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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第172話 秋の市を見送る日と、塔から送る初めての言葉


 朝の光が寝台の足元まで伸びていた。窓の外に広がる森は昨夜より静かで、木々の梢を渡る風にも、冬の近づきを思わせる冷たさが混じっている。俺は上着を羽織りながら、机の端に置いた二枚の見取り図へ目を向けた。


 昨日、南側通路の古い石の台を安全な場所から眺めたとき、手前の灰色の部分は一続きにも、複数に分かれたものにも見えた。落ち葉が間を隠しているうえ、観察した位置や光の向きも以前と同じではない。以前描いた線を消さず、見えた範囲をその都度残すことにしたが、何かの正体が分かったわけではなかった。


 その隣には、もう一枚、別の紙がある。フェルネの秋の市へ出かけるため、セリーと一緒に書き始めた確認事項だ。安全な往復経路、移動に要する時間、天候に左右される枝道、宿泊できる場所、それから人前で身元を知られることへの備え。項目を眺めると、確かめられたことより、まだ空欄のままのことの方が多かった。


(市が始まるまで、もう一週間ほどしかない。ブラートは俺たちのために調べてくれたけど、塔の場所を知らせずに調べられる範囲には限りがある。いつまでも返事を待つだけじゃ、俺たち自身の判断を先延ばしにしてることになるな)


 気づけば俺は、紙の端を指で押さえていた。出かけたい気持ちが消えたわけではない。セリーと一緒に、手仕事の品を見たり、初めての店で言葉を交わしたりしたいという願いは、むしろ準備を重ねるほど具体的になっていた。だからこそ、その願いだけに任せて危険な道へ踏み出すことはしたくなかった。


 廊下から軽い足音が近づき、扉の向こうでセリーの声がした。俺が返事をすると、彼女はいつものように朝の挨拶をしてから、今朝は庭の花が気になっているのだと教えてくれた。支えを外した茎は昨日も少し横を向いていたが、布が当たっていた部分の色の違いがどうなっているか、日差しのあるうちに確かめたいらしい。


「おはよう、セリー。花は朝食のあとに見に行こう。足元が悪くなければだけどね。それと、今日はフェルネのことも、ちゃんと話したいと思ってるんだ」


「おはようございます、主様。フェルネのことでございますか。昨日、道や宿泊について新しいお知らせは届いておりませんでしたが、何かお考えになったことがあるのでしょうか」


「うん。今朝、予定を書いた紙を見てたんだ。行きたいからこそ、いつまでなら安全に準備できるのか考えたい。何も分からないまま開催日が来るのを待つのは、少し違う気がしてね」


 セリーはしばらく黙って俺の顔を見つめたあと、ゆっくり頷いた。すぐに賛成や反対を口にしなかったのは、彼女も自分の気持ちを確かめているからだろう。俺は急いで答えを求めず、まずは温かい朝食を食べながら相談しようと伝え、二人で食堂へ向かった。


 食堂では、焼いたパンと野菜の香りが穏やかに広がっていた。セリーは新しい味つけを試したわけではなく、今朝は以前から二人が気に入っている作り方に戻したのだと話してくれた。毎日何かを変えなければならないわけではなく、好きな味をもう一度楽しむ日があってもいい。その言葉を聞きながら、俺は向かい側へ座る彼女の様子を見た。


「主様。秋の市のお話ですが、私はまだ、行ってみたいと思っております。手仕事の品も、季節の花も、実際に見たらどのようなものなのか知りたいです。ですが、行きたいという気持ちだけで、何でも決められるわけではないことも分かっております」


 セリーはパンを小さく分けてから、皿の端へ置いた。声は落ち着いていたが、言い終わったあとに指先を重ねる仕草から、簡単に片づけられる話ではないのだと分かる。俺は彼女が言葉を続けるまで待ち、自分の考えを先に押しつけないようにした。


「昨日、主様と古い石の台を見たとき、私、もっと近くへ行きたいと思いました。でも、足元の状態が分からないので立ち止まりました。フェルネへ向かう道にも、似ているところがあるのでしょうか。知りたい、見たいと思うことと、今そこへ行くことは、別なのだと」


「そうだと思う。石の台は、後から安全な条件で確かめ直せるかもしれない。でも秋の市は日程が決まってるから、迷うところがあるんだよね。今回行かなかったら、その二日間の市は見られない。俺も、それが残念なんだ」


 俺はパンを口へ運び、少し冷めた飲み物を飲んだ。こうして話すだけで簡単に決心がつくなら、何日もかけて準備を考えることはなかっただろう。セリーの希望を尊重したいと思う一方で、危険を無視してまで叶えたいわけではない。その両方が胸の中にあることを、彼女にも伝えておきたかった。


「ただ、塔から商人街道へ出る安全な道は分からないし、宿も確保できていない。今から誰かに詳しく尋ねようとすれば、ここの位置を知られるかもしれない。残りの日数を考えると、確かめるための時間まで足りないように思うんだ」


「はい。ブラート様は、私たちの暮らす場所を守るため、塔の位置を尋ねるような調査を控えてくださいました。そのお心遣いを無駄にするようなお願いは、私もしたくありません」


 セリーはそう言ってから、窓の外へ目を向けた。庭の鉢がある方角には朝日が差し込み、遠くの枝先がゆっくり揺れている。彼女が初めて行ってみたいと言ってくれた町は、この森の向こうのどこかにある。しかしそこへ続く道を、俺たちはまだ知らない。


「主様。もし、今回の市を見送ることにしたとしても、それは私が行きたいと思ったことを取り消すという意味ではございませんよね。私は、その気持ちを忘れたくありません。次に外へ出かけることを考えるときにも、自分が何を見たいと思ったのか、覚えておきたいのでございます」


 その言葉を聞いて、俺は少しだけ肩の力を抜いた。彼女は俺がどう判断するのかを待つだけではなく、自分の希望がどう扱われるかを確かめている。俺は頷き、今回行けないことと、今後も出かけたいという気持ちは別だと伝えた。フェルネという町そのものを諦める必要もないし、市でなくても別の景色を見に行く機会は考えられる。


「ありがとう、セリー。俺も行きたい気持ちは残しておきたい。でも、今回の秋の市には行かない方がいいと思ってる。道も泊まる場所も分からないまま、間に合わせるためだけに出発したくないんだ。セリーはどう思う?」


 彼女はすぐに頷かなかった。少し伏せた睫毛の下で視線が揺れ、重ねていた指先にも力がこもる。俺はその沈黙の間、何か言葉を付け足して決心を促したくなったが、今は彼女自身が考えている時間なのだと思い直した。


「……私は、残念です。主様と一緒に、初めての町を歩いてみたかったですし、お店の方へ自分で質問してみたかったです。ですが、主様だけでなく、私も安全な道を知らないまま出かけるのは望みません。ですから、今回は行かずに、別の機会を考えたいと思います」


 言い終えると、セリーはゆっくり息を吐いた。笑顔を作ろうとしているようには見えず、残念な気持ちをそのまま抱えている。それでも自分の意思で言葉を選んでくれたことが分かり、俺は胸の奥が少し熱くなった。


「分かった。じゃあ、今回のフェルネの秋の市は見送ろう。残念なのは俺も一緒だよ。でも、俺たちがそう決めたことは、失敗じゃないと思う。二人とも無事にここへ帰ってこられる見通しが立たないんだからね」


「はい。……主様、ありがとうございます。私の気持ちを尋ねてくださったので、ただ諦めたのではなく、自分で決めることができました」


 彼女は少しだけ笑ったが、その目にはまだ名残惜しさがあった。俺もすぐに明るい話題へ切り替える気にはなれず、温かな食事を続けながら、今決めたことを静かに受け止めた。秋の市は俺たちがいなくても開かれ、手仕事の品が並び、季節の花を眺める人々で賑わうのだろう。その景色を見られない寂しさは確かにあるが、知らない道へ踏み出さなくても守れるものが、この塔にはある。


 朝食を終えると、俺たちは外へ出る前に通信の魔導具を確かめた。ブラートから新しい返事は届いておらず、前に送った感謝の言葉もそのまま記録に残っている。俺は道について調べてくれた彼へ、今回の秋の市は見送ることにしたと知らせるつもりだったが、セリーは通信の前で少し立ち止まった。


「主様。ブラート様へのお返事について、一つお願いしてもよろしいでしょうか。私、できれば自分の言葉でも、お礼をお伝えしたいのです。以前、主様が私たち二人からの気持ちをお伝えくださいましたが、今回は私も文章を考えてみたいと思います」


「もちろん。セリーが書きたいなら、ぜひそうしてほしいな。ただ、ブラートへの通信は今まで俺が使ってたものだから、どんな形で送るかは一緒に確かめよう。勝手に書き換えたりせず、セリーの言葉として届けたいから」


 セリーは嬉しそうに頷いたものの、すぐに筆記具を持とうとはしなかった。何をどこまで話してよいのか迷っているらしく、作業机へ目を向けながら、少し考える時間がほしいと申し出る。俺は了承し、庭の花を見てから落ち着いて書こうと提案した。


 塔の外へ出ると、朝の光は思っていたより柔らかかった。石畳の乾いているところを選んで歩きながら、俺たちは昨日までと同じ場所で足元を確認する。庭の鉢に近づくと、支えを外した花はわずかに横を向いたまま咲いていた。茎の一部に残る色の違いは、今日も周囲より薄く見えたが、位置を変えてまで確認する必要はなさそうだった。


「主様。昨日と比べますと、花びらの向きには大きな変化がないように見えます。色の違う部分も、私の絵ではほとんど同じ場所にございます。ただ、同じ時刻でも日の当たり方が少し違いますので、広がっていないと言い切ることはできませんね」


「うん。今日も触らずに記録だけ残そう。前に支えをつけたときも、よかれと思ったことがどう影響するか分からなかった。今は花が咲いているのを見守りながら、必要なときに考え直せればいいと思う」


 セリーは頷き、いつもの布袋から紙を取り出した。今日の彼女は花を描きながら、ときどき遠くへ目を向けていた。フェルネの話が頭に残っているのだろうと思ったが、俺は何か言葉をかける前に、彼女が何を見ているのかを確かめた。


 視線の先には、赤く色づいた葉が枝先に残っていた。雨のあとに濡れていた葉は乾き、少し風が吹くだけでひらひらと揺れる。セリーはその一枚が風を受けて回転する様子をしばらく眺め、小さく笑みを浮かべた。


「主様。私は秋の市で季節のお花を見たいと思っておりましたけれど、この庭にも、今の季節にしか見られないものがございますね。町で見るものと同じではありませんが、だからといって、こちらが劣っているわけでもないのだと思いました」


「そうだね。フェルネの市では別のものが見られたかもしれないけど、ここの木や花は俺たちが毎日見てきたものだからね。こうやって変わっていくのを知ってる景色も、俺は好きだよ」


 セリーはしばらく考えてから、今日の花の絵の余白に、枝先の葉を一枚だけ描き加えた。手に取って持ち帰ることはせず、今そこにある姿を残しておきたいという。俺は少し離れた位置で落ち葉の色と石畳の状態を記録し、彼女が描き終えるのを待った。


 南側通路の石の台は、今日は見に行かなかった。昨日の観察で灰色に見える部分が複数ある可能性を記録したばかりで、今すぐ新しい証拠が得られると考える理由はない。安全な歩道を使えるとしても、何のために調べるのかを決めてから行く方がよいと思えた。


 塔へ戻る途中、セリーがふと俺の袖へ視線を向けた。彼女は手を伸ばそうとして少しためらい、持っていた紙を自分の袋へしまってから、もう一度俺の方へ顔を向ける。俺が歩調を緩めると、彼女は静かに口を開いた。


「主様。私、今朝は少し残念な気持ちがございましたが、庭へ来てよかったです。フェルネへ行けないからという理由で、今日まで何も楽しくない一日にしてしまうところでした。お花を見られて、少し落ち着きました」


「俺も同じだよ。でも、無理に楽しいと思おうとしなくてもいいからね。残念な気持ちがあっても、一緒に歩いたり、花を眺めたりできる。それくらいで十分な日もあると思うんだ」


 彼女は安心したように微笑み、今度は自分から俺の手へ指先を伸ばした。俺も記録板を持ち替えてから手を取り、乾いた石畳を並んで歩いた。風は少し冷たかったが、掌から伝わる温かさがあれば、塔までの短い道のりは心地よいものに感じられた。


 作業机へ戻ると、セリーはブラートへ送る文章を考え始めた。彼女が使う紙は小さく、書き損じた場合もそのまま残しておけるよう、余分に数枚用意してある。俺は隣に座るのではなく、少し離れた机で南側通路の記録を整理し、彼女が相談したいときだけ声をかけられるようにした。


 しばらくすると、筆記具を置く音が聞こえた。顔を上げると、セリーは一枚の紙を持ったまま少し困ったような表情をしている。書きたいことはあるが、最初の呼びかけをどうすればよいのか迷ってしまったらしい。


「主様。ブラート様へお礼をお伝えするとき、私はどのような書き出しにすればよいのでしょうか。主様が普段お送りになっているような文章を真似した方が、失礼にならないでしょうか」


「礼儀は大事だけど、俺の文をそのまま真似しなくてもいいと思うよ。ブラートは、セリーが自分で考えた言葉だと分かった方が喜ぶんじゃないかな。もちろん、本人がどう感じるかは分からないけどね」


 セリーは小さく頷き、再び紙へ目を向けた。俺が代わりに文章を作れば早いだろうが、それでは彼女が自分の言葉を選ぶ機会がなくなってしまう。だから、宛名と礼を伝える順番についてだけ相談に乗り、それ以外は彼女自身が決めることにした。


 彼女は少し書いてから手を止め、別の紙へ書き直す。最初の紙も捨てずに脇へ置いていたが、俺が覗き込むことはしなかった。以前、セリーは自分の記録を誰にも見せずに持っていたいと伝えてくれた。今回の文章はブラートへ届けたいと本人が選んだものだが、書き途中の言葉まで俺が知る必要はない。


 やがて昼が近づいた頃、セリーは新しく書いた紙を手に取って俺へ近づいてきた。表情には少し緊張があるものの、書き終えたことを嬉しく思っているのが分かる。彼女は自分の文章を一緒に確認してほしいと頼み、俺が了承すると、ゆっくり読み上げ始めた。


「ブラート様。秋の市のことを教えてくださり、ありがとうございました。私はまだ知らない町へ行ったことがありませんので、手仕事の品や季節の花のお話を伺って、とても楽しみに思っておりました。今回は安全に行き帰りするための確認が整わず、訪ねることを見送ることにいたしましたが、私自身も考えて決めたことでございます」


 読み進める彼女の声は、最初だけ少し硬かった。それでも、最後まで自分の言葉を確かめるように続ける。俺は途中で口を挟まず、どの言葉が彼女にとって大切なのかを聞き取ろうとした。


「主様と一緒に、初めての場所で何を見たいのか、知らない方へどのようにお話ししたいのかを考えることができました。それだけでも、私には大切な時間でございました。私たちの住まいのことまでお気遣いくださったことにも、お礼を申し上げます。どうか、これ以上ご無理をなさらないでくださいませ。セリー」


 最後の名前を読んだとき、彼女は顔を上げずにいた。俺がどう受け取ったか気になるのだろう。俺は少しだけ間を置いてから、文章を自分の言葉で書ききったことが嬉しいと伝えた。


「すごくいいと思うよ。セリーが楽しみにしてたことも、今回は見送るって自分で決めたことも、ちゃんと書いてある。ブラートの配慮への礼も伝わると思う。……一つだけ確認していいかな。住まいのことは、これ以上詳しく書かなくても大丈夫だよね」


「はい。塔の場所を特定できるようなことは書かないようにいたしました。ブラート様は事情をご存じですが、通信へ残す文章にも、必要のない情報を増やしたくはございませんので」


 俺は頷き、彼女の紙をもう一度確かめた。確かに、詳しい所在地や経路については触れていない。ブラートにだけ届く個人的な通信だとしても、書かなくてよいことまで残さない方が安心だろう。俺が一言だけ表現の重なりを指摘すると、セリーはそのままにしたいと笑った。彼女にとって二つの言葉には別々の意味があるのだと説明してくれたので、俺はそれ以上直そうとしなかった。


「主様。私、文章を書いているうちに、やっぱり秋の市へ行ってみたかったのだと思いました。でも、ブラート様には残念だったことだけではなく、教えていただいたおかげで嬉しかったことも伝えたいのです。ですから、この文章のまま届けたいと思います」


「うん。セリーの言葉なんだから、それがいいよ。俺も自分の返事を添えるけど、セリーの文章を俺の言い方へ変えたりはしない。送る前に、二人の部分がはっきり分かる形にしよう」


 セリーは嬉しそうに頷いた。俺はブラートへ向けた自分の短い返事を書き、今回の秋の市は二人で相談して見送ることにしたと伝える。安全な道や宿泊について確認ができていない以上、無理をしてまで出かけないこと、塔の位置を守る配慮に感謝していることを記したうえで、今後もこの件について調査を続ける必要はないと添えた。


 最後に、セリーが自分で書いた文章をそのまま続けることと、本人が送ることを望んでいることを明記した。通信の内容を一緒に確認すると、彼女はゆっくり息を吸ってから頷いた。俺はその合図を待って、ブラートへの個人的な通信を送る。


 魔導具の光が静まると、セリーはしばらくその場所を見つめていた。今まで何度か、俺たち二人からの礼をブラートへ伝えたことはあったが、今回のように、彼女が最初から最後まで自分で考えた文章を届けるのは初めてだった。相手からどのような返事が来るかは分からず、今日中に届くとも限らない。それでも、言葉を送ったという事実だけは残った。


「……主様。少し緊張いたしました。ブラート様がどう受け取られるのか、今は分かりませんが、私の考えた言葉を届けられたのですね」


「ああ。セリーが自分で決めて書いた言葉だよ。返事が来たら一緒に読めるし、すぐに来なくても大丈夫。今日は送れたことを、まず大切にしよう」


 セリーは胸元に手を重ね、微笑みながら頷いた。俺は自分のことのように嬉しくなったが、それを大げさに褒めるのも違う気がした。初めての通信は彼女の経験であり、俺が出来栄えを判定するものではない。今は一緒に喜べれば十分だと思った。


 昼食の時間になっていたので、俺たちは机を片づけて厨房へ向かった。セリーは料理の支度をしながら、先ほどの文章を書いている間に何度も書き直したことを少し恥ずかしそうに話してくれた。礼を言うだけなら簡単だと思っていたのに、自分が何に感謝しているのかを考えると、言葉が増えてしまったらしい。


「でも、書き直したことは無駄じゃなかったと思うよ。俺もブラートへの返事を考えてると、簡単な一言で済ませたくなることがあるから。セリーが何を伝えたいか、ちゃんと考えてくれたのは嬉しいな」


「ありがとうございます。私は、主様のお手紙をお手伝いするのと、自分で文章を考えて送ることが、こんなにも違うのだと知りませんでした。今は少し疲れましたけれど、それ以上に嬉しく感じております」


 その返事に、俺は微笑みながら野菜を洗った。彼女が自分の言葉を誰かへ届けることは、外へ出かけることと同じではない。けれど、塔の外にいる相手と、自分の意思で関わりを持とうとする一歩には違いなかった。今日、町へ行かないと決めた日に、セリーが新しい形で外の世界へ手を伸ばしたことが、何だか不思議で嬉しかった。


 昼食のあとは、秋の市のためにまとめた紙を整理することにした。開催までの残り日数を書いた紙や、道の伝聞を記した覚え書きは、今後そのまま使えるとは限らない。特に雨後の枝道の状態については、時間が経てば状況も変わるはずなので、確かめられていない情報として日付とともに保管することにした。


 俺が古い記録用の棚を開くと、セリーは自分の布袋を机へ置き、持ち物の一覧を一枚ずつ確かめ始めた。紙には、水、食べ物、記録用具、上着などの項目が並んでいる。今回はフェルネへ行かなかったが、こうした道具は塔の近くで過ごすときにも役立つ。俺たちは使い終えた紙を捨てるのではなく、用途に応じて分けて残すことにした。


「主様。この一覧は、秋の市のために作り始めたものでございますけれど、これから別の場所へ出かけるときにも使えそうですね。私は、自分で欲しいと思ったものの一覧も、残しておきたいです」


「もちろん。フェルネで何か買いたいって思ったことも、今のセリーの気持ちなんだからね。ただ、町で何が売ってるかは聞いた範囲でしか知らないし、金額も分からない。そのまま買い物の予定にするんじゃなくて、見てみたいものとして残すとよさそうだ」


 セリーは納得したように頷き、手仕事の品や季節の花について書いた紙を、自分の布袋へしまった。俺は旅行の確認事項のうち、道や宿泊に関するものを別の紙へ移し、現在の情報では実行しないと大きく書き添える。未来の計画を立てるときに、古い伝聞を新しい情報として誤用しないためだった。


 紙を整理しているうちに、南側通路の見取り図が目に入った。昨日、灰色に見える部分が二か所に分かれている可能性を記録したが、以前の図は一本の帯のように描いてある。その違いをどう扱うべきか、まだ考えがまとまっていなかった。フェルネの準備を片づけたからといって、この調査が勝手に進むわけではないが、今日は古い記録そのものを整える時間を取れそうだった。


「セリー。午後の残りは、外の石の台へ行くんじゃなくて、ここで観察記録を見直してもいいかな。前の絵と昨日の絵で違うところがあるから、次に何を確かめるべきか整理しておきたいんだ」


「はい。私も一緒に見たいです。ですが、主様。今日は先ほどから紙を読み続けておりますので、少しお休みになってからにいたしませんか。私も通信を書くのに集中しておりましたから、温かいものをいただいて落ち着きたいです」


 俺は思わず笑い、彼女の提案に頷いた。何かを見つけると、つい次の作業へ移りたくなるのは俺の癖かもしれない。セリーはそれを無理に止めるのではなく、自分も休みたいという希望を言葉にしてくれた。俺たちは厨房で飲み物を用意し、窓辺の椅子へ腰を下ろして、しばらく何も調べずに過ごした。


 窓の外には、秋の森が静かに広がっていた。遠くで枝が揺れる音が聞こえ、少し前まで庭で眺めていた赤い葉が、風に揺れながら落ちていく。セリーはそれを見つめていたが、俺と目が合うと、少し照れたように笑った。


「主様。私、今日は秋の市へ行かないと決めた日なのに、思っていたよりも多くのことがございました。庭のお花を見て、ブラート様へ自分の言葉を送り、これからも使える記録を残せました。少し不思議な気持ちでございます」


「俺もだよ。でも、無理に予定を埋めたわけじゃないんだよね。行かないと決めたからこそ、何を残しておきたいのか考えられた。……もちろん、それで残念な気持ちが全部なくなったわけじゃないけどさ」


 セリーはゆっくり頷いた。俺は彼女の表情を見て、寂しさと満足が同じ一日の中にあってもよいのだと思った。どちらか一方だけを選ぶ必要はないし、今の気持ちをきれいにまとめて終わらせる必要もない。こうして隣で温かい飲み物を味わえる時間があれば、少しずつ自分の中で整理できるだろう。


 休憩のあと、俺たちは南側通路の記録を机の上へ広げた。最初に細い線を見たとき、雨のあとに灰色の部分を見たとき、昨日複数に分かれて見えたとき。それぞれの紙には、観察した位置と光の状態が書かれているものの、当初は見えた形ばかりに気を取られていたため、確認できなかった範囲の記録にはばらつきがあった。


「ここ、前の絵だと灰色の帯が途中まで伸びてるように描いてあるね。でも、その先に何があったかは見えてなかったんだ。今のままだと、俺が全部見たように勘違いするかもしれない」


「はい。私の絵も同じでございます。落ち葉で隠れていたところを、つながっているように描いてしまった部分があるかもしれません。主様、前の絵を消さずに、どこまで見えていたかだけを別の紙へ書き直してみてもよろしいでしょうか」


「うん。それがいいと思う。前の絵はそのときの記録として残そう。今分かるのは、見えた部分と、見えなかった部分の区別だけだね」


 二人で資料を並べ直していると、腕輪のエルが静かに声をかけてきた。古い図面と現在の見取り図の照合について、以前から確認されている制約を改めて示してくれる。俺はそれを了承し、今日は古代の記録に答えを求めるよりも、自分たちの観察の残し方を整えることにした。


『主様。現段階では、石の台および周辺の灰色部分が、古代図面上のどの構造物に相当するかは判断できません。複数の観察記録を比較する際は、視認できた範囲と推測による補完を明確に区別することを推奨いたします』


「ありがとう、エル。今日はその区別を残すよ。前の記録が間違いだったって決めつけるんじゃなくて、何を見て何を想像したのかを分けることにする」


 セリーは頷き、新しい紙へ小さな区切りを描いた。見えたところは実線、葉に隠れていたところは空白のまま、推測した形は別欄へ文章で残す。複雑な記号を増やさなくても、どこまで確かめられたかは分かるようになった。以前の絵はそのまま保管し、新しい紙の方へ、今日整理したことを記す。


 そこで俺は、見取り図を眺めながら一つ気づいた。古い石の台へ関心を持つようになってから、俺たちは細い線と灰色の部分を一緒に扱うことが増えている。だが、その二つが本当に同じものに関係しているという証拠は、まだ得られていなかった。位置が近いというだけでつながりを想像し、その想像に合わせて絵を描いてしまうこともあり得る。


「セリー。次に見るときは、石の台の線と、手前の灰色のところを別々に記録しようか。関係があるかどうかは、まだ分からないんだから。俺たちが同じ紙に描くのは、場所が近いからってだけかもしれない」


「はい。私も、そうした方がよいと思います。別々に見ておけば、あとで何か共通するところが分かった場合にも、前から決めつけていたわけではないと確認できますものね」


 俺たちは記録を二つの項目へ分け、観察時刻や立ち位置を共通の情報として残すことにした。大きな謎を解くような発見ではないが、調べてきたことを正しく扱うための小さな手直しだった。何かの答えに近づくより先に、自分たちが勝手に答えを作ってしまわないようにする。その作業をセリーと一緒にできるのが、少し嬉しかった。


 夕方になる頃、窓から差し込む光は赤みを帯びていた。通信の魔導具に新しい反応はなく、ブラートからの返事はまだ届いていない。今日初めて自分の文章を送ったセリーは、少し気にしているようだったが、催促したいとは言わなかった。相手にも都合があり、届いた言葉をどう受け止めるかは相手が選ぶことだと、彼女自身が考えているのだろう。


「主様。ブラート様からのお返事がなくても、私は大丈夫です。今日は私が伝えたいことをお送りできましたので、それだけでも十分嬉しいです。いつかお返事をいただけましたら、そのときまた考えたいと思います」


「うん。俺もそう思う。ブラートには今までずいぶん気を配ってもらったから、しばらくこの件で調べものを頼まずに済むのはよかったかもしれないね。今度話すときは、道のことばかりじゃなくて、普通に近況を話せたら嬉しいな」


 セリーは柔らかく微笑み、机の上を片づけ始めた。彼女は共有の記録を棚へ戻し、自分用の紙だけを布袋へしまう。今日ブラートへ送った文章の下書きについては、残すかどうかを自分で決めたいと話してくれたので、俺はその判断を任せた。


 夕食の支度では、午前中に見た庭の葉の色が話題になった。セリーはあの赤い葉がまだ枝に残っているなら、明日も見てみたいと言う。俺は天候と足元がよければ一緒に行こうと答え、料理の味つけについても彼女の好みを尋ねた。秋の市への外出を見送ったからといって、二人で選ぶことまでなくなったわけではない。


 食事を終えたあと、俺たちは窓辺へ並んだ。暗くなり始めた森の上には、薄い雲の切れ間から星が見えている。昼間、葉が一枚落ちた枝はもう判別できなかったが、あの景色を二人で見たことは覚えていた。


「セリー。今日は、ちゃんと自分で決められたと思う。フェルネへ行かないっていうのは、俺だけの判断じゃなくて、二人で決めたことなんだよね」


「はい。私も、自分の気持ちをお伝えできました。少し残念ではございますけれど、主様と一緒に考えて決められたことを、今は大切にしたいです」


 彼女はそう言って手を差し出した。俺がその手を取ると、セリーは安心したように微笑み、隣へ少し近づく。以前なら、誰かに言われた予定を守ることが当たり前だった俺が、今は行きたい場所へ行かないという選択を自分でしている。そのことに気づくと、不思議な静けさが胸へ広がった。


「俺、王宮にいた頃は、決まった予定を取りやめるって簡単には考えられなかったんだ。人の都合もあるし、俺自身の気持ちだけでは動かせないことが多かったから。でも今は、予定を変えた理由をセリーに話して、一緒に考えられる。それが嬉しいよ」


「私も、主様のお気持ちを伺えることが嬉しいです。主様が決められたことをただ受け入れるのではなく、私も考え、時には別の希望をお伝えできるようになりたいと思っております」


 その言葉に、俺は頷いた。フェルネへ行かないという決定が、すべての不安を消してくれたわけではない。石の台も、古い療養施設の記録も、三〇八号室の少年の望みも、まだ分からないことが残っている。ただ、今日はそれらを急いで片づける必要はなかった。


 しばらく窓の外を眺めたあと、俺たちは手を離して休む準備を始めた。セリーは自分の布袋を大切そうに持ち、今日の出来事をもう少し記録してから部屋へ戻りたいと伝える。俺は先に机の灯りを確かめ、彼女が作業しやすいようにしてから、自室へ向かった。


 寝台の脇へ置いた布袋には、今日使った記録紙が収まっている。フェルネへ出かけるために考え始めた道具は、今では庭の観察や、塔の近くで過ごす時間にも使われていた。行くはずだった町へ行けなかったからといって、それまでの準備が無駄になったとは思わなかった。


(行きたい場所は、また見つかるかもしれない。今はこの塔で、セリーと過ごす日々を守りながら、次に何を見たいか考えていけばいい。今日は、行かないと決めたことで、少しだけ前へ進めた気がするな)


 外では葉擦れの音がしていた。窓の向こうに広がる森は暗く、南側通路の石の台も、庭で咲く花も見えない。それでも、明日また歩ける場所があり、そこで確かめたいことが残っている。俺は今日送った通信がブラートへ届くことを願いながら、静かに目を閉じた。


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