第167話 小さな花を支える手と、二人で考える旅の支度
朝の光が窓辺に届いたとき、俺は昨日の庭で見た花のことを思い出した。
夜の間に雨が降った気配はなく、窓の外に広がる森も、昨日より少し乾いた色をしている。風が吹くたびに枝先の葉が揺れていたが、地面を覆う落ち葉までは大きく動いていなかった。塔の周囲は静かで、遠くから聞こえる鳥の声が、朝の空気の冷たさをいっそう際立たせている。
昨日、セリーと一緒に支えを添えた花は、今頃どうなっているだろう。
茎に無理な力をかけないよう、細い木の棒と柔らかい布を使ってみたものの、それが本当に花に合っているかどうかは分からない。見た目には問題がなさそうでも、時間が経ってから負担になることだってあるはずだ。
(セリーも気にしていただろうな。今日は朝食が終わったら、まず花を見に行こう)
そう考えていると、扉の向こうから控えめな足音が聞こえてきた。
「主様、おはようございます。今朝はよくお休みになれましたでしょうか」
「ああ、おはよう、セリー。よく眠れたよ。ちょうど昨日の花のことを考えてたんだ」
扉を開けると、セリーはいつもの穏やかな表情で立っていた。ただ、俺が花の話をすると、その瞳がわずかに明るくなる。
「私も気になっておりました。昨夜は風が強くなかったようですので、支えが外れていなければよいのですが……」
「そうだね。でも、まだ実際に見たわけじゃないから、先に心配しすぎても仕方ないよ。朝食を食べてから、一緒に確かめよう」
「はい。私もそうしたいです」
彼女は嬉しそうに頷き、俺と並んで廊下を歩き始めた。
以前なら、セリーは俺の半歩後ろを歩くことが多かった。今でも何かの作業中には自然と位置が変わることがあるが、こうして何も急ぐ必要のない朝には、隣に並ぶことが増えている。
その変化を意識すると、昨日交わした言葉が胸の奥に蘇った。
セリーは、俺のことを「一緒に暮らしている大切な方」と呼びたいと言ってくれた。
俺も同じ気持ちだと答えたが、あのときの彼女の表情を思い出すと、今でも少し照れくさい。
けれど、その照れくささは嫌なものではなかった。
むしろ、これまで誰かに与えられてきた肩書きとは違う、自分たちだけの関係が少しずつ形になっているようで、温かい気持ちになる。
食堂へ入ると、朝食の準備が整っていた。
温かなスープとパン、それから簡単に調理した野菜が並んでいる。窓から差し込む朝日が食卓の上を照らし、湯気がゆっくりと立ち上っていた。
「今朝は、昨日より少しだけ香りを変えてみました。主様のお口に合うか分かりませんが、私自身も試してみたいと思ったのでございます」
「へえ、それは楽しみだな。セリーが試したかった味なら、俺も食べてみたいよ」
スープを一口飲むと、野菜の甘みのあとに、昨日とは違う柔らかな香りが広がった。
「うん、美味しい。昨日より少しすっきりした感じがするね」
「ありがとうございます。私も、そのように感じました。ですが、もう少し温かみのある香りにしてもよかったかもしれません」
「それなら、次は少しずつ変えてみればいいよ。今日の味も十分好きだけどね」
セリーは安心したように微笑み、自分のスープへ視線を落とした。
俺たちは食事をしながら、今日の予定を相談した。
庭の花を確かめることは決まっている。それ以外には、日常の点検と記録の整理を進めるつもりだったが、急いで終わらせなければならない作業はない。
フェルネの秋の市については、ブラートから追加の連絡を待っているところだ。
開催予定までの日数は少しずつ減っているものの、町までの安全な経路や移動時間、宿泊の必要性については、まだ十分な情報がない。
行きたい気持ちがあるからといって、準備が整っていないまま塔を出るつもりはなかった。
「主様。今日、お花を見終わりましたら、秋の市へ持っていくものについても、少し考えてみませんか」
セリーがパンを置き、俺へ視線を向けた。
「持っていくもの?」
「はい。まだ行けるかどうかは決まっておりませんが、必要なものを考えること自体は、今からでもできると思いました。もし今回は見送ることになりましても、いつか別の場所へ出かける際に役立つかもしれません」
なるほど、と俺は頷いた。
移動経路や安全の確認は、俺たちだけでは決められない部分がある。
けれど、外出するときに何を持ち歩くか、自分たちにとって何が必要かを考えることなら、今の暮らしの中でもできる。
「いいね。じゃあ、今日は花を見たあとで、持ち物を一緒に考えてみよう。ただし、まだ実際に旅をするって決めたわけじゃないから、必要そうなものを整理するだけにしようか」
「はい。私もそのつもりでございます。主様と一緒に考える時間が、楽しみです」
彼女はそう答え、再び朝食を食べ始めた。
その横顔を見ながら、俺は少しだけ笑った。
(セリーは、もう俺の予定を手伝うだけじゃない。自分でやりたいことを考えて、俺を誘ってくれるんだな)
そんな当たり前のことが、今の俺にはとても嬉しかった。
朝食を終えたあと、俺たちは庭へ出る準備を整えた。
昨日使った記録用紙を確認し、木製の記録板と筆記具を用意する。セリーは自分の布袋を手に取り、朝と午後に描いた花の絵が入っていることを確かめていた。
「主様。今日は、昨日の絵と比べながら見てみたいと思います」
「うん。昨日と同じ位置から見た方が、違いが分かりやすいかもしれないね」
「はい。ただ、昨日と今日では光の当たり方も違いますので、そのことも書いておきたいです」
「それは大事だね。見え方が変わっただけなのに、花そのものが変わったと思い込むかもしれないから」
俺たちはそんな話をしながら玄関へ向かった。
外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。
昨日より風は穏やかだったが、木陰にはまだ湿った落ち葉が残っている。足元を確かめながら庭へ進むと、鉢の周囲には朝日が差し込み、花びらの表面が淡く輝いていた。
問題の花は、昨日よりわずかに上を向いているように見えた。
ただ、それが支えの効果なのか、時間が経って水分が減ったためなのかは分からない。
セリーは花の前でしゃがみ、昨日描いた紙を取り出した。
「主様。こちらをご覧ください。昨日の午後より、花びらの先が少し上を向いているように見えませんか」
「そうだね。俺にもそう見える。ただ、茎の曲がり方はあまり変わっていない気がするな」
俺は隣から花を眺め、支えの棒と布の位置を確認した。
布が強く食い込んでいる様子はなく、棒も大きく傾いてはいない。けれど、土の中の状態や、茎の見えない部分まで確かめられるわけではなかった。
「今のところ、支えが悪さをしているようには見えないね。もう少し様子を見てもよさそうだ」
「はい。私もそう思います。昨日は少し心配でしたが、今朝はお花を見て安心いたしました」
セリーはそう言って微笑んだ。
その表情を見て、俺も肩の力が抜ける。
昨日、彼女は自分から花を見たいと言い、支えを添えることを提案した。俺たちは一緒に考えて、無理のない範囲で試してみた。
その結果がすぐに分からなくても、今日また確認することができた。
こうして少しずつ確かめていく時間そのものが、今の俺たちには大切なのだと思う。
「セリー。今日の花のことも、記録に残しておこうか」
「はい。昨日と比べて少し上を向いているように見えることと、支えの位置に大きな変化がないことを書いておきたいです」
「いいね。俺は土の状態も書いておくよ。昨日より表面が乾いているようだけど、鉢の中まで同じとは限らないからね」
俺たちはそれぞれの記録を取った。
セリーは花びらの向きや茎の曲がり方を丁寧に描き、俺は鉢の位置と周囲の地面の状態を書き留める。
同じものを見ているのに、注目するところが少し違う。
昨日も感じたことだが、その違いがあるからこそ、二人で見た景色は一人で見たものより豊かになるのかもしれない。
記録を終えると、セリーは花へ小さく頭を下げた。
「明日も、元気でいてくださいね」
その声はとても静かで、花に届いたかどうかなど分からない。
けれど、彼女が心からそう願っていることだけは、隣にいる俺にも伝わってきた。
俺たちは鉢をそのままにして、庭の別の場所も確認した。
以前から湿りが残っている部分には、今日も土の色が濃いところがある。雨上がりの影響が続いているのか、それ以前からの湿りと関係があるのかは、まだ判断できない。
南側通路の方へ目を向けると、木々の間から細い道が見えた。
その先には、小さな黄色い花と古い石の台がある。
台の縁に見えた細い線も、手前の灰色の部分も、今のところ正体は分かっていない。
「主様。南側の通路は、今日はご覧になりますか」
セリーが俺の視線に気づいて尋ねた。
「いや、今日はここまでにしておこう。道の状態も全部確かめられたわけじゃないし、今は花の記録を整理したいからね」
「承知いたしました。私も、今日はお花のことをもう少し考えてみたいと思います」
彼女は自然に頷いた。
何か気になるものがあるからといって、必ずその日に調べなければならないわけではない。
俺たちは庭をあとにし、塔へ戻った。
午前中の残りは、持ち物を考えるための時間に使うことにした。
作業机の上へ紙を広げ、セリーと向かい合って座る。
窓から入る光は明るく、机の上に置いた筆記具の影が細く伸びていた。
「まず、外へ出るときに必要なものを考えてみようか。近くを散歩する場合と、町まで出かける場合では、持ち物も変わるだろうからね」
「はい。では、まずは短い外出の場合から考えてみてもよろしいでしょうか。私、いきなり遠い場所を想像すると、何が必要なのか分からなくなってしまいそうです」
「もちろん。その方が整理しやすそうだ」
俺は紙の上に、短い外出で必要になりそうなものを書き始めた。
水、簡単な食べ物、記録用の紙と筆記具、天候に合わせた上着。それから、道の状態によっては足元を守るためのものも必要になる。
ただし、何をどれだけ持つべきかは、出かける場所や時間によって変わる。
「主様。私は、布袋も持っていきたいと思います。今日のように見つけたものを書き留めたり、小さな紙をしまったりできますので」
「いいね。昨日から使ってる袋だね。でも、雨に濡れたときのことはまだ確かめてないから、そこは注意が必要だな」
「はい。大切な紙が濡れないようにする方法も、いつか考えてみたいです」
セリーはそう言って、自分の布袋へ目を向けた。
俺はその様子を見ながら、昨日の作業を思い出す。
彼女は自分のために記録を残し、それを自分で持ち歩くことを選んだ。
その袋が、今度は外出の準備にもつながっている。
「それから、もし町へ行くなら、お金も必要になるね。何かを買うためだけじゃなくて、途中で予定が変わることもあるだろうし」
「はい。ですが、どれほど必要なのかは、まだ分かりませんね」
「そうだね。フェルネで何が売られているのか、どんな値段なのかも知らない。今は金額を決めず、必要な項目として書いておこう」
俺たちは紙へ一つずつ書き足した。
水、食べ物、上着、記録用具、布袋、金銭。
それから、移動する場合には、道を確かめるための情報や、帰るための手段も必要になる。
だが、それらは持ち物を用意するだけでは解決しない。
「主様。もし町へ行く途中で道が分からなくなった場合、どうすればよいのでしょうか」
セリーが真剣な表情で尋ねた。
「それは、出発する前に考えておかないといけないね。知らない道を進んでから何とかしようとするのは危険だと思う」
「はい。では、道順だけでなく、途中で引き返せるかどうかも確認した方がよろしいのでしょうか」
「その通りだと思う。行ける道が分かっても、帰れるとは限らないからね。天候が変わることもあるし、時間が足りなくなることもある」
セリーは頷き、紙の端に「帰り道」と書き加えた。
その文字を見て、俺は少し考え込んだ。
王宮にいた頃、移動の予定はいつも誰かが整えていた。
馬車の準備も、道の確認も、宿泊先も、警備の配置も。
俺は決められた時間に出発し、決められた場所へ向かうだけでよかった。
けれど、今は違う。
自分で行きたい場所を選ぶなら、そこへ安全に行くための準備も、自分で考えなければならない。
(自由に出かけられるって、好きな場所へ勝手に歩いていけることとは違うんだな)
そう思いながら、俺は紙へもう一つ書き足した。
無理をしないこと。
それを見たセリーが、少し不思議そうに首を傾げる。
「主様。こちらは、持ち物ではございませんね」
「そうだね。でも、忘れないように書いておきたかったんだ。せっかく行きたい場所があっても、無理して危険な目に遭ったら、楽しめなくなるだろうから」
「……はい。私も、そのお考えを大切にしたいです」
セリーは紙を見つめ、ゆっくり頷いた。
俺たちはそのあとも、外出に必要なものを考え続けた。
途中で休む場所があるかどうか、荷物が増えた場合に持ち帰れるかどうか、知らない人に道を尋ねる必要がある場合はどうするか。
どれも、今すぐ答えを出せるものばかりではない。
それでも、分からないことを分からないまま書き出していくと、少なくとも何を確認すべきかは少しずつ見えてくる。
昼食の時間になった頃には、机の上に一枚の紙が広がっていた。
そこには、必要になりそうなものと、まだ分からないことが分けて書かれている。
「ずいぶん増えたね」
俺が笑うと、セリーも紙を眺めて微笑んだ。
「はい。ですが、主様。こうして考えてみますと、私たちはまだ知らないことが多いのですね」
「そうだね。でも、知らないことが分かっただけでも、今日は十分進んだと思うよ」
「私もそう思います。知らないことを、そのままにしておいてよい場合と、出かける前に確かめなければならない場合があるのですね」
「うん。そこを間違えないようにしたいな」
俺たちは紙を片づけ、昼食の準備へ移った。
食堂へ向かう途中、セリーがふと足を止めた。
「主様。先ほどのお話で、一つ気になったことがございます」
「うん、どうしたの?」
「もしフェルネへ行けることになりましたら、私たちは同じ荷物を持つ必要があるのでしょうか。それとも、それぞれが必要だと思うものを持ってもよいのでしょうか」
俺は少し考えてから答えた。
「それぞれが必要だと思うものを持っていいんじゃないかな。ただ、重いものを片方だけが持つ必要はないし、何を持ってるかお互いに知っておいた方が便利な場合もあると思う」
「では、私の布袋には私の記録を入れて、主様の布袋には主様の記録を入れてもよろしいのですね」
「もちろん。それに、セリーが自分だけで持っていたいものがあるなら、無理に俺へ見せる必要もないよ」
その言葉に、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと微笑む。
「ありがとうございます。私、自分だけのものを持っていてもよいのだと、少しずつ分かってきた気がいたします」
「うん。俺も、セリーが何を大切にしてるのか、全部知ってなきゃいけないとは思ってないよ。話したくなったら聞かせてくれれば嬉しいし、そうじゃなくても構わない」
セリーは頷き、再び俺の隣を歩き始めた。
その距離は、朝と変わらなかった。
けれど、彼女が自分のものを持ち、自分の考えを持ち、それでも俺の隣にいたいと望んでくれていることが、改めて嬉しかった。
午後は、作業机へ戻って外出の準備について少しだけ整理を続けた。
午前中に書き出した項目を、すぐに用意できるものと、情報がなければ決められないものに分ける。
水や筆記具、布袋などは今の暮らしの中でも確認できる。
一方、移動手段や宿泊、必要な金額については、フェルネの場所や道の状態が分からなければ決められない。
エルにも、今の段階で確認できることがないか尋ねてみた。
『主様。現在の情報では、フェルネまでの移動時間や安全な経路を算出することはできません。古い地図に記載された道が、現在も利用できるとは限らないためです』
「やっぱりそうだよね。ブラートから追加の情報が来るまでは、そこは保留にしておこう」
『承知いたしました。なお、持ち物の整理については、移動距離や滞在時間が判明した段階で見直すことを推奨いたします』
「うん。今の一覧を完成形だと思わないようにするよ」
セリーも頷き、紙の端へ「あとで見直す」と書き加えた。
その文字を見て、俺は少し笑った。
完成させることより、あとから変えられるようにしておくこと。
最近の俺たちの暮らしでは、それが思っていた以上に大切な考え方になっている。
夕方が近づく頃、俺たちは再び窓辺へ移動した。
庭の鉢はここからでは細かな状態まで見えないが、花のある場所にはまだ日差しが届いている。今日の支えがどうなっているかは、明日また近くで確かめればいい。
セリーは窓の外を眺めながら、静かに口を開いた。
「主様。今日、旅の持ち物を考えてみて、少しだけ外の世界が近くなったように感じました」
「そうだね。まだ出かけるって決まったわけじゃないけど、何を考えればいいかは前より分かった気がする」
「はい。私は、知らない町へ行くことを楽しみに思っております。ですが、それと同じくらい、主様と一緒に準備を考える時間も好きです」
彼女はそう言って、俺へ顔を向けた。
その瞳には、以前よりもはっきりとした意思が宿っているように見えた。
「主様。もし今回の秋の市へ行けなかったとしても、また別の機会を考えてみたいです。私は、主様と一緒に知らない景色を見てみたいと思っておりますから」
俺はその言葉を聞いて、ゆっくり頷いた。
「うん。俺もそう思うよ。フェルネに行けたら嬉しいけど、行けなかったら全部終わりってわけじゃない。俺たちには、これからも時間があるからね」
セリーは安心したように微笑んだ。
そして、少しだけためらったあと、自分から俺の手へ指先を伸ばした。
俺がその手を取ると、彼女は嬉しそうに目を細める。
「ありがとうございます、主様。私、これからもいろいろなことを一緒に考えていきたいです」
「ああ。俺もだよ」
窓の外では、夕日が森の向こうへ傾き始めていた。
遠くの枝が風に揺れ、葉の隙間から差し込む光が少しずつ赤みを帯びていく。
俺たちはしばらく、その景色を並んで眺めていた。
夜になり、夕食と片づけを終えると、塔の中は静かな空気に包まれた。
俺は作業机に残していた外出準備の紙をもう一度確認し、記録板の下へしまった。
今日分かったことは、決して多くない。
花の支えは今のところ大きく崩れておらず、外出に必要なものについては考え始めたばかりだ。
フェルネへの道も、石の台の謎も、まだ分からないまま残っている。
けれど、それでいいのだと思う。
すべてを一度に知る必要はないし、知らないことを急いで埋めようとして、大切なものを見落としたくはなかった。
セリーは自分の布袋を抱え、部屋へ戻る前に俺へ向き直った。
「主様。明日も、お花を見に行けたら嬉しいです。それから、もしよろしければ、今日の持ち物の一覧をもう一度見直してみたいと思います」
「もちろん。明日の天気を見て決めよう。持ち物の方も、急がずに考えていこう」
「はい。おやすみなさいませ、主様」
「おやすみ、セリー」
彼女を見送ってから、俺も自室へ戻った。
寝台の脇には、昨日から使っている布袋が置かれている。
その不揃いな縫い目を眺めていると、今日セリーと話したことが自然と思い出された。
俺たちは、同じものを持つ必要はない。
同じ景色を見ても、同じことを感じる必要はない。
それでも、隣を歩きたいと思う気持ちは、二人で共有できる。
(明日は、セリーが何を見つけるだろう。俺も、何か新しいものを見つけられるかな)
そう考えながら目を閉じると、庭の花が朝日に照らされていた光景が浮かんだ。
まだ完全に元気になったわけではない、小さな花。
けれど、昨日より少しだけ上を向いているように見えた花。
その傍らで嬉しそうに微笑んでいたセリーの姿が、今日一番心に残っていた。
フェルネの秋の市までは、まだ少し時間がある。
行けるかどうかは分からない。
それでも俺は、明日もまた彼女と一緒に朝を迎え、何をしたいか相談できることを楽しみにしていた。
誰かに決められた予定ではなく、自分たちで選ぶ一日を。
古い塔の静かな夜の中で、俺はそんな明日を思い描きながら、ゆっくりと眠りについた。
翌朝、俺が食堂へ向かうと、セリーは窓際の小さな机に昨日の記録を広げていた。朝食の支度はすでに整っているようだったが、彼女はまだ席に着かず、庭の花を描いた紙と外出準備の一覧を交互に眺めている。
「おはよう、セリー。何か気になることでも見つかった?」
「おはようございます、主様。実は、昨日の持ち物の一覧を見ていて、私たちがまだ考えていなかったことに気づいたのでございます」
セリーは俺に紙を見せながら、記録板の端を指さした。そこには、昨日書き込んだ「帰り道」という言葉の下に、新しい一文が加えられていた。
『途中で帰りたくなったときは、どうするか』
俺はその文字をしばらく見つめた。
道が分からなくなった場合や、天候が悪くなった場合については考えた。けれど、危険がなくても、疲れたり、気分が変わったりして、途中で帰りたくなることはある。
「なるほど。確かに、それは考えてなかったな」
「はい。昨日、主様は、買い物をしなくてもよいし、答えたくない質問には答えなくてもよいと教えてくださいました。ですから、外出そのものについても、途中で気持ちが変わることがあるのではないかと思ったのです」
セリーは少し恥ずかしそうに笑った。
「私、フェルネへ行ってみたいと思っております。ですが、もし知らない方が大勢いらして、落ち着かなくなってしまったら、どうしたいと思うのか、今はまだ分かりません」
「そうだね。実際に行ってみないと分からないこともあるだろうし、俺だって久しぶりに人の多い場所へ行ったら、思っていたより疲れるかもしれない」
王宮にいた頃、大勢の人が集まる場所へ出向くことは珍しくなかった。けれど、あの頃は周囲に警備がいて、決められた場所を決められた順番で回っていた。自由に店を見て歩くこととは、まるで違う。
人々の視線を気にせず歩けるのかという不安も、まだ完全には消えていなかった。
「セリー。もし出かけられることになったら、途中で帰りたくなったときに帰れるようにしておこう。もちろん、そのためには移動手段や道の確認が必要だけど、予定を全部こなすことを目的にはしたくないな」
「はい。私も、そうしたいです。楽しみにしていた場所でも、疲れたときには休んでよいのですね」
「当然だよ。それに、休んだからって、その日が失敗になるわけじゃない。どこかで座って景色を眺めるだけでも、俺は十分楽しいと思う」
セリーはその言葉を聞き、窓の外へ目を向けた。庭の花がある場所には朝日が届いていたが、塔の中からでは支えの状態までは分からない。
「それでしたら、私、町へ行けたときには、静かな場所で主様と一緒に休んでみたいです。人々が行き交う様子を眺めたり、そこで聞こえる音に耳を傾けたりするのも、きっと初めての経験になりますから」
「いいね。ただ、休める場所があるかどうかも分からないから、今は希望として書いておこうか」
「はい。では、こちらは持ち物ではなく、やってみたいことの方へ書きますね」
彼女は別の紙を取り出し、丁寧な文字で書き加えた。
俺はその横顔を見ながら、昨日より少しだけ準備が進んだように感じていた。
物が揃ったわけでも、新しい道が見つかったわけでもない。
それでも、セリーが自分の不安や希望を言葉にしてくれたことで、俺たちがどんな外出を望んでいるのか、少しずつ輪郭が見えてきた。
「主様。もう一つだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「うん。何でも言って」
「もし私が途中で疲れたと申し上げても、主様には無理にご心配なさらないでいただきたいのです。もちろん、必要なときには助けていただきたいと思いますが、私自身も、自分の状態をきちんとお伝えできるようになりたいのでございます」
俺は少し驚いて、彼女の顔を見た。
セリーは真剣だった。
助けてもらうことを拒んでいるわけではない。自分で伝える前から、俺がすべてを決めてしまうことを望んでいないのだ。
「分かった。セリーが何か言おうとしているときには、ちゃんと聞くよ。ただ、危ないことがあったら声をかけるし、俺が困ったときにも相談する。それでいいかな」
「はい。私も、主様が無理をなさっているように見えましたら、お声をかけたいです。主様だけが私を気にかけるのではなく、私も主様のことを大切にしたいのでございます」
そう言われると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
俺はこれまで、セリーを守りたいと何度も考えてきた。
けれど、彼女はただ守られるだけの存在でいたいわけではない。
俺と同じように考え、選び、ときには俺を支えたいと思ってくれている。
「ありがとう、セリー。俺も、そうしてもらえたら嬉しい」
彼女は微笑み、外出準備の一覧へ最後の一文を書き加えた。
『二人のどちらかが無理をしていないか、確かめ合うこと』
俺はその文字を見て、思わず笑みをこぼした。
「これも持ち物じゃないね」
「はい。ですが、忘れたくないことですので」
「そうだね。俺も忘れないようにするよ」
朝食の時間が近づき、俺たちは紙を重ねて机の端へ置いた。
庭の花は、今日もこれから見に行く。
フェルネへの道は、まだ分からない。
南側通路の石の台にも、確かめられていないことが残っている。
けれど、今朝セリーが見つけてくれたのは、道具でも、古い魔導具の手がかりでもなかった。
俺たちがこれからどこかへ出かけるとき、互いにどんな気持ちで隣を歩きたいのかという、大切なことだった。
食堂の窓から差し込む光の中で、セリーが俺の隣へ椅子を寄せる。
俺はその椅子がきちんと収まるよう、少しだけ自分の席を動かした。
それだけのことなのに、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
俺も笑い返し、二人で温かな朝食を囲んだ。
まだ知らない町へ向かう日のことは、急いで決めなくてもいい。
今日という一日にも、俺たちが自分で選べることは、こんなにもたくさんあるのだから。




