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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第176話 目録に並ぶ二つの印と、触れずに確かめるための約束


 薄い雲の向こうから朝日が差し始めた頃、俺は窓の留め具を確かめてから、寝台のそばへ置いていた上着に手を伸ばした。昨夜より風は弱まっているようだが、枝の隙間から見える空には冬を思わせる淡い色が混じり、塔の石壁も朝の冷気を残している。机には昨日整理した三〇八号室の覚え書きが一枚だけ伏せてあり、その隣には、まだ何も書いていない紙を置いたままにしていた。


 古い記録の下端で見つけた小さな表記には、閲覧用に内容を抜き出したものを示す語が含まれる可能性があった。ただし、折り返しの奥は傷みが心配で開いておらず、目録に似た分類があることも、その紙の成立過程を証明するものではない。昨日のうちに、ほかの目録や写しから確かめられることを先に探そうと決めたものの、どこから手をつけるかはまだ考えきれていなかった。


(紙を開けば続きを読めるかもしれない。けれど、そこに答えがあると決まったわけでもないんだよな。今日は、原本へ触れる前にできることを、ちゃんと探してみよう)


 かつて王宮で、必要な記録は担当者が整えて届けてくれた。自分で資料の保管場所を調べ、文字の読み取り方から考える暮らしなど、あの頃は想像もしなかっただろう。それでも、誰かに答えを持ってきてもらうのではなく、自分の手元にあるものから確かめる今の時間が、俺には不思議と心地よかった。


 扉を叩く控えめな音がして、セリーの声が届いた。朝の挨拶を交わして廊下へ出ると、彼女はいつもの小さな布袋を持ち、窓から見える枝先へ目を向けていた。赤い葉はさらに少なくなっているようで、朝日を受けた細い枝が、風に合わせてゆっくり動いている。


「主様、おはようございます。今日はお庭のお花を確かめたいと思っております。昨日は古い資料を一緒に読んでいて外へ出ませんでしたので、今朝は少し気になっておりました。ただ、主様にもなさりたいことがございましたら、順番を相談させてくださいませ」


「おはよう、セリー。俺も花を見たいと思ってたよ。昨日は見ていないから、今日の姿を前々回の記録と比べることになるね。資料の方は朝食のあとで考えよう。まずはゆっくり食べて、足元を確かめてから庭へ行こうか」


 セリーは笑顔で頷き、俺の隣へ並んだ。彼女が何を最初にしたいのか自分から話してくれるようになって、予定を相談する時間が少しずつ変わってきた。以前は俺の考えを先に尋ねることが多かったが、今は二人の希望を並べ、その中から選ぶことが自然になっている。


 食堂には温かな野菜の香りが漂い、窓辺の卓上には二人分の食器が置かれていた。セリーは昨日小さめに焼いたパンの残りを今朝の食事に合わせて温め直したらしく、形によって食べやすさが変わることを確かめたいのだと教えてくれた。俺は彼女と向かい合って座り、外の冷たい空気を忘れるような湯気を眺めながら、ゆっくり食べ始めた。


「今日は小さなパンでも食べやすいな。昨日の昼は具を添えるには少し小さいって話してたけど、こうやってスープと一緒ならちょうどいいかもしれないね」


「はい。私もそのように感じました。同じものでも使い方によって違うのですね。……あの、主様。パンを見ていて、昨日の紙のことも少し考えておりました。読む人のために整えた文章も、元の文章とまったく同じ役目とは限らないのかもしれません」


 俺はパンを皿へ戻し、彼女の顔を見た。セリーは少年の願いが書かれた資料を責めているわけではない。自分が調理したものも、誰がどう食べるかで扱い方が変わると気づいたところから、読むために整えられた紙にも目的があったのではないかと考えたらしい。


「なるほど。読みやすくまとめるために省くこともあるだろうし、元の言葉を残す必要がある場合もあるだろうね。ただ、あの資料がどっちなのかは、まだ分かってない。今日、ほかの例を見られるなら、そこを間違えずに比べたいな」


「はい。私は、元の紙が傷んでしまうような調べ方はしたくありません。それに、ほかの方の記録を使うなら、その方について知らなくてもよいことまで読まないようにしたいです。分類の仕方だけ確かめられるものがあればよいのですが」


 セリーの言葉に、俺は頷いた。古い療養施設の記録には、そこで過ごした人たちの事情が残っている。見比べたいのは文章の中身ではなく、資料の種類を示す表記なのだから、別の誰かの生活や願いを必要以上に読み込む理由はない。俺たちはそう確認して朝食を終え、片づけを済ませてから庭へ出る準備をした。


 塔の扉を開けると、湿った土の匂いより、乾いた落ち葉の香りが強く感じられた。日差しのある石畳は淡く光っていたが、壁際に寄った葉の下には暗い部分も残っている。セリーは足を置く場所を確かめながら進み、俺も彼女の横で、昨日の風によって通り道に新しい枝が落ちていないか見渡した。


 庭の花は、支えを外してから続いている少し横向きの姿勢で咲いていた。二日前の絵と比べると花びらの端がわずかに内側へ向いたようにも見えるが、朝の光の角度が違うため、萎れたとまでは判断できない。茎の色が周囲と違って見える箇所はまだあり、離れた位置から確認できる範囲では、大きな裂け目は見当たらなかった。


「主様。今日は、花びらの形が前に描いたものと少し違うように見えます。けれど、昨日見ておりませんので、いつ変わったのかも分かりませんね。私は今の姿を描いて、理由については決めずにおきたいです」


「うん、それがいいと思う。昨日見てないのに、昨日から変わらなかったって書くこともできないしね。花が今どう見えるかを残しておけば、あとでまた比べられるよ」


 セリーは鉢の前へしゃがみ、記録板を膝の上で支えた。俺は彼女の影が花へかからない位置に立ち、石畳と鉢の周囲を眺めていたが、途中で落ち葉が一枚、風に押されて足元へ滑ってきた。以前なら何となく拾い上げていただろうそれも、今日はそのままにして、庭の様子が時間とともに変わることを眺めていた。


 描き終えたセリーは、記録用の紙とは別の小さな紙に一言だけ何かを書き、布袋へ収めた。俺が目を向けると、彼女は花を見て自分が感じたことを残したのだと教えてくれる。何を書いたのかは尋ねなかったが、共有する観察と私的な感想を本人が分けていることが、俺には嬉しく思えた。


「主様。私、前はお花が下を向いていると、すぐに何かして差し上げなければと思っておりました。でも、今は姿が変わることを、もう少し落ち着いて見ていられるようになった気がいたします。必要だと思ったときには、また一緒に考えたいです」


「ああ。俺もそうしたい。前につけた支えが本当に役立ったかは分からないし、布の当たっていたところもまだ気になる。でも、今朝の花を見ただけで結論を出さなくていいからね」


 庭を離れるとき、セリーは赤い葉が残る枝をもう一度見上げた。ブラートへ送った手紙には、季節の花が日によって違う姿を見せることが好きだと書いたらしい。本人がその言葉を選んだあとも、新しい日の花を見て、自分の気持ちを確かめ続けているのだろう。


 塔へ戻り、道具を所定の場所へ置いてから、俺たちは資料の整理に取りかかった。今日は傷みが気になる三〇八号室に関係する古い紙そのものは取り出さないと先に決める。代わりに、すでに参照できる保管目録と、分類表記だけが確認できる別の控えを探すことにした。棚を開ける前にエルへ目的を伝えると、腕輪から静かな声が返ってきた。


『主様。既存の保管目録に含まれる分類項目を比較することは可能です。ただし、分類の意味と個別の資料の成立過程は別の情報です。三〇八号室の記録を直接確認しない場合、対応関係の判断には制限が残ります』


「それでいいよ。今日は下端の文字を無理に読もうとしない。ほかの資料で分類の使い方が分かれば、次にどこを探すべきか考えられるからね」


 俺がそう答えると、セリーは保管場所の見取りを描いた紙を持ってきた。以前から使っている棚の位置と区分を記したもので、新しい施設や隠し部屋を見つけたわけではない。俺たちはその紙を見ながら、本文を読む必要のない目録類がどこにまとまっていたか確認し、手の届く範囲のものだけを作業台へ移した。


 最初に確かめた目録には、施設の部屋番号や資料を区別する符号のほか、閲覧に使う記録と、元の記載を扱う記録を分ける欄があった。以前見たときは、単に分類が二つあると理解したところで作業を終えている。今日はまず欄の見出しが同じ時期に書かれたものか、書き加えられたところがないかを、見える範囲で丁寧に確かめることにした。


「主様。こちらの欄は、ほかの部分より文字の間隔が広く見えます。最初からそのような形だったのか、あとから使い方が変わったのかは分かりませんけれど、私は少し気になりました」


「そうだね。目録の写し方によっても違うだろうし、今見える文字の幅だけで追記だとは言えないな。まず欄の名前と、どの種類の情報が入るのかを分けて残しておこう」


 俺たちは原紙へ書き込まず、別の紙に目録の枠だけを写した。中身まで複製する必要はないため、個別の記録番号が並ぶ部分は、比較に必要な位置だけを控える。セリーは横に小さく、見出しの判読できた範囲と、形が似ていても意味を確認できなかった部分を区別して書いてくれた。


 そうしているうち、俺は分類表記の中に、見た目のよく似た二つの形式があることに気づいた。どちらも閲覧する人のために用意された資料を示しているらしいが、一方には内容を選んでまとめることを示す語があり、もう一方には記載を写し取ることを示す語が使われている。似た目的の記録だからといって、言葉を省いたものと、元の書き方を残そうとしたものを同じに扱ってよいわけではなさそうだった。


「……セリー、これを見てくれるかな。ここは内容を抜き出したもの、こっちは記載を写したものって読めるように思うんだ。どちらも閲覧のための記録だけど、同じ作り方とは限らないんじゃないかな」


 彼女は筆記具を置き、俺が示した欄へ顔を近づけすぎないよう姿勢を整えた。文字を一つずつ追ってから、確かに後ろの語が違っているように見えると答える。ただし、語が違う理由についてはまだ知らないため、先にエルへ照合を頼むことにした。


『主様。現在判読できる目録の見出しでは、内容を選択して整理する記録と、記載を移すことを目的とした記録を区別していた可能性があります。ただし、後者が常に原文を一字一句保存していたかどうかまでは、この見出しだけでは保証できません』


「なるほど。写す方にも書き間違いや省き方があったかもしれないし、名前だけで完全な原文だと思うのは早いってことだね」


『その理解が適切です。また、分類名称が実際の運用において常に厳密に使い分けられていたかは、個別の例を照合しなければ判断できません』


 俺はエルの説明を聞きながら、昨日見た傷んだ紙の余白を思い出した。見えていた語だけを考えれば、閲覧用に内容を抜き出した記録だと推測したくなる。しかし、同じ目的で用意された資料にも種類があり、しかも紙の肝心なところは折り目に隠れている。今の情報では、少年の願いがどの段階でどう書き替えられたのかを決めることなどできなかった。


 セリーは二つの形式を写した紙を見つめ、少し複雑そうな顔をした。昨日は記録の一部分だけが残されているかもしれないと知って、少年の声が遠くなったように感じたと話していた。今日はさらに分類が細かく分かれていると知り、元の言葉へ近づいたのか遠ざかったのか判断できずにいるのだろう。


「主様。私は、昨日の余白の表記から、あの紙が抜粋されたものかもしれないと思っておりました。でも今は、似た分類が複数あると知りましたので、もっと慎重に考えたいです。少しもどかしいですが、ここでどちらかに決めてしまいたくはございません」


「俺も同じだよ。昨日より分からないことが増えたようにも感じるけど、実際には、区別すべきものが一つ見つかったんだろうね。それに、三〇八号室の紙を傷めずにここまで確かめられたんだから、今日はそれを大事にしたい」


 俺は二つの分類を別々の欄へ写し、共通する部分と異なる部分に印をつけた。資料の本文は読まず、分類名がはっきり確認できる例だけを数点参照したが、どれも古い記録の管理方法を理解するためのものであり、個々の人物や出来事の中身には踏み込まなかった。セリーもその方が安心できると話し、必要な項目を書き終えたところで一度机から離れることを提案してくれた。


 窓から入る光は朝より高くなり、机の上の紙へ短い影を落としていた。俺はまだ目録を読み進められそうだったが、セリーの指先が少し休みたそうにしているのを見て、今ここで切り上げることにした。作業に夢中になると、紙を扱う力も知らずに強くなってしまうかもしれない。資料を大切にしたいなら、扱う側の疲れも考える必要がある。


「ありがとう、セリー。俺もそろそろ目を休めた方がよさそうだ。ここまでの紙は一度重ねて、どの目録を見たか分かるようにしてから休もうか」


「はい。私は少し温かいものをいただきたいです。朝から細かい文字を見ておりましたので、いったん別のことを考える時間も持ちたいと思います」


 俺たちは使った資料の位置と向きを確認し、保管すべきものを元へ戻した。古い紙の端を傷めないよう、作業台の上には自分たちの覚え書きだけを残しておく。セリーが最後に机を見渡し、筆記具が資料の上へ置きっぱなしになっていないことを確かめてから、二人で厨房へ向かった。


 昼食は温かな煮込みと、朝とは違う形に切り分けたパンにした。セリーは何か新しい工夫をしなければと考えるのではなく、今日は食べやすく、落ち着いて食べられることを優先したいと話す。俺はその希望に賛成し、食卓へ料理を運ぶ間、窓から見える庭の色が少しずつ変わっていくのを眺めていた。


「主様。今朝の分類のお話ですが、私は少し安心したところもございます。以前は一つの名前を見つけると、それが何を意味するのかすぐ知りたくなりました。でも、今は同じように見えるものにも違いがあると分かったので、もう少し丁寧に見られそうです」


「うん。俺は逆に、まだ知らないことが思ってたより多いんだなって実感したよ。でも、最初に見つけた答えらしいものへ飛びつかなくて済んだのはよかった。こうやって食事をしながら整理し直せる時間があるのもありがたいな」


 セリーは微笑み、自分の料理を味わった。朝の食堂でも感じたことだが、彼女は新しい気づきをすぐ立派な結論へ変えようとはしなくなっている。よく分からないことを、分からないまま少し安心して話せる。その変化が、古代の資料を調べる今の俺たちには大切だった。


 食事のあとは、しばらく窓辺で休んだ。午後の日差しを受けた庭には、朝に描いた花の鉢が小さく見えている。セリーは遠くの枝に残った赤い葉を眺めながら、今朝書いた自分用の紙について、もう一つだけ話してみたいことがあると言った。


「主様。私は、花びらの形が前と少し違って見えたことを、共有の記録に残しました。そのあと、自分の紙には、変わっていく姿を見るのが好きだと書きました。もし誰かが共有の記録だけを読まれたら、私が嬉しかったことまでは分からないのでしょうね」


「そうだね。でも、それはセリーが隠してるから悪いって話じゃない。共有の記録には花の様子を書いて、自分の感想は自分で残したいんだから、それでいいと思う。読む人が知れるのは、その紙に書かれた範囲だけなんだよね」


 セリーは頷き、胸元の布袋へ指を添えた。ブラートへ送った二通目の文章も、届けたいことを選んで書いたものであり、彼女のすべてを相手へ渡したわけではない。残された記録を読むときも、そこに書かれていない感情が存在しなかったと決めつけてはいけないのだろう。


 俺は彼女の話を聞きながら、自分が王宮で受け取っていた報告書のことを思い出した。どこかで起きた出来事が短く整理されていると、そこに書かれた数行だけで事情を理解した気になっていたこともある。だが、当時それをまとめた人の仕事や、記載されなかった人の声を、今ここで知っているわけではない。三〇八号室の記録も、その人の過去の出来事も、安易に同じ型へ押し込めないようにしたかった。


(書かれていることを尊重するのと、書かれていないところを勝手に埋めるのは違う。セリーの紙を全部見なくても彼女を大切にできるように、あの子の記録も、今は届いている範囲を大事にしよう)


 午後の作業を始める前に、俺たちは午前中に作った比較表をもう一度見直した。二つの分類の語尾が違うことは確かめられたが、三〇八号室の傷んだ紙のどちらに対応するかは未確認である。そこを大きく書き込み、目録のほかにも分類の使い方を説明する資料がないか調べることにした。


「主様。もし分類の意味を説明したものが残っているなら、ほかの方の記録の中身を開かなくても確かめられそうですね。私は、まずそうしたものを探してみたいです」


「うん。目録を作る人が使っていた案内みたいなものがあれば役立ちそうだ。ただ、それが本当に残っているかは分からないから、エルに参照できる範囲を確認してみよう」


『主様。現在参照可能な範囲では、分類項目を列記した一覧が存在します。ただし、記載のすべてについて詳細な説明が付属しているわけではありません。分類の名称と運用上の判断基準を混同しないようご注意ください』


 俺たちは一覧が示された場所を確かめ、先ほど見つけた二つの分類の周囲を読み直した。確かに、まとめた内容を閲覧に使う場合と、別の記録を書き移して閲覧に使う場合は、項目として分かれている。しかし、どの条件で一方を選ぶか、元の記載をどの程度残すかについて、詳しい説明は読み取れなかった。


 それでも、新しいことが一つ分かった。二つの分類は俺たちが読み違えただけで生まれた区別ではなく、少なくとも参照できる一覧の中で別々の項目として扱われていたのだ。もちろん、一覧が使われた時期と三〇八号室の紙が作られた時期を対応させる根拠はまだない。俺はその点をセリーと確認し、比較表へ日付や編纂時期の欄を加えたが、分からない箇所は空欄のままにした。


「主様。私は今、少しだけ嬉しくなりました。少年の元の記録が見つかったわけではございませんが、閲覧のための記録にも種類があると分かりましたので、次にあの余白を確かめるときには、何を見ればよいか考えやすくなりそうです」


「そうだね。最初は『閲覧用らしい』って一つにまとめてたけど、今は二つを区別できる可能性が出てきた。だからこそ、あの紙の表記が全部分からないうちは、どちらだとも決められない。そこまで分かったのが、今日の進展なんだろうな」


 俺がそう話すと、セリーは穏やかに頷いた。それから彼女は、比較表の見出しに使っていた『抜粋』という言葉を指さし、もう少し広い言い方にしてはどうかと提案してくれた。昨日見つけた表記は抜粋を示す可能性があるものの、今日の調査で閲覧用の形式が一つではないと分かったため、まだ決めつけない名称がよいという。


 俺たちは表の見出しを『閲覧用記録の分類候補』へ変え、その下に二つの項目を並べた。元の資料はもちろん、昨日作った転記も消さずに残し、今日修正した理由だけを書き添えておく。以前の言葉を直すことは、昨日の自分たちを否定することではなく、新しく分かった範囲へ記録を合わせるための作業なのだと思った。


 整理が一段落したところで、セリーは比較表の端へ小さく印をつけた。二人で確認したことと、まだ確かめていないことを見分けるための目印で、古い資料の分類記号とは混ざらない形にしてある。俺はそれが便利だと感じたが、彼女は少し恥ずかしそうに笑い、使いにくければあとで変えても構わないと話してくれた。


「使いやすいと思うよ。俺たちが作った表だって分かるようにしておけば、古い記録の印と取り違えずに済む。セリーが考えた方法を、しばらく試してみようか」


「ありがとうございます。私、自分で印を考えることも、少し楽しく感じております。古い方々がどのような理由で記号を選ばれたのかは分かりませんが、私たちの印には、私たちなりの意味を残しておきたいです」


 セリーは比較表の裏へ印の説明を書き、使った日を記した。俺は、その小さな工夫が、いつか自分たちの記録を読み返すときにも役立つのだろうと思った。最初から完全な仕組みを作ろうとしなくても、必要なことが見つかるたび、二人で少しずつ変えていけばいい。


 作業を終えて資料を片づける頃には、窓の光が赤みを帯びていた。ブラートから新しい通信は届いておらず、セリーが送った二通目への返事もまだ確認できない。彼女は通信の方へ一度だけ目を向けたが、今すぐ確かめたいとは言わず、今日は目録のことで考える時間が多かったので、夜はゆっくり過ごしたいと申し出た。


 俺たちはその希望に合わせ、夕食の準備を始めた。セリーは昨日より少し大きな鍋を使うことを考えかけてから、今夜の量なら普段のもので足りると判断し、俺に野菜を切り分ける手伝いを頼んだ。厨房に立つ彼女は、誰かの命令を待つのではなく、その日の自分の好みと二人の食事を考えながら動いている。


「主様。今日は、古い紙を一枚も無理に開かずに、調べたいことを少し進められましたね。私、最初は何か新しい資料を見つけなければ、進んだことにならないと思っておりました。でも、今は読み方を間違えないための準備にも意味があると感じます」


「俺もそうだよ。あの傷んだ紙を開かないと分からないことは残ってるけど、今日確かめた分類の違いは、原本を傷める危険を増やさずに調べられた。そこは大事にしたいな」


 セリーは鍋の火加減を見ながら頷いた。湯気が立ち上り、厨房には野菜の甘い匂いが広がっている。三〇八号室の少年が望んだと記録されたパンの香りとは違うが、目の前の食事を楽しむことと、少年の願いを慎重に扱うことは両立できる。昨日までの話を、俺たちは今夜も無理なく暮らしの中へ置いておけた。


 食事の席で、セリーは今日の庭の絵をもう一度見たいと言った。俺は食後でよければ一緒に眺めようと答え、彼女は急いで食べ終えるのではなく、自分の分をゆっくり味わった。少し前までは誰かに合わせようとしていた彼女が、今は話したいことがあっても食事を先に楽しめる。その何気ない変化が嬉しくて、俺も目の前の料理を丁寧に味わった。


 片づけを済ませたあと、二人で窓際の小さな机へ移り、朝に描いた花の絵を広げた。花びらの輪郭は前々回よりわずかに内側へ向いて見えるが、記録した光の条件は違う。原因を調べることは今夜の目的ではなく、セリーがどこを綺麗だと感じたのかを聞く時間にしたかった。


「ここです、主様。私は、花びらの縁が少し重なって見えるところを、綺麗だと思いました。以前は上を向いている方がよいと思っておりましたが、今はこの形も好きです。もし明日違う姿になっていても、またそのときの様子を見たいと思います」


「うん。俺もこの線は好きだよ。セリーの絵を見てると、俺が庭で見てたものとは違うところに目が向くんだなって分かる。そういう違いを聞けるのが、なんだか楽しい」


 彼女は少し照れたように微笑んだが、すぐに自分の絵を隠そうとはしなかった。共有の観察とは違う、彼女が自分のために描いたものを今夜は見せたいと思ってくれたのだろう。俺はその選択を嬉しく受け止めながら、彼女の筆先が残した細い線を眺めていた。


 やがてセリーは紙をしまい、今日見つけた二つの分類についてもう一つ気になっていることを話してくれた。昔の記録がどちらの形式で残されたとしても、その人が何を望んでいたかを、書面だけで完全に知ることはできないのではないかという。彼女は自分がブラートへ書いた文章を例に挙げ、伝えたいことを選んで書いたからといって、それ以外の気持ちがなくなったわけではないと話した。


「主様。私、少年のお望みを知りたいです。でも、もし元の記録が見つかっても、そこに書かれていないことまで全部分かるわけではないのでしょうね。私がブラート様へお送りした文章にも、書かなかったことがたくさんございますから」


「そうだと思う。俺たちがいつか元の記録を見つけられたとしても、そのとき分かるのは、そこに残された範囲だけだろうね。あの子がどんな声で話したのか、何を感じていたのかは、別の手がかりがなければ分からないままかもしれない」


 セリーは頷き、俺の隣で静かに目を伏せた。がっかりしたというより、簡単には届かないものがあることを受け止めようとしているように見える。俺はその横顔に何か慰めの言葉を重ねる代わりに、彼女がまた話したくなるまで待つことにした。


「……それでも、主様。私は、残された願いを大切にしたいと思います。ご本人へ何かを届けられるか分からない今は、勝手に意味を変えないことを選びたいです。それから、もし安全に確かめられる方法が見つかったら、そのときはまた主様と相談させてくださいませ」


「もちろん。俺も一緒に考えたい。今はあの子に直接何かできるとは言えないけど、知らないまま決めつけずに記録を残していこう。今日みたいに小さな違いを見つけることから、次の方法が見えるかもしれないから」


 彼女は安心したように微笑み、俺へ手を差し出した。俺がその手を取ると、窓の外で弱い風が枝を揺らし、暗くなった森の中から乾いた葉の擦れる音が聞こえてきた。遠い町へ出かけることは今回は見送ったが、塔の中にはまだ二人で考えたいことが残っている。それを義務のように感じず、自分たちの暮らしの一部として選べることが、今の俺には何よりありがたかった。


 休む時間になり、俺たちは今日作った比較表の保管場所を確認した。古い資料の分類を表す語と、俺たちが後から付けた印は、見誤らないよう別々に説明してある。明日すぐ作業を続けるかどうかは決めなかったが、次に参照するときに、今日どこまで確かめたかを分からなくしないためだった。


 セリーは自分の布袋を抱え、明日の朝も天気がよければ花を見たいと話してくれた。俺は笑って頷き、そのほかにやりたいことが思いついたらまた相談しようと答える。彼女はおやすみなさいと微笑み、廊下の先へ歩いていった。


 自室へ戻った俺は、机の端に置かれた覚え書きへ最後に目を向けた。三〇八号室の少年の願いが残る紙は、閲覧用の記録である可能性がある。しかし今日、閲覧用の記録にも少なくとも分類上は異なる二つの形式があると分かり、余白の不完全な文字だけではどちらなのか確かめられないことが、以前よりはっきりした。


(あの子の声を聞きたいと思うことは、間違いじゃない。でも、聞こえない部分まで俺の想像で埋めたら、そこに残った言葉を大切にしてるとは言えないよな。今日は原本を傷めずに確かめられることがあった。それを忘れずにいよう)


 灯りを落とすと、窓の外に広がる秋の森は静かな闇へ沈んでいた。南側通路の石の台も、帰還管理所や古い書簡の謎も、今夜は新しい答えを示していない。けれど、今はすべてを同時に調べる必要はなく、どれも大切に残しながら、一つずつ向き合う道を選べばよかった。


 俺は寝台へ身を横たえ、夕食のあとで見せてもらったセリーの花の絵を思い返した。同じ花を見ても、彼女が綺麗だと感じたところを俺は見落としていたかもしれない。だからこそ、知らない誰かの言葉を読むときにも、自分の見方だけで全部を決めたくなかった。


 古の塔に、穏やかな夜が訪れる。明日、セリーがどんな花を見つけるのかも、俺がどんな記録を読みたくなるのかも、まだ決まっていない。それでも、何かを知りたいと思う気持ちと、今あるものを守りたい気持ちを、これからも二人で確かめ合えるだろう。そう思いながら、俺はゆっくり目を閉じた。

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