↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/154

第20話 元王太子、守ると決めた町へ兵より先に事情を話す

古の塔を出る前に、予定は三度変わった。


 一度目は、セリーが昼食を食堂で取ると譲らなかったため。


 二度目は、フェリクスがグレゴルの証言書に書かれていた薬品名の一つへ反応し、十分だけ資料を確認したいと言い出したため。


 三度目は、近衛の買い出し役として町へ入る予定だった二人が、貸与する拘束魔導具の訓練で揃って自分の足を縛ったためだった。


「もう一度お願いします!」


 食堂の壁へ映し出された訓練区画の映像から、若い兵士の声が響く。


『拘束環は対象へ向けて投射してください。自分の足元へ置くものではありません』


「置いたのではありません。滑りました!」


『二名とも同じ失敗をしたため、操作手順の理解不足と判断します』


「もう一人は私を庇おうとしただけです!」


『庇った結果、二名同時に拘束されました』


「エル」


 俺は映像を見ながら額へ手を当てた。


「本当に貸して大丈夫か?」


『所有者権限により、対象指定へ追加制限を設定できます』


「味方を縛れないように?」


『使用者本人、および登録同行者を自動的に対象外とします』


「最初からそうしておけ」


『訓練における失敗経験も、使用上の注意を理解するためには有効です』


「町で経験させるよりはましか……」


 映像の中では、ブラットが二人の兵士へ身振りを交えながら説明していた。


 近衛らしく姿勢のよい二人だが、魔導具の扱いには慣れていない。


 一人は赤茶色の短髪をした若い男。


 もう一人は、それより少し年上に見える細身の男。


 ガルムが選んだだけあって、命令への返事は早い。それでも古代魔導具となると、普段使っている剣や拘束縄とは勝手が違うらしい。


「主様」


 向かいの席からセリーが呼んだ。


「何だ?」


「冷めます」


「今度は何が?」


「スープです」


「さっきも飲んだ」


「先ほどは朝食です。今は昼食です」


「まだ午前だろう」


『午前十時四十八分です』


 エルが即座に答える。


「ほら」


「お昼に近いです」


「近いだけだ」


「町へ着く頃にはお昼です」


 食堂の机には、根菜と鶏肉を煮込んだスープ、薄切りのパン、燻製肉、柔らかく茹でた豆が並んでいる。


 俺としては軽食のつもりだった。


 しかし、セリーへ任せると、軽食という言葉はなぜか一食分へ変換される。


「アンナマリーは?」


「きちんと食べています」


 隣の席では、アンナマリーが静かに匙を動かしていた。


 王都から古の塔まで来た旅の疲れはまだ残っているのだろう。顔色は完全には戻っていない。それでも、昨日庭園へ現れた時と比べれば、表情には随分と柔らかさが戻っていた。


「お口に合いますか?」


 セリーが尋ねる。


「はい。とても美味しいです」


「遠慮しなくて大丈夫です」


「本当に美味しいです」


「主様より素直ですね」


「俺も美味しいとは言っている」


「今日はまだ聞いていません」


「昨日言った」


「今日の味は、今日しかありません」


「毎日言わせるつもりか」


「はい」


 迷いのない返事だった。


 アンナマリーが小さく笑う。


 しかし、笑った直後、その表情へ戸惑いが混じった。


 俺の前で笑っていいのか。


 そんなことを考えたのかもしれない。


「何だ?」


「いえ」


「言え」


 促すと、アンナマリーは少し迷ってから口を開いた。


「お二人が、普段からこのように過ごしているのだと思いまして」


「ああ」


「安心しました」


「なぜ?」


 アンナマリーは匙を置いた。


「私が知っているアル様は、食事の間もずっと書類を読んでいました」


「王太子の仕事があったからな」


「はい。でも、私が話しかけても、返事だけで終わることが多くて」


 覚えている。


 夜会の日程。


 地方領主から届く陳情。


 軍費。


 外交文書。


 本来なら食卓へ持ち込むべきではない書類を、俺は何度も食事の横へ広げていた。


「今は、セリーさんに止められているのですね」


「毎日な」


「主様が止まらないので」


「お前が止めすぎるんだ」


「ちょうどよいです」


 アンナマリーの瞳には、僅かな羨ましさと、それ以上の安堵が浮かんでいた。


「よかったと思います」


 その言葉には、昔へ戻りたいという響きはなかった。


 それが少しだけ、ありがたかった。


「お前もちゃんと食べろ」


「はい」


「エマへ会う前に倒れられたら困る」


「分かっています」


「何を話すかは決めたか?」


「まだです」


 声が少し弱くなる。


「そもそも、私が会ってよいのかも、まだ」


「嫌ならやめてもいい」


「嫌ではありません」


「なら、なぜ迷う?」


「病気の子供へ、何を言えばよいのか分からないからです」


「元気を出せ、とか?」


「それが一番言ってはいけない気がします」


「なぜ?」


「元気になれないから治療院にいるのでしょう?」


 その通りだった。


「王都の暮らしや、学園の話をすればよいでしょうか」


「自慢に聞こえるかもしれない」


「はい」


「謝るつもりか?」


「何を、でしょう」


「王都側が制度の異常を見抜けなかったことを」


 アンナマリーの顔が曇った。


「私には、謝る資格もないと思います」


「資格?」


「私は制度を決める立場ではありませんでした。止めたわけでもありません。ただ、見ていなかっただけです」


「見ていなかった者は、謝ってはいけない?」


「責任を負うふりをするだけになりませんか?」


 簡単には答えられない問いだった。


 何でも自分の責任だと言えば、誠実に見える。


 だが、本来負うべきではない罪まで自分へ集めれば、それは責任を取ることとは違う。場合によっては、本当に怒りを向けられるべき相手を曖昧にする。


「なら、謝るために会うな」


「はい」


「話すために会え」


「何を?」


「それは自分で決めろ」


 アンナマリーは困ったように笑った。


「難しい役割ですね」


「嫌なら――」


「やります」


 最後まで言う前に返された。


「私は今まで、自分で決める前に、誰かに決めてもらうことが多かったので」


「俺にも?」


「はい」


 胸へ小さな痛みが走った。


「服も、予定も。夜会で誰と話すかも」


「そこまで命じたか?」


「直接ではありません」


「なら?」


「アル様が不機嫌にならないように、私が先に選ばなくなりました」


 言葉が止まった。


 精神干渉の影響があった。


 その可能性は高い。


 だが。


 だからといって、彼女が俺を怖がり、自分の選択を減らした事実まで消えるわけではない。


「だから今は、自分で決めたいです」


「ああ」


「エマさんへ会います。話せることを、自分で考えて話します」


「無理に役へ立とうとするな」


「はい」


「聞くだけでもいい」


 アンナマリーは少し驚いたあと、ゆっくり頷いた。


「それなら、できる気がします」


          ◇◇◇


 町へ向かう人数は、最終的に五人となった。


 俺。


 セリー。


 アンナマリー。


 そして、近衛兵二人。


 ブラットは塔へ残り、町での振る舞いについて二人へ最後の注意をしたあと、ガルムの野営地と第一迎撃庭園を繋ぐ連絡役を担当する。


 フェリクスは、グレゴルの証言書へ出てきた薬品名と、クララの治療記録を調べる。


 グレゴルは客室区画で証言書の続きをまとめる。


 全員に役割がある。


 だが、役割を与えれば予定通り動くとは限らないことを、俺は今日だけでも何度も学んでいた。


「この外套は、本当に必要でしょうか」


 赤茶色の髪の兵士が、地味な茶色の外套をつまんでいる。


「必要だ」


「近衛章まで隠すのですか」


「ああ」


「身分を示せなくなります」


「町で身分を振りかざす必要があるのか?」


「ありませんが……」


「なら隠せ」


 もう一人の細身の兵士は、腰へ提げた小さな革袋を何度も確かめている。


 中には貸与した拘束環が一つ。


「本当に、これだけで人を止められるのですか」


「さっき自分で止まっていただろう」


「忘れてください」


「無理だ」


 セリーが口元を押さえて笑っている。


「そういえば、お名前をまだ伺っていませんでした」


「私は、近衛騎士団第三小隊所属、ルーカス・ベルンです」


 赤茶色の男が胸を張る。


「こちらはニール・ハーヴェイ」


 細身の男が軽く頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 セリーも丁寧に頭を下げる。


「私はセリーです」


「存じています」


 ルーカスが少し緊張した顔で答える。


「ガルム隊長から、失礼のないよう厳命されています」


「昨日のことか」


 俺が言うと、二人の表情が硬くなる。


「隊長から、自分がセリー殿を物として扱うような発言をしたと聞きました」


「主様がとても怒りました」


「言わなくていい」


「大切です」


 ルーカスとニールが俺を見る。


「本当に、それほど怒られたのですか」


「なぜ意外そうなんだ」


「殿下が、魔導人形のために――」


「セリーはセリーだ」


 途中で遮る。


 ルーカスは一瞬目を見開き、すぐに口を閉じた。


「申し訳ありません」


 今の言葉にも、昨日のガルムと同じ意識が残っていた。


 だが、言われて気づき、言い直せる。


「次から気をつけろ」


「はい」


「それと、俺を殿下と呼ぶな」


「ですが」


「町ではアルだ」


「アル殿?」


「それでいい」


 ニールが僅かに眉を寄せた。


「本当に町では旅人として?」


「ああ」


「髪と顔も変えるのですね」


「変貌の仮面を使う」


 アンナマリーにも簡易的な変装を施していた。


 金髪はやや暗い色へ。


 貴族令嬢らしい装飾品は外し、町でも目立ちにくい外套へ着替えている。


 それでも姿勢や言葉遣いまでは隠しきれないだろう。


「私は、何と名乗れば?」


「自分の名でいい」


「アンナマリー、と?」


「珍しくはあるが、それだけで王都の令嬢とは分からない」


「姓は?」


「言わない方がいい」


「分かりました」


「二人は……」


 近衛兵へ視線を向ける。


「ルークとニルでどうだ」


「私がルークですか」


「嫌か?」


「少し軽い気がします」


「町ではそれくらいでいい」


「では、私はニルですね」


「ああ」


「承知しました」


「返事が固い」


「簡単には変えられません」


「威圧するなよ」


「努力します」


 言葉だけでなく、肩へ入っている力も抜いてもらう必要がありそうだった。


「町へ出る前に、最後の確認だ」


 俺は全員を見回す。


「剣は抜かない」


「はい」


「近衛の身分を勝手に明かさない」


「はい」


「町の人間へ命令しない」


「はい」


「買い出しだからといって、代金を値切らない」


「それは当然です」


 ルーカスが少し傷ついた顔をする。


「軍の補給では、大量購入を理由に相場以下へ下げさせることがあるだろう」


「補給規定です」


「町では使うな」


「承知しました」


「何か起きたら、まず俺かセリーへ知らせる」


「襲撃された場合もですか?」


「命に関わるなら、自分を守れ。ただし殺傷より拘束を優先」


 二人の手が革袋へ触れる。


「使い方は覚えたな?」


「はい」


「自分を縛るなよ」


「もうしません」


 二人の声が綺麗に重なった。


          ◇◇◇


 転移扉は、町の外れにある林の中へ開いた。


 以前から使っている一時転移座標。


 木々の隙間へ青白い光が広がり、俺たちは一人ずつ外へ出る。


 空はよく晴れていた。


 昼前の陽射しが枝葉を抜け、地面へ細かな光を落としている。昨夜の冷気はまだ木陰へ残っているものの、風は穏やかで、遠くから町の鐘や荷車の音が聞こえてきた。


「転移の感覚はどうだ?」


 ルーカスへ聞く。


「不思議です。身体が動いたという感覚がほとんどありません」


「気分は?」


「問題ありません」


 ニールは周囲を確かめている。


「現在位置は?」


「リュネの西側だ」


「塔からどれほど離れているのか、まったく分かりませんでした」


「分からなくていい」


「しかし軍務記録上――」


「記録するな」


 ニールの口が止まる。


「……承知しました」


 アンナマリーは、消えていく転移扉をじっと見ていた。


「どうした?」


「戻る扉がなくなりました」


「呼べば開く」


「分かっています」


「不安か?」


「少し」


 第一迎撃庭園とは違う。


 今は塔の外。


 俺やセリーとはぐれれば、彼女一人では古の塔へ戻れない。


「怖ければ、今から戻るか?」


「戻りません」


 即答だった。


「自分で来ると決めました」


「ああ」


「でも、怖いことは言ってもよいのでしょう?」


 少し意外だった。


 俺が昨日から何度も「怖い」と口にしたことを覚えていたのだろう。


「いい」


「では、少し怖いです」


「分かった」


「それだけですか?」


「何を言えばいい?」


「大丈夫だと」


「大丈夫かどうか分からない」


 アンナマリーが小さく笑った。


「そうでした」


「でも、一緒にはいる」


 口にしてから、自分でも僅かに驚いた。


 アンナマリーの目が大きくなる。


「町へいる間だけだ」


「はい」


「勝手に離れるな」


「はい」


 嬉しそうな顔をされると困る。


 だが、言葉を取り消すつもりはなかった。


「主様」


 隣からセリーが小さく呼んだ。


「何だ?」


「私も一緒にいます」


「分かっている」


「確認です」


「必要か?」


「はい」


 彼女の手が、ほんの僅かに俺の袖へ触れる。


 アンナマリーはその様子を見たが、何も言わなかった。


「行くぞ」


 俺たちは林を抜け、リュネへ向かった。


          ◇◇◇


 西門は、いつもより明らかに人が多かった。


 荷車が二台。


 薪を背負った老人。


 籠を持つ女性たち。


 門番が二人。


 そして、その横には肉屋の主人が腕を組んで立っていた。


 なぜ肉屋が門にいる。


 向こうもすぐに俺へ気づく。


「アル!」


 大声が飛んできた。


 周囲の視線が一斉に集まる。


「声が大きい」


「待ってたんだ!」


「なぜ門で?」


「兵が来るって聞いた」


 もう広がっているらしい。


「誰から?」


「朝早く、森の方で白い鎧を見たって木こりが言ってた」


 近衛の野営地。


 森の外縁へ移動した時、遠目に見られたのだろう。


「町へ来るのか?」


「その説明をするために来た」


 肉屋の主人の目が俺の後ろへ向く。


 アンナマリー。


 外套姿のルーカスとニール。


「誰だ?」


「知り合いと、買い出しの手伝い」


「兵じゃないだろうな」


 鋭い。


「なぜそう思う」


「立ち方が兵だ」


 ルーカスとニールの肩が僅かに硬くなる。


「ごまかせませんね」


 ニールが小さく呟く。


「何?」


「いえ」


 俺は周囲を見る。


 門番。


 荷車の御者。


 買い物籠を抱えた女性。


 誰もが、俺たちの会話へ耳を傾けている。


「ここで全部話すのですか?」


 セリーが静かに尋ねた。


「隠せば、余計に不安になる」


「では?」


「広場へ集める」


 町へ入ろうとしたが、肉屋の主人はまだ道を空けない。


「先に言え。あの白い鎧の連中は何だ?」


「王都の近衛騎士団だ」


 一瞬でざわめきが起きた。


「近衛?」


「王様の兵か?」


「何でこんな町へ」


「領主府の兵と同じなのか?」


 最後の声には、はっきりと怯えが混じっていた。


「違う」


「本当に?」


「今は、違うと言える」


「今は?」


 肉屋の主人が眉を寄せる。


「だから説明する。広場で」


 門番の一人が手を上げた。


「町長へ先に知らせなくてよいのか?」


「町長は?」


「役場にいる」


 役場。


 グレゴルが消えたことは、すでに向こうも把握しているはずだ。


 領主府側の動きも気になる。


「役場へ人をやるな」


「なぜ?」


「先に町の人へ話す」


「役場を通さず?」


「ああ」


 さらにざわめきが広がった。


 王太子だった頃なら、まず役場へ向かった。


 町長。


 責任者。


 文書確認。


 正式な手順。


 だが、その手順の中に不正を隠した者がいる。


「肉屋」


「名前で呼べ。ハンスだ」


「初めて聞いたぞ」


「聞かなかっただろう」


 その通りだった。


「ハンス。広場へ人を集められるか?」


「どれくらい?」


「来られる者だけでいい」


「何を話す?」


「近衛が来た理由。それと、領主府の動き」


 ハンスの表情が変わる。


「ミロのこともか?」


「名前は出さない」


「エマは?」


「必要な範囲だけだ」


「分かった」


 ハンスはすぐに門番へ声をかけた。


「鐘を鳴らせ。火事じゃない方だ」


「昼前だぞ」


「だから人がいる」


「市場が止まる」


「兵が来る方が大事だ!」


 町の人間同士で言い合いながら、それでも動き始める。


 俺の命令ではない。


 ハンスが必要だと判断し。


 門番がそれを聞き。


 自分たちで動いた。


「アル様」


 アンナマリーが小声で呼ぶ。


「何だ?」


「皆さん、あなたを信頼しているのですね」


「変な旅人としてな」


「それだけではないと思います」


「まだ何も解決していない」


「それでも、話を聞こうとしてくださっています」


 確かに。


 王太子だからではない。


 旅人のアルとして。


 ミロの家へ行った。


 治療院へ行った。


 夜の焼却場へ行った。


 領主府の兵を止めた。


 町の人間は、そういう積み重ねを見ている。


「二人とも」


 ルーカスとニールへ向く。


「広場では俺が話す」


「はい」


「身分は隠したまま」


「はい」


「質問されても勝手に答えるな」


「承知しました」


「逃げるなよ」


「逃げません」


 ルーカスが少し不満そうに答えた。


「近衛だと分かれば囲まれるかもしれない」


「民から逃げる訓練は受けていません」


「戦うな」


「それも訓練していません」


「なら今日は覚えろ」


          ◇◇◇


 広場の鐘が三度鳴った。


 火災でも祭りでもない。


 町の集まりを知らせる音。


 市場にいた者。


 店先にいた者。


 仕事へ向かう途中だった者。


 八百屋の女性。


 パン屋の夫婦。


 鍛冶屋の若者。


 洗濯籠を抱えた母親。


 日雇いの男たち。


 老人。


 子供。


 全員ではない。


 それでも、百人近くが中央広場へ集まった。


 役場の方角から、職員らしき者も数人来ている。


 町長はいない。


「アルだ」


「セリ姉ちゃんもいる!」


「隣の女の人は?」


「後ろの二人、兵じゃないか?」


 いくつもの声。


 いくつもの視線。


 王宮の大広間で何百人もの前へ立ったことはある。


 だが、今は壇上がない。


 護衛の列もない。


 用意された演説文もない。


 俺は噴水の縁へ立ち、町の者たちとほとんど同じ高さから声を出した。


「集まってくれてありがとう」


 ざわめきが少しずつ収まっていく。


「森の外に、王都の近衛騎士団が来ている」


 その瞬間、広場へ緊張が走った。


「何のためだ!」


「領主府が呼んだのか!」


「俺たちを捕まえるのか!」


 声が一度に重なる。


「落ち着いてくれ」


「落ち着けるか!」


 ハンスの隣にいた男が叫んだ。


「この前は領主府の兵だ! 今度は王都の兵か!」


「ああ。不安になるのは分かる」


「分かるだけか!」


「だから、兵より先に俺が話しに来た」


 その一言で、声が僅かに弱くなる。


「近衛は、古の塔を調べるために来た」


「塔?」


「森の奥の?」


「本当にあるのか?」


「ああ」


 隠し続けることは難しい。


 だが、場所まで教える必要はない。


「俺は、その塔と関わっている」


「住んでいるのか?」


「ああ」


 再びざわめき。


「変な旅人だと思ってたら」


「塔の人間だったのか」


「だから妙な道具を持ってたのか」


「セリ姉ちゃんも?」


 子供の声へ、セリーが笑って頷く。


「はい。私も塔で暮らしています」


「お姫様?」


「違います」


「塔の魔女?」


「それも違います」


 子供たちの間だけ、少し空気が緩んだ。


「近衛は塔へ入ろうとした。だが、今は森の外で待たせている」


「止めたのか?」


「ああ」


「王様の兵を?」


「ああ」


 今度のざわめきは、驚きの方が大きい。


「大丈夫なのか?」


「反逆じゃないのか」


「アル、お前何者なんだ?」


 とうとう来た。


 いつかは話す必要がある問い。


「今は、塔を預かる者だと思ってくれ」


「それだけか?」


 ハンスが聞く。


「それ以上は、まだ全部話せない」


「信用しろって?」


「無理に信用しなくていい」


 一人ずつ顔を見る。


「でも、近衛が町へ入るなら、何をするつもりなのかは先に話す」


 後ろにいる二人を指した。


「この二人は、近衛の兵だ」


 広場の空気が一変した。


「兵だ!」


「隠してたのか!」


「捕まえろ!」


「待て!」


 ハンスが叫ぶ。


「アルが連れてきた!」


「だから何だ!」


 日雇いの男が前へ出る。


「領主府の兵も、最初は話を聞くだけだと言った!」


「そうだ!」


「エマを連れていこうとした!」


「ミロの家にも来た!」


 怒り。


 恐怖。


 不信。


 ルーカスが無意識に腰へ手をやり、そこへ剣がないことに気づく。


「手を下ろせ」


「はい」


 すぐに両手を見える位置へ出した。


 ニールも同じようにする。


「二人は、武器を町の外へ置いている」


「隠し持ってるだろ!」


「拘束道具だけだ」


「兵の道具じゃないか!」


「俺が貸した」


 声がさらに重なる。


「静かに!」


 今度は別の声だった。


 治療院の方向から、イーダが杖をつきながら歩いてくる。


「騒ぐなら、一人ずつ騒ぎな! 何を言ってるか分からないだろうが!」


 広場が少し静かになった。


「イーダさん」


「アル。説明が遅い」


「今している」


「なら続けな」


 イーダはルーカスとニールを睨む。


「あんたら、近衛だって?」


「はい!」


 ルーカスが答える。


「声がでかい」


「申し訳ありません!」


「謝る声もでかい」


「……申し訳ありません」


 今度は小さい。


 広場のあちこちで、僅かな笑いが漏れた。


「近衛は、この町で起きている不正をまだ全部知らない」


 俺は続けた。


「だが、証拠の一部を見せた」


「何を?」


 イーダが聞く。


「エマの申請書。補償金の記録。それから焼却場の記録だ」


 町の者たちの顔が変わる。


「近衛隊長は、調べると言った」


「言っただけか」


 ハンスが低く聞く。


「ああ。今はまだ約束だけだ」


「信じるのか?」


「全部は信じない」


 ルーカスとニールの表情が僅かに強張る。


「だから、役割を限定する」


「役割?」


「領主府の兵が町へ入った時に警戒する。食料を買う。町の人間へ命令しない。問題が起きても先に剣を抜かない」


「剣は置いてきたんだろ?」


「この二人はな。本隊は持っている」


「何人いる?」


「十六人」


 また空気が硬くなる。


「十六人も?」


「町を囲むのか?」


「今は森の外で待機している」


「今は、ってまた言ったな」


 誰かが声を出す。


「ああ」


 ごまかさない。


「王都から新しい命令が来れば、判断が変わる可能性はある」


「なら追い返せ!」


「俺も撤退を求めている」


「求めるだけか!」


「王都へ文書を送った」


「誰の名で?」


 広場の端から声が飛んだ。


 そこで、一瞬だけ言葉が止まった。


 ここまで来れば、隠し続けても意味がない。


「アルフォンス・ガイゼン」


 空気が止まった。


「ガイゼン?」


「王家の姓だろ」


「アルフォンスって……」


「元王太子殿下?」


 波のようにざわめきが広がっていく。


 アンナマリーが息を呑んだ。


 セリーは何も言わず隣へ立っている。


 ルーカスとニールだけは反射的に姿勢を正した。


「本当なのか?」


 ハンスが尋ねる。


「ああ」


「お前が?」


「ああ」


「元王太子?」


「ああ」


 ハンスは俺の顔を何度も見る。


「……何で肉屋で値切ってたんだ」


「値切ってない」


「端肉を多く入れろって言っただろ!」


「代金は払った」


「王子が端肉を買うな!」


 広場のどこかから笑い声が上がった。


 緊張と驚きが入り混じった、妙な笑いだった。


「今は王子じゃない」


「だからアルなのか?」


「ああ」


「セリ姉ちゃんは?」


 子供が聞いた。


「セリーはセリーだ」


「お姫様じゃない?」


「違う」


「でも一緒に住んでる?」


「ああ」


「結婚してる?」


「していない」


「夫婦って言ってた!」


「あれは変装の設定だ」


「設定って何?」


「今は関係ない」


 隣でセリーが少し残念そうな顔をする。


「主様」


「今は黙ってろ」


「はい」


 元王太子。


 その事実を知り、距離を取る者もいる。


 頭を下げようとする老人。


 膝をつこうとした女性。


「やめてくれ」


 すぐに止めた。


「俺はもう王太子じゃない」


「でも、王家の方には」


「町ではアルでいい」


 以前なら、礼を受けるのが当然だと思っていた。


 今は違う。


「王子だったから話を聞いてほしいわけじゃない」


「じゃあ、何で?」


 イーダが尋ねる。


「この町で、名前を知ったからだ」


 ミロ。


 マリア。


 ロイド。


 エマ。


 トーマス。


 イーダ。


 そして、今日初めて知ったハンス。


「俺は王太子だった頃、リュネの監査を延期した」


 広場が静まる。


「町は平穏で、支援制度の調整にも緊急性はない。そういう報告を信じた」


「誰の報告だ」


 役場職員の一人が青ざめた顔で聞く。


「今は名前を出さない」


 グレゴルは自分の証言をまとめている。


 本人が自分の言葉で話す機会まで、俺が奪うつもりはない。


「だが、その報告を信じて、この町を見るのを遅らせた」


「王太子だったなら……」


「俺にも責任がある」


 誰かが息を呑んだ。


「全部が俺のせいだとは言わない。不正をした者がいる。命じた者がいる。分かっていて止めなかった者もいる」


 一つへまとめない。


 グレゴルの罪も。


 俺の判断も。


 ベルナールの命令も。


「でも、俺には見なかった責任がある」


 町の者たちは黙っている。


「謝れば済むとは思っていない」


 簡単に頭を下げれば、今度は町の者へ「許すか、許さないか」を突きつけることになる。


「今は、同じことを繰り返さないためにここへ来ている」


「近衛を連れて?」


「ああ。近衛にも、町を守る役割を渡す」


「信用できるのか?」


 ハンスが聞く。


「分からない」


「分からないまま入れるのか?」


「ああ」


 不満そうな声が上がる。


「ただし、全部は任せない」


「何を見て決める?」


「今日、どう動くかだ」


 ルーカスとニールを見る。


「この二人は町で命令しない。威圧しない。買った物には金を払う。領主府の兵が来れば、町の人間を守る」


「失敗したら?」


「町から出す」


「アルが?」


「ああ」


「王国軍相手に?」


「ああ」


 ハンスが長く俺を見つめた。


「本当に変な王子だな」


「元だ」


「どっちでもいい」


「よくない」


「じゃあ、変なアルだ」


 また笑いが起きた。


 今度は、さっきより少しだけ大きかった。


「この二人には町の案内役が必要だ」


 その一言で、笑いが消える。


「誰か頼めないか」


 誰も手を挙げなかった。


 当然だ。


 領主府の兵に脅されたばかりなのに、別の兵へ近づきたい者などいない。


「俺がやる」


 ハンスが言った。


「お前が?」


「肉を売るついでだ」


「店は?」


「女房がいる」


 ハンスは二人を睨む。


「ただし、一つでも偉そうにしたら帰す」


「承知しました!」


「声がでかい」


「……承知しました」


「代金は先払い」


「はい」


「値切るな」


「はい」


「子供を怖がらせるな」


「はい」


「まず俺の肉を買え」


「それは案内役の権限なのか?」


 思わず口を挟む。


「当然だ」


「違うだろう」


 広場に笑いが広がった。


 今度は、はっきりとした笑いだった。


          ◇◇◇


 集まりが終わっても、人々はすぐには散らなかった。


 元王太子が町へいた。


 近衛が森の外にいる。


 領主府の不正を、王都の兵も調べ始めた。


 一度に入ってきた情報が多すぎる。


 広場のあちこちに小さな輪ができ、声を潜めた話し合いが続いていた。


「アル」


 イーダが杖で石畳を叩く。


「治療院へ来な」


「ああ」


「そっちのお嬢さんも」


 アンナマリーの身体が僅かに強張る。


「はい」


「硬いね」


「申し訳ありません」


「謝ることじゃない。歩きな」


 イーダが先に進む。


 俺とセリー。


 そしてアンナマリーが続く。


 ルーカスとニールは、ハンスに連れられて市場へ向かった。


「最初は肉屋からですか」


 ニールの声が遠ざかる。


「当然だ!」


「野菜も必要なのでは」


「あとだ!」


 すぐに受け入れられたわけではない。


 道の両側から、町の者たちが近衛二人を遠巻きに見ている。


 それでも最初から白銀鎧で隊列を組み、王家の名を掲げて入るよりはよかったはずだ。


「主様」


 セリーが小さく呼ぶ。


「何だ?」


「正体を話しましたね」


「ああ」


「予定にはありませんでした」


「ああ」


「後悔していますか?」


「少し」


「なぜ?」


「町が危険になる」


 俺の生存。


 元王太子がリュネへ関わっている事実。


 それを知れば、ベルナール側も町を放置できなくなるかもしれない。


「隠したままでも、近衛が来た以上、噂は広がります」


「ああ」


「なら、誰かから歪んだ形で聞くより、主様の口から話せたことはよかったと思います」


「お前はいつも俺を肯定するな」


「違うと思った時は止めています」


「食事と睡眠だけだろ」


「危険なこともです」


「止めても来るけどな」


「それが困ります」


 アンナマリーは少し後ろを歩いている。


 治療院が近づくほど、表情が硬くなる。


「怖いか?」


「はい」


「戻る?」


「戻りません」


「なら、どうする?」


「分かりません」


「それでいい」


「本当に?」


「ああ」


 何を話すか決めていなくてもいい。


 会って言葉が出なければ、そのままでもいい。


 与えられた役割を完璧に果たす必要などない。


「聞くだけでもよいと、おっしゃいましたね」


「ああ」


「なら、まず聞きます」


「誰の話を?」


「エマさんの話を」


「それでいい」


          ◇◇◇


 治療院の前には、見慣れない荷車が止まっていた。


 荷台には薬草箱が三つ。


 若い薬師が箱を抱え、建物の中へ運び込んでいる。


「新しい仕入れか?」


 イーダへ尋ねる。


「昨日頼んだ分だよ」


「金は?」


「立て替えた」


「俺が払う」


「あとでいい」


「今払う」


「治療院の中で金の話をするんじゃないよ」


「まだ外だ」


「細かいね」


 イーダは呆れたように扉を開ける。


「入んな」


 中には薬草と、煮沸した布の匂いが満ちていた。


 待合の長椅子には老人が二人。


 奥ではトーマスが水桶を運んでいる。


 俺たちへ気づき、足を止めた。


「アル」


「ああ」


「昨日、戻ってこなかったから」


「塔にいた」


「近衛が来たって」


「広場で話した」


「もう?」


「あとで聞け」


 トーマスの目がアンナマリーへ移る。


「誰です?」


「アンナマリー。王都から来た」


「貴族ですか」


 すぐ分かったらしい。


「今は、ただの旅人として来ています」


 アンナマリーが自分で答えた。


 トーマスの表情は硬い。


「ただの旅人は、そんな話し方をしません」


「そうですね」


 否定しない。


「何をしに?」


「エマさんへ会いに来ました」


「なぜ?」


 兄として当然の警戒。


「分かりません」


 アンナマリーが答えた。


「分からない?」


「何かをしてあげられると思って来たわけではありません」


「なら、何のために」


「お話を聞きたいと思いました」


「何を?」


「エマさんが、話したいことを」


 トーマスの目が俺へ向く。


「アルが頼んだんですか?」


「ああ」


「なぜ、この人に?」


「自分で考えてほしかった」


「エマを使って?」


 胸へ刺さる言葉だった。


 すぐに答える。


「そう見えるなら、会わせなくていい」


 アンナマリーがこちらを見る。


「アル様」


「エマは、アンナマリーへ役割を与えるための相手じゃない」


 気づいた。


 俺は役割を渡すことばかり考えていた。


 ブラットへ。


 アンナマリーへ。


 フェリクスへ。


 近衛へ。


 けれど、その役割の向こう側にいる相手にも意思がある。


「俺が間違えた」


 トーマスを見る。


「ごめん。エマへ確認せず、アンナマリーを会わせようとした」


 トーマスは目を見開いた。


「元王太子が、俺に謝るんですか」


「もう聞いたのか」


「患者さんがさっき」


「早いな」


「町ですから」


 イーダが鼻を鳴らした。


「噂は薬より早く回るよ」


「なら俺のことは知っているんだな」


「はい」


「それでもアルでいい」


 トーマスは少し迷い、頷いた。


「分かりました」


「アンナマリーと話すかどうか、エマ本人に聞いてくれ」


「本人に?」


「ああ」


「断っても?」


「当然だ」


 アンナマリーも頭を下げる。


「断られても受け入れます」


「傷つきませんか」


 トーマスが尋ねる。


「少しは傷つくと思います」


「なら」


「ですが、私を傷つけないためにエマさんが会う方が間違っています」


 トーマスはしばらく彼女を見た。


「聞いてきます」


 奥の部屋へ消える。


 アンナマリーが長く息を吐いた。


「主様」


 セリーが俺を見る。


「ああ。間違えた」


「気づきました」


「止めてもよかったんだぞ」


「トーマスさんが先に言いましたので」


「お前も思ってた?」


「少しだけ」


「なら、なぜ言わなかった?」


「主様ご自身で気づけると思いました」


「気づかなかったかもしれない」


「その時は私が言いました」


 信じて待つ。


 すぐ答えを与えない。


 それも一つの関わり方なのかもしれない。


「アル様」


 アンナマリーが小さく呼んだ。


「私も気づいていませんでした」


「ああ」


「役に立ちたいと思っていました」


「それ自体は悪くない」


「でも、エマさんのためではなく、自分が変わったとアル様へ示したかっただけかもしれません」


「全部がそれじゃないだろう」


「はい」


「混ざっていていい」


 人の動機は一つではない。


 謝りたい。


 役に立ちたい。


 認めてほしい。


 自分を許したい。


「ただ、それを相手へ押しつけなければいい」


「はい」


 奥の扉が開いた。


 トーマスが戻ってくる。


「エマが、会ってもいいって」


 アンナマリーの表情へ緊張が戻った。


「本当に?」


「ただし、長くは無理です」


「はい」


「嫌になったら、すぐ出てほしいって」


「分かりました」


「俺たちは?」


「アルとセリ姉ちゃんは、最初だけ一緒にいてください」


「ああ」


 イーダが杖で床を叩く。


「話が決まったならさっさと行きな。患者を待たせるんじゃないよ」


          ◇◇◇


 エマの部屋は、治療院の奥にある小さな個室だった。


 窓辺には薄い布。


 昼前の光が柔らかく室内へ落ちている。


 寝台の横には、薬湯の入った椀、水差し、読みかけの絵本。


 エマは枕へ背を預けていた。


 淡い茶色の髪。


 痩せた頬。


 それでも、昨日より顔色は少しよかった。


「アル兄ちゃん」


「ああ」


「セリ姉ちゃん」


「こんにちは、エマさん」


「こんにちは」


 エマの視線がアンナマリーへ移る。


「その人?」


「ああ」


 アンナマリーは寝台から少し離れた場所で立ち止まった。


「アンナマリーと申します」


「長い名前」


「よく言われます」


「アンナでいい?」


 アンナマリーが少し驚く。


「はい」


「じゃあ、アンナさん」


「はい」


 呼び名が一つ決まっただけで、部屋の空気が少し柔らかくなった。


「何を話すの?」


 エマが尋ねる。


 アンナマリーはすぐに答えなかった。


「分かりません」


「分からないの?」


「はい」


「変な人」


「そうですね」


 エマが小さく笑う。


 咳は出なかったが、笑ったあと少しだけ呼吸を整えた。


「私のお話を聞きたいって」


「はい」


「何を?」


「エマさんが話したいことを」


「何でも?」


「答えられないこともあります」


「じゃあ王都の話」


 決まるのは早かった。


「王都へ行ったことないから」


「どのような話がよいですか?」


「お菓子」


 トーマスが扉のそばで額へ手を当てた。


「エマ」


「だって、王都のお菓子って綺麗なんでしょう?」


「はい」


 アンナマリーの表情が少し柔らかくなる。


「春の祭りには、花の形をした砂糖菓子が並びます」


「何色?」


「赤、黄色、青。透明なものもあります」


「青いお菓子?」


「薄い青色です。口へ入れると、少しだけ冷たく感じる魔術がかかっています」


「食べたい」


「今度――」


 アンナマリーの声が止まった。


 持ってくる。


 簡単に言いかけて、約束の重さに気づいたらしい。


「王都へ戻れたら、持ってきます」


 正直に言った。


「戻れないかもしれないの?」


「はい」


「どうして?」


 アンナマリーが俺を見る。


 助けてほしいという目ではない。


 どこまで話してよいかを確認している。


「自分で答えろ」


「はい」


 彼女はエマへ戻る。


「昔、大切な人を傷つけました」


「アル兄ちゃん?」


 すぐ分かった。


「はい」


「アル兄ちゃんも傷つけたの?」


「はい」


 エマが俺を見る。


「二人とも悪いの?」


「たぶんな」


「じゃあ、仲直りすれば?」


 子供らしい、真っ直ぐすぎる答え。


「すぐにはできません」


 アンナマリーが言う。


「謝っても?」


「はい」


「なんで?」


「傷ついたことは、すぐには消えないからです」


 エマは少し考えた。


「薬みたい」


「薬?」


「飲んでも、すぐ元気にならない」


 部屋が静かになった。


「はい」


 アンナマリーの声が僅かに震える。


「そうかもしれません」


「でも薬は飲むんでしょう?」


「はい」


「じゃあ、謝るのもする?」


「します」


「効かなくても?」


「はい」


「変なの」


 エマは天井を見る。


「私、薬嫌い」


「苦いですか?」


「苦いし、毎日」


「はい」


「飲んでもすぐ治らない」


「はい」


「でも、お兄ちゃんが泣きそうな顔するから飲む」


「泣いてない」


 トーマスが扉のそばから返す。


「泣きそう」


「違う」


「同じ」


 兄妹のやり取りに、アンナマリーが笑った。


「アンナさんは、誰かが泣きそうだから謝るの?」


 不意の問いだった。


 アンナマリーが息を呑む。


「最初は、そうだったかもしれません」


「今は?」


「自分が謝りたいからです」


「自分のため?」


「はい」


 隠さない。


「でも、それだけでは駄目だと分かりました」


「じゃあ何するの?」


「傷つけた人が、どうしてほしいかを聞きます」


 俺の胸が僅かに動く。


「アル兄ちゃんは何してほしいの?」


 今度は俺だ。


「分からない」


「また?」


「まただ」


「分からないこと多いね」


「最近気づいた」


「王子なのに?」


「元だ」


「どっちでもいい」


 ハンスと同じことを言われる。


「よくない」


「アル兄ちゃんはアル兄ちゃん」


 何気ない言葉。


 だが、少しだけ胸が温かくなる。


「アンナさん」


「はい」


「王都のお菓子、持ってきて」


「戻れたら」


「戻れなかったら?」


「作り方を調べます」


「作れるの?」


「……練習します」


「料理したことある?」


「ほとんどありません」


「じゃあ無理かも」


「頑張ります」


「約束?」


 アンナマリーが迷った。


「作り方を調べることは約束します」


「持ってくるのは?」


「上手く作れたら」


「分かった」


 できないことまでは約束しない。


 でも、できることは約束する。


「アンナさん」


「はい」


「アル兄ちゃんと仲直りしたい?」


 アンナマリーは長く黙った。


「以前と同じへ戻りたいとは思っていません」


「なんで?」


「同じへ戻れば、また同じことを繰り返すかもしれないからです」


「じゃあ、違う仲良し?」


「なれたら」


 俺を見る。


「嬉しいです」


 答えを求められている気がした。


 だが、今はまだ出せない。


「俺は分からない」


 正直に言った。


「うん。知ってる」


 エマがあっさり頷いた。


「分からないこと多いから」


「何度も言うな」


 部屋へ小さな笑いが広がった。


 アンナマリーの目には涙が浮かんでいる。


 それでも泣き崩れず、笑いながら指で拭った。


「エマさん。ありがとうございます」


「何が?」


「お話ししてくださって」


「お菓子忘れないでね」


「はい」


 今度は迷わず頷いた。


          ◇◇◇


 部屋を出ると、アンナマリーは廊下で足を止めた。


 扉が閉じる。


 中から、トーマスがエマへ水を渡している声が聞こえる。


「大丈夫か?」


「はい」


 しかし、声は震えていた。


「泣くなら」


「泣きません」


「無理に止めなくていい」


 そう言った途端、一筋だけ涙が落ちた。


「アル様」


「ああ」


「私はずっと、謝る言葉ばかり考えていました」


「ああ」


「でも、聞く方が難しいです」


「ああ」


「エマさんは、私が何者なのか、ほとんど知りません」


「ああ」


「だから、私が欲しい答えを返してくれなかった」


「子供だからな」


「はい」


 アンナマリーは涙を拭う。


「それが、ありがたかったです」


「何を聞いた?」


「謝ることは薬を飲むことに似ている、と」


「すぐには効かない」


「はい」


「苦い」


「はい」


「毎日必要になるかもしれない」


「はい」


「俺は毎日謝られたら困る」


 思わず言った。


 アンナマリーが涙のまま笑う。


「では、毎日はしません」


「回数を決めるな」


「はい」


「まだ謝罪を聞くとも言っていない」


「待ちます」


「待たせるとは――」


「私が決めます」


 昨日と同じ返しだった。


「強くなったな」


「アル様に言われたくありません」


「なぜ?」


「以前より、ずっと強くなられましたから」


「そうか?」


「怖いと言えるようになったので」


 強さの基準が変わっている。


「主様」


 セリーも静かに続けた。


「私も、そう思います」


「二人で決めるな」


「では、主様が決めますか?」


「分からない」


 アンナマリーが笑う。


「本当に増えましたね」


「何が?」


「分からない、とおっしゃる回数です」


「悪いか」


「いいえ」


 彼女の顔から、ほんの少しだけ緊張が抜けた。


          ◇◇◇


 待合へ戻った直後だった。


 外から激しい足音が近づき、扉が勢いよく開いた。


「アル!」


 飛び込んできたのはハンスだった。


「声が大きい」


「今はそれどころじゃない!」


 顔が赤い。


 息も切れている。


「何があった?」


「役場の連中が、町の出口を閉めようとしてる!」


 待合の空気が一変した。


「誰の命令だ?」


「町長だ!」


「理由は?」


「近衛が来たから治安維持だと!」


「門を閉める?」


「外から入れないんじゃない。中から誰も出さないって言ってる!」


 町の者を閉じ込める。


 近衛へ情報が渡ることを恐れたのか。


 あるいは、グレゴルの失踪と礼拝堂での失敗を受け、証人や証拠を逃がさないつもりか。


「ルーカスとニールは?」


「市場で止められた!」


「誰に?」


「役場の警備と、領主府の兵が四人!」


 すでに町へ入っている。


「数は?」


「俺が見たのは四人。役場の中にもいるかもしれない」


「武器は?」


「剣と槍」


「町の者は?」


「市場で囲まれてる!」


 セリーがすぐ俺を見る。


「主様」


「ああ。行く」


「私も」


「イーダ」


「エマと患者は任せな」


「トーマス」


「俺も行きます」


「残れ」


「でも!」


「エマを守れ」


 トーマスの顔が強張る。


「治療院へ来る可能性もある」


「……分かりました」


「扉を閉めろ。患者は窓から離せ」


「はい」


「アンナマリー」


 彼女が顔を上げた。


「ここへ残れ」


「私も行きます」


「戦えない」


「記録を取れます」


「フェリクスじゃないんだぞ」


「町の方へ、何が起きたのか聞くこともできます」


「危険だ」


「エマさんと話す役割は終わりました」


「だから?」


「次の役割は、自分で選びます」


 目は揺れていない。


 以前なら止めただろう。


 危険だから。


 守るべきだから。


 そう言って、本人の意思ごと切り捨てた。


「俺たちから離れるな」


「はい」


「勝手に前へ出るな」


「はい」


「危険だと思ったら戻れ」


「それは、自分で決めます」


「そこは従え」


「……はい」


 少し不満そうだ。


 だが、今は言い合っている時間がない。


「エル」


『通信接続を維持しています』


「ルーカスとニールへ繋げ」


『接続します』


 腕輪から、ざわめきと怒声が響いた。


『アル殿!』


「状況は?」


『市場中央です。役場警備六名、領主府兵四名。住民がおよそ五十名、周囲に残っています』


「拘束環は?」


『使用していません』


「なぜ?」


『相手がまだ武器を抜いていないためです』


 約束を守っている。


「よく待った」


『はい!』


 ルーカスの声が少しだけ強くなる。


『ただ、ニールが役場警備から身分証の提出を要求されています』


「渡すな」


『近衛身分を明かしてよいですか』


「待て」


 今ここで正体を明かせば、町はさらに混乱する。


 だが、領主府の兵を止めるには必要になるかもしれない。


「俺が行くまで、身分は隠せ」


『承知しました』


「町の人間を広場側へ下げられるか?」


『試みます。ただ、役場警備が市場の出口を塞いでいます』


「戦うな。住民を巻き込む方がまずい」


『はい』


「拘束環も、俺が許可するまで使うな」


『承知しました』


「あと三分で着く」


『待ちます』


 通信を切る。


「三分?」


 ハンスが聞き返した。


「走れば」


「俺は無理だぞ!」


「案内だけしろ」


「市場への道くらい知ってるだろ!」


「近道は?」


「ある!」


 ハンスがすぐに踵を返した。


「こっちだ!」


 俺たちは治療院を飛び出した。


          ◇◇◇


 市場へ近づくにつれ、怒声が大きくなっていった。


「町長命令だ! 全員、家へ戻れ!」


「何で門を閉めるんだ!」


「治安維持のためだ!」


「誰から守るんだよ!」


「王都の兵が町へ来ている!」


「お前らだって兵を連れてきてるだろうが!」


「我々は領主府の正規兵だ!」


 角を曲がった瞬間、市場の様子が見えた。


 屋台がいくつか倒れている。


 籠から転がった野菜が石畳へ散らばり、買い物へ来ていた女性や老人たちは建物の壁際へ寄せられていた。誰かが踏み潰した赤い実から汁が広がり、その上を役場警備の靴が何度も通っている。


 市場中央には、役場警備が六人。


 その後ろに、領主府兵が四人。


 黒い縁取りの入った外套。


 胸元には代官府の警護章。


 礼拝堂へ現れた兵たちと同じ系統だった。


 ルーカスとニールは、ハンスの店の前へ立っている。


 両手は下ろしていた。


 剣もない。


 それでも役場警備の一人が、ニールの外套を掴んでいる。


「身分証を出せ!」


「お断りします」


「町長命令だ!」


「町長に、王都から来た旅人の身分証を没収する権限はありません」


「なら何者か言え!」


「それもお断りします」


「貴様!」


「離せ」


 俺が声を出した。


 市場にいた全員の視線が、一斉にこちらへ向いた。


「アル!」


「アルが来た!」


「元王太子だ!」


 広場にいた者から、もう話が広がっている。


 領主府兵たちの表情が変わった。


「元王太子?」


 中央に立っていた男が、俺を凝視する。


 変貌の仮面を使ったままでは、当然分からない。


「主様」


 セリーが隣で小さく言った。


「もう隠す意味はないと思います」


「ああ」


「エル」


『変貌の仮面を解除します』


 顔を覆っていた薄い魔力が消えた。


 髪色が戻る。


 顔立ちも。


 僅かに変えていた体格も、本来のものへ戻っていく。


 市場のあちこちから息を呑む音が聞こえた。


 何度も町へ来ていた旅人のアル。


 その姿が、王国で広く知られていた元王太子アルフォンス・ガイゼンのものへ変わる。


「アル……」


 隣でハンスが呟いた。


「本当に……」


「ああ」


 領主府兵の中央にいた男が、一歩だけ後ろへ下がった。


「アルフォンス殿下」


「その呼び方は要らない」


「なぜ、ここに」


「それを聞く前に、町の門を閉める理由を説明しろ」


「治安維持です」


「誰から守る?」


「王国軍からです」


「近衛は森の外にいる」


「武装集団が町へ接近している以上、警戒措置を取るのは当然です」


「お前たちも武装して町へ入っている」


「我々は領主府の正規兵です」


「その正規兵が、昨日、礼拝堂で証人を殺そうとした」


 市場から音が消えた。


 町の者たちの視線が、一斉に領主府兵へ向く。


 中央の男の顔が硬くなる。


「何のことでしょう」


「グレゴルだ」


「存じません」


「早いな」


「何がです?」


「俺はまだ、グレゴルが誰か説明していない」


 男の口が止まった。


 周囲の領主府兵も僅かに表情を変える。


「グレゴルは生きている」


 その一言で、市場の空気が凍りついた。


 領主府兵たちの反応は、ほんの一瞬だった。


 だが、十分だった。


 中央の男の瞳が揺れた。


 右側にいた兵士が、無意識に腰の剣へ手を近づける。


「手を離せ」


 俺は静かに言った。


 兵士の動きが止まる。


「何のことでしょう」


 中央の男がもう一度言う。


 今度は、さっきより声が低い。


「グレゴルという者が生きていることと、我々に何の関係が?」


「関係がないなら、なぜ驚いた?」


「驚いてなど」


「なら、剣へ手をやったそいつは何だ」


 町の者たちの視線が右側の兵士へ集まる。


 男は慌てて手を離した。


「警戒しただけです」


「誰を?」


「あなたを」


「俺は武器を抜いていない」


「古の塔の魔導具を持っていると報告されています」


「誰から聞いた?」


 また言葉が止まる。


 ハンスが低い声を出した。


「おい」


 領主府兵へ一歩近づく。


「お前ら、アルのこと知ってたのか?」


「下がってください」


「答えろよ」


「民間人は下がれ!」


 領主府兵の一人が声を荒らげた。


 その瞬間。


「町の人間へ命令するな」


 ルーカスの声が響いた。


 さっきまで黙っていた彼が、ハンスと兵の間へ半歩だけ身体を入れる。


「何だと?」


「この町の者へ、理由も示さず命令するなと言っています」


「貴様、何者だ」


「今は答える必要がありません」


「身分証を出せ!」


「断ります」


「役場警備! そいつを拘束しろ!」


 役場警備たちが動こうとする。


「止まれ」


 俺が言った。


 六人の足が止まる。


「誰の命令で、この二人を拘束する?」


「町長です!」


 役場警備の一人が答えた。


「理由は?」


「不審者だからです!」


「何をした?」


「身分を明かしません!」


「身分を明かさない旅人は、全員拘束するのか?」


「今は非常時です!」


「誰が非常時にした?」


「近衛が――」


「近衛はまだ町へ入っていない」


 言い切る。


「町の門を閉めたのは町長。武装兵を市場へ入れたのは領主府。住民を囲んでいるのも、お前たちだ」


 役場警備たちの表情が揺れた。


 六人全員が事情を知っているわけではない。


 命令されたから来た。


 それだけの者もいるはずだ。


「お前たちは、何を聞かされている?」


「何をって……」


「近衛が町を襲うと聞いたのか?」


「王都の兵が、許可なく町へ接近していると」


「それだけか?」


「領主府へ敵対する者が、町の中へ入り込んでいるとも」


 視線が俺へ向く。


「俺か」


 役場警備は答えない。


「元王太子アルフォンスが、領主府へ反乱を起こそうとしている。そんな説明か?」


「……詳しくは」


「誰から聞いた?」


「町長です」


「領主府兵から直接は?」


「ありません」


 やはり。


 役場警備まで全員が敵というわけではない。


 命令の流れを分けなければならない。


「なら、お前たちは一度下がれ」


「ですが、町長命令が」


「町長の命令と、町の人間を危険へ晒すことは同じじゃない」


「我々は役場警備です」


「だからこそだ」


 六人を見る。


「守る相手は町長だけか?」


 誰も答えない。


 市場にいる住民たちも黙っている。


「この町で暮らしている者を守るための警備じゃないのか?」


 最年長に見える警備員が、僅かに俯いた。


「……そうです」


「なら、自分で見ろ」


 俺は周囲を示した。


 倒れた屋台。


 散らばった野菜。


 壁際へ追いやられた住民。


 泣きそうな子供を抱く母親。


「今、誰が町を怖がらせている?」


 沈黙が落ちた。


「命令に従うなとは言わない」


 それも違う。


 俺が新しい命令者になるだけだ。


「でも、何をさせられているのかは考えろ」


 最年長の警備員がゆっくり顔を上げる。


「……門を閉めるだけだと聞いていました」


「市場の人間を囲めとも?」


「それは、領主府の方から」


 視線が領主府兵へ向く。


 中央の男が顔をしかめた。


「治安維持に必要な措置です」


「住民を閉じ込めることが?」


「混乱を防ぐためです」


「外へ情報を出させないためじゃないのか?」


「何を根拠に」


「グレゴルが消えた」


 男の顔から、今度こそ僅かに色が消えた。


「礼拝堂へ送った兵も戻っていない」


「……」


「そして、王都の近衛が来た」


 俺は一歩前へ出る。


「だから、町を閉じた」


「憶測です」


「ああ。今のところはな」


 断定はしない。


 証拠がない部分まで決めつければ、今までと同じになる。


「だから確認する」


「何を?」


「町長に会う」


「できません」


 即答だった。


「なぜ?」


「町長は現在、役場で重要な対応を」


「なら役場へ行く」


「お通しできません」


「なぜ?」


「治安上の理由です」


「便利な言葉だな」


 何でも治安維持。


 何でも安全のため。


 王宮でも何度も聞いた。


 そして、俺自身も使った。


「アル様」


 後ろからアンナマリーの声がした。


 振り返る。


 彼女は市場の端で、壁際へ寄せられた女性から何かを聞いていた。


「何だ?」


「門を閉じる前、役場から荷車が一台出たそうです」


 領主府兵の顔が変わる。


「荷車?」


「はい。布を被せた荷物を積んで、東門から」


「いつ?」


「鐘が鳴る少し前です」


「誰が見た?」


 アンナマリーの隣にいる女性が、おずおずと手を上げる。


「私です」


「話せるか?」


「はい」


 怖そうに領主府兵を見ながら、それでも頷く。


「野菜を届けに東側へ行っていて……役場の裏から荷車が出てきました。いつもの荷運びじゃありません。兵が二人ついていました」


「領主府の?」


「同じ黒い縁の外套でした」


 市場の視線が、再び四人へ集まる。


「何を運んだ?」


「分かりません。布がかかっていて」


「大きさは?」


「木箱が……三つか四つ」


「行き先は?」


「東門を出ました」


 東。


 王都ではない。


 領主府の本拠地へ向かう道。


「エル」


『はい』


「東門から出た荷車を追えるか?」


『塔の直接観測範囲外です。ですが、街道上の旧式中継標識に接続できる可能性があります』


「やれ」


『開始します』


 領主府兵の中央の男が声を荒らげた。


「勝手な調査は認められません!」


「なぜ?」


「領主府の管轄です!」


「何を運んだ?」


「知りません」


「なら調べても困らないだろう」


「管轄の問題です!」


「町の支援記録を焼いたのも管轄か?」


 男が黙る。


「補償金を消したのも?」


「……」


「病気の子供の申請を止めたのも?」


「我々兵士には関係ありません」


「そうかもしれない」


 そこで止める。


 兵士だからといって、全部を知っているとは限らない。


「なら、お前たちにも聞く」


「何を」


「何を命じられて、ここへ来た?」


「治安維持です」


「それ以外は?」


「ありません」


「グレゴルを知っているか?」


「知りません」


「礼拝堂へ行った兵を?」


「知りません」


「焼却場を?」


「知りません」


「エマを?」


「知りません」


 全部同じ答え。


 だが。


「では、なぜグレゴルが生きていると聞いて動揺した?」


「していません」


「なぜ俺が古の塔の魔導具を持っていると知っている?」


「報告を受けました」


「誰から?」


「それは……」


「なぜ答えられない?」


 男の額へ汗が浮かぶ。


 周囲の町民にも分かる。


 説明が崩れている。


「隊長」


 領主府兵の一人が、小さく呼んだ。


「黙れ」


「ですが」


「黙れ!」


 怒鳴った瞬間、その兵士の顔が強張った。


 何かを知っている。


「今、話してもいい」


 俺はその兵士へ言った。


「殿下」


「アルでいい」


「……」


「命令を破れとは言わない」


 そう言いながら、自分でも矛盾を感じる。


 話せば、命令違反になるかもしれない。


「でも、お前が何を知っているかは、お前自身が決めて話せる」


「やめろ!」


 中央の男が剣の柄へ手をかけた。


「隊長!」


 ルーカスが叫ぶ。


「抜くな!」


「黙れ!」


 剣が半分抜かれる。


 町民から悲鳴が上がった。


「ルーカス!」


「はい!」


「拘束環、使用許可!」


「承知しました!」


 ルーカスが革袋から小さな金属環を取り出す。


 投げる。


 今度は自分の足元ではなかった。


 銀色の環が空中で一度光り、剣へ手をかけた領主府兵の腕へ向かって飛ぶ。


「何だ――」


 環が二つへ分かれた。


 片方が手首。


 もう片方が足首。


 青白い光の帯が一瞬で繋がる。


「うおっ!」


 男の身体が崩れた。


 剣は鞘から半分出たところで止まり、そのまま石畳へ膝をつく。


 市場が静まり返る。


 ルーカス本人も目を丸くしていた。


「……成功しました」


「当たり前だ」


「少し感動しています」


「今するな」


「はい」


 ニールが隣で小さく息を吐く。


「自分を縛らなくてよかったですね」


「今言うな」


 こんな状況なのに。


 市場のどこかから、小さな笑いが漏れた。


 ほんの一瞬。


 だが、その一瞬で、張り詰めきっていた空気が少しだけ動いた。


「残り三人」


 俺は領主府兵を見る。


「剣から手を離せ」


「隊長を解放しろ!」


「先に武器を抜いたのはそいつだ」


「王国の正規兵を拘束したぞ!」


「町民へ向けて剣を抜こうとした兵を止めた」


「我々は町民へ向けたのではない!」


「では誰へ?」


 答えがない。


「俺か?」


 沈黙。


「俺へなら抜いていいと思った?」


「元王太子は現在、王位継承権を――」


「今、その話は関係ない」


 俺は拘束された男の前へ立つ。


「解放はする」


「なら今すぐ」


「ただし、剣は預かる」


「ふざけるな!」


「嫌なら、そのままだ」


 男が歯を食いしばる。


「エル」


『はい』


「拘束環は、剣を置けば解除できるか?」


『可能です』


「聞いたな」


「……」


 長い沈黙。


 市場の全員が待っている。


 やがて男は、ゆっくりと剣から手を離した。


「剣を」


 部下の一人が迷いながら抜き取り、地面へ置く。


「エル」


『拘束を解除します』


 青白い光が消えた。


 男はすぐに立ち上がったが、剣へは手を伸ばさなかった。


「残りも武器を置け」


「なぜだ」


「話を続けるためだ」


「我々を捕虜にするつもりか?」


「違う」


「では」


「信じきれない相手と、同じ場所で話すために必要な距離を作る」


 自分で言いながら、今朝の広場を思い出す。


 近衛も信じきってはいない。


 領主府兵は、もっと信じられない。


 それでも、今ここで全員を敵と決めれば、町が戦場になる。


「武器を置け。代わりに拘束はしない」


「逃げたら?」


「追わない」


 周囲がざわめく。


「主様」


 セリーも少し驚いた顔をした。


「ただし」


 続ける。


「町の人間へ危害を加えず、役場へ戻るだけならだ」


「情報を持ち帰られるぞ」


 ハンスが言う。


「ああ」


「いいのか?」


「隠せる段階じゃない」


 俺が生きていること。


 近衛が来ていること。


 グレゴルが生きていること。


 もう相手へ伝わる。


「それより、ここで戦わない方が大事だ」


 ハンスは納得しきれない顔をした。


 だが、何も言わなかった。


 領主府兵三人が互いを見る。


 一人。


 二人。


 最後に三人目。


 剣と槍が、ゆっくり石畳へ置かれた。


「役場警備も」


 俺は六人へ向く。


「武器を置けとは言わない」


 彼らの表情が揺れる。


「町の人間を囲むのをやめてくれ」


「町長命令が」


「命令を破るかどうかは、自分たちで決めろ」


 俺は道を空ける。


「でも、俺は役場へ行く」


「……」


「止めるなら止めろ」


 誰も動かなかった。


 最年長の警備員が、ゆっくり横へ退く。


「俺は」


 彼は苦しそうに言った。


「町を守るために、この仕事へ入りました」


「ああ」


「町長を守るためじゃない」


 隣の警備員が彼を見る。


「おい」


「分かってる。でも……」


 男は壁際の住民たちを見る。


「これは違う」


 一人が退いた。


 次にもう一人。


 六人全員ではない。


 だが、三人が住民を塞いでいた位置から離れた。


 残り三人も、武器へ手をかけたまま迷っている。


「決めるのは後でもいい」


 俺は言った。


「今は、町の人を家へ帰してくれ」


 その言葉に。


 残りの三人も、少しずつ道を空けた。


 壁際へ寄せられていた者たちが動き始める。


 母親が子供の手を引く。


 老人が倒れた籠を拾う。


 八百屋の女性が、石畳へ散らばった野菜を集め始める。


 誰も歓声は上げない。


 誰も勝ったとは言わない。


 ただ。


 市場が、少しずつ町へ戻っていった。


「アル」


 ハンスが呼ぶ。


「何だ?」


「俺、店の肉を踏まれた」


「知らん」


「近衛に買わせる予定だったのに」


「踏まれた肉を売るな」


「洗えば」


「駄目だ」


「もったいないだろ」


「自分で食え」


「お前も食え」


「嫌だ」


「元王太子のくせに贅沢言うな」


「元王太子は関係ない」


 周囲から、また小さな笑いが起こった。


 笑える者だけ。


 まだ怖くて笑えない者もいる。


 それでいい。


 全員が同じ気持ちになる必要はない。


「アル様」


 アンナマリーが近づいてくる。


「さきほどの女性から、荷車のことをもう少し聞いてもよいですか?」


「ああ」


「私が?」


「お前が聞け」


 彼女の目が僅かに大きくなる。


「自分で選んだ役割だろ」


「はい」


「ただし、怖がらせるな」


「分かっています」


 アンナマリーは女性の方へ戻っていった。


 セリーがその背中を見つめる。


「主様」


「何だ?」


「アンナマリーさんへ任せましたね」


「ああ」


「心配ですか?」


「かなり」


「止めませんでした」


「本人がやると言ったからな」


「成長です」


「誰の?」


「主様のです」


「俺か」


「はい」


 納得できない。


 だが、否定もできなかった。


「アル殿」


 ルーカスが近づいてくる。


「何だ?」


「先ほどの拘束環についてですが」


「壊したか?」


「違います」


「なら?」


「一つお願いがあります」


「何だ」


「もう一度、訓練させてください」


「なぜ?」


「今のは成功しましたが、かなり緊張しました」


「そうか」


「次はもっと上手くできます」


「自分を縛るなよ」


「もうしません!」


 声が大きい。


 ハンスがすぐ振り返る。


「声がでかい!」


「……すみません」


 また市場へ笑いが起こった。


 俺はその光景を見ながら、役場の建物がある方角へ視線を向けた。


 まだ何も終わっていない。


 町長が何を知っているのか。


 東門から出た荷車に何が積まれていたのか。


 領主府兵がどこまで命令を受けているのか。


 グレゴルの証言と、フェリクスが調べている薬品。


 近衛も、完全には信用できない。


 領主府は、もっと信用できない。


 役場の人間も、一人ずつ違う。


 町の者たちだって、俺を全員が信じているわけではないだろう。


 それでも。


 信じきれないから、何もしないわけではない。


 全部を任せなくてもいい。


 役割を限定して。


 互いに見て。


 間違えたら止めて。


 必要なら離れる。


 それでも、一緒に町を守ることはできる。


『主様』


 エルの声が腕輪から響いた。


「どうした?」


『東街道の旧式中継標識との接続に成功しました』


 俺は役場から視線を外した。


「荷車は?」


『該当する可能性が高い車両を確認しました』


「どこへ向かっている?」


 僅かな間。


『領主府方面ではありません』


「何?」


 周囲にいた者たちの表情が変わる。


『東街道を途中で外れ、北東の旧道へ進んでいます』


「旧道の先は?」


『現在の地図では、廃棄された採掘場が一か所あります』


 嫌な予感がした。


「他には?」


『二千年前の記録と照合します』


 短い沈黙。


『該当地域地下に、古代管理施設の存在記録があります』


 セリーが俺を見る。


「主様」


「ああ」


 領主府が何を知っているのか。


 古の塔だけではない。


 もっと前から、何かを探していた可能性がある。


「エル」


『はい』


「荷車を見失うな」


『追跡を継続します』


 俺は役場の方角と、東門の向こうを交互に見た。


 町を守るだけで終わると思っていた。


 だが。


 どうやら、領主府が隠しているものは、俺たちが考えていたよりずっと深いところまで繋がっているらしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。