第170話 秋風に揺れる包みと、帰ってから見つけた小さな工夫
翌朝、窓の向こうで枝が揺れる音を聞きながら目を覚ました俺は、昨日、塔の入口近くで食べた昼食のことを思い出していた。森の景色も、食べたパンも、普段の暮らしからそれほど離れたものではなかったのに、石畳へ椅子を置いて腰を下ろしただけで、あの場所には今まで知らなかった時間が流れていた。風の音を聞きながらセリーと食事をしたことが、まだ昨日の出来事だというのに、妙に懐かしく感じられる。
窓に近づくと、入口へ続く石畳には明るい日差しが届いていた。俺たちが椅子を並べた場所は、上から見ても普段と変わった様子がない。わずかに色づいた落ち葉が端に寄っているだけで、昨日そこに二人で座っていたことを示すものは残っていなかった。
(外へ出るために何かを残す必要はないんだな。昨日のことは、俺たちが覚えていればいい)
寝台のそばには、自分で縫った布袋が置かれている。袋の口を持ち上げると、折り返した部分は昨夜しまったときの形を保っていたが、紙を入れたまま何度も出し入れすれば、また緩むかもしれない。あの袋は庭で記録を持ち歩くには役立っているものの、町の人混みや長い移動で使えるかどうかまでは確かめていなかった。
昨日の昼食で、持ち物についての考え方も少し変わった。水の容器を持つだけで片手がふさがり、風が吹けば軽い包みの端が動く。椅子を一脚ずつ運べるほど塔に近かったから困らなかったものの、あれをそのまま遠出の準備が整った証拠にすることはできない。
それでも、試してみたからこそ分かったことがあった。今朝は記録を整理しながら、昨日のうちに気づけなかった点がないか確かめてみようと思う。
「主様。おはようございます。今朝は少し風がございますが、昨夜はよくお休みになれましたでしょうか」
扉の向こうから聞こえた声に返事をすると、セリーはいつものように丁寧に挨拶をしてくれた。俺が昨日の昼食を思い出していたと話すと、彼女は一瞬驚いたあと、同じことを考えていたのだと嬉しそうに笑った。
「私も、あの場所を思い出しておりました。特に、主様がいつものパンを美味しそうに召し上がってくださったことが嬉しかったです。ただ、昨日の包みを片づけておりましたら、少し気になるところも見つけましたので、あとでお見せしてもよろしいでしょうか」
「ああ、もちろん。どこか破れてたのかな。それとも、食べ物が染みちゃった?」
「大きな問題ではございません。ですが、布の端が少し緩みやすくなっていたようです。今日はそれを確かめながら、次に使うときのことを考えてみたいと思っております」
セリーがそう言ってくれたので、俺たちは朝食後に包みを広げてみることにした。彼女はすぐに作業を始めるのではなく、温かい食事を先に取る方がよいと提案してくれた。俺も賛成し、一緒に食堂へ向かった。
食堂では、窓際の花に朝日が当たり、卓上の器の縁が柔らかく輝いていた。パンと具の入ったスープを前にすると、外で食べた昨日の昼食とは違う温かさが身体へ広がってくる。セリーは今朝の味について、自分では少し野菜の香りが強く出たように思うと先に話し、俺にも感想を尋ねてくれた。
「俺はこれくらいでも好きだよ。でも、セリーがもう少し軽い方が食べやすいと思うなら、次は少し変えてみてもいいね。二人とも同じ味を好きにならなきゃいけないわけじゃないし」
「はい。ありがとうございます。今朝は私も美味しく感じておりますけれど、次には別の仕上げ方を試してみたいと思います。主様と感想をお話しするようになってから、料理を考えるのが以前より楽しくなりました」
彼女が自分の好みを隠さずに伝えてくれることが嬉しかった。王宮で食べていた料理の多くは、誰かが望ましいと判断した形に整えられていた。今の食卓では、少し香りが強かったとか、次はこうしたいとか、そんな会話をしながら食事を楽しめる。
食べ終えたあと、俺はセリーへ庭の花について尋ねた。昨日は支えに使っていた布の位置と茎の色が気になり、棒と布を外して経過を見ることにした。外した直後は花が少し下を向いていたが、そのあと屋内へ戻ってからは新しい確認をしていない。
「今日は、あの花がどうなってるか見ておきたいな。支えを外したことで状態が変わったかもしれないし、昨日は午後にもう一度外へ出るのを控えたからね」
「私も同じ気持ちでございます。ただ、主様。もし今朝も下を向いていたとしても、すぐに別の支えを作るのではなく、まずはどのような状態なのか見ておきたいと思います」
「うん。俺もそうしようと思ってた。今度は、何とか上を向かせることを先に決めないようにしたいね」
食堂の窓から庭の鉢がある方を眺めると、葉の間に朝日が届いているのが分かった。今日は風が少し強いので、歩きにくい場所があれば近づかずに戻ることも確認する。朝食の片づけを終えると、俺たちはいつもの記録板と、それぞれの布袋を持って入口へ向かった。
扉の外には、昨日より乾いた空気が流れていた。足元の石畳には濡れた葉が少なくなっているが、風が落ち葉を運んでくるため、昨日までとまったく同じ道とは言えない。俺たちは近くの石を踏んで滑りやすさを確かめながら、庭の鉢へ向かった。
支えを外した花は、昨日よりもわずかに横を向いていた。花びらの先が地面に触れるほどではないが、茎が自分の重さを受けながらゆっくり曲がっているのが分かる。布が触れていたところには、まだ少し色の薄い部分が見えていた。
「主様。昨日の絵と比べますと、花の向きは少し変わっているようです。でも、茎が折れている様子は、私には見えません。あの色の違いも、今日は大きく広がっているようには思えないのですが……」
セリーは自分の記録を確かめながら、慎重に言葉を選んでいた。俺も隣から同じ部分を眺め、昨日と今日で光の方向が違うことを書き留める。近くへ寄ればもっと細かく確認できそうだったが、鉢の周囲は日陰が残っているため、むやみに位置を変えることはしなかった。
「俺にも大きな変化は見えないな。ただ、昨日の布が擦れたせいで色が違うのか、元からそうだったのかは、まだ分からないね。今は何もつけ直さず、次に同じような条件で見られるときまで様子を残しておこうか」
「はい。私は、今日はこのままにしておきたいです。下を向いているからといって、必ず悪い状態だと決まったわけではございませんものね」
その言葉が印象に残った。セリーは少し前まで、花の姿が変わるとすぐに何かしてあげたいと考えていた。今でも心配する気持ちはあるのだろうが、花を自分の望む向きへ直すことと、大切に育てることは同じではないと感じ始めているらしい。
俺たちは花に触れず、見えた範囲の変化だけを記録した。セリーは昨日外した支えのことも忘れないように、今後の記録には布が触れていた場所を目印として描くことにした。俺もその位置を別の紙へ写し、どちらか一方の記録だけで変化を判断しないようにする。
鉢の確認を終えたあと、俺たちは昨日昼食を取った場所へ向かった。椅子を置いていた石畳には、風で新しい葉が何枚か運ばれていたが、目立つ汚れや忘れ物は見当たらない。セリーはその場で足を止め、昨日二人で並んで座った位置を確かめるように見回した。
「主様。昨日はこの辺りに椅子を置きましたね。あのときは食事を運ぶことで頭がいっぱいでしたけれど、今日は少し離れて見るだけでも、日差しの当たり方が昨日とは違うように感じます」
「風向きも違うから、昨日は平気だった包みが今日は飛ばされるかもしれないね。そう考えると、あのときの成功だけで場所がいつも使いやすいって決めるのも違うんだな」
俺がそう話すと、セリーは頷いた。今日はここで長く過ごす予定ではない。昨日の場所が変わらず安全かを確かめてから、二人で塔へ戻ることにした。
入口へ近づいたとき、急に風が少し強くなり、石畳の端にあった乾いた葉が舞い上がった。セリーは反射的に腕で自分の布袋を押さえ、俺も持っていた記録板を身体へ寄せる。危険なほどの風ではなかったが、軽い紙なら簡単に飛ばされてしまいそうだった。
「今の風だと、昨日の食事の包みはちょっと危なかったかもしれないな。椅子に座ってるときに紙が飛んだら、慌てて立ち上がることにもなるだろうし」
「はい。私もそう思いました。昨日は端を押さえるだけで済みましたが、今日はもう少ししっかり留める方法が必要かもしれません」
俺は頷き、そこから先は新しい記録を取らずに塔へ戻った。風が吹いている間、手に持った紙と道具を守るだけでも少し気を使う。遠くの町へ出かけたときには、周囲の人や通る道にも注意を向けなければならないのだから、荷物を運ぶ方法を考える意味はあるのだろう。
塔の中へ戻ると、セリーは昨日使った食事の包みを持ってきた。洗って乾かしてあった布を机に広げると、端の一部が少し外側へ反るように癖づいている。破れたわけではないが、風を受ければそこから開きやすくなるかもしれないという。
「主様。昨日、私が気になったのはこちらです。使う前にはここまで折り返しが浮いておりませんでしたが、食事のあとで広げましたら、少し形が変わっておりました」
「ああ、確かに。何度も開けたり畳んだりしたからかな。布そのものが傷んだわけじゃないなら、まずは畳み方を変えたらどうなるか試してみようか」
俺はそう答え、昨日と同じように布を折ってみた。何も入れていない状態では形が整うが、中に食べ物がある場合を想定して少し厚みを持たせると、端が持ち上がりやすくなる。だからといってきつく縛れば、今度は食べ物を押しつぶしたり、開けるときに手間取ったりするかもしれない。
セリーは布の端を丁寧に伸ばしながら、机の脇へ目を向けた。そこには、以前から裁縫に使っている布の切れ端が収められている。彼女は少し考えてから、短い布紐を一本作って、折り返した包みの外側へ軽く巻いてみる方法を提案した。
「主様。もし紐を使うのでしたら、包みそのものを縫い直す必要はございません。紐が合わなかった場合も外せますので、まずは余っている布で試してみたいのです」
「いいね。今の袋や包みを変えずに試せるなら、使いにくかったときも戻せる。じゃあ、今日は食べ物を入れずに、紙を畳んだものを中身に見立てて確かめようか」
俺たちは使っていない紙を何枚か重ね、包みの中へ収めた。実際に食べ物を入れたときと同じ重さにはならないが、口がどのように浮くかを見ることはできる。セリーは細い布紐を作り、俺は長さを確かめるために何度か軽く巻いてみた。
最初に結んだときは、紐が片側へ寄ってしまい、包みの端が反対側から少し開いた。二人で位置を変えると見た目は落ち着いたが、今度は結び目が硬く、ほどくのに少し時間がかかった。セリーはそれを見て、しっかり留まることと取り出しやすいことの両方が必要なのだと考え込んでいる。
「主様。こちらは、少し結び方を変えた方がよろしいでしょうか。先ほどより包みは開きにくくなりましたけれど、手早く使いたいときには不便かもしれません」
「そうだね。外へ出たときに寒くて手が動かしにくかったら、もっと大変かもしれない。紐の長さはこのままで、結び目を簡単にほどける形にできるか試そう」
セリーは頷き、結び直す前に指先の動かしやすさを確かめていた。俺が手元を見せながら一つの方法を試すと、彼女はそれよりも少し緩い形を選び、軽く引けばほどけるかを確かめる。何度か試していくうちに、包みを持ち上げたときにはすぐ外れず、開けたいときには無理な力をかけずにほどける状態になった。
もっとも、これで外でも安全に使えると決まったわけではない。強い風の中ではどうなるか、濡れた手でも扱えるか、実際の食事の重さで形が変わらないかなど、まだ確かめていないことは多い。俺たちは成功したと書く代わりに、室内での試用では扱いやすくなった、とだけ記録することにした。
「セリー。もしこの紐が次も使えそうなら、食事の包みだけじゃなくて、ほかの軽い荷物をまとめるときにも使えるかもしれないね。でも、何にでも同じ紐を使っていいとは限らないから、その都度試そうか」
「はい。私も、まずは今回の包みで様子を見たいです。それから、主様。私はこの紐を、もう一本だけ作ってみたいと思います。違う長さにしたときに、使いやすさがどう変わるかも気になりますので」
彼女の提案に俺は賛成した。二本目を作ることが作業を増やすための目的にならないよう、長さを変えて比較するためだと確認する。セリーは自分で布を選び、必要な分だけ切り分けると、丁寧に端を整えていった。
その横顔を見ているうちに、俺は昨夜のことを思い出した。窓辺で手をつなぎながら、セリーは次には俺がやってみたいことも教えてほしいと言ってくれた。今朝は彼女が包みについて気づいたことから作業が始まったが、俺自身も何か試してみたいことがあったはずだ。
「そういえばセリー。昨日、今度は俺のやりたいことも考えたいって言ってくれたよね。今、ちょっと思いついたことがあるんだけど、聞いてもらってもいいかな」
「もちろんでございます。主様は、どのようなことをなさってみたいのでしょうか」
彼女は布を置き、俺の方へ顔を向けた。俺は作業机の上にある記録板と、今日の外出準備の一覧を見比べながら、自分の考えをゆっくり言葉にした。
「今までは、必要なものを持っていけるかどうか考えてた。でも、帰ってきたあとに何が残るのかも、少し試してみたいんだ。たとえば今日みたいに使った道具を並べて、どこが汚れたとか、何が使いにくかったとか、ちゃんと分かるようにしておきたい」
セリーは少し意外そうな表情を見せたあと、すぐに笑みを浮かべた。彼女は俺の希望を、普段の片づけと同じことだと受け取らなかったらしい。持っていった道具を帰宅後に確かめるのも、外出の一部として考えてみたいという意味を、ゆっくり確かめてくれた。
「主様。それでしたら、昨日の昼食で使ったものが、どのような状態になったかをまとめてみるのはいかがでしょうか。包みの端のほかにも、お水の容器や記録用の袋を使いましたので、それぞれの変化を残せると思います」
「ああ、それだ。昨日は持っていくときのことばかり考えてたけど、帰ってから片づけやすいかどうかも大事だよね。外出した日は疲れてるかもしれないし、そこで無理しないで済むようにしたい」
俺たちは包みの試作を一区切りにして、昨日使った道具を机の上へ並べた。水の容器は洗って乾かしてあり、蓋には目立った損傷がない。ただ、蓋を閉めるときに少し力が必要で、持ち運ぶ前に確認する手間があることが分かった。
記録用の布袋は二人とも使い続けているが、俺の袋は口の折り返しが使い方によって緩み、セリーの袋は筆記具を一緒に収めると取り出しにくくなる。すでに知っている問題ではあるものの、昨日のように食べ物や水を別に持つと、持ち物を分けることの意味がはっきりしてきた。
「こうして並べると、全部が少しずつ違う役目なんだな。記録の袋には紙だけ入れる方がいいし、水の容器は別で持った方が安心だし、食事の包みも風で開かないように考えなきゃいけない」
「はい。ですが、主様。道具が多ければ多いほどよいわけでもないと思います。持ち物が増えると、それを運ぶために手や時間が必要になりますから」
セリーはそう話し、昨日の昼食で椅子を何度かに分けて運んだことを思い出したようだった。俺も頷き、あれは塔の近くだからできた方法だと記録へ付け加える。遠い場所へ出かける場合に椅子を持っていくと決めたわけではなく、むしろ今は、休める場所を確かめる必要があるという判断だけが残っている。
午前の終わりが近づく頃、俺たちは道具を元の位置へ戻し、食堂で昼食を取ることにした。昨日は外で食べたから、今日は室内で温かな料理を味わいたいというのが、二人の一致した希望だった。セリーは厨房へ向かう途中、今朝作った二本の布紐をもう一度確かめ、使い分けの結果は次に試すまで保留にしておくと話してくれた。
昼食の準備では、俺が野菜を洗い、セリーが火の具合を調整した。窓から入る光は朝より高くなり、湯気の向こうで彼女の表情が柔らかく見える。料理を盛りつけるとき、俺は昨日外で食べたパンと、今目の前にある温かな皿を思い比べ、どちらも違うよさがあるのだと思った。
「昨日は外で食べたから、今日はこうして座って温かいものを食べられるのが嬉しいな。なんだか、同じ食堂なのに前より落ち着く気がする」
「私も、今朝から同じことを考えておりました。外で風の音を聞きながら食べる時間も好きですが、主様とこうしてお部屋で過ごす時間も、また違う楽しみがございますね」
俺たちは笑い合い、食事を始めた。昨日の昼食が特別だったからといって、今日も同じことを繰り返す必要はない。ひとつの経験が増えるたびに、今まで当たり前だった暮らしの別のよさにも気づけるのかもしれない。
食事のあと、俺は外出準備の紙を広げ、今日確かめたことを少し整理した。食事の包みを留める布紐は、室内での試用段階。水の容器は通常の持ち運びでは漏れが見られなかったが、長時間の移動には未検証。記録用の袋は用途を分けることで使いやすくなっているものの、雨への備えとしては不十分だ。
項目を並べてみると、どれも「もう大丈夫」と言い切れるものではなかった。それでも、自分たちが実際に扱ってみた範囲と、まだ試していないことが分かれているのは安心できる。フェルネへの経路や宿泊が不明であることを考えれば、今は持ち物を揃えることより、どこまでなら無理なく出かけられるかを判断できることの方が大切だろう。
「セリー。今日は、準備の紙に少し書き足せたけど、秋の市についての情報が増えたわけじゃないんだよね。昨日ブラートが教えてくれたこと以上には、道の状況も分からないままだし」
「はい。私も、それは分けて考えたいと思います。私たちの持ち物が少し使いやすくなったとしても、知らない道が安全になったわけではございませんものね」
セリーの言葉に、俺は頷いた。行ける条件が整わなければ今回の市を見送るという判断は、今も変わっていない。開催予定までの日数はさらに減っているが、だからといって安全の確認を省く理由にはならなかった。
しばらくして、セリーが紙を見ながら別の疑問を口にした。昨日は塔の位置を知られないようにすることを大切にしようと決めたが、もし外へ出かけることができたとして、帰り道で誰かに塔のことを尋ねられたらどう答えるべきなのか、まだ具体的に考えていなかったという。
「主様。私は知らない方に何でもお話しする必要はないと教えていただきました。でも、もし帰り道で『どこへ帰るのか』と尋ねられたら、どのようにお返事すればよいのでしょうか。答えないことで、かえって不思議に思われることもあるかもしれません」
俺はしばらく考えた。知らない人が必ず悪意を持っているわけではないし、道を尋ねること自体は普通の会話だ。しかし、相手が誰なのか分からない状況で、塔の詳しい場所や自分たちの事情を説明する必要もない。
「まず、困るほど詳しく聞かれたら、無理に会話を続けないでいいと思う。俺もその場で全部答えようとしないようにしたい。何かを隠そうとして不自然な話を作るより、話したくないことは丁寧に断る方が、俺たちには合ってるかもしれないな」
「はい。ですが、もし私がうまく言葉を選べなかったときには、主様に助けていただいてもよろしいでしょうか。私もできるだけ自分でお話ししてみたいですけれど、初めての場所では慌ててしまうかもしれませんので」
「もちろん。そのときは一緒に考えよう。逆に俺が困ってたら、セリーも声をかけてくれると助かるな」
セリーは安心したように微笑んだ。俺たちは以前にも、外で尋ねられたときの関係の伝え方について話し合っている。セリーは俺を「一緒に暮らしている大切な方」と表したいと言ってくれたが、その言葉を誰かに説明する義務はない。今は、相手に合わせて自分たちの関係を勝手に決められないようにすることも大切だと感じていた。
ただ、考えれば考えるほど、出かける前に確認したいことは増えていく。だからといって、それを理由に外出そのものを永遠に避けたいわけではない。いつか安全に移動できると分かったとき、自分たちの気持ちを確かめながら歩けるよう、今は少しずつ経験を重ねているのだと思う。
午後も進み、日差しが傾き始めた頃、俺たちは今日の作業をいったん終えることにした。南側通路の石の台については、今日は新しい観察をしていない。手前の灰色に見える部分も、雨のあとに確認した位置関係を記録してあるだけで、何なのかはまだ分からない。
「主様。今日はお庭のお花を確かめて、包みを留める方法も試しましたね。私は、昨日とはまた違う一日になったと感じております」
「そうだね。昨日は外で食事をして、今日はそのとき使ったものを見直した。次に何かを試すときにも、あとから確かめる時間を取れたらいいな」
セリーは頷き、机に置いていた自分の布袋を持ち上げた。彼女はしばらく考えてから、今日の花の記録については俺にも話したいが、それ以外に自分だけで残しておきたいこともあると伝えてくれた。俺はもちろん構わないと答え、彼女が話してくれる範囲だけを聞くことにした。
「今朝のお花は、支えを外してから少し横を向いておりました。ですが、私はその姿を見て、前より悪くなったとすぐに思わなくてもよいのだと感じました。お花にとって楽な向きが、私の考えていた姿と同じとは限りませんものね」
「うん。俺も今日の花を見て、何かを変えることが必ず助けになるわけじゃないって思ったよ。必要になったらまた相談しよう。今は咲いている姿を見守りたいな」
セリーは嬉しそうに微笑み、花の絵を描いた紙をしまった。そのほかに何を書いたのか、俺は知らない。けれど、彼女が自分で考えたことを自分のために残していると分かるだけで、十分だった。
夕食の準備を始める頃には、窓の外が少し暗くなっていた。風が強まる気配はあるものの、雨が降り出す様子はない。俺たちは外へ出る予定を入れず、厨房で温かな料理を作ることにした。
セリーは今日試した布紐を見ながら、明日もし天候がよければ、外で使ったときにどうなるか確かめてみたいと話した。俺は賛成しつつ、今日は室内での試用までだったことを忘れず、次に試す場合も塔の近くの安全な場所にとどめようと伝えた。
「主様。私、何かを作るときには、最初からうまくできるものを作らなければと思っていたことがございました。ですが、主様と一緒に考えておりますと、使ってみてから直してもよいのだと思えるようになりました」
「俺もそうだよ。昔は人に見せるものなら最初からちゃんとしてなきゃいけないって思ってたけど、今は自分たちが使うものだからね。使いやすくできればいいし、合わなかったら別の方法を考えればいい」
セリーはその返事を聞いて、穏やかに微笑んだ。鍋から立ち上る湯気が二人の間を通り、厨房には夕食の香りが広がっている。俺は野菜を切る手を止めずに、ふと今日一日のことを思い返した。
朝には花の姿を確かめ、午前中には包みの布紐を作り、午後には道具の使い方と帰り道での会話について考えた。フェルネへ向かう道そのものは分からないままだが、それでも今の俺たちの暮らしの中には、新しい経験が少しずつ増えている。
夕食を終えて片づけを済ませると、俺たちは窓辺へ移動した。森の向こうには薄い雲が流れ、星の光がときどき枝の隙間から見えている。窓を開けなくても葉が揺れる音が聞こえ、今日は日中より少し風が強くなっていることが分かった。
「主様。今日は、私が気づいた包みのことを一緒に考えてくださって、ありがとうございました。それから、主様がなさってみたいとおっしゃった、帰ってから道具を確かめることも、私はとてもよいと思いました」
「こちらこそ、ありがとう。セリーが昨日の布の変化に気づいてくれなかったら、次も同じように包んで終わりにしてたかもしれない。俺も、帰ってから何が残ったかを見るのが大事だって、今日ようやく実感したよ」
彼女は嬉しそうに頷いたあと、少しだけ照れたように視線を落とした。俺はその横顔を見つめ、いつか外の町へ出かけることができたなら、今日のように帰ってきてから話し合う時間を持ちたいと思った。どんなものを見たかだけではなく、何を感じて、どこで困って、どんなことが嬉しかったのかを、互いの言葉で伝え合えたらいい。
「セリー。もしフェルネへ行けなくても、今日みたいに少しずつ準備を続けていこう。町に行くためだけじゃなくて、ここでの暮らしも過ごしやすくなると思うから」
「はい。私も、そのようにしたいです。主様と一緒に使うものを考えたり、私自身が気づいたことをお伝えしたりする時間が、今はとても楽しいのでございます」
彼女がそっと手を差し出してくれたので、俺はその手を取った。窓の外では風が枝を揺らしていたが、室内は穏やかで、遠くの音を聞きながら並んで立っているだけで落ち着く。昨日の昼食でも同じように感じたが、同じ場所にいても、誰とどんな気持ちで過ごすかによって時間の意味は変わるのだろう。
「明日、もし風が強かったら外での試し方は変えようね。今日の布紐も、無理に完成させる必要はないんだから」
「はい。お天気を確かめてから考えたいと思います。それから、お花の様子も、無理のない場所から見てみたいです」
俺たちは明日の予定を大まかに確認し、夜が深くなる前に休むことにした。セリーは手を離したあと、自分の布袋を胸元へ抱え、穏やかな笑みでおやすみなさいと告げてくれる。俺も返事をして、廊下を歩く彼女を見送った。
自室へ戻った俺は、布袋の隣へ今日試した紐の長さを書いた小さな紙を置いた。布の結び方ひとつにも、使いやすさと扱いにくさがあり、まだ知らないことが残っている。それでも、明日また確かめられると思うと、不思議と面倒には感じなかった。
(外の世界へ行けるかどうかは、まだ分からない。でも、帰ってきてから何を話したいかなら、今の俺たちにも考えられるんだな)
フェルネの秋の市は近づいている。安全な経路も宿泊先も確かめられないままなら、出発を決めることはできないだろう。けれど、俺たちがここで過ごす一日まで、知らない道に左右される必要はない。
明日はどんな風が吹き、庭の花がどのような姿を見せるのだろう。セリーはまた何かを見つけて、俺に相談してくれるだろうか。そんなことを考えているうちに、今日机の上で作った細い布紐と、彼女が見せた真剣な横顔が心に浮かんだ。
古い塔の窓の外では、秋の風が木々を揺らしている。俺はその音を聞きながら、今日の記録を整えた紙をそっと伏せ、ゆっくりと目を閉じた。




