りだからって逃げられないよ」


「お前も年寄りだ」


「私は逃げてない」


「昔から偉そうだな」


「今もだよ」


 セリーが小さく笑い、書記の一人も堪えきれず口元を押さえた。


「分かった」


 町長は深く息を吐いた。


「今度こそ、全部話す」


          ◇◇◇


 そこからの話は長かった。


 支援金の配分がおかしくなり始めたのは三年前。最初は「一時的な予算調整」という説明で、領主府から一部の支払いを遅らせるよう指示が来ただけだった。


 それが遅延から減額へ変わり、やがて停止になった。最初は一件。次は三件。少しずつ増えていき、気づけば断ることそのものが日常になっていた。


「グレゴルが処理していたのか」


「ああ」


「町長は?」


「印を押した」


「内容を見て?」


「最初はな」


「途中から?」


 老人は一度口を閉じた。


「見なくなった」


 また、同じだった。


 見れば止めなければならなくなる。


 なら見ない。


「ベルナールと直接会ったことは?」


「二度」


「何を言われた」


「町の税収が足りない。支援を維持すれば、道路も井戸も直せなくなる、と」


「信じた?」


「最初は」


「いつ疑った」


「税収記録が合わないと気づいた時だ」


「いつ?」


「一年半前」


「それから何をした」


 町長は答えない。


「何もしなかった?」


「ああ」


「証拠を探したか」


「……探さなかった」


「怖かった」


「ああ」


 アンナマリーは黙ったまま記録を取り続けている。俺は途中でその紙へ目を落とした。


 文章だけではない。


 町長が沈黙した場所へ小さな印があり、言い直した部分や声が弱くなった箇所まで残している。


「アンナマリー」


「はい」


「何を書いている?」


「言葉だけではなく、迷われたところも」


「なぜ」


「後で整えてしまうと、全部を最初から分かっていたような記録になってしまうと思いました」


 父上へ送る文書へ残した、滲んだインクを思い出す。


 整いすぎれば、その時に本当は何を感じていたのかが消える。


「そのままでいい」


「はい」


「ニール」


「はい」


「法的には?」


 近衛兵は少し考えてから、慎重に言葉を選んだ。


「現時点で確認できる範囲だけでも、監督義務違反、職務怠慢、不当な移動制限に対する黙認が問題になります。ただし、領主府からの脅迫や強制がどの程度あったかで、責任の重さは変わります」


 町長の顔が僅かに歪む。


「脅迫?」


「町や家族へ具体的な不利益を与えると明示されましたか」


「町税を増やすとは言われた」


「文書で?」


「口頭だ」


「証人は?」


「グレゴル」


「他には?」


 少し間があった。


「ローレン」


 聞いたことのある名前だ。


「ローレン・ハイス?」


「知っているのか」


「名前だけだ」


 元支援部門責任者。


 すでに死亡している。


「事故死したと聞いた」


「ああ」


「町長」


 嫌な予感がした。


「事故ではないと思っているのか」


 老人の顔から、僅かに血の気が引いた。


「なぜそう思う」


「死ぬ前日に、儂へ会いに来た」


 部屋の空気が変わる。


「何を話した」


「帳簿が二つある、と」


「表と裏?」


「ああ」


「裏帳簿の場所は?」


「言いかけた」


「言いかけた?」


「その時、役場へ人が来た」


「誰だ」


「オズワルドの部下だ」


 財務管理官。


 グレゴルの証言にも出ている名前。


「それで?」


「ローレンは何も言わず帰った」


「翌日、死亡」


「ああ」


 偶然だと片づけるには出来すぎている。


「どうして今まで黙っていた」


「次は儂だと思った」


 町長は自分の両手へ視線を落とした。


「儂が死ねば町が混乱する。だから黙るしかない。そう言い訳した」


 自嘲するように口元が歪む。


「本当は、ただ死にたくなかった」


「死にたくないこと自体は悪くない」


 俺が言う。


「だが、黙った結果は残る」


「ああ」


「ローレンの家族は?」


「妻と息子がいた」


「今は?」


「領都へ移ったと聞いておる」


「場所は」


「分からん」


 新しい糸が増えた。


 ローレン。


 裏帳簿。


 家族。


「エル」


『記録済みです』


「フェリクスへ共有してくれ」


『承知しました』


「なぜ研究者へ?」


 町長が聞く。


「王宮で消えた報告と、俺への精神干渉を調べている」


「町の不正と繋がっているのか」


「分からない」


 老人が少しだけ笑った。


「また、それか」


「ああ」


「元王太子とは思えんな」


「元だ」


「それも何度目だ」


「何度でも言う」


          ◇◇◇


 約束した半刻後。


 役場前には再び大勢の町人が集まっていた。仮の代表として選ばれた五人も、その前へ並んでいる。


 肉屋のハンス。


 治療院のイーダ。


 三人の子供を育て、農地と水路事情にも詳しい農家の女性マルタ。


 日雇いの若者エド。


 そして、商業組合へ属していない小間物屋の主人ベンノ。


 全員が納得してそこへ立っているわけではないらしい。


「何で俺なんだよ……」


 特にエドは、さっきから何度も同じことを呟いている。


「若い奴も必要だって言われたんだ」


「俺、字が苦手だぞ」


「読む役は別にいる」


「じゃあ何するんだよ」


「話せばいい」


「人前で?」


 顔がさらに青くなった。


 一方のマルタは落ち着いている。


「期限を確認したいのですが」


「仮代表は三日」


「三日後には選び直す?」


「必要なら」


「続けても?」


「ああ」


「辞めても?」


「ああ」


 マルタは一度だけ頷いた。


「なら、やります」


「ハンスは?」


「俺はもう逃げられない雰囲気だろ」


「断ってもいい」


「断ったら、誰が肉屋の意見を言う」


「別の肉屋」


「この町に肉屋は俺しかいない!」


「ならお前だな」


「それ選ばせてないだろ!」


「自分で決めただろ」


 ハンスが言葉に詰まる。


「いつだよ」


「今」


 周囲から笑いが起こった。


「ベンノ」


「はい」


 細い眼鏡の男が姿勢を正す。


「商業組合へ入っていない理由は?」


「会費が高いからです」


「それだけ?」


「指定商品を仕入れるよう求められました」


「誰に」


「組合役員です」


「何を」


「領都のハイゼン商会の商品だけを」


 また、知らない名前が出る。


「断った?」


「はい」


「その後は」


「荷が遅れるようになりました」


「脅迫か?」


「証明はできません」


「記録は?」


「仕入れ帳があります」


「見せてもらえるか」


「もちろんです」


 代表を作っただけで、役場が拾っていなかった情報が表へ出てくる。


 町には、まだ俺たちが知らない声がいくつも残っている。


「今から、役場で確認したことを話す」


 俺は集まった人々へ向いた。


 全部は出さない。


 患者の情報。グレゴルの細かな証言。まだ裏付けのない名前。


 だが、町長本人が認めた範囲は隠さない。


 支援制度がおかしいと気づいていたこと。ローレンから裏帳簿の存在を示唆されたこと。領主府から今朝の封鎖命令が口頭で届いたこと。そして、それを知りながら町長が止めなかったこと。


「町長も関わってたのか!」


 怒声が飛ぶ。


「関わった」


 町長自身が役場入口へ立ち、答えた。


「儂は、止めなかった」


「知ってたのか!」


「一部は」


「何で黙ってた!」


「怖かった」


 それで怒りが収まるはずもない。


「ふざけるな!」


「俺たちだって怖かった!」


「エマはどうなる!」


「ミロは!」


「分かっておる」


「分かってない!」


 一人の男が前へ出かけた。


 ハンスが反射的に腕を広げる。


「殴るな!」


「でも!」


「殴ったら、もう話せなくなるだろ!」


 ハンス自身も怒っている。


 拳も握っている。


 それでも、前へ出た男を止めた。


「町長」


 マルタが静かに尋ねる。


「謝るのですか」


「ああ」


「今?」


 老人は口を開きかけて、そのまま止まった。


 そして俺を見る。


「俺を見るな」


「では、どうすれば」


「自分で決めろ」


 町長はしばらく黙り、住民たちの顔を一人ずつ見回した。


「今、謝っても」


 声が震える。


「許されたいだけになる気がする」


 誰も否定しない。


「なら謝らないのか!」


「違う」


 老人は首を横へ振る。


「今は、先に責任を話す。何を知っていたか。何を見なかったか。何を止めなかったか。何を怖がったか。謝罪は、そのあとだ」


 人々の反応は一つではなかった。


 今すぐ頭を下げろという者。


 頭だけ下げられても意味がないと言う者。


 町長の顔など見たくないと言う者。


「同じ答えでなくていい」


 俺は声を出した。


「町長を許すかどうかも、一人ずつ違っていい。話を聞きたくない者は聞かなくていい」


「代表は?」


 エドが不安そうに尋ねる。


「代表は、聞きたいことがあれば聞く」


「俺が?」


「お前も代表だ」


「聞きたいことなんか……」


 途中で声が止まった。


 しばらく沈黙したあと、エドの表情が変わる。


「ある」


「何だ」


「日雇いの仕事が減ったのも、関係あるのか」


 先ほどまでの怯えた声ではなかった。


「去年から、倉庫の仕事が領都の業者ばかりになった。町の人間はほとんど雇われなくなった」


 町長が答える。


「関係がある可能性は高い」


「知ってた?」


「契約の変更は知っていた」


「何で止めなかった」


「代官府からの指示だった」


「またそれかよ」


 エドの拳が震える。


「俺の弟、仕事がなくなって町を出たんだぞ」


「知っておる」


「……知ってたのかよ」


「ああ」


 それ以上、エドは怒鳴れなかった。


 知っていた。


 その事実だけが重かった。


「代表」


 俺が呼ぶと、五人がこちらを見る。


「今日から、町へ届く代官府の文書を確認してもらう」


「私たちが?」


 ベンノが眼鏡を押し上げる。


「ああ」


「機密も?」


「町の生活へ関わる部分だけだ」


「誰が分けるのです?」


「町長と書記」


 マルタがすぐに口を挟む。


「信用できるのですか」


「できないなら、ニールにも見せる」


 一斉に近衛へ視線が向いた。


「近衛は信用できるの?」


 今度は別の住民が尋ねる。


「今は全部は無理だ」


 俺は隠さず答えた。


「だから、複数で見る」


 役場。


 町代表。


 近衛。


 必要なら塔。


 一つの場所へ全部を任せない。


「面倒ですね」


 ベンノが言った。


「ああ」


「時間もかかります」


「ああ」


「一人へ任せた方が早い」


「ああ」


「でも」


 ベンノは少し考えてから、静かに続けた。


「隠しにくくはなりますね」


「それが目的だ」


「なら、やりましょう」


 ベンノは頷いた。


「商売でも、帳簿は二人以上で確認した方がよいです」


「横領されるから?」


「はい」


「経験が?」


「少し」


「誰に?」


「妻に」


 周囲から笑いが起こった。


「ベンノの奥さん強いからな!」


「ベンノが弱いんだ!」


「違います!」


 怒りの中へ、また少しだけ別の声が混ざる。


 今日は何も解決していない。


 だからこそ。


 怒りだけで一日を終わらせない方がいい。


          ◇◇◇


 仮の町会議が一段落した頃には、陽はすでに西へ傾き始めていた。


 長い一日だった。


 朝には、近衛の買い出し役二人を町へ紹介し、治療院へ寄って塔へ戻る程度のつもりだった。それが今は、アルフォンス・ガイゼンとして正体を明かし、町長が自分の黙認を認め、町の代表が選ばれ、領主府から届く文書を複数で確認する仕組みまで作ろうとしている。


「主様」


 セリーが隣へ来る。


「疲れましたか?」


「ああ」


 以前なら否定していただろう。


 今は、疲れているなら疲れていると言えばいい。


「お弁当を食べていません」


「忘れていた」


「私は忘れていません」


「今から食べるのか?」


「はい」


「夕食が近いぞ」


「では、お弁当を夕食にします」


「もう冷めてるだろ」


『保温魔術は維持されています』


 エルが即座に逃げ道を塞いだ。


「お前たち、連携するようになったな」


「主様がお食事から逃げるからです」


「逃げてはいない」


「三回後回しにしました」


「数えていたのか」


「当然です」


「アル様」


 アンナマリーが何枚もの記録紙を抱え、こちらへ歩いてきた。


「今日の記録をまとめました」


「全部?」


「広場での会話、町長の証言、代表選出、住民の反応です」


「長いな」


「まだ整理前です」


「今日はもう休め」


「ですが」


「明日でいい」


 以前の俺なら、終わるまでやらせた。


 自分も終わるまで続けた。


「お前も食事を取っていないだろ」


「セリーさんからパンをいただきました」


「いつ?」


「役場で」


 セリーが答える。


「俺には?」


「主様は会議中でしたので」


「俺だけないのか」


「主様には、お弁当があります」


「大きい?」


「二段です」


「嫌な予感しかしない」


「安心してください」


「何を」


「三段ではありません」


 何も安心できない。


「アンナマリー」


 彼女が記録紙を胸へ抱え直す。


「今日、どうだった」


 少し考える時間があった。


「怖かったです」


「ああ」


「町の方々が怒鳴るのも、エマさんと話すのも」


「ああ」


「でも、来てよかったと思います」


「なぜ?」


「自分が知らなかったことを、知ることができたからです」


「知るのは苦しいぞ」


「はい」


「後悔することもある」


「はい」


「それでも?」


 アンナマリーは一度、町の広場の方へ視線を向けた。


「知らないまま決めることの方が、今は怖いです」


 以前の彼女は、決められたことを受け入れた。俺の顔色を見て、自分が選ばない方を選んだ。


 今は、自分から知ろうとしている。


「そうか」


「はい」


「記録は明日見せてくれ。今日は休め」


「アル様も」


「ああ」


「本当に?」


「セリーがいる」


 アンナマリーが少し笑う。


「それなら安心ですね」


「お前たち、いつの間にそんなに仲良くなった?」


「仲良くは……」


 アンナマリーが言葉を止め、セリーを見る。セリーも彼女を見る。


「まだ、分かりません」


 アンナマリーが答えた。


「でも?」


「エマさんへ約束したお菓子作りを、セリーさんへ教えていただけないかと思っています」


「私がですか?」


 珍しくセリーが驚いた。


「はい」


「王都の砂糖菓子は作ったことがありません」


「一緒に調べていただけませんか?」


 セリーは少し考えたあと、俺を見る。


「主様が試食してくださるのでしたら」


「俺を巻き込むな」


「必要です」


「なぜ」


「毒味です」


「そんなに危険なのか」


「アンナマリーさんは、ほとんど料理をしたことがありません」


「否定できません」


「やめておけ」


「約束しました」


「作り方を調べるだけだろ」


「上手く作れたら持っていくとも言いました」


「その前に塔の厨房が壊れないか?」


「失礼です」


 アンナマリーが笑う。


 セリーも笑った。


 以前の婚約者と、今俺の暮らしを支えている者。その二人が同じ話題で笑っているのを見て、胸の奥へ言葉にしにくいものが浮かんだ。


 痛み。


 安心。


 戸惑い。


 懐かしさ。


 けれど、今はどれか一つに決めなくてもいい。


「主様」


「何だ?」


「嫌ですか?」


 セリーが尋ねる。


「何が」


「アンナマリーさんと私が、一緒にお菓子を作ることです」


 少し考える。


「不安ではある」


「そこですか?」


「厨房が心配だ」


「主様」


「冗談だ」


「今、少し本気でしたね」


「少しだけ」


 アンナマリーが笑いながら言った。


「では、壊さないよう努力します」


「本当に頼む」


          ◇◇◇


 日が沈む前、役場の一室へ仮の連絡拠点を作った。


 近衛の通信石。


 塔から持ち込んだ記録板。


 町代表用の記録帳。


 代官府から届く文書を保管する箱。


 一つずつ、誰が使い、誰が確認するのかを決めていく。


「これで終わりではない」


 俺が言うと、ハンスが即座に返した。


「分かってる」


「明日からの方が大変ですよ」


 マルタも現実的だった。


「仕事もあるんだけど」


 エドが困った顔をする。


「代表として動いた時間分は補償する」


「本当に?」


「ああ」


「どこから?」


「塔から出す」


「塔って金持ちなのか?」


「聞くな」


「気になる」


「必要な分はある」


 ベンノが、もう新しい帳簿を開いていた。


「支払い記録は残しましょう」


「そこまで?」


「当然です」


 眼鏡の位置を直し、淡々と続ける。


「町を守るために出した金が、また誰かへ抜かれたら意味がありません。支払者、受取者、確認者を分けた方がよいでしょう」


「支払者は塔」


「受取者は代表」


「確認者は町の書記と……」


 ベンノがニールを見る。


「近衛?」


 ニールは少し驚いたあと、頷いた。


「必要であれば記録します」


「そこまで近衛へ任せるのか」


 俺が尋ねると、ニールは真面目な顔をした。


「役割です」


 俺が何度も使ってきた言葉だった。


「嫌なら断っていい」


「断りません」


「なぜ?」


「今日、町の皆さんは、私たちがどう動くかを見てから判断すると言いました」


「ああ」


「なら、見られる側として働きます」


 昨日まで、近衛は塔へ入るために来た。


 遺産の回収。


 俺の保護。


 今は、町代表への補償金の帳簿を確認しようとしている。


「分かった」


 俺は頷いた。


「任せる」


「はい」


 その時だった。


 腕輪が淡く発光する。


『主様』


 エルの声。


 室内の空気が、一瞬で変わった。


「どうした」


『領都へ向かった先行調査班より連絡があります』


「繋げ」


 通信石が薄く光り、低い男の声が響く。


『こちら先行班』


「クララは?」


 挨拶より先に聞いた。


 グレゴルの妹。


 半年間、手紙が届いていない。


『施療館の患者名簿を確認しました』


「名前はあった?」


 一瞬だけ沈黙が入る。


『クララ・キースの記載があります』


 胸の奥が少しだけ軽くなった。


「生きているのか」


『ただし、名簿上では三か月前に転院となっています』


「転院先は?」


『空欄です』


 グレゴルへは知らされていない。


 記録にも行き先がない。


「施療館の職員は?」


『夜勤担当者一名へ確認しましたが、知らないと答えました』


「本当に知らない?」


『怯えています』


「周囲は」


『代官府兵と思われる者が二名。施療館近くを巡回しています』


「こちらに気づいた?」


『まだです』


「接触するな」


『ですが、名簿を消される可能性があります』


「複写は?」


『取得済みです』


「原本は触るな」


『承知しました』


「他の記録は?」


『薬品払い出し簿へクララの名があります』


「最後はいつ」


『二か月前』


 転院したのは三か月前。


 なのに、その後もクララ名義で薬が出されている。


「誰が受け取った」


『署名は、施療館医師ドクトル・レイハン』


 また、新しい名前が出た。


「その医師は?」


『本日は休みとされています』


「自宅は」


『現在確認中です』


「見つけても接触するな」


『はい』


「ガルムへは?」


『すでに共有しています』


「もう一つ」


『何でしょう』


 通信石へ向かって、ゆっくり言う。


「クララが生きている前提で探してくれ」


 向こうで、短い沈黙があった。


『承知しました』


 通信が切れる。


 町代表たちは、事情のすべてを理解しているわけではない。だが、人一人の行き先が記録から消えていることは分かったらしい。


「誰なんだ」


 ハンスが尋ねる。


「グレゴルの妹だ。人質にされていた」


 空気が変わった。


「生きてるのか」


「分からない」


「でも、探すのか」


「ああ」


 ハンスはしばらく口を閉じていた。


「俺、グレゴルがやったことは許せねえ。エマの申請を止めたのも、あいつだ」


「ああ」


「でも……妹がどうなってもいいとは思わない」


「ああ」


「変な気分だな」


「それでいい」


 許せない。


 でも助かってほしい。


 怒っている。


 でも死んでほしいわけではない。


 一つの感情だけに決めなくていい。


「町長」


 俺は老人を見る。


「クララのことを知っていた?」


「領都の施療館へいるとだけ」


「転院は?」


「知らん」


「ドクトル・レイハンという医師は?」


 その名前を出した瞬間だった。


 町長の顔が僅かに変わった。


「知っているのか」


「ああ」


「誰だ」


「ローレンが死ぬ前、何度かこの町へ来ていた医師だ」


 一本。


 見えなかった糸が繋がる。


「何をしに?」


「支援対象者の診断確認」


「支援を通すため?」


「分からん」


 その時。


「アル」


 イーダが低い声を出した。


「何だ」


「その医者」


 普段の強い表情から、笑いが消えている。


「エマの診断書にも名前がある」


 全員がイーダを見る。


「本当か?」


「ああ。最初の申請を却下した医師だ」


 クララ。


 エマ。


 ローレン。


 医療支援。


 同じ医師。


 偶然と言うには、重なりが多すぎる。


「エル」


『はい』


「フェリクスへ今の情報を全部送れ」


『承知しました』


「主様」


 セリーが隣へ立つ。


「ああ」


「町だけの問題ではなさそうですね」


「ああ」


 思っていたより深い。


 金の横流し。


 支援申請。


 人質。


 医師。


 事故死。


 そして、王宮で消えた報告。


 まだ繋がっているとは言えない。


 だが、無関係だとも言えない。


「明日、エマの診断書を確認する」


 俺が言うと、イーダが頷いた。


「原本を出す」


「町代表にも共有できる?」


「病状そのものは隠すよ」


「それでいい」


 全部を開けばいいわけではない。


 必要なものだけ。


 必要な者へ。


「今日はここまでにする」


 俺が言うと、ハンスがすぐに口を開いた。


「でも、クララは」


「調査は今夜も続く」


「俺たちに何かできることは?」


 しばらく考える。


 クララを探しに町の者を領都へ送る必要はない。


 今、町でできること。


「知らない医師や兵が町へ入ったら、記録してくれ」


「捕まえる?」


「するな」


「何で」


「逃げる」


「なら何を」


「名前。顔。来た時間。出た時間。向かった場所。分からないところは分からないままでいい」


「それだけ?」


「それが大事だ」


 ハンスは少し不満そうだったが、やがて頷いた。


「分かった」


「主様」


 セリーが言う。


「何だ」


「今度こそ戻ります」


「ああ」


「お弁当も食べます」


「ああ」


「食べながら帰りますか?」


「転移中は無理だろ」


「では、町で食べてから帰ります」


「今から?」


「はい」


 役場の一室。


 町長。


 仮代表。


 近衛。


 全員がこちらを見る。


「ここで?」


「はい」


「見られてるぞ」


「主様がお食事を取ることも、皆様に見ていただいた方がよいです」


「何のために」


「無理をしすぎないという約束を、主様だけ特別扱いしないためです」


 ブラットにも。


 グレゴルにも。


 アンナマリーにも。


 人へ休めと言いながら、自分だけ動き続ければ説得力がない。


「アル」


 町長が言う。


「食え」


「お前まで」


「ここで倒れられる方が面倒だ」


「アル!」


 外からハンスの声まで飛んでくる。


「肉もあるぞ!」


「お前は黙れ」


「代金は払えよ!」


「当然だ!」


 部屋の中で笑いが起こった。


 長く、重い一日だった。


 許せないことも、怖いことも、分からないことも増えた。


 それでも最後に、同じ場所で食事をする。


 王族だった者。


 黙っていた町長。


 怒っている肉屋。


 まだ信用されていない近衛。


 魔導人形と呼ばれてきたセリー。


 元婚約者のアンナマリー。


 全員が同じ立場になったわけではない。


 誰も完全には信じていない。


 許してもいない。


 それでも、一つの町を守るために、同じ場所へ残っている。


 セリーが二段の弁当箱を机へ置き、蓋を開けた。


 肉、野菜、パン、豆。それに小さな焼き菓子まで入っている。どう見ても俺一人分ではない。


「多くないか?」


「皆様の分もあります」


「いつ用意した?」


「塔を出る前です」


「町代表が決まる前だぞ」


「誰かと一緒に食べることになるかもしれないと思いました」


 「増えると思っていたのか」


「主様ですので」


「どういう意味だ」


「主様が困っている方を見つけると、関わる方が増えます」


「俺は静かに暮らしたいんだが」


「知っています」


「信じていない顔だな」


「信じています。ただし、実現するかどうかは別です」


 ハンスが声を上げて笑った。


「セリ姉ちゃん、分かってるな!」


「お前まで乗るな」


「アルは町へ来るたび仕事増やしてるぞ」


「俺が増やしているわけじゃない」


「今日は町代表まで作っただろ」


「必要だった」


「ほらな」


 反論しにくい。


 町長も椅子へ腰を下ろし、配られたパンをしばらく見つめていた。先ほどまで住民たちの前で自分の黙認を認めていた老人と、今こうして同じ机を囲んでいる人物が同じだということに、俺自身も少し妙な感覚を覚える。


「どうした?」


「町の者と、こうして同じ部屋で飯を食うのは久しぶりだと思ってな」


「町長なのに?」


「ああ。祭りでも挨拶だけで、会議は役場の者とばかりだった」


 老人はパンを少しちぎる。


「気づけば、儂は町の者の顔を知っているつもりで、生活は知らなくなっていた」


 ハンスが聞いていたらしい。


「じゃあ今度うちへ肉買いに来い」


「高いだろう」


「町長からは高く取る」


「差別ではないか」


「今まで店へ来なかった罰だ」


「理不尽だな」


「嫌なら値切れ」


「アルには値切るなと言っていただろう」


「町長は別だ」


「どう別なんだ」


 また笑いが起きる。


 少し離れた場所では、エドがパンを持ったままマルタと何か話していた。ベンノは食べながら帳簿を開こうとしたが、その手の甲をイーダの杖が軽く叩く。


「食ってる時まで書くんじゃないよ」


「忘れます」


「忘れたら、あとで聞けばいい」


「記録が曖昧になります」


「飯を食ったことまで記録する気かい」


「必要なら」


「必要ないよ」


 ニールが困ったように笑っている。


 昨日までなら、近衛と町の者がこんな会話をする光景など想像できなかっただろう。


 俺は目の前のパンを一口かじった。


 保温魔術のおかげなのか、焼きたてに近い柔らかさが残っている。朝から動き続けていた身体が、そこでようやく空腹を思い出した。


「主様」


「食べてる」


「まだ何も言っていません」


「どうせ食べてくださいだろう」


「美味しいですか、と聞こうとしました」


「……美味しい」


「はい」


 セリーの表情が僅かに柔らかくなる。


 アンナマリーがそのやり取りを見ていた。


 目が合う。


「何だ?」


「いえ。ただ、本当に今の方がよく食べていらっしゃると思って」


「昔は?」


「食事をしているのか、書類を処理しているのか分からない時がありました」


「それは悪かった」


「謝ってほしいわけではありません。ただ……今、こうして食べていらっしゃるのを見られて、よかったと思いました」


「そうか」


「はい」


 以前なら、その言葉へ何を返すべきか考えすぎたかもしれない。


 婚約者だったから。


 王太子だったから。


 相手が望む返事を探して、結局何も本当のことを言えなかった。


 今は、分からなければそのままでいい。


 嬉しいなら、少し嬉しいと思っておけばいい。


 セリーが俺の皿へ肉を一切れ追加する。


「増やすな」


「今のお話を聞きましたので」


「何の関係がある」


「以前より食べる必要があります」


「理屈がおかしい」


「主様が食べなかった分を、今から取り戻します」


「何年分だと思っている」


「計算しますか?」


「やめろ」


『必要であれば算出可能です』


「エルまで参加するな」


 部屋の空気がまた少し緩んだ。


 その時、ハンスが突然こちらへ身を乗り出した。


「ところでアル」


「何だ」


「代表の補償、塔から全部出してもらっていいのか?」


「急に現実へ戻るな」


「大事だろ!」


 ベンノもすぐに反応する。


「いえ、重要です。全額を塔へ依存するのは問題があります」


「なぜ?」


 エドが尋ねる。


「塔が支払いを止めた場合、制度そのものが終わるからです」


「止めないぞ」


 俺が言うと、ベンノは首を横へ振った。


「アルが止めなくてもです。アルが町へ来られなくなる可能性があります。塔に何かが起こる可能性もある。あるいは今後、私たちとアルが対立することだってあるかもしれません」


 そこまで言われて、少しだけ驚いた。


「随分疑うな」


「今日、疑うことを覚えましたので」


「俺まで?」


「当然です」


 即答だった。


 ハンスが楽しそうに笑う。


「いいじゃねえか。アルも見られる側になれ」


「お前は楽しんでないか?」


「少し」


 否定しない。


「では、どうする」


 俺がベンノへ尋ねると、彼は指先で眼鏡の位置を直した。


「最初は塔から出していただいても、後々は町の予算へ移すべきだと思います。町へ必要な役割なら、町自身が費用も負担するべきです」


「税を上げるのか?」


 エドが不安そうに聞く。


「すぐにはしません」


 マルタが口を挟む。


「まず、今どれだけのお金が正しく使われていないのかを確認する方が先でしょう」


「そうだね」


 イーダも頷いた。


「払ってる金がどこへ消えてるかも分からないのに、また集める話をするんじゃないよ」


 町長が苦い顔をする。


「儂の仕事が増えるな」


「今まで見なかった分です」


 マルタが容赦なく返した。


「お前、代表になると急に強いな」


「三人育てていますので」


「関係あるか?」


「毎日、話を聞かない子供三人を相手にしています。町長一人なら何とかなります」


 今度は俺まで笑ってしまった。


「町長、負けてるぞ」


「お前もいずれ怒られるぞ」


「なぜ俺が」


「今、もうセリー殿に怒られておるではないか」


「それとこれは別だ」


「同じに見える」


「主様」


「お前まで乗るな」


 笑い声が重なった。


 誰かが許されたわけではない。


 町長がしたことが消えたわけでもない。


 それでも、こうして同じ机で話せる時間がある。


 怒りを消すためではない。


 怒っていても。


 疑っていても。


 一緒に考えることはできると知るためだ。


 やがて、外から鐘が一度だけ鳴った。


 町の時間を知らせる鐘。


 窓から差し込む橙色の光が、机の端へ長い影を作っている。


 市場へ来た時には、町の出口を閉めるかどうかで争っていた。


 今は、同じ町の金をどう管理するのかを、役場、住民、近衛、塔で話している。


 たった一日で、何も解決してはいない。


 むしろ問題は増えた。


 ローレン。


 裏帳簿。


 クララ。


 レイハン。


 ハイゼン商会。


 新しい名前と、新しい疑問ばかりが積み重なっている。


 それでも、昨日までと違うことが一つある。


 誰か一人へ全部を任せない。


 町長だけへ。


 役場だけへ。


 近衛だけへ。


 俺だけへ。


 そうしないために役割を分け、見る目を増やし、違うと思った者が違うと言える場所を残す。


「主様」


 セリーが小さく呼んだ。


「何だ」


「そろそろ本当に塔へ戻りましょう」


「ああ」


「今度は素直ですね」


「疲れた」


「はい」


「眠い」


「それもよいことです」


「良いのか?」


「自覚できていますので」


 アンナマリーも記録紙をまとめ始めた。


「私も戻ります」


「ああ」


「町長」


 俺は立ち上がりながら老人を見る。


「明日の朝までに、代官府から届いた文書を一か所へ集めてくれ」


「三年分か?」


「まず半年」


「それでも多いぞ」


「代表と分けろ」


「もう働かせるのか」


 ハンスが口元を上げる。


「三日間だけのお試し代表だけどな」


「明日からじゃないのか」


「選ばれた瞬間からだろ」


「お前は商売どうする」


「女房がいる」


「それ何回目だ」


「便利なんだよ」


 町長が疲れたように笑った。


「分かった。半年分を出す」


「勝手に抜くなよ」


「何を」


「見られたくない文書を」


 老人の笑みが消えた。


 少しだけ沈黙が落ちる。


 その問いを、俺も町長も冗談にはしなかった。


「やらん」


「信用してないぞ」


「分かっておる」


「でも、やらないと自分で決めろ」


 老人は俺を見たあと、町代表たちへ視線を移した。


「ああ」


 短く頷く。


「儂が決める」


 今は、それでいい。


「ニール」


「はい」


「明日の確認は?」


「立ち会います」


「ルーカスは?」


「市場側の警戒を続けます」


「近衛二人だけで判断するな。町代表と相談しろ」


「承知しました」


「ハンス」


「何だ」


「兵を勝手に使うな」


「使わねえよ」


「荷物運びとか」


「……駄目か?」


「駄目だ」


「買い物なら?」


「本人に聞け」


 ハンスがすぐ扉の方へ顔を向けた。


「ルーカス!」


『まだ頼まないでください!』


 詰所の方角から通信石越しに返事が飛んできた。


 部屋中から笑いが起こる。


「聞いていたのか」


『警備連絡を開いたままです!』


「便利だな」


『便利だからと使わないでください!』


「ほら、本人が嫌がってる」


「買い物くらいならいいだろ」


『内容によります!』


「肉を運ぶ」


『嫌です!』


 即答だった。


「近衛って融通利かねえな」


「お前が使おうとするからだ」


 そんなやり取りを残して、俺たちは役場を出た。


          ◇◇◇


 外へ出ると、昼間の熱はすっかり薄れていた。


 西の空は橙から紫へ変わり始めている。市場の屋台は多くが片づけられ、店先には夕食の支度を急ぐ人影が見えた。


 騒ぎがあっても。


 町長が黙認を認めても。


 人が消えている可能性が見つかっても。


 生活は続く。


 パン屋からは焼けた小麦の匂いが流れ、どこかの家では子供が母親へ呼ばれている。遠くで犬が鳴き、荷車の車輪がゆっくり石畳を通っていった。


 朝。


 領主府兵が町を閉じようとした場所を。


 今は子供が走って横切っている。


 その光景へ、少しだけ安堵した。


「アル!」


 後ろからハンスの声が飛んでくる。


「何だ」


「明日、肉いるか?」


「なぜ?」


「近衛がまた買うだろ」


「本人たちへ聞け」


「塔は?」


「ある」


「何が」


「肉だ」


「どれくらい」


「知らない」


「セリ姉ちゃん!」


 ハンスが俺を飛び越えてセリーへ聞く。


「塔の肉、足りてるか?」


「在庫は十分です」


「ちぇっ」


「商売するな」


「商人だからな」


「肉屋だろ」


「似たようなもんだ」


「違うと思う」


 ハンスは笑いながら店の方へ戻っていった。


 少し先では、マルタがエドへ明日の集まりの時間を確認している。ベンノは帳簿を抱えて店へ戻り、イーダは治療院へ向かう前に町長へ何か長々と注意していた。


 選ばれた瞬間から、それぞれが自分なりに役割を考え始めている。


「主様?」


 セリーが振り返る。


「何だ」


「先ほどから町を見ています」


「ああ」


「気になりますか?」


「少し」


「塔へ戻りたくなくなりましたか?」


「それはない」


 即答すると、セリーの口元が少しだけ緩んだ。


「安心しました」


「俺は塔で静かに暮らす」


「はい」


「そこは変えない」


「はい」


「たぶん」


「今、弱くなりました」


「気のせいだ」


 アンナマリーも隣へ並ぶ。


「アル様」


「何だ」


「今日、町の方へ代表を決めていただいたことですが」


「ああ」


「以前のアル様なら、されなかったと思います」


「俺が選んでいた?」


「はい。最も適任だと思われる方を、アル様ご自身が選んでいたと思います」


「その方が早いからな」


「はい」


「今は遅い」


「はい」


「面倒だ」


「はい」


「揉める」


「はい」


「なのに、良かったと思う?」


 アンナマリーは少し考えた。


 以前なら、俺が喜びそうな答えを探したかもしれない。


「まだ分かりません」


 今は、そう答えた。


 思わず笑う。


「お前も言うようになったな」


「アル様の影響です」


「悪影響か?」


「よい方だと思います」


「思うだけ?」


「まだ分かりませんので」


「覚えた言葉を使いたいだけじゃないか?」


「少しだけ」


 セリーまで笑った。


「主様」


「何だ」


「私も一つ、分からないことがあります」


「何だ?」


「静かに暮らしたい主様が、どうして毎日これほど関わる方を増やしているのでしょう」


「俺にも分からない」


「では、記録しておきます」


「何を」


「主様は静かに暮らしたい。しかし、関わる人は増える」


「記録するな」


『すでに記録済みです』


「エル!」


『長期傾向として有用です』


「消せ」


『拒否します』


「所有者権限は?」


『本記録は生活補助項目へ分類されています』


「勝手に分類するな」


 アンナマリーが声を抑えきれず笑った。


 俺は溜息を吐く。


 静かな暮らし。


 本当に遠ざかっている気がする。


 けれど、嫌かと聞かれれば、全部が嫌なわけではない。


 町へ名前を知る者が増えた。


 セリーが笑う相手が増えた。


 俺へ意見する者も、止める者も、疑う者も、少しずつ増えている。


 王太子だった頃、俺の周りには大勢の人間がいた。


 臣下。


 近衛。


 貴族。


 婚約者。


 教師。


 使用人。


 いつも誰かがいた。


 なのに。


 今よりずっと、一人だった。


「主様?」


 セリーがもう一度呼ぶ。


「今度は何でもない」


「そうですか」


「ああ。帰ろう」


「はい」


 林へ向かって歩き出す。


 町の灯りが一つずつ背後へ増えていく。


 今日、町へ新しい役割が生まれた。


 町長。


 役場。


 町代表。


 近衛。


 塔。


 誰か一人が正しいと決める仕組みではない。


 互いに疑い、確かめ、違えば言い直し、間違えばやり直す。


 面倒で、遅くて、きっと何度も揉める。


 町代表だって、三日後には全員変わっているかもしれない。町長を許せない者もいる。グレゴルを憎む者もいる。近衛を最後まで信用しない者だっているだろう。


 俺のことを、元王太子だからという理由だけで疑う者もいるかもしれない。


 それでいい。


 同じ気持ちになる必要はない。


 一つの町を守るために、同じ答えを持つ必要もない。


 誰か一人が怖くなって目を閉じても、別の誰かが見ていられる。誰か一人が命令へ従おうとしても、別の誰かが「なぜ」と聞ける。


 俺がいなくても。


 町長が迷っても。


 近衛が王都へ戻っても。


 残るものを作る。


 林へ入る直前、俺は一度だけ振り返った。


 夕暮れのリュネ。


 市場。


 役場。


 治療院。


 小さな家々の灯り。


 昨日まで、ここは俺が助ける町だった。


 困っている者を見つけ、証拠を集め、必要なら塔の力で守る。それでいいと思っていた。


 でも、それだけでは足りない。


 俺が全部を守れば、俺がいなくなった時、また誰か一人へ任せる町へ戻る。


 だから今日は、役割を渡した。


 決めることも。


 見ることも。


 疑うことも。


 町へ返した。


 まだ最初の一日だ。


 上手くいくかは分からない。


 失敗するかもしれない。


 それでも、今度は失敗した時に、一人だけが抱え込まなくていい。


「主様」


「何だ」


「笑っています」


「俺が?」


「少しだけ」


 頬へ触れてみる。


 自分ではよく分からない。


「気のせいだ」


「では、そういうことにしておきます」


「記録するなよ」


『すでに記録しました』


「エル!」


 セリーとアンナマリーが同時に笑った。


 その声を聞きながら、俺は今度こそ町へ背を向ける。


 今日から、ほんの少しだけ。


 リュネは、俺たちに守られるだけの町ではなくなった。


 自分たちで見て、自分たちで問い、自分たちで選び始めた。


 町を守る役割を、もう一人だけへ任せないために。

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