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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第177話 閉じた記録の行き先と、二人で見つけた探し方



 朝の光は、窓の下枠に積もった細かな埃まで見えるほど澄んでいた。昨夜は風が弱かったらしく、塔の入口へ続く石畳には、昨日とほぼ同じ場所に落ち葉が残っている。俺は上着の袖を通しながら、その向こうにある森の色を眺めた。葉を失い始めた木々の間から、これまで隠れていた遠い斜面が、ほんの少しだけ見えるようになっていた。


 机の端には、昨日セリーと作った比較表が置いてある。閲覧用の記録には、少なくとも目録の分類上、内容を選んでまとめる形式と、別の記載を書き移す形式があった。ただし、その区別がどの時期にも同じ意味で使われていたとは限らず、三〇八号室の少年に関する傷んだ紙がどちらに当たるかも判明していない。


(分類が二つあると分かったのは収穫だけど、それだけじゃ原記録の場所は探せない。次は、どういう手掛かりを使って資料を探せば、関係のない人の記録まで開かずに済むか、そこを考えたいな)


 俺は昨日の比較表へ手を伸ばし、裏側にセリーが書いた小さな印の説明を読み直した。確認できた文字と、解釈を保留している部分とを見分けるための印で、昔の施設で使われていた符号とは似ないように作られている。書き足したばかりの細い線は不揃いなところもあったが、今の俺たちには十分分かりやすかった。


 扉を叩く音がして、セリーの朝の挨拶が聞こえた。俺が返事をすると、彼女は布袋を片手に持って廊下に立ち、庭の様子を確かめたいと話してくれた。そのあと少しためらうように袋の口へ指を添え、今日は作業机の上で試してみたいこともあるのだと続ける。


「おはよう、セリー。庭は朝食のあとで見ようか。試してみたいことって、昨日の分類表の続きかな」


「はい。ただ、目録をたくさん読むことではございません。昨日、私たちが作った印を見ていて、必要な部分だけ確かめる方法を、もう少し考えられるのではないかと思ったのです。うまく説明できるか分かりませんが、お食事のあとにお聞きいただけると嬉しいです」


 セリーは言い終えると、安心したように微笑んだ。以前の彼女なら、自分の考えがまとまってからでなければ話してはいけないと思っていたかもしれない。今はまだ曖昧な考えでも、俺と相談しながら形にしてよいと思ってくれているらしい。


「もちろん。俺も昨日の表を見て、次に何を探すか考えてたんだ。セリーの案を聞くのが楽しみだよ。まずは朝食にしよう」


 食堂へ向かう廊下では、足元の石がいつもよりひんやりしていた。窓の外の葉は赤や茶色が多くなり、空気は明るいのに季節が深まっているのが分かる。セリーは俺の隣を歩きながら、今日は厚めの上着を用意しておいた方がよさそうだと教えてくれたが、着るかどうかは庭へ出るときに自分で決めてほしいとも付け加えた。


 食卓には温かな野菜の煮込みと、丸く焼かれた二人分のパンが用意されていた。先日からセリーは大きさを少しずつ変えているが、今朝のものは一つを手で割っても形が崩れにくく、湯気の立つ皿にも添えやすそうだった。俺がそのことを伝えると、彼女は嬉しそうに頷いたあと、自分では少し表面が硬くなったように感じると話してくれた。


「焼く時間を変えられたの?」


「はい。少しだけでございます。ただ、昨日とは粉の量も違いますので、時間だけが理由とは限りません。私は今日の食感も好きですが、主様が召し上がりにくければ、次にはまた考えたいと思います」


「これも美味しいよ。俺は具を添えるなら今日の方が持ちやすい気がする。でも、スープへ浸すなら前の柔らかいのも好きだな。用途で選ぶって、昨日セリーが言ってたとおりだね」


 セリーは自分のパンを割り、断面を確かめながら微笑んだ。食事の感想を正解探しにしなくなってから、彼女は味だけでなく、持ちやすさや温度についても自然に話すようになった。俺自身も、王宮で整えられた料理を評価する癖から少し離れ、二人の暮らしに合うかどうかを考えられるようになっている。


 朝食が終わる頃、セリーはブラートへ送った二通目の文章についても、ひと言だけ話してくれた。昨日は新しい返事が届かなかったが、それを確かめるために何度も通信の魔導具へ足を運んだりはしなかったという。今朝も返事は気になるものの、届く前から相手の反応を決めつけてしまいたくないらしい。


「私の好きなものについて、あれだけ考えてお送りできたのですから、まずは自分の言葉を大切にしたいと思います。もしブラート様がお忙しければ、お返事がなくても、それは私の文章が悪かったということではございませんものね」


「うん。ブラートがどう受け取ったかは、本人から聞かなきゃ分からないからね。通信が来たら確かめよう。今日は俺たちがやりたいことを先に考えていいと思うよ」


 セリーは頷き、器を片づけるために席を立った。俺も一緒に手伝うと、彼女は礼を言いながら、自分の皿は自分で運びたいと笑った。何でも分担を半分ずつにすることが大切なのではなく、そのときに互いがどうしたいかを聞けることが、今の俺たちには心地よかった。


 食後、厚めの上着を着て庭へ出た。石畳の表面は朝日を受けて乾いていたが、木陰に寄った落ち葉の下までは確かめられない。俺たちはいつもの通り道を離れず、支えを外した花が見える位置までゆっくり歩いた。


 花は昨日と近い向きで咲いていた。茎の一部に残る色の違いはまだ見えたものの、大きな裂け目や急な折れは、離れた場所から確認できる範囲にはなかった。ただ、昨日セリーが気にしていた花びらの重なりが少し増えたようにも見え、彼女は前日の絵と今の姿を見比べながら、光の方向も一緒に記している。


「主様。昨日は、この花びらが内側へ向いたように見えると書きました。今日は少し重なっておりますけれど、昨日より進んだ変化なのか、見る角度の違いなのかは分かりません。私は、今の形だけを残しておきたいです」


「うん。俺もそう思う。今は花そのものに触れずに済んでるし、必要だと思うことが見つかるまでは、このまま観察を続けよう。……昨日と今日の絵が並ぶと、同じ花でも違うところに目が行くな」


 セリーは微笑み、今朝の絵の横へ日差しの向きを書き添えた。彼女の線は花びらの曲がり方をよく捉えていて、俺がただ眺めていただけでは気づかなかったところも見えてくる。俺はその絵が好きだと伝えたが、だからといって共有用の記録を彼女の絵に合わせて書き直す必要はないと思った。


 庭を戻る途中、風が石畳へ落ちた葉を転がし、セリーの靴先近くで止めた。彼女はそれを拾う前に足元を確かめ、乾いた葉だけを一枚つまみ上げる。赤い色が端から茶色へ変わりかけており、掌へ乗せると細かな筋が光の中に浮かんだ。


「主様、こちらをお部屋で描いてみてもよろしいでしょうか。持って帰るかどうかは少し迷いましたが、今日は実物を眺めてみたいと思いました。もちろん、お部屋を汚さないようにいたします」


「いいね。まず状態を確かめて、乾いた場所へ置こうか。脆くなってるなら無理に形を保とうとしなくていいし、あとで庭へ戻したくなったらそうしてもいいよ」


 セリーは礼を言い、葉を傷めないよう手のひらへ載せた。俺たちは塔へ戻り、葉の汚れや虫がついていないか目で確かめてから、作業に使う紙とは離した小皿の上に置いた。彼女はその姿をしばらく眺め、自分で拾った葉をどのように描くか考えたいと話してくれた。


 それから、ようやく朝に聞いた提案の続きを聞くことにした。セリーは比較表を机へ広げ、昨日つけた小さな印を指さす。自分たちが使う印は、確認したこととまだ分からないことを見分けるために作ったものだが、それだけでは資料をどこから探したかを後で見失うかもしれないという。


「主様。私は昨日、似ている二つの分類について、どちらも別々に記録したいと思いました。でも、もし次に同じ分類のものを探すなら、内容を全部読む前に、その記録がどの棚や目録に載っていたか分かる方がよいのではないでしょうか」


「なるほど。分類の名前だけ並べてると、あとでどの紙で見つけたか確かめ直すことになるね。じゃあ、出どころを書く欄を作ろうか」


「はい。それから、もう一つございます。見つかったことだけを書くのではなく、探しても確認できなかった場所も残せないでしょうか。そうすれば、同じところを何度も開かずに済むかもしれません」


 俺は思わず手元の紙を見つめた。自分でも確認できたことを残す大切さは理解していたが、何も見つからなかった場所については、結果がないから書かなくてもよいと考えていた。しかし、探した場所を忘れてしまえば、古い資料を何度も出し入れすることになり、傷みを増やすかもしれない。


「それはいい案だね。記録がないって断定するんじゃなくて、『この範囲を確かめたけど見つけられなかった』って残すんだろう? そうすれば次に調べるとき、まだ見てないところが分かる」


「はい。私、同じところを何度も探すこと自体が悪いとは思いません。ただ、理由もなく繰り返すのでしたら、資料にも私たちにも負担が増えてしまいます。ですから、何を探して、どこまで確かめたかを残したいです」


 セリーの声には少し緊張があった。調査方法を変える提案は、俺がこれまで考えてきたやり方へ口を出すように感じたのかもしれない。けれど、俺はむしろ胸が軽くなるのを感じていた。自分一人で記録を追いかけるより、彼女が気づいたことを取り入れられる方が、ずっと確かな道を選べそうだった。


「ありがとう、セリー。俺もそれがいいと思う。今日は新しい資料を探すより先に、今まで見た目録を整理してみよう。元の紙をまた開く必要があるかどうかも、そこで考えられるはずだから」


 セリーは嬉しそうに頷き、俺が出した白い紙へ四つの欄を作った。探したいもの、参照した目録や場所、実際に確認できたこと、そして確認できなかったこと。以前の比較表には分類名が中心に並んでいたが、新しい紙では、なぜその資料を見たのかが分かるようにしてある。


 最初に書いたのは、三〇八号室に関係する傷んだ紙の下端に、閲覧用の記録を示す可能性のある表記が見えたという事実だった。ただし、その紙そのものは今朝取り出していないため、以前の転記を参照したことを明記する。折り目の奥は未確認、記載者も作成時期も不明。似た文字が見えたことと、分類が確定したことを混同しないため、そこにはセリーの考えた保留の印をつけた。


 次に、昨日比較した保管目録と分類一覧について書き込む。内容を選んでまとめる形式と、記載を移す形式が別々の項目として存在することは確認できた。ただし、二つがいつから使われていたか、どの程度厳密に区別されたか、三〇八号室の紙と対応するかは不明のままだ。


「こうやって書くと、どこを調べればいいのか少し見えてくるね。でも、ここに『原記録なし』って書いちゃうと違うんだよな。まだ場所を確認できてないだけなんだから」


「はい。私は『現在確認した目録の範囲では所在を特定できず』と書きたいです。それでしたら、目録以外の場所に残っている可能性まで消してしまうことにはならないと思います」


「いいね。その言い方にしよう。……今まで俺は、分からないことが多いのが少し嫌だったんだ。でも今は、何を調べていないかまで分かれば、次の作業を決めやすいんだな」


 セリーは少し照れたように笑ったあと、自分の印を一つだけ欄の端へ加えた。古代の記録に元からあった記号と間違えないよう、用紙の上に『現在の私たちの記録』と小さく記す。俺はその手つきを眺めながら、自分の名前で手紙を送った彼女が、今度は二人の調査方法そのものを形にしているのだと気づいた。


 作業を進めるうちに、以前の覚え書きに書かれた『未発見』という短い言葉が気になった。何が未発見なのかを読んでも、元の資料が見つかっていないのか、該当する項目が目録に載っていなかったのか判然としない。俺はその部分を消さず、新しい紙に当時どの範囲を確かめたのか分かる部分だけを書き直した。


(短く書いて済ませたつもりでも、後から読む俺が困るなら意味がないな。あの頃は早く答えが欲しくて、見つからないこと自体を失敗だと思ってたのかもしれない)


 以前の俺なら、見つからなかったと報告することにためらいがあっただろう。王宮では、成果を求められる立場にいたし、誰かへ出す報告には結論が必要だと思っていた。けれど今、結果の出なかった調査を正確に残すことは、次に資料を探す人を助けるための行動でもある。


 そのことに気づくと、胸の奥に小さな痛みが走った。元王太子だった頃、俺についてまとめられた言葉もまた、誰かに都合よく整えられていたのかもしれない。冤罪で立場を奪われた過去を思い返せば、書かれた数行だけで人が判断される怖さを知らないとは言えなかった。


 けれど、目の前の古い資料を書いた人が同じようなことをしたと決める根拠はない。俺は筆記具を握り直し、今感じたことを資料の評価へ混ぜないようにした。そこへセリーが手を止め、俺の顔を静かに見つめた。


「主様。少しお疲れになりましたか。先ほどから表をご覧になる時間が長くなっておりますので、もしよろしければ一度お休みになりませんか。私も、書いたものを少し離れてから読み直してみたいです」


「ああ、ありがとう。ちょっと昔のことを考えてたんだ。今は大丈夫だけど、休憩した方がよさそうだね」


 俺がそう答えると、セリーはそれ以上、過去について尋ねなかった。必要なら話してほしいという表情は浮かべていたが、今すぐ答えを求めることはしない。俺は彼女のその距離の取り方がありがたく、机の上の紙へ重しを置いてから、二人で窓辺へ移動した。


 窓の外では、庭に残る赤い葉が一枚ずつ揺れている。セリーは朝拾った葉を小皿に載せ、光へ透かすような角度で眺めていた。薄くなった部分を無理に伸ばしたりせず、そのままの形で見るのが好きだと話す彼女を見ていると、さっきまで詰まっていた胸の奥が少しほどけていった。


「主様。私はこの葉を見ていると、どこが赤く、どこから茶色になっているのか気になります。でも、どうしてこの模様になったのかを全部知らなくても、今の姿を綺麗だと思えます。古い資料も同じだと言いたいわけではございませんけれど、何もかも答えがないといけないと思うと、少し苦しくなるのかもしれませんね」


「そうかもしれない。俺は何か分からないことがあると、早く解決しなきゃって思いがちだった。でも、答えを出す前に守らなきゃいけないものもあるんだよね。資料そのものも、そこに書かれた誰かの気持ちも」


 セリーは頷き、葉を皿へ戻した。俺はその横顔を見て、彼女が自分の言葉で誰かへ手紙を送るようになったことを思い出す。今のセリーは、俺がすべて決めなくても自分の関心を持ち、その扱い方を考えられる。そんな彼女と一緒なら、俺も過去の習慣から少しずつ離れられるのかもしれなかった。


 昼食の支度を始める前に、俺たちは作業机へ戻り、新しい表に記載した範囲を一度確かめた。ここまでで新しい古代資料を一枚も開いていないが、どこを既に確かめたか、どこをまだ見ていないかが以前より分かりやすくなっている。セリーは表を見つめ、次の調査では保管目録そのものの種類も確認したいと話した。


「主様。昨日、閲覧用の記録には二つの形式があると分かりました。でも、その資料を保管する側の目録も、一種類とは限らないのでしょうか。私は今朝、それぞれの出どころを書き分けていて、そこが気になりました」


 俺は返事をする前に少し考えた。目録が複数ある可能性は確かにあるが、現時点でどんな種類が存在するかは確認できていない。むやみに棚を開くのではなく、既存の保管案内や一覧に、別の目録を示す項目があるか尋ねる方が先だろう。


「いいところに気づいたね。今すぐ棚を探すより、エルに既存の案内に何が載ってるか確認してみよう。もし別の種類があっても、三〇八号室の元記録がそこにあるとは限らないから、まずは名称と役目を確かめるだけにしようか」


『主様。現在参照できる保管案内には、資料の種類を分類する一覧とは別に、保管場所の変更を記録するための項目が存在します。ただし、対象となるすべての資料について記載が揃っているか、現在も同じ保管場所にあるかは保証できません』


 エルの答えを聞いた瞬間、俺は思わずセリーへ顔を向けた。元の資料がどこにあるか探すなら、分類名だけでなく、保管場所が変わった記録を調べるという方法もあり得る。これまで俺たちは、どの棚に置かれているかを知るために目録を見ていたが、一度場所が決められたあとで移された可能性については、十分に考えていなかった。


「保管場所の変更記録か。……なるほど、最初の目録だけでは場所が分からない場合もあるんだね。もちろん、三〇八号室の資料が移されたって分かったわけじゃないけど、次に探す場所を考える手掛かりにはなりそうだ」


「はい。私、そういう項目があること自体を知りませんでした。今朝、探した場所も残したいと思ってお話ししたのですが、昔の方々も、資料がどこへ移ったかを記録する必要があったのかもしれませんね」


 セリーは嬉しそうに目を細めたあと、すぐに自分の言葉を言い直した。昔の人たちがなぜそうした項目を作ったのかは、今の時点では分からない。必要だった可能性はあるが、現存する資料が実際に移動したことを示すものではない。俺はその慎重さに頷き、まず保管案内の中の該当項目を、明日の調査候補として記しておくことにした。


 まだ昼食の準備も残っているし、今日ここで新しい分類を全部読み始める必要はない。むしろ、今見つけた『保管場所の変更記録』がどんな範囲を扱うのか、対象の資料へ何を知らせるものなのかを、次にゆっくり確かめた方がいい。俺たちは作業を中断することを互いに了承し、表を保管する位置へ戻した。


 厨房に入ると、朝とは違う温かい香りが漂ってきた。セリーは野菜を取り出し、俺へ切り分けを頼みながら、昼食には少し香りを控えた料理を作りたいと話す。俺はそれに賛成し、作業台の上を片づけて包丁を置いた。古い目録のことを考えすぎて手元が疎かにならないよう、今は食材の形と刃の位置を確かめながら作業する。


「主様。私は、今朝見つけたことが嬉しくて、少し急いでしまいそうになりました。でも、今日はここで終わりにして、明日また確かめればよいのですね。先ほど主様が、まず案内の項目を見ようとおっしゃってくださったので、落ち着いて考えられました」


「俺だって続きを見たくなったよ。でも、何か新しい場所が分かったわけじゃないし、ここから何を確かめるか整理できれば十分だと思う。今は一緒にご飯を作ろう。資料は逃げていかないけど、料理は火にかけたままだと困るからね」


 セリーは小さく笑い、鍋の様子を確かめた。昼の光が厨房の壁に反射し、湯気の向こうで彼女の表情が少し柔らかく見える。調べものに集中したあとの食事は、いつもより食材の味をはっきり感じる気がした。俺たちは料理を運びながら、今朝の庭で見た花びらのことや、落ち葉をどこに置くかについても話し合った。


 食事中、セリーは自分が拾った葉をしばらく部屋で眺めたあと、形が崩れそうになったら無理に残さず庭へ戻したいと話した。何かを気に入ったからといって、いつまでも同じ形で手元へ置けるわけではない。俺はその希望を尊重し、紙に描いたものを残しておけば、実物を手放しても今日の景色を忘れずに済むかもしれないと答えた。


「主様。私は、形を残すことと、覚えておきたいことを残すことも、少し違うのだと感じます。葉をそのまま取っておけなくても、今日見て綺麗だと思ったことは、私の中に残りますから」


「うん。あの古い資料にも、形を守ることと、書かれたことを正しく伝えることの両方が必要なんだろうね。でも、どちらかを急ぐせいでもう一方を壊したくない。今日は原本に触れずに調べられたのがよかったよ」


 その話を終えると、俺たちは昼食をゆっくり味わった。セリーは自分で選んだ味つけが気に入ったらしく、次には別の野菜でも試してみたいと話す。俺も賛成しながら、今朝とは違う形で自分の好みを伝えた。こうした会話を続けるうち、いつの間にか調査で張っていた気持ちも緩んでいた。


 午後は古い資料を新しく開くことをせず、作業机に残した比較表の清書と、保管案内の参照位置を整理することにした。セリーは朝作った四つの欄をもう一度見直し、二種類の目録と、保管場所の変更を示す項目を混同しないよう、別々の段へ配置してくれる。俺はその横で、三〇八号室の記録については依然として出どころが不明であることを確かめ、次に調べる目的を短い文章にまとめた。


 それは『原記録を探し出す』という断定的なものではなく、『保管案内にある変更記録の項目が、どのような資料を対象としていたか確認する』という内容になった。仮にその仕組みが分かっても、少年の資料について新しい情報が得られる保証はない。けれど、目的を狭くすることで、関係のない個人の記録を開かずに済む可能性は高まる。


「主様。この書き方なら、私たちが何を確かめたいのか分かります。もし明日該当する資料が見つからなくても、どこまで探したかを残しておけますね」


「そうだね。今日はセリーの提案のおかげで、調べ方がずいぶん変わった気がする。見つからなかったことを残す、っていう考えは俺にはなかったよ」


 セリーは頬を少し赤くしたが、以前のように自分の発案を過度に控えめに扱うことはしなかった。嬉しいと答えたあと、今朝の表はまだ作り始めたばかりだから、使いながら直していきたいと話してくれる。俺はその考えに賛成し、誰かへ見せる完成品ではなく、二人が迷わず使える記録にしていこうと伝えた。


 整理が終わる頃、塔の中に午後の静けさが戻っていた。通信の魔導具はいつもどおり落ち着いた光を保ち、ブラートから二通目への新しい返事が届いた様子はない。セリーもそのことを一度だけ確かめたが、すぐに布袋を持って窓辺へ移動し、朝の葉の絵を描き始めた。


 俺は彼女の邪魔にならないよう、少し離れた場所で今日の記録を読み直した。紙には、古い目録から確認できた分類の違いと、確認しなかった範囲が並んでいる。大きな発見を示す印はないが、何を知らないかを少し細かく分けられたことが、今の俺には確かな成果に感じられた。


 やがて、セリーが筆記具を置く音がした。彼女は描き終えた葉の絵を俺へ見せ、実物の色を紙へ移すのは難しいですね、と少し困ったように笑う。赤い部分は光を受けると明るく見え、茶色の筋も見る角度で印象が変わるため、一度描いただけでは同じようにはならないらしい。


「でも、私はこの絵も好きです。朝、葉を拾ったときに綺麗だと感じたことを思い出せますから。実物とまったく同じではないことも、今は気になりません」


「俺も綺麗だと思うよ。セリーが何を見て描いたのか、話してくれたからね。……古い記録も、作った人の意図を全部知れるわけじゃないけど、書かれたものを丁寧に扱うことなら、今の俺たちにもできそうだな」


 彼女は笑みを浮かべ、絵を自分の布袋へしまった。小皿の上の葉はそのままにしておき、明日また見てからどうするか決めたいという。俺は頷き、自分たちの記録も同じように、必要になったら読み返して考え直せる形で残したいと思った。


 夕食の支度を始める前、俺は一度だけ作業机へ戻った。保管案内の『場所の変更を記録する項目』を見つけたことが頭から離れず、次に何をするか忘れないよう確認したかったのだ。だが、新しい資料を取り出そうとはせず、朝作った表の端に書かれた目的を読み返してから閉じる。


(今すぐ調べれば何か分かるかもしれない。でも、何も分からないかもしれない。それでも次に何を確かめるか決められたんだから、今日はもう十分だろう)


 食堂へ向かうと、セリーはすでに厨房の入口で待っていた。俺に気づくと少し微笑み、今夜は温かな料理をゆっくり食べたいと話してくれる。俺は遅くなったことを詫びるのではなく、作業の区切りを確かめてきたと伝え、一緒に鍋を用意した。


 夕食中、彼女は今日の調査で自分の提案が役立ったことを、改めて嬉しいと話してくれた。誰かに命じられた仕事を終えるだけではなく、分からないことを見つけ、自分なりに考えて提案できた。そのことを声に出して確かめる彼女の表情には、少し前までの遠慮とは違う落ち着きがあった。


「主様。私は、何かを知るためには、答えを見つけなければならないと思っておりました。でも今日は、どう探せばよいかを考えることも楽しかったです。明日、何も見つからなかったとしても、その理由を確かめる時間を持ちたいと思います」


「俺もそうしたいよ。今まで俺は、自分に関わる記録がどう扱われたか、分からないまま苦しくなることがあった。だからこそ、誰かの言葉を勝手に決めつけずに調べられるなら、その方法を選びたい。セリーが一緒に考えてくれるのが心強いよ」


 セリーは俺の顔を見つめ、しばらく返事を探すように黙っていた。彼女がどこまで俺の過去を思い浮かべたかは分からない。ただ、すぐに励ます言葉で埋めるのではなく、静かな時間を置いてから頷いてくれたことが、今夜はありがたかった。


「主様。私にも、まだ分からないことがたくさんございます。それでも、主様と一緒に確かめていきたいと思います。もし主様がお疲れになったときには、私からも休むことを提案させてくださいませ。今日のように、途中で止めてもよいのですから」


「ありがとう。そう言ってもらえると安心するよ。俺もセリーが困ったときは、一緒に考える時間を作りたい」


 食卓の上で、二人の会話はそれ以上急ぐことなく続いた。窓の外では秋の夜が深まり、昼間に明るく見えた葉の輪郭も闇に溶けている。塔の中には温かい料理の匂いが残り、灯りが石壁へ柔らかな影を落としていた。


 片づけを終えると、セリーは朝拾った葉を載せた小皿を、自分の部屋へ持っていくかどうか少し考えた。けれど今日は共有の机の端に置き、明日の朝にまた様子を見てから決めると話してくれる。俺はその小さな選択を尊重し、皿が倒れない位置を一緒に確かめた。


 休む前、俺たちは窓の近くで短い時間を過ごした。セリーが自分から手を差し出したので、俺はその手を取り、森の暗さを眺めながら、今日はどんな一日だったか思い返す。古い資料の原本は一枚も開かず、少年の願いの正確な言葉も、元記録の所在も分からないままだった。しかし、探した場所と確かめられなかった範囲を残す方法を二人で作り、次に調べられる別の項目へ気づくことができた。


「主様。明日、保管場所の変更に関する記録を確かめられるのでしたら、私も一緒に見たいです。でも、朝起きて別のことをしたくなったら、また相談させてくださいませ」


「もちろん。明日の俺たちの気持ちは、明日になってから聞けばいい。調べたいことは残ってるけど、今日はここまでにして休もう」


 セリーは安心したように頷き、手を離してから自分の布袋を持ち直した。おやすみなさいと告げる声は穏やかで、俺も同じ挨拶を返す。彼女が廊下の先へ消えたあと、俺は作業机に置かれた新しい表へ最後に目を向けた。


 そこには、何かが見つかったことだけでなく、まだ探していない場所や、確認できなかった範囲が丁寧に残されている。空欄が多いことを、今の俺は以前ほど怖いと思わなかった。そこへ勝手な答えを書き込まずに済むことも、一つの確かな選択なのだろう。


(あの少年の声を知りたいと思う気持ちは、今も変わらない。だからこそ、残された言葉を壊さず、知らないところを知らないまま残して、次に進める方法を探そう。セリーが教えてくれたことを、明日も忘れずにいたいな)


 自室へ戻って灯りを落とすと、塔の外からは乾いた葉の擦れる音が届いた。フェルネの秋の市へ出かける予定はもうなく、ブラートから新しい返信も届いていない。南側通路の石の台や、古い療養施設のほかの謎も、今夜はそのまま残っている。


 それでも、俺たちが今日選んだ探し方は、昨日までとは少し違っていた。何かを見つけることだけを急がず、誰かが残したものを守りながら、調べた過程まで記録する。そんな小さな積み重ねを、この塔での暮らしの中へ少しずつ増やしていけたらいい。


 俺は寝台へ身を横たえ、朝の庭で花を描いていたセリーの横顔と、机の上に作られた四つの欄を思い浮かべた。明日、保管場所の変更を示す記録に手掛かりがあるかどうかは分からない。けれど、何を確かめたいかを二人で話し合えることが、今は何より心強かった。静かな秋の夜の中で、俺はゆっくりと目を閉じた。

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