第180話 書き換えられた案内の境界と、遠い町から届く小さな好きなもの
朝の光が窓の桟に触れる頃、俺は寝台の上でしばらく目を開けたまま、森の音を聞いていた。冷えた空気の中で枝が触れ合う乾いた音がして、ときおり塔の壁に沿って風が抜けていく。昨日、三〇八という数字を古い閲覧案内の中に見つけたときの胸の高鳴りは、眠ったあとも完全には消えていなかった。
けれど、あの一行が示していたのは、三〇八という居室番号に関わる案内から、生活上の希望を扱う分類へ参照先を変えた可能性までだ。記録が実際に運ばれたという証拠ではなく、少年本人の願いを記した原本が見つかったわけでもない。作成時期の欄は十分に読めず、その変更が少年の記録より前なのか後なのかさえ、今の俺たちには判断できなかった。
(見慣れた数字が出てくると、つい答えに近づいた気がする。でも、本当に近づいたかどうかを知るには、同じ数字が何を指しているのか確かめないとな)
机の上には、セリーと作った調査表を閉じて置いてある。古い資料と俺たちの推測を混ぜないために、参照元と確認範囲を別々に記す仕組みだ。紙の端からは、彼女が考えた小さな印の説明がのぞいていた。何かを調べるための道具を彼女が自分で提案し、それが今では俺にとっても必要なものになっている。
身支度を終えたところで、扉の向こうから控えめな足音がした。セリーは朝の挨拶をしてから、昨日庭へ戻した赤い葉のことを思い出したらしく、窓の外へ目を向ける。落ち葉が重なっている場所はここから見えないし、風でどこへ動いたのかも分からない。それでも、彼女の表情に寂しさだけがあるわけではなかった。
「おはようございます、主様。今朝は少し冷えますね。昨日戻した葉がどこにあるかは、もう分からないかもしれませんが、私はあの葉を描いた紙を持っておりますので、それでよいと思っています。今日は、昨日の調査の続きを考えてみたいです」
「おはよう、セリー。俺もあの一行が気になってる。ただ、続きを見る前に、何が分からなかったのかをちゃんと決めたいな。同じところを何度も読んで、いつの間にか想像を事実みたいに扱うのは避けたいから」
セリーは頷き、廊下を一緒に歩きながら、今朝は何を優先したいか教えてくれた。昨日見つけた行が、どの範囲の記録を案内し直すものだったのかを確かめたいという。もし居室に関係するすべての記録を対象とするなら、生活上の希望だけを示した行とは読み方が異なるかもしれない。逆に一部の分類だけを変更したものなら、そこで分かることも限定されるはずだった。
「それは俺も確かめたい。三〇八って数字だけを探すんじゃなくて、その行が何を対象としていたか、だね。朝食のあと、見出しと欄の役目から確かめよう」
「はい。でも、古い紙へ触れる前に、まず昨日の写しから読めるところを見たいです。昨日は数字に気づいて嬉しくなりましたので、ほかの欄を十分に見ていなかったかもしれません」
彼女は少し気恥ずかしそうに微笑んだが、その声には自分の期待を否定しようとする響きはなかった。俺も数字を見つけて喜んだのだから、同じところに戻って冷静に読み直すことは必要だろう。食堂へ入ると、そんな調査の話はいったん置き、温かい食事を楽しむことにした。
朝食には野菜の入ったスープと、表面に薄く焼き色のついたパンが用意されていた。セリーは昨日の生地をそのまま真似るのではなく、今朝の食事に合わせて少し小さく焼いたと話す。窓辺の席に座り、湯気越しに彼女の顔を見ると、作ったものを自分でも味わうのが楽しみなのだと分かった。
「今日はスープと合わせやすいね。俺はこれくらいの大きさも好きだよ。昨日のパンとは違うけど、どっちが正しいって話じゃないんだろうな」
「はい。私も、食べるときの気分で好きなものが変わってよいと思います。昨日は少し大きなパンが美味しかったですし、今朝は温かいスープと一緒に小さいものをいただきたくなりました」
セリーはパンをちぎってから、何かを思い出したように笑みを浮かべた。ブラートへ送った二通目の手紙には、手仕事の品を見てみたい理由として、作り手の工夫を知りたいことを書いた。料理も自分たちが日々手を動かして作っているものだから、きっと誰かが作ったパンを食べたら、その人がどんな形を好むのかも気になるだろうという。
「いつか知らない町へ行けるなら、そういう楽しみ方もあるね。フェルネの市には今回は行かないと決めたけど、いつか安全に出かけられる道が見つかったら、食べ物のことも一緒に考えよう」
「はい。私は今朝のパンを気に入りましたけれど、別の方が作ったものを食べたときには、また違う気持ちになるかもしれません。それを知りたいと思うことも、今の私には楽しいのです」
彼女はそう言ってから、自分の器へ視線を落とした。昨夜まで気になっていたブラートからの返信について、今朝は自分から尋ねなかった。送った二通目の文章が相手にどう受け取られたかを知りたい気持ちは続いているだろうが、その返事だけを待って今日を過ごすつもりはないらしい。
食後、厨房を片づけてから作業部屋へ向かった。古い紙の保管場所へ行く前に、俺たちは昨日作った参照元の一覧を広げる。三〇八という数字が見えたのは保管単位の移動履歴ではなく、閲覧先の変更を扱う案内だと確認できている。そこで、まず写しのどの位置から読み取ったかを紙に記し、別の資料を開いて探し回る必要が本当にあるのか相談した。
「主様。昨日は旧い案内と新しい案内の名前を先に読みました。でも、今日はその外側にある見出しも確かめたいです。どのような資料を対象にした一覧か分からなければ、数字だけを見ても意味が違ってしまうかもしれません」
「そうだね。俺は変更前と変更後ばかり見てた。行の外側に何が書かれてるか、まず転記を確かめよう。そこに必要な文字がなかったら、新しく参照する範囲を決めればいい」
俺は腕輪へ触れ、エルに前日確認した案内の見出しを示せるか尋ねた。過去の記録を参照する能力があっても、原本にない文字を生み出せるわけではないし、現在の保管状況をすべて把握できるわけでもない。エルはその限界を伝えたうえで、すでに参照した記載と、今から追加で確認できる欄の範囲を説明してくれた。
『主様。対象の一覧には、閲覧案内の変更対象を示す欄がございます。ただし、一部の表記が不鮮明であり、個々の資料を識別する情報まで完全に判読できる状態ではありません。確認できた見出しのみを提示いたします』
「ありがとう。分からない文字はそのまま残してほしい。今日は何を対象にした変更なのか、そこだけを知りたいんだ」
表示された内容を見て、俺は最初の数行を書き写した。変更の対象は居室番号だけでなく、閲覧の際に使う分類を組み合わせて示す形式になっているらしい。前日見つけた三〇八の行にも、その隣に小さな分類欄があった。昨日は数字と『生活上の希望』という変更先に目を奪われ、途中にある表記の意味を十分に考えていなかった。
セリーは筆記具を持ったまま、その欄をじっと見つめている。やがて小さく首を傾げ、三〇八号室に関係するすべての記録を一括して案内し直したものではないのかもしれない、と口にした。今見えている分類が対象範囲を限定するものなら、同じ部屋のほかの記録は以前の案内へ残された可能性もある。
「主様。もしこの欄が『生活上の希望に関係する記録だけ』を示しているのでしたら、三〇八号室の記録すべてが移されたと考えるのは違いますね。私は昨日、数字を見たとき、お部屋の記録がまとめて別の場所へ行ったように想像しておりました」
「俺もそうだったよ。じゃあ、まずこの欄が対象範囲を示すものなのか確かめよう。そうだと分かっても、個別の資料との対応までは別の話だけどね」
エルに照合を頼むと、項目の配置とほかの例から、変更対象を絞るための分類欄である可能性が高いとの答えが返った。ただし不鮮明な語が残るため、正確にどの範囲まで含んだかを決めることはできない。それでも、居室番号だけで一括管理していたと見るより、居室番号と記録の種類を組み合わせて参照先を扱っていた可能性が見えてきた。
『主様。判読可能な形式上、この欄は居室番号に付随する閲覧対象の区分を示すものと考えられます。ただし、三〇八の行の区分名称は一部が不鮮明です。この一行が居室内のどの記録を対象としていたかを、完全に確定することはできません』
俺はその説明を聞いて、思わず表の余白へ『三〇八号室の記録すべて』と書きかけていた自分の考えを思い返した。昨日はそう書かなかったからよかったものの、少し気が急いていたら、その言葉を確定事項のように残していたかもしれない。セリーは俺の手が止まったのを見て、何か気になることがあるのか尋ねた。
「いや、昨日の俺は数字だけを見て、お部屋全体の記録が案内し直されたように思ってたんだ。今日こうやって欄を見直さなかったら、あとで読み違えるところだった。セリーが外側の見出しを確かめたいって言ってくれて助かったよ」
「私も、昨日は同じように考えておりました。ですから、今日気づけてよかったです。……でも主様、区分が違うからといって、少年の願いが関係しないとも言えませんよね。今はどちらとも決めずに残したいです」
俺は頷き、新しい調査表に『三〇八の行は居室番号と閲覧対象の区分を組み合わせた項目である可能性』と記した。隣には『区分名称の一部は未判読』『少年の記録との個別対応は未確認』と添える。何が分かったのかを長く書かなければならないが、ここを短くまとめすぎると、次に読む俺たちが誤解してしまいそうだった。
その作業を続けていると、セリーが別の疑問を口にした。閲覧先を変更したあと、古い案内そのものはどう扱われたのだろう、というものだ。無効になって消されたのか、以前の記載を残したまま新しい案内へ誘導したのか、それによって古い記録を探す道筋も違うかもしれない。
「主様。昨日の一覧では、古い参照先と新しい参照先が両方残っておりました。もし案内を書き換えたあとも古い情報を残す仕組みがあったなら、以前の記載をたどれる可能性もあるのでしょうか。私は元の紙を探したいというより、案内がどう変わったかを知りたいのです」
「なるほど。変更前の欄が残ってる理由だね。でも、それが実際の閲覧でどう使われてたのかは分からない。今の目録の書き方から、古い案内を残す決まりがあったか確かめられるかな」
エルは、一覧が変更前の情報を保持する形式になっていることは確認できるが、閲覧時に旧い参照先を利用できたかどうかは断定できないと答えた。変更前を記録として残すことと、その場所で実際に資料を読めることは別なのだろう。俺たちはそこにも印をつけたが、古い分類の先へ今すぐ移動するようなことはしなかった。
午前中の作業を終える前、セリーは比較表へもう一度目を通した。彼女の筆記具は『未確認』の欄で止まり、しばらくしてから小さく息を吐く。以前より分からないことが増えたように見えて、少しもどかしいらしい。俺も似た感覚を抱いていたが、彼女が無理に笑顔を作ろうとしていないことに気づき、そのままの気持ちを話してくれてよいと伝えた。
「主様。私は昨日、あの数字と希望の分類が同じ行にあると知って、とても嬉しかったです。今日は対象の区分まで考えなければならないと分かり、少し遠ざかったように感じます。でも、昨日の嬉しさまで間違いだったとは思いたくありません」
「うん。間違いじゃないよ。あのとき三〇八を見つけたのは本当だし、今日はその行をもっと正確に読めるようになった。それでも、あの少年につながるかどうかはまだ分からない。嬉しかったことと、判断を保留することは両方あっていいと思う」
セリーは少し時間をかけて頷いた。彼女が記録を読むのは、俺の手伝いとしてだけではない。少年の願いを自分でも大切にしたいと思っているから、手掛かりを見つけたときの喜びも、答えを出せないもどかしさも彼女自身のものになる。俺はその気持ちを急いで整えるより、隣で一緒に抱えていられる方がよかった。
そこへ、窓の外から風が吹き込むような低い音が届いた。開け放った窓はなかったが、塔の外壁を渡る風が石壁に沿って鳴ったらしい。セリーが少し顔を上げたのを見て、俺は午前の調査を切り上げることにした。細かな文字を読み続けたせいか目も疲れており、このまま別の資料を増やしても注意が散るだけだろう。
資料を元の場所へ戻すとき、俺たちは傷みのある三〇八号室の紙を取り出していないことを改めて確認した。今日調べたのは参照できる一覧と、その欄の構成だけだ。調査した範囲を明記すれば、何も触らなかったことも、次に何を見たらよいかを判断する助けになる。
昼食の支度は、セリーの希望で簡単な野菜料理にした。午前中に考えることが多かったので、手間のかかる新しい料理を試すより、慣れた作り方を選びたかったのだという。俺も賛成し、彼女が鍋を用意する横で食材を洗った。作業台の上には、調査表の代わりに野菜や器が並び、厨房には少しずつ温かい香りが満ちていった。
「主様。私は、古い記録を読むときもお料理を作るときも、いつも新しい方法を試さなければならないわけではないのですね。今日は慣れたものを作りながら、ゆっくり考える時間が欲しくなりました」
「うん。俺もそれがいいな。何かを見つけたいって気持ちはあるけど、一日中そのことだけを考えてたら、今ここでセリーと暮らしてる時間まで見失いそうだからね」
セリーは鍋をかき混ぜる手を少し止めて、俺を見上げた。何か言いたそうに微笑んでから、いつもどおりの丁寧な声で、自分も同じように感じていると話してくれる。知らないことを調べるのは楽しいが、好きな食事を作ったり、庭の花を眺めたりする時間も、自分で選びたいのだという。
昼食を食べながら、俺たちは午前中の資料のことを少しだけ話した。参照先を変更する対象の区分が存在する可能性は分かったが、その区分名を完全に読めたわけではない。少年の願いを扱う資料だったかどうかも未確認で、今回の情報から古代施設の誰かの意図まで推測することはできない。そこまで整理すると、セリーはほっとしたように飲み物を口へ運んだ。
「主様。こうしてお話ししてみると、今日は答えを一つ見つけたというより、間違えそうだったところを一つ見つけた日なのかもしれませんね。私はそれも大切にしたいと思います」
「俺もそう思うよ。昨日の一行をちゃんと読み直せたんだから、それで十分だ。次にどこまで見るかは、午後の気分と、必要な資料が何かを確かめてから決めよう」
食後は少し長めに休むことにした。セリーは自分の布袋から、先日庭へ戻した葉の絵を取り出して窓辺へ座る。俺は彼女の向かいに腰を下ろし、窓の外で揺れる枝を眺めていた。葉を持ち帰った日の色も、乾いて反り始めた頃の形も、もう実物では確かめられない。しかし彼女が描いた二枚の絵には、それぞれ違う時間の姿が残されている。
「主様。私、この二枚を同じ日に描いたものだとは思いません。少し形が違いますし、描いたときの私の気持ちも違いました。古い記録の案内にも、いつ書かれたかによって違いがあるかもしれないと思うと、日付を残すことは大切なのですね」
「そうだね。今日見た案内でも、作られた順番は十分に確かめられてないから。……ただ、セリーの絵みたいに、描いた本人が説明してくれるわけじゃない。だからこそ、残っているものから分かる範囲を大事にしたいな」
彼女は頷き、絵の端に書いた日付を指先でなぞった。ブラートへ送った手紙も、いま読み返せば、そのときの自分が何を伝えたかったか思い出せるという。書いていない気持ちまで残せるわけではないが、だからといって送った言葉が無意味になるわけではない。俺はその話を聞きながら、古い少年の願いも、今読める範囲を尊重することから始めたいと改めて感じた。
午後になり、俺たちは作業机へ戻った。さらに古い個人記録を開くのではなく、午前中に新しく確認した対象区分について、転記した内容を読み返して整える。セリーが提案した四つの欄は今日も役立っており、『確認できなかったこと』の欄には判読できない語と、時期の対応が不明であることが並んでいた。
「セリー、今日はこの欄だけでいいかな。閲覧先の変更が居室番号だけでなく区分も使っていた可能性と、その区分がまだ完全には読めないこと。そこを共有の記録へ残して終わりにしたい」
「はい。私もその方がよいと思います。午前中、私は続きを見たい気持ちが強くなりましたけれど、今は、今日どこまで確かめたかを忘れずに残せれば十分です」
清書を始めてしばらくすると、作業部屋の隅にある通信の魔導具が淡く明滅した。古い資料の表示とは違う光だったので、俺は筆記具を置いてそちらへ目を向ける。セリーもすぐに気づいたが、立ち上がる前に俺を見て、差出人だけ確認してもよいか尋ねた。
「もちろん。俺も誰からか気になるよ。……昨日までは新しい反応がなかったから、ブラートなら二通目への返事かもしれないね」
魔導具の差出人を確認すると、確かにブラートからの個人的な通信だった。俺宛ての短い挨拶のあとに、セリーへ伝えてほしい文章がある。以前と同じように、本人がどう読みたいか決められるよう、俺は本文を先に進めず、彼女へ向き直った。
「ブラートからだよ。俺宛ての挨拶と、セリーへの文章が分かれてる。自分で読みたいなら、表示を見やすいようにするけど、どうする?」
「……はい。私、自分で読みたいです。ですが、主様もそばにいてくださると嬉しいです。もし私が読み終えてからお話ししたくなったら、そのときに聞いていただけますか」
俺は頷き、彼女が座りやすいよう椅子を動かした。セリーは一度だけ胸元に手を当て、ゆっくりと文字を追い始めた。最初は少し緊張していた表情が、途中から柔らかくなり、ときどき小さく瞬きをしながら文章を読み進める。俺は文字へ視線を向けず、彼女が自分の言葉で話してくれるまで静かに待った。
しばらくして、セリーは表示から顔を上げた。目元には嬉しさが浮かんでいるが、すぐに話し始めるのではなく、一度言葉を選ぶように口を閉じる。それから、ブラートが自分の手紙を読んでくれたこと、手仕事の品を見たいと思う理由が伝わったと書いてくれたことを、少しずつ教えてくれた。
「主様。ブラート様は、私が作った袋のお話を覚えていてくださったそうです。それから、ご自分が大切にしているものについても、少し教えてくださいました。私、誰かの好きなものをお尋ねして、その方からお話を聞けるのが、こんなに嬉しいことだとは知りませんでした」
「よかったね。セリーが聞きたいって思って書いたから、ブラートも答えてくれたんだろうね。どんなものを大切にしてるのか、話してくれたら俺も聞きたいな。でも、セリーだけで読んでおきたいなら、それでも構わないよ」
彼女は少し迷ったあと、今度は自分から読み聞かせたい部分があると話した。ブラートは長く使っている木製の小箱を大切にしているらしい。角が少し欠けたときには修理して使い続けており、作った職人の名前までは知らないけれど、蓋の収まりや手に持ったときの感触が気に入っているという。新しい品物を買い足す話ではなく、一つの道具と暮らすうちに好きになったところを、飾らない言葉で綴っていた。
「木の小箱か。あいつ、そんなものを大切にしてたんだな。俺はブラートと話すとき、用事のことばかりだったかもしれない。あいつの好きなものの話を、こんなふうに聞けるとは思わなかったよ」
「はい。私は、作られたばかりの綺麗な品物を想像しておりました。でも、使っているうちに手を加えられたものも、その方にとって大切なのですね。私の布袋も、縫い目が少し曲がっておりますけれど、使い続けるうちに、もっと好きになれるかもしれません」
セリーは自分の布袋を膝へ置き、指先で縫い目をなぞった。最初に作ったとき、筆記具まで一緒に入れると使いにくいと話していたことを思い出す。今も完璧な袋とは言えないが、彼女はその不便さを自分で知り、用途に合わせて使い分けている。ブラートの小箱の話を聞いて、自分の道具にも違う見方が生まれたのだろう。
「直したいところができたら、また一緒に考えよう。でも、今の形を気に入ってるなら、すぐ手を加える必要もないよ。セリーが自分で作ったものだしね」
「ありがとうございます。私、今はこの袋が好きです。使いにくいところもございますが、何を入れると便利なのか少しずつ分かってきました。……ブラート様には、そのこともいつかお話ししてみたいです」
俺は頷き、彼女の微笑みを見つめた。通信に書かれていたのは、塔の位置を探すための新情報でも、フェルネへ行く道についての確証でもない。ただ、遠い場所に暮らす人が、大切に使っている小箱の話をしてくれた。それだけでセリーの世界が少し広がったことが、俺には何より嬉しかった。
セリーは返信の最後について、もう一つ教えてくれた。ブラートは、秋の市を見送ったことを改めて話題にするのではなく、いつか実物を見られる日が来たら、手仕事の品について互いに感想を話せたら楽しそうだと書いていたらしい。いつ会えるとか、どの道を通るとか、そうした具体的な予定は示されていない。今の二人に無理をさせない距離で、交流を続けようとしてくれているのだろう。
「主様。私は、このお返事を大切にしたいと思います。でも、今すぐまた文章を送らなければとは思っておりません。今日、ブラート様のお好きなものを一つ知ることができましたので、少し時間をかけて、そのことを考えてみたいです」
「うん。それがいいね。相手から返事が来たら、必ずその日に次の返事を書くって決まりはないんだから。セリーが話したいことを見つけたら、そのときまた考えよう」
彼女は嬉しそうに頷き、通信の表示を閉じずに残しておきたいと申し出た。俺は内容が保管される扱いを確認し、誤って消すような操作をしないことだけ伝える。彼女宛ての部分を全部俺に見せる必要はなく、今日は小箱の話を選んで共有してくれた。それを尊重できることも、今の二人の暮らしには大切だった。
ブラートから俺宛ての部分は短い近況の挨拶で、特に急いで対応を求められるものではなかった。塔の所在地を明かすような調査の続報もなく、フェルネへ行く判断を変える理由は何も増えていない。俺はそのことをセリーへ伝え、今日の通信が外出計画を再開する合図ではないと確認した。
「はい。私も、今回の秋の市へ行くというお話に戻すつもりはございません。ブラート様の小箱について知れたことが嬉しいのです。私は今、それだけでも十分に感じております」
その返事に俺は安心して頷いた。市へ行かなかったことへの寂しさは、これからもふとした瞬間に思い出すかもしれない。けれど、行けなかった町と自分たちの暮らしの間に、通信という別のつながりが生まれている。何かを手に入れに行けなくても、外にいる人の好きなものを知ることはできるのだ。
夕方の光が窓際へ伸びる頃、俺たちは今日の調査表を最終的に整えた。三〇八の行に対象区分を示す欄がある可能性、区分の一部が不鮮明で全体の範囲は未確定であること、閲覧先の変更は原資料の実際の移動を意味しないこと。それぞれの根拠を別々に記し、少年の願いの原記録が見つかったとは書かなかった。
セリーは表を見直し、これまで探した資料について確認できなかった範囲も残っているか確かめた。そのあと、今日見つけたことをどこへ保管するか相談し、既存の覚え書きの隣へ追加することにした。元の紙には書き込まず、新しい見出しも俺たちの記録だと分かるようにしてある。
「主様。今日は、昨日の記録を読み直したおかげで、すべての資料がまとめて案内し直されたとは限らないと分かりました。私は、気になったものをすぐ確かめに行くより、今ある紙をもう一度読むことも大切だと感じました」
「俺もだよ。原本を一枚も新しく開かずに、読み違えそうだったところを見つけられた。それにブラートからも返事が来たし、今日は思ってたよりいろんなことがあったね」
セリーは笑みを浮かべ、自分の布袋を胸元へ寄せた。彼女の中では古い資料の調査と、ブラートの小箱の話は別の出来事だろう。それでも、どちらにも、誰かが残したものをどう受け取るかという問いがある。俺はそう感じたが、二つを同じものとしてまとめようとはしなかった。
夕食の準備を始めると、厨房には温かな料理の香りが広がった。セリーは今日はいつもの食べ慣れた味を選び、俺は器を並べながら調理の手伝いをした。窓の向こうでは森が薄暗くなっていくが、厨房の中には明るい灯りがあり、二人で立つ場所も自然と決まっていた。
「主様。ブラート様のお話を聞いて、私は道具を直して使い続けることにも興味が出てまいりました。でも、今すぐ新しいものを作るというより、まずは自分の布袋をもう少し使ってみたいです。使っているうちに、直したいところがはっきりするかもしれませんから」
「それがいいと思う。俺も自分の袋はまだ縫い目が揃ってないけど、今のところ使えてるしね。必要になったら、直し方を二人で考えよう」
セリーは頷き、湯気の向こうで微笑んだ。誰かの手仕事を知りたいという希望が、外出できなかったことで消えるのではなく、今使っている道具の見方まで変えていく。彼女が自分の興味を育てていることを、俺は嬉しく思った。
夕食を終えたあと、俺たちはいつもの窓辺で少し過ごした。森には夜の冷気が降り、枝の間から見える空に小さな星が輝いている。セリーは窓の外を眺めながら、ブラートが小箱の修理を重ねて大切に使っていることを、もう一度思い出しているようだった。
「主様。私は、知らない方の好きなものを聞くと、その方が少し近くに感じられるのだと知りました。ブラート様にお会いしたことはございませんけれど、今はただ主様のご友人というだけではなく、木の小箱を大切にされる方として思い浮かべることができます」
「うん。俺もあいつのそんな一面を知れてよかった。セリーが聞いてくれなかったら、俺はきっと知らないままだったと思う。ありがとう」
彼女は少し驚いたように俺を見上げ、頬を染めてから、嬉しそうに笑った。自分の質問が誰かの新しい一面を知るきっかけになったことが、思いがけず嬉しかったのだろう。俺は隣に立つ彼女へ手を差し出し、セリーがその手を取るのを待った。
指先が触れ合うと、彼女は穏やかな表情で少しだけ近づいた。王宮では、誰かと話すときに立場や用件を意識することが多かった。今は、何かを頼むためでも、情報を得るためでもなく、相手が好きなものを知りたいという理由で言葉を交わせる。セリーがそれを嬉しそうに話す姿を見て、俺も自分の世界が広がったように感じた。
「主様。私は、これからも自分が知りたいと思ったことを、少しずつ言葉にしたいです。でも、相手の方が答えたくないことまで知ろうとは思いません。ブラート様のことも、主様のことも、私が知らないところがあるままで大切にしたいのです」
「ありがとう、セリー。俺も同じだよ。何でも知ってるから大切なんじゃなくて、知らないところがあっても一緒にいたいって思えることが、大事なのかもしれないね」
セリーは静かに頷き、つないだ手を少しだけ握り返した。互いに名前をつけていない関係は、今夜もそのままだ。しかし、その距離が昨日と同じかといえば、そうではないように思う。彼女が自分の言葉で誰かと交流し、俺へ伝えたい部分を選んでくれることが、俺たちの間にも新しい信頼を重ねていた。
しばらくして休む時間になり、俺たちは窓辺から離れた。セリーは自分の部屋へ戻る前に、ブラートからの文章を明日もう一度読みたいと話す。俺はもちろんと答え、通信の記録はそのまま残してあることを伝えた。彼女は安心したように微笑み、おやすみなさいと丁寧に頭を下げた。
自室へ戻ると、机の端には今日整えた調査表が置いてある。三〇八という数字を見つけたときの期待は消えていないが、それだけで少年の願いへつながったとは言えない。居室番号と対象区分を組み合わせて閲覧先を変更する仕組みがあった可能性は、確かめられた範囲として残しておく。元の記録の所在も、少年の今の状態も、まだ知らないままだ。
(今日は、あの一行を昨日より少し正確に読めた。それにセリーがブラートの好きなものを知って、あんなに嬉しそうにしてた。どちらも、急いで答えを出さなくても大切にできる出来事だったんだな)
灯りを落とすと、秋の森を渡る風の音が静かに届いた。塔にはまだ多くの記録が残り、三〇八号室の少年の声も、遠い過去の出来事も、今すぐすべてを確かめられるわけではない。だからこそ、見つけたものを勝手な答えへ変えず、セリーと一緒に少しずつ考えていきたかった。
寝台へ身を横たえながら、俺はブラートが使い続けているという小箱の姿を想像した。どんな木目で、どの角が修理されているのかは知らない。けれど、知らないままでも、その小箱を大切にしている人がいると知れたことは嬉しかった。そう思いながら、俺は穏やかな夜の中で目を閉じた。




