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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第169話 塔のすぐそばに広げた昼食と、帰る場所を確かめる小さな旅


 朝、目を覚ました俺は、窓から差し込む光の向きが昨日とは少し違っていることに気づいた。雲は薄いものの、森の上にはまだ白い霞のようなものが残っていて、遠くの木々の輪郭が柔らかく見える。雨が続いていた頃に比べれば空気は乾いてきたが、窓の下にある石畳の陰には、昨夜までの湿り気が残っているようだった。


 寝台から起き上がり、いつもの布袋を手に取る。端に残った不揃いな縫い目へ指先を滑らせると、セリーと一緒に布を選び、使い方を何度も考え直した時間が思い出された。旅へ持っていくつもりで作ったわけではなかったのに、今では外へ出るときの記録を収めるための、ささやかな相棒になっている。


(昨日は、外へ出る道を知りたいと思うことと、塔の場所を守ることが、簡単には両立しないと分かった。だからって、今日も紙の上だけで旅のことを考え続ける必要はないんだよな)


 ブラートから届いた通信には、フェルネへ向かう道の一部で最近も荷車が往来したという話と、その話だけでは通行の安全を確認できないという注意が記されていた。彼は塔の位置を外部へ知らせるような調べ方を避けてくれており、俺たちもその判断を尊重すると返信している。秋の市まで残された時間は短くなっているが、塔から町までの経路も、必要な移動時間も、泊まれる場所もまだ分からない。


 行ける可能性を無理に追いかけず、条件が整わなければ今回は見送る。それは昨日、セリーと気持ちを確かめたばかりだった。しかし、何も決まっていないからこそ、今ある時間をどう過ごすかまで後回しにする必要はない。そんなことを考えていると、扉の向こうから柔らかな声が聞こえてきた。


「主様。おはようございます。今朝は風が穏やかでございますが、窓際は少し冷えております。お身体のお加減はいかがでしょうか」


「ああ、おはよう、セリー。よく眠れたよ。今朝は外が明るいね。今日は雨の心配が少なそうに見えるけど、実際の足元は確かめないと分からないな」


「はい。お庭のお花も気になっておりますので、朝食後に無理のない範囲で見に行けたらと思っております。それから、主様に一つご相談したいことがございます」


 彼女の声はいつもどおり丁寧だったが、最後の言葉には少しだけ弾むような響きがあった。俺が何かを尋ねる前に自分から相談を持ちかけてくれるのは、最近では珍しいことではなくなっている。それでも、どんな希望が聞けるのかと思うと、自然に胸が温かくなった。


「うん。食堂で聞かせてよ。今日は急いでやらなきゃいけない作業もないし、まずは一緒に朝食にしよう」


「ありがとうございます。では、温かいうちに召し上がっていただけるよう、ご案内いたします」


 食堂には、焼いたパンの香りと温かな野菜の匂いが漂っていた。窓の向こうでは細い枝が揺れ、卓上に置かれた花瓶の影がゆっくりと動いている。セリーは自分の席へ着き、器の中を確かめてから、昨夜考えていたという味つけについて教えてくれた。


「昨日の昼食では少し香りを強くしすぎたように感じましたので、今朝は控えめにしております。ですが、私自身はこちらの方が食べやすいと思いましたので、主様にも試していただきたかったのです」


「うん、美味しいよ。香りが弱くなったっていうより、野菜の味を前より感じやすい気がする。セリーはどう?」


「私も、今朝はこちらが好みでございます。ただ、夜に食べるのでしたら、もう少し香りがあっても楽しいかもしれませんね」


 俺たちは食事の感想を交わしながら、今日の予定について話した。花の支えの状態は、昨日の朝に大きな異常が見られなかったものの、布の端が少し浮いていた。今日も同じように見えるか、時間が経ったことで茎に負担が出ていないかを確かめたいというのが、セリーの最初の希望だった。


 そしてもう一つ、彼女はパンを少しだけ残したところで、意を決したように俺を見つめた。


「主様。昨日、私たちはフェルネへ向かう道について、まだ確認しなければならないことが多いとお話しいたしました。私もその判断を変えたいわけではございません。ですが、もしよろしければ、今日は塔の近くで、外へ持っていく食事を一度試してみたいのです」


「外へ持っていく食事? ……ああ、なるほど。旅へ出る練習ってことかな」


「はい。ただ、遠くまで歩くのではなく、私たちが普段から様子を確かめている場所で、短い時間だけ過ごしてみたいと思いました。先日まとめた持ち物の一覧には、お水や食べ物がございましたけれど、実際に持って歩いたときに困ることがあるかもしれませんので」


 俺は手にしていたパンを皿へ戻し、彼女の話を考えた。遠くの町へ行くことと、塔の近くで昼食を食べることは違う。だが、食べ物を持ち歩き、どこで休めるかを確かめるという意味では、共通することもありそうだった。


「面白そうだね。でも、昨日までの雨で地面が濡れてるところもあるだろうし、外で食べる場所が見つからなかったらどうする?」


「その場合は、無理に外へ出ず、塔へ戻って食べたいと思います。準備したものがそのまま室内で食べられるなら、やり直すこともできますから」


 セリーはそう答え、少し恥ずかしそうに微笑んだ。以前なら、何かを提案した以上、最後まで実行しなければならないと考えていたかもしれない。けれど今は、途中でやめることも含めて自分の予定を考えているようだった。


「いいね。じゃあ、庭の花を見てから、外で短く休めそうな場所があるか確かめよう。どこへ行くかは足元を見て決めるし、安全な場所がなければ食堂へ戻る。それでもよければ、俺もやってみたい」


「はい。ありがとうございます。私、主様と一緒に、塔の外で食事をしてみたいと思っておりましたので、とても嬉しいです」


 彼女がそこで見せた笑顔は、秋の市について話しているときとは少し違っていた。まだ実現できるか分からない遠くの約束ではなく、今日自分で提案した小さな楽しみが、一つ具体的になったからなのだろう。俺もその気持ちにつられるように笑い、残りの朝食を味わった。


 食後の片づけを終えると、俺たちはまず庭へ出る準備をした。食事の支度は後回しにして、花の状態と地面を先に確かめる。小さな布袋には記録紙を入れ、筆記具は別に持った。普段使いの木製記録板も持ったが、今日の目的は新しい遺跡を探すことではないので、必要以上の道具は用意しなかった。


 塔の扉を開けると、ひんやりした空気の中に、乾き始めた土と枯れ葉の匂いが混ざっていた。日当たりのよい石畳は明るくなっているものの、壁際に残った葉はまだ湿っている。セリーは足元の様子を先に確かめ、俺も彼女の隣で安全な場所を選びながら進んだ。


 支えを添えた花は、昨日とほぼ同じ向きで咲いていた。布の端は相変わらず少し浮いていたが、強く締めつけられているようには見えない。ただ、昨日の記録と比べると、茎に触れている布の一部が以前よりわずかに低い位置へ移っているようだった。


「セリー。ここの布、昨日より少し下に動いてるように見えないかな。俺の見間違いかもしれないから、昨日の絵と比べてみてほしい」


「……はい。私の記録でも、昨日はもう少し上にございました。ですが、布がずれたのか、花の向きが変わったためにそう見えるのか、今のところは分かりません」


 セリーは花へ顔を近づけすぎず、見る位置を変えて確かめた。俺も別の角度から眺めると、布のすぐ上の茎に、ほんのわずかだが色の違うところがあるように見えた。以前からの色なのか、布と擦れたためなのかは分からないものの、その部分を見落としていた可能性もあった。


「少し気になるね。支えを添えたことで擦れてるなら、今のままにしない方がいいかもしれない。ただ、勝手に原因を決めつけたくもないな」


「はい。主様、私は一度、布を緩めて様子を見たいと思います。支えを外すかどうかは、そのあとで茎の状態を確かめて決めてもよろしいでしょうか」


「もちろん。セリーがその方がいいと思うなら、一緒に確かめよう。花を引っ張らずに済むよう、俺が棒を押さえておくよ」


 俺たちは足場を確かめ、茎を動かさないように布の結び目を緩めた。強く引っ張らずに外すことができたが、支えがなくなった花は少しだけ下を向いた。以前ほど大きく垂れたわけではなく、茎の見える部分にも明確な裂け目は見当たらない。ただ、布が触れていたところは、周囲より少し色が薄く見えた。


「ここ、やっぱり少し色が違うね。でも、傷だと決めるにはまだ分からないな」


「私も同じように見えます。もし支えが当たっていたことによるものなら、すぐに同じ位置へ戻すのは避けたいです。今日は外して様子を見てもよろしいでしょうか」


 俺は頷き、無理に棒を残さずに外した。土を大きく動かさないよう慎重に引き抜き、使っていた布とともに塔へ持ち帰ることにする。花は以前より少し下を向いたが、今の姿勢で無理に重さが集中しているようには見えなかった。もちろん、時間が経ってからどうなるかは分からないため、今日の午後か翌朝に改めて確認することにした。


 セリーは花を見つめ、少しだけ眉を下げていた。自分の希望で支えを添えたことを気にしているのかもしれない。けれど俺が声をかけるより先に、彼女は小さく息を整え、記録紙へ目を向けた。


「主様。私は、支えを添えれば必ずよくなるのだと思いかけていたのかもしれません。昨日は位置が変わっていないことを喜んでおりましたが、今日は布が当たる部分まで、もう少し注意して見たいと思いました」


「そうだね。俺も、支えがそのままなら大丈夫だろうって安心しかけてた。今日気づけたんだから、次に同じようなことをするときは、もっと考えられると思うよ」


 彼女は頷いて、布を外した時刻と花の向きを書き留めた。俺も茎の色が違って見えた場所について、断定せず記録する。花を元の向きへ戻すことより、今の状態を確かめて負担を増やさないことを優先できたのは、二人で観察を続けてきたからかもしれなかった。


 鉢から少し離れたところで、俺たちは今日のもう一つの目的である、外で休める場所を考え始めた。庭の地面はまだ場所によって湿っており、落ち葉の下の状態も分からない。遠くまで探し回るつもりはなかったので、塔の入口に近い、普段から歩いている石畳の周辺だけを見て回ることにした。


 陽の当たる一角では、石の表面が乾いた明るい色になっていた。塔の扉からも遠くなく、部屋へ戻ろうと思えばすぐに引き返せる。しかし、そこへ腰を下ろせるかどうかは別問題で、石の表面が冷えていないか、食べ物を置く場所があるかも確かめる必要がありそうだった。


「ここなら、塔へ戻るにも困らなそうだね。でも、ただ立って食事をするのも落ち着かないだろうし、座る場所が必要かな」


「はい。ですが、地面に直接座るのは冷たそうでございます。屋内で普段使っている椅子を持ってくる方法もございますが、運ぶために無理をする必要はないと思います」


 俺は塔の入口と目の前の石畳を見比べた。少し離れた場所には乾いて見えるところもあるが、そこまで荷物を持って移動することに大きな意味はない。実際の旅で座る場所がない場合のことを考えるなら、まず自分たちが無理なく休める方法を探した方がよさそうだった。


「そうだね。今日は距離を歩く練習じゃなくて、外で短く過ごせるか確かめるのが目的だし。小さな椅子を二つ持ってこられるなら、ここで試してみようか。ただ、足が滑りそうだったり、置いたときにぐらついたりするなら中止にしよう」


「はい。私はその方法で試してみたいです。食事についても、運んだあとにすぐ食べられるものにしておけば、無理に道具を増やさなくて済むと思います」


 俺たちは日差しの当たり方と足元を記録し、一度塔へ戻ることにした。南側通路の石の台は見に行っていないし、庭の湿った場所へ近づく必要もなかった。今日選んだ場所は、未知の道を踏み進んだ先ではなく、毎日使っている入口のすぐ近くだ。それでも、セリーがそこで食事をしてみたいと思ってくれたことが、俺には新鮮だった。


 厨房へ戻ると、セリーは棚に並ぶ食材を一つずつ確かめ始めた。朝食の残りをそのまま持ち出すのではなく、昼まで傷みにくく、手を汚さずに食べやすいものを考えたいらしい。俺は机の上に置いた持ち物の一覧を取りに行き、今日の試みで必要になりそうなものを、彼女と相談しながら選ぶことにした。


「今日は短い時間だから、温かいスープを無理に外へ持っていかなくてもいいかな。こぼれない容器があるか確かめるのも大事だけど、最初から難しいことを全部試す必要はないよね」


「はい。では、パンに簡単な具を添え、食べる直前まで包んでおくのはいかがでしょうか。お水については、蓋の閉まる容器を使い、運ぶ途中で漏れないかを確かめてみたいです」


 俺はその案に賛成した。ただし、これから食べるものを試験のために汚すわけにはいかないので、水を入れる容器については先に空の状態で蓋の具合を確かめ、少量の水を入れたあとも外側が濡れていないかを見ることにする。道具の性能をよく知らないまま使い切ろうとせず、まず普通に扱える範囲を調べるのがよさそうだった。


 セリーが用意したのは、以前から厨房に置かれている簡素な蓋つきの容器だった。特別な魔導具というわけではなく、普段は食材や水を一時的に保管するのに使っているものらしい。蓋を閉じて軽く傾けると、水がすぐ漏れるような様子はなかったが、逆さにしても絶対にこぼれないと判断できる材料はない。


「このまま手で持つなら問題なさそうだけど、布袋の中へ横向きに入れるのはやめておこう。記録紙が濡れてしまったら困るし、袋の方も水を防ぐようには作ってないからね」


「はい。では、お水は別に持ち、紙はそれぞれの袋に入れたままにいたします。主様、私が容器を持って歩いてもよろしいでしょうか」


「もちろん。でも、俺も持ってみたいな。重さがどれくらい違うのか、交代して確かめよう。片方だけが運び続ける必要はないんだから」


 セリーは微笑み、容器を両手で持ち上げた。水を入れる前とあとで重さが変わることを確かめると、彼女は自分の持ち方を少し変え、歩くときにぶつけにくい位置を探している。俺も試してみると、特別に重くはないものの、記録板と同時に持ったときは片手がふさがってしまうことに気づいた。


「水だけなら運べるけど、記録板や食べ物も持つとなると、ちょっと持ちにくいな。道が悪いときは、手を自由にしておく方がよさそうだし」


「そうですね。主様、今日は塔の入口の近くですので、何度かに分けて運ぶこともできます。ですが、町へ出かける際には、同じようにはできませんね」


「ああ。今日うまくできたからって、遠い旅でも同じとは限らない。だからこそ、何を持つと困るのか、試してみる意味があるんだろうね」


 俺たちは、水の容器と食べ物の包みを別々に扱うことにした。包みには普段使っている清潔な布を使い、持ち運ぶあいだは倒れたり開いたりしないように整える。急いで食べなくてもよいよう、準備が整った時点で天気と足元をもう一度確認してから外へ出ることにした。


 作業を分担していると、セリーがパンの大きさを揃えようとして、途中で少し考え込んだ。俺がどうしたのか尋ねると、彼女は自分の分は少し小さめにしてみたいと話した。食べる量が同じでなければならないわけではないし、俺の分まで無理に合わせる必要もない。そう伝えると、彼女は安心したように笑い、好みに合わせた二つの包みを作ってくれた。


「主様。私、最初は同じ形、同じ大きさの方がよいのだと思っておりました。ですが、食べたい量が違うなら、それぞれに合わせた方がよいのですね」


「そうだね。持っていくものも同じだよ。セリーが必要だと思う記録はセリーが持てばいいし、俺の道具まで全部同じ袋に入れなくていい。お互いに無理のない形を探していこう」


 昼が近づいた頃、準備した包みと容器を机に並べると、思っていたより荷物が多く見えた。食べ物二人分に水、記録用の布袋、それから腰を下ろすために使う二脚の小さな椅子。これだけでも、何も考えずに持ち運ぼうとすれば手が足りなくなる。塔のすぐそばなら何度かに分けて運べるが、遠くの町への外出では同じ方法は取れない。


「セリー。今日は椅子を先に持っていって、置けるかどうか見てから食事を運ぼう。もし安定しなかったら、ここで準備を終わりにして、中で食べればいい」


「はい。私も、それが安心だと思います。外で食べたい気持ちはございますけれど、無理に椅子を置くほどのことではございませんから」


 俺たちは普段使っている小ぶりな椅子を一脚ずつ運んだ。大きな家具をわざわざ外へ持ち出すようなことはせず、二人が無理なく持ち上げられるものだけにする。扉のすぐ近くで足元を確かめ、椅子の脚が石の継ぎ目にかからない場所へ置いてみると、座面を軽く押しても目立ったぐらつきはなかった。


 それでも実際に座るまでは分からない。俺は自分の椅子にゆっくり腰を下ろし、足の位置が安定していることを確かめたあと、セリーの方へ顔を向けた。彼女も同じように様子を見てから座り、周囲を眺めると、少し驚いたように目を細めた。


「主様。こうして座りますと、普段通り過ぎるときとは、庭の見え方が少し違いますね。あの枝の間から、花の鉢が見えることも、今まで気づきませんでした」


「本当だ。いつもは歩きながら見てるから、同じ高さで止まって眺めることがなかったのかもな。……椅子も大丈夫そうだし、一度食事を取りに戻ろうか」


 俺たちは椅子をそのままにしてよいか周囲の様子を確認し、扉のすぐそばであることを確かめてから短時間だけ塔へ戻った。食事の包みは俺が持ち、水の容器はセリーが持つ。記録板は今日は使わず、各自の小さな布袋だけを持って外へ出ることにしたので、手元には少し余裕ができた。


 昼の光の中へ戻ると、先ほどより風が弱くなっていた。セリーは自分の椅子へ腰を下ろし、包みを開く前に、膝の上に置いた布袋の位置を整える。俺も隣に座ってパンを手に取ったが、いつもの食堂とは違い、近くの木から落ちた葉が石畳を滑っていく様子が目に入った。


 食事そのものは、特別なものではなかった。中に挟んだ具材も普段から食べているもので、味つけも朝の相談どおりだ。けれど、屋根と壁に囲まれた食堂ではなく、森の空気を感じながら食べるだけで、いつものパンが少し違ったものに思えた。


「……美味しいな。何か新しいものを入れたわけじゃないのに、こうやって外で食べると、少し違う感じがするね」


「私もです。主様、食堂では気にならなかった風の音や、遠くの鳥の声が聞こえてまいります。お食事の味そのものは同じはずなのに、周りの様子が変わると、受け取る気持ちも変わるのですね」


 セリーは包みを両手で持ち、ひと口ずつゆっくり食べていた。いつもの彼女なら、俺が先に食べ終わらないよう気を配ることもあったかもしれない。だが今は、自分が味わう時間を大切にしているようだった。俺も急ぐ理由はないので、食べ物を持った手を休め、しばらく空を見上げた。


 枝の間には薄い雲が流れ、塔の外壁に当たる光が少しずつ変わっていく。以前は何度も眺めてきた景色なのに、座る高さと向きが変わるだけで新鮮に感じられる。遠い町へ出かけなければ、新しい経験はできないと思い込みかけていた自分が、少し可笑しかった。


「セリー。今日の提案、してくれてありがとう。俺、外へ出るなら何か特別な場所まで行かないといけないって、どこかで思ってたかもしれない」


「私は、主様と外で食事をしてみたかっただけでございます。ですが、こうして実際に座っておりますと、私も思っていた以上に楽しいです。もしフェルネへ行けなくても、今日のような時間をまた過ごしたいと思います」


「俺もだよ。しかも今日は、持ち物で困ることも少し分かったしね。普通の椅子を二つ運ぶだけでも結構手間がかかった。旅先では、座る場所があるかを確かめておいた方がいいな」


 セリーは頷きながら、足元へ置いた水の容器へ視線を落とした。食事を運ぶ間には問題がなかったものの、容器を持ち替える際に少し手間取ったことが気になっているらしい。俺がその様子に気づくと、彼女は自分から話してくれた。


「主様。お水を運ぶとき、私は両手で持つ方が安心だと感じました。ただ、その場合はほかの荷物を持ちにくくなりますので、遠くへ出かける際には、持ち方から考え直した方がよいのかもしれません」


「そうだね。今日と同じ入れ物を使うって決める必要はないし、そもそもどんな移動をするのかも分かってない。今は、手で運ぶだけだとほかのものを持ちにくい、って記録しておこう」


 俺はそう答え、水の容器の蓋を確かめてから少し飲んだ。冷たい水が喉を通ると、昼の日差しを受けていた身体が落ち着く。セリーも自分の分を飲んでから蓋を閉じ、外側が濡れていないか確認している。ほんの小さな動作だが、こうしたことも実際に試してみなければ気づかないのだろう。


 しばらく食べ進めたところで、横から弱い風が吹いてきた。セリーが膝の上へ置いていた包みの端が少し持ち上がり、彼女は慌てずに指先で押さえる。大事にはならなかったが、俺たちはそこで、食べ終えた紙や布を広げたままにしておくと風で飛ばされる可能性があることに気づいた。


「食べ終わった包みは、すぐまとめておいた方がよさそうだね。ここなら塔へ戻って片づけられるけど、外の町だと風で飛んだら困るだろうし」


「はい。私も、今の風で気づきました。今日はあまり強く吹いておりませんが、それでも軽いものは動いてしまうのですね」


 セリーは包みの端を畳み直し、膝から落ちないようにしてから食事を続けた。俺も食べ終わった布をまとめ、持ち帰るものとその場で使うものを分けておく。ほんの少しの工夫で安心して過ごせる時間が増えることに、二人とも何となく嬉しくなった。


 昼食が終わっても、俺たちはすぐには立ち上がらなかった。遠くの枝が揺れ、足元を小さな虫が通り過ぎていく。食べ物の匂いが薄れると、森の湿った土の香りが戻ってきた。静かな時間の中で、セリーは隣に座ったまま、何かを考えるように自分の両手を眺めていた。


「主様。私、今日は町へ行けたときの練習をするつもりでした。けれど、こうして座っているうちに、これ自体が一つの外出なのだと思えてまいりました」


「ああ。すぐ近くだけど、ちゃんと外へ出て、自分たちで場所を選んで、ご飯を食べたからね。遠くまで移動しなかったからって、今の時間がなくなるわけじゃない」


 セリーは俺の言葉を聞き、ゆっくり顔を上げた。木漏れ日が頬に落ち、その表情を少しだけ明るく見せる。彼女は照れくさそうに微笑んだあと、俺たちが座っている場所から見える塔の扉へ視線を向けた。


「それに、今日は帰る場所がすぐ近くに見えております。私は、そのことがとても安心でございます。知らない町へ行くときには同じようにはいきませんが、帰りたい場所があるという気持ちは、きっと変わらないと思います」


 俺も彼女の視線を追った。扉の向こうには食堂があり、作業机があり、まだ調べ終わっていない古い記録がある。毎日そこへ戻っているうちに当たり前になっていたが、今の俺は、あの場所を自分の家として見ているのだと思った。


「そうだね。俺もあそこへ帰るのが好きだよ。外で何かを見つけても、疲れて帰ってきても、あそこでセリーと話せるなら嬉しい。……ただ、今日はまだここで少し休んでいたいな」


「ふふっ。私もです。主様、もう少しだけ、このまま一緒に過ごしてもよろしいでしょうか」


「もちろん。風が強くなったり、寒くなったりしたら、そのときは戻ろう」


 そう約束して、俺たちはしばらく何も話さずに過ごした。沈黙が続いても、気まずさはない。セリーが隣にいると分かっているだけで、森の音を聞いている時間まで、誰かと共有しているように感じられた。


 やがて日差しが少し陰り、風が冷たくなった。俺が上着の襟元へ手をやると、セリーも同じ変化に気づいたらしく、空を見上げてから俺へ顔を向けた。


「主様。先ほどより少し冷えてまいりましたね。私は、そろそろ塔へ戻りたいと思います。主様は、もう少しここにいらっしゃりたいでしょうか」


 彼女が自分から戻りたいと伝えてくれたことに、俺は自然と笑みを浮かべた。今朝話したとおり、途中で休みたいときや帰りたいときに、互いに言葉にしてよい。それを練習しようと意識していたわけではないのに、今日の外出の中で自然にできたことが嬉しかった。


「俺もそろそろ戻ろうと思ってたよ。じゃあ、食べたものの包みを確認して、忘れ物がないか見てから帰ろう」


 俺たちは包みと容器をまとめ、足元を確かめてから立ち上がった。椅子を運ぶ前に、食べ物の残りや小さな紙片が落ちていないか見回す。周囲に新しい汚れを残していないことを確かめてから、荷物と椅子を何度かに分けて塔の中へ運んだ。


 扉を閉める前に振り返ると、さっきまで座っていた場所には、特別な目印も残っていなかった。日差しに照らされた石畳があるだけで、少し離れればいつもの塔の入口と変わらない。けれど俺たちには、そこが今日初めて二人で昼食を取った場所として、しばらく忘れられない気がした。


 屋内へ戻ると、風にさらされていた頬がゆっくり温まっていくのが分かった。セリーは厨房へ食事の道具を運び、俺は椅子を元の場所へ戻してから、作業机に今日の持ち物を並べた。小さな布袋と水の容器、使い終えた包み、それから持ち帰った記録用紙。何を使い、何が使いにくかったのかを確かめると、出発前に考えていた一覧とは少し違うものが見えてきた。


 持ち歩くときに手がふさがりやすいこと。軽い包みでも風が吹けば動いてしまうこと。座って休む場所を確保するには、足元の安全だけでなく、身体が冷えないかどうかも考える必要があること。どれも特別な発見ではないが、紙の上で想像していたときよりも具体的に感じられた。


「セリー。今日やってみたことを、持ち物の一覧へ全部書き足すと、またすごい量になりそうだね。試した結果は別の紙にして、次に何を用意するか決めるときに見直せるようにしようか」


「はい。私も、その方がよいと思います。それから、主様。私たちは今日は食事の道具を何度かに分けて運びましたので、遠くへ出かける準備が整ったと考えないようにしたいです」


「ああ。今日分かったのは、塔の近くで短い時間を過ごすならどうだったか、ってことだけだよね。知らない道の安全や、宿泊できるかどうかとは、別の話だから」


 セリーは頷き、今日使った布の状態を確かめてから、洗うものとしまうものを分けていった。俺も記録板へ短く書き足し、実際に試していないことには印をつけないよう気をつけた。遠い町へ行けるかどうかを確かめる目的は、今日も未解決のままである。しかし、そのことが今の小さな達成を消してしまうわけではなかった。


 記録を整理している途中、セリーは窓際に置いていた自分の布袋を手に取り、中から何も書かれていない紙を一枚取り出した。俺が顔を向けると、彼女は少し恥ずかしそうに微笑み、自分の記録を残しておきたいと話した。


「主様。今日は、お庭のお花のことと、外でお食事をしたことを、私自身のためにも書いてみたいです。ですが、少し長くなりそうですので、先にお時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「もちろん。今すぐほかの作業をしなきゃいけないわけじゃないし、セリーが書きたいことを、好きなだけ書いていいよ。俺はこっちの記録をまとめてるから」


 彼女は礼を言ってから、自分の机の端へ紙を広げた。俺たちは同じ部屋にいながら、それぞれ別のものへ向き合う時間を過ごした。筆記具が紙の上を動く小さな音だけが聞こえてきたが、何を書いているのかを確かめたいという気持ちは湧かなかった。書き終えたものを彼女が話したくなったなら聞きたいし、そうでなくても今日一緒に過ごしたことは変わらない。


 夕方が近づいた頃、庭の花をもう一度確かめるかどうか相談した。昼過ぎから風が冷たくなっていたこともあり、セリーは今日はこれ以上外へ出ず、明朝の様子を見る方がよいと考えているらしい。俺も賛成し、支えを外したあとに花がどう変わるかは、翌日以降の記録で比べることにした。


「主様。今日、支えを外したことが正しかったのかは、まだ分かりませんね。ですが、私は明日もあのお花を見たいと思っております。今度は何かを直すためだけではなく、元気に咲いているところを楽しみに行きたいです」


「それがいいね。必要なことがあればまた考えよう。何も変える必要がなかったら、花を眺めて帰るだけでも十分だと思うよ」


 セリーは穏やかに微笑み、窓の向こうへ目を向けた。日差しを受けた枝の先には、赤く色づいた葉がいくつか残っている。秋が深まれば、この景色もまた変わっていくだろう。フェルネの秋の市を訪れることができなくても、季節が過ぎるまで何も楽しめないわけではないのだ。


 その日の夕食は、昼に外で食べたものとは違い、温かな煮込み料理にした。セリーが味つけを考え、俺が野菜を切る手伝いをする。厨房に漂う湯気を眺めていると、少し前まで寒い風の中にいたことが遠い出来事のように感じられた。


「主様。外で食べたパンも美味しかったですけれど、こうして温かい料理を囲む時間も、私はとても好きでございます。今日一日で、違う楽しみを二つ見つけられた気がいたします」


「俺もだよ。しかも、どっちかだけを選ばなくてもよかったんだよね。昼は外へ出て、寒くなったら帰ってきて、夜はここで温かいものを食べる。考えてみれば、それで十分だったな」


 セリーは嬉しそうに頷き、自分で盛りつけた料理をゆっくり味わっていた。食卓の上にあるのは普段と変わらない食器で、窓の向こうに広がる森も昨日までと同じ場所にある。けれど今日という一日を過ごしたあとの俺には、その見慣れた景色が少し違って見えた。


 夕食を終え、片づけを済ませたあと、俺たちは窓辺に並んだ。外には薄い雲が流れていたが、その切れ間から小さな星が見える。昼間に食事をした石畳は暗く、もうどこに椅子を置いたのかもはっきりとは分からない。それでも、あの場所で聞いた風の音や、セリーが見せた笑顔は、今も鮮やかに思い出せた。


「セリー。今日はありがとう。秋の市へ行くことばかり考えてたけど、塔のすぐそばでも、こんなに楽しいことができるんだな」


「こちらこそ、ありがとうございます。私も、主様にお願いする前は、少し小さすぎる外出かもしれないと思っておりました。ですが、実際に過ごしてみますと、私にとっては大切な一日になりました」


 彼女はしばらく外を眺めたあと、そっと手を差し出した。俺がその手を取ると、セリーは安心したように微笑み、俺の隣へ少し近づく。その仕草には以前のようなためらいがほとんどなく、彼女自身がこうしていたいと思ってくれていることが伝わってきた。


「主様。私、遠くの町へ行ってみたいという気持ちは、今も変わっておりません。でも、今日のように近くで新しいことを試せるのなら、外出できる日をただ待つだけにはならないのですね」


「ああ。フェルネに行くための条件は、まだ揃ってない。そこは変わらないけど、俺たちが今日どう過ごすかまで、道の情報に決めてもらう必要はないと思う」


「はい。私も、そう思います。次は主様がしてみたいことも、お聞かせくださいませ。今日は私の希望を一緒に叶えていただきましたので、今度は私も主様が望まれることを一緒に考えたいです」


 俺は少し考えてから、彼女へ笑いかけた。南側通路の石の台も、二千年前の古い資料も、気になることはまだいくつもある。しかし、そのどれかを今ここで優先すると決める必要はない。明日になって庭の花を見たあとで、何か新しいことを思いつくかもしれないからだ。


「ありがとう。じゃあ、また明日の朝に相談しよう。今は、もう少しここで一緒に夜の森を見ていたいな」


「ふふっ。はい。私も、主様と同じ気持ちでございます」


 窓の向こうでは、静かな風が枝を揺らしている。古い塔の中にいる俺たちに、今夜も何か大きな知らせが届くわけではなかった。フェルネへ向かう道も、石の台の謎も、三〇八号室の少年へ香りを安全に届ける方法も、まだ答えを待っている。


 それでも、今日新しく知ることができたのは、答えのある問題ばかりではなかった。セリーが自分から行ってみたい場所を選び、帰りたくなったときにはその気持ちを伝え、俺もそれを嬉しく受け止めた。二人で過ごした短い昼食の時間には、どんな古代の魔導具にも代えられない温かさがあった。


 やがて休む時間になり、俺たちは手を離して、それぞれの部屋へ戻ることにした。セリーは自分の布袋を持ち直し、明日の庭の様子を楽しみにしていると告げた。俺も同じ気持ちで挨拶を返し、窓から見える森へ最後に目を向けた。


(遠くへ出かけられなかった一日、じゃない。今日は二人で出かけて、食事をして、ちゃんとここへ帰ってきたんだ。そう思えることが、今は嬉しい)


 自室へ戻った俺は、寝台の脇に布袋を置いた。少し不揃いな縫い目も、まだ試している途中の折り返しも、そのままだ。けれど今日一日持ち歩いたあとでは、それが昨日より少しだけ自分の暮らしになじんだように感じられた。


 フェルネの秋の市が予定どおり開かれるなら、開催まで残された日はもう多くない。安全な道も宿泊の手立ても分からない以上、無理な出発を考えるつもりはなかった。けれど、見送る判断をするとしても、それまでの日々を空白にする必要はない。


 明日は、支えを外した花がどうなったか確かめよう。それから、セリーが望むことと、俺がやってみたいことを、また一緒に相談すればいい。そう考えるうちに、昼間の石畳で聞いた鳥の声が耳の奥に蘇り、俺は穏やかな気持ちで灯りを落とした。

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