第165話 秋の市で交わす言葉と、雨のあとに見えた小さな境目
翌朝、窓から差し込んできた光は、昨日よりもずっと明るかった。
目を開けた俺は、寝台の上でしばらくその光を眺めていた。夜明け前まで残っていたらしい雲は薄くなり、窓の向こうには淡い青空が広がっている。森の枝先についた水滴が日差しを受けて輝き、昨日の雨がまだ完全には乾いていないことを教えてくれた。
起き上がって窓辺へ近づくと、塔の入口へ続く道が見えた。昨日、セリーと一緒に濡れた落ち葉を片づけた場所だ。遠目には石の表面が明るくなっているように見えるものの、木陰にはまだ色の濃いところが残っていた。
(晴れたからって、すぐに歩きやすくなるわけじゃないんだな)
昨日ブラートから届いた通信を思い出す。フェルネという町へは、商人たちが利用する街道から分かれた道を進むらしい。しかし、分岐した先には雨のあとにぬかるみやすい場所があり、塔からその街道へ安全に合流できる経路も、まだ確認できていない。
秋の市が始まる予定までは、今日を含めて十四日ほど。二日間の催しだから、往復に何日もかかるのであれば、準備のために残された時間はさらに短くなる。それを考えると少し気が急いたが、俺は窓の外の濡れた道を見て、意識して肩の力を抜いた。
(間に合わせるために危ないことをしたら、本末転倒だ)
行けたら嬉しい。それでも、無事に帰ってこられる見通しが立たないなら、今回は見送る。昨日セリーと話して決めたことを、俺はもう一度心の中で確かめた。
「主様。おはようございます。今朝のお加減はいかがでしょうか」
扉の向こうから聞こえた声に、思わず顔がほころんだ。
「ああ、おはよう、セリー。よく眠れたよ。今日は少し晴れそうだね」
「はい。窓から見える範囲では、昨日より日差しが強くなっております。ただ、石畳の陰にはまだ湿り気が残っておりますので、外へ出られるのでしたら、乾いているところから確かめたいと思います」
「そうしよう。でも、朝から南側へ行くつもりはないよ。まずは朝食を食べて、それから今日やりたいことを相談しよう」
「承知いたしました。それでしたら、今朝は少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか。主様に相談したいことがあるのです」
その言い方が少し改まっていたので、俺は扉の方を見た。急いで尋ねたくなる気持ちもあったが、セリーが自分から相談したいと言ってくれたのが嬉しくて、食堂でゆっくり聞くことにする。
食堂へ入ると、温かなパンとスープの香りが漂っていた。窓際の花は昨日と同じ場所に飾られ、葉の間から届く朝日が食卓に細かな影を落としている。セリーは向かいの席へ座り、スープの温度を確かめてから俺へ目を向けた。
「相談したいことというのは、昨日お話しした買い物のことでございます。もしフェルネへ行けましたら、私は自分で品物を選び、お店の方へ代金をお渡ししてみたいと申し上げました」
「ああ、覚えてるよ。セリーがやってみたいって言ってくれて、俺も嬉しかった」
「ありがとうございます。ただ、よく考えてみますと、私は初めてお会いする方に何を伺えばよいのか、まだ自信がありません。主様のお隣でいきなり試すより、塔の中で一度練習してみたいと思ったのです」
セリーはそこで少し恥ずかしそうに笑った。彼女には物事を正確に伝える力があるし、礼儀もよく知っている。それでも、決められた役目として話すことと、自分の欲しいものを自分で尋ねることは、同じではないのだろう。
「いい考えだと思うよ。俺も普通の買い物には慣れていないところがあるから、一緒に練習してみようか。店の人の役を交代すれば、どちらが話すときに困るかも分かるかもしれない」
「主様も、お店の方の役をしてくださるのですか?」
「ああ。もちろん。ただ、俺も本職の商人じゃないから、正しい言い方を全部知ってるわけじゃない。試してみて、分からないところは分からないままにしておこう」
セリーは嬉しそうに頷き、ようやく安心した様子でパンへ手を伸ばした。朝食を取りながら、俺たちはどんな品物を使って買い物の練習をするか相談する。花を実際に売り買いするふりをして傷めるのは避けたいので、まずは塔にある木製の小物と布を使うことにした。
食事を終えて片づけを済ませると、作業机の端を少し空けた。古い資料や記録板を巻き込まないよう、机に載せるのは今回使うものだけだ。俺は手元にあった小さな木の板と、以前から使っている布の端切れ、それに紙で作った仮の値札を並べた。
「本物のお金を使う必要はないから、代金はこの紙に書いた数字で確かめよう。今は計算の速さより、どうやって尋ねるかを練習したいんだ」
「はい。ですが、価格を決める際には、実際のお店で売られているお品と混同しないようにしたいです」
「そうだね。ここでつける値段は練習用だって、はっきりさせておこう」
セリーは紙の値札を見つめ、ひとつずつ品物の前へ置いていった。彼女の動きはいつもどおり丁寧だが、並べ終えると少し緊張したように両手を重ねる。その姿を見て、俺は急いで始めるのではなく、まず役割を確かめることにした。
「じゃあ、最初は俺が店番で、セリーがお客さん。気になるものがあったら、普通に声をかけてみてくれればいいよ。何も買わずに帰る練習でも構わないから」
「何も買わずに、ですか?」
「ああ。お店に寄ったら必ず買わなきゃいけない、なんてことはないだろう? 値段や使い方を聞いたうえで、今回はやめておくって決めてもいいはずだ」
セリーは少し考えてから頷いた。前に秋の市で何も買わずに帰ってもいいと話したときには驚いていたが、今日は自分の意思で決めるという意味を、もう少し具体的に想像しているらしい。
俺は机の向こうへ立ち、できるだけ普通の店番を意識して声をかけてみた。
「いらっしゃいませ。よかったらご覧ください」
セリーは少し目を丸くしたあと、柔らかく微笑んだ。しかし、木の小物を手に取ろうとして指先を止め、こちらの顔を窺っている。
「……あの、こちらのお品を、少し拝見してもよろしいでしょうか」
「もちろん。手に取って見ても大丈夫ですよ」
俺が答えると、彼女はほっとした様子で木の板を持ち上げた。角を指先で確かめ、裏側を見てから、値札へ視線を落とす。その真剣な様子が可愛らしく、俺は笑いそうになるのをこらえた。
「こちらは、どのような用途のお品でしょうか。それから、このお値段で間違いございませんか」
「小さなものを置く台として使う想定です。値札は練習用だけど、書いてある金額で大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。では……」
セリーは言いかけたまま、もう一度木の板へ目を向けた。しばらくしてから、思い切ったように口を開く。
「今回は、購入を見送ってもよろしいでしょうか。ほかのお品も拝見してから考えたいのです」
「もちろんです。気になるものがあれば、また声をかけてください」
俺がそう答えた途端、彼女の肩から力が抜けた。机の向こうへ木の板を戻し、小さく頭を下げたあと、なぜか俺たちは二人とも笑ってしまった。
「どうだった?」
「とても緊張いたしました。でも、主様が見送ってもよいとおっしゃってくださったので、自分で決めたことを伝えられました」
「うん。ちゃんと伝わったよ。俺が店番として慣れていないから、本当の店の人が同じ答えをするとは限らないけど、それでも聞いてみる練習にはなったと思う」
セリーは頷き、もう一度木の板を眺めた。
「主様。私、値札よりも先に、このお品の使い方が気になりました。昨日までは、何かを買うときにはまず代金のことを考えるのだと思っていたのですが、使い方を伺ってから選ぶこともできるのですね」
「そうだね。お金は大事だけど、買ってから使い道に困るものを選ぶのも違うだろうし。逆に、気に入っても今は必要ないと思えば、そこでやめてもいいんだと思う」
そう答えた俺自身、少し考えさせられた。王宮にいた頃は、品物の価値を用途や必要性と結びつけて学んできたつもりだった。しかし、実際に店先で手に取り、買わないと決めたあとにどう言葉を交わすかまでは、ほとんど考えたことがなかったのだ。
「じゃあ、今度は役を交代してみよう。セリーがお店の人で、俺がお客さんだ」
「はい。ですが、私も実際にお店を営んだことはございませんので、至らないところがあるかもしれません」
「お互いさまだよ。間違えても、その場でやり直せばいい」
俺は机の反対側へ回り、並べられた布へ目を向けた。セリーが少し緊張しながら「いらっしゃいませ」と声をかけてくれる。その口調がいつもの丁寧な挨拶に似ていたので、かえって俺の方が照れてしまった。
「この布、触ってもいいですか。……あ、いや、まず用途を聞いた方がいいのかな」
「どちらからでもよろしいと思います。お確かめになりたいことを、お申しつけくださいませ」
「じゃあ、この布を小さな袋に使うとしたら、どのくらい丈夫なのか知りたいんです」
俺が尋ねると、セリーは少し考え、布の織り方や厚みについて、今分かる範囲を丁寧に説明してくれた。ただし、実際の耐久性を試験していない部分については言い切らず、使い方によって変わるかもしれないと添えた。
それを聞いて、俺は思わず頷いた。
「……今の説明、すごく分かりやすかったよ。俺が本当に買うつもりだったら、もう少し触って確かめたくなると思う」
「ありがとうございます。ですが、主様が最初に触ってよいか尋ねてくださったことも、私は嬉しかったです。まだ代金をお支払いになる前のお品ですから、持ち主の方へ確かめるのは大切なのだと思いました」
「ああ、そうだな。興味があるからって、何でも勝手に触るわけにはいかないよな」
俺たちはそこで練習を一区切りにし、互いに気づいたことを話し合った。セリーは、自分のために質問することと、買わないという意思を伝えることが難しかったらしい。俺は、興味のある品物を前にすると説明を聞くことへ集中してしまい、周囲の人やほかのお客さんへの配慮を忘れそうになると気づいた。
「実際の秋の市では、今日みたいに俺たちだけじゃないからね。ほかに待っている人がいたら、話を切り上げることも必要だろうな」
「はい。ですが、急いでお決めにならず、主様とご相談しながら選ぶことも大切にしたいです。私、もし分からないことがありましたら、恥ずかしがらずに尋ねてみようと思います」
彼女の言葉には、朝よりも少しだけ自信が感じられた。練習したからといって、初めての町で同じように話せる保証はない。それでも、自分の望みを口にする方法を一つ試せたことには、十分な意味があると思った。
昼食の準備を始める前に、俺たちは机を元の状態へ戻した。練習用の値札は本物の記録と混ざらないようにまとめ、木の板や布も元の場所へしまう。セリーは自分の小さな布袋を取り出し、何かを書こうとしたところで手を止めた。
「主様。今の練習で感じたことを、少し記録してもよろしいでしょうか」
「もちろん。急がなくていいよ。俺は先に食事の準備を始めておくから」
「ありがとうございます。あとで、何かお手伝いできることがございましたらお声をかけてくださいませ」
俺は頷き、厨房へ向かった。背後では紙を広げる小さな音がしたが、何を書いているのかを振り返って確かめることはしなかった。彼女が自分のために残す記録を、俺が当然のように覗く必要はないからだ。
昼食を終えたあと、俺たちは塔の入口付近だけ様子を見に行った。雨上がりの道は朝よりも明るくなっていたが、石の陰にはまだ湿り気が残っている。昨日片づけた範囲には新しく大量の落ち葉が集まっている様子はなく、少なくとも扉の近くは歩きやすくなっていた。
「ここなら、昨日より落ち着いて歩けそうだね。でも、南側の方まで乾いているとは限らないな」
「はい。特に落ち葉が重なったところは、表面だけ乾いているように見えても、下が湿っているかもしれません。今日は安全に立てる場所から見える範囲だけにしてはいかがでしょうか」
「ああ。無理に近づく必要はないし、昨日の雨のあとで何が変わったのか、分かるところだけ確かめよう」
俺は木製の記録板を持ち、もう片方の手で布袋の口を確かめた。昨日少し変えた折り返し方は、今のところ大きく緩む様子がない。ただし、それだけで十分だとは判断せず、使い終わってからも中身の状態を見るつもりだった。
俺たちは普段から歩いている範囲を、ゆっくり進んだ。庭の湿った場所では、雨のあとということもあって土の色が全体に濃くなっている。以前から気にしていた部分との違いは分かりにくく、原因を推測する材料にはならなかった。
「雨が降ると、いつも濡れているところと、そうじゃないところの違いが見えにくくなるな」
「そうですね。今日は乾き始める順番だけ気をつけて見て、今後の記録と比べられるようにしておくのがよいかもしれません」
「うん。今は土を掘ったり、植物を動かしたりせずにおこう」
セリーは自分の袋から小さな紙を取り出し、葉の状態と日差しの当たり方を書き留めた。俺も記録板に同じ場所の様子を残したが、二人で書く内容は少し違っている。彼女は花の葉の傾きまで気にかけ、俺は地面の色と周囲の落ち葉の位置を中心に書いていた。
「同じ場所でも、気にしてるところが違うな」
「はい。ですが、どちらかが間違っているということではございませんね。主様のお記録を拝見しますと、私が見落としていた周囲の様子にも気づけます」
「俺もだよ。セリーが花を見てくれるから、土ばかり気にせずに済む」
そう答えると、セリーは嬉しそうに微笑んだ。記録するために何かを見つけなければいけないわけではないが、違うところに目を向ける相手が隣にいると、一人では気づかない変化が少しずつ増えていく。
さらに進むと、南側通路が見えてきた。地面には濡れた葉が残り、石の台の周囲にも朝の湿り気があるように見えたため、俺たちはいつもより手前で立ち止まった。これ以上先へ進まずとも、台の上部と、その近くの地面の一部は確認できる。
「昨日まで見ていた線は……ここからだと、ほとんど分からないな」
「はい。表面の色が全体に濃くなっているようにも見えます。濡れたことによるものかもしれませんが、近づいて確かめていない以上、はっきりとは申し上げられません」
「分かった。今日は線の形を描き足すのはやめよう。雨のあとでは、この位置から確認できなかったって残しておけばいい」
俺は記録板を支え、短く書き留めた。そのとき、セリーが石の台から少し離れた地面を見つめているのに気づいた。彼女は俺へ何かを伝えようとして、まず自分の立っている位置と周囲の足元を確かめた。
「主様。あちらの地面をご覧いただけますか。昨日までとは、少し見え方が違うように思うのです」
セリーが指し示したのは、石の台そのものではなく、その少し手前の落ち葉が薄くなっている場所だった。土の上に灰色がかった細い部分が見えている。離れたところからなので詳しくは分からないが、そこだけ周囲の土と色が違っていた。
「……本当だ。あんなところ、前から見えてたかな」
「私の以前の記録には、あの部分についての記載がございません。ただ、昨日までは落ち葉に隠れていた可能性もございますので、今日新しく現れたものかどうかは分かりません」
俺は一歩前へ出かけて、すぐに足を止めた。そこから先はまだ濡れた落ち葉が多く、地面の硬さも確認できない。好奇心に任せて近づけば、石の台の周囲を不用意に踏み荒らすことにもなりかねなかった。
「ここから見える範囲だけにしよう。灰色に見えるところがあるのは分かるけど、石なのか、表面の土の色なのかも判断できないな」
「はい。私も同じように思います。昨日お話ししたとおり、周囲の状態を変えずに残しておきたいです」
俺は石の台と灰色の部分との位置関係を、分かる範囲で記録した。どのくらい離れているのかを正確に測ったわけではないこと、落ち葉によって見えない部分があることも書き添える。石の台に残る線と関係があるように思いたくなったが、二つがつながっていると判断できる材料はない。
「エル。こういう場合、古い図面のどこかに対応するものがあるか、調べられるのかな」
『主様。保存資料には外周の作業台や通路、搬入経路に関する記載が存在します。しかし、現在確認された灰色の部分については、材質、形状、位置関係の情報が不足しております。特定の記載との対応を判断することはできません』
「ああ、そうだよな。そもそも、俺たちが見ているものが古代の設備かどうかも分からないんだから」
『はい。見えている状態と推測を分けて記録することを推奨いたします。なお、無理な接近や周囲の地面を動かす行為は、現状では避ける方が適切と考えられます』
「ありがとう。今日はもう戻ろう。次に地面が十分乾いたとき、同じ場所から見えるか確かめるよ」
セリーは頷き、俺の記録が終わるのを待った。昨日までは石の台の縁ばかり気にしていたが、今日はその手前にも新しい疑問が一つ増えた。だからといって、今すぐ何かを確かめに行きたいという気持ちは、不思議と強くならなかった。
むしろ、あの灰色の部分を見つけたときに一歩で止まれたことへ、少し安堵している自分がいた。調べたいという気持ちは変わらなくても、そこで立ち止まる選択をできるようになったのは、セリーと日々相談してきたからなのかもしれない。
塔へ戻る道では、雨に濡れた葉が少しずつ乾き、踏むと小さな音を立てる場所もあった。けれど、木陰に入るとまだ滑りやすそうなところが残っている。俺たちは急がず、歩き慣れた足場だけを選んで進んだ。
「セリー。さっき灰色のところを見つけたとき、すぐに教えてくれてありがとう。俺は石の台の縁ばかり見てたから、気づかなかったよ」
「いいえ。私も、あれが何なのかは分かっておりません。ただ、主様と一緒に見ておきたいと思いましたので、お声をかけました」
「それで十分だよ。何かを発見したって大げさに考える必要はないけど、見たことを共有できるのは嬉しいから」
セリーは少し照れたように笑ったあと、木々の向こうに見えてきた塔へ目を向けた。その表情には、答えが見つからなかったことへの焦りはない。ただ、今日見えたものを大切に覚えておこうという静かな喜びがあるように感じられた。
戻ってから、俺たちはまず布袋と記録用紙の状態を確かめた。俺の袋は、折り返し方を変えたことで昨日より口が緩みにくくなっているようだった。ただし、それで完全に問題がなくなったとは言えないため、次も同じ条件で使えるかを見ていくことにする。
セリーの小さな袋にも、大きな問題は見られなかった。彼女は筆記具を別に持ったことで紙の出し入れが楽になったと話し、自分からその結果を記録へ書き足していた。
俺は南側通路で描いた紙を広げ、以前の記録と並べてみた。灰色の部分については、古い記録に描かれていない。ただ、それは以前存在しなかった証拠にはならず、見落としていたか、落ち葉に隠れていた可能性がある。
「今日のものは、新しい石が見つかったって書かない方がよさそうだな」
「はい。私も、灰色に見える部分を確認した、とするのがよいと思います。石かどうかも、まだ確かめられておりませんから」
「うん。それで残そう。石の台の線についても、今日は濡れた状態で確認できなかったって記録しておく」
俺がそう言うと、エルもその整理に問題はないと答えた。古い図面との照合は、必要な材料が揃うまで保留のままにする。調べることが増えたからといって、塔の外周を勝手に掘り返すことなどはしないと、セリーとも改めて確認した。
午後も少し進んだ頃、俺たちはフェルネについての覚え書きを広げた。今日の時点では、ブラートから新しい通信は届いていない。それは少しも不思議なことではなく、現地の道や宿泊先について確かな情報を集めるには、相応の時間が必要なのだろう。
「今の段階で出発日を決めるのは、やっぱり無理だな」
「はい。ですが、いつまでも判断を延ばすのも難しいと思います。開催までの時間には限りがございますので」
「そうだね。だから、俺たちの方でも、どうなったら今回の外出を見送るか、先に決めておこうと思う」
セリーは少し驚いたように顔を上げた。秋の市へ行きたいという気持ちが強くなっているのは、俺も彼女も同じだ。だからこそ、その場の勢いで決めないための線引きが必要だと思った。
「ブラートから道の情報が届いても、塔からの経路がつながらなかったら出発しない。安全に通れる見通しが立たない場合も同じ。それから、宿泊が必要なのに泊まれる場所を確保できなかったり、余裕のある帰路を考えられなかったりしたら、今回は見送ろう」
「はい。私も、その条件は大切だと思います。ただ、主様。移動に何日必要か分かってから、準備に必要な時間も考慮した方がよろしいでしょうか」
「ああ。開催日が近づいたからって、準備を削って間に合わせるつもりはないよ。必要な日数が分かった時点で、余裕を持って出発できないなら、そのときも見送りだ」
俺は言葉にしながら、少し胸が痛むのを感じた。行けない可能性を正面から考えるのは、やはり残念だ。しかし、セリーとゆっくり歩きたいという希望を守るためには、出発しない選択も必要なのだろう。
彼女は俺の顔を見つめ、しばらくしてから静かに頷いた。
「ありがとうございます、主様。私も、何とか間に合わせることより、主様と安心して出かけられることを大切にしたいです。もし今回行けなかったとしても、そのために準備した時間までなくなるわけではありませんものね」
「そうだね。今日の買い物の練習も、作った布袋も、フェルネへ行けなかったら無駄になるわけじゃない。次にどこかへ出かけるときや、塔で暮らすときにも使えると思う」
セリーは小さく笑い、覚え書きの端を指先で押さえた。
「それでしたら、私は今の段階でも十分に嬉しいことがございます。主様と出かけるために考えることが、こんなにも楽しいのだと知ることができましたから」
その言葉が、俺には何より嬉しかった。フェルネへ向かう旅程はまだ白紙に近い。しかし、自分たちが何を大切にしたいのかは、少しずつ明確になっている。それこそが、他人に行き先と日程を決められていた頃との大きな違いなのだ。
夕食の準備をする前、俺は今日の買い物の練習を思い返していた。セリーは、欲しいものを尋ねるだけでなく、今回は買わないと自分で伝えた。小さなことに見えるが、相手の意向に合わせることを優先してきた彼女にとっては、大きな一歩だったのかもしれない。
「セリー。今日の練習、俺は結構楽しかったよ。またやりたくなったら、言ってくれ」
「はい。私も楽しかったです。ですが、次は主様がお店の方に尋ねる練習を、もう少ししてみたいです」
「俺の方も?」
「はい。主様は気になる道具を見つけられますと、きっと詳しいお話を伺いたくなると思います。ですから、ほかのお客様がいらっしゃる場合の声のかけ方も、一緒に考えてみたいのです」
思いがけない提案に、俺は笑ってしまった。なるほど、セリーは自分だけが練習すればよいとは考えていないらしい。俺の癖をよく見ているということでもある。
「それは助かるな。確かに、話に夢中になって店の人を困らせないようにしないと」
「ふふっ。ですが、主様が楽しそうにお話しになるのを、私は見てみたいとも思っております。ですから、無理に我慢していただくのではなく、相手の方も楽しくお話しできるように考えられたら嬉しいです」
「ああ。そういうことなら、ぜひ一緒に考えてほしい」
俺たちは笑い合いながら厨房へ向かった。夕食は、今日も身体の温まるものを中心にすることにした。特別な料理を作るわけではないが、食材の切り方や煮込む順番を相談しながら、二人で少しずつ手を動かしていく。
鍋から湯気が立ち上る頃、セリーがふと、窓際に飾られた花の方へ目を向けた。
「主様。もし秋の市でお花を見つけられましたら、私はお店の方に、育て方を尋ねてみたいです。見た目だけで選んでしまって、塔へ持ち帰ったあとに枯らしてしまうのは悲しいですから」
「それはいいね。どれくらい水が必要かとか、寒さに強いかとか、聞いてみたいことは多そうだ。知らない花だったら、すぐに買わず、説明を聞いてから考えよう」
「はい。もし塔の庭に合わないのでしたら、その場で眺めるだけでもよいと思います。今日の練習で、見送ることも自分で選べるのだと分かりましたので」
俺は包丁を置き、彼女へ微笑んだ。物を買う練習だったはずなのに、実際には買わないことを自分で選ぶ練習にもなっていた。そのことが、どこか今の俺たちらしいと思えた。
夕食を終え、食堂の片づけが済んだ頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。朝から続いていた晴れ間のおかげか、雲はだいぶ薄くなっている。森の向こうには星がいくつか見え、枝が動くたびにその光が隠れたり現れたりしていた。
俺は作業机へ戻り、今日の記録を最後にもう一度確かめた。庭の湿った土は、雨の影響があるため原因の判断を保留。南側の石の台にある線は、濡れた状態ではいつもの位置から形を確かめられなかった。さらに、台の手前に灰色に見える部分があったが、材質も石の台との関係も未確認だ。
何も結論が出ていないようにも見える。しかし、見えなかったことと、新しく見えたことを分けて残せたなら、それで十分なのだと思う。必要なときにはまた確かめられるし、今日の記録が後の判断を助けてくれる可能性もある。
「主様。こちらのお片づけは、もうよろしいでしょうか」
「ああ。今日はこれで終わりにしよう。明日は天気がどうなるか分からないし、また無理のない範囲でできることを考えればいいよ」
「承知いたしました。では、私も自分の記録をしまってまいりますね」
セリーは小さな布袋を持ち上げ、ほんの少しだけためらうような表情をした。その様子に気づいた俺は、何か困っていることがあるのかと尋ねようとしたが、彼女の方が先に口を開いた。
「主様。今日の記録について、一つお願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろん。どうしたんだ?」
「今日は……自分で書いたものを、私だけで大切にしまっておいてもよろしいでしょうか。まだ誰かにお話しするための言葉になっておりませんので、もう少し自分で考えてみたいのです」
俺はその言葉を聞いて、思わず顔をほころばせた。昨日までのセリーは、自分の記録を持つことに少し戸惑いながら、書いたことを俺にも伝えてくれていた。今日はそこから一歩進んで、自分だけで持っていたいと、はっきり口にしてくれたのだ。
「ああ、もちろんだよ。何を書いたか教えなくていいし、後で話したくなったときに聞かせてくれてもいい。セリーの記録なんだから、セリーが決めていいんだ」
「……ありがとうございます。主様がそのように受け止めてくださって、安心いたしました」
「俺の方こそ、ちゃんと伝えてくれてありがとう。自分の気持ちを言葉にするのは、簡単じゃないこともあるからね」
セリーは袋を胸元へ寄せ、少し照れたように笑った。その中にどんな言葉が書かれているのか、俺には分からない。けれど、分からないままで大切にできるものがあってもいいのだと思う。
彼女が袋をしまって戻ってくると、俺たちは窓辺へ移動した。外は冷え始めていたが、室内には夕食のあとに残る穏やかな温かさがある。セリーは俺の隣へ立ち、しばらく夜の森を眺めてから、静かに口を開いた。
「主様。今日、私は買わないということを、自分でお伝えできました。練習でしたけれど、とても嬉しかったです」
「ああ。俺も見ていて嬉しかったよ。でも、最初にやろうって考えたのはセリー自身だろう? そこも忘れないでほしいな」
「はい。私がそうしたいと思って、主様にお願いしました。……それを思い返しますと、少しだけ自信が持てる気がいたします」
彼女の声は穏やかだった。褒められたから嬉しいというだけでなく、自分で考えたことを自分で実行できた喜びが、確かにそこにあるように感じた。
「セリー。俺も今日は一つ、よかったと思えることがあったよ」
「何でございましょうか」
「南側の石の台で、気になるものが見えたときに、そのまま近づかずに戻れたことかな。少し前の俺なら、もう一歩くらいならって考えてたかもしれない」
セリーは俺を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「はい。私も、主様が足元を確かめて立ち止まってくださったことが嬉しかったです。見つけたものを大切にするためにも、主様ご自身の安全を大切にしていただきたいですから」
「ありがとう。これからも、気づいたことがあったら遠慮なく言ってほしい。俺もちゃんと立ち止まって考えるようにするよ」
「はい。私も主様と相談しながら、少しずつ選んでいきたいと思います」
ふと、セリーの手が俺のすぐ近くにあることに気づいた。彼女も同じことを思ったのか、少しだけ視線を落とす。俺がそっと掌を向けると、セリーは嬉しそうに指先を重ねてくれた。
もう、何か特別な理由を考える必要はなかった。そうしたいと互いに思ったから、手をつないでいる。その単純なことを当たり前に受け止められるようになってきた自分が、少し不思議でもあり、嬉しくもあった。
「フェルネ、行けるといいね」
「はい。ですが、主様。もし今回は難しくても、私は今日のことを忘れたくありません。お店の方へ尋ねる練習をしたことも、主様と一緒に考えたことも、私にとって大切な時間でしたから」
「俺もだよ。今回の市に間に合うかどうかと、俺たちが今日過ごした時間の価値は、別のことだからね」
セリーはその言葉を聞いて、ゆっくり微笑んだ。俺はつないだ手の温かさを感じながら、今日の出来事を思い返す。雨のあとに見えた灰色の部分も、練習用の小さな店も、どちらも初めから予定していたものではなかった。
それでも、今日は昨日とは違う一日になった。分からないことを一つ増やし、できることも一つ増やした。そして何より、セリーが自分のために記録をしまっておきたいと伝えてくれたことが、俺の中で大きく残っている。
(自由に生きるって、こういうことなんだろうな)
好きな場所へ行くことだけではない。知りたいことを調べ、やりたいことを試し、やめておこうと思ったら自分でやめる。それから、誰にも見せずに大切にしておきたい気持ちを持つことも、きっとその一つなのだろう。
「そろそろ休もうか。明日も、今日とは違うことが見つかるかもしれないし」
「はい。主様も、どうぞゆっくりお休みくださいませ。明日はお天気がよろしければ、また庭のお花を見に行きたいです」
「ああ。安全に歩けそうなら、一緒に行こう。花がどうなってるか、俺も気になるからね」
手を離すと、セリーは穏やかに一礼した。いつもの丁寧な仕草だったが、その後に見せた微笑みは、決められた役目を果たした者の顔というより、自分で選んだ一日を楽しんだ人のものに見えた。
自室へ戻った俺は、寝台の近くに置いた布袋へ目を向けた。縫い目は相変わらず少し不揃いで、折り返し方もまだ使いながら確かめている途中だ。それでも、今日も役に立ってくれた大切な道具だった。
フェルネの秋の市は、予定どおりなら十四日ほど先に開かれる。しかし、移動経路も宿泊先も十分には確認できておらず、俺たちが出かけられるかどうかは、まだ決まっていない。
南側通路の石の台には、正体の分からない細い線があり、今日新たに気づいた灰色の部分も、何なのか分からないままだ。これから先、何かの手がかりになるかもしれないし、そうではないかもしれない。
それでも俺は、明日を楽しみに思えた。答えを急がなくても、自分で選べることがある。隣で一緒に考えてくれる相手もいる。
(明日は、セリーと何を見つけるんだろう)
窓の向こうに広がる夜の森へ最後に目を向け、俺は静かに灯りを落とした。古の塔には、雨のあととは思えないほど穏やかな夜が訪れている。
まだ知らない町へ出かける未来も、二千年前の遺産に隠された謎も、今はすべて遠くにある。けれど、そこへ向かうための日々は、もう始まっていた。
俺はその一日一日を、これからも大切にしていきたい。セリーとともに、自分たちの意思で選びながら。




