第184話 落ち葉を掃く手と、重ならなかった二つの景色
夜のあいだに風向きが変わったらしい。朝、寝台から起き上がって窓の外を眺めた俺は、昨日まで石畳の端に寄っていた落ち葉が、今度は塔の入口へ向かう道に散らばっているのを見つけた。雲の薄い空には朝日が差していたが、庭を囲む木々は絶えず揺れ、葉の失われた枝が石壁へ細い影を落としている。
机には、昨日セリーと描いた南側通路の見取り図の控えを置いていた。石の台の手前にある灰色の部分は、俺の絵でも彼女の絵でも二つほどのまとまりに見えている。けれど輪郭も距離も一致しておらず、間に積もった葉の下がどうなっているかを知らない以上、実際に別々のものだと決めることはできなかった。
(同じ場所に立って、一緒に見たつもりでいたのにな。俺が灰色のところを見ているあいだ、セリーは石の台の細い線をもっと確かめたかった。昨日そのことを聞けたのは、図を増やせたことと同じくらい大事だったと思う)
俺は控えを畳み、元の見取り図がしまわれている棚の位置を確かめてから部屋を出た。今朝の風では、すぐに南側へ出るのは適切ではないかもしれない。もしセリーも見取り図の続きを考えたいなら、今日は塔の中でできることから始めてもいいだろう。
廊下の途中で、セリーが布袋を持って歩いてくるのが見えた。袋の内側には昨日取りつけた小さなポケットがあり、筆記具を入れた部分だけ少し形がふくらんでいる。俺が挨拶すると、彼女は微笑んで応じたものの、視線を一度入口の方へ向けた。
「おはようございます、主様。今朝は風の音がよく聞こえますね。私は庭のお花も気になっておりますが、昨日の帰り道より落ち葉が増えているように見えました。もし外へ出るのでしたら、足元を先に確かめたいと思います」
「おはよう、セリー。俺も入口へ続く道が気になってた。南側通路の絵を見比べたい気持ちはあるけど、風が強いなら無理に出なくていい。それに、まずはいつも歩いてる石畳が安全かどうか確かめたいね」
セリーは安心したように頷いたあと、昨夜自分の部屋で考えていたことがあると打ち明けた。二人の絵の形が違った理由を、石の台へ近づかずに確かめられないかというのだ。以前より少し後ろから描いた自分の図と、前寄りに立っていた俺の図を思い返し、立つ位置が変わると奥にあるものの見える形も変わることが気になったらしい。
「それなら、塔の中で似た形を並べて試してみるのも面白そうだね。本物の台や灰色のところへ触らなくても、目の前の物がどう重なって見えるかは確かめられる。もちろん、同じ見え方になったからって、現地も同じ作りだと証明できるわけじゃないけど」
「はい。私が知りたいのも、今の私たちが描いた絵に、どのような見え方の違いが含まれるかということです。石の台の正体を決めるのではなく、次に見に行くときのために、自分の目で試してみたいと思いました」
自分でやりたいことを説明する彼女の言葉には、以前よりも迷いが少なかった。調査の補助を申し出るのではなく、自分が確かめたいことを見つけて、その方法を俺に相談してくれている。俺は彼女の案に賛成し、朝食のあとで使える材料を探すことにした。
食堂には、温かな穀物の料理と小ぶりのパンが用意されていた。朝日を受ける窓際の席は明るいが、外の風が強いためか、昨日よりも部屋の静けさが際立って感じられる。セリーは薄い布を椅子の背へ掛け、食事のあいだは使わずにおこうと決めたらしい。
「昨日、南側通路で筆記具を出し入れしてみましたが、袋の中のポケットは役に立ちました。ただ、記録板を持ったままでは扱いにくいことも分かりましたので、今日はそのことも忘れずにいたいです」
「そうだね。袋を直したことで全部の問題が解決したわけじゃないけど、紙に筆記具が引っかかりにくくなったのはよかった。今日は机で試せるなら、道具を落とす心配も少ないし、落ち着いて考えられそうだ」
食事をしながら、俺たちは今日作りたいものの形を相談した。使い終えた厚紙と、小さな木片か布の切れ端があれば、互いに離れたものを同じ視線に重ねて置くことができる。新しい魔導具を起動して景色を映し出すよりも、どこに何を置いたか自分たちで確かめられる方法の方が、今回の目的には合っていた。
セリーはパンを一口味わってから、少し笑った。最初は本物の石の台と同じ形を作ろうかと考えたが、あの台の正確な寸法や構造を知らないのだから、見た目だけ似せても意味がないと気づいたそうだ。俺も、色の違う単純な紙片だけで試す方が、何によって見え方が変わったのか分かりやすいと思った。
「では、灰色の部分と同じ形を作るのではなく、二枚の紙が重なって見える位置を探すのですね。私、同じ色の紙を離して置いたときと、一枚の紙を葉で隠したときの両方を見てみたいです」
「いいね。別々のものが一つに見える場合と、つながっているものが二つに見える場合、その両方を試せたら、昨日の絵をどう扱えばいいか考えやすくなる。まずは食事を終えてから、作業台を空けよう」
食後、二人で器を片づけ、作業部屋の中央にある机の上を整えた。古い療養施設の資料を読むときには紙の状態が気になるので、今日の工作はその資料とは別の場所で行う。セリーは棚から使い終えた厚紙の端と端切れを取り出し、俺は小さな木片を幾つか持ってきた。どれも普段から作業に使っている材料で、塔の遺産そのものを加工する必要はなかった。
まず、灰色に近い色の紙片を二枚、机の奥側へ少し離して置いた。手前には薄茶色の紙を立て、落ち葉が視界を隠している状況を単純な形で試してみる。俺が椅子へ座り、セリーがその横に立つと、同じ机に置いた紙でも、互いに見える重なり方が違っていた。
「主様、私には奥の右側の紙が、手前の紙にほとんど隠れて見えます。でも主様のお席からでは、右側の端まで見えていらっしゃいますね。こんなに近い場所なのに、違うのが分かります」
「本当だ。俺が少し身体を起こすと、今度はこっちが隠れる。……これなら、昨日セリーの絵と俺の絵で灰色の部分の長さが違ったことも、立ち位置の影響だった可能性を考えられるな。でも、現地で実際に何が置かれてるかは別の話だね」
セリーは自分の見えた位置を紙へ描き始めたが、途中で筆記具を止めた。立って見た景色を座ったまま描こうとすると、もう見え方が変わってしまうのだという。俺は見たときの位置へ目を戻してから描けばよいと答えたものの、彼女はまず何を記録したいか決め、必要な範囲だけ線を残す方法を選んだ。
次に俺たちは、細長い紙を一枚だけ机へ横たえ、その中ほどを茶色の紙片で隠した。正面から見ると灰色の部分は二か所へ分かれて見えるが、覆っている紙を取り除けば下ではつながっている。セリーはそれを見て、昨日南側で確認できなかった場所を、空白として残しておいてよかったと話した。
「私は、二つに見えたからといって、そこが本当に離れているとは言えないのだと、自分の目で確かめられました。けれど主様、これは一枚の紙を隠していると最初から知っているから分かることですね。現地では、下がどうなっているかを知りません」
「うん。今の実験で分かったのは、見え方だけじゃ本当の形を決められないってことだと思う。試した形のどちらかが正解だって証拠にはならない。むしろ、俺たちが図を見て思い込みやすいところを確かめられたのが収穫かな」
続いて二枚の紙を実際には離して置き、その間へ細い影が落ちるよう、窓の光と小さな木片の位置を変えてみた。ところが、俺が予想したようにはならなかった。影が間をつないで見えるどころか、光の向きが変わるたびに境目がかえって強調され、離れた二枚だとはっきり分かってしまう。
俺は木片の角度をもう一度変えようとしたが、セリーが少し楽しそうに笑ったので手を止めた。彼女は、思ったとおりにならなかったことも今日の結果として残したいと言う。成功した形だけを記録すれば、試してみたことの半分を忘れてしまうように感じるらしい。
「主様、私は今の結果が少し面白いです。影でつながって見えると思ったのに、実際には境目がはっきりしてしまいました。ですから、光があればいつでも別々のものがつながって見える、とは言えませんね」
「そうだな。俺は最初から、自分の考えたとおりの景色を作ろうとしてたのかもしれない。セリーが止めてくれなかったら、都合のいい位置を探し続けてただろうな。今日はうまくいかなかった条件も残しておこう」
俺たちは机の奥へ置いた紙を動かす前に、どこからどのように見えたかをそれぞれ書き込んだ。二枚が重なって見えたときの立ち位置、一枚が覆われて分かれて見えたときの条件、影だけでは想定した形にならなかったこと。どれも古代の石の台に関する結論ではないが、自分たちの見取り図を扱うときの注意として役立ちそうだった。
その作業がひと段落した頃、塔の入口の方から、乾いたものが石を擦る音が聞こえてきた。俺は筆記具を置いて耳を澄ませたが、音はしばらく続いたあと、風の強まりと一緒に遠ざかる。セリーも気づいたらしく、朝に見た落ち葉が扉の近くへ集まっているのではないか、と口にした。
「主様。私は先ほどから、入口の辺りで葉が動く音が気になっておりました。もし通り道が見えにくくなっているのでしたら、今日は石の台を見に行くより、塔のすぐそばを確かめたいです。もちろん、風が強すぎるようでしたら外へ出るのはやめたいと思います」
「俺も同じだよ。入口の様子なら、扉を大きく開けなくても見えるところがあるはずだ。まずは窓から確かめよう。危ない場所へ出てまで落ち葉を片づける必要はないからね」
机の上の材料を元へ戻し、二人で入口に近い窓へ向かった。そこから見える石畳には、朝より多くの落ち葉が寄り、塔の扉の前に薄く重なっている部分があった。昨日まで地面が見えていたところが葉に覆われているため、表面が乾いているのか、下に湿りがあるのかも分かりにくい。
俺は目を凝らしたものの、落ち葉の下の状態までは見えない。以前歩いたことのある石畳だからといって、今日は同じように踏めるとは限らなかった。セリーへそのことを伝えると、彼女は庭の奥へ入り込むのではなく、扉のすぐ前の普段使う場所だけを確認したいと答えた。
「主様。私は、風が落ち着くまで待ってもよいと思います。ただ、落ち葉が入口へ重なったままですと、次に出るとき足元が分かりにくいかもしれません。安全にできる範囲で、少しずつ確かめる方法はございませんでしょうか」
「そうだね。今の風なら、まず外へ出られる状態か判断しよう。必要なら玄関先の石畳だけ掃いて、南側の灰色の場所には触らない。あっちの落ち葉は俺たちがまだ分からないところを隠してるから、調査のために勝手に動かすのとは分けたいんだ」
セリーは頷き、用意する道具について考え始めた。濡れたものを引きずるような硬い道具は避け、普段使う箒で石畳の表面を軽く払えないか確かめたいという。俺たちは出入口付近の風が一時的に弱まったのを見て、上着を着てから扉を開けた。
外へ出ると、枯れ葉の匂いを含んだ冷たい風が頬へ当たった。扉のすぐ前には乾いた葉が何枚も重なっていたが、一部は裏側が暗く、濡れている可能性もある。俺は葉の積もった場所へ足を乗せず、見えている石の面に立ったまま、箒で入口に近い葉を少しだけ手前へ寄せた。
セリーは俺の隣へ無理に並ばず、扉の内側から外の様子を確認していた。俺が掃いたところで石畳の継ぎ目が見えるようになると、彼女はそこに湿ったような色が残っていると教えてくれる。俺も目を向け、乾いた部分と色が違うことを確認したが、単に水分が残っているのか、石そのものの色なのかを確かめるにはまだ情報が足りない。
「主様。私は、その部分へ足を乗せない方がよいと思います。落ち葉をどけても、すぐに安全だと分かるわけではございませんものね。今日は扉の開閉に必要なところだけ整えて、残りは風が落ち着いてから考えたいです」
「うん、そうしよう。葉の下が見えたからって、すぐ歩いて試す必要はない。今は扉に挟まりそうな葉だけ取り除ければ十分だよ。セリー、俺が箒を動かすあいだ、扉の開く範囲を見ていてくれるかな」
彼女は了承し、扉の内側から葉が入り込まないか確かめてくれた。俺は掃く範囲を広げすぎないよう気をつけながら、乾いた落ち葉をいつもの通り道の端へ軽く寄せていく。風で一度戻った葉もあったが、追いかけて濡れた場所へ踏み込むことはしなかった。
しばらくすると、扉の下端へ挟まりそうだった葉がなくなり、開閉する場所の石畳が見えるようになった。俺は箒を止め、セリーと一緒に扉をゆっくり動かして、葉が引っかからないか確かめる。異常な音は聞こえず、開閉の途中で何かが擦れる様子も見られなかったが、それだけで塔の外側の設備すべてに問題がないと判断するつもりはなかった。
「ありがとう、セリー。ここは今のところ問題なさそうだ。風がまた強くなる前に中へ戻ろう。今日見た暗い部分は、入口の石畳の状態として記録しておけばいいね」
「はい。私も、葉を掃くことと、石の色の違いの原因を調べることは別にしたいです。今すぐ何かが壊れていると考えずに、次に通るとき注意する場所として残しておきます」
扉を閉めると、外の音はやや遠ざかった。セリーは使用した箒を決められた場所へ戻し、俺は上着に付いた葉のかけらを払う。ほんの短い作業だったのに、二人とも顔を見合わせて小さく笑った。古代の謎を調べるために来た塔で、今日は扉の前の落ち葉を掃いている。そのことが、俺には何となく嬉しかった。
王宮で暮らしていた頃、入口や廊下を清潔に保つことは、俺が意識する前に誰かが済ませてくれていた。雨の日に濡れた床を避けて歩けたのも、落ち葉が邪魔にならなかったのも、そこに手を動かす人がいたからだろう。けれど俺は、それを日々の暮らしの一部として深く考えたことがなかった。
(俺が王太子だった頃、誰かが整えてくれた道を、当たり前みたいに歩いてたんだな。今こうして自分で掃いてみると、足元が見えること一つにも手間がかかるって分かる。あの頃の自分には戻れないけど、今気づいたことをこれからの暮らしに残したい)
廊下を歩きながらその話をすると、セリーは少し考えてから、掃除をすることについて自分が感じていることを教えてくれた。以前は主のために整える仕事として考えていたが、今は自分も通る場所を、自分が歩きやすいように整えたいと思うという。誰かの命令で動くのではなく、暮らしている一人として必要なことを選べるのが嬉しいらしい。
「主様。私は、今日の落ち葉を全部取り除けなかったことを、残念だと思う気持ちもございます。でも、主様と相談して扉の前だけを整えたことには、納得しております。私が暮らす場所を守るために、何をするか自分でも考えられましたから」
「俺も、全部片づけなきゃって思わずに済んでよかった。風が強い日なら、また葉は飛んでくるだろうしね。無理せず、必要なところからやっていこう」
午前の終わりが近づいていたので、俺たちは作業部屋へ戻る前に厨房へ寄った。セリーが下ごしらえしていた野菜を使い、二人で温かな料理を作る。外で少し冷えた手に器の温もりが心地よく、煮込んだ野菜の香りが部屋へ広がると、先ほどまで聞こえていた強い風の音も少し気にならなくなった。
食卓へ着くと、セリーは今日の調査と掃除を一緒に思い返し、少し不思議ですねと笑った。石の台の灰色の部分を確かめたいと思っていたのに、今朝は紙と木片で見え方を試し、最後には扉の前の落ち葉を掃いた。予定どおりではなかったが、どれも自分たちが必要だと思って選んだことだった。
「私は、朝に決めた予定を全部終えることが、よい一日の条件だと思っていたかもしれません。でも今日は、途中で別のことが気になって、それを優先してよかったと思います。主様は、南側通路へ行けなかったことが気になりますか」
「少しは気になるよ。昨日、セリーが細い線をもっと見たいって言ってくれたからね。でも、今日行く必要があるわけじゃないし、風の中で無理をする方が嫌だな。準備しておけば、次に安全な日が来たとき、何を見たいか相談して出かけられると思う」
セリーは頷き、料理を味わった。俺も同じように箸を進めながら、午前の簡単な実験について考えた。二枚の紙が一つの形に見える場合もあれば、つながった一枚が隠れて別々に見える場合もある。けれどその事実を、石の台の構造へ直接結びつける根拠はない。分かったのは、自分たちの視線がどのような形の違いを生み得るかということだけだ。
昼食のあと、俺たちは少し長めに休むことにした。セリーは食堂の窓辺に置いた椅子へ座り、今日は絵を描かずに外の枝を眺めている。俺は近くで本を開き、ときおりページをめくりながら、彼女がどんな景色を見ているのか想像する。何かを話したくなれば声をかけてくれるだろうし、そうでなければ互いに好きなことをしていてよかった。
やがて、セリーが小さく声をかけてきた。彼女は自分の布袋から一枚の紙を取り出し、午前の実験で描いた二つの図を俺へ見せてくれる。そこには立ち位置を変えたことで見え方が違ったことが分かるよう、手前の紙と奥の紙がそれぞれ別の線で描かれていた。
「主様。私、今日はこの図を見返しておりました。二枚の紙を置いた場所は変えておりませんのに、私が立った位置からは一方が隠れ、主様のお席からはもっと広く見えました。南側の灰色の部分も、次は同じ場所から二人で交代して見てみると、少し比較しやすくなるかもしれませんね」
「いい考えだね。目の高さや見方の違いは残るだろうけど、立つ位置を揃えれば少なくとも一つ条件を減らせる。次に行くときは、前に使った安全な石畳から、どこへ立ったか分かるようにしよう。新しく印を刻む必要はないし、移動してみて足元が不安ならやめよう」
セリーは少し嬉しそうに笑い、自分の図へもう一つ印を書き加えた。互いの見え方を同じにしたいのではなく、何が違いの原因になっているか考えやすくしたいのだという。俺はその言葉を聞いて、二人で調べることの意味を改めて感じた。相手と同じ景色を見るためだけでなく、違う景色を見た理由を一緒に探せることが、今は心強かった。
ただ、俺には一つ気になることがあった。紙を机へ置いた実験では、見え方が変わる理由を自分たちで確かめられる。しかし石の台の周囲では、灰色の部分が実際に何なのか分からないし、地面へ触れて確かめるわけにもいかない。だから、現地では一度に多くの仮説を試そうとするのではなく、何を観察するかを絞る方がよさそうだった。
「セリー、昨日の話を覚えてる? 次に南側へ行くなら、俺は灰色ばかりじゃなく、セリーが見たかった台の細い線を先に確かめたいと思ってるんだ。そのあと、足元や光の条件がよければ、同じ位置から灰色のところも見てみよう。順番について、セリーはどう思う?」
彼女はすぐには答えず、窓の外へ一度目を向けた。自分が見たいと伝えたことを俺が覚えていたのが嬉しかったらしく、頬に淡い色が浮かんでいる。けれど喜んだあとも、自分の希望だけを優先するのは違うと思ったようで、俺にも何を見たいか尋ねてくれた。
「ありがとうございます、主様。私は細い線をもう少し見たいですが、主様が灰色のところを先に確かめたいお気持ちも大切にしたいです。ですから、あの場所へ着いたとき、最初にどちらが見えやすいかを考えてから決めるのはいかがでしょうか」
「うん、それもいいね。ただ、今日の時点ではセリーが線を見たいって言ってくれたことを、次に出かけるとき忘れないようにしたい。二人で行くんだから、俺が気になる方ばかり先に進めたくないんだ」
セリーはゆっくり頷き、両手で紙を持ち直した。嬉しいと素直に答えてくれたあと、次に安全な日が来たら、出発前に互いの希望を書いてから出かけたいと提案する。俺も賛成し、今朝使った紙片の実験結果は、そのとき必要な部分だけ持っていけばいいと話した。
午後の後半は、外へ出ずに記録の整理をした。午前の実験で使った紙片は、次に同じ条件を試すための材料として残しておく。ただし、古代の石の台を模した模型であるかのような名前はつけず、『見え方を確かめるための紙片』と分かるようにした。失敗した影の試し方も含め、どこからどう見たかを簡単な表へ残す。
入口の落ち葉については、別の生活記録へ書き込んだ。扉の前に葉が集まっていたこと、普段使う石畳の見える範囲だけ掃いたこと、葉の下から現れた暗い部分の原因は分からないこと。南側通路の灰色の場所とは位置も状況も違うので、色が似ているからといって関係を考えたりはしなかった。
「主様。私は、今日掃いた場所を南側の記録と一緒にしない方がよいと思います。どちらにも灰色や暗い色のところはございますけれど、見た場所も目的も違いますものね。こちらは次に扉を使うときのための注意として残したいです」
「そうだね。俺もそうしよう。同じ日に見たからって、同じ問題だとまとめる必要はない。入口は暮らしに関わることだし、また落ち葉が増えたらそのとき確認すればいい」
記録を終える頃、風の音が少し弱まったように聞こえた。セリーは窓辺から外を眺め、今なら庭の花を見に行けるかもしれないと口にしかけたが、すぐに考え直したらしい。朝より風が落ち着いたように感じても、石畳の落ち葉が安全に歩ける状態かどうかは、室内からは分からない。今日は外へ出たばかりなので、花の様子は次に天気が落ち着いたときに確かめたいと話した。
「主様。私は、今日やりたいことがまだございますが、全部を今日終わらせる必要はないと思います。お花も、石の台も、また見に行きたいです。でも、今夜は朝の実験のことを思い返しながら、少しゆっくり過ごしたいです」
「俺も同じだよ。風が弱くなったからって、すぐ外へ出ることはない。今日は二人で見え方を試して、入口も確かめられたんだからね。夕食の準備まで、好きなことをしようか」
セリーは微笑み、自分の布袋を持って窓辺の椅子へ戻った。俺も机の上を片づけ、本を開いて少し読み進める。彼女は先ほどの紙片をもう一度眺めているようだったが、俺が何を考えているのか尋ねることはしなかった。互いに見せたいとき、聞いてほしいときに言葉を交わせばよいという距離が、今は自然に感じられる。
夕食の支度を始めると、厨房の窓には外の薄暗さが映り、鍋から上がる湯気が白く見えた。セリーは今日、野菜を少し大きめに切って煮込みたいと話した。俺は手伝いを申し出て、彼女が使うまな板を邪魔しない位置に自分の作業場所を作る。二人で手を動かしているあいだ、入口へ集まった落ち葉のことも、南側通路の謎のことも、必要以上に大きな問題へ膨らませずにいられた。
「主様。今日は紙片を使った実験が、思っていたより楽しかったです。二枚の紙が別々なのに、見える位置によって一つの形のようになったり、つながった紙が隠れて二つに見えたりいたしました。私は、頭で考えただけでは分からないことがあるのだと感じました」
「俺も面白かった。影の試し方なんか、思ったようにはならなかったしね。でも、そのおかげで『こう見えるはず』って決めてかかってた自分にも気づけた。現地の謎は残ったままだけど、次に見るときの考え方は少し変わりそうだよ」
セリーは鍋の中を確かめながら、嬉しそうに頷いた。彼女は自分の考えを俺へ伝えることに、以前ほどためらわなくなっている。俺も彼女の提案を聞くたび、自分一人では考えなかった方法に気づく。自由に生きるというのは、誰にも相談せずすべてを決めることではないのだと、最近は日々の暮らしの中で実感していた。
食卓に料理を並べた頃には、外がすっかり暗くなっていた。朝から続いていた風はときおり強まるものの、扉の近くで葉が擦れる音は昼ほど大きく聞こえない。俺たちは料理を味わいながら、今日の作業を振り返り、明日も同じ天気とは限らないから、出かけるかどうかは朝になってから決めようと話し合った。
食後、セリーは自分の布袋から今日の実験の記録を取り出し、少しだけ書き直したいところがあると教えてくれた。二枚の紙が重なって見えた位置について、自分の立ち位置をもう少し詳しく残しておきたいという。俺は賛成し、古い図を消すのではなく、今日の追記として分かるようにすればよいと提案した。
「主様。私は、前に描いた絵を間違いとして消さずに残せることが嬉しいです。今日も最初の図へ全部を書き足すのではなく、気づいたことを別に記せますから。私たちがどのように考えたかを、自分たちでも忘れないようにしたいです」
「うん。俺もそうしたい。あとで別のことが分かったら、そのときはそのときの記録を作ろう。今日の俺たちが知らなかったことまで、昨日の絵に書き込む必要はないからね」
彼女は頷き、筆記具を布袋へ戻した。新しく作ったポケットは今日も使いやすそうで、紙の端へ引っかからずに収まっている。ただ、記録板と一緒に持つと扱いにくいことは、まだ解決していない。そのまま残っている問題を、彼女は焦って直そうとはせず、次に使うときまた考えるつもりでいるようだった。
休む前、俺たちは食堂の窓辺へ並んだ。外の木々は暗く、枝の間から小さな星が見える。セリーはしばらく黙って空を眺めていたが、やがて俺へ顔を向け、少し照れたように手を差し出してくれた。
「主様。今日は私の見たいものについて、何度も聞いてくださってありがとうございました。私は、細い線を見たいと思ったことを、次に行くとき忘れずにいたいです。でも、それ以上に、主様が私の考えを大切にしてくださることが嬉しいです」
俺は彼女の手を取り、ゆっくり握り返した。昼間、机の上に二枚の紙を並べて見え方の違いを確かめていたときとは違い、今は互いの気持ちを言葉で確かめている。セリーが何を見たいと思ったかを知ることは、石の台の謎を解くためだけに必要なのではない。彼女がどんな景色を大切にしたいのか、俺自身が知りたいのだと思った。
「俺も、セリーが自分の見たいものを話してくれるのが嬉しいよ。何を調べるか決めるとき、二人で相談したい。それに、同じ場所へ行って違うものを見つけたら、その違いを聞くのも楽しい。今日の実験みたいに、俺たちが見てる景色は少しずつ違うんだろうね」
「はい。私は、違っていることを怖がらずにお話しできるようになりたいです。主様の見え方を知りたいですし、私が見たものもお伝えしたいです。……これからも、そうしてよろしいでしょうか」
「もちろん。俺もそうしたいよ。セリーが何かを言いにくそうにしてたら、ちゃんと聞ける人でいたい。今すぐうまくできないこともあるだろうけど、一緒に考えていこう」
セリーは頬を染め、つないだ手へ少しだけ力を込めた。窓の外で風が枝を揺らしているが、二人の間には穏やかな時間が流れていた。正式な名前のついていない関係は今夜も変わらない。それでも、自分の気持ちを聞いてほしいと伝えられることが、少しずつ信頼を深めているように思えた。
やがて休む時間になり、俺たちは食堂の灯りを確かめて廊下へ出た。セリーは共有の棚に置いた薄い布を畳み直し、明日使うかどうかはそのときに決めたいと話す。俺は頷き、今日掃いた入口もまた落ち葉で覆われるかもしれないから、必要なら朝に確認しようと答えた。
自室へ戻ると、机の端には昨日描いた南側通路の控えが置かれていた。俺の図とセリーの図では、灰色の部分の長さも位置も少しずつ違う。けれど、それを一つの正しい図に揃える必要はないと、今日は机の上の紙片で確かめられた。次に安全な日が来たら、セリーの気にしていた石の台の細い線を、まずどこから見られるか相談してみたい。
(何かの正体を知りたいと思うと、違うものを一つにまとめたくなる。でも、違うまま残しておけば、あとで大事なことに気づけるかもしれない。セリーと俺の見た景色も、どちらかを消さずに持っていこう)
灯りを落とすと、窓の外から乾いた葉の擦れる音が聞こえた。塔の入口は今日のうちに必要な範囲だけ整えたが、森の風を止められるわけではない。石の台の謎も、三〇八号室の少年の願いも、今夜は答えの出ないまま残っている。それでも、二人で手を動かして試し、考え、途中で予定を変えた一日は、俺にとって確かなものだった。
俺は寝台へ身を横たえ、昼間の作業机でセリーが楽しそうに笑った顔を思い返した。思ったとおりの結果が出なかったときも、彼女はそれを失敗として隠そうとしなかった。俺もまた、知らないことを恐れて一つの答えへ急ぐより、彼女と違う景色を見つけられる明日を楽しみにしていたかった。そうして秋の風の音に耳を澄ませながら、ゆっくりと目を閉じた。




