第175話 写しの余白に残された印と、まだ聞けない少年の声
朝、寝台から起き上がった俺は、窓の外に広がる森が昨日よりも静かなことに気づいた。夜の間に雨が降った様子はないものの、枝先を揺らす風には冷たさが増していて、石畳の上に落ちた葉が光の当たり方によって茶色にも金色にも見える。秋の市へ行くことを見送ると決めてから、初めて迎えた朝というわけではない。それでも、開催日が近づいているはずの町を思い浮かべると、胸のどこかにまだ小さな名残惜しさが残っていた。
机の上には、昨夜読み直してから伏せておいた古い記録の覚え書きがある。三〇八号室の少年について、俺たちは焼きたてのパンの香りを望んでいたという記録を知っているが、その文章が本人の言葉をそのまま写したものか、別の誰かが要点をまとめたものかは確認できていない。昨日はその違いを曖昧なままにしないため、記録がどのように作られたかという問題と、少年の現在の状態を知る問題を別々に整理した。
(記録を読むことと、本人の声を聞いたつもりになることは違う。分かったつもりで先へ進むより、まずこの紙がどんな目的で残されたのか確かめるべきなんだろうな)
俺は覚え書きを手に取り、最後に加えた一行へ目を向けた。『原文の引用かどうか未確認』という文字の下には、書かれた時期や記載者についても裏づけが不足していると記してある。重要なことなのに、最初に願いの内容を見つけたときには、そこまで考えが及ばなかった。気持ちが先走ってしまうのは、今でも簡単には変わらないらしい。
身支度を整えていると、扉の向こうからセリーの声が聞こえた。彼女は朝の挨拶を済ませたあと、昨日ブラートへ送った自分の文章について少しだけ話したいと言う。廊下で立ったまま聞くにはもったいない気がしたので、俺は食堂へ向かいながら聞かせてもらうことにした。
「おはよう、セリー。昨日は自分の言葉で返事を送れてよかったね。今日はどんなことが気になってるんだ?」
「おはようございます、主様。昨夜、私が書いた文章をもう一度読み返しました。ブラート様へお伝えしたかったことは書けたと思うのですが、読み直してみると、私が今ここで感じていることの全部が入っているわけではないのですね。それが少し不思議でございました」
セリーは自分の小さな布袋を抱え、歩きながら窓へ目を向けた。布袋には昨日清書した文章をしまってあるらしいが、俺へ見せるつもりがあるかどうかまでは尋ねなかった。彼女が自分で書いたものを大切にしていることは、言葉の端々から十分伝わってくる。
「手紙って、全部を書けるわけじゃないんだろうね。俺だってブラートに近況を伝えるとき、何を選んで書くか考えるよ。書かなかったからって、その日の出来事や気持ちがなかったことになるわけじゃないし」
「はい。私もそう思います。だからこそ、受け取った方が、書かれていないところをどのように想像なさるのか、少し気になりました。私が書いたものも、ブラート様には、私自身が感じたこととまったく同じようには伝わらないのかもしれません」
その言葉に、俺は思わず彼女の横顔を見た。昨日まで別々に考えていたことが、今朝は思いがけないところで結びついている。手紙の文章が本人のすべてではないという気づきは、二千年前に残された少年の願いを読むときにも、そのまま当てはまる話だった。
「そうだね。相手へ伝える言葉は大切だけど、その言葉だけで相手の全部を知れたと思わない方がいいのかもしれない。……セリー、朝食のあとで少し古い記録を確かめたいんだ。もしよかったら、今日も一緒に考えてくれる?」
「もちろんでございます。ただ、主様。私は今朝、パンをいつもより少し小さく焼いてみましたので、まずはそちらを召し上がっていただきたいです。昨日までの記録を読み直してから食べると、きっとお料理が冷めてしまいますから」
彼女の返事に俺は笑った。大切な記録があるからといって、一日の予定をすべてそれに譲らなければならないわけではない。セリーが自分で決めた朝食の工夫を聞きながら歩いていると、まだ分からないことの多い古代施設の問題も、落ち着いた気持ちで向き合えそうに思えた。
食堂の窓には淡い日差しが届き、二人分の器が静かに並べられていた。セリーの言うとおり、パンは昨日より小ぶりで、表面に浅く入れた切れ目から柔らかな中身がのぞいている。温かな料理を口に運ぶと、外の冷気で少し冷えた身体がほぐれ、俺は思わず肩の力を抜いた。
「今日は食べやすい大きさだね。俺にはちょうどよさそうだけど、セリーはどう? 作るときに手間が増えたりしなかった?」
「少しだけ形を揃えるのに時間がかかりました。でも、一度に大きく焼くより、私はこちらの方が取り分けやすいと思いました。次も同じにするかはまだ決めておりませんが、今日は試してみてよかったです」
彼女は自分の分を味わい、満足そうに頷いた。昨日送った手紙にも、こうした小さな料理の工夫は書かれていないのだろう。それでも、そのことをブラートが知らないからといって、彼女の毎日が不完全になるわけではない。何を話し、何を自分の手元に残すかを選ぶことが、彼女の暮らしの中で自然なものになってきた。
食後の片づけを終えると、俺たちは作業部屋へ移動した。今日すぐに南側通路を調べる予定はないし、庭の花も昨日の観察で急な変化は見られなかったので、日差しのあるうちに何を優先するかは改めて相談できる。セリーは記録のための紙を数枚用意したが、その横へ自分の布袋を置き、今日は新しい手紙を書くつもりではないと話してくれた。
「主様。私は昨日まで、ブラート様へどのようなお返事をするか考えておりました。今日は、受け取った文章をそのまま大切にしておきたいです。それから、三〇八号室のお話を考えるのであれば、私も資料のどこまでが確かめられたことなのか、もう一度見たいと思います」
「ありがとう。俺も今日はそこを確かめたい。新しい装置を動かすとか、あの子へ何かを届ける方法を試すとか、そういう段階じゃないからね。まず、願いの文章が載っている紙そのものを、ちゃんと見ておこう」
俺は古い記録の保管場所へ向かった。これまで何度も開いている資料だからこそ、慣れた手つきで扱ってしまわないよう気をつける。二千年前の記録は外見が似ていても状態が一様ではなく、折れ目が弱くなった紙もあれば、触れるたび細かな粉が落ちそうに見える部分もある。必要な資料だけを取り出し、元の位置が分かるようにしてから、光の当たりすぎない作業台へ運んだ。
セリーは机の端に清潔な紙を敷き、その上へ記録を直接重ねないよう、俺が持ってきた簡素な支持板を置いた。昔から保管されている資料へ新しく糊や紐をつけることはせず、読み終えたらそのまま戻せるようにする。記録の保存方法として最良かどうかまでは判断できないため、今日は目の前の紙に余分な負担をかけないことを第一にした。
「主様。昨日は文章の意味を考えることに集中しておりましたが、今朝は紙の端に小さな文字があるようにも見えます。あちらは以前からございましたのでしょうか」
セリーが指さしたのは、本文から少し離れた下端だった。そこには細かな記号と短い語句が並んでいるが、一部は端の折り返しに隠れている。これまで俺たちは少年の願いに関わる本文へ視線を向けていたため、余白の書き込みについては十分に確かめていなかった。
「前からあったんだと思うけど、俺もきちんとは読んでなかったな。折り目の下に隠れてるところを無理に開くのは避けよう。今見えてる部分だけで、記録の種類が分かるかもしれないし」
腕輪のエルへ確認すると、古い資料に付された記号のうち、現在判読できる範囲を整理することは可能だという。ただし、欠けた部分を補って完全な文面として提示することや、紙面にない記載者の意思を推測することまではできない。俺はその制約を了承し、セリーと並んで、見える位置から文字の形と行のつながりを確かめた。
『主様。下端に残る表記には、閲覧用に内容を抜き出した記録を示す語が含まれる可能性が高いと判断されます。ただし、折り目の内側が視認できないため、この一枚全体がどのような経緯で編纂されたかまでは確定できません』
エルの説明を聞いて、俺は少し身を乗り出しかけた。少年の言葉が直接残されたものかどうか、これまで分からないままだった。その紙が閲覧用にまとめられた資料である可能性が出てきたのなら、少なくとも本人の言葉がそのまま載っていると決めつける理由は、いっそうなくなる。
「閲覧用の抜粋、か。じゃあ、俺たちが読んでいたのは、元の記録から一部を選んだ文章かもしれないんだな。でも、それだけで誰が書き直したのかは分からないし、元の文章が今も残ってるかどうかも別の問題だよね」
『そのとおりです。語句の一部が判読できることは、元資料の所在や現存を保証しません。分類表記の詳細が確認できない以上、断定を避けることを推奨します』
セリーは俺の隣で頷いたが、すぐには紙へ書き込まなかった。彼女の視線は少年の願いが記された箇所と、下端の小さな文字を行き来している。ようやく筆記具を持ち直すと、彼女は少し迷いながら口を開いた。
「主様。もしこちらが抜粋された文章なのでしたら、私たちは少年のお望みの一部分だけを読んでいたのかもしれませんね。そのことが分かって嬉しい気持ちもございますが、同時に、少し遠くなってしまったようにも感じるのです」
その言葉が胸に残った。記録の出どころへ近づく手がかりを見つけた一方で、本人から直接届いた声だと思いかけていた文章が、誰かの手を経たものかもしれないと気づいたのだから、彼女が複雑な気持ちになるのも自然だろう。俺は記録へ目を落としながら、すぐに前向きな説明で埋めようとはしなかった。
「……俺も少し似た気持ちだよ。あの子が何を望んでいたのか知りたいのに、思ったより何段階も間に人や記録があるのかもしれない。でも、遠く感じるからって、この紙を本人の言葉そのものだと決めたくはないんだ」
「はい。私も、そのようにはしたくありません。お望みが残されていることは大切ですし、そこから何かを考えたい気持ちも変わりません。ただ、少年ご自身がどんな言葉を選ばれたのかを、いつか確かめられるなら嬉しいと思いました」
セリーはゆっくりと息を整え、今日の観察記録を書き始めた。下端の表記には閲覧用の抜粋を示す語が含まれる可能性があること、折り目の内側は確認していないこと、元になった記録の所在と現在の保存状況は不明であること。三つを別々に書き分けると、彼女はようやく少し安心したように頷いた。
俺も記録を取りながら、自分が元王太子だった頃のことを考えた。王宮では、自分について書かれた報告や他人から聞く話が、どのように整えられて伝わるかまで知る機会は多くなかった。失脚した今も、俺自身に関する記録がどこでどのように扱われたのか、知らないことは残っている。だが、それと少年が置かれていた事情が同じだと考える根拠はなかった。
(俺は自分の過去を重ねて、あの子もきっとこうだったはずだと思いそうになる。でも、それは俺の気持ちだ。あの子の記録は、あの子のものとして扱わないといけない)
そのとき、記録の端に置いていた支持板がほんの少し動き、紙の折り返しに触れそうになった。俺は慌てて押さえ込むのではなく、手を止めてセリーへ声をかけた。彼女もすぐに身体を寄せず、どこが引っかかりそうか一緒に確かめ、板をゆっくり元の位置へ戻す。
「主様、こちらの端は少し弱くなっているように見えます。今以上に開きますと、傷めてしまうかもしれませんね。私は折り目の内側も気になりますけれど、今日はここまでにしておきたいです」
「うん。それがいいと思う。見たいところがあるからって、今ある記録を壊したら意味がない。下の文字を全部読む方法が必要なら、資料の状態から考え直さないといけないね」
俺たちはその紙を無理に広げず、見えている部分を写した覚え書きを作ってから元の形へ戻した。セリーは自分の絵を見直し、折り返しで隠れたところを空白のまま残している。想像で文字を補ってしまわないためだと聞き、俺も同じように転記の境界を明記することにした。
資料を戻す準備をしていると、セリーがふと保管棚の方へ目を向けた。彼女は今日の紙だけでなく、同じ場所に並ぶほかの記録にも似た分類の印があるのではないか、と考えたらしい。ただし、気になったものを全部取り出せば作業が際限なく増え、傷んだ資料へ触れる機会も増えてしまう。
「主様。ほかの紙にも同じような表記があるなら、言葉の意味を比べられるかもしれません。ですが、私は今すぐ棚の中身をすべて確かめたいわけではございません。もし閲覧のための目録があるなら、そちらから探してみるのはいかがでしょうか」
「それはいい考えだね。本文の記録を一枚ずつ開くより、今どんな分類が使われているのか確かめる方が先だと思う。今日は保管棚の目録で分かる範囲だけにしよう。新しい資料を探すのも、紙を傷めない方法を選べるなら意味があるからね」
俺はエルへ、すでに参照している保管目録のうち、資料の種類を示す欄がないか尋ねた。エルは古い分類項目を照合できるものの、目録の一部には更新された時期や編纂者が分からない箇所もあると説明した。そこで、記号を見つけたからといって三〇八号室の原記録が現在も所定の場所にあると考えないよう確認し、目録だけを読み始める。
目録には、閲覧のためにまとめられた記録と、もとの記載を扱う記録とを区別するための項目があった。そこに書かれた分類は、施設に残された資料を整理するためのものらしいが、今手元にある一枚がそのどの段階で作られたかまでは示していない。俺たちが見ている下端の表記と似た語は確認できても、それだけで全文が抜粋だと断定することも、原記録の存在を保証することもできなかった。
「でも、少なくとも資料の種類を分ける考え方はあったんだね。俺たちが今してることも、昔の人たちが似たように考えていたのかもしれない。ただ、その分類がこの紙にどう使われたかは、まだ確かめないといけないな」
「はい。主様、私は少し安心いたしました。もとの記載と閲覧用の記録を分けていた可能性があるのなら、私たちもそれを確かめる方法を考えられるかもしれません。ただ、記録が残っていると決まったわけではないので、期待しすぎないようにいたします」
彼女の言葉を聞きながら、俺は目録の参照位置を書き留めた。新しく見つかったのは、特定の人物の秘密ではない。古い施設の中で資料をどう区分していたかという、小さな手がかりだ。しかし、その手がかりがなければ、少年の願いをどのような形で受け取っているのかさえ曖昧だったのだから、今日の確認には意味があった。
気づけば、午前中の光が机の奥へ届き始めていた。セリーは手元の記録を見直し、これ以上資料を開く前に休憩したいと申し出た。俺も長い時間同じ文字へ目を向けていたので、その提案に賛成する。古い紙を元の場所へ戻したあと、二人で作業台に残った道具を確かめ、片づけ忘れがないようにした。
昼食には、温かな野菜料理と簡単に焼いたパンを用意した。今日は古い記録のことを考えながら食べるのではなく、セリーが朝に選んだ小ぶりなパンの形が昼食にも合うかを話し合う。彼女は食べやすいと思う一方、具を添えるなら少し大きい方が便利かもしれないと気づき、次には用途に合わせて作ってみたいと話した。
「朝と昼で、同じ大きさが一番とは限らないんだね。俺は今まであんまり気にしてなかったけど、セリーが作ってくれるものには、毎回いろんな考えがあるんだな」
「ありがとうございます。ですが、主様。私も作ってから気づくことが多いのです。今日のパンは朝には食べやすかったですけれど、昼食ではもう少し違う形にしてもよかったかもしれません。次は最初から決めつけず、何と一緒に食べたいかを考えてみます」
そんな話をしながら食事を終えると、朝から少し張っていた気持ちが落ち着いた。古い施設の資料を読みながら、知らないことが増えたように感じる瞬間もあったが、今は答えを急ぐ必要がないと分かっている。食卓の向こうでセリーが自分の感想を話してくれることが、そんな俺の気持ちをゆっくり整えてくれた。
午後は、午前中に得た情報をどう残すか相談した。俺たちは目録の分類を写した紙と、三〇八号室の記録下端に見えた文字を写した紙を、同じ束にまとめることにする。ただし、似ているというだけで完全に対応すると判断したわけではないため、二つを一枚に書き直してしまわず、参照元を別々に残した。
セリーはそこで、自分が昨日ブラートへ送った文章を思い出したらしい。俺に見せてくれた清書とは別に、途中で考えた言葉も残してあるが、受け取る相手には清書した文章しか届かない。書き直す前の言葉が存在したことを知らないまま読めば、彼女が最初から迷わず文章を書いたように感じるかもしれない、と彼女は話した。
「主様。ブラート様には、私が何度も書き直したことまではお伝えしておりません。ですが、だからといって、お送りした文章が嘘になるわけではございませんね。私は、書くと決めたことだけを自分で選びました。少年の記録についても、抜き出した方が何かを選ばれた可能性はあっても、それだけで内容が間違いだとは言えないのでしょうか」
「そうだね。省いたから全部間違いになるわけじゃないし、残した言葉が本当だったかどうかは、別に確かめる必要がある。今の俺たちは、誰がどんな目的で抜き出したのかも知らないんだから、いいようにも悪いようにも決めつけない方がいいと思う」
セリーは頷き、しばらく黙って自分の紙を見つめた。彼女が人へ伝える文章を自分で選んだ経験は、古い記録を読むときの慎重さにもつながっているようだった。俺はその考えを聞けて嬉しかったが、だからといって三〇八号室の記録がブラートへの手紙と同じ経緯で作られたと考えるつもりはなかった。二つの出来事は似た面を持っていても、それぞれ別のものだ。
整理を続けるうち、俺はこれまで使っていた覚え書きの見出しにも気になるところを見つけた。『少年の言葉』と書いた欄には、俺たちが確認できていない直接の発言が含まれているように読める。そこで、セリーへ相談し、見出しを『少年の願いとして記録された内容』へ変更することにした。古い紙に直接書き込むのではなく、俺たちの覚え書きだけを直す。
「主様。少し長い見出しになりましたね。ですが、私はこの方が安心いたします。誰かがあとで読んだときにも、私たちが確認できたのは記録された内容だと分かりますから」
「うん。短くした方が見やすい場合もあるけど、意味が変わっちゃうなら長くてもいいと思う。昨日、セリーが言葉を選び直してくれたのと同じだね」
彼女は照れたように笑い、自分の筆記具を置いた。今日は新しい通信を送る予定もなく、ブラートからも追加の反応は届いていない。それでも、手紙を作るときに考えたことが、こうして別の記録の扱い方へつながるとは、昨日まで思いもしなかった。
日差しが傾き始めた頃、俺たちは一度作業を区切って窓辺へ移動した。庭の鉢はここから細かく見えないが、花のある場所にはまだ柔らかな光が届いている。今日は朝から資料を扱っていたので、花の状態を直接観察していない。昨日までの記録に急な変化がなかったとはいえ、今日見ていないものを『変化なし』と書き足すことはしなかった。
「主様。今日はお庭へ出ませんでしたね。私、お花を見たい気持ちはございましたが、古い記録を一緒に確かめたいと思ったことも、自分で選んだことですので、後悔はしておりません。ただ、明日お天気がよろしければ、また見に行きたいです」
「いいね。俺も花がどうなってるか気になるよ。今日は見てないって記録しておけば、明日比べるときにも間違わないしね。……セリー、さっきの資料のことで、少しだけ気になってることがあるんだ」
彼女が俺へ向き直ったので、古い紙の折り目について話した。下端の文字を全部読みたい気持ちはあるが、今の状態で無理に開けば傷めるかもしれない。もし別の目録や写しから分類の意味を確かめられるなら、元の紙へ触れる回数を減らせるだろう。次に調べるときは、資料そのものを広げる前に、保管されている関連情報を探す方法から考えたいと伝えた。
「はい。私もその方がよいと思います。私、あの折り目の中が見えたら何か分かるかもしれないと考えておりましたが、そこに答えがあると決まったわけではございませんものね。今あるものを傷めずに済む方法を、先に探してみたいです」
セリーはそう答え、窓の向こうへ視線を戻した。今朝は少年の声が遠くなったように感じたと話していたが、少なくとも何を確かめればよいのか、昨日よりはっきりしている。元の記録が残っているのかどうかも分からない以上、すぐに本人の言葉へたどり着けるとは思えない。それでも、急いで紙を傷めたり、自分たちの想像で余白を埋めたりするより、今は待つ方がよさそうだった。
夕食の準備を始めると、厨房には野菜を煮る香りが広がった。セリーは今日、パンの大きさを変えてみて分かったことを話しながら、夕食には別の料理を選んでいる。俺は器を並べ、彼女が使う道具を取りやすいところへ置いた。互いの手がぶつからないよう自然に位置を変えながら作業していると、こうした小さな習慣もずいぶん増えたものだと感じる。
「主様。今日の資料を読んでいて、私は少し寂しい気持ちにもなりました。少年の言葉をそのまま知ることができると思っていたわけではございませんが、記録が誰かの手を経ているかもしれないと分かると、どのような思いで残されたのか気になってしまいます」
「うん。俺も気になってる。ただ、記録を書いた人が何を考えてたのか、今のところ分からないんだ。あの子の願いを大事にしていたのかもしれないし、仕事として必要なことをまとめただけかもしれない。どちらかへ決めつけるのはやめようと思う」
セリーは鍋をかき混ぜる手を少し緩めた。言葉を急いで返さず、湯気の向こうで考えるように視線を落とす。しばらくして、彼女は少年の願いを今すぐ叶えられなくても、その内容を勝手に書き換えずに残すことが、今の自分にできることの一つかもしれないと話した。
「私は、できることが少ないと思うと、何かをしなければと焦ってしまうことがございます。ですが、今日は記録を大切に扱うことも、誰かの望みを忘れないための行動なのだと感じました。主様と一緒に考えられて、少し安心しております」
「俺も、そう思ってもらえて嬉しいよ。いつか何かできる方法が見つかるかもしれないけど、そのときだって確かめることはあるだろうしね。今は、今の俺たちに分かる範囲を大事にしよう」
夕食ができあがる頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。二人で食卓に着くと、セリーは自分で選んだ味を確かめ、少しだけ表情を緩めた。俺も料理を味わいながら、朝から続いた調べものがようやく一段落したことを実感する。今日は資料の大きな謎が解けたわけではないが、新しく見つけた小さな表記をどう扱うか、二人で納得できるところまで話せたのが嬉しかった。
食後、俺たちは作業机に戻り、今日の記録を最終的に整理した。古い紙の下端には閲覧用の抜粋を示す可能性のある文字が見えたが、全文を判読できてはいない。保管目録には閲覧用の記録と元の記載を区別する分類が見つかったものの、三〇八号室の原記録が現存するかどうかは未確認。少年の現在の状態と、香りを安全に届ける方法も引き続き不明である。
セリーは俺の記録を読み返し、今日は『判明したこと』より『確かめられなかったこと』が多いですね、と静かに笑った。けれど、その笑みに落胆だけがあるわけではない。自分たちが知らないことをそのまま残してよいと、彼女は少しずつ受け入れているようだった。
「主様。私、いつか元の記録を見つけられたなら嬉しいです。でも、見つからなかったとしても、今ある言葉を大切にしたいと思います。少年のお望みを、自分たちに都合のよい物語へ変えてしまわないようにしたいのです」
「うん。俺もだよ。新しいことが分かったら、そのときまた考え直そう。今はこれ以上無理に調べないで、明日も続けられるように記録を残しておこう」
紙を所定の場所へ戻したあと、俺たちは窓辺へ移動した。夜の森は静かで、塔の外壁を撫でる風の音がときどき聞こえる。セリーはしばらく何も話さず、俺の隣に立っていた。やがて彼女がこちらへ顔を向け、手を差し出してくれたので、俺も自然にその手を取った。
「主様。今日は、私の手紙のお話から始まって、少年の記録を読んで終わりましたね。別の時代の言葉でも、それを受け取る方がどう扱うかによって、大切さが変わってしまうことがあるのだと感じました」
「そうだね。だから、セリーがブラートへ送った言葉も、あの子の記録も、俺が勝手に意味を決めないようにしたい。……でも、今こうして手をつないでるのが嬉しいってことは、俺自身の気持ちとしてちゃんと分かるよ」
セリーは少し驚いたように俺を見上げ、やがて頬を染めて微笑んだ。握っていた手にそっと力がこもり、二人の間に短い沈黙が流れる。何か大切な言葉を口にしなければならない気もしたが、彼女がそのまま隣にいてくれることが、今は何より嬉しかった。
「私も、主様とこうして過ごせることが嬉しいです。今日はたくさんの言葉を読みましたけれど、今のお気持ちは、主様から直接聞くことができました。……ありがとうございます」
「うん。こちらこそ、ありがとう。明日も何をするかはまだ決めてないけど、また一緒に相談しよう」
彼女は頷き、窓の外へ視線を戻した。フェルネの秋の市は予定どおりなら間もなく開かれるが、俺たちはそこへ向かわないと決めている。ブラートからの次の返事もまだ届いていないし、古代の療養施設についても、知らないことは残ったままだ。それでも、今日セリーと一緒に確かめた記録の扱い方は、これからほかの資料を読むときにも役立つ気がした。
休む時間になり、俺たちは手を離した。セリーは自分の布袋を抱え、今日は自分の記録にも少しだけ書き足してから休みたいと話してくれた。俺は内容を尋ねず、おやすみと挨拶を返す。彼女が廊下の先へ向かうのを見送ってから、自室へ戻った。
机の上には、今日書き直した覚え書きが一枚だけ残っていた。『少年の願いとして記録された内容』という見出しの下には、昨日よりも慎重な言葉が並んでいる。何かが分からないと認めることは、以前の俺には後ろ向きな判断に感じられたかもしれない。けれど今は、分からないところを分からないまま残すことが、誰かの言葉を守るために必要なのだと思える。
(あの子の本当の声を知りたい。でも、今読める紙だけで知ったつもりにはなりたくない。セリーが自分の言葉を大事にしてるように、俺も残された言葉を大事に扱おう)
窓の向こうの森は暗く、庭の花の姿も南側通路の石の台も見えなかった。明日は天気がよければ花を確かめ、それから今日見つけた分類について、ほかの記録に無理な負担をかけずに調べられる方法を考えてもいい。けれど、その予定も今夜のうちに決めきる必要はない。
俺は灯りを落とし、穏やかな夜の音へ耳を澄ませた。古の塔には、まだ知らない言葉や、答えの分からない願いが残されている。今すぐすべてを解き明かすことはできなくても、セリーとなら、ひとつずつ確かめながら向き合っていけるだろう。そう思いながら、俺はゆっくりと目を閉じた。




