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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第19話 元王太子、帰らないという返事を自分の名で書く

目を覚ました時、寝室の窓はまだ薄暗かった。


 夜が明けきる前の空は、青とも灰色ともつかない色をしている。森を覆う霧は低く、古の塔の外壁へ沿うようにゆっくりと流れ、窓硝子の向こうに見える木々の輪郭を曖昧にしていた。


 身体を起こそうとして、俺は途中で動きを止めた。


 寝台のすぐ脇へ置かれた椅子に、セリーが座っていたからだ。


 背もたれへ身体を預け、両手を膝の上で重ねている。淡い青色のエプロンは外していたが、いつもの服の裾には昨日の礼拝堂でついた埃が僅かに残り、銀色の髪も普段より少しだけ乱れていた。


 目を閉じている。


 眠っているように見えた。


「セリー」


 声を抑えて呼んでみる。


 返事はない。


 彼女がどれほど眠る必要のある存在なのか、俺はまだ正確には知らなかった。


 現代の分類へ当てはめれば、魔導人形に近い構造なのだという。だが、自分で考え、笑い、怒り、心配し、食事の味を楽しみ、疲れたように肩を落とすこともある。ならば身体の構造が何であろうと、休む必要がまったくないとは思えなかった。


「寝台を使えばよかったのに」


「主様の寝台ですので」


 目を閉じたまま返事が返ってきた。


「起きていたのか?」


「今、起きました」


「本当に?」


「主様と同じくらい本当です」


「それは信用できないな」


 昨夜、俺も眠ると言いながら何度も書斎へ行こうとした。


 自分で言われている意味が分かってしまい、反論しにくい。


 セリーはゆっくり瞼を上げると、こちらの顔を確認するように少し身を乗り出した。


「よく眠れましたか?」


「何時間だ?」


『三時間二十七分です』


 右手首から、待っていたようにエルの声が響いた。


「三時間の約束だったな」


「二十七分は追加です」


「勝手に増やしたのか?」


「起こすには、あまりにも気持ちよさそうでしたので」


「王国軍を外へ待たせているんだぞ」


『近衛騎士団第三小隊は森の外縁部へ後退し、野営準備を完了しています』


「結界へ触れていないか?」


『新たな干渉は確認されていません』


「ガルムは約束を守ったか」


『現時点では』


 現時点では。


 相手を信用しているとも、していないとも言わない。事実だけを答えるあたりが、いかにもエルらしい。


「迎撃庭園の三人は?」


『ブラットは簡易寝具を使用し、現在も休息中です。アンナマリーは約一時間前まで起きていましたが、現在は休息状態へ移行しています』


「フェリクスは?」


 少し嫌な予感がした。


『第一迎撃庭園の移動制限機能を四度検証したため、現在は中央椅子付近へ固定されています』


「四度?」


『一度目は外周への接近。二度目は銀扉への接触。三度目は花壇内部の魔力導線確認。四度目は、本人の説明によれば「固定後の解除条件確認」です』


「何をしているんだ、あいつは」


「研究者として、とても元気ですね」


「元気で済ませるな」


『なお、五度目の試行を防止するため、現在は中央椅子から三歩以上離れられない設定です』


「朝までそのままにしておけ」


『承知しました』


 研究対象を目の前へ置かれた研究者を庭園へ放置した俺にも、多少の責任があるのかもしれない。


 だが、四回は多い。


「グレゴルは?」


 今度はエルの返答までに、ほんの僅かな間があった。


『客室区画第五室で起きています』


「眠らなかったのか?」


『二時間十四分の睡眠後、机へ向かっています』


「何をしている?」


『室内の内容は観測していません。出入りの試行および危険魔力のみを確認しています』


「ああ、そうだったな」


 自分で決めた。


 安全のために見張ることと、生活を覗くことは違う。


 グレゴルはまだ完全には信用できない。だから外へ自由に出ることは許していないが、寝ている姿や机で何をしているかまで監視するつもりはなかった。


「主様」


「何だ?」


「先に顔を洗いますか。それとも朝食にしますか?」


「文書を書く」


「先に顔を洗います」


「書斎へ向かいながらでも」


「顔を洗って、朝食を食べてから書斎です」


「時間が惜しい」


「国王陛下へ、寝起きの状態で書かれた手紙を送るのですか?」


「顔は手紙に映らない」


「心は映ります」


 少し大袈裟だ。


 そう思ったが、否定しきれなかった。


 これから書く相手は、国王であると同時に父親でもある。


 昨夜聞かされた命令書の内容。


 古の塔の調査。


 遺産の安全確保。


 そのあとに置かれた、元王太子アルフォンス・ガイゼンの生死確認と保護。


 寝起きの頭で書けば、必要以上に刺々しくなる可能性はあった。


「顔を洗う」


「はい」


「朝食は軽く」


「承知しました」


 セリーが満足そうに立ち上がる。


 だが、その姿を見ていて、今度はこちらが気になった。


「お前は休んだのか?」


「椅子で少し」


「寝台を使えばよかった」


「主様の隣で?」


「客室があるだろう」


「先にそちらを言うのですね」


「何を期待していたんだ」


「何も」


 返事だけなら素直だった。


 声は明らかに少し不満そうだ。


「セリー」


「はい?」


「次からは、椅子で待つな」


「では、どこで待てば?」


「自分の部屋で休め」


「主様が起きた時に、誰もいません」


「エルがいる」


『常時待機しています』


「エルさんは、お茶を淹れられません」


『給仕用魔導具を起動できます』


「主様のお顔を見て、必要な言葉を選べません」


『過去の会話記録および表情変化から推定可能です』


「張り合わないでください」


 朝から、俺を挟んで何を競っているのだろう。


 それでも、昨夜まで胸の奥へ張りついていた緊張が、少しだけ薄くなった。


「分かった」


「何がです?」


「次から、そこではなく長椅子を使え」


「寝室に長椅子はありません」


「置けばいい」


『設置可能です』


 エルが即答した瞬間、セリーの表情が明るくなった。


「主様の寝室に、私の長椅子を置いてくださるのですか?」


「休むためだ」


「はい」


「毎晩そこにいる必要はないからな」


「はい」


 返事が素直すぎる。


 絶対に別の意味へ受け取っている。


「エル。まだ設置するな」


『保留します』


「残念です」


「顔に出すな」


「主様も少し嬉しそうです」


「気のせいだ」


 俺は逃げるように寝台から降りた。


          ◇◇◇


 朝食は、薄く焼いたパンと野菜のスープだった。


 普段なら静かな食堂にも、今朝は目には見えない緊張が残っているように感じる。


 塔の外には近衛騎士団。


 第一迎撃庭園には、王都から俺を探してきた三人。


 客室区画には、領主府の不正を証言すると決めたグレゴル。


 誰一人として今この食堂にはいない。


 それでも、自分とセリーだけしかいなかった昨日までと比べれば、古の塔そのものが急に狭くなったような、不思議な感覚があった。


「主様」


「何だ?」


「スープが止まっています」


「考えていた」


「食べながら考えてください」


「難しい要求だな」


「スープは噛む必要がありません。口へ運んでから飲み込むまでの間も考えられます」


「具体的すぎる」


 仕方なく匙を動かす。


 温かなスープが喉を通り、空腹を自覚していなかった身体へ少しずつ熱が戻ってきた。


「文書へ何を書くかは、決まっていますか?」


 セリーが向かいから尋ねる。


「大まかには」


「聞いても?」


「塔の所有権が俺にあること」


「はい」


「王都へ戻る意思がないこと」


「はい」


「近衛を含めた王国軍へ、結界からの撤退を求める」


「はい」


「それと、精神干渉の件について、正式な調査資料の開示を要求する」


 セリーの匙が止まった。


「国王陛下が知っていたのか、直接確認するのですね」


「ああ」


「曖昧にせず?」


「曖昧にしても、ずっと残る」


 父上が知っていたのか。


 フェリクスの報告そのものが届かなかったのか。


 誰かが途中で止めたのか。


 あるいは。


 精神系魔術の痕跡があると知りながら、俺を裁いたのか。


 そこだけは、いずれ確認しなければならない。


「怖いですか?」


「ああ」


 以前なら、すぐに否定していただろう。


 国王へ問いを送る程度で恐れるものか。


 そういう顔を作った。


 今は、怖いものを怖いと言っても、何かが失われるとは思わなくなってきた。


「どの答えでも?」


「ああ」


 知らなかったと言われれば、王宮の仕組みそのものへ疑いが生まれる。


 知っていたと言われれば。


 父親は、異常を抱えている可能性のある息子を、そのまま古の塔へ送ったことになる。


「返事が来なくても?」


「それも、一つの答えだ」


 セリーはしばらく俺を見ていた。


 慰めるでもなく、父上を悪く言うでもない。


 その距離がありがたかった。


「私も文書を見てよいですか?」


「もちろんだ」


「勝手に内容を書き換えたりはしません」


「食事の話も入れるな」


「一行だけなら」


「入れるな」


「国王陛下は、主様がお元気にしているか気になるかもしれません」


「遺産より後だ」


 口へした瞬間、自分でも分かるほど声が硬くなった。


 セリーも気づいたようで、すぐには答えなかった。


「命令書へ書かれた順番と、国王陛下のお気持ちが同じとは限りません」


「分かっている」


「はい」


「それでも、あの並びで命令書が作られた」


「はい」


「父上の名で」


「はい」


 それを無理に良い意味へ変えたくはない。


「元気だとまでは書かなくていい」


「では、無事であることを」


「それならいい」


「食事も取れていることを」


「増やすな」


「残念です」


 思わず笑ってしまう。


 セリーも少し笑った。


 父上へ怒っている。


 怖い。


 それでも、朝食は食べられるし、セリーとくだらない言い合いもできる。


 感情は一つでなくていい。


 最近になって、ようやくそんな当たり前のことを覚え始めていた。


          ◇◇◇


 書斎へ入ると、机の中央に白い便箋と黒いインクが用意されていた。


 普段使用している書類用紙とは違う。


 紙の縁には細い銀線が入り、光の角度が変わるたび、見えなかった古の塔の紋章が淡く浮かび上がる。


「これは?」


『塔所有者による正式通達用文書紙です』


「正式通達?」


『二千年前、古の塔所有者が王家、諸侯、神殿、各研究機関などへ意思を通達する際に使用していました』


「まだ残っていたのか」


『一万二千四百枚保管されています』


「多すぎるだろう」


『当時の所有者は文書作成量が非常に多い方でした』


「セリーヌか」


『はい』


「一万枚以上も何を書くつもりだったんだ」


『本人の個人記録に「紙が少ないと落ち着かない」とあります』


「……少し親近感が湧いた」


 王太子だった頃、毎日のように書類へ囲まれていた。


 好きだったわけではない。


 それでも、机の上に何もないと、妙に落ち着かない時があった。


「主様」


 セリーが机の向かいへ座る。


「最初は、どのように?」


「国王陛下へ、でいいだろう」


「父上へ、ではなく?」


 ペンを取ろうとした手が止まった。


 これから書く相手は国王だ。


 だが、聞きたいことの一部は、国王としてではなく父親として答えてほしい。


「両方だ」


「一通の文書で?」


「ああ」


「難しいですね」


「だから今から考える」


 セリーはそれ以上急かさなかった。


 俺はペンを取り、最初の一行を書く。


『ガイゼン王国国王、ロベルト・ガイゼン陛下へ』


 父上の名を自分の手で書くのは、ひどく久しぶりに感じた。


 公文書や命令書の中では何度も見た。


 だが、宛名として書くと、指先へ僅かな重さが乗る。


「続きは?」


「急かすな」


「失礼しました」


 書斎へ静けさが戻る。


 ペン先が紙を擦る小さな音。


 それだけが、しばらく続いた。


『近衛騎士団第三小隊の到着を確認した。彼らより、古の塔の調査、遺産の回収、ならびに私の生死確認と保護を目的とする王命について説明を受けた』


 ここまでは、感情を入れる必要がない。


 事実だけだ。


『まず伝える。私は生きている。身体に現在直ちに生命へ関わる異常はなく、自らの意思で古の塔に留まっている』


 精神干渉の残滓が完全に消えたとは断言できない。


 それでも。


 今、ここで生きると決めている意思まで誰かに作られたものではない。


 次の一行を書く。


『私は王都へ戻らない』


 短い。


 あまりにも短い言葉だった。


 だが、書いた瞬間、胸の奥へ大きなものが落ちたような感覚があった。


 これまでの人生と。


 これからの人生。


 その間へ、自分の手で一本の線を引いたようだった。


「主様」


「ああ」


「その一文は、そのままでよいと思います」


「理由がなければ、ただの反抗に見える」


「反抗ではありませんか?」


「少しはな」


「でしたら、それも隠さなくてよいかと」


「お前は時々、妙なところで強いな」


「主様から学んでいます」


「悪いところまで学ぶな」


 俺は続きを書く。


『これは、王家や国を憎み、そのすべてを捨てるための判断ではない。私は王太子位を返上させられ、古の塔へ幽閉された。その裁定を受けた者として、王家へ戻る義務も、王位へ復帰する意思も持たない』


「返上させられた、でよいのですか?」


「事実だ」


「はい」


『私は現在、二千年前の魔導具師セリーヌより、この塔および内部遺産の正当な所有権を譲渡されている。譲渡記録と現所有者認証は塔が保持しており、王家の権限鍵より現所有者の意思が優先されることは、近衛騎士団第三小隊も確認済みである』


「所有権の証拠は?」


「全部は出さない」


「複写を?」


「ああ」


『所有権譲渡記録のうち、必要部分の複写を添付する。ただし、塔内部の全記録、魔導具、構造、研究資料への調査権を王家へ認めるものではない』


「強い書き方ですね」


「弱く書けば、解釈される」


 王宮で長く書類を読んできた。


 曖昧な一文が、都合よく広げられることも知っている。


『近衛騎士団を含む王国軍に、古の塔外周結界からの撤退を命じるよう求める。結界への王家権限干渉は、周囲の森林、地下水脈、リュネの生活圏へ悪影響を及ぼす可能性がある。王命の遂行を理由として、民の生活を損なう行為は認めない』


「命じる、ではなく、命じるよう求める、なのですね」


「俺は国王じゃない」


「ですが、塔の所有者です」


「王国軍そのものへ命令する権限はない。俺にあるのは、自分の土地から出ていけと言う権利だ」


「線を分けるのですね」


「ああ」


 以前の俺なら、王太子という立場を使い、どこまで命令できるかを先に考えた。


 今は、自分がどこまで決めてよいのかを考える。


 似ているようで、大きく違う。


「次ですね」


「ああ」


 ここからが最も書きたくない部分だった。


 それでも逃げられない。


『また、私に精神干渉が行われていた可能性について、王宮魔導研究所所属フェリクス・アーデンより説明を受けた。彼の証言では、卒業舞踏会の八日前、精神系魔術の残滓を確認し、研究所長を通じて国王および王宮医務局へ報告したという』


 ペンを動かすほど、呼吸が浅くなる。


 セリーは声をかけず、机の上へそっと片手を置いた。


 触れてはいない。


 けれど、少し手を伸ばせば届く距離。


 それで十分だった。


『父上』


 国王陛下ではなく。


 父上。


 その二文字だけが、公文書らしい文面の中で妙に浮いて見えた。


『この報告を知っていたのか』


 手が止まる。


 言葉を飾る必要はなかった。


『知っていた上で、私を裁いたのか。知らなかったのであれば、報告はどこで止められたのか。回答を求める』


 最後の文字を書いたところで、手が僅かに震えた。


 インクが一か所だけ滲む。


「書き直しますか?」


 セリーが尋ねた。


「いや」


「少しだけ滲んでいます」


「このままでいい」


 整いすぎた文字だけを並べれば、また以前の王太子の文書になる。


 これは今の俺が書いた。


 その痕跡くらい残ってもいい。


「続ける」


『私は、自身がアンナマリーへ向けた言葉や態度を、精神干渉だけの責任とするつもりはない。私の言葉で彼女を傷つけた事実は残る。同時に、異常の可能性を把握しながら調査も保護も行われなかったのであれば、その責任も明らかにされるべきだと考える』


 アンナマリーの名を書く。


 胸は痛んだ。


 だが、それも消す必要はない。


『この件について、王位復帰や名誉回復を要求するものではない。調査の結果が何であろうと、私は王都へ戻らない。その意思は変わらない』


「そこまで、はっきり書くのですね」


「ああ」


 父上が知らなかったとしても。


 報告を握り潰した者が別にいたとしても。


 謝罪されたとしても。


 王太子へ戻れと言われても。


 それは、それ。


 俺が古の塔で生きたいと思うこととは別だ。


『ただし、事実の隠蔽は認めない。私に対する裁定、精神干渉の疑い、研究所報告の経路について正式な記録を保存し、関係者へ開示することを求める』


「関係者とは?」


「アンナマリー、ブラット、フェリクス。それから、必要なら王国議会」


「国民全体へは?」


「まだだ」


 証拠は完全に揃っていない。


 疑いだけで国全体へ発表すれば、大きな混乱を生む。


 王家を揺らすこと自体が目的ではない。


「最後は?」


 セリーに尋ねられ、俺はしばらく白い紙の余白を見つめた。


 戻らない。


 塔へ入るな。


 答えろ。


 それだけで終えてもよかった。


 だが、それでは父上へ、俺がなぜ戻らないのかが伝わらない気がした。


『私は現在、古の塔で生活している』


「食事のことを」


「書かない」


「まだ何も言っていません」


「顔に出ている」


 セリーが少しだけ頬を膨らませる。


 その横で、続きを書いた。


『塔の管理者セリーと共に、自分で選んだ暮らしをしている』


 セリーの動きが止まった。


「私の名前を?」


「ああ」


「国王陛下への正式文書に?」


「嫌か?」


「いいえ」


 いつもより少しだけ声が細い。


「とても嬉しいです」


「そうか」


 それ以上は言わず、続きを書く。


『王太子として国全体を守ると言いながら、私は地方から届いた一枚の報告を信じ、現地監査を延期した。その結果、見落としたものがあった』


 グレゴルの虚偽報告。


 領主府の隠蔽。


 薬を止められたエマ。


 補償金を減らされたミロとマリア。


 紙一枚の向こうにいた者たち。


『今は、目の前にある一枚ずつを見る。名を知った者を、権力や制度の都合だけで切り捨てない。その生き方を選んだ』


 そして最後に。


『国へ戻らなくても、この国で生きる人を見捨てるつもりはない』


 ペンを置いた。


 残るのは署名だけ。


 以前なら迷わず書いた。


 王太子アルフォンス・ガイゼン。


 だが、今は違う。


 俺はゆっくりと、自分の新しい立場を記した。


『古の塔所有者 アルフォンス・ガイゼン』


 最後の線を書き終えた瞬間、便箋の縁を走る銀線が淡く輝いた。


『正式通達文書として所有者署名を認証しました』


 紙の下部へ、古の塔の紋章が浮かび上がる。


「できたな」


 口にした途端、肩へ入っていた力が抜けた。


「はい」


 セリーはすぐ文書へ手を伸ばさず、俺を見ている。


「読み返しますか?」


「ああ」


「私が読みましょうか?」


「頼む」


 今は、自分の声で読み返すのが少し辛かった。


 セリーが文書を持つ。


 一行ずつ。


 急がず。


 俺の書いた言葉を読み上げていく。


 戻らない。


 塔を渡さない。


 答えを求める。


 国を捨てない。


 そして、自分で選んだ暮らしを続ける。


 自分で書いたはずなのに、彼女の声で聞くと、それぞれの言葉がもう一度胸へ戻ってくる。


「以上です」


「直した方がいいところは?」


「一つだけ」


「食事は入れない」


「違います」


 セリーが指で示した。


『塔の管理者セリーと共に、自分で選んだ暮らしをしている』


「ここです」


「何か問題があるか?」


「塔の管理者ではなく」


 彼女は一度言葉を止めた。


 普段なら迷わず話すところで、珍しく視線を落とす。


「……家族、と書いていただくのは」


 胸が跳ねた。


 セリーは俺の表情を見た瞬間、すぐに首を振った。


「申し訳ありません。忘れてください」


「なぜ謝る」


「まだ、主様が決める言葉だと思いました」


 家族。


 俺はその言葉を簡単に使えなくなっていた。


 父上。


 弟。


 王家。


 血が繋がっていれば、それだけで家族なのか。


 では、セリーは何なのか。


 帰れば待っている。


 食事を作る。


 眠らなければ叱る。


 危険な場所へ一緒に来る。


 怖かったと言う。


 俺が「ただいま」と言えば、「おかえりなさい」と返す。


「管理者では足りないな」


 セリーが顔を上げた。


「では」


「同居人」


「主様」


「冗談だ」


「今、少し本気でしたね」


「少しだけ」


「家族は?」


 逃がしてくれない。


「まだ、上手く言えない」


「はい」


「でも、管理者だけではない」


「はい」


「だから」


 ペンを取り、該当部分へ線を引く。


『塔の管理者セリーと共に』


 そこを消し、書き直した。


『セリーと共に、自分で選んだ暮らしをしている』


「これでどうだ?」


「はい」


 セリーが笑う。


「今は、それで十分です」


 今は。


 以前なら、中途半端な答えのように感じたかもしれない。


 今日は、その言葉が嫌ではなかった。


          ◇◇◇


 正式文書の複写と封印をエルへ任せ、俺たちは客室区画へ向かった。


 近衛へ文書を渡す前に、グレゴルの証言内容を確認しておきたかった。


 廊下を歩くセリーの足取りは、普段より少しだけ軽い。


「嬉しそうだな」


「主様が、私の名前を書いてくださいましたので」


「毎日呼んでいる」


「国王陛下へ送る正式文書です」


「そんなに違うか?」


「はい」


「なぜ?」


「主様が選んだ暮らしの中へ、私がいると書いてくださったからです」


 そこまで言われると、こちらまで恥ずかしくなる。


「事実を書いただけだ」


「事実なら、もっと嬉しいです」


「そういうものか」


「そういうものです」


 客室区画第五室の前へ着く。


 扉の横には、危険な魔力反応がないことを示す淡い青色の光が浮かんでいた。


「グレゴル」


「はい」


「入るぞ」


「どうぞ」


 エルが扉を開く。


 室内は簡素だ。


 寝台。


 机。


 椅子。


 洗面設備。


 壁の一面に設けられた窓には、実際の外ではなく塔内庭園の景色が映されている。


 牢ではない。


 だが、自由に外へ出られる場所でもない。


 グレゴルは机へ向かっていた。


 右腕には、昨日セリーが巻いた治癒布が残っている。


 机の上には何枚もの紙が並べられ、その横へ空になったインク壺が一つ置かれていた。


「何をしていた?」


「証言を書いていました」


 やはり。


「誰に命じられた?」


「誰にも」


「眠れなかったからか?」


「それもあります」


 グレゴルは椅子から立ち上がった。


「忘れないうちに、書けるだけ書こうと思いました」


「三年間のことを、すぐ忘れるのか?」


「忘れません」


 声が僅かに沈む。


「でも、人は自分に都合のいい形へ記憶を変えると思います」


 自分がしたこと。


 命じられたこと。


 怖かったこと。


 逃げたかったこと。


 時間が経てば、「仕方がなかった」と書き換えたくなる。


「だから、今のうちに?」


「はい」


「見てもいいか?」


「そのために書きました」


 紙を受け取る。


 記録は年ごとに分けられていた。


 ベルナールから最初に命令を受けた日。


 クララを領都の施療館へ移すと告げられた日。


 遺族補償金の差額を裏帳簿へ移した方法。


 未成年医療支援を予算不足として却下した件数。


 食料支援物資の一部を領都の商人へ流した記録。


 関わった者の名も書いてある。


 ベルナール。


 オズワルド。


 ローレン。


 役場の補助官。


 商業組合の一部職員。


「ここまで多いのか」


「全員が、すべてを知っていたわけではありません」


「分けてあるな」


「はい」


 グレゴルは、自分で書いた紙へ視線を落とす。


「命令した者。金額まで知っていた者。帳簿の一部分だけを書き換えた者。何も知らず、通常業務だと思って印を押した者。それぞれ分けました」


 一つへまとめていない。


「お前が全部の罪を被るつもりかと思った」


「最初は、その方が楽だと思いました」


「楽?」


「私が全部やったと言えば、説明が短く済みます」


「ベルナールたちも助かるな」


「はい」


 グレゴルの顔が歪む。


「それでも最初は、自分一人が悪かったことにした方が、考えなくて済むと思いました」


「今は?」


「私がしたことと、していないことを分けます」


 昨日、セリーが俺へ教えたことと同じだった。


 責任を分ける。


 自分の罪を薄めるためではない。


 本当に責任を負うべき者を曖昧にしないために。


「これは?」


 クララに関する項目があった。


 領都の施療館。


 担当医と思われる名。


 領主府が送った治療費。


 だが、半年前から記録が途切れている。


「最後の手紙です」


 グレゴルは一度躊躇ったあと、服の胸元へ手を入れた。


 内側へ縫いつけてあった糸を解き、折り畳まれた小さな紙を取り出す。


「持っていたのか?」


「はい」


「昨日も?」


「礼拝堂にも持っていきました」


「なぜ出さなかった」


「読み返すのが怖かった」


 俺は紙を受け取った。


 何度も開いて、何度も折り直された跡がある。


 筆跡は細く、ところどころ震えていた。


『兄さんへ』


 クララの文字。


『私は大丈夫です。先生も親切です。冬が来る前には、また外を歩けるようになると言われました』


 明るく書こうとしている。


 兄を安心させようとしているのだろう。


 だが、後半へ行くほど文章は短くなる。


 最後に書かれていたのは。


『兄さんは、私のために悪いことをしていませんか』


 それだけだった。


 俺は紙から目を上げる。


 グレゴルは顔を伏せている。


「返事は?」


「書きませんでした」


「なぜ?」


「書けなかった」


「そのあと、手紙は?」


「来なくなりました」


「クララは、お前の仕事を知っていたのか?」


「分かりません」


 だが、何かを感じていた。


 兄から届く言葉。


 送られてくる金。


 ベルナールとの関係。


 それらから、気づいたのかもしれない。


「この手紙も保管する」


 グレゴルの肩が僅かに揺れる。


「公開しますか?」


「勝手にはしない」


「不正へ関係しています」


「それでも、妹から兄への私信だ」


 不正を証明するためなら、何でも晒せばいいわけではない。


「必要になるなら、クララ本人の意思を確認する」


「生きていれば」


「生きている前提で探す」


 助かるとは言わない。


 必ず見つかるとも言わない。


 だが、最初から死んでいると決めて探すつもりはなかった。


「今日、町へ行く」


 グレゴルが顔を上げる。


「何をしに?」


「トーマスとイーダへ、お前を保護したことだけ伝える」


 グレゴルの表情が強張った。


「私も?」


「連れていかない」


「……そうですか」


 安堵と落胆。


 両方が見えた。


「会いたいのか?」


「分かりません」


「謝りたい?」


「それも、分かりません」


 正直だった。


「謝ってしまえば、自分だけ少し楽になる気がします」


「ああ」


「でも、何も言わないままなのも」


「今すぐ決める必要はない」


 グレゴルが苦笑する。


「また、選ばせるのですね」


「嫌か?」


「いいえ」


 ゆっくり首を振る。


「怖いですが、命じられるよりはいい」


「証言書は続けてくれ」


「はい」


「今日中に、知っている人物と場所をできる限り分けて書いてほしい」


「命令ですか?」


「頼みだ」


「断ったら?」


「困る」


 しばらく俺を見たあと、グレゴルの口元が僅かに緩んだ。


「では、やります」


「理由は?」


「私が、そうすると決めました」


 昨日までより、ほんの少しだけ声が軽かった。


          ◇◇◇


 第一迎撃庭園へ入ると、中央の石椅子へフェリクスが座っていた。


 正確には、座らされていた。


 両手は自由だが、腰から下が椅子へ固定され、立とうとしても身体が数センチ浮いたところで元へ戻されるらしい。


 少し離れた場所では、ブラットが森を見ていた。


 アンナマリーは簡易寝具を丁寧に畳んでいる。


「おはようございます」


 最初にこちらへ気づいたアンナマリーが頭を下げた。


「ああ」


「お休みになれましたか?」


「三時間以上」


「それは……」


 十分とは言わないらしい。


 困ったようにセリーを見る。


「三時間二十七分です」


「もう少しお休みになった方がよいのでは?」


「お前まで言うのか」


「申し訳ありません」


 謝っているが、考えを引っ込めた顔ではない。


「フェリクス」


「はい」


「楽しいか?」


「非常に興味深いです」


「反省していないな」


「反省しています」


「何を?」


「四度目の試行は不要でした」


「一度目から不要だ」


「一度目がなければ、移動制限の挙動が」


「エル」


『固定時間を一時間延長します』


「待ってください」


「反省しろ」


「しています」


「顔が楽しそうだぞ」


「研究者ですので」


「便利な言葉だな」


 フェリクスは研究者という言葉を免罪符に使い始めている気がする。


 ブラットがこちらへ歩いてきた。


「文書は?」


「書いた」


 彼の表情が引き締まる。


「陛下へ、何と?」


「戻らないと伝えた」


 アンナマリーの手が止まる。


 フェリクスも今度は石椅子ではなく俺を見る。


「王位へも戻らない」


「……はい」


 ブラットは静かに頷いた。


「軍の撤退を求めた。それから、精神干渉の報告を父上が知っていたのか、答えを求めた」


「そこまで書いたのですね」


「ああ」


「返答は来ると思いますか?」


「分からない」


「陛下ご本人が来る可能性は?」


「低いと思う」


「なぜです?」


「国王が、何が起きるか分からない古代遺構へ簡単に来られると思うか?」


「通常は無理です」


「なら、誰か使者を出す」


「今の王太子殿下が来る可能性は?」


 弟。


 今の王太子。


 その顔が、一瞬頭へ浮かんだ。


「分からない」


 王都を離れられるのか。


 父上が許すのか。


 そして何より、俺へ会いたいと思っているのか。


「来てほしいですか?」


 アンナマリーが静かに尋ねた。


「分からない」


 今日はそればかりだった。


 だが、分からないものを急いで決める必要はない。


「これから文書をガルムへ渡す」


「私たちも同席しますか?」


「ブラットだけ来てくれ」


 アンナマリーの顔が僅かに曇った。


「なぜ、ブラットだけなのですか?」


「ガルムが知っている王宮側の人間として必要だ」


 言ったあと、少し足りないと思って続ける。


「それだけだ」


「……承知しました」


 アンナマリーは頷いた。


「アンナマリーとフェリクスはここで待て」


「はい」


「どのみち、私は動けません」


 フェリクスが椅子を軽く叩く。


「文書の紙だけでも見せていただけませんか?」


「嫌だ」


「塔所有者用の正式通達紙ですよね?」


「なぜ分かる」


「銀線と、紙そのものへ染み込んだ魔力反応で」


「測定器は取り上げたぞ」


「目でも分かります」


「見せない」


「残念です」


「その顔をしているうちは駄目だ」


 俺はエルへ命じる。


「ガルムを通せ」


『承知しました』


 庭園入口を覆う霧が、ゆっくり左右へ分かれていく。


 外から一人の大柄な男が歩いてきた。


 ガルム。


 昨夜より、さすがに顔へ疲労が見える。


 白銀の近衛鎧は身につけたままだが、剣は外周へ置いてきたらしい。昨日までなら武装を手放すことを最後まで拒みそうな男だったが、一度決めた条件は守ったようだ。


「待たせたな」


「まだ夜明け前だぞ」


「明朝まで待てと言った」


「朝日も出ていない」


「空は明るい」


「王宮ならまだ夜扱いだ」


「ここは王宮じゃない」


 ガルムの口が止まった。


 後ろでブラットが口元を押さえる。


「何だ」


「いえ」


「笑ったな?」


「少しだけ」


「お前まで」


 ガルムは大きく息を吐いた。


「文書は?」


「これだ」


 封印済みの文書を差し出す。


 ガルムが受け取ろうとした瞬間、エルの声が響いた。


『文書内容の改変、破損、不許可複写を検知した場合、封印が作動します』


「どうなる?」


『文書を古の塔へ強制回収します』


「遠隔でか?」


『はい』


 フェリクスが椅子へ固定されたまま大きく身を乗り出す。


「今の機構について詳しく――」


「黙っていろ」


「残念です」


 ガルムは何とも言えない顔でフェリクスを見たあと、文書の封印へ視線を戻した。


「ここで開封していいのか?」


「ああ。先に読め」


 封を切る。


 縁の銀線が淡く光り、俺が許可した相手であることを確認すると光が消えた。


 庭園へ、紙を開く音だけが響く。


 ガルムは険しい表情のまま読み始めた。


 塔の所有権。


 撤退要求。


 王都へ戻らない意思。


 精神干渉の疑い。


 父上への問い。


 王位復帰を求めないこと。


 最後に署名へ視線が落ちた。


「古の塔所有者、アルフォンス・ガイゼン」


「ああ」


「元王太子ではなく?」


「ああ」


「それでも王家の姓は使うのか」


「父上から捨てられたとしても、俺が誰の子として生まれたかまで消えるわけじゃない」


「廃嫡後も?」


「王籍を正式に剥奪したとは聞いていない」


 王太子位の返上。


 幽閉。


 婚約破棄。


 だが、王族籍については曖昧なままだ。


「法務官が揉めるぞ」


「好きに揉めさせればいい」


「殿下」


「アルだ」


「正式文書にはアルフォンスと書いてある」


「正式文書だからな」


「なら私は殿下と呼ぶ」


「好きにしろ」


 昨日と同じところへ戻った。


「この文書は、私の伝令で王都へ送る」


「ああ」


「内容は変えない」


「当然だ」


「軍務上の状況報告は別紙で添付する」


「塔内部の詳細を書くな」


「第一迎撃庭園へ入ったことは?」


「構わない」


「ブラット卿たち三名が、塔側へ残っていることは?」


 俺はブラットを見る。


 彼は迷わなかった。


「書いてください」


「王都へ戻りにくくなるぞ」


「昨日、選びました」


 ガルムの顔が険しくなる。


「本気か、ブラット」


「はい」


「アンナマリー嬢との婚約成立も止まり、今度は王命に逆らうのか」


「王命へ逆らうこと自体が目的ではありません」


「結果は同じだ」


「違います」


 ブラットは声を荒らげなかった。


「以前の私は、命令へ従うことだけを見ていました。従ってさえいれば、その結果について自分は責任を負わなくてよいと、どこかで考えていたのだと思います」


「兵も官吏も、命令で動く」


「はい」


「国が、個々人の判断だけで動けば崩壊する」


「それも理解しています」


 ブラットは一度頷く。


「ですが、命令へ従いながら、自分が今何をしているのかを見る責任まで消えるわけではありません」


 ガルムの眉が寄る。


「昨日、隊長も権限鍵を止めました」


「周囲の民へ被害が出ると分かったからだ」


「命令書には、干渉を止めろとは書いていなかった」


「当然の判断だ」


「その当然を、自分で選んだのでは?」


 ガルムが黙った。


 俺が昨日使った言葉を、ブラットが返している。


「説教するな」


「殿下にも同じことを言われましたね」


 俺が口を挟む。


「お前たち、少し似てきたな」


「困りますか?」


「少しな」


 ガルムは文書を折り直し、封筒へ戻した。


「撤退については、王都の返答があるまで受け入れられない」


「森の外にいろ」


「すでに移動している」


「町へ入ったか?」


「まだだ。今朝、二名を食料調達へ出す予定だ」


「白銀鎧で入るな」


「護衛なしで町へ行けと言うのか?」


「二人で十分だろう」


「治安上の問題がある」


「リュネの住人が近衛を襲うと?」


「分からん」


「なら外套を使え。剣は見せるな」


「なぜそこまで気にする」


「今、町は領主府の人間を警戒している」


 ガルムの目つきが変わった。


「何が起きている」


「まだ全部は話せない」


「王国軍へ隠すのか」


「お前たちの命令系統を信用していない」


「我々は近衛だぞ」


「だからだ」


 王都へ直接つながっている。


 もし王都のどこかに不正へ関わる者がいるなら、近衛から上がった情報が領主府へ戻る可能性だってある。


「近衛の中へ内通者がいると言いたいのか?」


「分からない」


「根拠なく兵を疑うな」


「王宮魔導研究所の報告が消えた」


 ガルムの顔が変わる。


「俺がリュネの監査を延期する材料にした虚偽報告も、王都へ正式に届いていた」


「虚偽報告?」


「リュネは平穏。支援制度の一部調整に過ぎず、緊急監査は不要」


「実際は?」


「未成年の薬が止まり、遺族補償金が抜かれ、申請記録が夜中に燃やされそうになった」


 庭園の空気が変わった。


 アンナマリーも表情を硬くする。


 フェリクスも今は余計なことを言わない。


「証拠は?」


「ある」


「見せろ」


「全部はまだ見せない」


「なぜだ!」


「近衛が誰の命令を優先するか分からない」


「国王陛下だ!」


「領主代官ベルナールも、王家から権限を与えられた者だろう」


「不正が事実なら拘束する」


「命令がなくても?」


「近衛には重大犯罪に対処する権限がある」


「相手が代官でも?」


 ガルムはすぐには答えなかった。


「証拠が明確なら」


「だから、今その証拠を揃えている」


「近衛へ任せればいい」


「昨日まで、俺より先に塔の遺産を確保しようとしていた近衛へ?」


 痛いところを突いたのだろう。


 ガルムの顔が固くなる。


「命令書の順序を決めたのは私ではない」


「ああ」


「だが、民の被害を知れば私は対応する」


「それを信じろと?」


「昨日、権限鍵を止めた」


 今度はガルムが、自分の行動を示した。


 言葉だけではない。


 実際に、一つ選んだ。


 俺は少し考える。


「分かった」


 セリーがこちらを見る。


「主様」


「全部ではない」


「はい」


「ガルム一人に、証拠の一部を見せる」


 ガルムの眉が動く。


「一部?」


「エマの医療支援申請。遺族補償金の記録。それから焼却場の記録」


「持ち帰りは?」


「許可しない」


「その場で見るだけか」


「ああ」


「徹底して信用しないな」


「お互い様だ」


 ガルムは少し考えた。


「分かった」


 意外なほど早く受け入れる。


「ただし、確認した内容は第三小隊へ共有する」


「それは構わない」


「王都へも報告する」


「それは待て」


「なぜだ」


「領主府が証拠を消す可能性がある」


「近衛が先に押さえる」


「十六人で領都へ乗り込むのか?」


「必要なら増援要請を出す」


「その要請がベルナールへ漏れたら?」


 ガルムの返答が止まる。


「今は、証拠の確保と人命が先だ」


「誰が狙われている」


「全部はまだ言わない」


「殿下」


「アルだ」


 ガルムが苛立ったように息を吐いた。


「なら、アルフォンス殿」


「長いな」


「我慢しろ」


 初めて、僅かに対等な調子の言葉が返ってきた。


「証拠を見る。その上で、近衛に何ができるかを話す」


「ああ」


「ただし、陛下への文書は先に出す」


「構わない」


「返答があるまで、第三小隊は森の外で待機する」


「町へ入る時は連絡してくれ」


「食料を買うだけでもか?」


「武装集団が突然入れば、住民が怯える」


 今のリュネは、領主府の人間へ神経を尖らせている。


 そこへ白銀鎧の近衛が現れれば、また別の権力者が来たと思われてもおかしくない。


「こちらから町へ説明する」


「誰が?」


「俺が行く」


「外へ出るのか?」


「ああ」


「近衛から護衛をつける」


「いらない」


「元王太子が」


「セリーがいる」


 ガルムがセリーへ視線を向ける。


 昨日の発言を思い出したのか、一瞬言葉を選んだ。


「……彼女一人へ護衛を任せるのか」


「俺も自分を守れる」


「昨日、領主府の兵八人と戦ったばかりだろう」


 俺は眉を寄せた。


「なぜ知っている」


 ガルムではなくブラットが答える。


「私が話しました」


「どこまで?」


「助けを求める者が領主府兵に襲われ、救出へ同行したこと。人数が八名だったことだけです」


「勝手に」


「近衛隊長が、なぜ十二分以上待たされたのか説明を求めました」


 必要な範囲ではある。


 腹は立つが、情報漏洩とまでは言えない。


「戦ったのか?」


 ガルムが尋ねる。


「止めただけだ」


「死者は?」


「いない」


「重傷者は?」


「いない」


「領主府の所属章は確認したか?」


「ああ」


「記録は?」


「ある」


「それも見せろ」


「限定的になら」


「十分だ」


 近衛隊長として、領主府兵による襲撃を聞いて無視できなくなったのだろう。


「エル。記録室の外縁へ、ガルムだけが入れる閲覧区画を作れるか?」


『可能です。指定記録以外へアクセスできない隔離閲覧室を形成します』


「塔の中へ入れるのですか?」


 アンナマリーが驚いたように尋ねた。


「塔本体の奥ではない」


「私たちは?」


 期待に満ちた声でフェリクスが聞く。


「庭園にいろ」


「残念です」


「お前はまず、その椅子から出られるようになることを考えろ」


「解除を希望します」


「昼まで反省しろ」


「長すぎませんか?」


「四回分だ」


「一回三時間?」


「嫌なら増やす」


「反省します」


          ◇◇◇


 隔離閲覧室へ向かう前に、王都への伝令を出すことにした。


 庭園から外周へガルムの声を届ける。


 第三小隊から伝令騎士が一名選ばれ、結界の外で文書を受け取った。


 封筒は、許可された者以外が開封しようとすれば塔へ強制回収される設定だ。


「そんなものを王宮へ持ち込めば、相当警戒されるぞ」


 ガルムが呆れたように言う。


「勝手に開かなければ問題ない」


「王宮へ入る前に文書確認がある」


「父上本人か、正式な文書官なら開けるようにする」


『王家血統認証および国王直属文書官印を一時許可対象へ登録します』


「いつ認証形式を知った?」


『王家権限鍵から現行認証方式を解析しました』


 ガルムが額へ手を当てた。


「古代魔導具は何でもありだな」


「何でもではないらしい」


「十分何でもありだ」


 伝令騎士は緊張した顔で封筒を胸へ抱え、馬へ跨がる。


「王都まで何日かかる?」


「早馬を交換して三日。途中の施設で内容を伝令魔術へ写せれば、一日半程度だ」


「この封印では写せない」


「ああ。原文を届けさせる」


「頼む」


 騎士が馬を走らせる。


 森を離れ。


 街道へ出て。


 やがて姿が見えなくなった。


 俺の言葉が、王都へ向かっていく。


 父上へ。


 俺は戻らない。


 塔を渡さない。


 何を知っていたのか答えてほしい。


 そう書いた文書が、もう俺の手から離れた。


「主様」


 セリーが隣へ立つ。


「ああ」


「大丈夫ですか?」


「分からない」


「はい」


「でも、送った」


「はい」


 もう書き直せない。


 曖昧にもできない。


「後悔していますか?」


「していない」


 怖い。


 それでも、後悔していない。


 昨日、グレゴルが同じようなことを言った。


 あの時より、その気持ちが少し理解できた。


          ◇◇◇


 隔離閲覧室は、第一迎撃庭園と塔本体の境界部へ新しく作られていた。


 小さな会議室ほどの広さで、中央に石の卓が一つ。窓はなく、壁面へエルが指定した記録だけを映せるようになっている。


 ガルムは武装封印を受けたまま。


 俺とセリーが向かいへ立った。


「最初に、エマ・ローデンの申請書」


 壁へ一枚の紙が映る。


 十二歳。


 慢性心肺機能障害。


 未成年医療補助申請。


 継続治療の必要性。


 却下理由は、予算不足。


 グレゴルの署名。


 財務管理官オズワルド・レームの承認印。


「制度そのものは?」


「有効だ」


 次に、イーダから得た正式な制度文書を映す。


 ガルムが見比べる。


「停止命令がない」


「見つかっていない」


「却下件数は?」


「確認できただけで二十七件」


「一年で?」


「二年半」


「全員子供か?」


「今見せているのは未成年医療支援だけだ」


 次に遺族補償。


 ロイドの仮受領札。


 金貨三枚。


 だが、マリアへ渡されたのは一枚だけ。


 商業組合の印も一致している。


「原本は?」


「安全な場所にある」


「誰が持っている」


「言わない」


「保護が必要だ」


「近衛へ知られたことで、逆に危険が増える可能性もある」


「私を疑っているのか」


「ああ」


 ガルムは怒らなかった。


 しばらく紙を見たあと、低く答える。


「当然だな」


「意外に素直だ」


「ここまで見せられて、疑われる理由が分からないほど馬鹿ではない」


 次に焼却場。


 木箱。


 燃やされる予定だった申請書。


 トーマス。


 領主府側の男。


 暴行。


 妹を人質として使う言葉。


「音声も残っているのか?」


「ああ」


 必要部分だけ再生する。


『妹を治療院から出されたくなければ、箱を運べ』


 ガルムの拳が卓上で強く握られた。


「いつだ」


「二日前の夜」


「なぜ王都へ知らせなかった」


「誰へ?」


「地方守備隊、近隣騎士団、王都の司法――」


「地方守備隊は領主府の影響下。近隣騎士団が到着する前に記録は燃やされる。王都へ正式に上げれば、誰を経由するか分からない」


「だから自分たちだけで動いた?」


「ずっと二人だけでやるつもりではなかった」


「だが、今まではそうしている」


 責めているわけではない。


 ただ、事実として言われた。


 その指摘には少し胸が痛んだ。


「ガルム」


「何だ」


「もし今、俺が持っている情報を全部近衛へ渡したら


「まず証人を保護する」


「どこで?」


「第三小隊の野営地だ」


「領主府兵に殺されかけた者を、塔の外へ?」


「近衛が守る」


「十六人で?」


「十分だ」


「その十六人の中に、情報を漏らす者がいなければ?」


 ガルムの口が止まった。


「俺は、誰がフェリクスの報告を止めたか知らない」


「ああ」


「誰がグレゴルの虚偽報告を王都で通したかも分からない」


「ああ」


「なぜ父上の命令が、俺の安全より先に塔の遺産を求める内容だったのかも分からない」


「全部が繋がっていると思っているのか?」


「繋がっていない可能性もある」


「なら」


「だからこそ、全部を一か所へ渡せない」


 ガルムはしばらく黙った。


「では、近衛へ何を求める」


「町を守ってほしい」


「リュネを?」


「ああ」


「領主府の兵がまた来る可能性があるのか」


「高い」


「証拠は塔で保管」


「ああ」


「証人も?」


「本人が望む限り」


「我々は外側だけか」


「不満か?」


「本来なら、捜査も拘束も近衛や司法の仕事だ」


「今すぐベルナールを拘束できるか?」


「証拠が明確なら」


「領都までは?」


「騎馬で二日」


「その間にクララが消される」


「クララ?」


「グレゴルの妹だ」


 最低限の事情を説明する。


 病気。


 領都の施療館。


 ベルナールの遠縁。


 三年間、人質として利用された可能性。


 半年間、手紙がない。


 ガルムの表情が明確に変わった。


「救出を求めているのか」


「まず調査だ」


「近衛へ?」


 ここが一つの分かれ目だ。


 全部を任せるつもりはない。


 だが、俺とセリーだけで領都まで調べ始めれば、また同じことになる。


「お前なら、誰を出す?」


 ガルムは少し考えた。


「第三小隊から四人」


「目立つ」


「私服で行かせる」


「領主府側に見つかったら?」


「近衛の身分を示す」


「その瞬間、クララを別の場所へ移されるかもしれない」


「なら、二人」


 ガルムの返事が変わった。


「私服で先行させる。施療館へ直接踏み込ませない。外から出入りを確認し、患者名簿を閲覧できるなら名前だけ見る。接触も拘束もしない」


「悪くない」


「褒められたと受け取っておく」


「俺たちも別に調べる」


「信用していないから?」


「ああ」


「分かった」


 怒らなくなった。


 少なくとも、今ここで信用を要求しても仕方がないと理解したらしい。


「報告は私へ直接上げさせる」


「俺にも同時に」


「どうやって?」


「通信具を貸す」


『一時使用型通信石を二個まで即時作成できます』


 ガルムが眉を寄せる。


「古代魔導具を私の兵へ持たせるのか?」


「声だけを送るものだ。位置情報は塔側でも確認する」


「監視付きか」


「嫌なら断っていい」


 ガルムは少し考える。


「受ける」


「早いな」


「病人が人質にされている可能性がある」


 権限鍵を止めた時と同じだった。


 人命が絡んだ瞬間、判断が早くなる。


「条件がある」


「何だ?」


「こちらの兵を危険へ送る。得た情報は共有してもらう」


「ああ」


「クララの救出が必要になれば、共同で動く」


「状況次第だ」


「曖昧だな」


「今、先に約束はできない」


 ガルムは一瞬不満そうな顔をしたが、やがて頷いた。


「分かった」


「町の警護は?」


「近衛を入れる前に、町の人たちへ話す」


「誰が?」


「俺だ」


「だから護衛をつけろと言っている」


「セリーがいる」


「私も行く」


「お前は目立ちすぎる」


「近衛隊長だからか?」


「ああ。今ガルム本人がリュネへ入れば、領主府へ伝わる可能性が高い」


「なら部下を二名」


「買い出し役と同じ者か?」


「ああ」


「鎧は隠せ」


「緊急時に剣は使える状態で」


「町の中で先に抜くな」


「戦闘になってから許可を取れと?」


「相手が剣を抜く前に近衛が抜けば、町から見ればどちらが襲ってきたのか分からない」


 ガルムは深く息を吐いた。


「あなたは兵へ難しい要求をする」


「先に抜かなければいい」


「相手が抜いたら?」


「止めろ。殺すな」


「簡単に言う」


「俺たちは昨日、八人を止めた」


「古代魔導具を使ってだろう」


「なら、必要な分だけ貸す」


「何?」


 口へ出してから、自分でも少し驚いた。


 塔の魔導具を王国軍へ渡す。


 数日前の俺なら、考えなかったかもしれない。


 だが。


 ブラットたちへ武器を戻さず、役割を渡した。


 ガルムへも同じことができる。


「拘束用魔導具を二人へ一時貸与する」


「王国軍へ?」


「全部を渡すわけじゃない」


「信用するのか?」


「全部は信用しない」


「昨日の三人と同じか」


「ああ」


 役割。


 範囲。


 越えてはいけない線。


 それだけ先に示して、どう動くかを見る。


 信頼は、そのあとだ。


「受ける」


 ガルムが頷いた。


「ただし、扱い方を兵へ教えろ」


「エル」


『訓練用区画を形成可能です』


「訓練までさせるのか?」


「町の中で誤作動させられる方が困る」


「合理的だな」


「褒めているか?」


「少しだけだ」


 ガルムの口元が僅かに緩んだ。


 昨日より、ほんの少しだけ。


 話している相手が「王命を持ってきた兵」ではなく、一人の人間として見えてきた。


          ◇◇◇


 隔離閲覧室を出ると、セリーが隣からじっと俺を見た。


「何だ?」


「近衛の方へ、本当に魔導具を貸すのですね」


「ああ」


「不安ですか?」


「ああ」


「それでも?」


「役割を渡す」


 町の警戒。


 クララの所在調査。


 その範囲だけ。


「昨日の経験が、もう次へ繋がりましたね」


「失敗するかもしれない」


「はい」


「魔導具を持ち逃げするかもしれない」


『所有者から許可範囲外へ一定距離離れた場合、自動回収できます』


「最初から言え」


『質問されませんでした』


「なら、少し安心だ」


「主様」


 セリーが笑う。


「私は、人の方をお聞きしたのですが」


「ああ」


 持ち逃げだけが裏切りではない。


 町で近衛の威光を使う。


 領主府へ情報を渡す。


 頼んだ役割を越える。


 王命を理由に、住民へ命令する。


「見て決める」


「はい」


 第一迎撃庭園へ戻ると、フェリクスの固定は解除されていた。


 ただし彼は、中央椅子の周囲をゆっくり歩きながら、座面へ熱心な視線を向けている。


「何をしている?」


「目視確認です」


「触るなよ」


「触っていません」


「近づくな」


「三歩以内です」


「エル」


『再固定しますか?』


「待ってください!」


 フェリクスが即座に椅子から距離を取った。


「反省しました」


「本当か?」


「少なくとも今は」


「信用できない」


 アンナマリーが小さく笑った。


 昨日初めてここへ来た時より、庭園の空気が僅かに柔らかくなっている。


「ガルム隊長は?」


 ブラットが尋ねた。


「限定的に協力してもらう」


「近衛へ?」


「ああ」


「町へ二人。領都へ二人」


「危険では?」


「危険だ」


「それでも任せるのですか?」


「全部は任せない」


 俺はブラットだけではなく、三人を見る。


「昨日、お前たちへ渡したのと同じだ」


「役割を?」


「ああ」


 ブラットはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「ガルム隊長なら、決めた範囲は守ると思います」


「信じているのか?」


「以前、一緒に任務をしたことがあります」


「どんな?」


「国境付近の避難民護送です」


 初めて聞いた。


「命令では最短街道を通る予定でした。ですが途中で、避難済みとされていた村へ老人が一人残っているという話を聞きました」


「ガルムは?」


「隊列を一度止め、二騎だけ連れて村へ入りました」


「命令違反か?」


「はい」


「老人は?」


「連れて戻りました」


「処分は?」


「帰還後、三日間の謹慎です」


 俺は昨日のガルムを思い出す。


 俺の生き方を「小さい」と言った男。


 それでも、民への影響が出ると分かった瞬間、王家の権限鍵を止めた。


「自分も似たようなことをしているな」


「本人へ言いますか?」


「言うな」


「なぜです?」


「面倒だからだ」


 ブラットが笑った。


 俺も少しだけ笑う。


「文書は、もう送りましたか?」


 アンナマリーが尋ねた。


「ああ」


「王都へ?」


「ああ」


「怖くありませんでしたか?」


「怖かった」


 アンナマリーは少し驚いた顔をした。


「アル様が、そう言うのを初めて聞いた気がします」


「昔は言わなかった」


「はい」


「お前の前でも」


「はい」


 アンナマリーの視線が、ゆっくり下がった。


「私も、怖いと言えばよかった」


 小さな声だった。


 俺が怖かった。


 婚約を続けることも怖かった。


 ブラットへ相談した。


 それでも、俺へは言えなかった。


「言えなかったのは、俺のせいでもある」


「でも」


 アンナマリーは首を振った。


「黙ったまま別の道を選んだのは、私です」


「ああ」


 慰めない。


 だからといって、一人だけへ責任を押しつけない。


「いつか、話そう」


 彼女が顔を上げた。


「謝罪だけじゃなく」


「はい」


「舞踏会の前に何があったのか。俺が何をして、お前が何を怖がって、なぜブラットへ相談したのか」


「はい」


「今日はしない」


「分かっています」


 アンナマリーは静かに頷いた。


「待ちます」


「待たせるとは言っていない」


 一瞬だけ驚いた顔。


 それから。


「では、私が待つと決めます」


 以前より少しだけ強い声だった。


 婚約者だった頃の彼女は、俺の言葉を先に受け入れることが多かった。


 自分がどうしたいかを、後ろへ隠す。


 それが礼儀だと思っていたのかもしれない。


「そうか」


「はい」


「なら今日は、別のことを頼む」


 三人の視線が俺へ集まった。


「役割ですか?」


 アンナマリーが少し緊張した顔になる。


「ああ」


 俺は庭園の白い花、その向こうの霧に包まれた森へ一度視線を向けた。


「近衛を町へ入れる前に、リュネの人たちへ話しに行く。いきなり白銀鎧が現れれば、領主府の増援だと思われる可能性があるからな」


「私たちは?」


 ブラットが尋ねる。


「ブラットは、ガルムから選ばれた二人の訓練へ立ち会ってくれ」


「私が?」


「あいつらが近衛の常識だけで動き始めたら止めろ。町では王家の威光を見せる必要はない。買い物と警戒だけだ」


「承知しました」


「フェリクスは」


「通信石の調整でしょうか」


 期待した顔をする。


「触るな」


「まだ何もしていません」


「エルが近衛用通信石を作る。その機能確認だけだ。内部構造を調べるな。分解するな。改造するな」


「信用が」


「昨日通信石を拾うために剣へ斬られかけた人間へ言っている」


「反論できません」


「声の送受信が正常か、それだけ確認しろ」


「はい」


「本当に、それだけだぞ」


「はい」


「エル」


『許可外走査を行った場合、椅子へ戻します』


「完璧だ」


「私は信用を取り戻せるのでしょうか」


「まず五分我慢してみろ」


「努力します」


 残る一人。


 アンナマリーが俺を見ている。


「私は?」


「セリーと一緒に、町へ持っていく説明文を作るのを手伝ってくれ」


「説明文?」


「ああ。近衛二人を一時的に町へ入れること。武装を隠すこと。町へ命令する権限は与えないこと。何かあれば俺かセリーへ知らせること」


「それを住民の方へ?」


「市場の代表やイーダへ先に話す」


 アンナマリーが少し考える。


「王都で使う公文書のように書くのでは駄目なのですね」


「絶対に駄目だ」


「そこまでですか?」


「『近衛騎士団第三小隊の一部人員を治安維持補助目的により一時配置する』なんて書いたら、誰も安心しない」


「……私なら書きそうです」


「だから頼む」


「私へ頼む理由と反対では?」


「一緒に直せばいい」


 アンナマリーが一瞬目を見開いた。


「一緒に?」


「ああ」


 それだけのことだ。


 だが、彼女には少し違って聞こえたらしい。


「分かりました」


 声が柔らかくなる。


「住民の方へ届く言葉を考えます」


「上手く書けなくてもいい」


「はい」


「俺も上手くない」


「以前のアル様は、公文書なら誰より上手でした」


「町の掲示には向いていない」


「では、二人とも練習ですね」


「ああ」


「主様」


 セリーが横から声をかける。


「私もいます」


「知っている」


「二人ではなく三人です」


「そこへこだわるのか?」


「はい」


 アンナマリーが僅かに笑った。


 その笑みに、以前の婚約者としてのものとは違う、少し遠慮の少ない温度が混ざっていた。


          ◇◇◇


 庭園の石卓へ紙を広げた。


 王国軍を町へ入れる。


 その一文だけでも、書き方一つで意味が変わる。


 アンナマリーが最初に書いた案は、やはり王都の掲示文に近かった。


『近衛騎士団第三小隊所属兵二名が、周辺治安状況の確認および物資調達のためリュネへ一時入町する』


「固い」


「やはり?」


「町の人は、『治安状況の確認』と言われたら、自分たちを調べに来たと思う」


「では」


 アンナマリーがペンを動かす。


『王都から来た近衛騎士二名が、食料購入と町の見回りを手伝うため、一時的にリュネへ入ります』


「少し近づいた」


「手伝う、でよいでしょうか」


「そこだな」


 セリーが紙を覗き込む。


「『町の方々が希望する場合だけ、見回りをお手伝いします』では?」


「長い」


「ですが、勝手に守るわけではないと分かります」


「確かに」


 アンナマリーがさらに直す。


『王都から来た近衛騎士二名が、食料を買うため町へ入ります。町の方々が必要とする場合には、見回りも手伝います。二人に町の方へ命令する権限はありません』


 そこで俺は少し考えた。


「最後に、何かあれば俺に言ってくれと書く」


「アル様へ?」


「ああ」


「近衛より、アル様を先に信用していただく形になります」


「今は、その方がいい」


 王国軍という看板が、町にとって安心になるとは限らない。


「名前は?」


「アルでいい」


「元王太子とは?」


「書かない」


 アンナマリーは何も言わず頷いた。


 もう理由を聞かなくても分かるのだろう。


「セリーの名前も」


「はい」


「何かあれば、アルかセリーへ知らせてください、でいい」


 セリーが嬉しそうに紙を見る。


「私もですね」


「お前も町で動いているだろう」


「はい」


「なら当然だ」


 アンナマリーは、俺とセリーを交互に見た。


 以前なら、そこへ何かを感じても黙っていただろう。


 今は少し考えたあと、口を開く。


「羨ましいです」


 俺の手が止まった。


「何が?」


「お二人が、同じ場所へ帰ることが」


 言葉に嫉妬はあった。


 だが、責める色はなかった。


「昔は、自分がアル様の隣へいるのが当然だと思っていました」


「ああ」


「いなくなって初めて、それが当然ではなかったのだと分かりました」


「アンナマリー」


「取り戻したいと言っているのではありません」


 彼女は自分で止めた。


「ただ、羨ましいと思ったので、言ってみました」


「そうか」


「はい」


 少し間を置く。


「嫌でしたか?」


「分からない」


 また、その答え。


 だが今は、笑えた。


「でも、言われたこと自体は嫌じゃない」


 アンナマリーの目が少し大きくなる。


「ありがとうございます」


「礼を言うようなことか?」


「今は、そう思いました」


「なら、好きにしろ」


 セリーが俺の袖を引く。


「主様」


「何だ?」


「私も言っていいですか?」


「何を」


「アンナマリーさんが主様との昔のお話を知っているのは、少し羨ましいです」


 今度はアンナマリーが驚いた。


「私を?」


「はい」


「セリー」


「本当ですので」


「張り合うな」


「張り合っていません」


「顔が少し張り合っている」


「主様は毎日見ているから分かるのですか?」


「その言葉を便利に使うな」


 アンナマリーが、今度ははっきり笑った。


 笑い声は大きくない。


 それでも、卒業舞踏会の記憶しか残っていなかった彼女の顔へ、別の表情が一つ増えた。


 過去が消えたわけではない。


 許したわけでもない。


 だが。


 今日笑ったことまで、過去に合わせて消す必要はない。


          ◇◇◇


 その後、近衛の二人が訓練用区画へ通された。


 ガルムが選んだのは、三十代ほどの騎士と、まだ二十歳を少し越えた程度の若い騎士だった。


 二人とも白銀鎧を脱ぎ、町へ入る時に使う地味な外套姿になっている。


 拘束環の扱いを説明するのはエル。


 ブラットが隣で補助する。


『対象の腕、足、武器を保持する部位へ投擲してください。首部への使用は禁止します』


「外した場合は?」


『壁、地面、物体へ接触した場合、自動停止します』


「味方へ当たったら?」


『貸与者認証により味方対象への拘束は行いません』


「便利だな」


 若い騎士が感心する。


「便利だからと乱用するな」


 俺が言う。


「町では原則として使わない」


「では、なぜ貸すのです?」


「誰かが剣を抜き、本当に止める必要がある時だけだ」


「近衛であることは名乗っても?」


「聞かれたら名乗っていい」


「命令は?」


「町の住人へ命令するな」


 二人の顔が僅かに変わる。


 近衛騎士としては、かなり珍しい条件なのだろう。


「危険人物がいた場合でも?」


「退避を呼びかけるのはいい。命令と脅迫は違う」


「判断が難しいですね」


 年上の騎士が言った。


「難しいと思っているうちは大丈夫だ」


「簡単だと思い始めたら?」


「その時は帰ってこい」


 ブラットが隣で僅かに笑った。


「アル様らしいですね」


「褒めているか?」


「はい」


 フェリクスは通信石の前へ座っている。


 今日は本当に手を出さず、声が送れるかだけを試していた。


「こちらフェリクス。聞こえますか」


『聞こえている』


 エル経由で返答。


「魔力波形は極めて安定。発声者の感情変化まで――」


「分析するな」


「すみません」


「五分持たなかったな」


「感想です」


「三歩以内に戻すぞ」


「黙ります」


 若い騎士がフェリクスを見る。


「研究所の方は、いつもあんな感じなのですか?」


「俺へ聞くな」


「研究所でも、だいたいあんな感じです」


 ブラットが答えた。


「そうなのですか」


「待ってください。研究所全体への偏見が」


「自分で作っている」


 短いやり取りの間にも、少しずつ空気が和らぐ。


 だが、遊びではない。


 最後に二人の騎士へ、一つずつ通信石と拘束環を渡した。


「町で問題を起こしたら、即座に回収する」


「承知しました」


「領主府の人間へ、こちらの調査内容を話すな」


「はい」


「グレゴルの存在も」


「聞いていません」


 年上の騎士が答えた。


 ガルムが必要以上の情報を渡していない。


 そこは評価できる。


「町へ行く前に、俺とセリーが先に話す」


「我々は森の外で待機します」


「ああ」


 これで一つ。


 役割を渡した。


 あとは、行動を見る。


          ◇◇◇


 古の塔を出る準備をしながら、俺は一度だけ振り返った。


 第一迎撃庭園には、ブラット、アンナマリー、フェリクス。


 森の外には近衛。


 客室にはグレゴル。


 昨日までは誰一人として、ここへいなかった者たちだ。


「主様」


「何だ?」


 セリーが俺の隣へ来る。


「増えましたね」


「何が?」


「見なければならない方が」


「増えすぎだ」


「嫌ですか?」


「かなり」


 即答すると、セリーが笑った。


「でも、誰も追い出さないのですね」


「今はな」


「信用していなくても?」


「ああ」


「許していなくても?」


「ああ」


 昨日。


 ブラットはグレゴルを支えた。


 アンナマリーは命じられた記録だけを回収した。


 フェリクスは余計なこともしたが、紙束を守った。


 ガルムは、民へ被害が出ると分かった時、王命の遂行より先に権限鍵を止めた。


 今日。


 グレゴルは誰に命じられなくても証言を書いた。


 ブラットは近衛へ自分の選択を報告すると決めた。


 アンナマリーは、羨ましいと口にした。


 近衛の二人も、こちらの条件を受け入れた。


 昨日のことは消えない。


 過去も消えない。


 だが、今日選んだことまで、過去だけを理由に無かったことへする必要はない。


「主様」


「何だ?」


「王都へ戻らないと、今日ご自分で書きましたね」


「ああ」


「怖かった?」


「ああ」


「それでも送りました」


「ああ」


「今、どんな気持ちですか?」


 転移室へ向かう廊下で足を止める。


 何だろう。


 解放感だけではない。


 寂しさもある。


 怖さもある。


 父上が何と答えるか知りたい。


 同時に、知りたくない。


「分からない」


「はい」


「でも」


 一度、自分の胸へ手を置く。


「帰りたいとは思わない」


 王宮へ。


 昔の部屋へ。


 王太子だった日々へ。


 戻りたいとは、もう思わない。


「ここへ帰りたい」


 セリーの表情が柔らかくなる。


「はい」


「町へ行っても」


「はい」


「領都へ行くことになっても」


「はい」


「王都へ行く日が来たとしても」


 そこまで言って、自分でも少し驚いた。


 王都へ行かないと決めたのではない。


 戻らないと決めた。


 必要があれば、行くことはあるかもしれない。


 だが。


「最後に戻るのは、ここがいい」


 セリーは何も言わなかった。


 ただ、そっと片手を差し出す。


「手を?」


「今日は、何の理由だ」


「嬉しいので」


「心配した分ではないのか」


「それもあります」


「増える一方だな」


「はい」


 俺はその手を取った。


 温かい。


 作られた身体だからといって。


 この温度まで偽物になるわけではない。


『転移準備が完了しました』


 エルの声が響く。


「行こう」


「はい」


 青白い扉が開く。


 向こうにあるのはリュネ。


 俺が王太子だった頃、一枚の報告書だけを見て後回しにした町。


 今は違う。


 何もかも自分だけで守るつもりはない。


 近衛へ役割を渡す。


 町の人にも頼る。


 グレゴルにも、自分がしたことを自分で書かせる。


 ブラットたちの過去を許せなくても、今日選んだことは今日のものとして見る。


 そして俺自身も。


 王太子だった頃の失敗を抱えたまま。


 それでも、今日選んだ暮らしを続ける。


 国を捨てるためではない。


 父上を憎み続けるためでもない。


 誰かに与えられた役割へ戻るのではなく、自分が守りたいものを自分で選ぶために。


 俺はセリーと手を繋いだまま、転移扉を越えた。

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