第179話 参照先が変わった一行と、名前のない願いの行方
窓の向こうで、細い枝が朝の光を受けて揺れていた。葉を落とした木々の間から見える空は昨日よりも広く、森の奥にある低い斜面まで、淡く白んだ色が続いている。寝台から起き上がった俺は、冷えた床に足を下ろしてから、机の上に置いた調査表へ目を向けた。
昨夜セリーと確認したのは、古い保管案内にある二種類の変更記録だった。一つは資料や保管単位が置かれる場所そのものに関係するもの、もう一つは閲覧する者がどこを参照するかという案内先に関係するものだ。どちらも資料を探す手掛かりにはなりそうだったが、三〇八号室の少年の記録が実際に移された証拠は、まだ一つも見つかっていない。
(今日は、その二つを区別したまま、実際の一覧に何が書かれているか見てみたい。だけど、番号だけが似ているものを少年の資料だと思い込まないようにしないとな)
俺は昨夜の覚え書きを手に取り、セリーが新しく設けてくれた参照元の欄を読み直した。確認できた場所と、確認できなかった範囲を別々に残すための表だ。そこには、見つからなかったことまで記録するという彼女の考えが、使いやすい形になって残っていた。
扉を叩く音がしたのは、表を畳み終えた頃だった。返事をすると、セリーはいつもの丁寧な挨拶とともに、今朝は少し冷えますね、と笑いかけてくれる。手元には自分の布袋があり、もう片方の手には、昨夜机へ置いた落ち葉の小皿が載っていた。
「おはよう、セリー。葉を持ってきたんだね。昨日より形が変わったのかな」
「おはようございます、主様。はい。縁の一部がさらに反っておりましたので、お部屋へ持っていく前に、もう一度お見せしたいと思いました。私、この葉を今日あたりお庭へ戻そうかと考えておりますが、その前に絵を描くかどうか、少し迷っているのです」
彼女は皿を傾けないように持ち直し、俺が見やすい高さにしてくれた。落ち葉の縁は昨日よりも脆そうに見え、赤い部分にも乾いた茶色が広がっている。ただし、昨日とは光の当たる角度が違うため、色の変化についてはすぐに結論を出せなかった。
「描きたいなら描いていいし、もう十分だと思うなら戻してもいいよ。セリーが見たくて拾った葉だから、どうするかもセリーが選んでいい。俺は一緒に庭まで行けたら嬉しいな」
その言葉に、彼女は小さく頷いた。今すぐ答えを決めるのではなく、朝食を食べてからもう一度考えたいらしい。俺たちは小皿を安全な場所へ置き、食堂へ向かうことにした。
廊下を歩くあいだ、窓に映る二人の姿が朝日と一緒に動いていた。セリーは外へ出るなら厚めの上着がよさそうだと教えてくれたが、着るかどうかまでは決めず、俺の考えを尋ねる。俺は少し冷えていたので一枚重ねたいと答え、彼女も今日はそうするつもりだと話してくれた。
朝食には温かな野菜のスープと、手のひらほどの丸いパンが用意されていた。表面は軽く色づき、ちぎると湯気とともに穏やかな香りが広がる。俺は一口食べてから、セリーが昨日話していた厚さの違いを思い出したが、今日は試験をするように味わうのではなく、美味しいものを美味しいと伝えたかった。
「今朝のパンも美味しいよ。外が冷えてるから、こういう温かい朝食は嬉しいね。セリーは今日はどんな予定にしたい?」
「ありがとうございます。私は、お庭へ葉を戻すかどうか決めたあと、主様と昨日の一覧を確かめたいです。ただ、保管されている資料の中身を次々に開くのではなく、案内の表だけで分かることを先に調べたいと思っております」
俺も同じ考えだと伝えると、セリーは安心したように微笑んだ。彼女は今朝のうちに葉の絵を少し描き足してから、庭へ戻すことにしたらしい。いつまでも元の姿に保とうとは思っていないが、拾ってから形が変わっていく様子を見られたことは、自分の記録として残しておきたいという。
「私、実物をずっと持っていなければ、あの日に綺麗だと思ったことまでなくなるような気がしていたのかもしれません。でも、何日か眺めて絵に描くうちに、そうではないと分かってきました。今日は、自分で戻すと決めたいのです」
「うん。俺も一緒に行こう。葉を置いた場所まで特別な印をつける必要はないだろうし、庭の状態を見て、無理なく戻せるところがあればいいね」
食後、セリーは小皿を窓辺に置き、昨日の絵の隣へ新しい線を少し加えた。朝日の角度も書き添えると、紙に描いた色が実物と同じではなくても、今朝見た姿を思い出せると話す。俺はその間、外へ出るための上着と筆記具を用意し、彼女が納得するまで急かさずに待った。
塔の入口を開けると、乾いた葉が一枚、敷居の近くを滑っていった。庭の石畳には日が差していたものの、壁際の陰には湿りの残る部分があり、俺たちはいつもの安全な道を選ぶ。セリーは小皿の上の葉が風で飛ばされないよう布を軽くかけ、庭の鉢が見える位置まで歩いてから足を止めた。
支えを外した花は、今日も少し横を向いたまま咲いていた。茎の色が周囲と違う箇所はまだ残っているが、離れた場所から確認できる範囲では大きな裂け目は見つからない。セリーは短くその姿を記録し、昨日と今日の光の条件が違うことも書き添えると、鉢の周囲には触れずに小皿へ目を戻した。
「主様。この葉は、花の鉢のそばではなく、もともと落ち葉が重なっているところへ戻そうと思います。お花の状態を確かめるために見ている場所へ、私が新しいものを置いて変えてしまいたくありませんので」
「それがいいと思う。今の俺たちが何かを置いたせいで、あとから庭の状態を勘違いしたら困るからね。通り道から届く範囲に乾いた落ち葉の場所があるか、まず見てみよう」
少し先の石畳の縁には、風で寄せられた落ち葉が重なっていた。そこへ近づく必要がない位置を選び、セリーは小皿から葉をそっと滑らせる。薄い葉は風を受けて一度だけ裏返り、ほかの落ち葉に重なるようにして止まった。
彼女はしばらくその場所を眺めていたが、葉を元の向きに直そうとはしなかった。俺が表情をうかがうと、少し名残惜しそうにしながらも、満足したような笑みを浮かべている。拾ったときとは形も色も変わった葉を、自分で庭へ戻すと決められたことが嬉しいのだという。
「主様。私は、手元からなくなると寂しくなると思っておりました。でも、今は絵を残してありますし、拾ったときに何を感じたのかも覚えております。少し寂しい気持ちはございますが、自分で戻せてよかったです」
「俺も一緒に見られてよかったよ。形が変わっていくところを毎日見せてもらえたしね。セリーが何を綺麗だと思ったのか、俺にも少し伝わった気がする」
彼女は俺を見上げ、嬉しそうに頷いた。庭から塔へ戻る短い道のりで、俺たちは急いで何かを話そうとせず、枝の間を抜ける風の音を聞いていた。葉を手放したことが、大げさな別れになるわけではない。ただ、彼女が自分で決めた小さな区切りを、俺も一緒に大切にしておきたかった。
作業部屋へ戻る頃には、朝の冷え込みが少し和らいでいた。セリーは空になった小皿を片づけ、自分の布袋から記録用の紙を取り出す。俺も昨日の表を広げ、今日の目的として『変更記録の実例を、個人の詳細へ踏み込まずに確認する』と書いた。
「セリー。今日は、最初に保管場所そのものを変えた記録と、案内先だけを変えた記録を分けて見よう。三〇八号室の元記録が見つかるかどうかを最初の目標にすると、ほかのものまで探してしまいそうだからね」
「はい。私は、どちらの記録を見たのか分かるよう、参照元も一緒に残します。それから、同じような番号を見つけても、すぐに少年の資料と考えないようにいたします」
俺は腕輪へ目を向け、エルに既存の保管案内を参照できるか尋ねた。古代資料の分類名と変更履歴について、これまで確認した範囲から始めたいことも伝える。エルは少し間を置いてから、必要な欄の構成と、判読できる変更記録の一覧を示してくれた。
『主様。資料または保管単位の位置を変更した履歴と、閲覧時の参照先を変更した履歴を区別して提示できます。ただし、どちらも記録されている範囲に限られ、すべての変更を網羅していることは保証できません』
「分かった。まずは、どんな欄があって、実際の記載がどのように並んでいるか見たい。個別の人物の記録は、今の目的に必要な場合を除いて開かないつもりだよ」
表示された一覧には、変更前と変更後の保管位置を示す欄が並んでいた。ある行は保管単位の位置が改められたことを示しているように見えたが、資料の中身や個別の利用者については、そこから読み取れない。俺たちはその一行を例として欄の使い方だけ確かめ、数字や記号の意味を勝手に広げないよう、必要な部分だけを別紙へ写した。
次に、閲覧先を変更した記録へ移る。こちらは旧い案内から新しい案内へ参照を切り替えるための欄があり、紙そのものを別の場所へ運んだことを示す記載とは形式が異なっていた。俺は昨日の理解を確かめるつもりで読み進めたが、一覧の途中で、見慣れた数字が目に入った。
そこには『三〇八』という数字があった。ただし、その周囲に書かれているのは保管対象の個別番号ではなく、古い療養施設の居室別の案内を示す欄らしい。俺は思わず身体を前へ傾けたものの、すぐに手を止めて、数字の前後を慎重に見直した。
(同じ三〇八だ。でも、塔の中には別の分類で同じ数字が使われていてもおかしくない。これが少年の記録につながるとは、まだ言えないな)
セリーもその数字に気づいたようで、俺の方へ視線を向けた。彼女は少し驚いた表情を浮かべたあと、すぐに指先を膝の上で重ね、何を確認できているか尋ねる。俺は目の前の一覧にあるのが居室別の参照を示す項目らしいことを伝え、まずは同じ数字が何を指しているのか確かめようと答えた。
「主様。私も三〇八という数字が見えましたので、少し胸が高鳴りました。でも、これは保管してある紙の番号ではなく、お部屋に関係する案内なのでしょうか。もしそうでしたら、少年の願いそのものを示すものではございませんね」
「うん。その可能性があるね。まず『三〇八』が何の番号として使われているのかを、欄の見出しから確かめよう。それが居室番号でも、少年の資料と同じものを指すかは別に考えたい」
エルへ確認すると、該当行は居室別の閲覧案内に関係する記載だと判断できるものの、欄の一部が判読しにくいため、どの個別資料が対象だったかまでは確定できないという。俺はその説明を聞いて頷き、数字だけを強調するのではなく、参照元の種類と判読できた範囲を一緒に書き込むことにした。
『主様。該当する行は、三〇八という居室番号に関係する閲覧案内の一項目である可能性が高いと判断されます。ただし、この記載から三〇八号室の特定の少年、またはその願いを記した元資料との対応は証明できません』
「ありがとう、エル。じゃあ、居室別の案内に三〇八の項目がある可能性を確認した、というところまでだね。次に、何をどこへ案内し直したのか、見える範囲だけ確かめてみよう」
俺たちは周囲の文字を少しずつ読んでいった。旧い参照先を示す欄には、居室ごとの閲覧記録を探すための分類が記されている。変更後の欄には、生活上の希望を扱う記録群を参照するよう促す表記が見えたが、そこにどのような内容が含まれるのか、そしてどの時期の資料を対象としたものかは、今の一覧だけでは分からなかった。
俺は一度、筆記具を置いた。三〇八号室の少年の願いを思い浮かべれば、『生活上の希望』という言葉に強く引かれる。しかし、古い施設にいた人々の希望は少年一人のものではないだろうし、居室番号が同じだからといって、その願いがこの変更記録の対象だったとは限らない。
「セリー。ここには『生活上の希望』に関係する分類へ案内し直したような記載がある。でも、それだけでパンの香りの記録だって決めるのは早いよね。同じ部屋に関係する記録が複数あったかもしれないし、時期だってまだ分からないから」
「はい。私も一瞬、少年のお望みが移されたのではないかと思いました。でも、今見えているのは閲覧の案内先を変えた可能性があるという記載で、紙を運んだ証拠ではございませんものね。それに、どの方の記録なのかも分かっておりません」
セリーは自分の言葉を確かめるように頷き、比較表の欄を指で示した。俺たちは『三〇八の居室別案内に関係する可能性がある行を確認』『変更後の参照先には生活上の希望に関係する分類の表記が見える』と分けて書く。そこから先の『少年の願いが移された』という解釈は書き込まず、未確認事項として別欄へ残した。
記録を整え終えると、セリーは自分の胸元に手を添え、長く息を吐いた。見慣れた数字と少年の願いを連想させる言葉を見つけたことで、気持ちが大きく動いたらしい。彼女が何を考えているか全て分かるわけではないが、今朝の葉を庭へ戻したときとは違う、少し切実な表情が見えた。
「主様。私は、少年のお望みに近づいたのではないかと、嬉しくなりました。けれど、同じ数字を見つけたというだけで喜んでしまうと、ほかの方の記録までその少年のものとして扱ってしまうかもしれません。……今は、少し落ち着いてから続きを見たいです」
「うん。俺も同じ気持ちだよ。今日初めて、居室別の案内と希望の分類が同じ行に見えるところまで来た。でも、そこに誰の願いがあったのかは知らない。焦って決めつけるより、ここで一度休もうか」
彼女は頷き、作業机からゆっくり立ち上がった。資料を開きっぱなしにせず、どの一覧を見ていたか分かるようにしてから、俺たちは廊下へ出る。外の空気は朝より暖かくなっていたが、石壁に囲まれた通路には穏やかな冷たさが残っていた。
食堂へ向かう途中、セリーは少しだけ歩調を緩めた。何かを言おうとして迷っているようだったので、俺も足を止めて彼女の方を向く。彼女は視線を伏せたあと、自分がさっき一瞬だけ願いを叶える方法まで考えてしまったと話してくれた。
「主様。私はあの一覧を見たとき、少年の元の記録が見つかったなら、パンの香りを届けられるかもしれないと思いました。でも、元の言葉を知ることと、今の状態を知ることは別でしたね。嬉しい気持ちが先に進んでしまったようで、少し恥ずかしいです」
「恥ずかしがることはないと思うよ。俺だって、あの数字を見た瞬間に続きを全部読みたくなった。でも、そこで止まって考え直せたんだから、それでいいじゃないか。願いを叶えたいと思うこと自体は、悪いことじゃないよ」
セリーは俺の顔を見て、少しだけ微笑んだ。自分の中に生まれた期待をすぐ消してしまうのではなく、今の段階では期待でしかないと受け止めようとしているようだった。俺も同じ気持ちを抱えながら、彼女の隣を歩いて食堂へ入った。
昼食には野菜を煮込んだ温かな料理と、朝に焼いたパンの残りを添えた。食卓へ着くと、厨房の湯気が窓の近くでゆっくりと薄くなり、外からは遠い鳥の声が聞こえる。俺たちはすぐに調査の話へ戻らず、料理の味や今日の天気について話しながら食べ始めた。
「主様。今朝の葉を戻してから、私は少し寂しくなると思っておりました。でも、お食事をしていると、あの葉を何日か眺められたことを嬉しく思います。形を残すことだけが大切なのではないと、少しずつ分かってきたのかもしれません」
「俺も、あの葉を毎日見せてもらえたのが嬉しかったよ。庭へ戻したからって、セリーが描いた絵までなくなるわけじゃないしね。……古い資料も、元の紙が残っているか分からなくても、今読める記録を大切に扱うことはできると思う」
俺はそこで少し言葉を切った。葉と古代の記録を同じものとして扱うつもりはない。誰かの願いが書かれた資料には、残してきた人々の事情もあり、今の俺たちが好きなように手放してよいものではない。その違いも含めて話すと、セリーは静かに頷いた。
「はい。私は、あの葉を自分で拾って、自分で戻すことを選びました。でも、古い記録は私のものではございませんし、そこに書かれた方の言葉をどう扱うかには、別の責任があるのだと思います。似ているところがあっても、同じように決めてよいわけではないのですね」
彼女はそう話してから、自分の器へ目を落とした。俺は、セリーが自分の経験を手掛かりに考えながらも、無理にすべてへ当てはめないようにしていることが嬉しかった。二人で過ごす日々から学べることは多いが、それが誰かの事情を理解した証拠になるわけではない。だからこそ、今は資料を読み直す際にも慎重でいたかった。
昼食後、俺たちはしばらく休むことにした。セリーは窓辺へ座り、自分の布袋から今朝描いた落ち葉の絵を取り出した。俺も向かい側の椅子へ腰を下ろし、石壁に落ちる光の形を眺める。外へ出て何かをする予定はなかったが、こうして同じ部屋でそれぞれの時間を過ごせることが、今は心地よかった。
「主様。午後は、あの三〇八の記載をもう少し確かめたいです。ただ、ほかの方の記録の中身へ踏み込まず、参照先の分類がどうつながっているかを見るところまでにしたいと思います。主様はいかがでしょうか」
「俺もそれがいい。旧い案内と新しい案内で何が違うのか分かれば、次に何を確かめるか考えやすいだろうしね。もし表だけでは先へ進めないなら、今日はそこで終わりにしよう」
セリーは頷き、絵をしまった。作業机へ戻ると、午前中に書いた表がそのまま残っている。俺たちは今度こそ、見慣れた数字に引かれてほかの欄を読み飛ばさないよう、旧い参照先と新しい参照先の見出しを並べて確かめた。
旧い案内は居室を基準にして必要な記録を探す形式らしかった。変更後の欄は、生活上の希望という内容の種類を基準にする分類へ案内しているように見える。だが、そこに書かれているのが単に閲覧の入口を変えるためのものであれば、原記録を別の場所へ移したことにはならないし、同じ内容がどちらにも残っていた可能性さえ否定できなかった。
「セリー。これ、俺たちが最初に思ってた『移された』って言葉とは、ずいぶん違うかもしれないね。居室ごとに探していたものを、内容ごとの案内から探すようにしただけなら、元の紙がどこにあるかは別の情報になる」
「はい。私は、変更後の分類に少年のお望みが書かれている可能性を考えてしまいました。でも、そこへ案内されることと、その分類の中に何が残っているかは別ですね。まず、案内の仕組みとしてどこまで確かめられたかを残したいです」
俺たちは言葉を選び直し、『三〇八の居室別閲覧案内に関係する可能性がある項目から、生活上の希望を扱う分類への参照先変更が記録されているように見える』と書いた。断定が難しいところはその理由も添え、判読できなかった箇所を空白のまま残す。文章は少し長くなったが、短くするせいで意味が変わるよりはよかった。
そのとき、エルから別の注意があった。旧い参照先と新しい参照先の名称が並んでいても、閲覧先の変更がいつ実施されたかについては、今見ている一覧の範囲では十分に確かめられないという。俺はそこで日付の欄を探したが、判読できる部分だけでは成立時期と更新時期の区別がつかなかった。
『主様。該当する変更案内の時期を示す情報には、現在判読できない部分がございます。この一行が三〇八号室の少年に関する記録より前に作成されたのか、後に作成されたのかは判断できません』
「なるほど。時期が分からないなら、あの願いが記録されたあとで参照先が変わったって考えるのも早いね。数字と分類だけじゃなく、順番もまだ分かってないんだ」
「はい。私、時間の前後まで考えておりませんでした。後から案内が変わったように感じましたが、いつの記録なのか分からないのですものね。そこも空欄として残しておきたいです」
セリーは新しい紙に『時期の対応未確認』と書き加えた。俺も頷きながら、読み取れない箇所を無理に補おうとはしなかった。資料ができた順番を知らないまま関係を推測することは、かつて自分について書かれた報告を一方的に受け取ったときの危うさを思い出させる。
王宮で俺に向けられた疑いも、誰がいつ何を知っていたかを取り違えれば、簡単に別の意味へ変わってしまう。だからといって、目の前の古代の管理記録が俺の冤罪と同じ事情を持っているとは考えない。それでも、順番や出どころを確かめることの重みは、今の俺には以前より強く感じられた。
(あのときの俺は、もっとちゃんと聞いてもらいたかった。誰かが書いたものだけで決めつけないでほしかった。でも、その思いを理由に、今度は俺が誰かの記録を勝手に決めつけたら同じことになるな)
気づけば、俺は紙の端へ置いた手に少し力を込めていた。セリーが筆記具を置く音で顔を上げると、彼女は俺の手元を見てから、無理に問いたださずに声をかけてくれる。疲れたなら今日はここまででもよいと言われ、俺は一度深く息を吐いた。
「ありがとう、セリー。少し昔のことを思い出してたんだ。でも、もう少しだけ今日の記録を整えたい。俺が急いで変な結論を書きそうになったら、止めてくれるかな」
「もちろんでございます。ですが、主様。私も見慣れた数字を見つけて、気持ちが先に進んでしまいました。ですから、お互いに確かめながら書きましょう。どちらか一人だけが気をつければよいことではないと思います」
その言葉に、俺は少し笑った。彼女は俺が元王太子だからといって、すべての判断を任せてしまうわけではない。自分の考えを持ち、それを伝えてくれる。そのことが、今は何より心強かった。
俺たちは午後の最後の作業として、三つの紙を並べ直した。少年の願いとして記録された内容に関する覚え書き、閲覧用の資料分類の比較表、そして今日確認した参照先変更の一覧である。互いに関係があるかもしれないが、現時点では直接の対応を示す識別情報を確認できていない。そこで、三つを一枚へまとめず、どの紙から何を知ったかが分かる形のまま保管することにした。
「主様。私は、今朝の数字を見つけたことを忘れたくありません。でも、少年のお望みがそこへ移されたと書いてしまったら、次に見るときにそれを本当のことだと思ってしまいそうです。ですから、『関連を調べる候補』として残してもよろしいでしょうか」
「うん。それがちょうどいいと思う。三〇八っていう居室番号と、生活上の希望を扱う分類への案内が同じ行に見えた。それは今日の手掛かりだ。でも、あの子の原記録を見つけたわけじゃないし、今の状態も分からない。そこを忘れずに置いておこう」
セリーは頷き、現在の俺たちの印を一つだけ紙の端へ添えた。古代の記号とは混同しない形にしてあり、意味は別紙に記してある。今日の記録には新しい名前をつける必要もなく、既存の分類名をそのまま使って、確かめられたことだけを保存できた。
作業を終える頃には、窓の外が少し赤みを帯びていた。通信の魔導具にはブラートからの新しい返事は届いておらず、セリーもそれを一度確かめただけで、すぐに別の作業へ向かった。彼女は今日は自分の手紙のことよりも、古い資料に触れずに調べる方法を一緒に考えられたことが嬉しいと話してくれた。
「主様。今日は何かの答えが出たわけではございませんが、三〇八という数字を見つけたとき、私は本当に嬉しかったです。その気持ちは、後から間違いだと分かったとしても、なくさなくてよいのでしょうか」
「なくさなくていいと思うよ。何かつながりがあるかもしれないって期待したのは、セリーの本当の気持ちだからね。ただ、その期待だけを証拠の代わりにしないでおけばいい。俺だって、今日は少し嬉しかったよ」
彼女はほっとしたように目を細めた。俺は、期待することをやめる必要はないのだと自分にも言い聞かせていた。知らないものへ向き合うとき、何も感じずに調べ続けることはできない。それでも、感じたことと確かめられたことを分けて扱えば、誰かの残した言葉を勝手に変えずに済むはずだった。
夕食の支度を始めると、厨房には温かな香りが広がった。セリーは今日は野菜を少し大きめに切りたいと話し、俺には器を並べることを頼んでくれる。午前中のパンの話を思い出して、俺たちは食材の形によって食べやすさがどう変わるかを話しながら、ゆっくり料理を仕上げた。
食卓に着くと、外はすっかり暗くなっていた。窓の向こうで枝が揺れ、石壁に灯りの影が落ちる。二人で作った料理を味わいながら、俺は今日の調査が終わっても、頭の中に三〇八という数字が残っていることに気づいた。
「主様。まだ考えていらっしゃいますか」
セリーは責めるような口調ではなく、少し心配そうに尋ねた。俺は頷き、同じ数字が見つかったことを喜びながらも、どこまでつながっているのか分からないのが気になっていると話す。彼女はすぐに何かを解決しようとはせず、自分も同じだと静かに返してくれた。
「私は、少年のお望みがどのように記録されたのか、もっと知りたいです。でも、今日の一覧だけではまだ届きませんでした。だからこそ、次に確かめるときには、今日作った表を使いたいと思います。急いで資料を開くのではなく、どの案内が何を指すかから考えたいです」
「うん。俺もそうしたい。次に調べるなら、今日見つけた分類がどの時期のものなのか、あるいは三〇八の行がどの範囲を対象にしてたのか、そのあたりが気になる。でも、今夜のうちに決めなくても大丈夫だよね」
セリーは笑顔で頷いた。俺たちは食事を続け、今日の葉の絵や庭の花のことも話した。さっきまで胸に残っていた緊張が、温かな料理を味わううちに少しずつ和らいでいく。調査の続きを考えることは大切だが、そればかりを一日の終わりまで抱え続ける必要はないのだろう。
食後、二人で窓辺へ移動した。森は暗く、遠くで風が枝を揺らす音だけが聞こえている。セリーはしばらく外を眺めていたが、やがて俺の方へ顔を向け、手を差し出してくれた。
「主様。私は今日、三〇八という数字を見つけたときに、主様も少し驚いていらっしゃるように見えました。それでも、すぐに答えを決めずに一緒に確かめてくださったので、私も落ち着いて考えられました。ありがとうございます」
俺はその手を取り、柔らかく握り返した。指先から伝わる温かさに、作業机で数字を見つけたときの緊張が少し遠のく。セリーは俺を見上げ、頬をわずかに染めながらも視線を逸らさなかった。
「こちらこそありがとう。セリーが『それはまだ分からない』って言ってくれたから、俺も急がずに済んだ。二人で調べるって、こういうことなんだろうね」
「はい。私は、主様の考えを聞けることが嬉しいです。それから、自分の考えもお伝えしてよいのだと思えることが、今の私にはとても大切でございます」
彼女はそう言って微笑み、俺の手を少しだけ強く握った。俺も隣にいる彼女の姿を見ながら、王宮にいた頃の自分なら、分からないことを誰かと同じ目線で考える時間をどれほど持てただろうと思った。今は立場よりも、互いの判断を聞けることが嬉しい。そうした暮らしを、これからも守っていきたかった。
休む時間になると、俺たちは手を離し、今日の記録を所定の場所へ戻した。三〇八の数字が見える変更案内は参照元を残したまま保管し、原記録そのものを見つけたようには扱わない。次に読み返したとき、今日何を確かめ、何を知らないまま残したかが分かるようにしておく。
セリーは自分の布袋を持ち、おやすみなさいと微笑んだ。俺も挨拶を返し、彼女が廊下の先へ向かうのを見送る。今朝、落ち葉を庭へ戻した彼女は、夜には古い目録の新しい手掛かりを、自分の判断で分類して残している。どちらも彼女自身が選んだことであり、俺はその一日を一緒に過ごせたことが嬉しかった。
自室へ戻り、机の上に置いた控えへ最後に目を向ける。古い療養施設の居室別の案内から、生活上の希望に関する分類へ参照先を変えた可能性がある一行。そこに三〇八という数字が見えたことは、確かに今日の発見だった。しかし、その一行が少年の願いへ直接つながるかどうか、原記録がどこかに残されているかどうかは、今も分からない。
(見つけたかったものに似た手掛かりが現れると、どうしても先を急ぎたくなる。でも、今は一つずつ確かめるしかないし、それでいい。あの子の願いを、俺の期待だけで別のものにしてしまわないようにしよう)
灯りを落とすと、窓の外の森は深い闇に沈んでいた。南側通路の石の台も、古い書簡も、帰還管理所の謎も、今夜は新しい答えを示していない。それでも、今日見つけた一行は、次にどこを確かめればよいか考えるための確かな手掛かりになりそうだった。
俺は寝台へ横たわり、昼間、数字を見つけたときのセリーの表情と、夜に手を握ってくれた温かさを思い返した。まだ聞けない少年の声へ向かう道がどこに続くのか、今は知らない。けれど、知らないことを恐れて答えを急ぐより、セリーと一緒に残された言葉を大切に扱っていきたい。そう思いながら、俺は静かな秋の夜に目を閉じた。




