第182話 縫い直さない布袋と、遠くの友人が守っているもの
翌朝、俺が食堂へ向かうと、いつもは食事の支度を終えたセリーが座る場所に、小さな布袋が広げられていた。中身は机の端へ丁寧に取り出され、筆記具と折り畳んだ紙が互いに触れないよう並べられている。窓の外には薄く雲がかかり、葉を落とした枝の間から差し込む光が、袋の少し曲がった縫い目を照らしていた。
セリーは俺に気づくと、慌てて袋を片づけようとはせず、まず顔を上げて朝の挨拶をしてくれた。食事はもう厨房に用意してあるそうで、袋を開いていたのは昨日の夕方から気になっていることを確かめたかったからだという。俺は椅子の背に上着を掛け、まだ何も尋ねずに彼女の隣へ歩み寄った。
「おはよう、セリー。何か入れ物に困ったことがあったのかな。手伝ってほしいことがあれば言ってね。ただ、セリーが自分で考えてる途中なら、食事が終わるまで待つよ」
「おはようございます、主様。ありがとうございます。実は昨日、ブラート様がお使いの小箱のお話を読み返しておりましたら、この袋についても少し考えたくなりました。今すぐ壊れてしまうところはございませんが、筆記具を取り出すときに、折った紙の端が一緒に引っかかることがあるのです」
彼女は袋の内側を指先で示した。針仕事を始めた頃に二人で形を考えたもので、外側の縫い目には少し不揃いな部分も残っている。今までに使えなくなったことはないが、記録を書く機会が増えた今、筆記具と紙を一緒に入れると扱いにくいと感じるようになったらしい。
「なるほど。袋そのものが悪いってわけじゃなくて、使い方が変わってきたんだね。今は紙も増えてきたし、前より出し入れする機会も多いもんな」
「はい。ですが、縫い目を全部ほどいて新しく作り直すことは、まだしたくありません。最初に自分で作った袋ですし、今の形を気に入っております。少し使いやすくできるなら嬉しいですが、直すことで好きなところまで失ってしまうのは、少し寂しい気がいたします」
セリーはそう言って、袋の角をそっと撫でた。ブラートが角の欠けた木箱を修理して使い続けていると知ったことで、単に使いやすい新品を作るのとは違う楽しみを見つけたのだろう。俺は今の袋を手に取る許可をもらい、縫い目へ無理な力をかけず、内側の広さだけを確かめた。
(前なら俺は、もっと丈夫で便利なものをすぐ作ろうって言ったかもしれない。でも、セリーが残したいのは、この袋を自分で作った時間も含めた今の形なんだろうな)
「元の袋を縫い直さずに、中へ入れられる小さな仕切りを作ってみるのはどうかな。うまくいかなかったら仕切りだけ外せるし、袋の縫い目はそのままにできる。もちろん、使ってみたくなければ作らなくてもいいよ」
セリーは驚いたように目を見開き、すぐに袋の中を覗き込んだ。内側を二つに分ける板のようなものを想像したらしく、筆記具が落ちないようにするにはどこで支えるのがよいだろう、と考え始める。俺は硬い板を入れると紙の角へ当たるかもしれないと伝え、まずは柔らかな布を畳んだだけでも試せるのではないかと提案した。
「布で作るのでしたら、今の袋と同じように折り畳めますね。私は、取り出せる形にしてみたいです。もし別の使い方をしたくなったら、仕切りを外して元に戻せますから」
「いいね。それなら今日は、材料を確かめて小さく試してみようか。でも、その前に朝食にしよう。今の袋を無理に完成させなくても、昨日までどおり使えているんだから」
セリーは笑って頷き、筆記具と紙を自分の順番で袋へ戻した。朝食のために卓上を空ける手つきも落ち着いていて、作業を途中で切り上げることを残念そうにはしていない。自分で続きを選べると知っているから、食事へ気持ちを移せるのかもしれなかった。
厨房から運んだのは、穀物を柔らかく煮た温かな朝食と、少しだけ香りのある野菜料理だった。昨夜よりも空気は冷たく、卓上へ器を置くと湯気が白く立ち上がる。俺たちは向かい合って座り、窓の外で細い枝が揺れるのを眺めながら、ゆっくり食べ始めた。
「今日はいつもより柔らかく仕上がってるね。朝の冷えた空気の中だと、こういう料理が嬉しいな。セリーは食べやすい?」
「はい。今朝は少し温かいものをゆっくりいただきたいと思っておりましたので、このようにいたしました。主様にも気に入っていただけたなら嬉しいです。それから、袋のことを考えていても、食事のお味が分からなくなるほど夢中にはなりたくありません」
彼女は微笑み、器へ視線を戻した。以前なら、何かを改善できる可能性が見つかれば、それが終わるまで休んではいけないと考えていたこともあった。今は自分で決めた作業でも途中で止めてよいと知っている。昨日、食堂の窓辺に椅子を置き、絵を描かずに景色を眺めることを選んだ経験も、その小さな変化を後押ししているようだった。
食後の片づけを済ませると、俺たちは作業部屋へ向かった。移した椅子は昨日の夕方に壁側へ寄せてあるので、食堂から道具を運ぶ通路を塞ぐことはない。今日の作業には針と糸、布の切れ端、袋の寸法を確かめるための紙を使うことにし、古い資料を扱う机とは場所を分けた。
セリーは保存してあった布の端切れを幾つか取り出し、柔らかさや厚さを一枚ずつ確かめた。俺が持っている袋にも使えるような形にする案を話しかけたが、彼女はまず自分の袋をどうしたいか決めたいと、穏やかに伝えてくる。俺はその言葉を嬉しく受け止め、今日は彼女のための試作に集中しようと答えた。
「主様。私、以前なら主様にも同じものを作るべきだと考えていたと思います。でも、主様の袋と私の袋では、入れたいものが少し違いますものね。まずは私が使いたい形を考えて、うまくいったとしても、主様へ押しつけないようにしたいです」
「ありがとう。俺の方は俺で困ったときに相談するよ。それに、セリーが何を使いやすいと思うのか知れるだけでも楽しい。今日は道具を渡したり、別の見方で気になるところを伝えたりする役をさせてほしいな」
彼女は了承し、まず布を畳んで袋の中へ入れてみた。筆記具の幅より少し広い折り目を作ると、紙と別にしまうための空間はできる。ところが袋を持ち上げて傾けると、折った布が一緒に滑り、筆記具が元の場所へ戻ってしまった。俺はその様子を見て、今のままではただ布を一枚増やしただけになっていると伝えた。
「本当ですね。立てて置いたときには分かれて見えましたが、持ち歩くと変わってしまいます。私は最初、きちんと形を作れたと思いましたけれど、使う動作まで考えなければならないのでございますね」
「そうだね。でも、この段階で気づけたなら十分だよ。まだ縫ってないから何度でも折り方を変えられるし、今日は袋を大きく振り回さずに、普段の使い方だけ試してみよう」
次に彼女が考えたのは、細長い布を二つ折りにし、筆記具を差すための小さなポケットを作る方法だった。袋の内側を全面的に仕切るのではなく、必要なものだけ別の布へ納めるのなら、紙を取り出すときも引っかかりにくくなる。だが、今度は取り外せるポケットが袋の底へ沈んでしまい、指が届きにくいという問題が見つかった。
セリーは少し困ったように眉を寄せたものの、すぐに縫い直そうとはしなかった。机へ袋を置き、何をしたときに困るのかを実際に確かめる。立ったまま取り出すときは袋の口へ指が入りにくく、椅子へ座って膝に置くと比較的扱いやすい。彼女はその違いを見つめてから、吊り下げるための短い紐をポケットへつければよいのではないかと口にした。
「主様。もしこちらのポケットを袋の持ち手へ結べるなら、底へ沈んでしまうことは減るかもしれません。袋そのものには新しい穴を開けずに済みますし、外すこともできます。ただ、紐が長いと以前試した包みのように余ってしまうかもしれませんね」
「それは確かに気になるね。前に長い紐が風で揺れたこともあったし、短すぎると立ったまま結び目をほどきにくかった。今回は外で包みを開くためのものじゃないけど、似た困り方をする可能性はあると思う」
俺たちは以前の試し結びの記録を見直し、同じ失敗がそのまま起きると断定せず、持ち手へ結ぶ長さと位置だけを小さな紙片で試した。屋外で使う包み紐とは用途も負荷も違う。だからこそ、過去の気づきを参考にしながら、別の道具として確かめた方がよいだろう。
セリーは短い紐を仮に結び、ポケットが袋の口から少し下がったところで止まるようにした。俺が袋を持って歩くと、布のポケットは多少揺れたが、筆記具はその中に収まったままだった。ただし、袋を横に傾けるとポケットの口が開きやすくなるので、内側へ返した小さな折り目をつけた方がよさそうだという話になった。
「よさそうだけど、もう少しだけ直したいね。急いで外へ持っていく前に、座った姿勢でも確かめてみようか。いつも使う紙が入った状態で、取り出しやすいかどうかも見ておきたい」
「はい。私も、今日は完成させることより、どんな形が使いやすいのか知りたいです。それに、今の袋をほどかずに済むところが嬉しいのでございます。作ったときの縫い目を残したまま、新しい使い方を加えられるのですね」
セリーは布を膝へ広げ、少し考え込むように窓の外へ目を向けた。古の塔で暮らし始めた頃の彼女は、何かを使いやすくすることを、役に立つための仕事として考えていたのかもしれない。今は自分で好きになったものを、自分の好みに合わせて使い続けたいと思っている。俺には、その変化が魔導具を新しく動かすことと同じくらい大切に思えた。
午前中は仮の形を試すところまでにして、針仕事は昼食後に回すことにした。セリーは布を切ってしまう前に寸法をもう一度確かめたいと話し、使っていない端切れを元の場所へ戻す。俺も机の上を片づけると、いつの間にか窓の光が少し低くなり、細い雲が森の向こうへ流れているのに気づいた。
厨房へ向かう途中、セリーは昨日届いたブラートの手紙について、また少し話してくれた。彼が長年使っている木の小箱を大切にしていることが、今朝の試作を始めるきっかけになったのだという。けれど、ブラートと同じように修理したいからではなく、自分の袋が好きだと気づいたから、今の形を残してみたくなったのだと話す。
「私は、ブラート様のお話を聞くまで、使いにくいものは新しく作り直した方がよいと思うことがございました。でも、今は便利かどうかだけでなく、使ってきた時間を大切にする方もいらっしゃるのだと知りました。主様は、長く使いたいと思われるものがございますか」
何気なく投げかけられた問いだったのだろう。セリーは廊下の窓に目を向けたまま、俺の答えを急かす様子もない。俺は少し考え、自分の部屋に置いた布袋を思い浮かべた。あれも縫い目が揃っているわけではないし、手に取るたび少し柔らかくなった口の形が気になっている。それでも別のものへ替えたいとは、あまり思ったことがなかった。
「俺は、セリーと一緒に作ったあの袋かな。便利だからって理由もあるけど、初めて自分たちで形を考えたものだから、使うたびにその時間を思い出すんだ。王宮にいた頃は、持ち物の出来がよくて当たり前だと思われることが多かったから、今の少し曲がった縫い目が、かえって気に入ってるのかもしれない」
言い終えてから、少し照れくさくなった。自分が何を大切にしているかを言葉にするのは、誰かへ命令を伝えるよりずっと難しい。けれどセリーは笑って茶化すこともなく、俺の顔を見つめたあと、頬を淡く染めて微笑んでくれた。
「……主様。私、今のお話を聞けて、とても嬉しいです。私もあの袋を作った時間を覚えておりますし、主様がご自分のものを大切に使ってくださっていることを知れました。もし縫い目がほどけてしまったら、そのときには一緒に直し方を考えてもよろしいでしょうか」
「もちろん。直せるところがあれば一緒に直そう。それでも使えなくなったら、新しく作るかどうかを考えればいいよ。使ってきた時間までなくなるわけじゃないからね」
セリーは小さく頷き、俺の隣へ少し寄った。厨房の入口に着いてもすぐには足を進めず、二人で作ったものを大切に思っていると改めて言葉にしてくれる。その気持ちを聞けたことが嬉しくて、俺も笑顔で返し、昼食の準備を始めようと声をかけた。
その頃、塔から遠く離れた場所では、ブラートが仕事机の上に置いた木の小箱を手に取っていた。薄く削れて丸くなった角には、以前直した跡が残っている。蓋を開けると少しだけ木の擦れる音がしたが、使い慣れた彼には、その抵抗さえ箱の状態を確かめる目安になっていた。
ブラートは中身を確かめてから、蓋をそっと閉じた。仕事で使う紙片や小さな道具を収めるための箱で、見た目には特別な飾りもない。以前、角の一部が欠けたときには買い替えようか迷ったものの、手入れをして使い続ける方を選んだ。新しいものより優れているというわけではなく、手に取るときの感触に慣れていることが、今の彼には大きかった。
(あの子は、自分で縫った袋のことをあんなふうに書いてきた。作る人がどんなことを考えるのか知りたいと言っていたな。俺は職人じゃないけど、この箱を直して使っているうちに、最初とは違うところを気に入るようになったのかもしれない)
彼は先日送った返信の控えを思い浮かべ、少し笑った。アルから紹介された相手としてしか知らなかったセリーが、自分の文章で好きなものを尋ねてきたことは、思っていた以上に嬉しかった。だから、立派な品物の話を作るのではなく、手元にある使い慣れた箱のことを答えたのだ。
窓の外からは遠くの人声と、荷車の車輪が路面を転がる音が聞こえた。ブラートは小箱を机の定位置へ戻し、仕事の書類を整える。アルたちが塔のどこで、どのように一日を過ごしているのかは知らない。彼らが今回の秋の市へ行かないと決めたことも、危険な聞き込みをしないという約束も、変えるつもりはなかった。
(会えたら楽しいだろうとは思う。でも、今は無理に場所を知ろうとする必要はない。返事が届くなら、そのときあの子が何を考えたか聞かせてもらえればいい)
そう思うと、ブラートは通信の道具へ新しい文章を書きかけることもなく、目の前の仕事へ戻った。彼が小箱を大切にしている理由をセリーがどのように受け取ったか、その時点では知る由もない。それでも、いつかまた好きなものについて話せる相手が一人増えたことを、彼は静かに喜んでいた。
塔では、昼食を終えた俺たちが作業部屋へ戻っていた。セリーは午前中に試した布の形を見直し、筆記具を入れる小さなポケットの口だけを先に縫い止めることにした。袋の本体へ針を通すわけではないので、気に入らなければ取り外せる。俺は糸を渡しながら、針を進める速さに合わせて布を押さえる役を引き受けた。
セリーの縫い目は以前より揃っているように見えたが、本人はそこを自慢するより、糸が引きつれないことを気にしていた。細かなところで布が寄ってしまうと、筆記具を入れたときに引っかかる可能性がある。彼女は一針進めるたびに確かめるのではなく、数針縫ってから布の形を見直し、必要なときだけ手を止めた。
「主様。以前は、曲がってしまった縫い目をすぐ直したくなりました。でも今は、少し曲がっていても使うところに影響しなければ、そのまま残してみようと思います。何もかも揃っていなくても、私が気に入る形になるかもしれませんから」
「いいと思う。俺も、縫い目が綺麗かどうかだけで判断するより、実際に使ったときどうなるか見たいな。それにセリーがこの形を選んだ理由も、俺には聞けて嬉しいよ」
彼女は笑みを浮かべ、最後の糸を無理に引っ張らず、少し余裕を持たせて始末した。出来上がったポケットを袋の持ち手へ短い紐で結び、筆記具を二本入れてみる。今度は袋を膝へ置いて紙を出し入れしても、筆記具が紙の角へ引っかからず、内側の布も大きくずれなかった。
しかし、試しに袋を持ち上げて少し歩くと、別の問題が見つかった。持ち手へ結んだ紐が一方へ寄り、ポケットが袋の口近くで斜めになる。中身が落ちるほどではないが、紙を入れるときに布の端が邪魔になることがあった。セリーは残念そうにその部分を見つめ、すぐに結び目を強く締めるのではなく、どこが動いているのかを確認した。
「主様。私、持ち手の片側だけへ結んだので、歩くとポケットが寄ってしまうのでしょうか。もう片側も短い紐で支えればよいかもしれませんが、今度は取り外しにくくならないでしょうか」
「試す価値はありそうだね。両側へ結べば位置は安定するかもしれないけど、毎回ほどく必要があるなら面倒にもなる。まずは仮結びで支え方を比べてみよう。袋の口を閉じる動きの邪魔にならないかも見たいな」
俺たちは余っていた細い紐を使い、ポケットの反対側も軽く支えてみた。持ち歩くときの傾きは少なくなったが、今度は袋の口を広げるときに二本の紐が張り、少し窮屈に感じられる。セリーは何度か出し入れを試したあと、持ち歩く時間よりも筆記具を取り出す回数が多い自分には、少し揺れても片側だけを留める形の方が使いやすいかもしれないと話した。
「私は、完全に動かないことを目指しすぎていたのかもしれません。少し傾いても、中身が落ちず、紙を取り出しやすいのであれば、今の使い方では困らないこともございますね。主様、もう少し片側だけの形を使ってみてもよろしいでしょうか」
「もちろん。それで使いにくいって感じたらまた考えよう。今ここで最善の形を一つに決めなくても、試す時間はあるからね」
セリーは頷き、二本目の紐を外した。袋本体にはまだ新しい針穴もなく、もともとの形はそのまま残されている。内側には彼女が作った小さなポケットだけが収まり、必要なら取り外せる。試しに筆記具と折り畳んだ紙を入れ、袋を持って机の周りをゆっくり歩いてみると、これまでより紙を取り出しやすくなったようだった。
俺はその姿を見て、これなら今日は十分だと思った。作業の途中で何度も案を変えたが、失敗した形を隠そうとする必要もなかった。セリーは使いにくかったところを自分で確かめ、その結果をもとに、残したいところと直したいところを選んでいたのだから。
「主様。私は今、少し嬉しいです。袋を新しく作り直さなくても、使い方を変えることができました。それに、今日作ったポケットも、もし気に入らなくなったら取り外してよいと思えるので、安心して使ってみられます」
「俺も嬉しいよ。セリーが大事にしてる袋を、そのまま使い続けられそうだからね。それに、朝より自分で選んだことが増えたんじゃないかな。形も、結び方も、どこまで直すかも」
セリーは少し頬を染め、袋を胸元へ寄せた。俺は何も言わずに針と糸を片づけながら、彼女が今の形を気に入ったのなら、それで十分だと思った。古い塔にある魔導具を使えば、もっと複雑なこともできるのかもしれない。けれど、二人で手を動かして作る小さな道具には、また別の楽しさがあった。
午後の後半は、出来上がったポケットを入れたまま、いつもの塔の中を短く歩いてみることにした。食堂へ戻り、窓辺の椅子へ座ってから筆記具を取り出し、紙を広げる。昨日は景色を眺めるだけで満足した場所だったが、今日はそこで新しい使い方を試してみたいというのが、セリー自身の希望だった。
椅子の位置は通路を塞がないよう少し壁側へ寄せたままで、座っているあいだは膝へ薄い布を掛けられる。セリーは自分で描いた落ち葉の絵を袋から取り出し、裏面に今日の日付と、袋の小さな改良について一言だけ記した。俺はその内容を覗き込まず、近くの席で本を開いていたが、しばらくして彼女の方から声をかけてくれた。
「主様。今日作ったポケットのことを、自分の記録へ残しました。私は、道具が便利になったことも嬉しいのですが、以前作ったものを大切にしたまま、少しだけ変えられたことが一番嬉しいようです。主様は、今日の作業をどのように感じられましたか」
俺は本を閉じ、彼女の方へ身体を向けた。答える前に、朝の廊下で交わした会話と、縫い目をほどかずに済む方法を一緒に考えた時間を思い返す。俺にとっての喜びは、使いやすい道具が一つ増えたことだけではなかった。
「セリーが『この袋を残したい』って最初に言ってくれたことが、俺には嬉しかったよ。以前は、何か不便があったら俺が解決しなきゃって思うこともあった。でも今日は、セリーが何を大切にしたいか聞いたから、その気持ちに合う形を一緒に探せたんだと思う」
「……主様。私は、そのように考えてくださったことを知れて嬉しいです。私も、ただ役に立つ道具を作れたことより、主様と相談しながら自分の好きな形を選べたことが心に残っております」
彼女は目元を柔らかくし、袋の持ち手を少し持ち上げた。新しく加えたポケットは外からはほとんど見えない。けれど、彼女にはその小さな変化が分かっているし、使ってみてから直したいところが見つかるかもしれない。今はそれを楽しみにしているのだろう。
窓の外では、日差しが雲の間へ隠れ始めていた。朝よりも森の色が深く見え、細い枝が風を受けて揺れている。セリーは少し寒さを感じたらしく、膝の布を掛け直してから、袋をそっと隣の椅子へ置いた。俺は必要なら食堂の暖かい場所へ移ろうと提案したが、彼女はもう少しだけここで過ごしたいと答えた。
「主様。私は今、こうして窓の外を見ながらお話しできることが好きです。朝から袋のことを考えておりましたけれど、作業が終わったあとにも楽しい時間があるのだと感じます。もう少しだけ、一緒にいていただけますか」
「もちろん。俺もここにいたいよ。……セリーが自分の好きなものを話してくれると、俺も自分が何を大切にしてるのか考えたくなるんだ。今日みたいに袋のことを話せる時間が、今の俺にはすごく大事なんだと思う」
彼女は小さく頷き、俺の言葉を静かに受け止めた。王宮にいた頃の俺なら、持ち物の価値を値段や出来栄えで説明しようとしたかもしれない。今は自分で選び、誰かと一緒に作り、使い続けたいと思えることが大切だった。セリーの袋と俺の袋は形が少し違っても、同じ時間から生まれたものだ。
しばらくして彼女が手を差し出したので、俺は本を机へ置いてから、その手を取った。指先を重ねるだけの静かな触れ合いだったが、セリーは少し照れたように笑い、もう片方の手で自分の布袋を軽く押さえる。そこには今日作ったポケットが入っているが、二人の間に流れている温かさは、道具の出来とは別のものだった。
「主様。私は、ブラート様のお好きな小箱についてお聞きしたとき、どうして修理してまで使い続けたいのか少し不思議でした。でも、今は前より分かる気がいたします。私もこの袋を、今日より少し使い慣れて、また違うところを好きになるかもしれません」
「うん。ブラートの箱だって、最初から今の形だったわけじゃないんだろうね。あいつが修理して使い続けてるって話を聞いて、俺も自分の袋を見直したくなったよ。今度あいつと話すときには、俺も大事にしてるものがあるって伝えてみようかな」
セリーは俺の顔を見上げ、嬉しそうに目を細めた。自分の質問がブラートの好きなものを知るきっかけになり、その話が今度は俺の気持ちまで動かしたことを、彼女は喜んでいるようだった。俺も、遠く離れた友人と塔の中で暮らす彼女が、互いの好きなものを通じて少しずつつながっていくのが嬉しかった。
夕方、二人で夕食の支度を始めると、厨房に温かな湯気が立ち上った。セリーは新しいポケットを入れた袋を棚へ置き、料理中には必要のない筆記具を持ち歩かないことにしたらしい。俺がそのことを尋ねると、彼女は便利になったからといって、いつでも全部を持ち歩く必要はないと思ったのだと答えてくれた。
「私は、袋を使いやすくすることが目的になってしまうと、何を入れたいのか忘れてしまいそうです。今日は筆記具を分けるためのポケットを作りましたが、料理をするときには袋がなくても困りません。必要なときに使うのが、今の私にはよいと思います」
「そうだね。俺もそう思う。持ち物を増やしたら、それを使わなきゃいけないってわけじゃないし。今夜は温かい料理をゆっくり食べよう」
食卓へ料理を並べる頃には、窓の外が暗くなっていた。塔の灯りが石壁へ柔らかな影を落とし、二人の座る場所を穏やかに照らしている。俺たちは今日作ったものの出来を競うことも、明日までに完成させなければならない仕事として話すこともなく、自分たちの食事を楽しんだ。
夕食のあと、セリーは昼間試したポケットの結び目を一度だけ確かめ、今夜はそのままにしておきたいと話した。まだ長く使ったわけではないので、明日以降に取り出しにくいところが見つかるかもしれない。だから今日は「完成した」と決めつけず、「今の使い方では前より扱いやすかった」と記録することにしたらしい。
「主様。私は、今の形が好きです。でも、これからずっと同じ形でなければならないとは思いません。使っていくうちに、また違うものを入れたくなるかもしれませんし、そのときは私がどうしたいか考えてみたいです」
「いいね。俺もこの袋を作ったときの気持ちを忘れずに使いたいな。縫い目がほどけたら直すし、もし別の使い方をしたくなったら相談する。大切にするって、何も変えないことだけじゃないのかもしれないね」
セリーはゆっくり頷き、袋を胸元へ寄せた。最初に作ったときの形を残したまま、新しい小さなポケットが内側に増えている。変わったのは外から見えない部分だが、彼女が今日一日かけて考えたことは、その中に確かに残っているのだろう。
休む前、俺たちは食堂の窓辺へ並んだ。昨日試した薄い布は共有の棚へ畳んで戻してあり、椅子も通り道を塞がない位置に置かれている。窓の外では秋の枝が揺れ、遠くの空に星が小さく見えた。セリーはしばらく黙ってその景色を眺めたあと、俺の方へ顔を向けた。
「主様。今日は、私の袋のためにお時間をくださってありがとうございました。私は自分の好きなものを直すことが、こんなに楽しいとは思っておりませんでした。それから、主様も私と一緒に作った袋を大切にしてくださっていると知れて、とても嬉しかったです」
「こちらこそ、ありがとう。セリーが大切にしてるものを一緒に考えられて嬉しかったよ。俺はあの袋を見るたび、二人で手を動かした日のことを思い出すんだ。きっとこれからも、使うたびに今日みたいな時間が増えていくんだろうね」
セリーは少し頬を染め、静かに手を差し出した。俺はその手を取り、互いに無理のない位置で指先を重ねる。今の二人の関係へ特別な名前をつけたわけではないが、何かを一緒に作り、相手がそれを大切にしていると知ることが、俺には何より親密な時間に感じられた。
やがて休む時間になり、俺たちは手を離して廊下へ向かった。セリーは自分の布袋を持ち直し、明日も必要なときに使ってみたいと話してくれる。俺は頷き、もし困ったことが見つかったらまた一緒に考えようと答えた。彼女はおやすみなさいと微笑み、自分の部屋へ戻っていった。
自室へ入ると、机の端に俺の布袋が置かれていた。縫い目には少し曲がったところがあり、口を折り返した布も使ううちに柔らかくなっている。俺はそれを持ち上げ、セリーと初めて形を考えたときのことを思い返した。あの頃は使えるものを作ることに一生懸命だったが、今はその不揃いな形まで懐かしく感じられる。
(王宮にいた頃は、立派なものを持つのが当たり前だった。でも、自分で選んで誰かと一緒に作ったものが、こんなに大切になるなんて思わなかったな。セリーが自分の袋を好きだと言ってくれたことも、俺がこの袋を好きだと伝えられたことも、今日は嬉しかった)
窓の外では秋の風が静かに枝を揺らしている。三〇八号室の少年の願いも、南側通路の石の台も、帰還管理所や古い書簡に残る謎も、今夜新しい答えが出たわけではない。けれど、古い塔で自由に生きるというのは、何か大きな謎を解く日だけを重ねることではないのだろう。誰かと一緒に作った袋を直したいと思う日も、自分の好きなものについて話す日も、確かにその暮らしの一部だった。
俺は布袋を机へ戻し、灯りを落とした。遠い場所ではブラートが木の小箱を大切に使い続けていて、この塔ではセリーが自分の袋へ小さなポケットを加えた。二人が互いの好きなものを知れたことを思い返しながら、俺も明日は自分の袋を持って、またどんな一日を過ごしたいか考えてみようと思った。静かな夜の中で、俺はゆっくりと目を閉じた。




