第164話 雨上がりの塔に届いた道の知らせと、二人で決める初めての約束
朝、目を覚ました俺の耳に届いたのは、窓の外で水滴が落ちる小さな音だった。
昨日まで聞こえていた強い風の音とは違い、今朝の森は不思議なほど静かだった。寝台から身体を起こして窓へ近づくと、ガラスの向こうには雨に濡れた木々が広がり、枝先に残った水滴が朝の淡い光を受けて輝いている。地面には黄色や赤の落ち葉が張りつき、昨日までとは少し違う秋の景色になっていた。
どうやら、夜の間に雨が降ったらしい。
窓を開けずに外の様子を眺めていると、葉の先から落ちた雫が、下にある別の葉へ触れて小さく弾けた。その音は微かだったが、風が弱まっている今朝の静けさの中では、妙にはっきりと聞こえた。
(昨日のうちに外の記録を済ませておいてよかったな)
昨日はセリーと二人で小さな布袋を作り、それを使って庭や南側通路の様子を確かめた。
古い石の台に見える細い線については、朝と午後で見え方が違うことを確認できたものの、それ以上のことは分かっていない。石に加工された溝なのか、自然に生じた亀裂なのか、あるいは表面の色の違いにすぎないのか、まだ判断できる材料が足りなかった。
そして、今日のような雨上がりには、昨日までとは違う条件が加わることになる。
水に濡れた石は乾いているときと色が変わるし、表面の細かな凹凸も見え方が違ってくるだろう。だからといって、すぐに確かめに行こうとは思わなかった。
足元が濡れているうえ、昨日から落ち葉が増えている。
今の俺たちにとって、わざわざ危険を冒してまで確認しなければならない理由はないのだから。
(今日は、塔の中でできることを進めるのがよさそうだな)
そんなことを考えながら身支度を整えていると、扉の向こうから控えめな声が聞こえてきた。
「主様。おはようございます。お目覚めでしょうか」
「ああ、おはよう、セリー。もう起きてるよ」
「おはようございます。昨夜は雨が降りましたので、外の地面が濡れております。今朝は少し冷え込んでおりますが、お身体の調子はいかがでしょうか」
「問題ないよ。さっき窓から外を見ていたところなんだ。ずいぶん静かになったね」
「はい。夜の間は風もございましたが、今は落ち着いているようです。ただ、雨が上がったばかりですので、足元には注意が必要かと思います」
「そうだね。今日は急いで外へ出る必要もないし、まずは朝食にしようか」
「はい。温かいものをご用意しておりますので、どうぞ食堂へお越しくださいませ」
扉の向こうから離れていく足音を聞きながら、俺は上着の襟元を整えた。
セリーの声は、いつもと変わらず穏やかだった。
けれど最近、その言葉の中に、以前よりも彼女自身の考えが含まれるようになっていることに気づく。
俺の身を案じてくれることは以前から変わらない。しかし、今では天候や作業の予定について、彼女の方から意見を伝えてくれることが増えてきた。
それが、俺には嬉しかった。
食堂へ向かう途中、昨日使った作業机が視界に入った。
机の端には、俺が作った少し大きめの布袋が置かれている。
紙を入れられるように三方を縫い合わせたもので、縫い目にはまだ少し不揃いなところが残っていた。口の折り返しも、実際に持ち歩いた際には少し緩むことが分かっている。
完成品としては、まだ改善の余地がある。
それでも、俺はその袋を見るたびに、昨日セリーと一緒に布を折り、縫い目を確かめながら作業した時間を思い出していた。
(今日も少し使ってみようかな)
そう考えてから、俺は食堂へ足を向けた。
食卓には、焼いたパンと温かなスープ、それから簡単な付け合わせが並んでいた。
窓際に飾られた花は昨日と変わらず、今朝も穏やかな彩りを添えている。ただ、窓の外が雨に濡れているためか、室内の光は少し柔らかく、いつもより落ち着いた雰囲気に感じられた。
「主様。今朝は少し具を細かくして、食べやすいスープにしてみました。温かいうちに召し上がってくださいませ」
「ありがとう。セリーも一緒に食べよう」
「はい。ありがとうございます」
向かい合って席に着き、俺たちは朝食を始めた。
スープを一口飲むと、野菜の甘みと温かさがゆっくりと広がった。昨日の夕食とは少し味つけが違い、朝の身体にも負担なく食べられるように考えられていることが伝わってくる。
「うん、美味しい。昨日の夜とはまた違う味だね」
「お気づきになりましたか。今朝は少しだけ調味料の加え方を変えてみました。まだ試している途中ですので、ご感想を伺えたら嬉しいです」
「そうなんだ。俺はこっちも好きだよ。朝なら、これくらい優しい味の方が食べやすいかもしれない」
セリーは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。では、今後も朝食に合う味つけを少しずつ考えてみたいと思います」
「楽しみにしてるよ。でも、セリー自身が美味しいと思うものも作ってほしいな」
「はい。もちろんでございます。実は、私も最近、自分がどのような味を好むのか考えることが楽しくなってまいりました」
その言葉を聞いて、俺は自然と笑みを浮かべた。
「それならよかった。好きな味が違ったら、両方作ってみるのも面白そうだな」
「ふふっ。そうですね。主様と私で感想が違いましたら、その理由についてお話しするのも楽しそうです」
食事をしながら、俺たちは昨夜の雨について話した。
セリーによると、夜の間には何度か強い雨音が聞こえたらしい。塔の内部に異常は確認されていないものの、外の入口付近には風で運ばれた落ち葉が集まっているようだという。
「入口の近くなら、あとで様子を見ておこうか。落ち葉が濡れたまま重なっていると、滑りやすそうだし」
「はい。ですが、まずは地面の状態を確かめてからにいたしましょう。無理に作業をする必要はございませんので」
「ああ。今日は南側通路まで行かなくてもいいと思ってる。昨日の雨で、足元の状態も変わってるだろうし」
「私も、その方がよいと思います。石の台については、すでに観察記録を残しておりますから」
俺は頷いた。
少し前までなら、新しい手がかりを見つけたことで、早く続きを調べたいと思っていたかもしれない。
今も興味はある。
けれど、それ以上に、調査を続けられる環境を大切にしたいと考えるようになった。
石の台は、今日調べなくても明日以降に確かめられる。
もちろん、時間が経てば何かが変化する可能性もあるが、そのために危険な足場へ踏み込むことが正しいとは限らない。
今は、判断できる材料を少しずつ増やしていけばいい。
朝食を終えると、俺たちは食堂の片づけを済ませ、作業机へ向かった。
机の上には、昨日整理した南側通路の記録と、秋の市についての覚え書きが保管されている。
俺はまず、昨日作った布袋を手に取った。
紙を入れて口を折り返す。
そのまま軽く傾けてみると、やはり昨日と同じように折り返しが少し緩んだ。
「うーん。昨日は問題ないと思ったけど、何度も使うなら少し気になるな」
俺が呟くと、セリーが隣へやってきた。
「主様。口の部分でございますか?」
「ああ。紙がすぐ落ちるわけじゃないけど、歩きながら使うには少し不安があるんだ。特に、雨が降って慌ててしまったときなんかは、きちんと閉じられる方がいいと思って」
「そうですね。ですが、強く留めすぎますと、今度は紙を取り出す際に手間がかかるかもしれません」
「そこが難しいところだね」
俺は袋を開き、折り返しの部分をもう一度見た。
単純に縫い合わせてしまえば、紙が飛び出すことは減るだろう。
しかし、それでは出し入れが難しくなる。
紐をつける方法も考えられるが、毎回結び直すのは手間がかかりそうだった。
セリーは布の端を指先で持ち上げ、少し考え込んでいる。
「主様。以前、記録板の留め具を調整したときにも、同じようなことを考えましたね」
「使いやすさと、しっかり固定することの両立か」
「はい。あのときも、強く押さえればよいというものではありませんでした。今回も、今の形を大きく変える前に、折り返す位置を少し調整してみてはいかがでしょうか」
「なるほど。それなら布を切ったり、新しい部品をつけたりしなくて済むな」
俺はセリーに教えてもらいながら、口の部分を折り返す位置を少しずらしてみた。
最初は大きな違いがないように思えた。
しかし、折り返しを深くしすぎないようにして、袋の中身が偏らない位置を探してみると、先ほどよりも収まりがよくなった。
「……あれ。これだけでも結構違うな」
「はい。今のところ、先ほどより緩みにくくなっているように見えます」
「でも、実際に歩いたらどうなるかは分からないね」
「そのとおりでございます。ですので、すぐに縫い直すのではなく、しばらくこの形で使ってみるのがよろしいかと思います」
俺は頷き、袋を机の上へ戻した。
何かを改善しようと思ったとき、必ずしも新しいものを加える必要はない。
すでにあるものの使い方を少し変えるだけで、問題が小さくなることもあるのだろう。
「ありがとう、セリー。今日も助かったよ」
「いいえ。私も、主様と一緒に考えることができて楽しかったです」
そう答えた彼女は、少し考えるように自分の手元へ目を落とした。
「実は、私の袋についても、少し気づいたことがございます」
「そうなのか?」
「はい。昨日、筆記具を一緒に入れた際に、少し窮屈に感じました。ですので、今日は入れるものを分けてみようかと考えております」
セリーはそう言って、自分の小さな布袋を取り出した。
昨日、彼女自身が使うために作ったものだ。
俺の袋より少し小さく、縫い目も丁寧に整っている。
彼女は中から小さな紙を取り出すと、それを机の上へ置いた。
「こちらには、私が昨日書いた記録が入っております。筆記具まで一緒に入れると取り出しにくくなってしまいましたので、記録用の紙だけを収めてみたいのです」
「それもいいと思う。無理に全部入れようとしなくてもいいしね」
「はい。それから……主様」
セリーはそこで一度言葉を切った。
俺が顔を向けると、彼女は少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「昨日、主様がおっしゃってくださったことを、考えておりました」
「昨日?」
「はい。私が自分で書いた記録は、必ずしもすべて主様へお見せする必要はないと、おっしゃってくださったことです」
俺は静かに頷いた。
あのとき、セリーは自分のために記録を残してみたいと言っていた。
それなら、その内容を俺へ報告する義務まで感じてほしくはなかった。
もちろん、彼女が話したいと思うことは聞きたい。
しかし、自分のために書いたものを、自分で大切にする時間もあっていいはずだ。
「何か気になることがあった?」
そう尋ねると、セリーは少し考えてから答えた。
「いいえ。不安なのではございません。ただ、私にとっては、とても新しい考え方でしたので……」
彼女は机の上の紙へ視線を落とした。
「これまでは、何かを記録するのでしたら、主様のお役に立つためのものだと考えておりました。ですが、昨日は私自身が覚えておきたいことを書きました。それを、すぐに誰かへお伝えしなくてもよいのだと思うと、少し不思議な気持ちになったのです」
「うん」
「それでも、私が書いたことを主様にも知っていただきたいと思う場合には、私からお話ししてもよろしいのでしょうか」
「もちろんだよ。聞かせてもらえるなら嬉しいし、そうじゃないときも無理に尋ねるつもりはないから」
セリーは安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます。では、昨日の記録のうち、一つだけお話ししてもよろしいでしょうか」
「ああ。ぜひ聞かせてほしいな」
彼女は小さな紙を持ち上げた。
そして、そこに書かれた内容を確かめながら、ゆっくりと口を開いた。
「昨日は、主様と一緒に作った袋を初めて使いました。落ち葉の様子も記録しましたけれど、私が一番覚えておきたいと思ったのは、主様が私のための袋を一緒に作ってくださったことでした」
俺は何も言わず、続きを待った。
「主様のお品を作るだけではなく、私が使うものについても、一緒に考えていただけました。そして、私が自分で選んだ形を、よいものだとおっしゃってくださいました」
彼女の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「ですので、昨日の記録には……私が自分のために選んだものを、主様と一緒に作れた日、と書きました」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が温かくなった。
俺にとっては、小さな布袋を二つ作っただけの一日だった。
もちろん楽しかったし、セリーが喜んでくれたことも嬉しかった。
しかし、彼女はその出来事を、自分で何かを選べた日として記録していたのだ。
「……いい記録だね」
俺がそう言うと、セリーは少し頬を赤くした。
「ありがとうございます。主様にそうおっしゃっていただけて、嬉しいです」
「でも、それはセリーが自分で見つけた大切なことだよ。俺がどう思うかに関係なく、これからも残していってほしいな」
彼女はしばらく俺を見つめ、それからゆっくりと頷いた。
「はい。私も、そのようにしたいと思います」
その笑顔を見ながら、俺はふと思った。
秋の市へ出かけることができたなら、きっとセリーは今まで知らなかったものをたくさん見ることになる。
そして、その中には俺とは違うものを気に入ったり、俺が気づかなかったことを大切に思ったりする場面もあるだろう。
それが楽しみだった。
ただ一緒に歩くだけではなく、互いの目に映ったものを教え合える。
そんな外出ができたなら、きっと忘れられない思い出になるはずだ。
午前の作業を終えた頃、俺たちは入口付近の様子を確かめることにした。
雨はすでに上がっていたが、外の石畳にはまだ水が残っている。
扉を開ける前に足元を確認すると、敷居の近くには風で運ばれた落ち葉がいくつも重なっていた。
「結構集まってるな。昨日はこんなに多くなかったと思うけど」
「はい。昨夜の風と雨で運ばれてきたものと思われます。特に扉の脇には、水を含んだ葉が重なっておりますね」
俺は少し離れた位置から様子を眺めた。
濡れた葉は地面へ張りつき、その下にある石の状態が分かりにくくなっている。
入口は普段から使う場所だ。
ここで足を滑らせるようなことがあれば、日々の暮らしにも支障が出てしまう。
「ここは少し片づけておいた方がよさそうだね」
「はい。ただし、濡れた石の上で無理に作業をするのは危険ですので、手の届く範囲から始めましょう」
「分かった。まずは道具を持ってこようか」
俺たちは塔の中へ戻り、普段使っている掃除道具を用意した。
古い魔導具を使う必要があるような作業ではない。
落ち葉を集め、入口の近くを歩きやすくするだけだ。
それでも、雨上がりの地面には気をつけなければならない。
セリーと相談しながら、俺たちは濡れていない場所を足場にして、届く範囲の落ち葉を少しずつ集めた。
湿った葉は乾いたものより重く、掃き寄せる際にも地面へ張りついて動きにくい。
「思ったより手間がかかるな」
「はい。乾いた葉でしたら風で動きやすいのですが、水を含んでおりますので、少しずつ集めた方がよさそうです」
「そうだね。無理に一度で片づけようとしなくてもいいし」
俺は道具を動かしながら、入口の敷居へ視線を向けた。
落ち葉を取り除くと、石の表面が少し見えやすくなった。
ただし、その周囲にはまだ濡れた部分が残っている。
すべてを乾かすことなど、今すぐにはできない。
「今日はここまでにしようか。普段通るところは見えるようになったし、残りは地面が乾いてからでもいいだろう」
「はい。私も、その方がよいと思います。主様、お疲れではございませんか?」
「大丈夫だよ。少し身体を動かしたくらいだからね」
そう答えると、セリーは安心したように微笑んだ。
「それでしたら、よかったです。私も、入口が歩きやすくなって嬉しいです」
俺たちは集めた落ち葉を邪魔にならない場所へ移し、使った道具を片づけた。
入口の周辺をもう一度確かめると、まだ湿り気はあるものの、どこを歩けばよいか分かりやすくなっている。
たったそれだけの作業だった。
しかし、実際に自分たちで暮らす場所を整えてみると、小さなことにも意味があるように感じられる。
(こういうことも、王宮では誰かがやってくれてたんだよな)
俺が起きる頃には、通路は整えられていた。
雨が降った翌朝も、庭へ続く道は誰かの手によって歩きやすくされていたはずだ。
それを当たり前だと思っていた自分を、少し恥ずかしく感じる。
今なら、その作業にどれほどの手間がかかるのか、少しだけ分かる気がした。
「セリー。こうやって自分で掃除してみると、今まで気づかなかったことが分かるな」
「はい。入口の落ち葉も、昨日まではそれほど気になりませんでした。ですが、雨が降ると歩きにくさにつながることがあるのですね」
「ああ。知らない町へ出かけるなら、こういうことも気をつけないといけないんだろうな」
俺がそう言うと、セリーは少し考えるように頷いた。
「秋の市へ向かう道も、雨の後には歩きにくくなる場所があるかもしれませんね」
「そうだね。道があるからって、いつでも通れるとは限らないし」
俺たちは顔を見合わせた。
まだ知らないフェルネという町。
そこへ続く道がどんなものなのか、現時点では詳しく分かっていない。
昨日までの俺は、主に移動距離や宿泊のことを考えていた。
しかし今朝、塔の入口で落ち葉を片づけただけでも、道の状態が天候によって大きく変わることを改めて実感した。
安全を確かめるというのは、単に目的地まで道が続いているかを調べるだけではないのだろう。
昼食を終えたあと、俺たちは秋の市についての覚え書きを開いた。
昨日ブラートから教えてもらった内容を、もう一度確かめる。
町の名前はフェルネ。
秋の市は、昨日より二日前に届いた情報を基準にすると、今日から十五日後に始まる予定だ。
開催期間は二日間。
ただし、塔からの距離や現在の移動経路、宿泊できる場所については、まだ確かな情報が得られていない。
「こうして見ると、日程まではあまり余裕がないんだな」
俺が呟くと、セリーも紙へ目を向けた。
「はい。ですが、移動に必要な日数が分からない以上、間に合うかどうかも判断できませんね」
「ああ。仮に数日かかる場所だったら、準備の時間も考えないといけないし」
「それに、往復の道や宿泊先が確認できなければ、出発することは難しいと思います」
「そうだね。行ってみたい気持ちはあるけど、そこは譲れないな」
俺は覚え書きの余白へ、新しい項目を書き加えた。
雨の後でも安全に通れる道であること。
それから、途中で天候が悪くなった場合に、無理をせず予定を変更できること。
セリーはその文字を眺め、少し嬉しそうに微笑んだ。
「主様。こうして一つずつ考えていると、ただ秋の市へ行くことだけではなく、そこから無事に帰ってくることも大切なのだと分かります」
「ああ。俺にとっては、そこまで含めて外出だからね」
「はい。私も、主様と一緒に塔へ帰ってきたいです」
その言葉に、俺は自然と頷いた。
「俺もだよ。ここへ帰ってきて、フェルネで見たものについて話したいからね」
セリーは少しだけ頬を赤くした。
「ふふっ。私も、その時間を楽しみにしております」
俺たちはしばらく、紙の上に並んだ確認事項を見つめていた。
以前なら、自由に出かけるという言葉には、もっと気楽な印象を持っていたかもしれない。
しかし実際には、自分で選ぶからこそ、自分で責任を持って考える必要がある。
それは少し面倒なことでもある。
けれど、不思議と窮屈には感じなかった。
(自由って、何も考えずに好きなことをするって意味じゃないんだろうな)
自分で考え、必要なら諦めることも含めて、選ぶことができる。
そのことが、今の俺には大切だった。
そんなことを考えていたときだった。
机の端に置いていた通信の魔導具が、控えめな反応を示した。
俺とセリーは、ほとんど同時に顔を上げた。
「……通信だな」
「はい。ブラート様からでしょうか」
「確認してみよう」
俺は魔導具へ手を伸ばし、届いた通信の差出人を確かめた。
表示されていた名前は、予想どおりブラートだった。
ただし、急ぎの知らせを示すような反応ではない。
昨日までと同じく、個人的なやり取りとして届いた通信だった。
「セリー。一緒に読もうか」
「はい。ありがとうございます」
彼女が隣へ来たのを確かめてから、俺は通信の内容に目を通した。
冒頭には、昨日の返事への礼が記されていた。
そして、秋の市が開かれるフェルネについて、さらに少し情報を得られたと続いている。
俺は思わず背筋を伸ばした。
ブラートによれば、フェルネは商人たちが利用する街道から、途中で分かれる道を進んだ先にある町らしい。
その道は現在も荷馬車が通ることがあると聞いているものの、街道の分岐から町へ向かう区間には、雨の後にぬかるみやすい場所があるという。
ただし、その情報は実際に直近の道路状況を確認したものではなく、商人たちから聞いた話を整理した段階らしい。
さらに、塔からどこで街道へ合流すればよいのか、そこまでの経路については、まだ調べがついていないと書かれていた。
「……なるほど。少し分かってきたな」
俺が呟くと、セリーが静かに頷いた。
「はい。フェルネへ向かう道の一部について、現在も利用されているというお話があるのですね」
「ああ。でも、実際に安全に通れるかどうかは別だな。今朝みたいに雨が降った後だと、道の状態も変わるだろうし」
「はい。特に、町へ向かう最後の区間については注意が必要かもしれませんね」
俺は通信の続きを読んだ。
ブラートは、秋の市が開かれる予定であることについては改めて確認できたらしい。
ただし、町の宿泊施設については十分な情報が得られておらず、市の開催期間中に部屋を確保できるかどうかも分かっていない。
また、商人が利用する道があるということと、俺たちが塔から安全に移動できるということは別問題であるため、今の段階で出発の判断をしないようにと、丁寧に添えられていた。
「ブラートも、かなり慎重に考えてくれてるみたいだな」
「はい。主様の安全を大切にしてくださっていることが伝わってまいります」
「本当にありがたいよ。俺たちだけじゃ、今の街道の様子なんて分からないからね」
俺は通信をもう一度読み返した。
今回得られた情報は、決して十分なものではない。
しかし、昨日までは町の名前と開催予定日しか分からなかった。
それが今では、商人たちが使う街道から分かれた道を進む町であり、雨の後にはぬかるみやすい場所があるらしいということまで分かった。
それだけでも、考えるべきことは以前より具体的になった。
「でも、やっぱり塔からそこまで行く道が分からないんだよな」
「はい。フェルネへ向かう道の一部が分かっても、そこへたどり着くための経路が確認できなければ、移動の計画は立てられません」
「そうだね。それに、仮に道が分かっても、どのくらい時間がかかるのか、途中で休める場所があるのかも確かめたい」
セリーは俺の言葉を聞きながら、少し考え込んだ。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「主様。一つだけ、気になっていることがございます」
「何だい?」
「フェルネの秋の市は、二日間の開催予定なのですよね」
「ああ。そう聞いてるよ」
「でしたら、仮に安全な道が確認できたとしても、到着する時間によっては十分に見て回れない可能性があるのではないでしょうか」
俺は思わず頷いた。
「……確かに。移動時間が長かったら、着いた頃には市が終わりかけてるかもしれないな」
「はい。そうなりますと、主様もお疲れでしょうし、無理に見て回ることになってしまうかもしれません」
俺は少し考えた。
秋の市へ行くこと自体が目的になってしまえば、たとえ短い時間しかなくても、無理に予定を詰め込もうとしてしまう可能性がある。
しかし、俺たちが本当に望んでいるのは、そういう外出ではない。
セリーと並んで歩き、気になる品物を見つけたら立ち止まり、互いの感想を話しながら過ごすこと。
そのための時間が取れないのであれば、せっかく出かけても、望んでいたものとは違う一日になってしまうかもしれない。
「そうだな。移動だけで疲れ切って、そのまま帰ってくるようなことは避けたいね」
「はい。私も、主様とゆっくり過ごせる時間を大切にしたいです」
「ありがとう、セリー。そこは俺も同じだよ」
俺は覚え書きへ、新しい項目を書き加えた。
現地で無理なく過ごせる時間を確保できること。
ただたどり着ければよいのではなく、帰りのことまで考えたうえで、余裕のある予定を立てられること。
書き終えた文字を眺めていると、セリーが少し照れたように微笑んだ。
「主様。私、何だか少し贅沢なことをお願いしてしまったような気がいたします」
「どうして?」
「秋の市へ行けるだけでも嬉しいはずなのに、ゆっくり見て回りたいとまで思ってしまいましたので……」
俺は首を横に振った。
「それくらい望んでもいいと思うよ。せっかく二人で出かけるんだから、楽しい時間にしたいのは当たり前だろう?」
「……はい」
「それに、俺だって同じだよ。気になる道具を見つけたら、作った人の話を聞いてみたいし、セリーが気に入った花があったら、一緒に見てみたい。急いで通り過ぎるだけじゃ、もったいないと思うんだ」
セリーは俺を見つめ、やがて柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、主様。私も、そういう時間を過ごしてみたいです」
その言葉を聞きながら、俺は改めて覚え書きを眺めた。
フェルネへ行くことができるかどうかは、まだ分からない。
けれど、俺たちがどのような外出を望んでいるのかは、少しずつはっきりしてきた。
それは単なる移動計画とは違う、大切な準備なのだと思った。
通信を読み終えたあと、俺たちはエルにも意見を求めた。
「エル。今の情報について、何か確認しておいた方がいいことはあるかな」
『主様。現時点で得られている情報は、フェルネへ至る経路の一部に関する伝聞です。塔からの合流地点、移動手段、所要時間、途中の安全性、宿泊の可否については、引き続き確認が必要と考えられます』
「やっぱり、まだ決められる段階じゃないな」
『はい。また、商人が利用している道であっても、天候や時期によって通行状況が変化する可能性があります。現在利用されているという情報のみをもって、安全を保証することはできません』
「分かった。そこは気をつけよう」
俺は腕輪へ視線を落とした。
エルには、二千年前の魔導具師が残した資料について相談できる。
しかし、今の世界で使われている道や、現在の町の状況について、すべてを把握しているわけではない。
だからこそ、古い情報と今の情報を分けて考える必要があるのだ。
「ちなみに、塔に残されている古い経路の記録についても、フェルネと結びつけることはできないんだよな?」
『はい。現時点では、古代の記録に記載された地形や経路と、現在のフェルネおよび周辺街道との対応関係を特定する根拠が不足しております』
「ああ。なら、無理に結びつけないようにしよう」
セリーも頷いた。
「石の台についても同じですね。古い図面に作業台や通路の記録があるからといって、今見つけた石の台がその一部だと決まったわけではございません」
「そうだね。今は分かってることだけ残しておけばいい」
そう話しているうちに、俺は一つのことに気づいた。
南側通路の石の台と、フェルネへ向かう道。
一見すると、まったく別の話だ。
しかし、どちらについても、俺たちは同じように考えようとしている。
目の前にある情報を大切にすること。
分からないことを、勝手に決めつけないこと。
そして、必要なら急がずに調べること。
古代の遺産を調査することと、初めての町へ出かけることが、こんなところでつながるとは思わなかった。
(考えてみれば、どっちも知らないことを知ろうとしてるんだよな)
そう思うと、少し可笑しかった。
俺はかつて、王太子として多くのことを学んできた。
歴史や政治、外交、経済に関する知識を身につけることは、当然の務めだった。
けれど、今のように、自分が興味を持ったことについて自分の意思で調べ、その過程を楽しむ経験は、思っていたほど多くなかったのかもしれない。
今は違う。
誰かに成果を示すためではなく、自分たちが知りたいから調べている。
その自由が、俺には心地よかった。
しばらくして、セリーが覚え書きから顔を上げた。
「主様。もう一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「ああ。何でも聞いて」
「もし秋の市へ行けることになりましたら、私もお店の方と直接お話ししてみたいと思っております」
「うん。昨日もそんな話をしてたね」
「はい。ですが、今日はもう少し具体的に考えてみたのです」
彼女は少しだけ恥ずかしそうに視線を落とした。
「私……もし気に入ったものがございましたら、自分でお店の方にお願いして、購入してみたいのです」
俺は一瞬、言葉を止めた。
セリーが自分で品物を選ぶことについては、これまでも何度か話している。
しかし、実際に店の人とやり取りをして、自分で購入するところまで考えていたとは思わなかった。
「いいじゃないか。俺も、その方が楽しいと思うよ」
「本当でございますか?」
「ああ。セリーが欲しいと思ったものなら、セリー自身で選んで、店の人と話してみるのもいい経験になるんじゃないかな」
そう答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
けれど、すぐに少し考え込むような表情になる。
「ですが……お金のことについては、まだよく考えなければなりませんね」
「ああ。そこは俺も気になってた」
俺は腕を組み、少し考えた。
町へ出かけることになれば、移動や食事、場合によっては宿泊にも費用がかかる。
さらに、秋の市で何かを購入するのであれば、そのためのお金も必要になる。
今ある資金をきちんと確かめたうえで、無理のない範囲を考えなければならないだろう。
「まずは、必要になる費用を整理しよう。移動や宿泊にどれくらいかかるか分かってから、買い物に使える分を考えればいいと思う」
「はい。私も、その方がよいと思います」
「それから、もし買い物ができるくらいの余裕があったら、セリーが自分で使う分についても、一緒に考えようか」
そう言うと、彼女は少し驚いたように顔を上げた。
「私が、自分で使う分……でございますか?」
「ああ。もちろん、何でも好きなだけ買えるって意味じゃないよ。でも、セリーが自分で選んでみたいなら、最初から全部俺が決める必要はないだろう?」
セリーはしばらく黙っていた。
その瞳には、戸惑いと期待が入り混じっているように見えた。
「……主様。私、本当にそのようにしてもよろしいのでしょうか」
「もちろん。まだ実際にいくら使えるかは分からないけどね」
俺は少し笑って続けた。
「それに、無理して何か買う必要もないよ。気になるものを見つけても、予算に合わなかったら見送ればいい。何も買わずに帰ってきても、楽しかったと思える外出にしたいからさ」
セリーはゆっくりと頷いた。
「はい。私も、そうしたいと思います」
そして、少しだけ微笑む。
「ですが、もし何かを購入できるのでしたら、私もお店の方へ代金をお渡ししてみたいです。自分で選んだものを、自分の手で受け取るということを、経験してみたいのです」
その声には、確かな意思が込められていた。
俺は自然と笑みを浮かべた。
「うん。いいと思うよ。もしその機会があったら、隣で見てるから」
「ありがとうございます。ですが、主様がお隣にいらっしゃると、少し緊張してしまうかもしれません」
「そうなのか?」
「はい。失敗してしまったところをお見せしたら、恥ずかしいと思ってしまいそうですので……」
セリーは困ったように笑った。
その表情が少し可愛らしくて、俺もつられて笑ってしまう。
「大丈夫だよ。俺だって、王宮にいた頃は自分で買い物をする機会が少なかったから、今でも慣れてないことはあるし」
「主様も、でございますか?」
「ああ。店の人と話すのは慣れていても、普通に品物を選んで買うとなると、知らないこともあるんだ。だから、一緒に慣れていけばいいと思う」
セリーは俺を見つめ、やがて嬉しそうに頷いた。
「……はい。では、もし秋の市へ行けましたら、私も勇気を出してみたいと思います」
「うん。楽しみにしてるよ」
その言葉を交わしたあと、俺たちは改めて覚え書きを整理した。
秋の市へ行けるかどうかは、まだ決まっていない。
しかし、行ける場合には、二人とも自分で気になったものを選び、無理のない範囲で買い物を楽しんでみたい。
その希望も、記録の中へ加えることにした。
午後も少し進んだ頃、窓の外から柔らかな日差しが差し込み始めた。
朝から残っていた雲が少しずつ薄くなり、雨に濡れた森の木々が光を受けている。
外へ出れば、まだ地面は湿っているだろう。
けれど、窓から眺める景色には、朝とは違う明るさが戻ってきていた。
「主様。少し日が差してまいりましたね」
「ああ。朝は曇ってたけど、だいぶ明るくなったな」
「はい。ですが、今日はこのまま屋内で過ごしてもよろしいでしょうか」
俺は少し驚いてセリーを見た。
彼女が自分から、今日は外へ出ずに過ごしたいと口にしたからだ。
「もちろんだよ。何か気になることがある?」
「いえ。特別な問題があるわけではございません。ただ、今日は雨上がりで地面が濡れておりますし、午前中には入口の落ち葉も片づけましたので、無理に外へ出なくてもよいと思いまして」
セリーは少し照れたように微笑んだ。
「それに……主様と一緒に、今日いただいた通信の内容をもう一度整理してみたいのです」
「そういうことか。それなら、俺も賛成だよ」
俺は椅子を引き、机の前へ座った。
セリーも隣へ腰を下ろす。
机の上には、フェルネについての覚え書きが置かれていた。
町の名前と開催予定日。
商人たちが利用する街道から分かれた先にあること。
そして、雨の後に道がぬかるみやすい場所があるらしいこと。
その一方で、塔から街道へ合流する道、移動時間、宿泊の可否については、まだ確認できていない。
「こうして見ると、今必要なのは新しい道具を作ることより、情報を集めることだな」
俺がそう言うと、セリーも頷いた。
「はい。道具の準備は、塔で使うものを整えることにもつながりますので無駄にはなりませんが、外出するかどうかを決めるためには、別の情報が必要でございますね」
「そうだね。まずは安全に行けるかどうか。それから、無理なく帰ってこられるかどうかだ」
「はい。そして、主様が心配されていたことも、忘れてはいけないと思います」
俺はセリーへ顔を向けた。
「俺が心配していたこと?」
「主様のお顔をご存じの方が、秋の市にいらっしゃる可能性でございます」
俺は小さく息を吐いた。
「ああ……そうだったね」
王都から離れた町だとしても、俺が元王太子であることを知っている者が絶対にいないとは言えない。
フェルネがどのような町なのかも、まだ分かっていない。
商人が集まる場所なら、王都から来る者がいる可能性もあるだろう。
もちろん、それだけで俺の存在に気づかれると決まったわけではない。
しかし、過去の立場が思わぬ形で影響する可能性は考えておく必要がある。
「そこも、やっぱり気になるな」
「はい。ですが、主様」
セリーは俺の方へ身体を向けた。
「私は、主様がそのことを心配していらっしゃるからといって、外出そのものを諦めなければならないとは思っておりません」
「……うん」
「ただ、主様が安心して過ごせるかどうかを、きちんと考えたいのです。せっかく秋の市へ行けたとしても、周囲の人々を気にしてばかりでは、主様も楽しく過ごせないかもしれませんから」
その言葉を聞いて、俺はしばらく考え込んだ。
確かに、セリーの言うとおりだった。
俺が自由に暮らしたいと思ったのは、誰にも見つからない場所へ隠れ続けたかったからではない。
自分の意思で暮らし方を選びたいと思ったからだ。
だからこそ、過去の立場に縛られすぎることも、できれば避けたい。
しかし同時に、今の暮らしを危険にさらすような行動はしたくない。
「……難しいところだな」
俺が呟くと、セリーは静かに頷いた。
「はい。ですが、今すぐ答えを出す必要はないと思います」
「そうだね。町の様子がもう少し分かれば、判断できることも増えるかもしれない」
「はい。私も、主様と一緒に考えてまいります」
その言葉が、何より心強かった。
俺は覚え書きの余白に、町の人出や王都からの来訪者についても、分かる範囲で確認することを書き加えた。
ただし、それだけで安全を保証できるわけではない。
あくまで判断材料の一つとして扱うことにした。
しばらくして、俺たちはブラートへの返信を考え始めた。
今回も、知らせてくれたことへの感謝を最初に記す。
次に、現在の道の状況や移動時間、宿泊の可否について分かることがあれば教えてほしいと伝える。
そして、雨の後にぬかるみやすい場所があるという情報も、判断の際に大切にしたいことを書き添えた。
「ブラートにも無理はしてほしくないから、確認できる範囲でいいって伝えておこう」
「はい。私も、その方がよいと思います。主様のために調べてくださっていることには感謝しておりますが、ブラート様ご自身のご負担も考えたいです」
「ああ。本当にありがたいよ」
俺は文面を整えながら、ふと王宮にいた頃のことを思い出した。
あの頃、誰かが俺のために動くことは、当然のように扱われていた。
もちろん、役目として働く者たちがいたことは理解している。
けれど、その一人一人に時間があり、事情があり、自分の生活があるということを、どれほど意識できていただろうか。
今の俺には、ブラートがこうして個人的に情報を集めてくれていることが、とてもありがたく感じられる。
だからこそ、彼の厚意に甘えすぎたくはなかった。
「……よし。これでどうかな」
文面を読み返したあと、俺はセリーへ見せた。
彼女は一つずつ内容を確認し、最後に小さく頷いた。
「とても丁寧なお返事だと思います。私からも、お礼をお伝えいただけますでしょうか」
「ああ。もちろん」
俺は最後の部分へ、セリーも感謝していることを書き加えた。
それから、二人で内容を確認して返信を送った。
通信の魔導具が静かになると、作業机の周囲には再び穏やかな空気が戻ってきた。
「これで、今できることは一通り終わったかな」
「はい。あとは、新しい情報が得られるまで、塔での暮らしを続けながら考えていけばよいと思います」
「そうだね。でも、今日は一つ進んだ気がするよ」
俺がそう言うと、セリーは嬉しそうに微笑んだ。
「私もです。フェルネについて、昨日より少し詳しく知ることができましたから」
「ああ。それに、俺たちが何を大切にして出かけたいのかも、はっきりしてきたしね」
セリーはその言葉を聞いて、少しだけ考えるような表情になった。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「主様。もし今回、秋の市へ行くことが難しいと分かりましたら……そのときは、また別の機会を一緒に考えていただけますか?」
その問いに、俺は迷わず頷いた。
「もちろんだよ。今回行けなかったからって、もう二人で出かけられないわけじゃないだろう?」
「……はい」
「それに、俺たちはまだ知らない場所がたくさんあるんだ。フェルネ以外にも、行ってみたいと思える場所が見つかるかもしれない」
セリーは少し驚いたように目を丸くした。
「そうですね。私、秋の市へ行けるかどうかばかり考えておりましたけれど、ほかにも知らない町や景色があるのですよね」
「ああ。急がずに、少しずつ見つけていけばいいと思う」
俺は窓の外へ視線を向けた。
雨上がりの森には、午後の日差しが差し込んでいる。
昨日までの強い風は落ち着き、濡れた葉が静かに光っていた。
「今までの俺は、決められた場所へ行くことが多かったからさ。これからは、自分で行きたい場所を探してみたいんだ」
「……主様」
「もちろん、全部に行けるとは限らない。でも、セリーと一緒に話しながら、どこへ行こうか考えるだけでも楽しいと思う」
セリーはしばらく俺を見つめていた。
やがて、穏やかな笑みを浮かべる。
「はい。私も、主様と一緒に考えていきたいです」
その返事を聞いて、胸の奥が温かくなった。
秋の市への外出が実現するかどうかは、まだ分からない。
けれど、俺たちがこれからも一緒に新しい景色を探していきたいと思っていることは、確かだった。
夕方になると、塔の窓から差し込む光が少しずつ橙色へ変わっていった。
俺たちは作業机の上を片づけ、今日使った紙や道具を整理した。
南側通路の石の台については、今日は新しい観察をしていない。
そのため、記録には雨上がりで足元の状態が不明だったことと、安全を優先して現地確認を見送ったことだけを書き加えた。
石の縁に見える線の形や用途については、未確定のままだ。
庭の湿った場所についても、今日の雨の影響があるため、原因を推測する材料にはしないことにした。
「主様。今日は石の台を見に行けませんでしたけれど、それでもよろしかったのでしょうか」
セリーがそう尋ねた。
俺は記録を閉じながら頷いた。
「ああ。昨日までに確認したことは残ってるし、今日は無理して行く必要がなかったからね」
「はい。私も、そう思います」
「それに、今日みたいな日があるからこそ、晴れてる日にどれくらい調べられるかも考えられるんだろうな」
セリーは少し考え、それから微笑んだ。
「そうですね。調べないという判断も、主様がご自分で選ばれたことなのですね」
「ああ。何もしなかったわけじゃないからね」
俺は机の上の記録へ目を向けた。
昨日までに観察したこと。
今日の雨で確認を見送ったこと。
どちらも、これから調査を続けていくうえで意味があるように思えた。
夕食の準備を始める頃には、外の空が少しずつ暗くなり始めていた。
セリーは食材を確かめながら、今夜も温かな料理を中心にしようと提案してくれた。
俺はもちろん賛成した。
そのまま二人で厨房へ立ち、できる範囲の作業を分担する。
セリーが鍋の様子を確かめ、俺が食材を用意する。
ときどき互いの手元を見ながら、必要なものを渡し合う。
そんな何気ない時間が、今の俺にはとても心地よかった。
「主様。今日はフェルネへ向かう道について、新しい情報がございましたね」
「ああ。まだ全部は分からないけど、少しずつ具体的になってきたな」
「はい。ですが、雨の後にぬかるみやすい道があると伺って、少し心配にもなりました」
「俺もだよ。今朝、入口の落ち葉を片づけたばかりだから、余計に実感があるな」
セリーは頷いた。
「本当にそうですね。塔の入口ですら、雨の後には歩きにくくなることがあるのですから、知らない道ではなおさら気をつけたいです」
「ああ。でも、だからって最初から諦める必要はないと思う。まずは情報を確かめてからだね」
「はい。私も、その方がよいと思います」
彼女はそう答え、鍋の中身を静かに混ぜた。
湯気が立ち上り、厨房に温かな香りが広がっていく。
俺はその横顔を眺めながら、今日の会話を思い返していた。
セリーは、自分で気に入ったものを選んで購入してみたいと言ってくれた。
そして、もし今回の秋の市へ行けなくても、別の機会を一緒に考えてほしいと願ってくれた。
そのどちらも、彼女自身の希望だった。
俺はそれが嬉しかった。
(これからも、こういう話をたくさんできたらいいな)
誰かの命令に従うためではなく、自分たちが何をしたいのかを考える。
たとえ小さなことであっても、その積み重ねが、俺たちの暮らしを少しずつ変えていくのだと思った。
夕食の席では、今日の出来事を振り返りながら、穏やかな時間を過ごした。
朝の雨上がりの景色。
入口に集まった落ち葉。
布袋の折り返しを少し調整したこと。
そして、ブラートから届いた新しい通信。
どれも大きな事件ではない。
けれど、俺たちにとっては、それぞれに意味のある出来事だった。
「主様。今日も、いろいろなことがございましたね」
「ああ。朝は雨上がりだったし、今日は静かな一日になるかと思ってたけど、意外と考えることが多かったな」
「はい。ですが、私はとても楽しかったです」
「俺もだよ」
俺は温かなスープを一口飲んだ。
その味は、朝のものとはまた少し違っている。
食べる時間や身体の状態に合わせて、セリーが工夫してくれたのだろう。
「そういえば、セリー。今日のスープも美味しいね」
「ありがとうございます。今夜は、朝より少し味を濃くしてみました」
「うん。こっちも好きだよ。でも、朝の優しい味もよかったな」
そう伝えると、セリーは嬉しそうに笑った。
「では、どちらも今後の参考にさせていただきます。私も、それぞれ違うよさがあると思いましたので」
「ああ。何でも一つに決めなくてもいいんだよね」
「はい。主様と私で好みが違っても、その違いを楽しめたら嬉しいです」
その言葉を聞きながら、俺は昼間の会話を思い出した。
秋の市でも、きっと同じことがあるだろう。
俺が興味を持つものと、セリーが興味を持つもの。
同じ店を見ていても、違うところが気になるかもしれない。
けれど、それぞれの好みを大切にしながら、一緒に選ぶことはできる。
そのことを、俺たちは少しずつ理解してきたのだと思う。
夕食を終えたあと、俺たちはいつものように食堂を片づけた。
窓の外はすっかり暗くなり、森には静かな夜が訪れている。
昼間の雨はもう降っていなかったが、地面にはまだ湿り気が残っているだろう。
俺たちは外へ出ることなく、作業机の近くで明日の予定を軽く確認した。
明日も雨が降るかもしれない。
逆に、よく晴れて地面が乾くかもしれない。
今の段階では、どちらとも決められない。
だから、天候に合わせて作業を選べるようにしておくことにした。
「主様。明日は、南側通路へ行かれますか?」
「天気と足元次第かな。無理なく歩けそうなら、様子を確認してもいいと思う。でも、濡れてるなら屋内の作業にしよう」
「はい。私も、その方がよいと思います」
「それから、今日の布袋も、もう少し使ってみたいな」
「承知いたしました。私も、自分の袋を使う機会がございましたら、記録を残してみたいと思います」
セリーはそう言って、少し嬉しそうに微笑んだ。
俺はその表情を眺めながら、ふと一つのことを思い出した。
「そうだ、セリー。今日の記録には、何か書いた?」
尋ねてから、少しだけ気になった。
昨日、俺は彼女に、自分で書いたものをすべて見せる必要はないと伝えたばかりだ。
だから、何を書いたのかを無理に聞くつもりはなかった。
「いや、答えたくなかったら言わなくていいんだ。ちょっと気になったけだから」
俺がそう付け加えると、セリーは柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。ですが、今日は主様にもお話ししたいことを書きましたので、少しだけ聞いていただけますか?」
「ああ。もちろん」
彼女は自分の小さな布袋を取り出し、中から紙を一枚取り出した。
そこには、昨日の記録に続く形で、今日の出来事が書き加えられていた。
「今日は、雨上がりの塔の入口を主様と一緒に整えたことを書きました。それから、フェルネへ向かう道について、新しいお知らせが届いたことも残しております」
「うん」
「ですが、私が一番覚えておきたいと思ったのは……」
彼女はそこで少しだけ言葉を切った。
俺が続きを待っていると、セリーは恥ずかしそうに微笑んだ。
「主様が、もし今回の秋の市へ行けなくても、また別の機会を一緒に考えてくださるとおっしゃったことです」
胸の奥が、ゆっくりと温かくなった。
俺にとっては、自然に口にした言葉だった。
けれど、セリーはその一言を、今日の記録の中で大切に残してくれたのだ。
「……そっか」
「はい。私、今までは何かを楽しみにしていても、それが叶わなければ残念に思うだけだったかもしれません。ですが、主様と一緒でしたら、また新しい楽しみを見つけられるのだと思いました」
セリーは静かに言葉を続けた。
「ですから、今日の記録には……一つの楽しみが叶わなくても、次の楽しみを一緒に探せる日、と書きました」
その言葉に、俺は思わず笑みを浮かべた。
「……いい言葉だね」
「ありがとうございます。少し恥ずかしいのですけれど、私自身が覚えておきたいと思いましたので」
「うん。大切にしてほしいな」
彼女は嬉しそうに頷いた。
俺はその姿を眺めながら、改めて思った。
セリーにとって、自分の気持ちを記録することは、ただ出来事を書き留める以上の意味を持ち始めているのかもしれない。
誰かの役に立つための記録ではなく、自分が何を感じ、何を大切にしたいと思ったのかを残す。
その小さな習慣が、彼女自身の自由につながっていくのだとしたら、俺はとても嬉しい。
「セリー。これからも、書きたいことがあったら自由に書いていいからね」
「はい。ありがとうございます。私も、少しずつ続けてみたいと思います」
そう答えると、彼女は紙を丁寧に畳み、小さな布袋へ戻した。
その仕草は、昨日よりも少し自然に見えた。
まるで、自分の大切なものを自分で扱うことに、少しずつ慣れてきているようだった。
夜も深まり始めた頃、俺たちは窓辺へ移動した。
外の森は闇に包まれていたが、雲の切れ間から淡い月明かりが差し込んでいる。
雨に濡れた葉が月の光を受け、ときおり小さく輝いて見えた。
「今日は、朝とはずいぶん違う景色になったな」
「はい。朝は雨上がりで少し暗く感じられましたが、今は雲の間から月も見えておりますね」
「こういう変化を見るのも、なかなか楽しいな」
「ふふっ。主様らしいですね」
セリーはそう言って微笑んだ。
俺は彼女の横顔を眺めながら、今日一日のことを振り返った。
フェルネへ向かう道について、新しい情報が届いた。
けれど、安全な移動経路や宿泊先については、まだ確認できていない。
そのため、出発を決めることはできなかった。
しかし、だからといって、今日が何も進まなかった日だとは思わない。
自分たちがどのような外出を望んでいるのか。
何を大切にし、何を無理に進めるべきではないのか。
そうしたことを、セリーと一緒に考えることができた。
そして、彼女は自分で品物を選び、購入してみたいという、新しい希望を教えてくれた。
(……こうして少しずつ、知らなかった一面が増えていくんだな)
俺がそう考えていると、セリーがそっとこちらへ顔を向けた。
「主様。少しだけ、お手をお借りしてもよろしいでしょうか」
その言葉に、俺は自然と笑みを浮かべた。
「ああ。もちろん」
俺が手を差し出すと、彼女は嬉しそうに指先を重ねた。
以前なら、こうしたことを尋ねるだけでも随分と勇気が必要だったのかもしれない。
けれど今では、彼女自身が望んだときに、少しずつ言葉にしてくれるようになっている。
俺はその変化が嬉しかった。
「主様。私、今日も一つ、楽しみが増えました」
「何だい?」
「もし秋の市へ行けましたら、自分で選んだものを、自分の手で購入してみたいということです」
「ああ。楽しみだね」
「はい。ですが、それだけではございません」
彼女は少しだけ照れたように微笑んだ。
「主様が、私の隣にいてくださることも、楽しみなのです」
胸の奥が、小さく跳ねた。
俺は一瞬返事に迷ったが、すぐに自分の気持ちを確かめた。
「……俺もだよ」
そう答えると、セリーは嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます、主様」
「こちらこそ。セリーが一緒に行きたいと思ってくれて、嬉しいよ」
俺たちはしばらく、手をつないだまま窓の外を眺めていた。
雨上がりの森には、静かな夜の空気が広がっている。
遠くの木々が風に揺れる音も、今夜は穏やかだった。
フェルネの秋の市までは、予定どおりならあと十五日。
しかし、そこへ向かうことができるのかどうかは、まだ分からない。
今あるのは、少しずつ集まり始めた情報と、二人で出かけてみたいという気持ちだけだ。
それでも、俺は焦っていなかった。
今日、俺たちは大切なことを一つ決めた。
ただ秋の市へ行くことを優先するのではなく、無理なく行き、楽しみ、そして二人で無事に塔へ帰ってくること。
その条件を満たせないなら、今回は見送ってもいい。
それは諦めることではなく、自分たちの暮らしを大切にするための選択なのだと思った。
「セリー」
「はい、主様」
「もしフェルネへ行けたら、帰ってきたあとに、またこうして一緒に話そうな」
彼女は少し驚いたように瞬きをした。
「帰ってきたあと、でございますか?」
「ああ。どんなものを見たのか、何が楽しかったのか。それぞれの記録を見ながら話せたら、きっと面白いと思うんだ」
セリーは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。私も、ぜひそうしたいです」
「それに、もし今回は行けなかったとしても、また別の楽しみを探そう」
「……はい」
彼女は俺の手を、ほんの少しだけ強く握り返した。
「私も、主様と一緒に、これからの楽しみを見つけていきたいです」
その返事を聞いたとき、胸の奥がゆっくりと温かくなった。
王太子だった頃、俺の未来には多くの予定が詰め込まれていた。
誰と会うのか。
何を学ぶのか。
どこへ向かうのか。
そのほとんどが、俺自身の希望とは関係なく決められていた。
けれど今は違う。
明日何をするのかも、どこへ行きたいのかも、誰と過ごしたいのかも、自分で考えることができる。
そして、その隣には、同じように自分の希望を見つけ始めたセリーがいる。
(……本当に、ここへ来てよかったな)
そう思うと、自然と笑みが浮かんだ。
俺たちはしばらく窓辺で過ごしてから、翌日に備えて休むことにした。
「そろそろ休もうか。今日もいろいろあったしね」
「はい。主様も、どうぞゆっくりお休みくださいませ」
「ああ。セリーもね」
つないでいた手を離すと、彼女は少し名残惜しそうに微笑んだ。
俺も同じような気持ちだったので、思わず笑ってしまう。
セリーはその笑みの意味を尋ねなかった。
ただ、柔らかな表情で俺を見送ってくれた。
自室へ戻った俺は、寝台の近くに置いた小さな布袋へ目を向けた。
昨日セリーと一緒に作った、少し不揃いな縫い目の袋。
今日も折り返しを調整し、使いやすくするために考えた。
それは特別な魔導具でも、高価な品物でもない。
けれど、俺にとっては大切な道具だった。
その袋を持って、いつかフェルネの町を歩くことができたなら。
セリーと並んで店を見て回り、気になったものについて話し、自分たちで選んだものを持ち帰る。
そんな一日が実現したら、きっと楽しいだろう。
もちろん、今はまだ分からない。
安全な道も、宿泊先も、移動に必要な時間も、確認できていないのだから。
それでも、必要なことを一つずつ確かめながら進めばいい。
(明日は、どんな一日になるかな)
そう考えながら、俺は静かに目を閉じた。
古の塔には、雨上がりの穏やかな夜が訪れていた。
二千年前の魔導具師が残した不思議な遺産には、まだ多くの謎が眠っている。
そして、森の向こうには、俺たちの知らない町や人々の暮らしが広がっている。
そのすべてを急いで知る必要はない。
今はただ、ここでの暮らしを大切にしながら、自分たちの望む未来を少しずつ選んでいけばいいのだ。
いつか、フェルネの町へ向かう日が来るのなら。
そのときは、セリーと並んで歩きたい。
誰かに命じられたからではなく、俺たち自身がそうしたいと思ったから。
そして、またこの塔へ帰ってきたい。
今日と同じように、温かな食事を囲みながら、その日に見た景色について語り合うために。
それが今の俺にとって、何より楽しみな未来だった。




