第18話 元王太子、助けに来た者へ武器ではなく役割を渡す
転移室へ入った瞬間、背後の銀色の扉が音もなく閉じた。
古の塔へ初めて足を踏み入れたブラットたちは、目の前に広がる光景を見て、揃って言葉を失っていた。
円形の床には、幾重もの転移陣が複雑に重なり合うように刻まれている。その一つ一つは淡い光を帯びながらゆっくりと明滅し、壁面には大きさの異なる鏡が十数枚並んでいた。ただ姿を映すための鏡ではない。森の奥、リュネの倉庫跡、旧採石場、ミロの家に近い住宅地など、離れた場所の景色がそれぞれの鏡面に映し出されている。
王宮魔導研究所に所属するフェリクスなどは、先ほどまでの緊張を一瞬忘れたように目を見開いていた。
「これは……遠隔投影ではありませんね。空間そのものを――」
「フェリクス」
「……触りません」
「見るだけにしろ」
「分かっています」
返事だけなら素直だ。
だが、視線だけは忙しく動き続けている。放っておけば壁の魔力導線まで数え始めそうだった。
そんな彼とは対照的に、ブラットとアンナマリーは、塔の内部そのものより正面の大きな鏡へ目を向けていた。
そこに映っているのは、崩れかけた礼拝堂だった。
正面扉を外から何度も打ちつける男たち。内側では、グレゴルが長椅子を扉へ押しつけ、必死に侵入を防いでいる。床には以前俺が渡した食料袋が放り出され、そのそばには数冊の帳簿と紙束が積まれていた。
逃げる準備ではない。
自分が捕まる可能性を考え、隠していた記録を一か所へ集めたのだろう。
『礼拝堂正面に六名。裏手に二名を追加確認しました』
「八人か」
通信石で連絡を受けた時より増えている。
正面から扉を破る六人に加え、逃走経路になりそうな裏手まで押さえられている。最初からグレゴルを逃がすつもりがない配置だった。
「グレゴルへ聞こえるか?」
『接続を維持しています』
「グレゴル」
『……聞こえている』
通信石から返ってきた声は荒い。
扉へ何かが打ちつけられるたび、木材が軋む音までこちらへ届いた。
「裏手にも二人いる。窓から逃げるな」
『分かった』
「記録は一か所へ集めたのか?」
『ああ。私が持っていた写しと、帳簿の場所を書いた一覧もある』
「証言すると決めたんだな」
返事はすぐにはなかった。
鏡の中で、グレゴルが扉を押さえたまま俯く。
外から再び衝撃が加わり、長椅子の脚が石床を擦った。
『決めた』
「後悔しているか?」
『……怖い』
「答えになっていない」
『後悔はしていない。だが、怖い。今でも、これでよかったのかと思っている』
「それでいい」
怖くなくなった者だけが選べるわけではない。
迷いが消えたから前へ進めるわけでもない。
怖くても、迷っても、それでも自分で決めた方から手を離さない。その選択まで偽物になるわけではない。
「今から行く。扉から離れろ」
『しかし、私が押さえていなければ、すぐに入ってくる』
「十数える間だけ耐えろ。そのあと離れろ」
『十?』
「それ以上は必要ない」
俺はエルへ視線を向けた。
「転移先を礼拝堂内部へ出せるか?」
『可能です。ただし入口付近へ直接展開した場合、外部からの衝撃および複数名の魔力と干渉する恐れがあります』
「祭壇の前なら?」
『安全座標を確保できます』
「そこへ出す」
『承知しました。座標固定を開始します』
床に刻まれた転移陣の一つが、ゆっくりと青白い光を強めていく。
俺は鏡へ映る礼拝堂周辺をもう一度確認した。
正面に六人。
裏手に二人。
全員が領主府の兵装を身につけている。剣だけではない。短弓を持つ者が二人、簡易魔術杖を持つ者も確認できる。
こちらには俺とセリーがいる。
そして、ブラット、アンナマリー、フェリクス。
三人には庭園へ入れた時から、武器と攻撃魔術の封印をかけたままだ。
解除することもできる。
だが、その判断をすぐには下せなかった。
彼らは先ほど、自分の意思で俺を手伝うと選んだ。
それでも、選んだという一度の事実だけで、武器まで預けられるほど信用が戻ったわけではない。
「アル様」
ブラットが声をかけてきた。
「私たちに何をさせますか」
武器を返してほしいとは言わなかった。
戦わせろとも言わない。
自分に何ができるのかを聞いている。
「その前に、一つ確認する」
俺は三人へ向き直った。
「これから助けるグレゴルは、被害者ではない」
アンナマリーの表情が変わる。
「どういう意味でしょうか」
「リュネで行われていた不正へ関わった役人だ。遺族へ支払われる補償金を抜き、医療支援を止める手続きへ加担し、帳簿を書き換えた」
「それでは……」
彼女は鏡の中のグレゴルを見る。
「なぜ、その方を助けるのですか」
「証言すると決めたからだ」
「それだけで、ですか?」
「それだけじゃない」
グレゴルが死ねば証言が失われる。
帳簿の場所を知る者も減る。
不正を暴くためだけなら、それだけでも助ける理由にはなる。
だが、それだけなら、記録だけを回収して本人を置き去りにすることだってできる。
「罪を認めた。自分が何をしたかを話し、これ以上続けないと決めた。俺はその選択を利用して証言だけ取って、本人を使い捨てるつもりはない」
アンナマリーはしばらく黙っていた。
「ですが……被害に遭われた方々は、その方を許せないかもしれません」
「ああ」
「助ければ、その方を許すことにはなりませんか?」
「ならない」
迷わず答えた。
「助けることと、罪を消すことは別だ」
自分で口にした言葉が、思った以上に深く胸へ落ちた。
グレゴルだけの話ではない。
目の前にいる三人にも当てはまる。
アンナマリーも、それに気づいたのだろう。
彼女の視線が僅かに揺れた。
「グレゴルが何をしたかを決めるのは事実だ。被害に遭った者が許すかどうかは、その者たちが決める。俺が助けたからといって、誰かへ許せとは言わない」
「……はい」
「逆も同じだ」
「逆?」
「罪があるから、目の前で殺されても放っておいていいとは思わない」
俺は一度、鏡へ視線を戻した。
扉が大きく軋んでいる。
「罪を裁くことと、命を見捨てることまで同じにしたくない」
アンナマリーは何も言わなかった。
ただ、先ほどより深く頷いた。
「役割を渡す」
三人の表情が引き締まる。
「ブラット」
「はい」
「グレゴルを守れ」
「戦闘は?」
「武器は返さない」
ブラットの眉が僅かに動いた。
それでも不満を口にすることはなかった。
「身体を盾にしろという意味じゃない。俺とセリーが兵を止めている間に、グレゴルを転移扉まで連れていけ。走れなければ支えろ。怪我をしているなら無理に引っ張るな。そして、礼拝堂の外へは絶対に出るな」
「承知しました」
「アンナマリー」
「はい」
「記録を回収してくれ」
「私が、ですか?」
「ああ」
意外だったらしい。
「ですが、どれが必要なものなのか、私は分かりません」
「グレゴルへ聞け。言われたものだけを集めろ。中身は読むな」
一瞬だけ、彼女の表情へ傷ついたような色が浮かんだ。
それでも、すぐに頷く。
「分かりました」
「信用していないから確認する」
「……はい」
「嫌なら断っていい」
アンナマリーは俺を見た。
以前なら、こんな言い方はしなかった。
婚約者だった頃の俺なら、必要だと思えば役割を与え、それが当然だと思っていただろう。
「断りません」
彼女は静かに答えた。
「言われたものだけを回収します」
「ああ」
「フェリクス」
「記録保護でしょうか」
「察しがいいな」
「先ほど自分で言いましたので」
「礼拝堂には火属性を使う兵がいる可能性がある。帳簿や紙束へ耐火結界を張れ。水と衝撃にも対応できるなら、それも頼む」
「攻撃魔術の封印は?」
「解除しない。保存、防御、補助だけ一時的に許可する」
フェリクスの目が僅かに輝いた。
「許可される術式の範囲を具体的に――」
「勝手に広げたらエルが止める」
『許可外の術式を検出した場合、即時封印します』
「……非常に優秀な監視機構ですね」
「感心するところじゃない」
「分かっています」
「分かっている顔じゃないぞ」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、鏡の向こうでは再び扉へ強い衝撃が加わる。
俺はセリーを見る。
「セリー」
「私は主様と一緒に、外の方々を止めます」
「ああ」
「非殺傷ですね」
「当然だ」
「分かりました」
三人へ向き直る。
「俺たちが兵を止める。お前たちは役割を終えたら、すぐ転移扉へ戻れ。何があっても深追いするな。外へ出るな。俺たちを助けようとして戻ってくるのもなしだ」
ブラットが僅かに眉を寄せる。
何か言いたそうだったが、やがて小さく息を吐いた。
「承知しました」
「何だ?」
「いえ。以前のあなたなら、私に戦えと命じていたと思っただけです」
「今は違う」
「はい」
ブラットはそこで一度言葉を切った。
「アル様。一つだけお願いがあります」
「何だ?」
「私たちが今回の役割を果たしたあとで構いません。近衛隊との交渉にも、必要であれば同席させてください」
「なぜ?」
「ガルム隊長は私を知っています」
「知っているから何だ。お前が言えば引くのか?」
「分かりません」
即答だった。
「ですが、彼が王命を理由にあなたの意思を無視するのであれば、王宮にいた者として、私もその命令へどう向き合うかを選ばなければならないと思っています」
「お前はもう俺の側近じゃない」
「はい」
「これは王太子の命令でもない」
「分かっています」
「それでも?」
ブラットは俺の目を見た。
「だからこそ、自分で選びます」
胸の奥が僅かに揺れた。
その言葉を、以前のブラットから聞いた記憶はほとんどない。
彼は優秀だった。
忠実でもあった。
だが、俺も彼も、役割と命令の中で生きることを当然だと思っていた。
「今はグレゴルを先に助けろ」
「承知しました」
信じたわけではない。
それでも、その言葉は覚えておこうと思った。
◇◇◇
『十』
エルの声が、通信石を通じて礼拝堂へ響いた。
グレゴルは両手で長椅子を押さえたまま、荒い呼吸を繰り返している。額から流れた汗が頬を伝い、床へ落ちた。
扉の向こうから怒声が飛ぶ。
「開けろ、グレゴル!」
「これ以上抵抗すれば、お前だけの問題では済まないぞ!」
グレゴルの身体が強張る。
「クララはどこにいる!」
扉越しに叫んだ声は、怒りよりも恐怖の方が強かった。
「妹に会いたければ開けろ!」
『九』
「生きているのか!」
「命令へ従えば会わせてやる!」
その言葉を聞いた瞬間、鏡の中のグレゴルが動きを止めかけた。
三年間。
同じような言葉を、何度聞かされたのだろう。
従えば会わせる。
仕事をすれば安全を保証する。
あと少しだけ協力すれば自由にする。
そうして今日まで引き延ばされてきた。
『八』
グレゴルが目を閉じた。
「……もう信じない」
最初の声は小さかった。
「何だ!」
外から怒鳴り返される。
グレゴルは目を開けた。
「もう、お前たちの言葉は信じない!」
今度は、礼拝堂全体へ響いた。
「私は証言する! 誰に命じられたかも、どの帳簿を書き換えたかも、誰の補償金を削ったかも全部だ!」
扉の外が一瞬だけ静まり返った。
次に返ってきた声には、それまでとは違う焦りが混じっていた。
「扉を壊せ!」
『七』
激しい衝撃。
長椅子が大きくずれた。
グレゴルの靴底が石床を滑る。
『六』
「エル」
『座標固定中です』
「まだか?」
『安全率を下げれば即時展開できます』
「下げるな」
焦って転移を失敗すれば意味がない。
分かっている。
それでも、鏡の向こうで扉が壊れていくのを見ているだけなのは苦しかった。
『五』
扉の一部が割れた。
隙間から剣先が差し込まれ、グレゴルが顔を背ける。
「主様」
セリーが隣から俺の手首へ触れた。
「間に合います」
「ああ」
「エルさんを信じてください」
「信じている」
信じているから待つ。
自分一人なら、無理にでも転移していたかもしれない。
『四』
転移陣の光が強くなる。
ブラットたちも、それぞれの役割を確認するように視線を交わした。
『三』
扉の蝶番が一つ外れる。
『二』
「グレゴル!」
『聞こえている!』
「離れろ!」
『一』
グレゴルが長椅子から手を離し、祭壇へ向かって走った。
ほぼ同時だった。
正面扉が内側へ倒れ、木片と埃が礼拝堂へ飛び散る。
「捕らえろ!」
領主府の兵たちが雪崩れ込む。
その声へ重なるように、祭壇の前へ青白い光が走った。
銀色の扉が開く。
「行くぞ!」
俺とセリーが最初に飛び込んだ。
身体が一瞬だけ熱のない光に包まれ、次の瞬間には、古い木材と埃の匂いが肺へ入ってきた。
視界を確認する。
正面。
六人。
裏手の窓に二人。
グレゴルは祭壇脇で足をもつれさせ、片膝をついている。
「アル!」
「そのまま下がれ!」
領主府の兵たちが足を止めた。
突然現れた銀色の扉。
俺とセリー。
さらにその後ろから、ブラットたち三人が姿を現す。
「何者だ!」
先頭の男が叫ぶ。
「もう聞いているだろう」
俺は腰の収納具から拘束環を取り出した。
「グレゴルを連れ戻しに来た!」
男が剣を抜く。
「本人は戻らないと決めた」
「罪人の意思など関係ない!」
「なら、誰の言葉なら関係がある?」
「領主代官ベルナール様だ!」
迷いのない答えだった。
グレゴルの顔が歪む。
「ブラット!」
「はい!」
背後からブラットが走る。
武器はない。
それでも、長年王宮で鍛えられてきた足取りに迷いはなかった。
「立てますか」
「あなたは……」
「説明はあとです。転移扉まで行きます」
ブラットはグレゴルの腕を乱暴に引かなかった。片腕を自分の肩へ回させ、立ち上がるための支えを作る。
「歩けますか」
「あ、ああ」
「なら、ゆっくりで構いません」
「アンナマリー!」
「はい!」
俺の声へ、彼女が祭壇へ走る。
「帳簿は祭壇の裏です!」
グレゴルが叫んだ。
「茶色の革袋! それから青い紐で束ねた紙を!」
「分かりました!」
アンナマリーは長い外套の裾を片手で持ち上げ、祭壇裏へ膝をついた。
「フェリクス!」
「すでに始めています!」
フェリクスの両手から淡い水色の魔力が伸び、帳簿と革袋の表面を薄い膜のように覆っていく。
「耐火、耐水、簡易衝撃保護! 保存だけなら五分程度維持できます!」
「十分だ!」
その時、一人の兵が魔術杖を持ち上げた。
狙いは俺ではない。
祭壇の前にいるアンナマリー。
「燃やせ!」
赤い魔法陣が浮かぶ。
だが、火球が放たれるより僅かに早く、セリーが間へ入った。
「させません」
半透明の盾が展開される。
火球が激突し、乾いた礼拝堂を赤い光が照らした。
アンナマリーが思わず身体を縮める。
だが、火の粉一つ、紙へは届かなかった。
「女一人で止められると思うな!」
魔術杖を持つ男が叫ぶ。
セリーは盾越しに彼を見た。
「一人ではありません」
盾が前へ押し出される。
攻撃ではない。
それでも押し返された男は数歩後退し、体勢を崩した。
俺は別の兵へ拘束環を投げる。
銀色の輪が空中で分かれ、鎖となって剣腕と胴へ巻きついた。強く締め上げるのではなく、身体を固定し、その場へ座らせる。
「殺すな!」
後ろの兵が叫ぶ。
「こちらの言葉だ」
俺は礼拝堂の壁面へ魔力を流した。
「静寂壁」
透明な膜が窓と破られた扉を覆う。
「外へ増援を呼んでも声は届かない。剣を置け。こちらから傷つけるつもりはない」
「従うと思うか!」
二人が左右へ分かれた。
一人は俺へ。
もう一人は転移扉へ向かう。
狙いは明らかだった。
「セリー、右!」
「はい!」
半透明の盾が横へ滑り、グレゴルへ向かおうとした兵の進路を塞いだ。
俺へ来た男は剣を振り上げる。
先に攻撃しない。
だが、剣が身体へ届くまで待つ必要もない。
足元へ拘束環を投げる。
「なっ――」
鎖が両足へ絡んだ。
勢いのついていた男の身体が前へ倒れる。
このままでは顔から石床へ落ちる。
考えるより先に手が出た。
肩を掴み、身体を横へ捻る。
「ぐっ」
完全には支えきれなかったが、顔を打つことだけは防げた。
男が床へ手をつき、呆然と俺を見る。
「なぜ……」
「止めることと、怪我をさせることは別だ」
拘束環を固定する。
その間にも、窓の外にいた二人が侵入を試みていた。
硝子へ剣が振り下ろされる。
『外部からの侵入行動を検出』
「窓を塞げるか?」
『転移扉を基点とした一時防衛領域を展開します』
窓枠の隙間から淡い銀色の蔦が伸びた。
硝子を壊すのではなく、その外側を覆うように編み上がっていく。
「何だ、これは!」
「古代魔術だ! 下がれ!」
外の二人が動揺する。
「主様!」
セリーの声。
正面に残っていた三人が、一斉に距離を詰めてきていた。
俺たちを倒すことより、記録とグレゴルを確保することへ焦っている。
「フェリクス、終わったか!」
「記録保護は完了しています!」
「アンナマリー!」
「回収しました!」
振り返る。
アンナマリーは茶色の革袋を肩へ掛け、青い紐で束ねられた紙を胸へ抱えていた。小さな帳簿も二冊、落とさないよう外套の内側へ収めている。
「グレゴル、ほかは!」
「まだあります!」
「どこだ!」
「女神像の右足の下! 金属筒です!」
アンナマリーが振り返る。
祭壇脇に立つ古い女神像。
だが、そこへ向かおうとした彼女の前へ兵が一人回り込んだ。
「下がれ!」
男が剣を振り上げる。
ブラットはグレゴルを転移扉の手前へ座らせ、迷うことなく二人の間へ入った。
「ブラット!」
「下がってください!」
武器はない。
男の剣が横薙ぎに振るわれる。
ブラットは身体を大きく引いた。
剣先が外套を裂き、布片が舞う。
「ブラット!」
アンナマリーの悲鳴に近い声が響いた。
「大丈夫です!」
次の剣が来る。
ブラットは受けようとはしなかった。
相手の手首へ両手を添え、剣の軌道を床へ逸らす。
王宮で側近として働く者が身につける護身術。
力で押し返すのではなく、相手の勢いを利用して均衡を崩す。
兵の身体が前へ流れた。
「アル様!」
「分かってる!」
拘束環を投げる。
銀の鎖が男の胴へ巻きつき、動きを止めた。
「武器がなくても、やるな」
思わず声が出た。
ブラットは荒い息を整えながら俺を見る。
「護衛を命じられましたので」
「死ねとは命じていない」
「死ぬつもりもありません」
「なら、もっと下がれ」
「……承知しました」
以前なら、その返事だけで安心したかもしれない。
今は違う。
従ったかどうかではなく、何を考えて動いたのかを見る。
「アンナマリー、今だ!」
「はい!」
彼女が女神像へ駆け寄る。
右足へ両手をかけるが、当然ながら石像は簡単には動かない。
「重っ……」
「手伝います!」
フェリクスが隣へ入った。
二人で押す。
石像が僅かにずれ、その下から細長い金属筒が現れる。
「これですか!」
「それだ!」
グレゴルが叫ぶ。
「領都の財務保管庫と、商業組合側の帳簿番号が全部入っている!」
不正な金の流れを追うための道標。
「回収しました!」
「全員、戻れ!」
俺は白霧玉を床へ転がした。
薄い白煙が一気に広がる。
「煙だ!」
「火じゃない、前へ出ろ!」
兵たちの視界が白く染まった。
『味方識別を補助します』
俺の視界に、セリーたちの輪郭だけが淡い青色で浮かび上がる。
ブラットがグレゴルを支え、転移扉へ入る。
アンナマリーが記録を抱えて続く。
フェリクスも扉へ向かった。
だが、途中で突然足を止めた。
「何をしている!」
「通信石が!」
床を見る。
グレゴルが持っていた小さな通信石が転がっていた。
縁が欠け、薄い亀裂が入っている。
「捨てろ! 早く入れ!」
「塔へ繋がる魔導具でしょう!」
「お前は本当に――」
フェリクスが屈み、石を拾った。
その背後。
白霧の中から兵の影が現れる。
「フェリクス!」
本人が振り返る。
遅い。
剣が振り下ろされる。
俺が動くより早く、半透明の盾が横から飛んだ。
セリーの手元を離れた盾が、フェリクスと刃の間へ滑り込む。
甲高い音。
剣が弾かれた。
「走ってください!」
「ありがとうございます!」
今度こそフェリクスが転移扉へ飛び込んだ。
「セリー、先に戻れ!」
「主様も一緒です!」
「外の二人が――」
「塔から止められます!」
一瞬、言葉に詰まった。
自分だけ残る。
最後まで自分で確認する。
王宮にいた頃から、染みついている考え方だ。
だが、今は一人ではない。
「……分かった。戻る!」
「はい!」
二人で後退する。
霧の向こうから怒声が響いた。
「逃がすな!」
「グレゴルを殺せ!」
最後の言葉が胸へ刺さる。
だが、グレゴルはもう向こう側だ。
「閉じろ!」
俺とセリーが転移室へ飛び込んだ直後、銀色の扉が閉じた。
礼拝堂へ伸びていた光が消える。
急に静かになった転移室には、全員の荒い息遣いだけが残った。
◇◇◇
「追跡は?」
床へ片膝をつきながら尋ねる。
『転移痕跡を遮断しました。礼拝堂周辺の八名から転移先を特定される可能性はありません』
「拘束した者は?」
『拘束環は十分後に自動解除されます』
「怪我人は?」
少しだけ間があった。
『致命的損傷なし。転倒による軽度打撲二名。剣を逸らされた際に手首を捻った者が一名。その他、重大な外傷は確認されません』
「……そうか」
ようやく肩の力が抜けた。
誰も死んでいない。
こちらだけではない。
向こうもだ。
「主様」
セリーがすぐそばへ膝をついた。
「お怪我は?」
「ない」
「本当にですか?」
「ああ」
彼女の目が俺の腕、肩、胸元、脚へ順番に動く。
「セリーは?」
「盾への衝撃だけです」
『セリーの管理核および身体構造に異常なし』
「よかった」
素直に言うと、セリーの表情が少しだけ柔らかくなった。
「私もです」
「何が?」
「主様に怪我がなくて、よかったです」
それだけ言い合えることが、少し嬉しい。
だが、今はまだ終わっていない。
「グレゴル」
転移陣の端へ視線を向ける。
彼は床へ座り込んでいた。
ブラットが隣で身体を支えている。
「怪我は?」
「腕を……少し」
前腕から血が滲んでいる。
扉を押さえていた時、飛んだ木片で切ったのだろう。
「治療する」
「その前に、記録を」
グレゴルはアンナマリーの抱えている革袋を見る。
「中身を確認してください。あれがあれば――」
「先に傷だ」
「ですが」
「証拠より先に人を見ると言っただろう」
グレゴルが黙った。
「証拠は逃げない。お前の傷は放っておけば悪くなる」
「……はい」
「セリー、治療具を」
「はい」
『小型治癒布を転移室へ搬送します』
壁の一部が音もなく開き、小さな棚がせり出した。
セリーが白い布を取り出し、グレゴルの前へ膝をつく。
「腕を見せてください」
「自分でできます」
「傷の位置が見えにくいでしょう。任せてください」
グレゴルは戸惑いながら腕を差し出した。
セリーが治癒布を巻く。
淡い緑色の光が傷口を覆い、滲んでいた血が少しずつ止まっていった。
「痛みは?」
「少しあります」
「しばらく無理に動かさないでください」
「……はい」
グレゴルは自分の腕へ巻かれた布を見つめていた。
「なぜ」
「今度は何だ?」
俺が尋ねる。
「私は、あなたを陥れる報告を書きました」
「ああ」
「不正にも加担した。それでも、助けて、治療まで」
「何度も言わせるな」
俺は彼の前へしゃがんだ。
「お前が何をしたかは消えない」
「はい」
「だからといって、怪我したままにする理由にもならない」
「……」
「お前が裁かれる時は、傷を治したあとだ」
グレゴルはしばらく呆然と俺を見ていた。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。
「厳しいのか、優しいのか、分かりません」
「分からなくていい」
「そうですか」
初めて見た。
笑顔と呼ぶには小さすぎる。
それでも、怯えや罪悪感だけではない表情だった。
「記録を確認する」
アンナマリーが俺の前へ革袋を置いた。
「グレゴルさんに言われたものは、すべて回収したと思います」
「中を見たか?」
「見ていません」
僅かに傷ついたような顔をした。
俺はそれを見ても、質問を取り消さなかった。
「疑っている」
「分かっています」
「嫌か?」
アンナマリーは少し考えた。
「嬉しくはありません」
「そうか」
「でも、当然だとも思います」
彼女は俺の目を見る。
「確認してくださって構いません」
「ああ」
革袋を開く。
中には帳簿の写し。
支援金の申請一覧。
領主府から役場へ送られた命令書。
金額を書き換えるための手順を記した紙。
さらに複数の署名と印章の写しが入っている。
「これだけあれば、不正を証明できますか?」
ブラットが尋ねる。
「まだ足りない」
「命令書もあります」
「写しだ」
原本と照合しなければ、偽造だと言われる可能性がある。
「原本はどこだ?」
グレゴルを見る。
「領都の財務保管庫です。オズワルドが管理しています」
「オズワルド?」
「領主府財務官です。私が直接会ったことは数回しかありません。ただ、改竄前の記録と領都側の原本は、彼の管理下にあります」
「金属筒の一覧は?」
アンナマリーが差し出した。
受け取って中身を取り出す。
細く巻かれた紙。
そこには保管庫の棚番号、商業組合側の帳簿番号、年度ごとの送金記録が細かく書かれていた。
見覚えのある番号がある。
ロイドの補償金に関係するものだ。
「木札と照合できる」
思わず呟いた。
「木札?」
アンナマリーが反応する。
「町で見つけた証拠だ」
それ以上は言わなかった。
まだ三人へ全部を見せる段階ではない。
アンナマリーも、それ以上は聞かなかった。
「フェリクス」
「はい」
「お前が使った保存結界は、記録の内容を読み取る術式じゃないな?」
「違います。紙と革の表面へ保護膜を形成しただけです。内部情報への走査はしていません」
「エル」
『確認しました。記録内容に対する魔力走査の痕跡はありません』
「そうか」
フェリクスの肩が僅かに下がる。
「ありがとうございます」
「何の礼だ?」
「確認した上で、一つ疑いを減らしていただけたので」
「信用したとは言っていない」
「一つ減れば十分です」
妙に現実的な男だ。
「それより」
俺は彼の手を見る。
「通信石」
「あ」
「返せ」
「もちろんです」
フェリクスが両手で差し出す。
受け取って亀裂を確認する。
「なぜ、あんな状況で拾った」
「貴重な古代魔導具だったので」
「やっぱり研究目的か」
「半分は」
「残り半分は?」
フェリクスは少しだけ黙った。
「グレゴルさんが、自分の選択をあなたへ伝えるために使ったものだからです」
予想していなかった答えだった。
「壊れかけていても、あそこへ捨てていくものではないと思いました」
「感傷か?」
「研究者にも、その程度はあります」
「初めて知った」
「よく言われます」
通信石を握る。
無茶をしたことを褒める気はない。
だが、理由まで否定する必要もない。
「次は拾う前に自分の命を見ろ」
「はい」
「本当に分かったか?」
「非常に反省しています」
「目が通信石を見ている」
「……努力します」
やはり油断できない。
『主様』
エルの声が転移室へ響いた。
「どうした?」
『第一迎撃庭園において、ガルム・レイスが待機限界を超えたと主張しています』
「どれくらい待たせた?」
『十二分四十秒です』
「限界が短いな」
『本人は「王命を受けた近衛隊長を十二分以上放置するとは何事か」と発言しています』
「細かいな」
『さらに、外周に待機する近衛騎士団が古代王家権限鍵を再起動しました』
緩みかけていた空気が再び張り詰める。
「無効化したはずだ」
『侵入には成功していません。ただし、継続使用により外周結界へ負荷が蓄積しています』
グレゴルは救出した。
だが、塔の外にはまだ十六人の近衛がいる。
「ガルムと話す」
立ち上がろうとすると、セリーが俺の袖を掴んだ。
「すぐにですか?」
「ああ」
「主様は休んでいません」
「救出自体は短時間だった」
『本日の主様の活動量は、すでに推奨値を超過しています』
「今朝は寝た」
「二時間ほどです」
「寝ている」
「二時間は十分な睡眠とは呼びません」
「軍を外に置いたまま寝る方が危険だ」
セリーの表情を見る。
譲るつもりはなさそうだ。
「なら、私も必ず同席します」
「最初からそのつもりだ」
「お茶を飲みます」
「庭園へ持っていけばいい」
「食事は?」
「ガルムと話しながら食べるのか?」
「その必要はありません。先に小さなパンを二つ食べます」
「一つでいい」
「二つです」
「セリー」
「主様」
互いに見つめ合う。
転移室にいた全員が、こちらを見ていた。
ブラットの顔に、僅かな驚きが浮かんでいる。
「何だ」
「いえ」
「言え」
促すと、ブラットは少し迷ってから口を開いた。
「以前の殿下へ、ここまで強く休息を求める方はいなかったと思いまして」
胸の奥へ、小さな棘が刺さる。
以前、最も長く俺の隣にいたのはブラットだ。
彼は予定を管理した。
食事を忘れれば指摘もした。
体調が悪ければ医師を呼んだ。
それでも、王太子としての仕事そのものを止めることは、ほとんどなかった。
俺自身も、止めてほしいとは思っていなかった。
「お前がやればよかったと責めているわけじゃない」
「分かっています」
「本当に?」
「……今なら、少しは分かるつもりです」
今なら。
過去は変えられない。
俺も、ブラットも。
「パンを一つ食べる」
「二つです」
「一つ」
「小さいので二つです」
「……分かった」
「お茶も飲みます」
「ああ」
セリーはようやく満足そうに頷いた。
そのやり取りを見ていたグレゴルが、僅かに困惑した顔をしている。
「私を、どうするのですか」
その問いで、空気が変わった。
ここは古の塔。
俺とセリーが暮らしている場所だ。
グレゴルを助けた。
だが、それと塔の奥まで自由に入れることは同じではない。
「客室区画へ移す」
「塔の中に?」
本人が驚いた。
「外へ出せば、また狙われる」
「しかし、私は」
「自由に歩き回れるとは言っていない」
『客室区画第五室を隔離設定できます。外部区画への移動は不可能。室内には寝台、机、椅子、洗面設備があります』
「窓は?」
『外景投影式です。物理的な外部接続はありません』
「監視は?」
口にしてから、一度止まる。
以前なら、当然のように全部見張らせたかもしれない。
セリーがこちらを見る。
俺は頷いた。
「出入りしようとした時と、危険な魔力を使った時だけ知らせろ。室内の会話や生活は監視しない」
『設定します』
「グレゴル」
「はい」
「嫌なら別の場所を考える」
「いえ」
彼は首を振った。
「ここで構いません」
「監禁に近いぞ」
「分かっています」
「証言すると決めたからといって、俺を信用する必要はない」
「殿下」
「アルだ」
グレゴルが一瞬迷う。
「……アル様」
「ああ」
「今、私を最も殺しにくい場所は、ここだと思います」
「現実的だな」
「三年間、現実だけは嫌というほど見てきました」
「なら、現実としてもう一つ言う」
俺は回収した帳簿へ手を置いた。
「お前が証言すれば、町の者から憎まれる」
グレゴルの顔が強張った。
「マリアやミロも、お前を許さないかもしれない」
「はい」
「トーマスも」
「……はい」
「お前が助けたかった者まで、お前を責める可能性がある。それでも証言するか?」
長い沈黙があった。
今ならまだ引き返せる。
助けられた直後の恐怖と安堵で、勢いのまま頷いているだけかもしれない。
だから、もう一度選ばせる。
「します」
声は震えていた。
だが、言葉は明確だった。
「許されるためではありません」
「ヘルムートに言われたか?」
「いいえ」
グレゴルは俺を見る。
「あなたに言われました」
礼拝堂で伝えた言葉を思い出す。
許されるために選ぶな。
これ以上傷つける者を増やさないために選べ。
「そうか」
「妹のことも……お願いします」
「証言の条件にするのか?」
「違います!」
グレゴルはすぐに否定した。
「私が逃げても、証言しても、調べると言ってくださった」
「ああ」
「だから、お願いします」
クララ。
領都の施療館。
半年前から途絶えた手紙。
まだ何一つ終わっていない。
「分かった。調べる」
「ありがとうございます」
「見つけると約束はしない」
「はい」
「だが、調べることは約束する」
「それで十分です」
グレゴルの目から、少しだけ力が抜けた。
「では、ブラットたちは?」
セリーが三人を見る。
ブラットが静かに口を開く。
「私たちは、どこで待てばよいでしょうか」
当然のように塔へ泊まれるとは考えていないらしい。
「迎撃庭園へ戻す」
アンナマリーの顔が僅かに曇った。
すぐに隠そうとしたが、間に合っていない。
「不満か?」
「いいえ」
「顔に出ている」
「……少しだけ」
彼女は困ったように笑った。
「今の塔が、アル様の家なのだと分かりました」
「ああ」
「そこへ入れてもらえないことを、寂しいと思いました」
胸が僅かに痛んだ。
かつてなら、俺のいる場所へ彼女がいることは当然だった。
だが、今は違う。
「ですが、それを決めるのは私ではありません」
アンナマリーは続けた。
「今は庭園で待ちます」
「ああ」
「ガルム隊長との話は?」
ブラットが尋ねる。
「必要なら呼ぶ」
「私たちが近衛へ加わらないことは、本人へ示したいと思っています」
「王都へ戻れなくなるかもしれないぞ」
「分かっています」
「今ここで俺へ味方したからといって、ずっと同じ選択をする必要はない」
ブラットが僅かに目を見開く。
「自分で選べ」
俺は続ける。
「次に王命が来た時、迷うなら迷え。俺へ従うことを新しい命令にするな」
しばらくして、ブラットが深く頷いた。
「……承知しました」
「フェリクスの測定器は返さない」
「分かっています」
「ものすごく残念そうだな」
「非常に」
「隠せ」
「努力します」
やはり、この男だけは別の意味でも監視が必要そうだった。
◇◇◇
グレゴルを客室区画第五室へ移したあと、俺は食堂へ連行された。
連行という表現は少し大袈裟かもしれない。
だが、セリーに袖を掴まれたまま椅子へ座らされたので、俺の感覚では間違っていない。
目の前の皿には、小さな丸パンが二つ。
湯気の立つ茶。
外では王国軍が待っている。
「急いでください」
セリーが言う。
「待たせているのはお前だろう」
「食べると約束したのは主様です」
「食べている」
「止まっています」
「噛んでいた」
「もう飲み込んでいます」
「よく見ているな」
「毎日見ていますので」
向かいへ座るセリーのエプロンには、昨日つけた焦げ跡がまだ僅かに残っている。
礼拝堂では何度も盾を使った。
それでも、新しい傷は見当たらない。
「セリー」
「はい?」
「さっき、フェリクスを助けたな」
「はい」
「まだ信用していないだろう」
「していません」
「迷わなかった?」
セリーは不思議そうに首を傾げた。
「剣を受けそうでしたので」
「それだけか」
「それで十分ではありませんか?」
簡単に言う。
だが、それを簡単にできる者ばかりではない。
「主様も、兵の方が倒れた時に支えました」
「顔から落ちそうだったからだ」
「それで十分です」
同じ言葉を返された。
「似てきたな」
「夫婦ですから?」
「誰が言った」
「今朝の変装設定です」
「まだ引っ張るのか」
「気に入っています」
「俺は気に入っていない」
「本当ですか?」
「……パンを食べる」
「話を逸らしましたね」
「食べろと言ったのはお前だ」
こんな状況でも、少しだけ笑える。
それがありがたかった。
『主様』
「何だ?」
『ガルム・レイスが、庭園入口において三度目の抗議を行っています』
「内容は?」
『「王命を軽んじる行為は反逆と判断する」と』
「入れろ」
「パンは?」
「食べた」
「二つとも?」
皿を見る。
一つ残っている。
「今食べる」
残りを口へ入れた。
「急ぎすぎです。喉へ詰まります」
すぐに茶を渡される。
「お前が急がせたんだろう」
「食べることを急いでいただけです」
「同じだ」
「違います」
茶を飲み干し、ようやく立ち上がる。
「行くぞ」
「はい」
◇◇◇
第一迎撃庭園へ戻ると、ブラットたちは先ほどと同じ石卓のそばで待っていた。
ただし、空気は明らかに変わっている。
庭園入口。
霧の向こうに、一人の大柄な男が立っていた。
ガルム・レイス。
短く刈り込まれた黒髪。
厚い肩。
白銀の近衛鎧には長旅の泥が残っている。
腰の剣は鞘へ収まっていたが、庭園の封印によって抜くことはできない。
俺たちの姿を見つけた瞬間、ガルムは大股でこちらへ歩き出した。
「止まれ」
石畳へ青い光が走る。
ガルムの足が、その場で止まった。
「これは何の真似だ!」
「勝手に近づくなと言った」
「私は王国近衛騎士団第三小隊長、ガルム・レイスである!」
「聞いた」
「国王陛下の命を受けている!」
「それも聞いた」
ガルムの額に青筋が浮かぶ。
「ならば、なぜ十二分以上も私を待たせた!」
「助けを求める者がいた」
「王命より優先したと?」
「ああ」
迷わず答える。
ガルムが一瞬、言葉を失った。
「その者は、王国の存亡に関わる重要人物なのか?」
「一人の命に関わった」
「それだけで?」
「それだけで十分だ」
庭園へ沈黙が落ちた。
ブラットたちは口を挟まない。
ガルムは深く息を吸い、怒りを押さえ込むように拳を握った。
「……顔を見せろ」
「何?」
「その変装を解け」
今の俺は、町へ出る時のアルの姿だ。
「なぜ?」
「元王太子殿下の名を利用している偽物であれば、これ以上話す価値はない」
「本物なら?」
「王都へ保護する」
「本人が拒否しても?」
「王命だ」
先ほどと同じ答えだった。
「なら、顔を見せる意味がない」
「殿下!」
その呼び方。
もう確信している。
「すでに分かっているだろう」
「確認が必要だ」
「確認したあと、鎖をつけるのか?」
「保護だ!」
「俺にとっては同じだ」
ガルムが歯を食いしばる。
「王都へ戻るつもりはない」
「精神干渉を受けていた可能性があると聞いている!」
俺の表情が僅かに変わった。
「誰から聞いた」
「王都を出る直前、王宮医務局から追加情報が出た」
フェリクスが息を呑む。
ガルムも三人の存在へ気づいた。
「ブラット卿。アンナマリー嬢。フェリクス研究員」
「隊長」
ブラットが静かに答える。
「なぜ、そちらへ座っている」
「自分で選びました」
「何?」
「私は今、アル様を王都へ連れ戻すことへ協力しません」
ガルムの顔から怒りが一瞬消え、純粋な驚きへ変わった。
「王命へ逆らうのか」
「本人の意思と安全を確認せず連行することには協力できない、と言っています」
「貴様は元側近だろう!」
「だからです」
ブラットは目を逸らさなかった。
「私は一度、命令と立場を理由に、この方を見捨てました」
「今は元王太子だ!」
「今は、アル様です」
ガルムの視線が俺へ戻る。
「その呼び方を命じたのか」
「俺が望んだ」
「王家の名を捨てるつもりか?」
「捨てたのは父上だ」
王太子返上。
婚約破棄。
古の塔への幽閉。
その決定をしたのは、俺ではない。
「それでも陛下は、あなたの父君だ」
「父親なら、息子の家へ軍を連れて押し入っていいのか?」
「この塔は王家の遺産だ!」
「違います」
セリーが一歩前へ出た。
ガルムが眉を寄せる。
「誰だ」
「古の塔の管理者、セリーです」
ガルムは彼女を上から下まで見る。
「魔導人形か?」
セリーの表情が僅かに硬くなった。
「現代の分類では、そう呼ばれる構造を持っています」
「ならば王家が回収すべき古代魔導具の一つ――」
「今の言葉を取り消せ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
ガルムが俺を見る。
「何?」
「セリーは物じゃない」
「しかし、古代魔導具として作られた存在なら」
「自分で考える。自分で選ぶ。嫌なことを嫌だと言う。俺と一緒に暮らしている」
「それでも構造上は――」
「取り消せ」
白い花が、一斉に閉じた。
庭園の石像の目へ青い光が灯る。
『主様の敵意上昇を検出』
「攻撃するな」
『承知しました』
ガルムが周囲を見回す。
塔そのものが俺の感情へ反応したことは理解したらしい。
俺はセリーを見る。
「嫌だったか?」
セリーはすぐには答えなかった。
「はい」
やがて静かに言う。
「私は、物として扱われることを好みません」
俺が怒るだけでは駄目だ。
セリー自身の言葉がある。
「聞いたな」
ガルムの眉間へ深い皺が刻まれる。
近衛隊長が、古代の魔導人形へ謝罪する。
彼の常識では受け入れにくいのだろう。
それでも、長い沈黙の末にガルムはセリーへ向き直った。
「……失礼した」
セリーは黙って聞いている。
「あなたを意思のない所有物として扱う発言だった。取り消す」
「受け取りました」
セリーはそれだけ答えた。
「許すのか?」
俺が尋ねる。
「発言を取り消したことは受け取りました」
一度考えてから続ける。
「私がどう感じるかは、もう少し考えます」
「それでいい」
すぐに許す必要はない。
謝った側が、許される時期まで決めるものでもない。
ガルムは俺たちのやり取りを、理解しきれないような目で見ていた。
「この塔は、二千年前の魔導具師セリーヌから俺へ譲られた」
「証拠は?」
「ある」
「見せろ」
「嫌だ」
「なぜ!」
「見せたら納得して帰るのか?」
ガルムが黙った。
「帰らないだろう」
「王命を果たす必要がある」
「なら、今見せる意味はない」
「少なくとも、殿下の生存だけでも報告しなければならない!」
「それは構わない」
今度はブラットたちが俺を見る。
「俺が生きていることは、もう隠しきれない」
「では王都へ――」
「行かない」
「陛下へ直接、事情を説明すべきだ!」
「父上が俺に会いたいと言ったのか?」
ガルムの言葉が止まった。
「命令書へ、そう書いてあるか?」
「生死を確認し、保護せよとある」
「会わせろとは?」
「……明記されていない」
「塔の遺産回収と、俺の生死確認。どちらが先に書かれている?」
ガルムの顔が僅かに歪んだ。
「命令書の順番を聞いている」
長い沈黙のあと、彼は答えた。
「古の塔の調査。遺産の安全確保。元王太子アルフォンス・ガイゼンの生死確認、および保護」
アンナマリーが目を伏せた。
ブラットの拳が膝の上で握られる。
「そうか」
「殿下、これは優先順位を意味するものでは――」
「十分だ」
痛くないわけではない。
胸の奥に、確かに何かが刺さった。
だが、以前なら感じたはずの、世界全部から不要とされたような痛みではなかった。
王都の命令書で何番目に書かれているか。
それだけで、自分の価値が決まるわけではない。
「生存は報告していい」
「本当に?」
「ああ。ただし、塔内部の情報を勝手に持ち帰るな」
「それは約束できない」
「なら、持ち帰れるものは俺が決める」
「王命へ逆らえと言うのか!」
「選べと言っている」
ガルムの顔が険しくなる。
「王命どおり力で塔へ入ろうとするか。俺が生きていて、塔への立ち入りを拒否していると報告し、父上へ再確認するか」
「その二つだけか」
「もう一つある」
「何だ」
「全員で帰って、何も見なかったことにする」
「できるわけがない!」
「なら二つだ」
「私は兵だ」
「ああ」
「命令へ従う義務がある」
「ああ」
「個人の感情で内容を変えることはできない」
「なら、力で来ればいい」
庭園の空気が再び張り詰める。
「ただし、こちらも止める」
「戦争になるぞ」
「十六人で?」
「王国軍が追加される!」
「その前に父上へ聞け」
「何をだ」
「息子を連れ戻すために、この塔と周辺の人間へ兵を向けるのかと」
「周辺?」
ガルムの目が鋭くなる。
「近くにリュネがあることくらい知っているだろう」
「ああ」
「軍が結界を破ろうとすれば、町にも影響が出る」
「脅しか?」
「エル」
『外周結界への権限鍵連続使用により、周辺魔力流へ軽度の乱れが発生しています』
庭園の空中へ映像が浮かんだ。
外周の森。
権限鍵を掲
『周辺魔力流の乱れにより、外周結界付近の小規模魔術環境へ影響が出始めています。現時点では軽微ですが、干渉を継続した場合、森の生態系、簡易結界、地下水脈へ波及する可能性があります』
映像の中では、権限鍵を掲げた術師の周囲で淡い光が不規則に揺れていた。
木々の葉が、風もないのにざわめいている。
地面近くでは小動物が巣穴から飛び出し、森の外へ逃げていた。枝へ止まっていた鳥たちも次々に飛び立ち、塔から離れる方向へ群れを作っている。
「このまま続ければ?」
ガルムが低い声で尋ねる。
『現在の出力を維持した場合、半日以内に周辺の簡易結界へ不具合が発生する可能性があります。地下水脈への影響確率も上昇します』
「リュネの井戸は?」
今度は俺が尋ねた。
『町の主要水源と直接接続しているとは断定できません。ただし、北側地下水脈はリュネ周辺へ流入しています。長時間の干渉は推奨しません』
ガルムの顔色が変わった。
ほんの少し前まで、王命を理由に一歩も引こうとしなかった男だ。
だが、町へ影響が出る可能性を聞いた瞬間、その視線は俺ではなく空中の映像へ向いている。
「権限鍵を止めさせろ」
即座だった。
「王命は?」
俺が尋ねる。
ガルムがこちらを睨む。
「民を傷つけろとは命じられていない」
「塔へ入るために必要でも?」
「必要だからといって、無関係の民へ被害を出していい理由にはならん」
迷いがない。
それは、少し意外だった。
「外へ命令を届けられるか?」
『可能です』
「ガルム自身に言わせろ」
空中へ薄い魔法陣が開く。
ガルムは一度俺を見たあと、その中心へ向かって声を張った。
「第三小隊へ告ぐ! 権限鍵の使用を即時停止! 結界への魔術干渉もすべて中止し、現位置で待機せよ!」
映像の中で、術師が驚いて顔を上げる。
『しかし、隊長! もう少しで解析が――』
「中止だ!」
『ですが王命が』
「周辺環境へ影響が出ている! 民へ被害が及ぶ可能性がある以上、続行は認めん!」
短い沈黙。
『……了解しました』
権限鍵から漏れていた光が消える。
森の中に残っていた魔力の揺らぎも、少しずつ弱くなっていった。
すぐに元どおりになるわけではない。
それでも、悪化は止まった。
「一つ、自分で選んだな」
俺が言うと、ガルムは鋭くこちらを見る。
「民を守るのは当然だ」
「当然のことも、命令とぶつかった時には選択になる」
「説教をするな」
「していない」
「しているように聞こえる」
「気のせいだ」
隣でセリーが小さく笑った。
先ほどまで張り詰めていた庭園の空気へ、ほんの僅かな隙間が生まれる。
ガルムはセリーの笑いへ一度だけ視線を向けたが、もう物のように見ることはしなかった。
「ガルム」
「何だ」
「今日は帰れ」
「できない」
「では、森の外で待機しろ」
「いつまでだ」
「少なくとも、明日の朝まで」
「長すぎる」
「王都へ報告を送る必要があるだろう」
俺は石卓へ片手を置いた。
「父上へ確認しろ」
「何を確認する」
「俺が王都への帰還を拒否している。それでも強制連行するのか。この塔の所有者が立ち入りを拒否している。それでも軍を使って接収するのか」
「所有権はまだ確認できていない」
「だから再確認を求めろと言っている」
「返答には数日かかる可能性がある」
「なら、その間は結界へ触れるな」
「監視は続ける」
「森の外からなら好きにしろ」
「好きにしろ、とは」
「塔へ近づかない。魔術を撃たない。周辺住民へ圧力をかけない。その条件を守るなら、見張るだけなら止めない」
ガルムは腕を組んだ。
「食料と水は三日分しかない」
「足りなくなればリュネで買え」
「近衛が地方の市場で買い出しか?」
「金を払えば客だ」
ガルムの顔が、初めて本気で困ったように歪んだ。
「兵站を何だと思っている」
「飯と水を用意することだろう」
「そうだが」
「なら市場で買える」
「王都近衛が、野菜を値切る姿を想像しているだろう」
「少し」
「殿下」
「アルだ」
「……今はそれどころではない」
「なら、値切るな」
セリーが口元を押さえている。
ブラットも俯いたまま、僅かに肩が揺れていた。
「笑うな」
ガルムが低く唸る。
「笑っていません」
ブラットが答える。
「肩が動いている」
「呼吸です」
「無理があるぞ」
妙なところで空気が緩んだ。
だが、ガルムはすぐに表情を戻す。
「町へ圧力をかけるつもりはない」
「本当に?」
「当然だ」
「さっきまで結界を壊そうとしていた」
「それと町は別だ」
「町へ影響が出ると分かったら止めた」
「ああ」
「その判断は覚えておく」
ガルムは黙った。
「俺からも文書を出す」
そう言うと、今度は庭園にいた全員が俺を見る。
「文書?」
セリーが尋ねる。
「ああ。父上へ直接、俺の意思を伝える」
「王都へ戻らないことを?」
「それも書く」
「塔のことも?」
「この塔は王家の所有物ではない。俺へ譲られたこと。軍による接収を拒否すること。今後、武力で踏み込むなら侵入として扱うことも」
ガルムが眉を寄せる。
「かなり強い文面になるな」
「事実だ」
「署名はどうする」
その問いに、少しだけ言葉が止まった。
アル。
町ではそう名乗っている。
今の俺が望む名前でもある。
だが、父上へ正式な意思を伝えるなら。
「アルフォンス・ガイゼン」
久しぶりに、自分の正式な名を口にした。
胸が少しだけ重くなる。
だが、以前のように縛られる感覚ではなかった。
「その名を使うのですね」
アンナマリーが小さく言った。
「ああ」
「王家へ戻るために?」
「違う」
すぐに答える。
「戻らないと、自分の名で伝えるためだ」
彼女は一瞬目を見開き、それから静かに頷いた。
「文書は俺が書く。ガルムが確認して封をする」
「内容を検閲する」
「書き換えるな」
「しない」
「都合の悪い部分を抜くな」
「近衛の名誉へ誓う」
「ならいい」
ガルムは少し考え、続けた。
「明朝まで待機する。その間、結界への干渉は禁止する」
「部下にも徹底しろ」
「ああ」
「町へ入る場合は武装を見せつけるな」
「近衛が武装を外せるか」
「外せとは言っていない。威圧するなと言っている」
「分かった」
「金は払え」
「当たり前だ」
「野菜売りの女性に『王都から来たから安くしろ』と言ったら追い返されるぞ」
「なぜそこまで具体的なんだ」
「知っているからだ」
セリーが楽しそうに笑う。
「主様、かなり町の方々を信用していますね」
「信用というか、あの人は本当に追い返す」
「会ってみたいような、会いたくないような」
ガルムが疲れた顔をした。
「一つ確認する」
「何だ」
「あなたは本当に、王位へ戻るつもりがないのか」
「ああ」
今度は迷いなく答えた。
「精神干渉が証明されても?」
「ああ」
「幽閉が不当だったと認められても?」
「戻らない」
「王太子の地位を返すと言われても?」
「いらない」
ガルムは理解できないように俺を見る。
「国を捨てるのか」
「国と王位は同じじゃない」
「何?」
「俺は今、リュネで起きていることを調べている」
ブラットたちが僅かに反応した。
詳しい内容までは話さない。
「届くはずの支援が届いていない。病気の子供が治療を受けられず、遺族へ渡る金が消えている」
ガルムの表情が変わる。
「領主府が?」
「まだ調べている途中だ」
「証拠は?」
「ある。だが、お前にはまだ見せない」
「なぜ」
「近衛から領主府へ情報が漏れない保証がない」
「我々を疑うのか」
「疑っている」
即答した。
ガルムが不満そうに眉を寄せる。
「だが、全員が悪いとも決めていない」
「随分と面倒な考え方だな」
「ああ」
「それで国を変えられるのか」
「分からない」
「分からない?」
「王位にいた時だって、変えられなかった」
あの報告書。
延期した監査。
数字だけを見た申請。
今も胸に残っている。
「大きな国を守ると言って、一枚の申請書を見なかった」
庭園の白い花が、風に揺れる。
「今は、一枚ずつ見る」
「小さいな」
「ああ」
否定しない。
「元王太子が選ぶ道としては、随分小さい」
「小さくていい」
セリー。
ミロ。
マリア。
トーマス。
エマ。
イーダ。
グレゴル。
一人ずつ、名前を知った。
「大きなものを守ると言って、小さな声を踏み潰すよりはいい」
ガルムは長く黙っていた。
先ほどまでのような怒りだけではない。
理解したわけでもないだろう。
だが、何かを測るような目で俺を見ている。
「道を開け」
俺がエルへ告げる。
『承知しました』
庭園入口の霧が左右へ分かれ、外周結界へ続く一本道が現れた。
ガルムは数歩進み、そこで一度足を止める。
「殿下」
「アルだ」
「今は、まだそう呼べない」
「好きにしろ」
「明日の文書を待つ」
「ああ」
「近衛は結界へ触れさせない」
「約束だな」
「兵として誓う」
その言葉だけは、真っ直ぐだった。
ガルムは霧の中へ消えていく。
やがて道が閉じた。
◇◇◇
近衛隊長の姿が完全に見えなくなると、庭園へ残っていた緊張が少しずつほどけていった。
白い花が再び開き始める。
石像の目からも青い光が消えた。
「主様」
セリーが俺の横へ立つ。
「疲れましたね」
「ああ」
今度は否定しなかった。
身体の疲れもある。
それ以上に、何度も判断を重ねたことで頭の奥が重い。
「国王陛下への文書は、明日にしますか?」
「今日中に下書きする」
セリーの目が細くなる。
「休んでから」
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
『記録しました』
「エルまで」
「今回は必要です」
反論する気力がなかった。
石卓の向こうでは、ブラットたち三人が立っている。
「お前たちは、今夜どうする」
俺が尋ねると、ブラットが答えた。
「この庭園で待ちます」
「夜は冷えるぞ」
『庭園内温度は常時二十二度前後へ維持されています』
「野営より快適ですね」
フェリクスが素直に感心する。
「お前はそこへ感動するのか」
「環境制御も古代魔導技術の重要な――」
「研究するな」
「はい」
アンナマリーも静かに頷いた。
「私は、ここで構いません」
「客室へ入れないことを恨むか?」
一瞬、彼女の表情が揺れた。
「いいえ」
「本当に?」
「……少し寂しいとは思います」
正直に答えた。
「でも、ここはもうアル様の家です」
「ああ」
「誰を入れるかは、あなたが決めることです」
昔なら。
俺のいる場所へアンナマリーがいることは当然だった。
王宮の夜会。
執務室。
庭園。
式典。
隣に立つ未来を、疑ったこともなかった。
今は違う。
その違いを、無理に元へ戻す必要はない。
「今日、役割を与えたからといって、信用したわけじゃない」
「分かっています」
「記録を持ち逃げする可能性も考えた」
「はい」
「でも、しなかった」
アンナマリーが僅かに顔を上げる。
「言われたものだけを回収した」
「はい」
「それは覚えておく」
目に涙が浮かぶ。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「では」
彼女は少しだけ考える。
「今日、私が選んだことを覚えていてください」
「ああ」
それなら受け取れる。
ブラットへ視線を向ける。
「お前も、グレゴルを守った」
「はい」
「武器もないのに前へ出た」
「申し訳ありません」
「褒めていない」
「分かっています」
「本当に?」
「今後は、より安全な方法を選びます」
「そうしろ」
少し間を置く。
「だが、逃げなかったことは覚えておく」
ブラットの表情が静かに変わる。
「ありがとうございます」
「だから礼を言うな」
「では、私も覚えておいていただければ十分です」
「ああ」
最後にフェリクスを見る。
「お前は」
「通信石を拾いました」
「分かっている」
「反省しています」
「本当に?」
「命の危険がある場面では、研究資料より退避を優先します」
「通信石は研究資料じゃないと言っていたな」
「感情的価値のある古代魔導具です」
「余計に悪化した」
「すみません」
セリーが小さく笑う。
「でも、フェリクスさんが拾わなければ、通信石はあそこへ残っていました」
「だからといって剣を受けていい理由にはならない」
「はい」
フェリクスも今度は素直に頷いた。
「次は拾いません」
「本当に?」
「……可能な範囲で」
「信用できない」
「そこは否定できません」
全員が少しだけ笑った。
大きな笑いではない。
それでも、初めて会った庭園より空気は確実に変わっている。
「謝罪の話は、まだ聞かない」
俺が言うと、アンナマリーの笑みが消えた。
「はい」
「今日助けたからといって、過去は変わらない」
「はい」
「俺も、まだ許せない」
「はい」
「でも」
言葉を選ぶ。
「今日お前が選んだことまで、過去のせいで無かったことにはしない」
アンナマリーの目から、一筋だけ涙が落ちた。
それでも、彼女は泣き崩れなかった。
「ありがとうございます」
今度だけは、止めなかった。
ブラットも静かに頭を下げる。
「私も、今日の選択を忘れません」
「次も同じように選べるとは限らないぞ」
「分かっています」
「王都から命令が来れば、迷うかもしれない」
「はい」
「その時、今日の俺へ従う必要はない」
ブラットが顔を上げる。
「自分で選べ」
しばらくして、彼は深く頷いた。
「承知しました」
以前なら、絶対の忠誠を求めただろう。
迷わず従うことを正しいと思っていた。
今は違う。
従う者ではなく、選べる者と関わりたい。
「主様」
セリーが俺の袖を引いた。
「今度こそ休みます」
「ああ」
「書斎へ行きません」
「文書の下書きだけ」
「休んでからです」
「少しくらい」
「寝台へ行きます」
完全に譲らない。
「三人の前だぞ」
「だからこそです」
「何が?」
「約束を守るところを見ていただきます」
「なぜ?」
「信用のためです」
ブラットが僅かに笑った。
「確かに、約束を守る姿は必要かと」
「お前はどちらの味方だ」
「今は、休息を勧める側です」
「アンナマリーは?」
「……お休みになった方がよいと思います」
「フェリクス」
「睡眠不足は精神干渉の検査精度へ影響します」
「誰も味方がいない」
「私は味方です」
セリーが笑った。
「主様を休ませる味方です」
もう反論する気力がない。
「分かった」
庭園の銀色の扉へ向かう。
「明朝、また来る」
「はい」
「勝手に庭園から出ようとするな」
念のため言うと、フェリクスが目を輝かせた。
「許可なく出ようとした場合はどうなるのですか?」
『中央椅子へ強制転送されます』
「なるほど」
「試すなよ」
「非常に興味深いです」
「試すな」
「はい」
返事が信用できない。
◇◇◇
塔内へ戻り、銀色の扉が閉じる。
廊下には、いつもの温かな魔導灯が灯っていた。
外には王国軍。
庭園には、過去から来た三人。
客室区画には、罪を証言すると決めたグレゴル。
リュネには、まだ終わっていない不正と、守らなければならない人たちがいる。
古の塔は、昨日までよりずっと多くの問題と人を抱えていた。
「静かな暮らしから遠ざかってるな」
思わず呟く。
「嫌ですか?」
セリーが隣を歩きながら尋ねる。
「少し」
「少しだけ?」
「……かなり」
正直に答えると、セリーが楽しそうに笑った。
「では、皆さんを追い出しますか?」
「誰を?」
「グレゴルさんも。庭園のお三方も」
「今すぐは追い出さない」
「近衛の方々は?」
「外で待ってもらう」
「では、増えましたね」
「何が?」
「主様の帰る場所に関わる方々がです」
足を止める。
「全員を家族にするつもりはないぞ」
「はい」
「信用もしていない」
「はい」
「許してもいない」
「はい」
「それでも?」
「関わったことは消えません」
今日。
ブラットはグレゴルを支えた。
アンナマリーは証拠を守った。
フェリクスは紙へ結界を張り、危険を冒して通信石を拾った。
ガルムは、王命を受けていながら、町へ被害が出る可能性を知って権限鍵を止めた。
誰も、言葉だけではなかった。
「武器を返さなくても、役割は渡せるんだな」
「はい」
「信用していなくても?」
「全部を任せなくてよいと思います」
小さな役割。
守る対象。
越えてはいけない線。
それを示し、その中でどう動くかを見る。
「王太子の頃は、役割を与えることと命令することが、ほとんど同じだった」
「今は違いますか?」
「選ばせている」
「はい」
「遅いな」
「何がです?」
「人と関わる方法を覚えるのが」
セリーは首を振った。
「今、覚えているなら遅くありません」
「二十年近く生きてきた」
「私は二千年待ちました」
「比べる相手が悪い」
「でしたら、主様はとても早いです」
「無理がある」
「褒めています」
寝室の前へ着く。
セリーが扉を開けた。
「一時間だけ休む」
「三時間です」
「軍が外にいる」
「エルさんが見ています」
「グレゴルも」
「客室は安全です」
「庭園の三人が」
「出ようとすれば椅子へ戻されます」
フェリクスの顔が浮かぶ。
「本当に試しそうだ」
『すでに一度、フェリクスが庭園外周の境界へ接近し、中央椅子へ転送されました』
「何をしているんだ、あいつは」
『本人は「挙動確認」と説明しています』
「やはり信用できない」
セリーが笑いながら俺の背中を押す。
「それでも、今は休めます」
「ああ」
寝台へ腰を下ろす。
一気に身体が重くなった。
張りつめていたものが切れたのだろう。
「セリー」
「はい?」
「今日も戻れたな」
「はい」
「全員」
「はい」
グレゴルも。
ブラットたちも。
礼拝堂へ来た兵たちも。
誰も死ななかった。
「よかった」
口にすると、急に瞼が重くなる。
「お休みなさいませ、主様」
「ああ」
「起きたら、国王陛下への文書を書きましょう」
「手伝うか?」
「はい」
「内容へ口を出す?」
「食事と休息の部分へは」
「文書の内容じゃないだろ」
「主様にとっては重要です」
「それは父上へ書かない」
「『私は適切に食事と休息を取っています』と」
「絶対に書かない」
「では私から追記を」
「やめろ」
セリーの笑い声を聞きながら、掛け布へ身体を沈める。
今日、許した者はいない。
グレゴルの罪も消えていない。
ブラットが俺を見捨てたことも。
アンナマリーが別の道を選んだことも。
フェリクスが異常を見つけながら、俺へ届くところまで報告を守れなかったことも。
ガルムが王命を理由に、俺の意思を無視して塔へ踏み込もうとしたことも。
どれも、無かったことにはならない。
だが。
今日、グレゴルは逃げずに証言すると決めた。
ブラットは武器のないまま、グレゴルを支えた。
アンナマリーは、勝手に記録を読まず、頼んだものだけを守った。
フェリクスは保存結界を張り、命を危険へ晒したのは褒められないが、通信石を捨てなかった。
ガルムは、町へ被害が出ると知った瞬間、王命の途中でも権限鍵を止めた。
許せないこと。
認められること。
それらは、同時に存在していいのかもしれない。
誰かを一度許せなかったからといって、その人が次に選んだ正しいことまで否定する必要はない。
逆に。
今日一つ正しいことをしたからといって、過去の罪まで消えるわけでもない。
どちらか一つへまとめなくていい。
人は、昨日までの選択だけでできているわけではない。
今日の選択も積み重なる。
明日の選択も。
俺自身も同じだ。
精神干渉を受けていた。
だから全部仕方がなかった、と言うつもりはない。
王太子だった。
だから全部正しかった、とも思わない。
過去の俺がしたことは残る。
それでも、今日どうするかは選べる。
誰かを許すかどうかを、今決めなくてもいい。
ただ。
今日、その人が何を選んだか。
それだけは見失わない。
その積み重ねの先で。
いつか、本当に許せる日が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
どちらでもいい。
今はまだ。
今日のことだけを、今日のこととして残せばいい。
目を閉じる。
最後に浮かんだのは、王宮でも。
焼却場でも。
礼拝堂でもなかった。
俺が眠るまで椅子のそばに残り、また勝手に仕事へ行かないか見張っているセリーの気配だった。
それだけで、不思議なくらい安心して眠れた。




