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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第181話 止めた日の願いと、冬を迎える塔の窓辺


 朝の冷たさに気づいたのは、寝台から下りたときではなく、部屋の扉を開けたときだった。自室には夜のあいだに保たれていた穏やかな暖かさが残っていたが、廊下へ一歩出ると、石壁に触れた空気が袖口を通って肌に届く。窓の外では葉を落とした枝が揺れ、森の奥の斜面は、秋が深まるにつれて以前よりも広く見えるようになっていた。


 俺は立ち止まって廊下の窓を見た。閉じた窓の留め具は外れておらず、床にも雨水などが入り込んだ跡はない。それでも部屋の中と廊下では感じる温度が違っていたから、どこかが壊れたと早合点するのではなく、冬へ向かう塔の中で自分たちがどのように過ごせばよいのか考えておきたくなった。


(古い塔だから、冬の寒さも昔から何度も迎えてきたんだろう。でも、俺たちがここで寒い季節をどう暮らしたいかは、昔の人が全部決めてくれたわけじゃない。セリーと相談して、無理なくできることから考えればいいか)


 寝台のそばに置いていた調査表も気になっていた。昨日、三〇八という居室番号の見える閲覧案内について、変更の対象が居室全体ではなく、記録の種類によって限定されている可能性を確かめた。表記の一部は不鮮明なままで、少年の願いを記した原本が見つかったわけではないが、期待に引かれて別々の資料を同じものと考えずに済んだのは大きかった。


 廊下の先から足音が近づき、セリーが俺の姿を見つけて微笑んだ。彼女はいつもの布袋を持っていたが、今日はもう片方の腕に薄手の布を畳んで掛けている。朝の挨拶を交わすと、彼女も廊下の冷たさが少し気になっていたらしく、暖かく過ごすための工夫を一緒に考えたいと話してくれた。


「おはようございます、主様。今朝は昨日よりも廊下が冷たく感じられますね。私は朝食の支度をしているとき、食堂とこちらで少し違うように思いました。何か異常があると分かったわけではございませんが、普段より長く過ごす場所を選ぶときには、気にしてみてもよいでしょうか」


「おはよう、セリー。俺もちょうど同じことを考えてたんだ。窓が開いてる様子はないし、まずはどこでどう感じたか確かめたいね。でも、今日の朝食を冷ましてまで調べることじゃないから、食べてから相談しよう」


 セリーは安心したように頷き、腕の布について尋ねる前に自分から説明してくれた。寒いと感じたとき、何かをすぐ窓や扉へ取りつけるのではなく、ひとまず膝へ掛けたり肩へ羽織ったりして、使い心地を確かめるつもりで用意したのだという。古い設備へ勝手に手を加えるつもりはないという言葉に、俺はその慎重さが彼女らしいと思いながら、一緒に食堂へ向かった。


 食堂は廊下よりも空気が柔らかく感じられ、卓上には温かなスープとパンが二人分並んでいた。昨日と違う特別な料理ではないが、今朝は器を手に取ったときの温もりがいつも以上に嬉しい。セリーは自分の席へ腰を下ろす前に、掛け布を椅子の背へ畳んで置き、まずは食事を味わいたいと笑った。


「温かいスープがありがたいな。今朝は外の空気も冷えてるし、こういう日は何を食べたいかも変わるのかもしれないね。セリーが用意してくれた布も、食べ終わったら使ってみよう」


「ありがとうございます。私は今日、食堂で長く過ごすのもよいと思っております。窓から明るい光が入りますし、先ほどまで厨房で支度をしておりましたので、こちらの空気は心地よく感じられます。ただ、主様が調査をなさりたいのでしたら、作業部屋でも使えるように考えたいです」


 彼女の言い方に、俺は少し笑った。俺の仕事に合わせるだけではなく、自分はどこにいたいのかを話してくれたことが嬉しかったからだ。作業机がある部屋ばかりを使わなくても、記録を読まない時間には食堂で過ごせるし、必要なら用事に合わせて移動すればよい。住む場所を自分で選べることが、こんなにささやかな場面にも表れるのだと思った。


 食事を進めていると、パンを割ったところから温かな香りが立ち上った。俺は自然にその匂いを楽しんだあと、三〇八号室の少年に関する、以前読んだ試行の記録を思い出した。少年はパンの香りを一度体験し、そのことを喜んだ一方で、実際にはパンを食べられない悲しさも表していた。そこで試行を止められたことまで、俺たちはすでに知っている。


(俺たちが最近調べているのは、最初に記録された願いの言葉がどんな形で残ったかということだ。あの子がまだ一度も香りを知らないわけじゃない。そこを取り違えたまま先へ進んだら、大切な出来事を消してしまう)


 セリーも同じことを考えていたらしく、パンを口へ運ぶ手を一度止めた。彼女は香りを確かめてから、困ったように眉を寄せる。俺が何かあったかと尋ねると、古い願いの記録を追うことに夢中になり、少年が以前に香りを感じて喜び、それと同時につらい気持ちを示した経験について、最近は十分に話していなかったと気づいたのだという。


「主様。私、少年がパンの香りを喜んでくださったことも、食べられないことを悲しまれたことも覚えております。あのとき試行を止められたことは、今でも大切な出来事だと思っています。でも、元の記録を探したいと思ううちに、もう一度香りをお届けすることばかり考えてしまいそうになりました」


「俺も気をつけたいと思ってた。あの子が喜んだっていう結果だけを取り出して、『またやればいい』って考えるのは違うよね。悲しかったことも、そこで止めたことも、同じ体験の一部なんだから。今朝はまず、そこを俺たちの覚え書きで確かめ直そうか」


 セリーは頷いたが、表情はすぐには晴れなかった。少年に楽しい経験をしてほしいと思う気持ちがあるからこそ、悲しませてしまった事実を思い返すのはつらいのだろう。けれど彼女は、そのつらさから目をそらすために記録を読み替えたくはないと話し、残りの食事も自分のペースでゆっくり味わった。


 片づけを終えたあと、俺たちはまず食堂の窓辺へ移動した。セリーが持ってきた薄い布を膝へ掛けてみると、椅子の背や机の脚へ結びつけなくても使えるので、必要なときだけ手に取れる。彼女は立ち上がるときに布の端が足元へ落ちないか確かめ、少し短く折り直した方が動きやすいと気づいた。


「主様。私は、ここで座っているときには心地よいのですが、布を掛けたまま急いで立つと、端を踏んでしまうかもしれません。ですから、歩く前には膝から外して畳むようにしたいと思います。今日はこれ以上何かを縫いつけなくても使えそうです」


「うん。俺もそれがいいと思う。窓や扉の隙間を塞ぐものを作るなら、通行や設備の働きを邪魔しないか確かめる必要があるからね。今日は布を持って移動するくらいの工夫にして、何か気になる場所があればエルにも相談しよう」


 セリーは布を畳んでから、俺へ一度使ってみないかと差し出した。俺は受け取り、膝に掛けたまま椅子へ腰を下ろす。柔らかな布は冷えた空気を直接肌へ触れさせず、特別な魔導具を動かすこともなく、座って過ごす時間を少し快適にしてくれた。


「これ、いいね。使ったあとで畳んで置けるのも助かるよ。俺は寒さを感じると、塔のどこかを直さなきゃって先に考えそうになったけど、まず自分たちの過ごし方を変える方法もあるんだな」


「はい。私、今までは主様にとって不便なことをなくすため、何かを整えなければと考えることがございました。でも今は、私が使ってみたいと思ったものを主様にも勧めて、主様がよいと思われたら一緒に使う、という形が嬉しいです」


 その言葉に、俺は布を丁寧に畳んで彼女へ返した。セリーが俺の暮らしを一方的に支えるのではなく、二人で自分たちに合うものを選ぶ。何かを作る技術より先に、そういう関係を持てていることがありがたかった。俺たちは薄い布を共有の棚へ置き、必要なときにどちらが使ってもよいことを確認してから、作業部屋へ向かった。


 午前の調査では、いきなり新しい資料を探すつもりはなかった。第何日目の記録かを競うように紙を増やすより、まず手元にある二種類の記録がそれぞれ何を伝えているか、今の俺たちが誤解していないかを確かめたかった。セリーは作業机の上に、古い願いについての覚え書きと、過去の香りの試行について残していた控えを、間隔を空けて並べてくれた。


 願いについての紙には、三〇八号室の少年が焼きたてのパンの香りを望んでいたとする内容がある。その文章を記したのが誰か、本人の言葉をそのまま引用したかどうかは分からず、下端の傷んだ折り返しにある分類表記も全部は読めていない。対して試行の控えには、少年が香りを体験して喜んだことと、食べられない悲しさを示したために中止できたことが、別の出来事として記されていた。


「セリー、まずこの二つを同じ紙へまとめずに置こう。願いの記録の時期がはっきりしてない以上、俺たちは『願いが記録されたあと、すぐ試行した』っていう順番まで断定できない。少なくとも、過去に香りを体験したことがあるのは覚えておきたいね」


「はい。私も、試行を止めたことを忘れたくありません。それから、少年がそのとき喜ばれたことも、悲しまれたことも、どちらか一方だけではなく残したいです。主様、もし次に安全な方法が見つかったとしても、以前の記録だけで再実施を決めることはできませんね」


「ああ。今の意思を確かめられるかどうかも分からないし、安全の条件が前と同じだとも言えない。そもそも願いの記録があの試行の前のものか後のものか、俺たちにはまだ分からないんだ。今日はそこを曖昧なままでも正確に残そう」


 俺は筆記具を取ったものの、最初の一行を書くまでに少し時間がかかった。過去の体験を一つの成果として整理するだけなら簡単かもしれないが、そこには喜びと悲しみ、そして中止という判断が重なっている。あの少年の気持ちを直接聞けない今、俺の都合で明るい結論へまとめたくはなかった。


 セリーは向かい側で、少年に関する記録を三つの欄へ分けていた。願いとして書かれた内容、試行で実際に確認された反応、そして現在の再実施について確認できていないことだ。俺がその配置に気づくと、彼女は少し不安そうに、自分の考えを説明してくれた。


「主様。私は『喜ばれた』と『悲しまれた』を別の欄へ分けようかとも考えました。でも、どちらも同じ試行の中で起きたことですので、別々にすると、一方だけを読んで判断できるように見えてしまう気がいたします。ですから、反応を記す欄には両方を残したいのです」


「俺もその方がいいと思う。嬉しかったこととつらかったことは、どちらもあの子の反応なんだからね。試行を中止した判断も、結果が出なかったってだけの扱いにはしたくないな」


 そう口にしたとき、胸の奥で何かがかすかに動いた。王太子だった頃、予定どおりに進められなかったことを失敗とみなす空気の中で、俺は何度も立ち止まる理由を説明しなければならなかった。けれど今、記録の中にある中止という結果は、誰かが続けたくないと示したことを受け止められた証でもある。過去の自分の経験を少年の事情へ重ねて同じだと決めるつもりはないが、止めた判断を軽く扱いたくないという気持ちは、はっきりしていた。


(あの試行は、香りを届けられたから成功、食べられず悲しんだから失敗、そんなふうに二つへ分けられるものじゃない。本人の反応を受けて止められたことまで含めて、残しておく必要があるんだ)


 腕輪のエルへ、二種類の記録がどのような分類で参照されていたかを、既存の資料から分かる範囲だけ確かめられるか尋ねた。新しい機能を動かして過去の出来事を再現することではなく、すでに読んだ試行に関する控えと、願いを記した古い紙の区分が同じものとして扱われていた証拠があるか知りたかった。


『主様。現在の参照資料では、生活上の希望を扱う分類と、試行の経過または結果を扱う記録を、同一のものとして確定できません。分類が異なることは、それらが一切関係しないことを示すものでもありません。両者の対応を判断するには、個別の識別情報または明示的な参照関係の確認が必要です』


「ありがとう、エル。じゃあ、昨日見た三〇八の閲覧先変更が、あの試行の記録まで含んでるとは言えないね。逆に、全然関係ないとも決められない。何かが同じだったはずだって期待して、勝手に線を引くのはやめておこう」


 エルの答えは新しい原記録の所在を示すものではなかった。それでも、俺たちが探している『願いの記載』と、すでに把握している『過去の試行』を別々に扱う必要性は明瞭になった。セリーはそれぞれの紙へ独立した参照番号を付け、現在の俺たちが作った番号だと分かるよう、古代の識別記号とは違う印を添えた。


「主様。私は、もしどちらかの紙が見つかったら、もう一方の紙の意味まで分かると思ってしまいそうです。でも、今の私たちに必要なのは、二つの記録をつなぐ根拠を探すことなのですね。つながりがないと分かったわけではないので、別々に残しておきます」


「うん。その方が後から読み返したときにも混乱しないと思う。ただ、俺たちが全部の情報を探し出せるかどうかは分からない。記録をたどることがあの子のためになるのかも含めて、いつか見直す必要があるかもしれないね」


 セリーはそこで少しだけ手を止めた。俺が顔を上げると、彼女は少年の願いを知りたいという自分の気持ちと、少年本人のために何が必要なのかを知ることは、同じではないのだと話した。調査する理由を見失いたくないから、いつか自分たちが何を目的に探しているか分からなくなったら、互いに声をかけたいという。


「主様。私は今、あの少年の声を直接知りたいと思っております。ですが、その望みは私のものでございますね。少年が今それを望まれているかどうかも分からない以上、私が知りたいというだけで何でも調べてよいとは思いたくありません」


 そう言う彼女の視線は静かだったが、膝の上に置いた手には少し力が入っていた。自分の希望を大事にできるようになったからこそ、別の誰かの希望との境目を確かめようとしているのだろう。俺は彼女の言葉を急いで評価せず、まず自分も少年のことを知りたいと思っていると伝えた。


「俺も知りたいよ。でも、あの子の声が聞こえないなら、聞こえていないって認めるところから始めたい。今の俺たちができるのは、記録を守りながら、何を確かめられるか考えることだと思う。それ以上のことができる日が来たら、そのときは改めて判断しよう」


 セリーは頷き、ようやく指先の力を緩めた。午前中はそこまでにして、傷んだ古い紙を新しく開くことはしなかった。二つの記録をそれぞれの場所へ戻し、今日作った比較の控えだけを机へ残す。原記録がどこにあるかという謎は動かなかったが、以前に起きた試行の意味を取り違えずに扱うための線引きは、二人の間で共有できた。


 厨房へ向かう前、セリーは共有の棚に置いた薄い布を取り、俺へ見せてくれた。食堂の椅子で使うなら折り目を増やさず畳んでおく方がよさそうだが、作業部屋へ持っていく場合はもう少し小さくした方が邪魔にならないかもしれないという。俺は一緒に使い方を考えたいと答え、昼食のあとで別の場所でも試してみようと提案した。


 昼食は、朝のパンの残りと、野菜を煮込んだ温かな料理にした。セリーは俺が器を運ぶ間に机の上を整え、今日は新しい味つけを試さず、慣れたものをゆっくり味わいたいと話す。午前中に少年の記録を読み直したことで気持ちが少し重くなったのだろうが、彼女はそれを隠さず、休む時間が欲しいと言えるようになっていた。


「セリー、今日はここまででもいいよ。午後の調査を続けることが決まってるわけじゃないから。もし気分を変えたいなら、庭を見に行ったり、別のことをしたりしてもいいと思う」


「ありがとうございます、主様。私は午前中のお話を、もう少し自分の中で考えていたいです。でも、ずっと机に向かっていたいわけではございませんので、午後は塔の中で暖かく過ごせる場所を一緒に見てみたいです」


「それなら、そうしよう。調査表は片づけて、今日は俺たちがここで過ごす時間を考えようか」


 彼女は微笑み、温かな料理を口へ運んだ。食卓の上で、俺たちは過去の少年のことを無理に忘れようとはしなかったが、それを話し続けなければならないとも思わなかった。食材の柔らかさや窓から差し込む光の向きについて話すうち、自然と呼吸が落ち着いてくる。そうして時間を使えることが、今の俺たちにとって大切な暮らしの一部になっていた。


 午後、まず確かめたのは、食堂と作業部屋の座る場所だった。どちらにも窓はあるが、同じ時刻でも日差しの届く範囲が違い、椅子へ腰を下ろしたときに背中へ感じる空気も少し異なる。俺たちは何度も往復して気温を測ったことにはせず、今日自分たちがどう感じたかだけを、簡単な紙に記すことにした。


 作業部屋では、セリーが薄い布を膝へ掛けて椅子へ座った。机の下に布が引っかからないか、立ち上がるときに足元へ落ちないかを確かめ、筆記具を取るときには邪魔にならないことを確認する。彼女はしばらく座ってから、何かを縫い足さなくても今の使い方なら十分かもしれないと話した。


「主様。私は最初、寒さを感じた場所へ何か新しい道具を作って置くことを考えました。でも、こうして布を持って移動するだけでも、少し過ごしやすくなりますね。作ること自体は好きですが、必要でないものまで増やしたいわけではないのだと分かりました」


「俺もそう思う。塔には便利な魔導具がたくさんあるけど、何か気になることがあるたび全部それで解決しなきゃいけないわけじゃないよね。もちろん、本当に異常があるなら別だけど、今は寒く感じる場所と、過ごしやすい場所を把握することから始めればよさそうだ」


 念のため、俺はエルへ、窓や扉に普段と違う異常を示す情報が今の参照範囲にあるか尋ねた。エルは、記録上の設備仕様については説明できるが、俺たちが身体で感じた寒さの原因を、現場の確認なしに断定することはできないと答える。そこで古い設備を動かしたり、部屋の機能を切り替えたりすることはせず、まずは見える範囲の留め具や通り道を確かめた。


『主様。設備の記録上の機能と、現在の室内環境の状態は区別して扱う必要があります。現時点の情報だけでは、今朝感じられた温度差が設備の異常によるものか、外気や日照の条件によるものかを確定できません』


「分かった。じゃあ、何かの故障として扱うのはやめよう。窓の留め具が外れていないことは見えたし、今日使う道に危険なものも見つかってない。あとは俺たちが過ごしやすいところを選べばいいね」


 セリーは頷いたあと、少しだけ目を輝かせて、食堂の窓際へ椅子を一つ移してみてもよいかと尋ねた。廊下の通行を妨げず、床を傷めないように持ち上げられる範囲での移動なら、普段とは違う場所で本を読んだり絵を描いたりできるかもしれない。俺は二人で置き場所を確かめながら動かすことに賛成した。


 椅子を移す前に、俺たちは床と周囲の家具を見た。窓の開閉を妨げず、食事の道具を運ぶときの通路も塞がない位置を選び、少し離れたところへ置いてみる。座る人が立ち上がったときに机の角へぶつからないか、セリーが実際に腰を下ろして確かめ、俺も別の方向から動線を見直した。


「この位置なら、午後の光がちょうど入るね。椅子を増やしすぎると食堂が使いにくくなるから、まずは一つだけにしようか。使わないときは戻してもいいし」


「はい。私はここで絵を描いてみたいです。食卓へ向かい合って座るのとは違い、窓の外を見ながら手元の紙も確かめられますので。主様がよろしければ、今日は少しこちらで過ごしてみてもよろしいでしょうか」


「もちろん。俺も近くで本を読みたいな。セリーが自分の絵を描くなら、覗き込まずに過ごすよ。何か話したくなったら声をかけてくれればいい」


 セリーは嬉しそうに頷き、自分の布袋を取りに戻った。俺は置いた椅子の周囲をもう一度確かめ、窓から差し込む光が床の上をゆっくり動く様子を見ていた。誰かへ見せるための立派な模様替えではないし、塔の構造に手を加えたわけでもない。それでも、暮らしの中で過ごす場所を一つ選び直せたことが、思っていた以上に嬉しかった。


 戻ってきたセリーは、椅子へ座るとしばらく窓の外を眺めていた。絵を描くために紙を取り出したものの、すぐに筆記具を動かすことはせず、葉の少なくなった枝と遠くの斜面の重なりを見比べている。俺も近くの席で本を開き、彼女が話しかけてくるまで静かにページをめくった。


 やがて、布が擦れる小さな音がして、セリーが顔を上げた。彼女は窓の外を描くつもりだったが、今日は手を動かすより、しばらく景色を眺めている方が楽しいと感じたらしい。俺がそれでいいと答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。


「主様。私は、絵を描くためにこちらへ来たのに、何も描かずに終わってもよいのでしょうか。自分で希望して椅子を移しましたので、何か残さなければと思ってしまったのです」


「別に、描かなきゃいけないわけじゃないよ。セリーがここで過ごしてみたいって言ったから移したんだ。座ってみて、思ってたより外を眺めるのが好きだって分かったなら、それだって今日の経験じゃないかな」


 彼女は少し驚いたように瞬きをしたあと、膝の上に置いた筆記具をそっと袋へ戻した。絵を描かないと決めるまで、彼女なりに迷う時間があったのだろう。俺は本を閉じずにそのまま手元へ置き、彼女が選んだ静かな時間へ無理に言葉を差し込まないことにした。


 しばらくして、セリーは窓の外を見たまま、午前中の少年の記録について小さく話し始めた。香りを体験したあと、食べられない悲しさを示した少年のことを、今も思い出しているという。彼女の声は落ち着いていたが、何かを急いで解決したいという響きはなく、ただ自分が感じていることを俺に聞いてほしいようだった。


「主様。私は、あのとき少年が試行を止められたことを、今朝あらためて大切だと思いました。もし私が何かを試して、途中でやめたいと感じたときにも、主様は聞いてくださるのでしょうね。……もちろん、今の私はあの少年と同じ状況ではございませんけれど」


 俺は本を閉じ、彼女の方へ身体を向けた。セリーは自分の感情をあの少年の事情へ重ねて同一視しているのではなく、止めたいと伝えられることの意味を自分の暮らしへ引き寄せて考えていた。だからこそ、俺は返事を急がず、彼女の表情を確かめてから話した。


「もちろん聞くよ。セリーが何かをやめたいって言ったら、まずどうしたいのか聞きたい。俺が残念に思うことがあったとしても、それだけで続けてほしいとは言わない。二人の安全に関わることなら一緒に考える必要はあるけど、セリーの気持ちをなかったことにはしたくないな」


 彼女はしばらく俺を見つめ、それからゆっくり微笑んだ。窓からの光が頬へ当たり、いつもの丁寧な表情の奥に、少し照れたような柔らかさが浮かぶ。彼女は一度息を整えてから、自分も同じようにしたいと答えた。


「私も、主様が途中でやめたいとおっしゃったら、どうしてなのかお聞きしたいです。主様に何かを我慢していただくことで、私の希望を叶えたくはございません。今日、私がお絵描きをしないと決めたことを受け止めてくださったように、私も主様のお気持ちを大切にしたいです」


 俺はその言葉を聞きながら、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。王宮にいた頃には、決められたことを途中で変えるのが難しい場面も多かった。今は、隣にいる相手が自分の希望を話し、途中で考えを変えることもできる。大きな約束を交わさなくても、そんな日々を積み重ねられることが、何より大切に思えた。


 夕方が近づくと、窓からの光は細くなり、椅子の足元へ伸びていた影がゆっくり移動した。セリーは膝に掛けていた布を畳み、今日は使ってみてよかったと話してくれた。座って過ごすときには心地よく、移動するときには外せるから、今のところ新しく縫い直す必要は感じていないらしい。


「主様。私は、今日こちらへ椅子を移してよかったと思います。ただ、毎日同じ場所で過ごしたいかはまだ分かりません。明日は食堂ではなく作業部屋へ行きたくなるかもしれませんし、今日は今日の気持ちとして残しておきたいです」


「うん。椅子も、必要になったら戻せるからね。今のまま置いておいて通りにくくなるなら動かせばいい。ここが気に入ったからって、ずっと同じ配置にしなきゃいけないわけじゃないんだ」


 セリーは頷いて、移した椅子の周囲を確かめた。夕食の器を運ぶ通り道は塞いでいないが、使わない時間は少し壁側へ寄せた方がよさそうだという。俺たちは床を傷めないよう持ち上げて位置を変え、明日また座りたいと思ったら、そのとき改めて置き場所を選ぶことにした。


 厨房で夕食の支度を始めると、温かな湯気が窓に薄く映った。セリーは昼食のときよりも少し元気が戻った様子で、今夜は自分が選んだ料理を作りたいと話してくれる。俺は彼女が使う道具を渡し、野菜を切り分けながら、今日一日のことを思い返していた。


 朝は廊下の冷えが気になり、少年の記録を見直し、午後は窓辺に椅子を置いて過ごした。どれも大きな事件ではないが、だからこそ、自分たちの暮らしを自分たちで選ぶことの意味が、はっきりして見える。古の塔がどれほど多くの魔導具を備えていたとしても、その使い方や、そこでどう暮らしたいかまで自動的に決まるわけではない。


「主様。今日は、あの少年のお話を考えたあとで、私自身が何をしたいのかも考えられました。最初は少し不思議でしたけれど、今は両方とも大切だと思っております。誰かのお望みを知りたい気持ちと、自分の暮らしを楽しみたい気持ちは、どちらか一つにしなくてもよいのですね」


「俺もそう思うよ。あの子のことを忘れたくないし、いつか安全に確かめられることがあれば考えたい。でも、今ここでセリーと食事を作ったり、窓辺で過ごしたりする時間だって、俺には大切なんだ」


 セリーは鍋から立ち上る湯気の向こうで、嬉しそうに目を細めた。二人で暮らしている場所を守ることと、外に残る人々の願いへ向き合うことは、必ずしも反対のものではない。塔の中にある大切な時間を犠牲にしなくても、古い記録を慎重に読むことはできる。今夜はそんな当たり前のことを、少し深く実感した。


 夕食のあと、俺たちは午前中に作った三枚の紙を最後に見直した。古い願いとして記録された内容、過去の香りの試行で確認された反応と中止、そして今の再実施に必要な未確認事項。どれも別々の欄に残し、同じ出来事と断定できないものを無理につなげないことにした。三〇八という数字のある閲覧先変更の一行についても、昨日までの確認範囲から進んだ情報はなく、原資料の場所や成立時期は不明のままだ。


「主様。私はこの書き方なら、あの少年が以前にパンの香りを感じたことを忘れずにいられると思います。それから、もう一度お届けできるかどうかは、まだ分からないことも。今日は記録を読み直してよかったです」


「うん。俺もだよ。新しい答えは見つからなかったけど、前から知っていたことを取り落とさずに済んだ。次に資料を調べるときも、この三つを確認してから考えよう」


 セリーは頷き、作業机の上を丁寧に片づけた。俺は共有の記録だけを棚へ戻し、彼女が自分用に書いた紙については何も尋ねなかった。彼女がブラートから受け取った手紙を読み返す時間も、今日描かなかった絵のことを考える時間も、俺がすべて知る必要はないのだと思った。


 窓辺へ移ると、外には秋の夜が広がっていた。朝は白く見えた枝が闇に溶け、遠くの空には雲の切れ間から小さな星がのぞいている。食堂の椅子は少し壁側へ寄せたままで、昼間にセリーが座っていた場所だけが、俺には特別な景色のように感じられた。


「主様。今日は私の希望をたくさん聞いてくださって、ありがとうございました。朝は布を使ってみたいと思い、午後は絵を描かずに景色を見たいと思いました。何をしたいかが途中で変わっても、主様と一緒に過ごせて嬉しかったです」


 セリーはそう言って、少しだけ手を差し出した。俺はその手を取り、互いの指先が落ち着く位置で握り返す。彼女の頬には灯りの色が淡く映り、目元には、一日の終わりを穏やかに迎えられた安堵があった。


「俺も嬉しかったよ。セリーが何をしたいか話してくれると、俺も自分がどうしたいか考えられる。今日は資料のことで少し気持ちが重くなったけど、そのあと一緒に過ごせてよかった。ありがとう」


「私も、主様と同じように感じております。……主様。あの少年が試行を止めたいと思われたとき、その気持ちが受け止められたことを、これからも大切にしたいです。それから、主様も私も、何かを途中でやめたいときには、そのことを安心して伝えられるようでありたいです」


 俺は頷き、少しだけ彼女の手を握る力を強めた。彼女の言葉は、少年の記録を勝手に自分たちの物語へ変えるためのものではない。そこから自分の暮らしを見つめ直し、今の相手へ伝えたいことを選んだのだ。その違いを感じられたからこそ、俺は素直に返事ができた。


「そうしよう。俺たちはいつでも同じ気持ちでいるとは限らないし、途中で考えが変わることもある。そのときに相手へ話せるなら、今よりもっと安心して一緒に暮らせると思う。……俺はこれからも、セリーとそういう時間を重ねたいよ」


 セリーは静かに微笑み、俺の手を握り返した。正式な名前をつけていない関係は、今夜もそのままだが、だからといって互いに何も選んでいないわけではない。小さな希望を言葉にし、違う考えを聞き、ときには途中でやめてもいいと確かめる。その積み重ねが、俺たちの暮らす塔を少しずつ自分たちの居場所にしていた。


 やがて休む時間になり、二人で食堂の灯りと通り道を確認してから廊下へ出た。今朝気になった冷えは残っているものの、窓や扉の異常を確認したわけではないし、今日は原因を決めつける必要もない。共有の棚には薄い布を畳んで置き、明日また使いたければ取り出せるようにした。


 自室の前でセリーと挨拶を交わすと、彼女は自分の布袋を抱え直し、明日は今日とは違うことをしたくなるかもしれませんね、と笑った。俺も頷き、それならまた明日相談しようと答える。彼女が廊下の先へ歩いていくのを見送ってから、俺は自室へ戻った。


 机の上には、今日確認した三枚の控えが置かれている。願いの記録がどこから生まれたのか、昨日見た閲覧案内が何を示しているのか、今も分からないことは多い。それでも少年が一度パンの香りを体験し、喜びと悲しさを示したうえで試行を止められたことを、今夜は改めて大切に思えた。


(誰かの願いを叶えたいって思うことは、相手がもう十分だと言ったときに止まれることと、切り離せないんだろうな。俺もセリーも、自分の希望を選べるように暮らしていきたい。それなら、あの子の記録を読むときにも同じ慎重さを忘れないようにしよう)


 窓の外では、夜の風が細い枝を揺らしていた。フェルネの秋の市を見送ったことも、ブラートから届いた小箱の話も、南側通路に残る石の台の謎も、今夜ここで別の結末になるわけではない。塔にはまだ多くの遺産と記録が残っているが、すべてを急いで解き明かすことより、自分たちがどう向き合いたいかを大切にしたかった。


 俺は灯りを落とし、午後の窓辺でセリーが景色を眺めていた姿を思い返した。絵を描くつもりで座り、何も描かずに過ごした彼女は、それでも満足そうだった。何かを最後までやり遂げたからではなく、自分で選び、自分でやめられたからこそ、あんな笑みを浮かべられたのかもしれない。そんなことを考えながら、俺は秋の夜の静けさへゆっくり身を委ねた。

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