第173話 セリーに届いた返事と、まだ渡せないパンの香り
目が覚めて最初に聞こえたのは、窓の外を渡っていく風の音ではなく、廊下の向こうで何か小さなものを置く音だった。昨夜は秋の市へ行かないと決めたことを何度も思い返したが、不思議なことに、眠りを妨げられるほど気持ちが沈むことはなかった。寂しさが消えたわけではないものの、セリーと話し、ブラートへ二人の意思を届けたことで、胸の中にあった曖昧な迷いが少し静まっていた。
窓辺へ近づくと、森には朝の光が斜めに差し込み、枝先に残る赤い葉がゆっくり揺れている。昨日までの雨の名残は日陰にしか見えず、塔の入口近くの石畳は乾いた色をしていた。もっとも、外の様子を眺めただけで庭全体の足元を判断するつもりはない。今日は南側通路まで足を延ばす予定もなく、まずは昨夜まとめた記録を棚へ収めるところから始めようと思っていた。
(昨日は、出かけないと決めただけじゃなかった。セリーが自分の言葉を外にいる人へ届けた日でもあったんだよな。ブラートから返事が来るなら、一緒に読めるといいけど、急がせるようなことはしたくない)
机の上には南側通路の石の台について描いた二種類の見取り図が伏せてある。初めは一本につながっているように描いた灰色の部分を、後の観察では離れた箇所として記しており、どちらの紙もそのとき見えた範囲を残したものだ。昨日はセリーと相談し、線と灰色の部分を別々の観察事項に分け直した。記録の整理が済んだからといって正体が明らかになったわけではないが、次に調べるとき、自分たちの推測を事実と取り違えずに済むだろう。
身支度を整えていると、扉の向こうから控えめな声が聞こえた。セリーは朝食の支度を終えてから来たらしく、普段よりも少し長く間を置いて俺の返事を待っている。開けると、彼女は小さな布袋を胸元に持ち、見慣れた穏やかな微笑みを浮かべていた。
「主様、おはようございます。昨夜はゆっくりお休みになれましたでしょうか。今朝は昨日ほど風が強くないようですので、朝食のあとでお庭を見に行くこともできそうでございます。ただ、その前に、私からお話ししたいことがございます」
「おはよう、セリー。よく眠れたよ。話したいことがあるなら、もちろん聞くよ。朝食を食べながらでもいいし、落ち着いてからでも構わないけど、何か気になることがあった?」
彼女はすぐに答えず、手元の布袋へ視線を落とした。口を折り返した部分が開いていないか確かめる指先には、いつもの慎重さがある。しかし、何か失敗したことを報告しようとしている様子ではなく、自分の考えをどう伝えようか迷っているようだった。
「昨日、ブラート様へお送りした文章のことでございます。私は、返事をいただけたら嬉しいと思っておりますが、まだ届いていなくても、今朝のお仕事をそればかり気にして過ごすのは違うように感じました。それでも、つい通信のある方へ目が向いてしまいますので、主様にもお話ししておきたかったのです」
俺は彼女が言葉を選んでくれたことを嬉しく思い、少し笑った。初めて自分の名前で送った文章への返事が気になるのは自然なことだろう。俺自身、ブラートへ大事な話を送ったあとは、ほかの作業をしていても通信の反応が頭の片隅に残ることがあった。
「気になるなら、気になるって思ってていいんじゃないかな。俺だって返事を待つことはあるよ。ただ、いつ届くか分からないから、その間にやりたいことまで全部やめる必要はないと思う。朝食のあと、通信を一度確かめてから、今日の予定を考えようか」
「はい。そうしていただけると嬉しいです。……主様、私から書いた言葉をお送りできたことは、返事の有無とは別に大切にしたいと思っております。ですが、受け取ってくださった方がどう感じられたのかを知りたいと思うのも、私の気持ちなのですね」
セリーは自分の言葉を確かめるように頷き、それから俺の隣を歩き始めた。廊下の窓から差し込む光が、彼女の持つ袋の縫い目を淡く照らしている。中に何を書いた紙が入っているのか俺は知らないが、初めての通信を書いたときの下書きを残すかどうかも、本人に任せていた。自分だけの記録を持つことが、こうして誰かへ言葉を届ける経験にもつながっているのだと思う。
食堂には温かなスープとパンが並び、厨房からは焼き上がったばかりの香りが残っていた。セリーは俺が席へ着いたあと、自分の器の前に腰を下ろし、今朝は特別な工夫をせず、いつもの材料を使ったのだと話した。俺はパンを手に取って一口食べ、表面の香ばしさと柔らかな中身の違いを楽しみながら頷いた。
「今日は、焼き上がりの香りがいつもより強い気がするな。美味しいよ。スープも、パンと一緒に食べるとちょうどいいね」
「ありがとうございます。私も、今朝のパンは香りがよく感じられました。焼き方を大きく変えたわけではございませんが、その日の状態によって少しずつ違うのが面白いですね。……主様、私、この香りで以前のお話を思い出しました」
彼女が何を思い出したのか、俺にも分かった。塔の古い記録に残された三〇八号室の少年のことだ。少年は焼きたてのパンの香りを体験してみたいと望んでいたが、その願いをどう扱うかについて、俺たちはまだ結論を出していない。香りは見えず、届き方も周囲の環境に左右される。本人がどのように感じるかも、普通の食事を楽しむ俺たちの感覚だけでは決められない。
「俺も、ちょうど考えてたところだよ。前にその記録を読んだときは、パンを焼けば何とかなるんじゃないかって、つい思ったんだ。でも、香りを届けるって言っても、相手の状態や周りの設備を知らないまま試すわけにはいかないんだよな」
「はい。私も、願いを叶えて差し上げたいという気持ちはございます。ですが、主様と一緒にお花の支えを考えたとき、よいと思ってしたことが本当に合っているかは、あとで確かめなければ分からないと感じました。少年のお望みについても、私たちが嬉しいと思うことを、そのまま当てはめないようにしたいです」
俺はパンを皿へ置き、セリーの顔を見た。彼女は少年の願いを忘れていたわけではない。むしろ自分たちの暮らしの中で新しく経験するたび、その願いにどう向き合えばよいのか考えていたのだろう。ただ何かを届けたいという気持ちと、安全に届けられることを確かめる必要性を、彼女は今では別々に捉えている。
「そうだね。今日すぐ何か試す必要はないけど、古い記録のどこまで分かっているかを整理し直すのはできるかもしれない。俺たちが知らないことをはっきりさせれば、次に何を調べるべきか考えられるから」
「私も、そのようにしてみたいです。ただ、主様。今日は私が先にお話ししたことでございますので、ほかに主様がなさりたいことがありましたら、そちらもお聞かせくださいませ。私自身も、朝から一つのことだけを考え続けたいわけではございませんので」
「ありがとう。じゃあ、朝食を終えたらまず通信を確かめて、返事がなければ記録の整理をしようか。途中でほかのことをしたくなったら、そのとき相談すればいい」
セリーは安心したように頷き、スープを口へ運んだ。俺も食事に戻ったが、パンをちぎるたびに立ち上る香りが、いつもとは少し違う意味を持って感じられた。自分たちには心地よいこの匂いを、誰かの願いに結びつけるときには、もっと慎重にならなければならない。今朝の食卓は、そうした当たり前のことを静かに思い出させてくれた。
食後の片づけを終えると、俺たちは作業机のある部屋へ移動した。通信の魔導具は窓から少し離れた場所に置かれており、昨夜確認したときには新しい反応がなかった。セリーは自分から近づこうとして、手元の布袋を抱え直すと、俺の方へ振り返った。
「主様。今回の通信は、主様がお使いになっている魔導具へ届くのでございますよね。私もお返事をいただけたら嬉しいのですが、主様宛ての内容まで勝手に読んでしまうのは、よくないように思います」
「うん。ブラートからの連絡先は今のところ俺の方につながってる。ただ、昨日はセリーの文章も一緒に送ったから、もし返事が届いたら、まず誰に向けた内容なのか確かめよう。セリー宛ての部分があれば、どう読むかはセリーに決めてほしい」
彼女は少し驚いたように瞬きをした。俺は送受信の扱いを変えたわけではないが、相手が誰かに向けて書いた言葉を、俺がすべて自分のものとして読む必要はない。自分が手紙を送ったとき、誰に読んでほしいかを考えるのと同じことだと思った。
「ありがとうございます。私、もし私だけにお返事をいただけましたら、自分で読んでみたいです。でも、主様にもお話ししたいと思ったときには、お聞きいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん。話してくれたら嬉しいよ。逆に、すぐ言葉にできなかったり、自分だけで考えたかったりするなら、それでもいい。ブラートが何を書いたか、俺が全部知ってなきゃいけないわけじゃないからね」
そう答えながら魔導具へ目を向けると、いつもと違う淡い光が灯っているのが見えた。声を発するような強い反応ではなく、受信したものが残っていることを示す静かな明滅だった。俺は一瞬、昨夜の確認を思い出したが、今朝までの間に届いたのだろうとしか判断できない。
「……セリー。どうやら何か届いてるみたいだ。差出人だけ確認してもいいかな」
「はい。お願いいたします。……主様、私、少し緊張しております。昨日送った文章に、こんなに早くお返事をいただけるとは思っておりませんでしたので」
俺は差出人の表示を確かめ、ブラートからの通信であることを伝えた。本文を開く前に、彼女と一緒に机へ向かい合って座り、まず宛先や構成だけを確認することにする。通信の冒頭には俺への呼びかけがあり、そのあとに、セリーへ伝えてほしいという一節が設けられていた。
俺は冒頭の短い挨拶だけを読み、続きに彼女への言葉があることを伝えた。ブラートは俺が受け取る魔導具を使っていることを承知のうえで書いているが、セリーに向けた部分は、できれば本人に選んで読んでもらいたかった。
「セリー宛てのところがあるよ。俺の方の用件は、今回の市を見送る判断を了解したってことみたいだ。あとの部分はセリーへ伝えてほしいって書いてある。どうしようか。一緒に読んでもいいし、俺が席を外してもいいよ」
彼女は魔導具の光と俺の顔を交互に見た。ほんの少し迷ったあと、セリーは自分でその部分を読みたいが、最初は俺にも隣にいてほしいと伝えてくれる。俺は頷いて表示を彼女が見やすい位置へ向け、文章を先に読み進めないよう手を離した。
セリーはしばらく黙って文字を追っていた。表情が少しずつ変わり、最初に緊張していた眉がゆるむと、口元には控えめな笑みが浮かんだ。俺はその様子を見守るだけにして、彼女から話してくれるのを待った。
「……主様。ブラート様は、私の文章を読んでくださったそうです。それから、私が自分で考えて書いたことが伝わってきた、とおっしゃってくださいました。私、そのように受け取っていただけたことが、とても嬉しいです」
そう言う彼女の声は、いつもより少しだけ揺れていた。魔導具へ向けた指先がかすかに止まり、彼女は一度息を整えてから続きを読んでいる。何か重大な知らせが来たのではない。ただ、自分で送った言葉が相手へ届き、相手も自分に向けて言葉を返してくれた。そのことが彼女にとって初めての重みを持っているのだと、俺にも伝わってきた。
しばらくして、セリーは表示から顔を上げた。頬にわずかな赤みが差しており、笑みを浮かべたまま、何かを確かめたいように俺を見つめる。俺が首を傾げると、彼女は返事の中に、これまで自分では考えたことのなかった問いがあったのだと話してくれた。
「ブラート様は、フェルネの市へ行かなかったことを残念に思うのは自然なことだと書いてくださいました。それから、今後また外出の機会を考えるのであれば、私が何を見たいと思っているのかを、主様にだけでなくブラート様にも教えてほしい、と。私が見てみたいものの話を聞くのは楽しそうだと、おっしゃるのです」
「へえ、ブラートらしいな。あいつは人の話を聞くとき、答えを急いで決めないところがあるからね。セリーがどんなものに興味を持ってるのか、純粋に知りたいんじゃないかな」
そう言ってから、俺は少し考え直した。ブラートが何を思って書いたかを、俺が代わりに断定することはできない。セリーも同じように感じたらしく、嬉しいけれど、どう返事をすればよいか迷っているのだと率直に話してくれた。
「私、季節のお花や手仕事の品を見てみたいと思っています。ですが、実際にはどのようなものなのか知らないので、うまく説明できる自信がありません。自分の気持ちなのに、言葉にするのがこんなに難しいこともあるのですね」
「知らないから見てみたい、っていうのも立派な理由だと思うよ。俺だって、初めて見るものがどんな形なのか、説明できないことはたくさんある。ブラートに何か伝えるとしても、今のセリーが思ってる範囲でいいんじゃないかな」
彼女はゆっくり頷いたが、すぐに文章を書き始めようとはしなかった。届いたばかりの返事を、もう少し自分の中で味わっていたいらしい。俺はその気持ちを尊重し、返信の時期まで決める必要はないと伝えた。
「主様。私、もう少し読んでから考えてみたいです。それから、ブラート様が書いてくださった言葉のうち、主様にもお聞きいただきたいところがございます。私が読んで差し上げてもよろしいでしょうか」
「もちろん。セリーが話してくれるなら、喜んで聞くよ」
彼女は魔導具へ向き直り、最後の方にある短い一節を、ゆっくり声に出した。そこには、市は決まった日に開いて終わるけれど、誰かが外の景色を見てみたいと考えたことまで、そこで終わりにする必要はない、と書かれていた。さらにブラートは、無理をせず帰れる日を選んだのなら、それは外出への準備を放り出したこととは違うだろう、と続けていた。
俺はセリーの声を聞きながら、昨日の朝、二人で見送りを決めた場面を思い出した。彼女は残念だと話し、それでも安全な道が分からないまま出かけることは望まないと、自分の言葉で選んでくれた。ブラートはその場にいなかったが、セリーが送った文章から、少なくとも決断の大切さを受け取ってくれたのだろう。
「……いい言葉だね。俺も、市に行かなかったことを『何もできなかった』って思わずにいたい。セリーが外へ行きたいって言ってくれたことや、そのために俺たちが考えたことは、これからも残るんだから」
「はい。私もそう感じました。主様、私……自分が書いた言葉に、別の方からお返事をいただけるというのは、不思議な経験でございますね。私一人では思いつかなかった見方を、教えていただいたような気がいたします」
セリーの視線は、もう一度文字へ戻った。彼女は通信を閉じる前に、自分宛ての部分をあとで読み返したいと申し出る。俺は受け取った文面を誤って消したりしないよう残せる状態か確かめ、少なくとも今はそのまま保管されていることを伝えた。紙へ写すかどうかは本人が決めることで、急いで複製を作る必要もなかった。
ブラートから俺に宛てた部分には、見送りの判断を了解したことと、塔の場所を外へ知らせるような調査をこれ以上進めないという返答が書かれていた。フェルネの道や宿について新しい確証はなく、今回の市へ行ける条件が後から整ったことにもなっていない。俺はその事実をセリーにも伝え、今後の外出については別の機会に一から状況を確かめる必要があると確認した。
「主様。ブラート様は、私たちがお願いしたことを守ってくださったのですね。私は、そのことにも安心いたしました。……あの、もしよろしければ、いつかブラート様にもお会いしてみたいと思います。でも、今すぐではございませんし、安全な方法が分からないうちは、無理に会おうとは思いません」
その希望は、俺にとって少し意外だった。セリーはブラートを通信の向こうにいる俺の友人として知っているが、彼女自身の言葉を送って返事を受け取ったことで、相手を自分とも関わりのある一人として感じ始めたのかもしれない。俺は思わず笑みを浮かべ、それはいいね、と答えかけてから、約束のように聞こえないよう言葉を選び直した。
「俺も、いつか安全に会える機会があったら嬉しいよ。ただ、今は塔から出る道も分からないし、ブラートにも都合がある。会うかどうかは、条件が整ったときに三人それぞれの希望を確かめてからにしよう」
「はい。私も、そうしたいです。……主様、私が今まで知らなかった方とお話ししたいと思うことを、こうして聞いていただけて嬉しいです」
彼女は布袋を膝に置き、両手をその上で重ねた。今の暮らしが二人だけで完結しているからといって、セリーがほかの誰かに興味を持ってはいけないわけではない。俺は彼女と過ごす時間を大切にしたいが、そのために彼女の世界を狭くしてしまうのは望んでいなかった。
(セリーが誰かと話したいって思えるようになったのは、嬉しいことだ。少しだけ、俺の知らないところでも彼女の世界が広がっていくんだろうな。俺はその全部を知る必要はないし、知らないままでも隣にいられる関係でいたい)
俺はそう思いながら、作業机の上に残っていた見取り図を棚へ戻した。セリーはまだ受信した文章を読み返していたので、こちらから作業を切り替えようとは言わない。しばらくして彼女が顔を上げたとき、俺たちは今日の残りをどう過ごすか、改めて相談することにした。
庭の花は気になっているが、毎朝必ず見に行かなければならないと決めたわけではない。窓から見える木々は穏やかに揺れているものの、石畳の一部にはまだ影が残っている。セリーは今日は庭を短く確かめ、そのあと、今朝話題になった三〇八号室の少年の記録を一緒に読み直してみたいと言った。
「主様。ブラート様からのお返事をいただいて、私は自分の言葉を受け取ってもらうことの嬉しさを知りました。ですから、少年の願いについても、まず何を望まれていたのか、記録に残された言葉を大切に扱いたいと思うのです。ただ、私たちが読むことと、ご本人へ何かを届けることは別だとも分かっております」
「うん。俺も、今の記録で何が確認できてるのか整理したい。香りを再現する方法を見つけるのは、もっと後の段階かもしれないね。今日はそこまで進めるつもりはないよ」
彼女は了承し、自分の布袋から庭の記録紙だけを取り出した。俺も筆記具と記録板を用意し、通信の魔導具はそのままにして外へ向かう。ブラートからの返事を受け取った喜びを急いで片づける必要はないが、一日の中で別のことに目を向ける時間も持っていたかった。
塔の入口を出ると、朝より少し暖かくなった空気が頬に触れた。風は弱く、乾いた石畳の上を落ち葉が一枚だけ転がっていく。庭の鉢の近くには日差しが届いており、支えを外した花は少し横を向いたまま、淡い色の花びらを開いていた。
セリーはいつもの位置で足を止め、昨日描いた絵と花の向きを比べた。茎の色が違って見えるところはまだ残っているが、少なくとも離れたところから分かるほどの裂け目や大きな折れはない。昨日と今日では光の方向が少し違うため、彼女は変化なしと言い切らず、目立った違いは確認できない、と記録した。
「主様。私は今日も、何も触らずにお花を見ていたいと思います。布を外してから大きく変わったようには見えませんし、今の姿を見ているだけでも嬉しいですから」
「いいね。俺も賛成だよ。前に気になってた茎の色が何なのかは分からないけど、だからこそ決めつけずに見ておこう。……それに、今日は花びらの縁がずいぶん綺麗に見えるな」
俺がそう言うと、セリーは花へ向き直って微笑んだ。彼女は自分のために花びらの形を少し細かく描き、共有用の記録には茎と布が触れていた位置だけを簡潔に残す。二つの紙へ書く内容を自分で選ぶ姿には、以前よりも迷いが少なくなっているように思えた。
そのあと、庭の湿った場所を安全な位置から短く観察した。雨の直後に比べて土の色が明るく見える部分は増えているが、木陰の湿りまで解消したとは分からない。南側通路の石の台へは向かわず、今日は新しい観察を行っていないことも記録へ残した。
塔へ戻る道で、セリーは急に歩調を緩めた。俺が振り返ると、彼女は少し迷った表情のまま、自分から話してくれる。ブラートの返事を読んで嬉しかったのに、その内容を全部俺へ教えなくてもよいと言われたことが、今になって不思議に感じられたらしい。
「主様。私は主様と何でもお話しできることが嬉しいのです。ですが、それと、自分だけで考える時間を持つことが両立するのだと、今朝あらためて感じました。主様にも私へ話したくないことがございましたら、無理にお聞かせいただく必要はございませんから」
俺は彼女の横顔を見つめ、少し考えた。秘密を持つことと、相手を信用していないことは同じではない。むしろ、何でも知らなくても一緒にいられると信じられるからこそ、自分のための時間を大切にできるのかもしれなかった。
「ありがとう。俺も何か話したくなったらセリーに聞いてほしいし、そうじゃないときは少し考える時間をもらうかもしれない。もちろん、大事な安全のことや、二人に関係する判断なら、必要な情報は隠さず話し合いたいと思ってるよ」
「はい。私も、暮らしや安全に関わることは一緒に考えたいです。そのうえで、今日のように自分宛ての言葉を受け取ったときには、どう扱うかを自分で選んでみたいと思います」
彼女の返事を聞きながら、俺たちは入口の石畳へ戻った。扉のそばに積もった乾いた葉を避けて歩き、屋内に入る前に靴の汚れを落とす。普段と変わらない帰り道だが、今日は彼女が通信の向こうにいる相手と、自分の意思で関わろうとしていることが心に残っていた。
午前中の終わりにはまだ少し時間があったので、俺たちは古い療養関係の記録を保管している場所へ向かった。必要な資料を一度に運び出すのではなく、以前確認した三〇八号室に関係する記録の所在を調べ、今回の目的に必要なものだけを取り出す。棚に残る古い資料は、見つけたものを片端から開けばよいというものではないし、保存状態が分からないものを不用意に動かしたくもなかった。
目的の記録を作業机へ持ち帰ると、俺は最初に、少年について何が確かめられているのかを声に出して確認した。三〇八号室の少年が焼きたてのパンの香りを体験してみたいと望んでいたことは、これまで読んだ情報から分かっている。しかし、今の俺たちがその願いを実現できるかどうかは別で、本人へ香りを届ける経路も、現存する設備がどのように働くかも確認できていない。
セリーは一枚目の紙に、少年の望みとして分かっていることだけを書いた。俺はもう一枚の紙へ、香りを届けるとした場合に確かめる必要があることを挙げる。そこで筆記具が止まったのは、少年が現在どのような状態にあり、どのような刺激をどう受け取れるのかについて、今の手元の情報だけでは十分に説明できなかったからだ。
「主様。私、最初はパンを焼いた場所から香りを運ぶ方法を考えればよいと思っておりました。ですが、ご本人がどのような状態でその香りを受け取るのかを知らなければ、運ぶ方法だけ決めても意味がないのですね」
「そうだね。それに、本人が以前そう望んだことと、今どんな形でも届けていいっていうことは別だと思う。状況が変わってる可能性だってあるし、確認できないことを勝手に埋めちゃいけない」
セリーはゆっくり頷き、最初の紙には「望みが記録に残されていること」、二枚目には「現在の受け取り方や安全条件は不明」と書き分けた。その横で俺は、普段厨房でパンを焼くときに香りが広がることと、古い療養施設へ安全に届けられることを結びつけないよう注記した。香りの強さも、届く範囲も、俺たちの感覚でおおよそ推測するだけでは足りない。
『主様。既存の情報だけでは、対象者への感覚刺激の伝達手段と、その影響を安全に評価する条件を確定できません。古代設備の機能を想定して検証する場合も、対象者の状態と設備の動作条件を区別して確認する必要があります』
エルの声に、俺は腕輪へ目を落とした。二千年前の技術について多くの情報を持つエルでも、記録にない現在の状態を知っているわけではない。古代の資料を参照できることが、そのまま今の少年の感じ方まで知っていることにはならないのだ。
「ありがとう、エル。今日のところは、できるかどうか判断する前に、どんな情報が足りないのかを整理するよ。機能があるはずだとか、前にそうだったから今も同じだとか、そういう決め方はしないつもりだ」
資料の束には、ほかの子供や別の部屋に関係する記録も含まれていた。以前から追っているナディアの子供の情報や、封印された状態で保存されていた少年に関する事項は、三〇八号室の少年の願いとは分けて扱う必要がある。俺は名称や記録の形式が似ているからといって同一の人物だと考えないよう、三つの項目をそれぞれ別に記しておくことにした。
セリーはその作業を見ながら、少しだけ眉を寄せた。誰かの願いを大切にしようとして資料を読み返しているのに、別の子供の事情を同じものとして扱ってしまえば、本人たちの記録を取り違えることになる。彼女は自分の筆記具を置き、慎重に口を開いた。
「主様。私、記録の中に子供たちのお名前やお部屋の情報が出てくると、みなさんが同じ場所で似た経験をなさったのではないかと考えてしまいそうになります。でも、今の私にはそれを確かめられませんし、一人ずつ違う望みがあったはずだということも忘れたくありません」
「うん。俺もそのつもりで整理したい。記録に書かれてないことまで、同じ施設にいたからって決められないからね。今日は三〇八号室の願いについて考えてるけど、それ以外の人の記録がどう関係するかは、まだ分からないまま残しておこう」
彼女は胸元で手を重ね、静かに頷いた。二人で資料を読み進めても、今日すぐ新しい方法が見つかったわけではない。けれど、少年の願いを実現するために必要な条件が、これまでより明確に分かれた。香りそのもののこと、設備のこと、そして何より本人の状態や意思を確かめること。順番を取り違えないために、今はできないことをできないと記録する意味があった。
昼食の時間が近づくと、俺たちは作業を切り上げた。資料は取り出した順番を確かめて元の場所へ戻し、共有の覚え書きだけを机の端に残す。少年の願いについて書いた紙をセリーが少し長く見つめていたので、俺は彼女に疲れていないか尋ねた。
「大丈夫でございます。ただ、主様。今朝ブラート様から私へのお返事が届いたとき、私はとても嬉しかったのです。それで、少年もご自分の望みを誰かが聞いてくれたら嬉しいのだろうかと、考えておりました。けれど、それは私の気持ちであって、少年のお気持ちはまだ分からないのですね」
「そうだね。でも、そのことに気づいてくれたのは大事だと思う。誰かが喜ぶかもしれないって想像するのは悪いことじゃない。ただ、相手がどう感じるかは相手のものだって、忘れたくないな」
俺が答えると、セリーは少しだけ笑った。彼女は願いを叶える方法が見つからなかったことを、無理に前向きな結果として受け止めようとはしなかった。今はできないことが残念で、いつか安全に確かめられる方法が見つかれば嬉しい。その両方を持ったまま、今日の記録を大切にしたいのだという。
厨房へ移動すると、朝に焼いたパンの残りが、清潔な場所へしまわれていた。昼食には別の料理を用意するつもりだったが、セリーはパンをもう少し温めて食べたいと話してくれた。今朝の記録を読んだからといって、普通にパンを味わうことをためらわなければならないわけではない。俺たちは自分たちの食事として楽しむことにし、少年のための試験だという扱いにはしなかった。
温めたパンを器へ移すと、香ばしい匂いが厨房に広がった。俺はその香りを確かめながら、以前ならこれだけで誰かの願いを叶える第一歩になったと思っていたかもしれない、と考えた。今は、自分が感じている心地よさと、相手へ何かを届ける責任を分けて考えられるようになった気がする。
「主様。私は、この香りが好きです。今日も美味しくいただきたいと思います。でも、好きだからこそ、別の方にも必ず喜んでいただけると決めつけないようにいたします」
「うん。俺も好きだよ。だから今は、俺たちが美味しく食べよう。あの子のことは、必要な情報が増えたときにまた相談しよう。それまで願いを忘れずに残しておくことなら、今日からでもできるからね」
食卓へ移ると、窓から差し込む午後の光が器の縁に落ちていた。セリーは一口食べてから、今朝より香りが穏やかになったように感じる、と自分の感想を話してくれる。俺も食べ比べながら、温め方や時間によって感じ方が変わることを確かめたが、それを誰かへ届けられる根拠としては扱わなかった。
午後はそれぞれの記録を整える時間にした。俺は少年の願いに関する共有の覚え書きを清書し、セリーはブラートから届いた文面をもう一度読み返している。彼女が書き写したいと思う言葉は、自分の私的な紙へ残すつもりらしい。俺が作業を一区切りにして顔を上げると、セリーは筆記具を置き、何かを決めたようにこちらを見た。
「主様。私は、ブラート様へもう一度お返事を書きたいと思います。ただ、今日はまだ送らずに、自分の言葉を考えてみたいのです。見てみたいものについてもお伝えしたいですが、今の私がどうしてそれを見たいと思うのか、もう少し考えてからにしたいのでございます」
「いいと思うよ。返事をもらったからって、すぐに書き終える必要はないしね。ブラートもいつでも通信を読めるとは限らない。セリーが自分で納得できる言葉になったときに、送るかどうか決めればいいと思う」
彼女は礼を言い、白い紙を自分の前へ置いた。最初の一行を書きかけては筆記具を止め、窓の外に残った葉を眺める。その様子を見て、俺は何を書いているのか尋ねたい気持ちを抑える必要さえ感じなかった。セリーが誰かへ伝えたいことを探している時間も、彼女自身の暮らしの一部なのだ。
夕方、机の上を片づけ終えたとき、セリーは新しい紙をまだ送らず、自分の布袋へしまった。俺が作業は終わったのかと尋ねると、今日は言葉が少し見つかっただけで十分だと答えてくれる。昨夜の彼女なら、返事を受け取ったらどうすればよいか迷ったかもしれない。今日は、自分の言葉が整うまで待つことを自分で選んでいた。
「主様。ブラート様に見せていただきたいものを尋ねられて、私は季節の花と手仕事の品を思い浮かべました。でも、その二つを思い浮かべた理由は同じではないように感じるのです。お花は今のお庭でも大切にしておりますし、手仕事の品は作った方が何を考えられたのかを知りたくなります」
「なるほど。セリーが自分で布袋を作ったから、ほかの人が作ったものにも興味があるのかもしれないね。でも、それは俺の想像だから、違ったら教えてほしいな」
セリーは少し考えてから、たぶんそれもあると思います、と微笑んだ。布を切るときにどこを残すか、縫い目をどう揃えるか、使った人がどこを直すか。自分が作った小さな袋一つにも考えることがたくさんあったから、知らない誰かが作った品を見ると、その人の工夫を知れるかもしれないと感じるのだという。
「主様。私、以前は出来上がったものを見て、きれいかどうかばかり考えていたかもしれません。でも、今は作る途中のことも気になります。ブラート様には、そんな気持ちをうまく伝えてみたいです」
「いいね。その言葉なら、セリーが何を見たいのか、俺にも前より分かった気がするよ。急いで文章を完成させなくていいから、大切に考えてみて」
彼女は嬉しそうに頷き、自分の袋をそっと持ち直した。今朝はブラートからの返事を待っていた彼女が、夕方には自分から何を伝えたいか考えている。その変化は派手ではないが、塔の中だけに向けられていた彼女の関心が、少しずつ外の人へ広がっていくように見えた。
夕食の準備をする頃には、窓の向こうで風が冷たくなり始めていた。俺たちは厨房で温かな料理を作り、今日は香りづけを控えめにして、食材そのものの味を楽しむことにした。セリーは食事をよそいながら、今朝のブラートの言葉についてもう一つ話したいことがあると申し出る。
「主様。私は、自分の言葉を受け取っていただけて嬉しかったです。でも、主様がいつも私の話を聞いてくださることも、同じくらい大切だと感じました。主様が私の希望を尋ねてくださらなければ、私は誰かへ何を伝えたいのか、考えることも少なかったかもしれません」
俺は彼女へ顔を向け、返事を考えた。俺が何かをしてあげたから彼女が変わったという言い方は、少し違う気がした。自分で選ぶことは、俺が許可したから初めて生まれたわけではない。セリー自身が何度も迷い、そのたびに考えて、一つずつ言葉にしてきたことを忘れたくなかった。
「俺が聞けたのは、セリーが話してくれたからだよ。布袋を自分で作りたいって言ったのも、花の様子を見たいって誘ってくれたのも、ブラートへ文章を書きたいって決めたのも、セリー自身だ。俺はその気持ちを聞けて嬉しかったんだと思う」
セリーは少し驚いたように瞬きをした。やがて、器を持っていた手をゆっくり下ろし、胸元に軽く添える。彼女の頬に淡い赤みが差し、微笑みかけては言葉を探すように視線を落とした。
「……ありがとうございます、主様。私、自分で考えて決めたことなのだと、もっと大切にしたいです。それから、主様もご自身の望みを私へ聞かせてくださいませ。私だけが新しいことを見つけるのではなく、一緒にいろいろなことを選んでいきたいのでございます」
「うん。俺もそうしたい。今日は三〇八号室の記録を一緒に見直せてよかったし、あの子のことを忘れずにいたいっていう気持ちもある。でも、セリーと食事をして、庭を歩いて、こうやって話す時間も、全部俺が選びたいものなんだ」
セリーは静かに頷き、それ以上言葉を急がなかった。食卓に料理を運び、二人で向かい合って座ると、いつもの夕食が始まる。窓の外に広がる森は暮れかけ、室内の灯りが器の表面を柔らかく照らしていた。
食事を終えたあと、俺たちは窓辺で少しだけ過ごした。ブラートへの返信はまだ送っておらず、少年の願いを実現する方法も分からない。南側通路の石の台についても、今日は新しい観察をしていない。けれど、今朝まで曖昧だったことのうち、二人が何を知り、何を知らないかは、少しはっきりしたように思えた。
「主様。私は今日、ブラート様からのお返事を読めて嬉しかったです。そして、すぐにお返事をしなくてもよいと分かって、ほっといたしました。これからも、誰かに何かを伝えるときには、自分がどう思っているのかを考えてから言葉にしたいです」
「俺も、セリーの考えを聞けて嬉しかったよ。いつかブラートと会う機会があるかどうかは分からないけど、こうやって言葉を交わせる相手が増えたのは、いいことだと思う。もちろん、会うことも返事をすることも、セリーが望んでからでいい」
彼女は微笑み、俺の隣へ少し近づいた。手を差し出してよいか確かめるように視線を向けられたので、俺も自然に手を伸ばした。指先が触れ合うと、彼女は安心したように目を細め、そのまま二人で窓の外の枝を眺める。
秋の市を見送った日の翌朝には、どこかで寂しさを引きずるのではないかと思っていた。実際、今も見られなかった景色を想像することはあるし、知らない町へ行ってみたい気持ちも残っている。しかし、それとは別に、セリーの世界が通信の向こうへ少し広がったことを、今日一緒に喜べた。
やがて夜も深まり、俺たちは休む準備を始めた。セリーは自分の布袋を大切そうに持ち、書きかけの返事については明日以降に考えると話してくれる。俺はその判断を尊重し、少年の記録も明日また必要に応じて読み返せるよう棚へ収めたことを伝えた。
自室へ戻り、灯りを落とす前に机の上を見渡す。古い石の台の見取り図、外出準備の記録、そして三〇八号室の少年について新しく分けた覚え書き。いずれも、今日すぐに答えを出すためのものではない。むしろ、分からないことが残っているからこそ、次に調べるときに何を確かめればよいか忘れずにいたかった。
(今日は、セリーが自分宛ての言葉を受け取った日だった。俺は全部を読んだわけじゃないし、彼女がどんな返事を書くのかもまだ知らない。それでも、彼女が嬉しそうにしていたことは、今夜の俺にとって十分大切な出来事だ)
窓の外からは、静かな葉擦れの音が届いていた。遠くの町で秋の市が開かれる日は近づいているが、俺たちは今回、その場所へ向かわないと決めている。見送るという選択は変わらないまま、セリーの行きたい場所や会ってみたい相手が、一つずつ増えていくのだろう。
そして古の塔には、まだ願いを記録に残した人々がいる。三〇八号室の少年が望んだ香りも、ほかの資料に残る出来事も、俺たちの都合だけで答えを決めてよいものではなかった。今日、ひとつの返事を大切に受け取ったセリーとなら、そうした記録にも、これから少しずつ向き合っていける気がした。
灯りを落として寝台へ横たわると、夕食のあとに見た彼女の微笑みが思い浮かんだ。明日、セリーがどんな言葉を見つけるのかは分からない。俺自身が塔の中でどんなことを確かめたくなるかも、今のところ決めていなかった。ただ、同じ朝を迎えて、また互いの希望を聞く時間があると思うと、夜の静けさは心地よかった。




