第174話 返事を書く小さな机と、古い願いに残された余白
翌朝、塔の窓から差し込む光は、昨日よりも少し白く感じられた。森の木々は枝先にわずかな葉を残し、風が通るたびに乾いた音を立てている。俺は寝台の脇に置いていた布袋を取り上げ、折り返した口を指先で整えながら、昨夜セリーが話してくれたことを思い返していた。
ブラートから自分に宛てた返事を受け取り、セリーは嬉しそうに何度もその言葉を読み返していた。そのうえで、返事を急いで送るのではなく、自分が何を見たいのか、なぜそれを見たいのかを考えてから書きたいと決めたのだ。俺は彼女が誰かに文章を書く姿を見られることが嬉しかったし、その文章の全部を知る必要がないことも、以前より自然に思えるようになっていた。
(今日は、あの子が自分で書きたいと言っていた続きを考える日になるかもしれない。俺も、昨日整理し始めた古い記録を、もう少し丁寧に見てみたいな)
三〇八号室の少年が焼きたてのパンの香りを望んでいたという記録について、昨日は分かっていることと分かっていないことを分けた。香りをどこかへ運ぶ仕組みを思いつくより前に、少年がどんな形でその願いを伝え、記録を残した人が何を確かめたのかを知る必要がある。けれど、手元の資料には書かれていないことが多く、俺たちが想像で埋めてしまえば、少年本人の気持ちを勝手に変えてしまうかもしれなかった。
扉の向こうから軽い足音が聞こえ、控えめにノックする音が続いた。返事をして開けると、セリーは小さな布袋を胸元に抱えたまま、いつものように丁寧に頭を下げる。俺が朝の挨拶を返すと、彼女は昨夜のうちに一度だけブラートへの文章を読み返したこと、まだ送りたい形にはなっていないことを教えてくれた。
「主様、おはようございます。昨日お話ししたお返事ですが、考えているうちに少し書き足したいことが増えてしまいました。今日は時間が許しましたら、途中まで書いたものをもう一度整えてみたいと思っております」
「おはよう、セリー。もちろんいいよ。俺も古い資料を見直したいと思ってたから、同じ部屋で別々の作業をするのもよさそうだね。でも、朝食の前からずっと机に向かう必要はないし、まずは温かいものを食べようか」
セリーは穏やかに頷き、俺の隣へ並んだ。廊下を歩くあいだ、彼女は早く返事を書き終えたいというより、考えることが増えたのを少し楽しんでいるように見えた。以前なら自分の作業が終わらないことを気にしていたかもしれないが、今は文章を整える時間そのものを選べるのだろう。
食堂へ入ると、温かなスープの香りが漂っていた。窓際のテーブルには朝日が届いているが、壁に近い床にはまだ冷たさが残っている。セリーはパンを一つずつ皿へ分け、自分の分を選ぶと、いつもより少しゆっくり椅子へ腰を下ろした。
「今朝は、先日と同じ焼き方にしてみました。新しい味を試すことも好きですが、前に美味しいと感じたものを、もう一度味わいたいと思ったのでございます。主様はいかがでしょうか」
「いいね。俺もその味は好きだよ。昨日はパンの香りから古い記録のことを思い出したけど、今朝はちゃんと自分たちの食事として楽しもう。あの少年のことを忘れるわけじゃなくて、今ここにあるものも大切にしたいから」
俺がそう言うと、セリーは少しだけ目を細めた。パンをちぎる手つきは丁寧で、食べる前に一度香りを確かめるのも彼女自身の習慣になりつつある。俺たちは味について短く感想を交わし、窓の外に残った赤い葉が、昨日より数枚少なくなったように見えることに気づいた。
食事を続けながら、セリーはブラートへの返信に何を書こうとしているのか、話せる範囲だけを教えてくれた。手仕事の品に興味を持つようになったのは、自分で布袋を縫い、使いにくいところを直そうとした経験があるからだという。作った人が何を考え、使う人がどんなふうに扱うのか、それを知ってみたいのだと彼女は言った。
「ただ、主様。私はまだ本当の市で品物を見たことがございません。見たこともないものについて、好きだと書いてしまうのは少し違う気がいたしました。興味がある理由はお伝えできますが、実物を見たら気持ちが変わるかもしれませんから」
「それなら、『見てみたい』って書くのが一番自然なんじゃないかな。好きだと決めるのは見てからでもいいし、想像していたものと違っても、がっかりしたって言っていい。ブラートも、きっとセリーの今の気持ちを知りたいんだと思うよ」
彼女は考えるようにパンを皿へ置いた。俺がブラートの気持ちを代わりに決めてしまわないよう、今の言い方は俺の想像だと付け加えると、セリーは小さく笑った。誰かの言葉を受け取るときにも、相手がどう思っているか分からない部分は残る。そのことを二人で確かめながら朝食を終えた。
片づけを済ませて作業部屋へ入ると、窓からの光が机の半分を照らしていた。俺たちは大きな机を二人で分けて使うことにし、セリーは自分の紙と筆記具を窓際へ、俺は昨日の共有の覚え書きを反対側へ置いた。彼女の文章が俺の方から見えないよう少し間隔を空けると、セリーは困ったように笑い、そこまで離れなくてもよいと話してくれた。
「主様。お気遣いは嬉しいのですが、私、誰かに見られないように書くことだけを大切にしたいわけではございません。今は自分で言葉を選びたいだけですので、主様が隣にいらっしゃっても安心しております。必要なときには私からお声をかけますね」
「分かった。じゃあ、このくらいにしておこう。俺も調べものをしてると独り言を言うかもしれないから、気になったら遠慮なく教えてほしいな」
セリーは頷き、紙を広げた。彼女が最初の行を書き直しているあいだ、俺は古い資料を保管している棚から、昨日確認した範囲に関係する記録だけを取り出した。傷みのある箇所へ負担をかけないよう、読める場所を先に確かめ、エルには既存の記録同士を比べるための補助を頼む。
『主様。三〇八号室に関する現在の参照情報と、療養施設側の記録分類を照合できます。ただし、記録が残された当時の現場状況や、記載者が確認した範囲を完全に再現することはできません』
「うん、それで十分だよ。今日は内容から何か装置を探すんじゃなくて、どこに書かれた言葉なのかを確かめたいんだ。前に読んだときの俺の解釈が、記録そのものと混ざってないか見直したい」
エルは了承し、俺が指定した範囲の情報を参照できる状態にしてくれた。少年の望みについて記された箇所は、古い施設の記録として整理されているが、今の俺たちが目にできる文面が、本人の発言を一字一句そのまま写したものなのか、それとも記録した側が意味をまとめた文章なのかは判然としない。俺はこれまで『少年の願い』と呼んできた内容を、もう一度その出どころから見直すことにした。
読み進めて最初に分かったのは、俺たちが昨日作った覚え書きに、少し曖昧なところがあるということだった。『焼きたてのパンの香りを体験したい』という内容は確認されているが、少年がその言葉をどういう声で話したのか、誰がその場で聞いたのかまでは、今見ている範囲に明瞭な記述がない。俺は自分が無意識に想像していた場面を思い返し、少しだけ筆記具を止めた。
(俺はあの子が、目の前にいる誰かへそう話しかけたところまで勝手に思い浮かべてた。でも、記録から分かるのは、その望みが残されたってことだけなんだな。声の調子も、そのときの気持ちも、今の俺には知らないことなんだ)
記録を残した人を責めたいわけではないし、内容が間違っていると決める根拠もない。ただ、願いとして書き残されたことと、その場で交わされた言葉のすべてを知っていることは別だ。俺は覚え書きの表現を、『少年が焼きたてのパンの香りを望んでいたとする記録が残る』へ改め、原文の引用であるかどうかは未確認だと添えた。
そこで、向かい側から筆記具を置く音が聞こえた。セリーが顔を上げ、俺の手が止まっていることに気づいたらしい。何かあったのかと尋ねられたので、俺は資料を閉じずに、今確かめた範囲を彼女へ説明した。
「少年の望みが記録されてるのは確かなんだけど、俺たちが読める文章が本人の言葉そのままなのか、誰かがまとめて書いたものなのかは、まだ分からないんだ。今まで俺は、あの子が直接そう言った場面まで頭の中で作ってたのかもしれない」
「……主様。それは、私にも覚えがございます。私は、少年がパンの香りを知らず、誰かにお願いなさったのだと、自然に考えておりました。でも、何を知っていて、どのように伝えられたかまで、記録されているとは限らないのですね」
セリーはゆっくりと目を伏せた。彼女が抱いていた少年への思いが間違いだったという話ではない。ただ、温かい情景を想像するほど、そこにいた人の気持ちを勝手に決めてしまいやすい。俺は彼女が自分の想像を責めないよう、今分かったのは情報の限界であって、少年の望みが消えたわけではないと伝えた。
「俺たちは、あの願いを大事にしたいと思ってる。それは変わらないよ。でも、大事だからこそ、知らないところは知らないって残した方がいいんだろうね。いつか別の資料が見つかったとしても、最初に想像した場面へ無理に当てはめずに読めるから」
「はい。私もそのようにしたいです。私は今朝、ブラート様へ返事を書くとき、見たことのない手仕事の品を、もう好きだと書いてよいのか迷っておりました。少年の記録も、似たところがあるのかもしれませんね。分からないものについては、今の私が分かっている範囲で言葉を選びたいです」
思いがけず、二人の作業が同じ場所でつながった気がした。セリーは自分の気持ちを相手へ伝える言葉を考え、俺は誰かの気持ちが残された古い言葉を読んでいる。新しく書く側と、後から読む側では立場が違うが、言葉に書かれていないものを勝手に補わないという点では、同じ慎重さが必要なのかもしれない。
俺たちは少し時間を取って、記録の読み方について話し合った。セリーはブラートへ送る文章の下書きを一枚だけ俺に見せ、そこに『作った人の工夫を知りたい』と書いた理由を説明してくれた。自分の布袋が使いやすいとはまだ言い切れず、外で試した食事の包みも改良の途中だからこそ、ほかの人が道具をどう考えて作るのか興味が湧くのだという。
「主様。私の袋は、今の私が使うには便利ですが、筆記具を一緒に入れると取り出しにくくなります。最初から何でもできるものではございませんし、もっと使いやすくなるかもしれません。ですから、手仕事の品を見て、ただ綺麗だと思うだけではなく、どのように考えて作られたのかを知りたいのです」
「それなら、そう書けば伝わりそうだね。実際に見たことがあるふりをする必要もないし、どんな道具が好きになるかも、まだ決めなくていい。俺もセリーの話を聞いて、前よりその気持ちが分かったよ」
セリーは微笑んでから、自分の紙を引き寄せた。俺が見せてもらったのは一枚だけで、ほかに書き留めた言葉があるかどうかは分からない。彼女はもう少し整えたいと申し出たので、俺は自分の資料へ戻り、少年の記録とそこから連想していたことを分ける作業を続けた。
やがて午前の日差しが机の奥まで届き、紙の上に伸びる影の向きも変わってきた。俺は目を休めるために一度立ち上がり、窓辺から外を眺めた。昨日観察した南側通路の石の台はここから見えず、庭の花も葉の陰に隠れている。あれほど何度も足を運んだ場所でも、室内にいるだけで分かることは限られていた。
机へ戻ると、エルが今の記録について新しい確証が得られたわけではないと確認してくれた。記載者の確認が取れないこと、記録文の成立過程が不明なこと、少年の現在の状態が分からないこと。それぞれ理由の異なる不明点を一つの『分からない』にまとめると、次に何を確かめたいのかも曖昧になる。
「エル、今の三つは別々に記録しておきたい。誰がどう書いたかを知ることと、少年が今どういう状態なのかを知ることは、必要な資料も違うはずだからね」
『承知いたしました。記録の成立過程、本人の状態、感覚刺激の安全な伝達条件を別項目として保持できます。ただし、いずれについても、現段階で新しい事実が判明したわけではありません』
「うん。それでいいよ。分けたからって答えが出るわけじゃないけど、次に読む資料を間違えないようにしたいんだ」
セリーもその説明を聞き、共有用の覚え書きに補足したいことがあると話してくれた。彼女が気にしたのは、少年の願いを誰が知っているのかという点だった。古い施設で働いていた誰かが知っていた可能性はあるが、今の記録だけでは関わった人の範囲まで確かめられない。そうであれば、現代の俺たちがそれを知ったからといって、過去にいた全員が同じ願いを知っていたことにはできない。
「主様。私は、三〇八号室のお話を読むたび、施設にいらした方々がみなさん少年のお望みを知っていたかのように想像しておりました。でも、誰がその言葉を受け取ったのか分からないのでしたら、そこも確かめられていないのですね」
「そうだね。記録が残ってるってことは、少なくともどこかの段階で誰かが扱った情報なんだろうけど、誰に共有されたかまでは分からない。今までの別の資料と結びつけるときも、知っていた人と知らなかった人を勝手に決めないようにしよう」
二人で考えたことを紙へ書き終えると、俺は資料を閉じた。頭の中ではまだいくつもの疑問が動いていたが、午前中に答えが増える見込みはなく、これ以上読み続ければ今度は同じ箇所を繰り返し眺めることになりそうだった。セリーへ休憩を提案すると、彼女も筆記具を置き、少し肩を動かしてから頷いた。
厨房へ向かう途中、俺は彼女に何を書いていたのかを尋ねなかった。彼女が自分から教えてくれた部分だけでも、手仕事への興味が以前より具体的になっていることは分かる。文章を誰かへ送る前には、まだ自分だけで確かめておきたい言葉もあるだろうと思った。
昼食には、温かい野菜料理と焼いたパンを用意した。今日も食事の香りは厨房へ広がったが、俺たちは三〇八号室の少年へ届けるための実験だとは考えなかった。自分たちの身体を休め、午後も穏やかに過ごすための食事として、いつものように料理を味わう。
「主様。今朝から古い記録を読んでおりましたので、私、こうして普通にお食事をいただく時間が少し不思議でございます。少年の願いを忘れないことと、私たちが楽しく食べることは、両方大切にしてよいのでしょうね」
「俺もそう思う。あの子のために今すぐ何かできないからって、俺たちの食事まで変える必要はないよ。でも、この香りが好きだなと思ったときに、願いを思い出すことはあるだろうね。それなら、次に資料を読むときのために覚えておけばいい」
セリーは頷き、自分のパンを少しずつ味わった。食卓の上で分けた包みの中身も、今の彼女には十分に慣れたものだが、香りが強い日と弱い日があることを面白く感じているらしい。俺たちは味の違いについて話し、ほかの誰かの感覚まで同じだと決めないようにしながら、温かな昼食を終えた。
食事の片づけを済ませたあと、セリーは自分の布袋を持って窓辺へ向かった。外では枝先の赤い葉が風に揺れ、地面には昨日より少し多くの落ち葉が見える。彼女はしばらく黙って景色を眺めたあと、俺の方へ振り返って、午後は手仕事の品について書いた文章をもう一度読み返してみたいと話した。
「主様。午前中にお話ししたことを書き加えましたら、伝えたいことが少しはっきりいたしました。ただ、私は季節の花についても書きたいと思っております。お花を見るのが好きだというだけではなく、日ごとに違う姿を眺めるのが楽しいことを、ブラート様へお伝えしたいのです」
「いいね。セリーが毎朝花を見たいって言ってた理由も、きっとそこにあるんだろうな。書いてみてから違うと思ったら、また直せばいいよ。返事を今日送るかどうかも、全部書き終わってから考えよう」
彼女は嬉しそうに頷いた。俺は午後の作業として、古い記録をもう一度読み返すのではなく、午前中に作った覚え書きを整理し、後から見ても誤解しにくい形に整えることを選んだ。資料を増やし続けるだけでは、どこに何が書かれているのか分からなくなる。長く残すためには、確認できたことと疑問を整理する時間も必要だった。
作業机へ戻ると、セリーは自分の書いた紙を丁寧に重ね、清書の準備を始めた。俺は同じ机の反対側に、三〇八号室の記録についての新しい分類を書き出す。少年の願いが残されていること、今読める文面が直接の引用かどうか不明なこと、現状や安全な伝達手段を知らないこと。この三つを分けるだけで、昨日よりも覚え書きは読みやすくなった。
ただ、そこまで整理すると、俺はほかの二人の子供に関する記録についても気になり始めた。ナディアの子供と、封印保存された少年は、三〇八号室の少年とは別の存在として扱っている。古い施設に関する資料だからといって内容を一つにまとめれば、それぞれに残された事情や、資料を扱った人の判断まで曖昧になってしまうだろう。
俺は三人の情報をまとめて比較するのではなく、今は三〇八号室に関する覚え書きだけを整えることにした。ほかの二人については既存の管理位置を確かめ、情報が混ざらないように印を残す。それぞれの記録がいつか関係するかもしれないという想像はできるが、現時点ではそれを裏づける材料がない。
「主様。先ほどから少し考え込んでいらっしゃるようでしたので、お声をかけてもよろしいでしょうか。古い記録について、何か新しいことが分かったのでございますか」
セリーが顔を上げたので、俺は首を横に振った。新しい事実が見つかったというより、記録を混同しないための整理をしていたのだと伝えると、彼女は安心したように頷いた。彼女も少年の願いを大切にしたいと考えているが、資料の形が似ているからといって別の人の事情を重ねるべきではないという点には同意している。
「私も、誰かのお望みを考えるときには、その方自身の記録をまず大切にしたいです。以前は、似たようなことが書いてあると同じものとして扱ってしまいそうでしたが、今は一人ずつ違う方なのだと思っております」
「うん。それでいいと思う。俺たちは答えを急がなくていいから、今の段階で分けておけば、あとから新しい資料を読んだときにも混乱しにくいはずだよ」
俺がそう答えると、セリーは少し笑って自分の文章へ戻った。机の上には、俺が整理している古い記録と、彼女がこれから誰かへ送ろうとしている新しい言葉が並んでいる。二つの紙はまったく違うものだが、どちらも誰かの気持ちを勝手に書き換えないようにしたいという、今の俺たちの考えにつながっているようだった。
しばらくすると、セリーが清書を終えたらしく、筆記具を置いた。彼女はすぐには紙を差し出さず、書いた文字を最初から最後まで黙って読み返している。途中で一か所だけ言葉を書き直し、余白に残っていた小さな印も整えてから、ようやく俺へ顔を向けた。
「主様。私、ブラート様へお返事をお送りしたいと思います。何度か書き直しましたが、今の私が伝えたいことを、ようやく文章にできた気がいたします。ただ、お送りする前に、失礼なところがないか一緒に確かめていただけますか」
「もちろん。セリーが見せたいところだけでいいからね。俺が勝手に全部直すつもりはないし、言い方を変える必要がないと思ったら、そのまま送ればいい」
彼女が差し出した紙には、ブラートからの返事への感謝と、自分が手仕事の品に興味を持つようになった理由が書かれていた。自分で袋を作って使ううちに、便利さや見た目だけでなく、作り手の工夫を知りたいと思うようになったこと。季節の花については、見たことのない珍しい花だけでなく、毎日少しずつ違う姿になるものを眺めることが好きだと感じたこと。その二つが、背伸びをせずに自分の言葉で書かれていた。
俺は最後まで読み終えてから、文章を受け取ったときに感じたことを伝えた。知らない町へ行ったことがないという前提を隠さず、そのうえで何に興味があるのかを説明しているので、俺には自然に感じられた。わざわざ大げさな言葉へ直さなくても、今のセリーの気持ちは十分伝わると思った。
「主様。ありがとうございます。私、以前は何かをお願いするとき、相手の方が望まれる言葉を選ばなければならないと思っておりました。でも今は、自分がどう感じているのかを、失礼にならない形でお伝えしたいと思っております」
「それがいいと思うよ。相手の気持ちを考えるのは大切だけど、喜ばれそうな言葉だけを選んでたら、セリーの考えが見えなくなっちゃうかもしれないからね。ブラートだって、返事をくれたのはセリーの言葉を読んでくれたからなんだろうし」
彼女は頷き、もう一度紙を確かめた。最後には、もしブラート自身が気に入っている手仕事の品や季節の景色があれば、いつか無理のないときに話を聞いてみたい、と添えられていた。新しい道や宿を調べてほしいという依頼ではなく、一人の相手が何を好きなのかを知りたいという気持ちが表れている。
「セリー。この最後の一文、いいね。ブラートが好きなものを聞いてみたいっていうのは、俺が今まであまり考えなかったことかもしれない。あいつには助けてもらうことが多かったけど、たまには普通に好きなものの話をしたいな」
「私もそう思いました。主様の大切なご友人だからというだけではなく、私自身も、ブラート様がどのようなものを楽しいと思われるのか知りたいのです。もしお答えいただけなくても、そのときは無理にお尋ねしないつもりでございます」
俺はその気持ちを尊重し、通信の魔導具を使う準備をした。送信先はこれまでどおりブラートだが、今回はセリー自身の文章だと分かるようにし、俺の短い挨拶は必要な範囲にとどめる。彼女が書いた言葉は本人に最後まで読み直してもらい、送ってよいか確認してから操作した。
淡い光が静まると、セリーは自分の紙をそっと胸元へ寄せた。昨日まで迷いながら選んでいた言葉が、今は通信の向こうへ届けられている。彼女はほっとしたように息を吐き、少し遅れて嬉しそうな笑みを浮かべた。
「主様。お送りできました。私、今回は前より緊張しなかったように思います。ブラート様からすぐにお返事をいただけるかは分かりませんけれど、私自身が伝えたいことを考えて送れたので、それが嬉しいのでございます」
「うん。よかったね。俺も、セリーが楽しそうに文章を考えてるところを見られて嬉しかったよ。これから返事が来たら、またセリーのペースで読めばいいし、急いで次の話題を探す必要もない」
セリーは頷き、送信用に清書した紙をどうするか考え始めた。通信の内容そのものは記録に残るとしても、自分の手で書いた文章を残したい気持ちがあるらしい。俺は棚に共有用の紙と私的な紙を分けてしまえる場所があると伝えたが、最終的にどこへ置くかは彼女へ任せた。
彼女は自分の布袋へ紙をしまいながら、これからも自分で書いた言葉を残していきたいと話した。袋の中がいっぱいになる可能性もあるが、今すぐ新しい道具を作る必要はない。増えたときにどうしたいかを考えればよいと伝えると、彼女は微笑み、まずは今の袋を大切に使いたいと答えた。
夕方が近づき、窓から差し込む光は少し赤みを帯びてきた。俺たちは机の上を片づけ、今日整理した三〇八号室の記録を、ほかの子供たちの資料と混ざらない位置へ戻した。共有の覚え書きには、少年の願いに関する記録があること、その成立過程の一部が不明なこと、現在の状態と安全な伝達方法が未確認であることを分けて残した。
セリーは片づけを終える前に、紙の端に小さく『本人の言葉だと決めつけない』と書き加えた。俺はその表現が少し気になり、願いの内容まで疑っているように読めないか尋ねた。彼女はしばらく考えたあと、『本人の言葉をそのまま写した記録かどうかは未確認』へ書き直し、こちらの方が正確だと思うと答えてくれた。
「主様。私、短く書けば分かりやすいと思ったのですが、短くしたために違う意味になってしまうこともあるのですね。少年のお望みが記録されていることは大切にしながら、まだ確かめていない部分だけを残したいです」
「うん。俺も最初の書き方だけを見たら、何か別のことを想像したかもしれない。こうやって相談して直せるなら、二人で記録を残す意味もあるよね」
彼女は安心したように微笑み、紙を所定の場所へ収めた。今朝は記録を見直しても大した進展はないかもしれないと思っていたが、実際には言葉を一つずつ確かめるだけで、以前の俺たちが知らずに加えていた想像を見つけることができた。古代の謎が解けたわけではないものの、次に向き合うときの足場が少し整ったように思えた。
夕食の準備を始めると、厨房には野菜を煮る香りが広がった。セリーは自分で食材を選び、俺には切り分けを手伝ってほしいと頼んでくれる。今朝はパンの香りから始まった一日だったが、夜には別の料理の匂いが塔の中へ漂い、同じ場所でも時間によって空気が変わっていくことが分かった。
「主様。今日、私は自分の言葉をブラート様へお送りできました。それから、少年の記録を読み直して、書かれていることと私たちが想像していたことを分ける必要があると知りました。別々のことをしていたようで、少しつながっているようにも思います」
「俺もそう感じたよ。新しく何かを伝えるときも、残された言葉を読むときも、その人が何を言いたかったのかを勝手に決めたくないんだと思う。もちろん、全部分かるわけじゃないけどね」
セリーは頷き、料理を器へよそった。俺たちは今日の作業を成功や失敗だけで分けず、できたことと残った疑問を食卓で静かに話し合った。古い塔にはまだ多くの資料が残っているが、その一つひとつを急いで読み終えることより、目の前の記録を取り違えずに扱いたかった。
夕食後、いつもの窓辺へ並ぶと、森は夜の色を帯び始めていた。枝先に残る葉は暗くなって輪郭しか見えず、遠くで風が動くたびに乾いた音が聞こえる。セリーは自分の布袋を持ったまま、しばらく窓の外を眺めていたが、やがて俺の方へ顔を向けた。
「主様。私は今日、ブラート様へ自分の好きなことをお伝えできて嬉しかったです。でも、主様が私の知らないことをお考えになる時間も、大切にしていただきたいと思っております。私は主様のことをもっと知りたいですけれど、何もかも私へお話しになる必要はございませんので」
「ありがとう、セリー。俺も同じだよ。話したいことがあったら聞いてほしいし、セリーが自分だけで考えたいことも尊重したい。今日みたいに別々の紙へ向かってても、同じ部屋で過ごせるのは嬉しかったよ」
彼女は静かに頷き、布袋を片手へ持ち替えてから、もう片方の手を俺へ差し出した。俺がその手を取ると、セリーは安心したように微笑み、隣へ少し寄る。遠くの市へ出かけることは見送ったけれど、今の彼女には通信の向こうで言葉を交わせる相手ができ、俺にもその変化を一緒に喜べる時間がある。
「主様。いつか外へ出かけられる日が来ましたら、私は手仕事の品を見て、作った方のお話を聞いてみたいです。でも、それまでにこの塔で作れるものも、まだたくさんあるのかもしれませんね。私自身も、もう少し工夫してみたいことがございます」
「うん。どんなことを考えてるのか、話したくなったら聞かせてほしいな。俺も古い道具を調べるだけじゃなくて、自分たちの暮らしに合うものを少しずつ作ってみたい。今ある布袋や包みも、その途中なんだろうね」
セリーは嬉しそうに微笑んだ。今夜すぐ新しいものを作るとは決めず、明日また天候や気分を見て考えることにする。彼女の中にはまだ言葉になっていない希望があるのだろうし、俺にも調べたい記録や試してみたいことが残っている。互いにすべてを知ってからでなければ一緒に歩けないわけではないと、今は自然に思えた。
やがて休む時間になり、俺たちは手を離して廊下へ向かった。セリーは自分の部屋へ戻る前に、今日ブラートへ送った文章をもう一度読み返したいと話してくれた。俺は好きなように過ごしてほしいと伝え、おやすみと挨拶を交わす。
自室へ戻ると、机の上には今日整理した覚え書きの控えが置かれていた。少年の願いに関する情報は増えたというより、今まで一つにしていた疑問が分かれた形になっている。誰がどう記録したか、本人が今どういう状態なのか、香りを安全に届ける方法があるのか。それぞれの問いに答えるには、まだ別の根拠が必要だった。
(今日は、大きな謎を解いたわけじゃない。でも、あの子が何を望んでいたかを自分の想像だけで決めないために、少しは前へ進めたのかもしれない。それに、セリーが自分の言葉をブラートへ送れたことも、俺には嬉しかった)
窓の外で葉が揺れる音を聞きながら、俺は灯りを落とした。フェルネの秋の市へは今回行かないと決めているし、今夜になって新しい安全な道が見つかったわけでもない。南側通路の石の台も、古い療養施設の記録も、まだ調べたいことをいくつも残している。
それでも、この塔で過ごす時間は、知らないことを一つずつ並べるためだけにあるわけではなかった。自分の言葉を選ぶセリーと食卓を囲み、同じ部屋でそれぞれの考えに向き合い、夜には並んで手をつなぐ。そうした時間を大切にしながら、残された願いにも慎重に向き合っていきたい。
俺は明日の予定を決めきらないまま寝台へ横たわり、今日の終わりを静かに受け入れた。窓の向こうの森は暗く、塔の中には穏やかな夜が訪れている。まだ答えのない問いを抱えたままでも、明日またセリーと相談できることが、今は何より心強かった。




