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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第168話 届かなかった道の先と、守りたい場所の話


 朝食の席を少し寄せたまま、俺たちは窓から差し込む光を眺めていた。昨日の夕方に比べると雲が薄く、庭へ続く石畳にも乾いた部分が増えているように見えるが、木々の陰にはまだ濃い色の落ち葉が残っている。湯気の立つスープを前に、セリーは先ほど書き加えたばかりの外出準備の紙へ、もう一度だけ目を向けていた。


 そこには、途中で帰りたくなった場合のことと、互いに無理をしていないか確かめ合うという言葉が並んでいる。荷物の一覧を見直すところから始まった朝だったのに、いつの間にか、どういう気持ちで出かけて帰りたいのかという話になっていた。俺はその流れを不思議に思いながらも、今朝のセリーの言葉を忘れずにいたかった。


「さっき書いてくれたこと、あとで別の紙にもまとめようか。持ち物と、出かける前に確かめることと、二人で大切にしたいことは、少し分けた方が見やすそうだ」


「はい。私もそう思っておりました。何かを用意し忘れないための一覧なのに、どこかで座って過ごしてみたいという希望まで同じ場所へ書いてしまいましたので、あとで探しにくくなりそうです」


 彼女は自分の書いた文字を恥ずかしそうに見つめたが、俺は首を横に振った。最初から完璧に分類されていなくても、考えながら増えた言葉には、そのときの気持ちが残っている。紙を整えるのは、あとから読み返すためであって、最初に浮かんだことを消すためではないはずだ。


「消したり書き直したりする前に、いったん残しておこう。セリーが何を考えてたのか、俺も後から思い出せるしね。ただ、セリー自身の記録にしたいことがあったら、そっちは別でいいから」


「ありがとうございます。では、共有する一覧には二人で確認したいことだけを残し、私だけが覚えておきたいことは、自分の紙へ書くことにいたします」


 朝食を終えるまで、俺たちはそれ以上の予定を詰め込まなかった。パンを食べ終え、温かな飲み物の最後の一口を味わってから、食器を一緒に片づける。窓を開けなくても聞こえる鳥の声と、厨房で水を使う音が重なり、普段と変わらない朝が静かに進んでいった。


 片づけの途中で、俺はセリーが窓の外を見ていることに気づいた。視線の先にあるのは、昨日まで気にかけていた鉢植えの場所だ。細い棒と柔らかな布で茎を支えてから一晩が過ぎ、昨日の朝には花びらが少し上を向いたように見えた。今日もそのままかどうか、彼女は気になっているのだろう。


「庭の花、見に行こうか。朝のうちなら昨日の記録とも比べられると思うし、今日はまずそこを確認してからにしよう」


「はい。実は少し気になっておりました。ただ、主様に先ほどの紙を整理するお時間も必要かと思いまして、どちらを先にお願いしようか迷っていたのです」


「紙の整理は屋内でいつでもできるよ。花を見るのは日差しが変わると比べにくくなることもあるから、今日はそちらを先にしよう。足元だけは、いつもどおり確かめながらね」


 セリーは微笑み、棚から自分の布袋を取り出した。小さく畳んだ紙を中へ収めると、筆記具は別に持ち、昨日と同じように口を折り返す。俺も自分の少し大きな袋へ記録紙を入れたが、昨夜確かめた折り目が緩んでいないかを見てから手に取った。


 塔の入口を出ると、頬を撫でる空気は冷たかったものの、先日の雨に濡れていた石畳は少しずつ明るい色を取り戻していた。風で運ばれた落ち葉が敷居の脇に数枚寄っているが、昨日まで掃いたところは見通しがよい。俺たちは乾いた部分を選んで庭へ向かい、鉢の前でそれぞれ足を止めた。


 支えを添えた花は、昨日の朝と大きく変わらない姿で咲いていた。花びらの端には朝露らしい細かな光が見えたが、雨上がりのように重く垂れている様子はない。棒はほぼ同じ位置にあり、茎を留めた布も、離れたところから見える範囲では大きくずれていなかった。


「昨日と同じくらい上を向いてるように見えるね。ただ、支えの布の端が、少しだけ外側に浮いてるかな」


 俺がそう告げると、セリーはすぐには手を伸ばさなかった。持ってきた紙を広げ、昨日描いた棒と布の位置を見比べてから、鉢の横へ回り込めるか足元を確かめる。俺も隣へ寄り、彼女が見ようとしている部分に影を落とさないよう、少し位置を変えた。


「はい。昨日の記録では、布の端がもう少し棒に沿っておりました。風で動いたのか、乾くにつれて位置が変わったのかは分かりませんが、茎を締めつける方向には動いていないように見えます」


「それなら、慌てて結び直す必要はなさそうだね。端が浮いているからって強く締めると、かえって花を傷めるかもしれないし」


 セリーはしばらく考え、今日は触らずに記録だけ残したいと申し出た。昨日は支えを整えるために手を動かしたが、今日は何も変えない方がよいと自分で判断したらしい。俺はその提案に賛成し、棒の傾きと布の端について、俺が気づいたことも伝えた。


「主様。私、最初にお花が下を向いているのを見たときは、何かして差し上げなければと思いました。ですが、今は何も触らず、昨日と今日の違いを覚えておくことも、お世話の一つなのかもしれないと感じております」


「そうだね。花が自分でどう変わるかを見てからじゃないと、手を加えた方がいいのかも分からない。俺も古い石の台を調べるときには、同じことを考えていたはずなんだけど、目の前で気になるものがあると忘れそうになるよ」


 セリーはくすりと笑い、花の形を紙へ描き足した。彼女が持つ筆記具の先は迷いなく動いていたが、昨日からの変化については慎重な言葉を選んでいる。形がよくなったと決めつけるのではなく、上を向いた状態が続いているように見える、と書き留めていた。


 庭の奥にある湿った場所も、離れたところから眺めた。日の当たる土は少し明るい色になっているものの、落ち葉の下や木陰にはまだ濃い部分が残っている。雨が降る前から気になっていた湿りと関係があるかどうかは、今日も分からないため、場所と見え方を記録するだけにとどめた。


 南側通路の方では、枝の間から古い石の台の一部が見えていた。先日、縁に細い線らしきものが確認でき、その手前には灰色に見える部分もあったが、今日はその方向へ足を進めない。先ほどの花を見ながら決めたように、いつも手を加えることが調査になるわけではないと思えたからだ。


 塔へ戻った俺たちは、濡れていない場所で靴の汚れを落とし、記録を整理するために作業机へ向かった。庭に出ている間も通信の魔導具に反応はなかったようで、机の上は出かける前と同じように静まり返っている。ブラートからの新しい連絡を期待していなかったと言えば嘘になるが、返事のために誰かを急がせたいわけでもなかった。


 セリーは朝食後の一覧を広げ、別の紙を三枚用意した。持ち物、出発前に確認しなければならないこと、そして二人で大切にしたいこと。それぞれの紙へ見出しを書くと、今まで混ざっていた項目を読み上げながら移していく。


「水や筆記具、上着はこちらでございますね。ですが、休める場所を確かめることは、出発前の確認に入れた方がよろしいでしょうか。それとも、途中で疲れたら休むという約束の方に入れるべきでしょうか」


「場所があるかどうかは確認すること、疲れたら無理しないのは約束、って分けるとよさそうだね。一つのことでも、準備と気持ちの両方に関わる場合があるんだな」


「なるほど。では、どちらか片方にだけ書く必要はないのですね。読み返すときに、何を調べればよいか分かるようにしてみます」


 俺は彼女が書く文字を見守りながら、必要なところだけ相談に加わった。金銭については実際の移動費や宿泊費が分からないため金額を記さず、荷物の重さについても移動手段が決まってから見直すことにする。布袋は近くの庭で使うには役立ったが、雨から記録を守る方法としては確認できていないため、現状のままでは防水の道具に含めなかった。


 作業が一段落したとき、セリーは三枚目の紙を手に取った。そこには、途中で帰りたくなったら伝えることや、お互いの疲れを確かめ合うことが書かれている。彼女は少しだけ迷ってから、先ほどの庭の出来事を思い出したように顔を上げた。


「主様。もし町へ行けましたら、途中で何かを見るのをやめることも、私たちで選んでよろしいのですよね。今朝、お花の布を結び直さずにおいたときのように、気になっても手を出さない方がよいこともあると思いました」


「もちろん。店の人が説明してくれたからって、買わなきゃいけないわけじゃないし、行ってみたい場所が増えても全部回る必要はないよ。むしろ、何かをやめるって言えるかどうかは、外へ出たときこそ大事かもしれない」


 セリーは頷き、「見つけたものをすべて手に入れようとしない」と書き加えた。以前の彼女なら、俺が望むものを見つけたら、何とか用意しようとしていたかもしれない。しかし今は、俺の気持ちだけでなく、自分の考えや、その場で出会う相手の事情も確かめようとしている。


(ああ、そうか。俺がセリーに自由にしてほしいと思っているだけじゃなくて、セリー自身が自由の使い方を考え始めているんだ)


 俺がそのことを言葉にする前に、机の端から小さな音が響いた。通信の魔導具が、いつもと同じ控えめな光を灯している。セリーと顔を見合わせると、彼女は紙を重ねて机の端へ寄せ、俺が通信を確かめやすいよう場所を空けた。


「ブラートからかもしれないね。急ぎの反応ではなさそうだけど、確認してみよう」


「はい。もしよろしければ、今回も一緒に読ませていただけますか。道についてのお知らせでしたら、私も自分で考えたいと思います」


「もちろん。俺だけで判断するつもりはないよ」


 差出人を確認すると、そこにはブラートの名があった。俺はセリーが隣の椅子へ座ったことを確かめてから、通信の内容を開いた。冒頭には、返事が遅くなったことへの断りがあり、その理由として、聞いた話を確かめずに伝えることを避けたかったと書かれていた。


 彼が新しく調べられたのは、フェルネへ向かう枝道についてだった。商人街道との分岐から町までの区間には、最近も荷車を使って往来したという話があるらしい。ただし、その往来が雨の前だったのか後だったのか、どこにぬかるみが残っているのかまでは確認できず、荷車が通れたという話を今の通行保証にはできないと断っている。


 続いて、町での宿泊についても、まだ確実な情報は得られていないと記されていた。秋の市の期間には普段より人の出入りが増えると見込まれるものの、どれほど混み合うのか、泊まれる部屋が残っているのかを、ブラート自身は確かめられていない。分かったことと分からなかったことを分けた書き方に、彼の慎重さが表れていた。


「前より少しだけ、今の道について話が集まったんだな。でも、通れるかどうかまではまだ分からないのか」


「はい。主様、宿泊についても、希望する日に部屋があると確認できたわけではございませんね。荷車が往来したということと、私たちが安全に通れるということも、別のお話でございます」


 俺は頷き、通信の続きを読んだ。そこには、これまでとは少し性質の違う注意が書かれていた。ブラートは、塔から商人街道へつながる道を確かめようとすれば、調べる相手に塔の位置や周辺の目印を詳しく尋ねる必要が出るかもしれない、と考えたらしい。


 だから、俺たちの許可なく塔の位置を示すような聞き方はしていないし、今後もそうするつもりはないという。フェルネ周辺の公に知られた道だけなら調べられても、塔からそこへ至る経路は別問題であり、無理に調査を広げるべきではないと記されていた。


 俺はそこで、自然と通信を読む手を止めた。胸の奥に残ったのは、道が分からないことへの焦りよりも、ブラートが指摘したもう一つの問題だった。塔の場所を尋ねれば、誰かが道を知っているかもしれない。だが、その質問自体が、俺たちの暮らす場所を知らない誰かへ知らせることになる可能性がある。


(俺たちは出かけるための道を知りたいだけだった。でも、その調べ方によっては、ここを知られたくない相手にまで手がかりを渡すことになるんだな)


 かつて王太子だった俺の顔や身分を知る者が、どこにいるのかは分からない。王都から離れた町だから安全だと決めつけることもできないし、反対に、誰もが俺を探していると考える根拠もない。ただ、ここで暮らしているという情報を無関係な相手へ渡すことには、慎重であるべきだと思った。


「……セリー。これは大事な指摘だね。俺たち、塔からの道を知ることばかり考えてたけど、そのために塔の場所を人へ説明する必要があるなら、別の危険が出てくる」


 隣のセリーは通信へ視線を落としたまま、少し考え込んでいた。やがて彼女はゆっくり顔を上げ、俺へ尋ねる。


「主様。道を教えていただくこと自体は、悪いことではございませんよね。ですが、どこから出発するのかをお伝えすることによって、主様のお暮らしになっている場所まで知られてしまうかもしれない、ということでしょうか」


「そういうことだと思う。普通の旅なら出発地点を伝えるのは自然なことだけど、今の俺たちには守りたい事情がある。だから、どこまで聞くのか、どう聞くのかを考えないといけないな」


 セリーは指先を膝の上で重ね、窓の方へ目を向けた。外には、今日も静かな森が広がっている。小さな布袋を一緒に作った作業机も、庭で育てている花も、夕食のあとで並んで眺める窓も、俺たちが少しずつ積み重ねてきた暮らしの一部だった。


「私、フェルネへ行きたいと思っております。けれど、この塔の場所を知らない方へお伝えすることまでして、行かなければならないとは思いません。主様と過ごすこの場所も、私にとって大切ですから」


 その言葉に、俺はすぐ返事ができなかった。セリーは何かを諦めた表情をしているわけではなく、自分の気持ちを一つずつ比べているようだった。外の世界への興味と、今ある暮らしを守りたいという希望。その二つを自分の言葉で話してくれたことが、俺には嬉しかった。


「ありがとう。俺も同じだよ。秋の市へ行くために、今の暮らしが危うくなるような方法は選びたくない。ブラートにも、そのことをはっきり伝えた方がいいね」


「はい。それから、主様。ブラート様は、私たちに尋ねる前に塔の位置をお話ししなかったのですね。そのお心遣いにも、きちんとお礼をお伝えしたいです」


「ああ。そうしよう。町の道について調べてくれたことだけじゃなくて、知られたくない場所を守ってくれたことにもね」


 俺たちは通信を最後まで読み、すぐに返信するのではなく、いったん内容を覚え書きへ整理した。分岐からフェルネまでの道について、最近の往来があったという伝聞はある。ただし、通行した時期も路面の状態も不明で、塔から商人街道へ至る経路や宿泊先は確保できていない。


 そして今回、新しく考えなければならないこととして、経路を調べる過程で塔の位置や俺たちの暮らしを知られる可能性が加わった。それは道の安全とは別の問題であり、同じ紙に並べて書いておくだけでは見落としそうだった。俺は確認事項の端に、情報を集める際に伝えてよいことと伝えないことを、別に整理する必要があると書き添えた。


「セリー。さっき三枚に分けた紙、もう一枚増やしてもいいかな。道を調べるときに守ることとして、塔の場所をむやみに知らせない、と残しておきたい」


「はい。私も、それがよいと思います。ですが、主様。ブラート様へは、どこまでお願いなさるおつもりでしょうか。私たちのために、これ以上ご負担をおかけしてしまうことも気になります」


「そうだね。まずは今までの情報への礼を伝えて、塔の場所を詳しく尋ねる必要があるなら、そこから先は調べなくていいとお願いしよう。フェルネについて、誰でも知れる範囲の情報なら教えてもらえると助かるけど、それも無理のない範囲で十分だよ」


 セリーは納得したように頷き、返信の文面を一緒に考えてくれた。俺はブラートが伝えてくれた慎重な判断への感謝を記し、塔の場所を特定するために第三者へ尋ねるようなことは望まないと明確に伝えた。さらに、町へ向かう道や宿泊について確認できることがあっても、無理に調べ続ける必要はないことを添える。


 文面を読み終えたセリーは、一つだけ加えてほしいことがあると言った。何かと思って顔を向けると、彼女は少し遠慮がちに、それでもはっきりと口を開いた。


「主様。私からも、秋の市について教えていただけたことが嬉しかったとお伝えしたいです。行けるかどうかはまだ分かりませんけれど、町のお話を伺ったおかげで、主様と新しいことを考える時間が増えましたので」


「うん。それは俺も伝えたいな。ブラートには、行き先を決めるための情報だけじゃなくて、考えるきっかけをもらったんだよね」


 俺はセリー自身の言葉として礼を書き添え、二人で確認してから通信を送った。魔導具の光が静まると、窓の外から風に揺れる葉の音が聞こえてくる。ほんの少し前まで、その森の向こうへ出かけるための道を知ることばかり考えていたが、今は帰ってきたい場所を守るために、調べない方がよいこともあると分かった。


 昼食の準備を始める頃には、日差しが机の奥まで届いていた。セリーは通信についての紙を丁寧に重ね、俺が使う共有の記録と、自分の小さな布袋に収める記録を分けていた。何を書くのかを俺へ確認することはせず、けれど昼食の支度を一緒にするかどうかは、いつもどおり自分から尋ねてくれる。


「主様。午後は、先ほどのお知らせについて、もう少し考えてみたいです。ですが、まずはお食事にいたしませんか。考え続けておりますと、せっかく温かくできるものまで冷ましてしまいそうですので」


「そうだね。俺もちょっと考え込んでたみたいだ。昼食にしよう。今日の話は逃げていかないし、落ち着いてからまた続きを相談すればいい」


 厨房へ向かう途中、俺はセリーが食材を置いた棚の前で立ち止まるのを見た。昼食に使うものを確かめながら、彼女は昨日試した香りづけについて、今日は少し別の組み合わせにしてみたいと話した。俺はその提案に賛成し、洗った器を用意する役を引き受けた。


 湯気が上がり始めると、厨房には穏やかな香りが広がった。俺たちは料理を仕上げるまで、フェルネの話をいったん脇へ置き、味の加減や盛りつけについて相談した。知らない道や守りたい秘密のことを考えていても、目の前の食事を美味しく作りたいと思える時間があることに、少し救われる気がした。


 食卓へ料理を運んだあと、セリーは自分の分を一口食べてから、考えるように目を伏せた。俺が感想を尋ねるより先に、今日は香りが少し強く感じられると話してくれたので、俺も確かめながら頷いた。


「確かに、朝より香りがはっきりしてるね。でも、食べにくいほどじゃないし、俺は好きだよ。ただ、毎日この味だと少し濃く感じるかもしれないな」


「私も同じように思いました。次はもう少し控えめにしてみたいです。主様と同じ感想になることも、違う感想になることも、どちらも面白いですね」


 セリーはそう言って微笑んだ。彼女と料理の感想を話し合う時間は、今では珍しいものではなくなっている。何かを決めるためだけではなく、二人がそれぞれどう感じたのかを聞くこと自体が楽しいのだ。


 食事を終えたあと、俺たちは先ほどの紙をもう一度広げた。午前中は通信の内容を整理するところまでだったが、午後はその情報を使って、今の俺たちにできる判断を考えることにする。秋の市が始まる予定まで、今日を含めておよそ十一日しかない。移動に必要な日数も分からない以上、単に開催日まで待ち続ければよいわけではなかった。


「セリー。今のままだと、フェルネへ行くための条件は揃っていないよね。だから、行くかどうかを決める前に、今回の市へ間に合わせようと無理をすることはしないって、もう一度確認しておきたい」


「はい。私も同じ考えでございます。ですが、主様。いつまでにお返事がなければ見送る、と日付だけで決めるのも、まだ難しいのでしょうか。移動に何日必要かも分かっておりませんから」


「そうなんだ。出発するのに必要な日数が分からない以上、何日前なら大丈夫って決める根拠もない。だから、予定だけ先に決めるんじゃなくて、安全な往復と準備に必要な時間が確認できた場合にだけ考える、という順番を守ろうと思う」


 セリーは紙を見つめながら、ゆっくり頷いた。日程に余裕があるように見えても、その大部分が移動に必要なら、実際に市を楽しむ時間は少なくなるかもしれない。宿泊が必要なのに泊まれる場所がなければ、途中で無理をすることになるだろう。


「では、私たちは、今回の秋の市へ必ず行くという約束をしたわけではないのですね。行ける条件が揃ったときに、一緒に出かけたいという希望を持っているのだと、改めて考えたいです」


「ああ。それが今の俺たちには合ってると思う。前にも話したけど、フェルネ以外にも知らない場所はあるはずだし、最初の外出を何が何でも成功させなくちゃいけないわけじゃないから」


 俺がそう答えると、セリーは少しだけ視線を落とした。何か残念なことを思い出したのかと気になったが、彼女はすぐに顔を上げず、自分の気持ちを確かめるように指先を重ねている。俺は急かさず、机の上の紙が風でめくれないよう手を添えた。


「……主様。私は、少しだけ残念だと思っております。まだ行けないと決まったわけではございませんし、行ける可能性も残っております。それでも、今日のお話を伺って、フェルネが思っていたより遠い場所のように感じられたのです」


 その言葉に、俺は静かに息を吐いた。セリーは落ち込んではいけないと思っているわけではなく、残念な気持ちも自分のものとして伝えてくれたのだろう。俺自身、道の情報が増えるほど、かえって行くことの難しさを実感していたので、その気持ちはよく分かった。


「うん。俺も残念だよ。セリーと店を見て回ったり、花を眺めたりできたら楽しいだろうなって、何度も想像してたからね。行きたい気持ちがあるのに、まだ決められないのは、やっぱりもどかしい」


 セリーは少し驚いたように俺を見つめた。俺が残念に思う気持ちまで口にしたことが意外だったのかもしれない。けれど、それを隠して前向きな言葉ばかり並べても、彼女が自分の気持ちを言いやすくなるとは思えなかった。


「主様も、そう思っていらっしゃったのですね。私は、主様が落ち着いて判断してくださるので、残念な気持ちはあまりお持ちではないのかと思っておりました」


「落ち着いて考えたいのと、残念じゃないのは別だよ。俺だって行ってみたいし、まだ知らないものを見たい。でも、その気持ちだけで道を選びたくないんだ。ここへ無事に帰ってくることまで含めて、二人で楽しめる外出にしたいから」


 しばらく沈黙が続いた。窓から差し込む光は少しずつ傾き、机の上の記録用紙に長い影を落としている。セリーは俺の言葉を受け止めるようにゆっくり呼吸を整え、それから柔らかく微笑んだ。


「ありがとうございます。私、少し残念だと思ってもよいのですね。その気持ちを持ったまま、危険なことはしないと決めてもよいのだと思うと、安心いたしました」


「もちろん。がっかりすることまで我慢しなくていいよ。俺にもそういう気持ちはあるんだから、二人で話せるならその方が嬉しい」


 彼女の表情が穏やかになったのを見て、俺も肩の力が抜けた。王宮にいた頃は、決めたことに疑問や残念さを感じても、それを口にしない方がよいと思う場面があった。今は、自分の家で大切な相手と話すときくらい、複雑な気持ちをそのまま伝えてもいいはずだった。


 そのあと俺たちは、外出準備の紙から、今の段階で用意する必要がないものをいくつか外した。長い旅を想定した荷造りや、根拠のない宿泊日数の計算はしない。反対に、短い外出にも使える記録板や布袋の状態を確かめること、互いに休みたいときは伝えることなど、日々の暮らしの中でも続けられることは残した。


 セリーは最後に、二人で大切にしたいことを書いた紙を眺め、「帰りたい場所を守る」と加えたいと申し出た。俺はその文字を彼女自身の手で書いてほしくて、筆記具を渡しながら頷く。彼女はいつもより少しゆっくり、紙の余白へ言葉を書き入れた。


「主様。この塔は、二千年前の魔導具師が残した場所ですけれど、今は私たちが一緒に暮らしている場所でもあるのですね。私は、外の世界を知りたいと思うようになっても、ここで過ごす時間を大切にしたいです」


「ああ。俺も、この塔へ来てからいろんなことを知ったよ。古い道具の使い方だけじゃなくて、自分のために一日を過ごしていいことも、誰かと相談して予定を変えていいことも。だからこそ、簡単に失いたくないんだと思う」


 俺がそう答えると、セリーは少しだけ頬を赤くした。彼女がこの塔をどんな場所だと思っているのか、俺はすべて知っているわけではない。それでも、今ここに一緒にいたいという気持ちだけは、互いに共有できているように思えた。


 午後の終わりが近づいた頃、俺たちは今日の記録を棚へ戻した。南側通路については新たな観察を行っていないため、石の台の線や手前の灰色の部分に関する情報は増えていない。庭の湿った場所も、雨の影響が残る中で確かめられる範囲だけを記録し、原因についての判断は保留のままにする。


 セリーは自分の布袋を手に取り、朝に描いた花の記録を確かめていた。その中には彼女だけのために書いた紙も収められているのだろうが、俺は何が入っているかを尋ねなかった。彼女が必要だと思ったときに共有してくれれば、それでいい。


「主様。今日は、ブラート様からのお知らせで、少し考えることが増えましたね。ですが、私にとっては、主様と気持ちをお話しできたことも大切な出来事でした」


「俺もだよ。道が分からないってことだけじゃなくて、どうして無理に調べたくないのかも、セリーと確認できたからね。それに、残念な気持ちも一緒に話せてよかった」


 セリーは微笑み、布袋を胸元へ寄せた。彼女は今日の出来事を私的な記録に残すつもりらしかったが、その内容については何も言わなかった。俺も彼女が書き終えるのを待たず、夕食に使う食器を用意しに厨房へ向かった。


 夕食を作る時間には、午前中の通信のことを話し続ける代わりに、明日の食事に使う食材の状態を確かめた。セリーは自分が試してみたい香りづけを提案し、俺は手伝えるところを尋ねる。二人で作業を分担しているうちに、厨房には温かな匂いが満ち、外の風が少し冷たくなってきたことも忘れそうになった。


 食事の席で、セリーは庭の花について話した。朝に見た限りでは、支えの位置は大きく変わっていない。ただし、布の端に少し浮きがあるため、明日も確かめてから必要なら調整したいという。俺はその考えに賛成し、天候や足元の状態が悪ければ無理に出なくてもよいことを確認した。


「主様。お花のことも、フェルネのことも、今すぐ答えが出ないものばかりでございますね。ですが、私は以前より、そのことを苦しく感じなくなりました」


「そうなんだ。どうしてかな」


「分からないままでも、次に何を確かめたいかを主様と相談できるからだと思います。それに、何も分からないからといって、今日楽しかったことまでなくなるわけではございませんので」


 俺はその言葉を聞きながら、温かな料理を口へ運んだ。確かに、今日分かったことの中には、秋の市へ行くためには都合の悪い情報もあった。しかし、ブラートが塔の場所を守るために調査を控えてくれたことや、セリーが自分の残念な気持ちを話してくれたことは、俺にとって大切な出来事だった。


「俺も同じだよ。知りたいことが全部分かる日なんて、きっとなかなか来ないんだろうな。でも、何が分からないのかを知って、無理のないところから考えていけば、少しずつ前へ進める気がする」


 セリーは穏やかに頷いた。食卓の上には今日も二人分の料理が並び、窓の外には夜の森が広がっている。王太子だった頃には想像していなかった暮らしだが、こうして一日を終えられることが、今の俺にはとてもありがたかった。


 夕食後、食器を片づけた俺たちは、しばらく窓辺で過ごした。外へ出ることはせず、室内から木々の間に見える星を眺める。風が葉を揺らす音は聞こえるが、雨の気配はなく、明日も庭へ出られるかもしれないと思える穏やかな夜だった。


「セリー。今日は、出かけるための道を探すことと、帰る場所を守ることについて考えたね。どちらも大事だけど、俺は後者を犠牲にしてまで急ぎたくないんだ」


「はい。私も同じ気持ちでございます。ですが、主様。今日、私たちはフェルネへ行きたいという気持ちまで捨てたわけではございませんよね」


「ああ。行きたいと思ってるよ。ただ、行ける条件が揃わないなら今回は見送る。それだけだよ。別の機会があるかどうかはまだ分からないけど、そのときにまた一緒に考えたいな」


 セリーは少し安心したように微笑んだ。俺が手を差し出すと、彼女はすぐに指先を重ねてくれる。窓の外に広がる暗い森は、昼間とはまるで違う表情を見せていたが、その隣にいるセリーの温かさは、いつもと同じだった。


「主様。私、今日のような日も好きでございます。少し残念なことがあっても、最後にはこうして一緒に過ごせますので」


「俺もだよ。何でも上手くいった日だけじゃなくて、考え直したり、予定を変えたりした日も、ここで話せるなら大切にしたい」


 彼女は俺の手を軽く握り返した。互いにそれ以上の言葉を急がず、窓の向こうで揺れる葉を眺めていると、さっきまで胸に残っていたもどかしさが少しずつ落ち着いていった。道を知らないことは変わらず、秋の市の日程が近づいていることも変わらない。それでも、今夜はそれだけを考え続けなくてよいと思えた。


 やがて休む時間になり、俺たちは明日の庭の様子を天候に応じて確かめることだけ決めて、それぞれの部屋へ戻った。セリーは布袋を大切そうに持ち、自分の記録はあとで少し書き足したいと話していた。俺はその内容を尋ねず、おやすみと声をかけて彼女を見送った。


 自室へ入ると、寝台の脇に置いてある俺の布袋が目に入った。縫い目は相変わらず少し不揃いで、口の折り返しも使いながら確かめている途中だ。完璧な道具とは言えないが、何度も持ち歩いたおかげで、今では手になじむものになりつつある。


(フェルネへ行くための準備をしていたはずなのに、今日はここへ帰ってくることについて、ずいぶん考えたな。でも、きっとそれでよかったんだ)


 灯りを落とす前に、俺は窓の外へ目を向けた。夜の森は静かで、遠くの木々の間には淡い星の光が見える。二千年前の魔導具師が残した塔には、まだ知らない仕組みや、調べ終えていない記録がいくつもある。南側通路の石の台についても、灰色に見える部分についても、今は答えを急がずにおきたかった。


 フェルネの秋の市が予定どおり開かれるなら、もうあまり日数は残っていない。道の安全も、宿泊できる場所も、ここから出かける方法も分からないままなら、俺たちはきっと今回の外出を見送ることになるだろう。それは残念なことだが、選びたい未来を守るために、自分たちで決められることでもある。


 そして何より、この塔には明日もセリーがいる。朝になれば、庭の花がどうなったかを一緒に確かめ、今日と違う朝の光の中で新しいことを考えられる。その日々を守りながら、いつか知らない場所へ出かけることができたなら、俺はきっと心から楽しめると思う。


 そんなことを考えながら、俺は静かに目を閉じた。窓の向こうで葉が擦れ合う音は穏やかで、古の塔には今日も、二人で選び取った暮らしの夜が訪れていた。

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