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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第166話 雨にうなだれた花と、隣を歩く二人の答え


 目が覚めたとき、塔の窓には昨夜の雲が薄く残っていた。朝日が枝の間から差し込むたび、庭の石畳がところどころ白く光るものの、木陰に集まった落ち葉はまだ濡れているようだった。昨日、セリーと安全な場所を選びながら庭を歩いたことを思い出し、俺は寝台から起き上がって窓辺へ近づいた。


 風は昨日より弱く、森の奥から聞こえる葉擦れの音も穏やかだった。乾いた場所が増えているように見えるが、塔の上から確かめられるのは表面の色だけで、地面の硬さまでは分からない。今日はセリーが庭の花を見たいと言っていたから、足元に問題がなければ、ゆっくり出てみようと思っていた。


(せっかくセリーが自分から言ってくれたんだ。俺の調べものを先にするんじゃなくて、今日は花を見る時間をちゃんと取ろう)


 昨日、南側通路の古い石の台の手前に、灰色に見える部分があることに気づいた。台の縁に見えていた細い線と関係があるのか、そもそも石なのかも分からない。気にはなっていたが、調べるために濡れた落ち葉の上へ踏み込むつもりはないし、セリーも周囲の状態を変えずに記録を続けたいと話してくれたばかりだ。


 俺が上着を羽織ると、扉の向こうからいつもの控えめな声がした。朝の静けさを邪魔しないように響くその声を聞くだけで、今日もいつもの暮らしが始まったのだと感じられる。


「主様、おはようございます。今朝は昨日より風が静かでございますが、外の地面にはまだ湿った場所が残っているようです。お身体のお加減はいかがでしょうか」


「おはよう、セリー。よく眠れたよ。今ちょうど庭を眺めてたんだ。昨日、花を見に行きたいって言ってたよね」


「はい。覚えていてくださったのですね。お天気が許すようでしたら、昨日の雨で傷んだところがないか、一緒に見てみたいと思っております」


 彼女の声には、何かを急いで確認したいという焦りはなかった。ただ、自分が気にかけている花を見たいのだという、静かな楽しみが伝わってくる。その違いを聞き取れるようになったことに、俺は少し笑みを浮かべた。


「じゃあ、朝食のあとに足元を確かめて、行けそうなら花を見に行こう。南側の石の台については、今日は無理して近づかなくていいからね」


「ありがとうございます。ですが、主様も気になっていらっしゃるでしょうから、道の状態がよければ、離れた位置からだけでもご覧になってはいかがでしょうか」


「そうだね。でも、まずはセリーの花だよ。今日はそっちを先にしたいんだ」


 少し間が空いたあと、扉の向こうでセリーが小さく息を吸う気配がした。すぐに返事を急ぐのではなく、自分の希望を確かめてから言葉にしようとしているようだった。


「……はい。それでは、私が見たいと思ったものを、先に見に行かせてくださいませ」


 その返事は照れくさそうで、それでいてはっきりしていた。俺は上着の袖を整えながら、彼女がこうして自分の希望に優先順位をつけてくれたことを嬉しく思った。


 食堂へ入ると、焼いたパンの香りが漂っていた。朝の光は薄い雲を通して窓へ届き、食卓に置かれた器の縁を柔らかく照らしている。セリーは俺が席に着くのを待って向かいに座り、自分の分を取り分けてから食事を始めた。


「今日のスープには、残っていた野菜を少しずつ使っております。昨日より具材の大きさが不揃いになってしまいましたが、味つけは今朝の冷え込みに合わせてみました」


「不揃いでも気にならないよ。むしろ、何が入ってるか分かって面白いな。……うん、温かくて美味しい」


「よかったです。主様が召し上がりやすいようにと思いましたが、私も、野菜によって食感が違うのが楽しいと感じました」


 いつもの朝食でも、セリーは自分が面白いと思ったところを口にしてくれるようになった。俺が美味しいと伝える前から、彼女自身にも感想がある。そんな当たり前のことを少しずつ共有できるのが、今は何より心地よかった。


 パンをちぎったとき、焼き目のついた表面から香ばしい匂いが立ち上った。俺はその匂いに、以前、三〇八号室の少年が焼きたてのパンの香りを体験してみたいと望んでいたことを思い出した。届ける方法も、本人の気持ちへの影響も確認できていないため、何かを実行する段階には至っていない。


(いい香りだと思ってもらえるなら嬉しい。でも、今の俺が美味しそうだと感じることと、あの子がどう受け止めるかは別の話だよな)


 目の前のパンを見つめたまま考えていると、セリーが静かに声をかけてきた。俺が手を止めていたことに気づいたらしく、彼女は自分の器をいったん置いてこちらへ向き直っている。


「主様。何か気になることがございましたか。もしお味が合わないのでしたら、遠慮なくおっしゃってくださいませ」


「いや、パンは美味しいよ。前に三〇八号室の少年が話していた、焼きたての香りのことを思い出したんだ。ただ、どうやって安全に届けられるかも、本人がそれをどう感じるかも、まだ確かめられてないからね」


「はい。香りを届けるということだけでなく、ご本人が望まれる形かどうかも大切にしたいです。今は記録を残したまま、必要な確認ができるときまで待つのがよろしいかと思います」


「そうだね。俺たちが良かれと思って勝手に決めるのは、やめておこう」


 そこで話をいったん終え、俺たちは冷めないうちに朝食を食べた。昨日の買い物の練習で、セリーが自分のために質問し、買わないという選択もできたことを思い返す。何かを与えることと、相手に選んでもらうことの違いは、塔での暮らしのあちこちにつながっている気がした。


 朝食後、俺たちは外へ出るための準備を始めた。木製の記録板を持っていこうとしたところで、セリーが棚から自分用の小さな布袋を取り出す。昨日の夜、彼女はその中の記録を自分だけで大切にしまっておきたいと申し出た。俺はその内容を知らないし、彼女も今日、その話をするつもりはないようだった。


 セリーは袋の折り返しを確かめ、別に持った筆記具を見てから、小さく頷いた。道具を使うための動きに迷いが減っている一方で、その表情には新しいことを試すときの期待も残っている。


「主様。今日の記録も、私の袋へ入れてみたいと思います。お花の状態を忘れずにいたいので、小さな紙を二枚ほど用意してもよろしいでしょうか」


「もちろん。俺も庭の湿った場所は記録しておくつもりだけど、同じことを書かなきゃいけないわけじゃないからね」


「はい。私は花の向きや、葉の色を中心に見てみたいです。主様が見られたことも、あとでお話しできたら嬉しく思います」


 玄関近くで地面の状態を確かめると、昨日片づけた部分は朝の光を受けて乾き始めていた。ただ、敷居から少し離れた石の陰にはまだ濡れた落ち葉がある。俺たちは踏む場所を選び、庭へ続くいつもの道をゆっくり歩いた。


 冷たい空気の中には雨上がりの土と草の匂いが残り、ときおり葉の先から落ちる雫が小さな音を立てた。庭の周囲に移した鉢は以前と同じ位置にあり、遠目には倒れたり大きく傾いたりしていない。セリーは鉢の前で足を止め、一つずつ花と葉を見比べていた。


「主様。こちらのお花は、昨日より少し花びらが下を向いておりますね。雨を受けたためかもしれませんが、近くで見てもよろしいでしょうか」


「ああ。そこなら足元も安定していそうだ。俺は反対側から見てみるよ。何か触る前には、一緒に状態を確かめよう」


 花の茎は折れているようには見えなかったが、葉の間に水滴が残っていて、花の重さを支える部分が少し曲がっている。隣の鉢にある花も同じように濡れているのに、こちらほど下を向いてはいない。違いがどこから生まれたのかは分からないものの、少なくとも今すぐ枯れてしまうような様子ではなかった。


 セリーはしばらく眺めてから、控えめに提案した。花に触れようとしていた指先は下ろしたままで、まず俺と相談するつもりなのが分かった。


「このままでも回復するかもしれませんが、もし茎が重さに負けているのでしたら、軽く支えを添えた方がよいのでしょうか。私、以前使った細い木の棒を思い出しました」


「そうだね。ただ、無理にまっすぐ戻すと傷めるかもしれない。支えるとしても、今の形を強く変えない程度にしておこう。まずは折れたところがないか、見える範囲だけ確かめたいな」


 俺たちは鉢を大きく動かさず、花の茎をよく見た。水滴が光る部分に目立った裂け目は見られないが、細かな傷まで断定することはできない。セリーは自分の袋から紙を出し、曲がっている位置と花の向きを描き留めていた。


「今日はまず記録して、少し乾いたあとにもう一度確かめるのはどうかな。支えが必要そうなら、そのとき柔らかい布と細い棒を用意すればいい」


「はい。今すぐ何かをして差し上げたい気持ちはございますが、お花にとって必要なことかどうかは、まだ分かりませんものね」


 セリーがそう言って、花に向けていた指先をそっと下ろした。俺は隣に立ちながら、彼女が花を大切に思う気持ちと、触れずに見守る判断を両方持っていることを感じた。


 庭の奥では、以前から土の色が濃くなる場所に落ち葉が少し集まっていた。昨日の雨の影響もあって、どこまでが以前から湿っていた部分なのかは分からない。花を見たあとでそこも安全な位置から確かめ、乾いているところと濡れているところの大まかな違いだけを記録した。


「今日は晴れてるけど、まだ原因を調べられるほど乾いてないな。鉢を移したときの判断がよかったのかどうかも、もう少し見ておきたい」


「はい。ですが、移した鉢のお花が今も咲いていることは、ひとまず嬉しいことでございますね。私はそのことも書いておこうと思います」


「それも大事な記録だね。調べものばかり考えてると、花が咲いてるのを喜ぶのを忘れそうになるよ」


 セリーは小さく笑い、紙へ書き足した。俺は目の前の花へもう一度視線を向け、日差しに透けた花びらの縁を眺めた。雨のせいで少し下を向いていても、花が持つ色や形は変わらず綺麗だった。


 塔へ戻る途中、彼女は一度だけ振り返り、鉢が見えるところで立ち止まった。朝の光は強くなっていたが、鉢の周囲にはまだ水を含んだ土の匂いが残っていた。


「主様。午後、もし時間がありましたら、もう一度だけあのお花を見てもよろしいでしょうか。少し乾いたあとでどうなるか、気になっております」


「ああ。俺もその方がいいと思う。午後になっても茎がつらそうなら、支えを試すか一緒に考えよう。ただ、天気が崩れたら外へは出ない。それでいい?」


「はい。ありがとうございます。主様にご相談してよかったです」


 彼女はそう答え、俺と並んで塔へ向かった。以前なら、何かをしたいときにも俺の作業の予定を先に確かめていたかもしれない。今は、自分の気になったことを先に言葉にして、それを一緒に一日の予定へ組み込もうとしている。そんな小さな変化が、雨上がりの光と同じくらい眩しく感じられた。


 塔へ戻ってからは、持ち帰った記録を整理した。俺の布袋は昨日変えた折り返し方のまま使用したが、紙が飛び出すことはなかった。ただし、濡れた手で触る状況は試していないし、雨が降ったときに守れるようなものでもない。俺は「通常の持ち歩きには使いやすくなった」とだけ書き、完全な改良とは扱わなかった。


 セリーは自分の記録のうち、花の状態について書いた部分だけを見せてくれた。そこには花びらの向きの小さな絵と、朝の日差しの当たり方が丁寧に書き込まれている。俺の記録には土の色と歩いた場所が多く描かれているので、並べると同じ庭とは思えないほど目の向け方が違っていた。


「こうして見ると、セリーの方が花の様子をずっと細かく見てるな。俺は地面のことばかり考えてたよ」


「主様のお記録には、安全に歩ける場所や土の変化が残っております。どちらかだけでは、今日の庭を十分に思い出せないかもしれません」


「そうだね。違うものを見てたのに、あとで合わせると一つの景色になるのか」


 俺が紙を眺めていると、セリーは嬉しそうに微笑んだ。その顔を見て、ふと思い浮かんだことがある。


 フェルネへ行けるかどうかはまだ決まっていないが、もし出かけることになれば、周囲には俺たちを知らない人が大勢いるだろう。手仕事の品を見たり、店主と話したりしているとき、俺とセリーがどういう関係なのか尋ねられることがあるかもしれない。


 俺は王太子だった頃の顔を覚えられている可能性を気にしている。だからといって、セリーへ何も相談せず、同行者の役割まで勝手に決めてしまうのは違う気がした。


「セリー。ちょっと、別の相談をしてもいいかな。秋の市へ行くかどうかはまだ分からないんだけど、行けた場合に気になってることがあるんだ」


「はい。どのようなことでございましょうか」


「もし店の人に、俺たちはどういう関係なのかって聞かれたら、どう答えたい? もちろん、普通はわざわざ聞かれないかもしれないけど、二人で買い物をしてたら、そういう場面もあるかなと思ってさ」


 セリーは少し驚いたように瞬きをした。俺は慌てて続きを急がず、彼女が考える時間を待つことにした。作業机の上で重なっていた二枚の記録用紙をそっと離すと、紙が擦れる小さな音だけが聞こえた。


「……主様。私は、いつもどおり主様とお呼びしたいと思っております。ですが、知らない方にそれがどのように聞こえるのかまでは、考えておりませんでした」


「そうだよね。俺は呼び方を変えてほしいって言いたいわけじゃないんだ。セリーが大切にしてる呼び方なら、そのままでいい。ただ、知らない人にどこまで話すかは、一緒に考えておいた方が安心かなって」


 俺の言葉を聞いて、彼女は胸元へ手を重ねた。少し困ったような表情のまま、それでも視線を逸らさずに口を開く。


「私にとって主様は、主様でございます。ですが、それだけではないことも、私自身が感じております。今の暮らしについて尋ねられましたら、どのように言葉にすればよいのか、少し迷ってしまいそうです」


「うん。俺も同じだよ。昔の立場を全部説明したいわけじゃないし、セリーについても、勝手に何かの役に当てはめたくない。だから、無理に一つの答えを決めなくてもいいと思う」


 セリーはしばらく考え、机の上に置かれた二つの布袋へ目を向けた。少し大きく縫い目の不揃いな俺の袋と、丁寧に仕上がった彼女の袋。同じ布から作ったものだが、持ち主の考え方に合わせて形が違っている。


「主様。私は……一緒に暮らしている大切な方です、とお伝えしたい気持ちがございます。ですが、そのような言い方では、おかしいでしょうか」


 そう言いながら彼女は、恥ずかしそうに俺の顔を窺った。俺はすぐに答えようとして、胸の奥が少し強く打ったことに気づいた。言われた内容は簡単な言葉だったのに、彼女が自分の意思で選んでくれたと思うと、何も考えず返事をすることができなかった。


(大切な方、か。セリーがそう思ってくれているのは嬉しい。俺も、彼女に同じ言葉を使いたいと思ってる)


「おかしくないよ。俺もセリーを、一緒に暮らしている大切な相手だと思ってる。それ以上のことを、その場で知らない人に説明しなきゃいけないとは思わないな」


 セリーは小さく息を吸い、頬を赤くした。何か言おうとして唇を動かしたものの、すぐには言葉にならなかった。俺も照れくさくなって視線を机へ落としたが、先ほどの返事を取り消したくはなかった。


「……ありがとうございます。私、主様からも同じように思っていただけて、とても嬉しいです」


「こちらこそ。呼び方だって、セリーが好きなようにすればいいよ。ただ、もし店の人から塔の詳しい場所や、俺の過去について聞かれても、答える必要はないと思う。相手が悪い人かどうかとは別に、知らない人へ何でも話すものじゃないからね」


「はい。では、答えたくないことを尋ねられましたら、失礼にならないようお断りしてもよろしいのでしょうか」


「ああ。もちろん。答えないことで困るような用事なら、そもそも無理に続けなくてもいいと思う」


 その言葉を口にしたとき、昨日の買い物の練習が思い浮かんだ。セリーは木の小物を見て、買わずに帰るという選択を自分で伝えられた。知らない相手との会話も、すべてに答えて相手を満足させる必要はない。その考え方は、品物を選ぶときだけのものではないはずだ。


「主様。私、昨日のお店の練習で、買わないとお伝えするのが難しかったのです。ですが、今のお話を伺って、知らない方に自分のことをすべてお話ししなくてもよいのだと、少し分かった気がいたします」


「うん。相手を大事にするのと、自分の大切なものまで全部差し出すのは違うからね。俺も慣れてないことがあるし、そこは一緒に考えていこう」


 セリーは嬉しそうに頷いたが、すぐに一つ気になることがあるように眉を寄せた。知らない相手との会話を想像してみるうちに、別の疑問が浮かんだらしい。


「それでは、もし私が主様のことを『一緒に暮らしている大切な方』とお伝えしたとき、お相手が別の意味に受け取られることもあるのでしょうか」


 今度こそ、俺は返答に詰まった。彼女の口調は真面目で、からかっている様子はない。むしろ、相手との行き違いを心配しているのだと分かったからこそ、曖昧に笑ってごまかすわけにはいかなかった。


「……あるかもしれない。どんな関係を想像するかは、聞いた人によって違うだろうからね。だから、誤解が困る場面だったら、もう少し言葉を足してもいいと思う。ただ、そのためにセリー自身の気持ちと違うことを言う必要はないよ」


 セリーはしばらく俺を見つめ、やがてゆっくりと頷いた。耳のあたりまで少し赤くなっているのを見て、俺まで妙に落ち着かなくなったが、彼女は真剣な表情のまま考え続けていた。


「主様。私、今の気持ちを、まだすべて言葉にできるわけではございません。ですが、主様のお隣を歩きたいことも、一緒に暮らしていることが大切なことも、偽りではありません。それだけは、自分の言葉でお伝えできると思います」


「うん。それで十分だよ。今すぐ名前をつける必要はないし、俺も何かを急いで決めたくはない。セリーがどう感じるか、これからも聞かせてほしいな」


 俺の返事に、彼女はようやく柔らかく笑った。照れはまだ残っていたが、迷いを抱えたままでも話し合えたことで、少し肩の力が抜けたようだった。


 昼食の時間には、さっきの話題を無理に続けなかった。二人で食器を並べ、簡単な料理を温め直し、食べながら庭の花をもう一度見に行くかどうかを相談する。窓の外には朝より強い日差しが差し込んでいたが、午後になっても雲が完全に消えたわけではない。


「花の茎は、少し乾いたら起き上がるかな。今朝はあまり傷んでいるように見えなかったけど、実際どうなるか分からないね」


「はい。私は、少しでも元の向きへ戻ってくれたら嬉しいです。ですが、無理にまっすぐにするより、お花に負担をかけないようにしたいと思います」


「そうだね。支えが必要なら、曲がっているところを押し戻すんじゃなくて、今の形をそっと支えられる方法を考えよう」


 セリーは頷き、食器を片づけ始めた。俺も手伝いながら、さっきの会話を心の中で繰り返していた。セリーが自分で選んだ「一緒に暮らしている大切な方」という言葉は、王宮で使っていたどんな肩書きよりも、今の俺にしっくり来ていた。


 昼食後、俺たちは午前中に確認した鉢のところへ戻った。日差しを受けて地面の表面は少し明るくなっており、歩き慣れた道の一部は乾いているようだった。けれど、木陰や落ち葉の下までは判断できないため、午前と同じ安全な場所だけを使う。


 問題の花は、朝より水滴が減っていた。しかし、花びらが下を向いたままになっていることは変わらず、茎の一部が重さを受けて緩やかに曲がっている。セリーは花の近くにしゃがみ、朝描いた紙と比べながら、どの部分が変わっていないかを確かめていた。


「主様。水滴は少なくなりましたけれど、花の向きはほとんど変わっておりません。茎が折れたようには見えないのですが、このままでもよいのでしょうか」


「今すぐ悪くなるとは限らないけど、気になるな。支えを添えるなら、茎を引っ張らずに、重さのかかっているところだけを助ける形にしてみようか。もし合わなさそうなら、すぐやめよう」


 セリーは少し考え、以前使った細い木の棒と柔らかい布が使えるのではないかと提案した。俺たちは一度塔へ戻り、鉢に合わせて長さを確かめられる細い棒と、茎に直接硬い部分が当たらないようにするための小さな布片を用意する。どちらも特別な道具ではないが、花の状態を変えすぎないことを第一に考えた。


 再び庭へ出ると、セリーは鉢の脇で俺を待ちながら、どの位置なら支えを置いても花を傷めにくいかを考えていた。俺も目で確かめ、茎を強く起こさなくて済む場所を選ぶ。土へ棒を差し込むときには根を傷める可能性もあるため、無理に深く押し込まず、抵抗がある場合はそこで止めることにした。


「少しだけ、ここを支えてみてもいいかな。根の位置は見えないから、無理に押さないようにするよ」


「はい。私が花の向きを見ております。主様、少しでも強い抵抗がありましたら、そのまま続けずにお止めくださいませ」


 俺は慎重に棒を添え、土に無理な力がかからない位置で止めた。セリーが布片を柔らかく当て、茎を締めつけないよう緩く留める。すぐに見た目が大きく変わったわけではないが、花の重さが一か所に集中しないよう、ほんの少し支えができたように見えた。


 作業を終えてから、二人で少し離れた位置に戻った。茎が不自然に引っ張られていないか、風が吹いたときに布が強く擦れないかをしばらく眺める。大きな問題は見えなかったものの、これだけで正しい処置だったとは言えない。


「今はこれくらいにしておこう。明日、余計に負担がかかってないか確かめたいな」


「はい。私も、しばらく様子を見てみたいです。もし花にとってよくないようでしたら、取り外すことも考えましょう」


 セリーはそう言ってから、花を見つめたまま小さく笑った。朝には心配そうだった横顔が、今は少し穏やかになっている。俺はその表情を見て、花に何かをしたこと自体より、彼女が自分で選んだ方法を試せたことに意味があったのだと思った。


「セリーが見たいって言ってくれたから、今日ここへ来られたんだな。俺だけだったら、石の台の記録ばかり気にして、花の様子を後回しにしてたかもしれない」


「私は主様と一緒にお花を見られて嬉しいです。ですが、主様が大切にしていらっしゃる調査も、私にとっては大切でございます。どちらも、そのとき必要なことを選べたらよいのだと思います」


「そうだね。今日は花を見に来てよかった。石の台は、また歩ける状態を確かめてからでいいよ」


 俺たちは鉢と支えの状態を記録してから、塔へ戻った。南側通路には近づかず、灰色の部分についても新しい確認はしていない。少し気になりはしたが、何かを見つけたという理由だけで毎日必ず調べる必要はないと、今日は自然に思えた。


 夕方、作業机で記録を整理していると、セリーが自分の小さな布袋を持って戻ってきた。彼女は朝と午後の花の絵を見比べ、支えを添えた位置だけを新しく書き足している。俺はその横で、道具を作り直さずに使い方を調整した布袋の状態を確認した。


「主様。今日のお花のことは、私の記録にも残しておきたいと思います。朝には少し心配でしたけれど、午後には主様と相談して、支えを添えてみることができましたから」


「ああ。明日どうなるかはまだ分からないけど、今日できることを考えられたのはよかったね」


「はい。それから……お昼前のお話についても、少し考えておりました」


 彼女はそこで筆記具を置いた。窓から差し込む夕日が小さな布袋を照らし、その縫い目の影を机に落としている。俺は椅子を少し彼女の方へ向け、続きを待った。


「知らない方に、主様と私の関係をどのようにお話しするかということです。まだ一つの答えに決められたわけではございませんが、私、主様のお隣にいたいと思っていることは、きちんと大切にしたいです」


「うん。俺も同じだよ。周りの人にどう見えるかを考えるのは必要だけど、それでセリーの気持ちをなかったことにはしたくない」


「ありがとうございます。私はまだ、誰かに自分のことを尋ねられたとき、すぐに答えられるか分かりません。ですが、答えを急がずに考えてもよいと分かって、少し安心いたしました」


 俺は頷き、机の上にある二つの布袋を見た。どちらも昨日から使い始めたばかりで、使い心地を確かめている途中だ。人との関わりについても、そう簡単に完成形を決めなくていいのかもしれない。


「フェルネへ行けたとしても、知らない人に全部説明しなきゃいけないわけじゃないよ。もし答えに困ったら、二人で相談していい。俺も、自分のことを話す前にセリーへ聞いてみたいと思うことがあるだろうしね」


「はい。そう言っていただけるなら心強いです。ただ、主様のお顔をご存じの方に気づかれる可能性も残っておりますので、そのときはお話を続けることより、安全を優先したいと思います」


「ああ。それは俺も同じだ。相手が誰か分からないうちに、自分たちの事情を詳しく話すことはしない。それでも困る状況になったら、無理してその場に居続けないようにしよう」


 セリーは安心したように頷いた。秋の市はまだ、行けるかどうかも分からない場所だ。それなのに、準備を考えるほど互いに知らなかった希望が見えてくる。旅に出ていない今も、俺たちは少しずつ外の世界と向き合う練習をしているのだと思う。


 夕食の時間が近づき、俺たちは机の上を片づけ始めた。庭で使った棒の残りや布片は、次に必要になったときに分かるようひとまとめにし、石の台の記録とは別の場所へ置く。セリーは私的な記録を書いた紙を袋へしまい、その口を丁寧に折り返した。


 俺は彼女が何を書いたのかを尋ねなかった。今日は花のことを話してくれたが、それ以外にも書きたいことがあるかもしれない。彼女が自分のために残すものには、俺が知らない部分があってもいいのだと、今は自然に思える。


 夕食は、朝から残っていた食材を使った温かな煮込み料理にした。鍋の中で柔らかくなった野菜は、形が少し崩れているものもあったが、その分だけ味がよくなじんでいる。セリーは食べながら、自分の好みに合わせて香りを少し変えてみたいと話し、俺はそれなら次に一緒に試そうと答えた。


「主様。今日、私が見たいと申し上げたお花のために、お時間を使っていただいてありがとうございました。以前でしたら、主様のお仕事を先に考えなければと思っていたかもしれません」


「俺の方こそ、誘ってくれてありがとう。あの花がどうなってるか、俺も気になってきたよ。それに、今日みたいにセリーが見たいものを先に選んでくれると、俺が知らない一日になる気がするんだ」


「私も、主様が何を見つけられるのか楽しみです。ですから、毎日どちらか一方に合わせるのではなく、お互いにやりたいことを相談できたら嬉しいです」


 俺はその返事を聞いて、ゆっくり頷いた。王宮にいた頃は、俺の予定が優先されることが当たり前だった。ここでは俺だけでなく、セリーにも自分の時間があり、気になることがあり、選びたいものがある。そのことを今日の庭で、言葉だけでなく実感できた気がした。


 食事を終えたあと、二人で片づけを済ませると、窓の外には星が見え始めていた。昼間に比べて空気が冷えてきたため、長く窓を開けることはせず、室内から森を眺める。濡れていた枝の多くは乾いているように見えたが、木陰の地面については明日まで様子を見なければ分からないだろう。


「主様。明日、もし今日のお花が元気になっておりましたら、私はとても嬉しいです。ですが、支えが合わないようでしたら、また主様と相談して考え直したいと思います」


「ああ。俺たちがよかれと思ってしたことでも、花に合わないことはあるだろうからね。明日の状態を見て決めよう」


 セリーは頷き、窓へ目を向けた。横顔に映る星の光は淡く、表情の細かなところまでは見えなかったが、少し考えている様子は分かった。しばらくして、彼女が静かに口を開く。


「主様。私、フェルネへ行ける日が来たら、今日のお花のことを思い出すかもしれません。何かを見つけて気になっても、すぐに手に入れようとせず、まずは自分がどうしたいのかを考えたいです」


「そうだね。店に並んでるものも、花も、そこで暮らしてる人も、俺たちの都合だけで動いてるわけじゃない。初めての場所だからこそ、ちゃんと相手のことも考えたいな」


「はい。ですが、主様。私が一つだけ変えたくないと思っていることもございます」


 俺が顔を向けると、セリーは少し恥ずかしそうに笑っていた。彼女は自分の手を胸元で重ねてから、意を決したように俺へ差し出した。


「町へ行けても、行けなくても、主様のお隣で同じ景色を見たいのです。今日は私が見たいと思ったお花を、主様が一緒に見てくださいました。次には、主様が気になるものも、私に教えていただけたら嬉しいです」


 俺はその手を取った。指先が触れ合うと、セリーはほっとしたように微笑み、少しだけ肩の力を抜いた。昨日まで重ねてきた何気ない時間があったからこそ、その仕草を特別な約束のように重くしすぎず、自然に受け止められるのだと思う。


「もちろん。次は俺が気になったものを一緒に見てもらうかもしれないね。でも、そのときもセリーが別のものを見つけたら、遠慮なく教えてほしい」


「はい。私もそうしたいです。主様と違うものを見つけることを、もう悪いことだとは思っておりませんから」


 その言葉を聞くと、胸の奥が静かに温かくなった。セリーが何を感じるかを、俺が全部知っている必要はない。それでも、彼女が自分の意思で隣にいたいと思ってくれることが、今の俺には何より大切だった。


 やがて夜も深まり、俺たちは明日のために休むことにした。セリーは手を離したあと、自分の布袋を大切そうに持ち直し、いつものように穏やかな声でおやすみなさいと告げてくれる。俺も挨拶を返し、自室へ向かった。


 寝台の脇には、少し不揃いな縫い目の布袋が置かれている。明日も使えば、また新しい不便が見つかるかもしれないし、今の形のままで十分だと分かるかもしれない。そんな小さな道具を、セリーと相談しながら使っていくことが、妙に楽しみだった。


 フェルネの秋の市については、ブラートから次の情報を待っている。開催予定までは今日の時点でおよそ十三日となったが、安全な往復経路も、必要な移動時間も、宿泊できる場所も確かめられていない。必要な条件が揃わなければ今回は見送るという判断は、今も変わっていなかった。


 一方、南側通路の石の台には細い線が残り、手前に見えた灰色の部分も正体不明のままだ。三〇八号室の少年にパンの香りをどう届けるかも、結論を出していない。塔にはまだ考えるべきことが多く残されているが、どれも急いで答えをつけるためだけにあるわけではない。


(今日は、セリーが見たいと思った花を一緒に見られた。明日は俺が何を見つけるか分からないけど、また二人で話せればいいな)


 目を閉じると、雨粒の重さで下を向いていた花と、その傍らで真剣に考えていたセリーの横顔が思い浮かんだ。あの花が明日どうなるのかはまだ分からない。それでも、互いの気持ちを聞きながら手を動かした今日という日は、すでに俺たちのものになっていた。


 夜の塔は静かで、遠くの森から聞こえる葉擦れだけが、窓の向こうに広がる世界を感じさせる。いつか知らない町へ出かける日が来るかもしれないし、今回の秋の市は見送ることになるかもしれない。どちらであっても、俺はここへ帰ってきて、セリーと今日のことを話す時間を大切にしたかった。


 誰かに決められた立場ではなく、自分で選んだ暮らしの中で。隣にいる相手の望みも、自分の望みも、どちらも大切にしながら。

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