第171話 乾いた石畳の先に見えた線と、二人で残す道の記録
朝の光が窓の縁をゆっくりと越えてきた頃、俺は寝台から起き上がった。昨夜は風が木々を揺らす音を聞きながら眠ったが、今朝は枝先の動きがずいぶん穏やかで、空には薄い雲が筋のように伸びている。塔の入口へ続く石畳にも明るい日差しが届いていたものの、木陰に残る落ち葉の下までは、ここから乾いているかどうか分からなかった。
寝台の脇には、自分で縫った布袋と、昨日試した包みの結び方を書き留めた紙が置いてある。セリーが作った長さの異なる二本の布紐は、食事の包みを室内で留めるところまでしか試していない。外で使ったときにほどけやすくならないか、風にあおられて包みが開かないかは、まだ確かめる余地があった。
(今日は天気が許すなら、あの紐を外で少し試してみたい。でも、昨日の試し方がうまくいったからって、いきなり食べ物を包んで持っていく必要はないよな)
もう一つ、気にかかっている場所があった。南側通路の古い石の台と、その手前に見えていた灰色の部分だ。雨のあとに初めて目についたその色は、石の表面なのか、土の違いなのかさえ分かっていない。庭の花や食事の道具に気を配るうちに、そこへ近づいて観察する機会は見送ってきたが、道が十分に乾いたなら、以前と同じ安全な位置から見え方を比べられるかもしれない。
ただし、今日も無理に調べるつもりはない。昨日の花の記録を先に確かめ、それから天候と足元を見て決めればいい。そう考えて身支度を整えていると、扉の向こうから、控えめに二度ノックする音がした。
「主様、おはようございます。昨夜は少し風が強うございましたが、よくお休みになれましたでしょうか。今朝のお庭は明るく見えますので、お食事のあとにお花を確かめられたらと思っております」
「おはよう、セリー。俺も同じことを考えてたよ。それと、昨日の布紐を外で試すことも気になってるんだ。もちろん、風が強かったり足元が悪かったりしたらやめるけどね」
扉を開けると、セリーは胸元に小さな布袋を持ち、嬉しそうに目を細めた。彼女も布紐のことを考えていたらしく、食事の包みとは別に、紙を入れた軽い包みを用意すれば食べ物を汚さず試せるのではないか、と提案してくれる。作ったものを使ってみたいという気持ちと、試し方を慎重に選ぶことが、彼女の中で自然につながっているようだった。
「それなら、昨日の続きとして試せそうだね。俺も少し手伝いたいな。まず朝食にして、それから何を使うか一緒に決めよう」
「はい。ありがとうございます。私、お花の様子も気になっておりますけれど、主様がしてみたいとおっしゃったことも、一緒に考えたいと思っておりました」
俺たちは並んで廊下を歩き、食堂へ向かった。朝の冷気が残る通路を抜けると、食卓には温かな料理が用意されている。窓から差し込む光の中で、セリーは自分の椅子を引き、俺が席に着くのを見てから向かい側へ腰を下ろした。
野菜の入ったスープは昨日より少し薄い色をしていて、口に運ぶと穏やかな香りが広がった。セリーは味つけを少し変えたのだと話してくれたが、今朝は俺の感想を待つより先に、自分ではこちらの方が朝には食べやすいと感じる、と付け加えた。俺もそれに賛成し、昼や夜ならまた違う味を楽しみたくなるかもしれないと答えた。
「主様。今日はお庭のお花を確かめたあと、ほかにもご覧になりたいところはございますか。昨日は包みのことを一緒に考えましたので、今日は私だけの希望で予定を決めたくないのです」
パンを手にしたまま考えると、南側通路の石の台が浮かんだ。以前から気になっていることだが、今日はそこへ行くと決めてしまっているわけではない。俺はそのままを伝えることにした。
「道が乾いてたら、古い石の台を離れた位置からもう一度見てみたい。雨のあとに灰色の部分が見えたけど、乾いた日に同じ場所から見るとどうなるのか、記録を増やしたいんだ。危なそうなら入口の近くで紐を試すだけにしよう」
「承知いたしました。私も、あの灰色の部分がどう見えるのか気になっております。ただ、以前の記録と比べるのでしたら、見る位置や光の当たり方をできるだけ残しておいた方がよいのでしょうね」
セリーはそう言うと、少しだけ首を傾げた。細い線も灰色の部分も、これまで見える角度によって印象が変わっている。今日もし違う形に見えても、地面の状態が変わったのか、見る条件が違うだけなのかを区別する必要がある、と彼女は気づいたらしい。
「うん。同じ場所から見るつもりでも、俺たちの立ち位置が少し違えば見え方が変わるだろうしね。今日は分からないところを埋めるんじゃなくて、違って見える理由を考えるための記録を取れたら十分かな」
彼女は頷き、パンを小さくちぎった。食堂には料理の香りと器が触れ合う音が満ち、話を続けていても急かされることはない。外出の可否を決められない日が続いているが、今ここで一日の順番を相談できることは、俺にとって確かな自由の一つだった。
朝食後、俺たちはまず庭へ出た。入口付近の石畳は乾いた色をしているものの、細かな葉が風で寄せられた場所には湿りが残っている。セリーは足元を確かめながら歩き、俺もいつも使っている道を外れないようにして、支えを外した鉢の前へ向かった。
花は昨日とほぼ同じ高さで横を向いていた。茎が裂けたり、花びらが地面に触れたりしている様子は見えない。布が当たっていた部分の色は周囲と少し違うままだったが、日差しの強さが違うため、広がったかどうかをすぐに判断するのは難しかった。
「主様。今日も、支えを外したまま咲いておりますね。私は少し安心いたしましたが、色の違うところはまだ残っているように見えます。今は触れずに、昨日と同じ位置から絵を描いておきたいと思います」
「そうしよう。今日は棒も布も持ってきてないから、調整するために戻ったりもしなくていい。必要なことが見つかったら、そのとき改めて考えればいいよ」
セリーはしゃがんで筆記具を持ち、花びらの向きと茎の曲がり方を描き始めた。俺は鉢の外側にある乾いた石畳から、周囲の土の色と日当たりを記録する。花をよく見ようとするとつい近寄りたくなるが、二人が足を置ける位置には限りがあり、今日はその範囲で分かることだけで十分だった。
描き終えたセリーは、しばらく花を眺めていた。心配しているのかと思ったが、彼女は口元に柔らかな笑みを浮かべ、花びらの端が光を受けているのが綺麗だと話す。俺も隣から見ると、少し横向きの花は朝日を斜めに受けていて、上を向いていた頃とは違う姿を見せていた。
「前は元の向きへ戻ってほしいって思ってたけど、こういう咲き方も綺麗だね。これが花にとって楽なのかは分からないけど、少なくとも今は咲いてるんだな」
「はい。私、お世話をすることばかり考えずに、咲いている姿を楽しむ時間も持ちたいです。今日、そのように感じられたことも、私自身の記録に残そうと思います」
俺は頷き、彼女が自分の布袋へ紙をしまうのを待った。共有する絵と、彼女が自分のために書く感想は、同じである必要がない。二人で庭を見たことだけは確かだが、その時間をどんな言葉で残すかは、それぞれが選んでよいのだ。
花の観察を終えると、俺たちは塔の入口に近い石畳へ戻った。昨日昼食を取った場所は、朝の風を受けて乾いた落ち葉が数枚転がっている。今日は食事を持ち出さず、昨日作った二本の布紐を使って、軽い包みの扱いを確かめることにした。
俺は空の容器を片づけてから、古い書き損じの紙を重ねた包みを机の上で用意した。セリーは長い方の紐と短い方の紐を持ち、同じ形に折った二つの包みにそれぞれ巻いている。重さや中身が同一とは言い切れないので、厳密な比較にはならないが、どちらが扱いやすいかを感じることはできるはずだった。
外へ出る前に、俺たちは包みが大きく開いていないことを確かめた。セリーは結び目を一度ほどいてから結び直し、紐が布の端を押さえる位置を記録する。俺も同じように持ち上げてみると、短い方は手の中でかさばりにくいが、結ぶときの余りが少なく、指先を動かす余地も狭いことに気づいた。
「これ、手が冷えてたら短い方はちょっと扱いにくそうだな。長い方は結びやすいけど、余った紐が引っかからないように気をつけないといけないね」
「はい。私も、長い方が結び直しやすいと思いました。ただ、余ったところを強く巻き込むと、今度はほどくときに難しくなりそうです。外へ出る前から、違いがあるのですね」
俺たちは包みを手に、扉からすぐの乾いた石畳まで歩いた。風は今朝より少し動いていたものの、二人で話せないほどではない。足元が不安定になるようならその場で中止するつもりで、まずは立ったまま、包みを軽く持ち替えてみる。
短い方の紐は、持ち替える途中でも大きくずれなかった。ただ、包みの端をつまんで開けようとすると、指を入れられる部分が少なく、思ったより時間がかかった。長い方はほどきやすかったが、風が吹いた瞬間、余っていた紐の先が小さく揺れ、俺の手に触れた。
「今の風だと、長い方の余りがちょっと気になるね。だからって切っちゃうと、室内で結びやすかったところが変わるだろうし。今日は、外で持ったときの様子を記録するだけにしようか」
俺が提案すると、セリーは自分の手元を見ながら頷いた。彼女は余った紐を指で押さえ、結び目そのものが緩んでいないことを確かめている。それから包みを一度地面に置こうとして、濡れた葉が近くにあることに気づき、すぐ持ち直した。
「主様。包みを開けるとき、私は両手を使いたくなりました。でも、外では机があるとは限りませんし、地面にそのまま置くこともできませんね」
「ああ。昨日の昼食では椅子を使ったけど、今日は立ったままだとそれができないんだな。旅先でも、どこでも荷物を置いていいわけじゃないし。結び方だけじゃなく、使う場所も一緒に考えないといけないね」
セリーは少し考えてから、持ったまま無理に開けるのはやめたいと伝えた。俺も賛成し、包みは閉じたまま塔の中へ持ち帰る。外でうまくほどく方法を競うことが目的ではなく、使う状況によって何が困るのかを知ることが今日の試みだった。
室内に戻ると、二人で包みを机に置いた。結び目をほどき、紐の位置を確かめると、長い方も短い方も、紙を包む機能そのものは保たれていた。ただし、外で立って扱うときの不便さははっきり感じたため、今日はそれぞれの長さを変えず、結果だけを記録することにした。
『主様。今回の試用は、塔入口付近の短時間かつ比較的穏やかな風の条件下に限られます。屋外での長距離移動、降雨、混雑時の性能を保証するものではありません』
記録をまとめる途中、エルが静かに補足した。俺は腕輪へ目を落とし、その通りだと答える。古い魔導具の知識を持つエルなら、何でも最適な形を教えてくれそうな気がしてしまうが、現物の紐を使ってどちらが扱いやすいかは、俺たち自身が試して確かめる必要があった。
「ありがとう、エル。俺たちができたことと、まだ試してないことは分けておくよ。……ところで、あとで南側通路を見に行くかもしれないんだけど、前に記録した見取り図をもう一度確認できるかな」
『可能です。ただし、現在の石の台と古代記録上の構造物との対応は確定していません。過去の図面と一致するように観察内容を解釈しないことを推奨します』
「うん、分かってる。今日は図面に答えを探すんじゃなくて、前に見た位置を間違えないために使いたいんだ」
俺がそう話すと、セリーは机の上から、石の台を初めて詳しく描いたときの紙と、雨のあとに灰色の部分を見つけたときの紙を取り出した。そこには観察した場所と、おおよその向きが書き込まれている。寸法を精密に測ったものではないが、少なくとも何を見たときの記録なのかは分かるようになっていた。
午前中の光は、まだ南側通路へ入る方向によって見え方が変わりやすい。今日は地面が十分に乾いているかも分からないため、すぐに向かうのではなく、昼食を終えてから空模様を見て決めることにした。こうして予定を途中で変えられるのは、王宮にいた頃には当たり前のことではなかった。
俺は昔、外出の順番を告げられると、それを守ることばかり気にしていた。どこかで立ち止まって景色を眺めたくても、次の予定が詰まっていれば周囲を困らせる。疲れていないかと尋ねられることはあっても、その場で帰るという選択肢が本当にあったのか、今となってはよく思い出せなかった。
(今は予定を変えたって、誰かに叱られるわけじゃない。セリーが別のことをしたくなったら、一緒に考え直せる。それを忘れずにいたいな)
昼食の準備では、セリーが温かい料理を作り、俺は野菜を洗いながら手伝った。外で包みを試した直後だったからか、厨房の作業台へ食材や道具を置けることが妙に便利に感じられる。昨日は何気なく使っていた台の広さや高さも、外で立ったまま包みを開けられなかった経験があると、ありがたみが違った。
「主様。今日は紐の長さを変えずに試してよかったと思います。もし最初から使いやすい方を決めようとしておりましたら、結び方だけを比べて、開ける場所のことまで気づかなかったかもしれません」
「そうだね。俺も、長い方か短い方かを選ぶのが今日の目的だと思ってた。でも、そもそも立ったまま開けたいのか、座ってから開ければいいのかによって、必要なことが違うんだよな」
セリーは頷き、料理の火加減を確かめながら少し考え込んだ。彼女にとっても、道具を作る目的を先に決めすぎると、ほかの使い方が見えにくくなるという経験だったのだろう。俺はそれ以上説明を重ねず、切り終えた野菜を器へ移して、彼女が作業しやすいように場所を空けた。
温かな昼食を食べながら、俺たちは午後の予定を確認した。窓から見える枝の動きは朝より落ち着いており、空にも急に暗くなるような雲はない。ただ、実際に道を確かめるまでは安全と判断できないため、南側通路へ行くとしても、以前に使った場所から観察するだけと決めた。
「主様。もし途中で地面が湿っているようでしたら、今日は戻りたいです。私、灰色の部分が何なのか気になりますけれど、確認するために足元を危なくしたくはございません」
「もちろん。俺もそう思うよ。今日は石の台に触るつもりも、灰色のところを掘るつもりもない。見える場所がなかったら、昔の記録を整理するだけで終わりにしよう」
食後、俺たちは机の上に置いていた二枚の見取り図を改めて確かめた。最初に線を見たのは、石の台の縁へ斜めに光が当たった朝だった。雨のあとにはその線が見えにくくなる一方、台の手前に灰色の部分が見えた。だから今日も、両方がはっきり見えると期待するより、どの条件で何が見えるのかを記録した方がよさそうだった。
エルからは、古い図面の方位と現在の地表に見えるものを直接対応させるだけの情報はないと、もう一度説明があった。俺もそれを了承し、図面はあくまで観察位置を整理するために使う。見取り図に似た線があったからといって、古代の通路や魔導具の部品だと決めることはしなかった。
午後の早い時間に塔を出ると、庭は午前より少し暖かくなっていた。落ち葉の乾いた部分が風に揺れ、木陰にはまだ濃い色の地面が残っている。俺たちは普段から歩いている石畳を進み、途中で足元の状態を確かめながら、南側通路が見える位置まで向かった。
以前、石の台を観察した場所に近づくにつれ、道の端に薄い影が増えていった。だが、歩く必要のある石の表面には大きな濡れは見えず、俺たちは無理に近道をせずに進むことができた。セリーは自分の布袋を身体へ寄せ、筆記具と紙が落ちないようにしている。
「主様。あちらに、以前ご覧になった石の台が見えてまいりました。今日は雨上がりのときより、手前の落ち葉が乾いているように見えますね」
「そうだね。でも、葉の下が乾いてるとは限らないから、そこには入らないでおこう。まずはここから見て、前の記録と同じ向きか確かめたい」
俺たちは安全な石畳の上に立ち、記録紙を広げた。古い台は木々の間から見えているが、全体を見渡せるわけではない。縁にある細い線も、今日は日差しの向きが違うためか、前に見たほどはっきりしなかった。
灰色の部分は、雨上がりに見つけたときより淡く見えた。何もなくなったわけではなく、落ち葉が薄く重なった隙間から、周囲の土とは異なる色がのぞいている。俺は最初、その部分が石の台の正面に一続きで伸びているように記録したことを思い出したが、今日の見え方だけでは、その印象が正しかったのかも判断できなかった。
「セリー。前の絵だと、灰色のところは台の手前に一か所だけ描いてるんだ。でも今日は、少し離れたところにも同じような色があるように見える。俺の描き方が大まかすぎたのかもしれないな」
セリーは紙へ目を落とし、視線を現地へ戻した。彼女は少し身体の向きを変えようとして、足元の落ち葉へ目を向け、そこで動きを止める。石畳の上に立ったままで見る方向を変えられるか確かめると、小さく一歩だけ位置をずらし、俺にその場所から見えるものを伝えた。
「主様。こちらからですと、灰色に見えるところが二つに分かれているようにも感じられます。ですが、間に落ち葉が重なっておりますので、本当に別々なのか、同じものが隠れているのかは分かりません」
「なるほど。じゃあ、つながってるって描くのはやめておこう。見えてる部分をそのまま二か所記録して、間は確認できてないって残すのがよさそうだね」
俺は見取り図に手を加えた。灰色の部分を一本の帯として描くのではなく、実際に見えた範囲を離して記し、その間には落ち葉があり地面を確認できないと注記する。以前の絵を消すことはせず、新しい紙に今日の見え方として残した。
そのとき、風が通路を抜け、乾いた葉を数枚転がした。台の近くにある落ち葉も少し動いたが、俺たちの立つ場所からは何が隠れていたのかまでは見えない。セリーは思わず前へ目を向けたあと、すぐ足元を確かめ、今いる石畳から動かずに観察を続けた。
「主様。今、風で葉が動いたところにも灰色のものが見えた気がいたしました。ですが、こちらからでは、先ほど描いたものと同じ場所かどうか分かりません。もう少し近くへ行けば……いえ、今日はそうするつもりではございませんでしたね」
言いかけて止めた彼女は、自分で少し困ったように笑った。俺はその顔を見て、危ないから駄目だと言う前に、彼女自身が理由を思い出したのだと気づいた。風で葉が動けば新しいものが見えるかもしれない。それでも、今の記録を確かめるためだけに、状態の分からない足元へ踏み込む必要はない。
「うん。気になるよね。俺も見てみたいけど、今日はここから見える範囲にしよう。今の気づきは大事だから、風で葉が動いたときに別の灰色が見えた可能性がある、って書いておこうか」
「はい。ありがとうございます。私、つい確かめたいと思いましたけれど、見たい気持ちがあることと、今そこへ行くことは別なのですね。今日は、自分で立ち止まれたことも覚えておきたいです」
セリーは自分の言葉を確かめるように頷き、観察した位置を紙へ書き足した。俺は彼女の記録と自分の記録を比べ、二人の立ち位置が少し違っていたことも明記する。灰色の部分が増えたのか、単に見る条件が変わったのか、今の時点では分からないという結論だけは共通していた。
『主様。今回の観察から、灰色に見える部分が少なくとも複数の箇所に視認された可能性は記録できます。ただし、それらが同一の構造物に属するかどうか、あるいは自然の石や土であるかは判断できません』
エルの声に、俺は小さく頷いた。前の記録より細かな情報が得られたことは嬉しいが、そこから急に古い施設の秘密へつながったわけではない。台の縁の線との関係も、今日の観察では分からないままだ。
「ありがとう、エル。その範囲で記録しておくよ。今度見に来るときには、今日と同じ時間にするのか、別の光で見るのかも考えた方がいいな。少なくとも、今日だけで形を決めるのは早そうだ」
『その判断が適切と考えられます。観察条件を明記した記録が増えれば、後日の比較に利用できます。ただし、今ある情報のみで古代の図面との一致を結論づけることはできません』
俺は答えを急がず、もう一度だけ石の台を見た。二千年前の魔導具師が何を考えてこの場所を造ったのか、今の俺には分からない。石の台がその時代のものなのかさえ、断定する材料は十分ではなかった。ただ、風で葉が動くたびに見え方が変わることを知れただけでも、雨上がりに一度見た印象を、そのまま確かな形だと思わずに済む。
観察を終えると、俺たちは道具を片づけた。セリーは紙の端を折り曲げないよう布袋へしまい、筆記具を別に持ち直す。帰りも来たときと同じ石畳を使い、落ち葉の多いところへ寄らないよう歩き始めた。
少し進んだところで、セリーが俺の袖へ視線を向けた。何かを言いたそうだったが、すぐには口を開かず、塔が見える方向まで歩いてから足を緩める。俺は彼女の歩調に合わせ、どうしたのか尋ねた。
「主様。先ほど、私は灰色の部分をもっと近くで見たいと思いました。そのとき、主様が先に止めてくださったわけではなく、私自身が足元を確かめて立ち止まれたことが、少し嬉しかったのです」
「うん、俺も見てたよ。セリーが何かに気づいて、どうするか自分で考えたんだって分かった。もちろん危ないと感じたら声をかけるつもりだったけど、今日は俺が決める前にセリーが判断してくれたんだよね」
セリーは頬を少し染め、歩く速さを落としながら微笑んだ。彼女は昔の自分なら、気になったものがあっても俺の指示があるまで動かなかっただろうと話してくれた。今は近づきたいと思い、その理由と危険を考え、近づかないと選べるようになっている。その違いを自分で感じられたことが嬉しいのだという。
「私は主様のお役に立ちたい気持ちを、今も大切にしております。ですが、それだけではなく、私が知りたいと思うことも、私がやめておこうと考えることも、自分のものとして持っていたいのです」
「それでいいと思う。俺もセリーに、俺の考えだけをなぞってほしいわけじゃないからね。もし俺が無理をしようとしたら止めてほしいし、セリーが別のことを見つけたら教えてほしい」
彼女は頷き、俺の隣で少し歩幅を合わせた。手をつなぐには荷物があったので、そのまま並んで戻る。何か特別な言葉を交わさなくても、同じ道を選んで歩いているという感覚が、今日はいつもよりはっきりしていた。
塔へ戻ったあと、俺たちは記録用紙を机へ広げ、今日の観察を整理した。石の台については以前の見取り図を残しつつ、新しい紙へ立ち位置、時間帯、光の方向、葉で隠れていた範囲を書き足した。古代の図面に無理に合わせず、現地で見たものだけを区別していく作業には、思っていた以上に集中力が必要だった。
途中、セリーが過去の紙に描いた灰色の一本線を見て、少し気まずそうな顔をした。今日の見え方と違うため、自分の記録が間違っていたかもしれないと思ったらしい。しかし俺は、そのときはそう見えたのだという事実も大切だと感じていた。
「消さなくていいよ、セリー。前は一本につながってるように見えたんだよね。今日は二か所に分かれて見えた。それが記録として残っていれば、次に比べるときに役立つかもしれない」
「そうなのですね。私は、違う形に見えたのなら、前の絵を直した方がよいのかと思っておりました。ですが、そのときに見えた姿を残しておく方が、どのように変わって見えたのか分かるのですね」
俺たちは紙の端へ、確かめられたものと推測したものを区別して書き込んだ。これまで記録が増えるたびに謎へ近づいていると思いがちだったが、今日は以前の印象を見直す必要が出た。それも調査が進んだ結果の一つだと受け止められるようになったのは、セリーと相談を重ねてきたからかもしれなかった。
記録を片づけ終える頃には、日差しが窓の低いところへ移っていた。フェルネの秋の市について新しい通信は届いていない。開催予定が近づくほど、何とか間に合わせたい気持ちが浮かばないわけではなかったが、今日の南側通路で立ち止まったことを思えば、未知の道についても同じ判断が必要だと分かる。
セリーは外出準備の紙を手に取り、確認が済んでいない項目へ目を向けた。塔から商人街道までの安全な道、実際に必要な移動時間、宿泊できる場所、帰りの手段。どれも今日の試用や観察では埋まっていない。彼女は紙を見ながら、少しだけ残念そうに笑った。
「主様。今日もフェルネへ向かう準備がすべて整ったわけではございませんね。ですが、私はそれを理由に、今日の出来事をつまらなかったとは思いません。布紐のことも、石の台の見え方も、実際に確かめてみなければ分からないことでしたから」
「俺もそう思うよ。でも、行ってみたい気持ちまでなくなったわけじゃないんだ。フェルネへ行くにはまだ分からないことが多いし、今回は見送ることになるかもしれない。それでも、今日できたことは今日の分として残しておこう」
セリーは頷き、紙を丁寧に重ねた。俺はブラートへ新しい質問を送ることを考えかけたが、現時点では彼が塔の場所を知らせないよう配慮してくれていることも、得られる情報に限界があることも分かっている。今すぐ返事を急がせる理由はなく、今日は何も送らないことにした。
夕食の準備を始める前、セリーは今日描いた花の絵だけを俺へ見せてくれた。茎の向きは昨日と大きく変わっていないが、朝日を受けた花びらが柔らかく描かれている。俺が綺麗だと伝えると、彼女は嬉しそうに笑い、そのほかに書いた自分用の記録については何も話さなかった。
俺もそれ以上尋ねず、彼女と一緒に厨房へ向かった。料理を作っている間、セリーは南側通路で自分が立ち止まったときのことを、もう一度少しだけ話してくれた。危険を避けるためだけでなく、自分が選んだ判断として残しておきたいと言う彼女の声には、静かな自信があった。
「主様。私は、今日自分で立ち止まれたことを覚えておきたいです。次に知らないものを見つけたときにも、すぐに近づかなければならないと思わず、自分で考えたいのでございます」
「うん。俺もセリーがそうやって考えてくれるのは心強いよ。俺が何かを見つけて夢中になりそうなときにも、声をかけてくれたら助かるな」
セリーは少し照れながら頷き、切り終えた野菜を鍋へ移した。彼女が主様と呼んでくれることは、今も変わらない。けれど、その呼び方の中に含まれる関係は、以前のように一方が命じ、もう一方が従うだけのものではなくなっている。
夕食を終え、食器を片づけたあと、俺たちは窓辺で短い時間を過ごした。外では風が少し冷たくなっていたが、窓を閉めた室内には食事の温かさが残っている。森の向こうへ沈む夕日を眺めながら、俺は今日見た灰色の部分について考えた。
(あの線は、結局何なんだろう。分からないままだけど、前に描いた形を信じ込みすぎずに済んだのはよかった。昔の俺なら、一つそれらしい手がかりを見つけただけで、早く答えを出したくなってたかもしれないな)
セリーは俺の顔を見上げ、何か考えごとかと尋ねた。俺が石の台のことだと答えると、彼女は自分も気になっていると話してくれたが、今夜もう一度見に行きたいとは言わなかった。明るい時間に確かめても分からなかったものが、夜になればすぐ答えを示すわけではない。
「主様。私、あの場所について、いつかもっと分かる日が来たら嬉しいです。でも、分からないことがあるからといって、今日の判断を間違いだったとは思いたくありません。安全な場所で見たものを残せたことも、私には大切でしたから」
「俺もだよ。全部調べ終わったら安心できるって思ってたけど、きっとそんな日は簡単には来ない。だから、どこまで分かったかを正直に記録して、次に確かめるときも無理をしないでいたいな」
俺がそう話すと、セリーは小さく頷き、自分から手を差し出した。俺はその手を取り、しばらく二人で窓の外を眺めた。枝の間から見える空は夕方の色を失い始めていたが、室内の明かりは穏やかで、互いの表情を見るには十分だった。
「主様。明日は、どのような一日にいたしましょうか。今日の布紐は、まだ直してみたいところがございますけれど、ほかにもしてみたいことがあるかもしれませんね」
「そうだね。明日の天気を見てから考えよう。今日みたいに外で試すのもいいし、塔の中で古い記録を読み直すのもいい。今夜のうちに全部決めなくても大丈夫だよ」
セリーは安心したように微笑み、俺の手を軽く握り返した。フェルネへ行けるかどうかは、今夜もまだ決まっていない。しかし、外へ出かけることと、目の前の一日を大切にすることは、どちらか一方だけを選ばなければならないものではないはずだった。
やがて休む時間になり、俺たちはそれぞれの部屋へ戻ることにした。セリーは自分の布袋を持ち、今日の記録をもう少し整理してから休みたいと話してくれる。俺はおやすみと声をかけ、彼女が廊下の先へ向かうのを見送った。
自室に戻ると、机の上には南側通路の新しい見取り図が置かれていた。灰色の部分は、今日見えた範囲を二つに分けて描いてある。以前の記録にあった一本の線は、消さずにそのまま残した。どちらが正しい形なのか、今はまだ答えられないけれど、その違いこそが次に確かめるべきことなのだろう。
灯りを落とす前に、俺は窓の外へ目を向けた。塔の周囲には暗い森が広がり、昼間の石畳も、庭の花も、今ははっきりと見えない。それでも、それぞれの場所に今日の記録が残っていて、明日も安全を確かめながら見に行けることが、少し嬉しかった。
(急いで遠くへ行かなくても、今日の俺たちには新しい発見があった。セリーが自分で判断して立ち止まれたことも、俺が前の記録を見直せたことも、ちゃんと覚えておこう)
フェルネの秋の市が近づいていることは変わらない。知らない町へ行きたいという気持ちも、今の暮らしを守りたいという気持ちも、どちらも本当だった。俺はその両方を胸に残したまま、寝台へ身を横たえた。
夜の塔には、風が葉を揺らす静かな音が届いている。今日、新しい答えを得たわけではない。けれど、答えの分からないものへ向き合う方法を、セリーとまた一つ選ぶことができた。そんな一日を思い返しながら、俺はゆっくりと目を閉じた。




