第163話 知らない町へ持っていくものと、石の縁に残る線
翌朝、俺が目を覚ましたとき、窓の外には昨日よりも強い風が吹いていた。
森の木々は朝日を受けながらゆっくりと枝を揺らし、ときおり黄色く色づいた葉が風に乗って舞い上がっている。塔の周囲に広がる秋の景色は穏やかに見えたが、窓枠の近くで鳴る風の音を聞いていると、季節が確実に進んでいることを感じた。
寝台から身体を起こし、いつものように窓辺へ歩み寄る。
昨日の朝には森の低いところに薄い靄が広がっていたが、今朝は遠くの木々までよく見えた。葉の色づきはまだ場所によってまばらで、緑の濃い木もあれば、枝先だけが赤く染まり始めた木もある。
(フェルネ、か……)
ふと、昨日ブラートから届いた通信のことを思い出した。
王都から離れた小さな町で開かれる秋の市。その町の名前がフェルネであり、開催予定日が昨日の時点で十七日後からの二日間だと分かった。
ただし、塔からどれほど離れているのか、どの道を通れば安全なのか、途中で宿泊する必要があるのかといったことは、まだ何一つ確定していない。
だから、今すぐ旅支度を始められるわけではなかった。
それでも、名前も知らなかった町が、昨日から俺たちの会話の中に登場するようになった。
手仕事の品物や保存食、季節の花が並ぶという秋の市。そこをセリーと並んで歩くことができたなら、どれほど楽しいだろう。
(行けるかどうかは、まだ分からないんだけどな)
自分でも少し可笑しくなって、窓の外を眺めながら笑ってしまった。
王太子だった頃、訪問先が決まれば、その後の予定は周囲の者たちが整えてくれた。
しかし今は違う。
自分で行きたい場所を見つけ、そのために必要なことを考え、安全を確認し、最終的には自分たちで判断する。
面倒なことが増えたとも言えるが、俺は不思議と嫌ではなかった。
むしろ、何もかもが決められていた頃より、ずっと楽しみに感じられる。
その理由の一つが、セリーと一緒に準備できることなのだろう。
「主様。お目覚めでしょうか」
扉の向こうから聞こえてきた声に、俺は自然と顔を上げた。
「ああ、起きてるよ。おはよう、セリー」
「おはようございます。今朝は風が少し強くなっておりますので、外へ出られる場合にはお気をつけくださいませ。朝食の準備が整っておりますが、お身体の調子はいかがでしょうか」
「問題ないよ。ちょうど外を眺めていたところなんだ」
「そうでございましたか。今朝は葉がよく舞っておりますね。庭にも落ち葉が増えておりますので、後ほど様子を確認した方がよいかもしれません」
「そうだな。昨日も南側通路を見に行ったけど、今日はまた違う景色になっていそうだ」
そう答えると、セリーが扉の向こうで小さく笑った。
「主様は、本当に毎日の変化を楽しんでいらっしゃいますね」
「セリーと一緒に見ていると、気づくことが増えるからね」
俺がそう言うと、少しだけ間が空いた。
「……ありがとうございます。私も、主様と景色を眺める時間が大好きです」
柔らかな返事を聞きながら、俺は上着を整えた。
昨日も、その前の日も、俺たちはこうして互いの気持ちを少しずつ言葉にしてきた。
それが以前よりも自然にできるようになっていることが、何だか嬉しかった。
食堂へ入ると、焼いたパンの香りと温かなスープの匂いが迎えてくれた。
窓際にはいつもの花が飾られているが、今朝は風が強いためか、窓の外で揺れる枝の影が食卓の上まで伸びている。朝日が雲に隠れるたび、部屋の明るさも少しずつ変わっていた。
「主様。今朝は少し冷えますので、スープをいつもより温かくしております。召し上がる際には、お気をつけくださいませ」
「ありがとう。セリーも一緒に食べよう」
「はい。ありがとうございます」
向かい合って席に着き、俺たちは朝食を始めた。
パンは外側がほどよく焼けていて、中は柔らかい。温かなスープを口にすると、寝起きの身体に残っていた冷たさが少しずつ薄れていくように感じられた。
「美味しいな。寒くなってくると、こういう朝食が余計にありがたく感じるよ」
「お気に召していただけて嬉しいです。これからさらに冷え込むようでしたら、朝食の内容も少しずつ考えていきたいと思っております」
「そうだね。でも、無理に新しい料理を増やさなくてもいいよ。今の朝食だって十分美味しいんだから」
「ありがとうございます。ですが、私自身も季節に合わせて料理を考えることが楽しくなってまいりましたので、少しずつ試してみたいのです」
セリーはそう言って、嬉しそうに笑った。
その表情を見た俺は、以前とは少し違う感覚を覚えた。
彼女は俺のために何かをしてくれることを喜んでいる。
しかし最近では、それだけではなく、料理を考えたり、花を飾ったりすること自体も楽しむようになっていた。
(こういう変化も、もっと大切にしていきたいな)
俺が何かをしてもらうことばかり考えていては、彼女自身の楽しみを見落としてしまうかもしれない。
もちろん、セリーが俺の世話をすることに喜びを感じているのも事実なのだろう。
だからこそ、それを否定するのではなく、彼女が自分で選べることを増やしていきたいと思った。
「そういえば、セリー。昨日のフェルネの話なんだけど」
「はい。秋の市のことでございますね」
「ああ。まだ行けると決まったわけじゃないけど、今日は少し、外へ持っていく道具について考えてみようと思ってるんだ」
セリーは興味深そうに顔を上げた。
「持っていく道具、ですか?」
「うん。昨日、南側通路で記録板を使ったときに思ったんだけど、今の袋だと紙や筆記具を取り出すのに少し手間がかかるだろう? 塔の近くなら問題ないけど、知らない場所へ出かけるなら、もう少し使いやすくしておきたいんだ」
「なるほど。ですが、記録板そのものは、現在の形でも十分にお使いいただけているように思います」
「そうなんだ。だから、板を作り直したいわけじゃない。持ち運び方を少し工夫できないかなって」
俺は昨日のことを思い返した。
庭の湿った場所で記録板を使った際、片手で板を支え、もう片方の手で筆記具を扱うことはできた。
しかし、書き終えたあとに紙をしまおうとすると、袋の中で布や他の道具が重なり、少し手間取ってしまったのだ。
大きな問題ではない。
けれど、風の強い場所や人の多い町中では、小さな不便が思わぬ困りごとにつながるかもしれない。
「例えば、記録用の紙だけを入れられる小さな袋があれば、取り出しやすくなると思うんだ。もちろん、布の袋だから雨を完全に防げるわけじゃないけど」
「でしたら、以前用意した薄手の布を使うことができるかもしれませんね。大きなものを作らなくても、紙を折らずに収められる形にはできると思います」
「そうか。じゃあ、朝食が終わったら一緒に考えてみようか」
「はい。私もお手伝いしたいです」
そう答えたセリーは、一度自分の器へ視線を戻したあと、何かを思いついたように顔を上げた。
「あの、主様。一つお願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろん。何かある?」
「もし小さな袋を作るのでしたら、私も一つ、自分で使うものを作ってみたいのです」
その言葉に、俺は少し驚いた。
これまでセリーが道具を作るときには、俺が使うものや、塔で必要になるものを優先することが多かったからだ。
「いいじゃないか。セリーも記録を取ることがあるし、自分の道具を持っていた方が便利だと思うよ」
「ありがとうございます。ですが、私が使うためというだけではなく……その、主様と同じように、自分で選んだものを持って出かけてみたいと思いまして」
彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「もちろん、秋の市へ行けなかったとしても、塔の周囲で使うことができます。ですから、無駄になることはないと思うのです」
「無駄かどうかなんて、そんなに気にしなくてもいいよ」
俺は思わず笑った。
「セリーが自分で使いたいと思ったなら、それだけでも作ってみる理由になるだろう?」
「……はい」
彼女の頬がほんのり赤く染まる。
「ありがとうございます、主様。では、私も自分に合ったものを考えてみたいです」
「ああ。せっかくだから、お互いに使いやすいものを作ろう」
朝食を終えたあと、俺たちは作業机に布と裁縫道具を並べた。
以前、記録板を包むために使った薄手の布は、まだ十分に使える状態だった。ただし、今回作ろうとしているのは大きな袋ではなく、折り畳んだ紙や筆記具を整理して入れるための小さな入れ物だ。
セリーは布を広げると、俺の使っている記録用紙を一枚取り、その大きさを確かめた。
「主様。こちらの紙を折らずに収めるのでしたら、少し余裕を持たせた方が取り出しやすいと思います。ですが、あまり大きくすると、かえって袋の中で動いてしまうかもしれません」
「そうだね。板と一緒に持つことも考えると、紙より一回り大きいくらいがいいかな」
「はい。口の部分も、開きっぱなしにならないよう工夫した方がよろしいでしょうね」
二人で布を折り、紙を挟んでみる。
最初に考えた形では、紙を取り出す際に端が引っかかってしまった。
そこで少し幅を広げると、今度は余裕ができすぎてしまう。
「なかなか難しいな。小さいものだから簡単だと思ってたけど、使いやすさを考えると結構悩む」
「ふふっ。ですが、こうして試している時間も楽しいですね」
「確かに。すぐ完成しなくても、別に困らないし」
セリーは布の端を指先で揃えながら、何度か形を確かめた。
その手つきは丁寧で、布の折り目がずれないように注意していることが分かる。
俺も反対側を押さえ、紙を入れたときの収まり具合を確認した。
しばらくして、俺たちは一つの形に落ち着いた。
紙を入れる部分は三方を縫い合わせ、口には折り返せる布を残す。完全に密閉するものではないが、少なくとも袋の中で紙が直接擦れることは減らせそうだった。
「これなら、記録板と一緒にしまっても使いやすそうだな」
「はい。ただし、水を防ぐためのものではありませんので、雨が降った場合には別の対応が必要でございます」
「分かってる。濡れそうになったら、まず塔へ戻ることを考えよう。無理して記録を続ける必要はないからね」
俺がそう答えると、セリーは安心したように微笑んだ。
それから、彼女は自分が使う袋の形を考え始めた。
俺のものと同じ大きさにするのかと思ったが、彼女はしばらく布を眺めたあと、少し小さめに折り畳んだ。
「セリーのは、少し小さくするんだな」
「はい。私は主様ほど大きな紙を持ち歩く機会が多くありませんので、小さな覚え書きや筆記具を入れられるくらいでよいと思います」
「なるほど。確かに、同じ形にする必要はないもんな」
「それに……」
セリーは言いかけて、少しだけ口を閉じた。
俺が続きを待っていると、彼女は控えめに微笑んだ。
「もし秋の市へ行けましたら、そこで見つけたものについて、自分でも少し書き留めてみたいのです」
「いいじゃないか。どんなものが気になったのか、後から見返せるし」
「はい。ですが、主様にお伝えするためだけではなく、私自身が覚えておきたいことを書いてみたいと思っております」
その言葉に、俺は自然と頷いた。
「うん。その方がいいと思う。セリーが何を見て、何を感じたのかは、セリー自身のものだからね」
彼女は俺を見つめ、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと頭を下げる。
「ありがとうございます。私、そのように考えてもよいのだと、少しずつ分かってきた気がいたします」
「俺も、まだ分からないことばかりだけどね」
俺は布の端を揃えながら笑った。
「でも、こうして一緒に考えられるなら、少しずつでいいんじゃないかな」
「はい。私も、そう思います」
午前中の作業は、思っていたよりも時間がかかった。
布を切る位置を決め、縫い合わせる部分を揃え、紙を入れてみてから再び調整する。
大きな魔導具を修復するような作業ではない。
しかし、自分たちで使う小さな道具だからこそ、実際に手に取ったときの感覚を大切にしたかった。
俺が縫い目を揃えるのに苦労していると、セリーが横から様子を見ていた。
「主様。少しだけ布を引く方向を変えると、縫いやすくなるかもしれません」
「こうかな?」
「はい。ですが、あまり強く引きすぎると布が寄ってしまいますので、ゆっくりでよろしいかと」
「なるほど……。ああ、確かにこっちの方がやりやすいな」
俺は言われたとおりに手を動かしてみた。
最初の縫い目と比べると、少しは整ってきたように思う。
ただ、セリーの手元を見ると、その差は歴然としていた。
「……やっぱり、セリーは上手だな」
「ありがとうございます。ですが、主様も先ほどよりずっと安定していらっしゃいますよ」
「そうかな。俺としては、まだ曲がってるように見えるけど」
「少し曲がっていても、使用するうえで問題がないのでしたら、必ずしも直す必要はないと思います」
セリーは俺の作った部分を確かめながら、柔らかく微笑んだ。
「それに、主様がご自分で作られたものですから、その形も大切にしてよいのではないでしょうか」
その言葉に、俺は手元の布を見つめた。
縫い目は確かに少し不揃いだ。
王宮で使っていた品物なら、こんな仕上がりのものが俺の手元へ届くことはなかっただろう。
けれど、今の俺には、この不揃いな縫い目が嫌には感じられなかった。
(自分で作ったものだから、か……)
王太子だった頃は、完成されたものが当たり前のように用意されていた。
衣服も、食器も、身の回りの道具も、誰かが整えたものを使うことが多かった。
それが悪いことだったとは思わない。
ただ、自分の手で作ったものが少しずつ形になっていく楽しさを、俺はあまり知らなかったのだ。
「ありがとう、セリー。そう言ってもらえると、少し自信が持てるよ」
「ふふっ。本当のことでございますから」
彼女はそう答えると、自分の袋へ視線を戻した。
その横顔は、とても楽しそうだった。
やがて昼前になる頃には、二人分の小さな布袋が形になった。
俺のものは記録用紙を入れられる大きさで、セリーのものは小さな覚え書きと筆記具を収めるためのものだ。
どちらも完全に仕上がったわけではなく、実際に持ち歩いてみて問題がないか確かめる必要がある。
それでも、机の上に並べてみると、思っていた以上に嬉しかった。
「こうして並べると、何だかいいな」
「はい。大きさは違いますけれど、同じ布から作りましたので、少し似た雰囲気になりましたね」
「そうだね。でも、セリーの方がずっと綺麗にできてる」
「主様のお品も、十分にお使いいただけると思います。それに、私は主様と一緒に作ることができて、とても嬉しかったです」
セリーは自分の小さな袋を手に取った。
口の部分を開いて中を確かめ、それから大切そうに両手で包む。
「私、自分のために何かを作ることが、こんなに楽しいとは思っておりませんでした」
「これからも作ってみればいいよ。必要なものでも、ちょっと欲しいと思ったものでも」
「はい。ですが、今はこの袋を使うことが楽しみです」
彼女の言葉を聞きながら、俺は自然と笑みを浮かべた。
秋の市へ行けるかどうかは、まだ分からない。
けれど、その準備を考えたことで、今日も新しい楽しみが一つ増えた。
それだけでも十分に意味があった。
昼食のあと、俺たちは午前中に作った袋を実際に使ってみることにした。
外の風は朝よりも少し弱くなっていたが、空にはところどころ薄い雲が広がっている。
雨になるかどうかまでは分からなかったため、長く外へ出るつもりはなかった。
「今日は、南側通路の石の台をもう一度見ておきたいんだ」
俺がそう言うと、セリーは少し考えるように頷いた。
「昨日確認した線のようなものですね」
「ああ。昨日は朝の光で見えたけど、今日は午後の光だろう? 同じように見えるのか気になってさ」
「承知いたしました。ですが、今日は風がございますので、紙を扱う際にはお気をつけくださいませ」
「うん。せっかく作った袋も試せるし、無理のない範囲で確認しよう」
俺たちは必要なものだけを持って外へ出た。
木製の記録板と筆記具、それから今日作った二つの布袋。
余計な荷物は増やさず、持ち歩くときに不便がないかを確かめられるようにしておく。
塔の扉を出ると、秋の風が上着を軽く揺らした。
朝よりも日差しは強くなっていたが、空気そのものは冷たい。
森の木々から落ちた葉が道の端に集まり、ときおり風に持ち上げられていた。
「昨日より、落ち葉が増えたな」
「はい。今朝から風が強かったためだと思われます。ただ、葉の下に小石や凹凸が隠れている場所もございますので、足元には注意した方がよろしいですね」
「ああ。いつも歩いてる道でも、季節が変わると様子が違うんだな」
俺は足元を確かめながら、ゆっくり歩いた。
普段なら何も考えずに通れる場所でも、落ち葉が重なると土の状態が分かりにくくなる。
それだけのことなのに、秋の市へ出かけるために道の安全を確認しようとしている今の俺には、妙に大切なことのように感じられた。
(知らない道なら、もっと気をつけないとな)
今歩いているのは、何度も通っている塔の周辺だ。
それでも、天候や季節によって気をつけるべきことは変わってくる。
まして、フェルネへ続く道がどのような場所を通るのか、現時点では何も分かっていない。
ブラートから情報が届くまで判断を急がないという考えは、やはり間違っていないのだろう。
庭の湿った場所を確認すると、昨日よりも落ち葉が増えていた。
ただし、土の色が濃い部分そのものに大きな変化があったかどうかは、すぐには判断できない。
「葉が増えると、地面の様子も分かりにくくなるな」
「はい。ですが、無理に取り除いてしまいますと、今までの状態を変えてしまう可能性もございます」
「そうだね。今日は見える範囲だけ記録しておこう」
俺は布袋から紙を取り出し、記録板へ挟んだ。
以前よりも取り出す動作が少なく済んだことに、思わず顔が緩む。
「おっ、思ったより使いやすいな」
「それは何よりです。ですが、しまうときにも問題がないか確かめたいですね」
「ああ。まだ取り出しただけだからな」
俺は紙へ簡単に記録を残したあと、板から外して布袋へ戻した。
口の部分を折り返すと、紙が勝手に飛び出す様子はない。
ただ、袋そのものを大きく傾けると、口の折り返しが少し緩むことが分かった。
「なるほど。ここはもう少し工夫した方がいいかもしれないな」
「はい。ただ、今すぐ縫い直す必要があるかどうかは、もう少し使ってから判断してもよろしいと思います」
「そうだね。今日はこれで使ってみよう」
セリーも自分の袋を取り出し、小さな紙を収めてみた。
彼女のものは俺のものより口が狭いため、紙を入れるときに少し丁寧に扱う必要がある。
しかし、取り出す際には特に問題がなかった。
「主様。私のものも、今のところ使えそうです」
「よかった。じゃあ、実際に何か書いてみる?」
「はい。では、今日の庭の様子を少しだけ記録してみます」
セリーは小さな紙へ、見える範囲の落ち葉の様子を書き留めた。
何を書いているのか気になったが、俺はすぐには覗き込まなかった。
彼女が自分のために使いたいと言っていた袋だ。
記録する内容も、まずは彼女自身が選んでよいのだろう。
書き終えたセリーは、紙を丁寧に畳んで袋へ戻した。
その表情は、どこか満足そうだった。
「何を書いたんだ?」
俺が尋ねると、セリーは嬉しそうに答えた。
「今日は朝から風が強く、昨日よりも落ち葉が増えていたことです。それから、主様と一緒に作った袋を、初めて外で使ったことも書きました」
「そっか。ちゃんと使い始めた記念になったな」
「はい。私にとっては、とても大切な記録です」
彼女は袋の上からそっと手を添えた。
その仕草を見ていると、何でもない布の袋が、俺たちにとって少し特別なものになったように思えた。
南側通路へ向かうと、昨日と同じ場所に黄色い花が咲いていた。
風が強いためか、花はときおり大きく揺れる。
その近くにある古い石の台は、午後の日差しを受けて、昨日とは違う影を落としていた。
「今日は、こっち側が明るいな」
「はい。昨日の朝とは光の向きが違っておりますので、見え方も変わっていると思います」
俺たちは、以前から確認している安全な位置で立ち止まった。
石の周囲には落ち葉が増えており、地面の一部は見えにくくなっている。
無理に近づけば、足元の状態が分からないところを踏むことになるかもしれない。
「今日はここから見よう。線の近くまで行く必要はないし」
「はい。私も、その方がよいと思います」
俺は昨日の記録を取り出し、石の輪郭を確かめた。
昨日見えたのは、縁の内側にある細い暗い線だった。
まっすぐ続いているようにも見えたが、途中が苔の陰に隠れていて、溝なのか亀裂なのか、あるいは単なる色の違いなのかも判断できなかった。
今日は別の時間帯だ。
見える部分が増えていれば、少しだけ形を確かめられるかもしれない。
「……あった」
俺は思わず小さく呟いた。
昨日と同じ辺りに、細い暗い線が見えている。
ただし、今日の光では、昨日ほどはっきりしていなかった。
「セリー。あそこ、昨日と同じところだと思うんだけど、どう見える?」
彼女はすぐに答えず、しばらく石を見つめていた。
それから、昨日の記録と目の前の石を交互に確かめる。
「私にも線のようなものが見えます。ですが、昨日より淡く感じられますね。それから、主様が昨日まっすぐ続いているように見えたとおっしゃった部分については、今日も途中までしか確認できません」
「俺もそう思う。やっぱり、全部つながってるかどうかは分からないな」
「はい。それに、光の当たり方によって見え方が変わるのでしたら、今後も時間帯を変えて確かめる必要があるかもしれません」
俺は頷き、記録板へ今日の様子を書き込んだ。
昨日と同じ辺りに線状の特徴が見えること。
午後の光では、昨日の朝ほどはっきりしていないこと。
そして、線がどこまで続いているのかは、今日も確認できなかったこと。
書き終えたところで、エルが落ち着いた声を発した。
『主様。現時点では、線状の特徴が複数の観察条件で確認されております。ただし、それが加工によるものか、自然に生じたものかを判断する根拠は不足しております』
「ああ。少なくとも、昨日だけの見間違いとは考えにくくなったけど、それ以上はまだ分からないな」
『その認識で問題ありません。ただし、昨日と本日で観察位置や光の条件が完全に一致しているわけではありませんので、形状の比較には注意が必要です』
「うん。そこも記録しておこう」
俺は紙の余白に、観察した時間帯と日差しの向きについて書き添えた。
それから、石の線そのものについては結論を出さず、今後も確認することにした。
古代の魔導具師が残したものかもしれない。
あるいは、二千年という長い時間の中で自然に生じた傷なのかもしれない。
どちらにしても、今は分からない。
(でも、こうして少しずつ確かめていけば、いつか何かが分かるかもしれないな)
胸の奥に小さな期待が生まれる。
しかし、それを根拠のない確信に変えないよう、俺はもう一度記録を読み返した。
そのときだった。
森の奥から、少し強い風が吹き抜けた。
足元に落ちていた葉が一斉に舞い上がり、近くの草が大きく揺れる。
俺はとっさに記録板を身体へ寄せ、紙が飛ばされないよう押さえた。
「……っと。思ったより強いな」
「主様、大丈夫でございますか?」
「ああ、問題ないよ。でも、これ以上風が強くなるなら、今日は戻った方がよさそうだな」
セリーは森の方へ目を向けた。
風はすぐに弱まったが、遠くの木々ではまだ枝が揺れている。
「はい。記録はできましたし、無理にここへ留まる必要はないと思います」
「そうだね。石の台も、今日すぐに何かしなきゃいけないわけじゃないから」
俺は記録用紙を外し、午前中に作った布袋へ収めた。
その動作をしている間にも、細かな落ち葉が足元を流れていく。
袋へ紙を入れると、板を持つ手が少し楽になった。
「こういうときには便利だな。紙をそのまま持ってたら、風で飛ばされそうだ」
「はい。ですが、布袋自体を落としてしまわないようにも気をつけたいですね」
「確かに。便利になったからって、油断はできないな」
俺たちは笑い合い、塔へ戻ることにした。
帰り道では、風が強くなるたびに歩く速度を少し落とした。
道の端に積もった落ち葉が小さな渦を作り、黄色や赤の葉が俺たちの足元を横切っていく。
セリーはそれを眺めながら、ふと口を開いた。
「主様。今日の風を見ていると、秋の市へ行く日も、必ずしも穏やかなお天気とは限らないのだと思います」
「そうだね。開催日が分かっても、その日の天気までは今から決められないし」
「はい。ですので、もし出かけることになりましたら、当日の状況によって予定を変えることも考えておきたいです」
「俺も賛成だよ。せっかく出かけても、危ない思いをしてまで歩き回る必要はないからね」
俺がそう言うと、セリーは安心したように頷いた。
少し前までの彼女なら、俺が楽しみにしていることを優先し、自分から予定の変更を提案することには遠慮していたかもしれない。
しかし今は、そうした意見も自然に伝えてくれるようになっている。
それが嬉しかった。
「セリー。今みたいに、気になることがあったら遠慮なく言ってくれよ」
「はい。主様も、私が何かを見落としていると思われましたら、教えてくださいませ」
「ああ。二人で考えた方が、きっと気づけることも多いだろうから」
「ふふっ。そうですね」
俺たちは並んで歩きながら、塔へ戻った。
扉を閉めると、外の風の音が少し遠くなった。
室内にはいつもの落ち着いた空気が広がっていて、外の冷たさが嘘のように感じられる。
俺は上着を整え、作業机の前へ向かった。
「今日は、袋が役に立ったな」
「はい。ですが、まだ改善できそうなところもございましたね」
「ああ。特に口の部分かな。紙を取り出すのは簡単だったけど、しまったあとに少し緩むことがあった」
「でしたら、次に使うときまでに、折り返し方をもう少し考えてみてもよいかもしれません」
「うん。でも、今日はもう十分試せたと思う。今すぐ直さなくてもいいよ」
セリーは頷き、自分の袋を机の上へ置いた。
その隣には、俺が作った少し大きな袋が並んでいる。
同じ布から作った二つの袋は、形も大きさも違う。
けれど、それぞれの用途に合わせて作ったものだからこそ、どちらにも意味があった。
「主様。私、この二つが並んでいるところを見るのが好きです」
「そうなのか?」
「はい。同じ布から作りましたけれど、主様のお品と私のお品は少し違っております。それが、何だか嬉しいのです」
俺は二つの袋を見比べた。
確かに、俺のものは縫い目が少し不揃いで、セリーのものは丁寧に整っている。
大きさも、口の形も少し違う。
同じものを作ろうとしたわけではないのだから、当然と言えば当然だろう。
「俺たちがそれぞれ使いやすいように作ったからね」
「はい。私、同じでなくてもよいのだと、今日改めて思いました」
「……うん?」
俺が首を傾げると、セリーは少し考えてから言葉を続けた。
「主様と同じものを持つことも、きっと嬉しいと思います。ですが、私は私の使いたい形を選び、主様は主様のお考えで形を選ばれました。それでも、一緒に作った大切なものだと思えるのです」
その言葉に、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「そうだね。何でも同じにする必要はないんだと思う」
「はい。秋の市でも、きっと主様が興味を持たれるものと、私が興味を持つものは違うのでしょうね」
「そうだろうな。俺は道具の仕組みが気になって、セリーは布の模様や花を見てるかもしれない」
「ふふっ。ですが、それぞれが気になったものを、一緒に見てみたいです」
「ああ。俺もそうしたい」
そう答えると、セリーは嬉しそうに微笑んだ。
俺はその笑顔を眺めながら、昨日の会話を思い出していた。
彼女は秋の市へ行けたら、俺の隣を歩きたいと言ってくれた。
俺も、彼女と同じものを見て、感じたことを話しながら歩きたいと思っている。
けれど、だからといって、何もかもを同じように感じる必要はないのだろう。
むしろ、違うものに興味を持つからこそ、新しい発見が増えるのかもしれない。
(セリーが見つけたものを教えてもらうのも、楽しみだな)
そう考えると、まだ知らないフェルネの町が、さらに魅力的な場所に思えてきた。
もちろん、行けると決まったわけではない。
それでも、楽しみにできることが増えていくのは悪くなかった。
午後の残りの時間は、南側通路の記録を整理することにした。
昨日と今日の紙を並べ、観察した条件の違いを確かめる。
線のようなものが見えた位置については、二人の記録を比べても大きく食い違っていなかった。
ただ、長さや深さまでは分からない。
昨日は朝の光で比較的はっきり見え、今日は午後の光で淡く見えた。
これだけでは、石に人工的な加工があると判断することも、自然の亀裂だと決めることもできない。
「やっぱり、古い図面とすぐに結びつけるのは難しいな」
俺が呟くと、エルが答えた。
『主様。保存されている図面には、外周の作業台や通路、搬入に関係する経路が記されております。しかし、現在確認されている石の台との対応関係は、まだ特定できておりません』
「ああ。そもそも、図面に描かれているものが今も同じ位置にあるとは限らないしね」
『そのとおりです。長い時間の経過による地形の変化や、設備の損傷、移動などの可能性も考慮する必要があります』
「分かった。今日見えた線も、ひとまず観察記録として残しておこう」
俺は紙を整え、記録の末尾に未確認であることを書き加えた。
そこまで終えたところで、セリーが静かに口を開いた。
「主様。一つだけ、考えていることがございます」
「何だい?」
「もし今後、石の台について詳しく調べることになりましたら、最初に見つけたときの周囲の様子も、できるだけ大切にしたいと思うのです」
「最初に見つけたときの様子?」
「はい。今はまだ、石の台がどのように使われていたのか分かりません。ですが、周囲にあった石や植物を動かしてしまいますと、後から何かを確かめたいと思ったとき、元の状態が分からなくなるかもしれません」
俺は少し考えた。
確かに、そのとおりだ。
今までも不用意に触れないよう注意してきたが、それは主に安全のためだった。
しかし、調査のためにも、周囲の状態をできるだけ変えないことには意味がある。
「そうだね。今あるものが、あとから手がかりになる可能性もあるんだ」
「はい。もちろん、危険な状態であれば別の対応が必要だと思います。ですが、今のところは、無理に動かさなくても観察できる範囲がございますので」
「ありがとう、セリー。そこは大事なことだと思う」
俺がそう答えると、彼女は少し安心したように微笑んだ。
「主様のお役に立てましたでしょうか」
「もちろん。でも、それだけじゃないよ」
「……それだけでは、ないのですか?」
「ああ。俺が気づいていなかったことを、セリーが自分で考えて教えてくれた。それが嬉しいんだ」
彼女は目を丸くした。
俺は机の上に並んだ記録を眺めながら、言葉を続けた。
「俺一人だったら、調べたい気持ちが先に立って、何か見落としてしまうこともあると思う。だから、セリーが違う視点から考えてくれるのは、本当にありがたいよ」
しばらく沈黙があった。
やがて、セリーは少しだけ俯き、胸元で手を重ねた。
「……ありがとうございます。私も、主様と一緒に考えることができて、とても嬉しいです」
その声には、静かな喜びが込められていた。
俺は自然と笑みを浮かべた。
こうして話していると、古代の遺産を調べることも、以前よりずっと楽しく感じられる。
二千年前の魔導具師が何を考え、何を残したのか。
まだ知らないことは山ほどある。
けれど、その一つ一つをセリーと確かめていけるなら、急いで答えを出さなくてもいいと思えた。
夕方が近づくと、窓の外に広がっていた雲が少し厚くなった。
雨が降るかどうかは分からなかったが、森の向こうから吹いてくる風には、昼間よりも冷たさが混じっている。
俺たちは作業机を片づけ、今日使った記録板と布袋をそれぞれ決めた場所へ置いた。
そのとき、セリーが自分の小さな袋を持ったまま、少し考え込んでいることに気づいた。
「どうしたんだ?」
「いえ……この袋を、どこに置こうかと考えておりました」
「使いやすい場所でいいんじゃないかな。セリーのものなんだから」
そう答えると、彼女は少し驚いたようにこちらを見た。
「私の、もの……」
「ああ。今日、セリーが自分で使うために作ったんだろう?」
「……はい」
彼女は袋へ視線を落とした。
指先で布の端をそっと撫で、それから静かに微笑む。
「そうですね。では、私が普段使うものを置いている場所へ、大切にしまっておきたいと思います」
「うん。それがいいと思うよ」
彼女は嬉しそうに頷き、袋を丁寧に持ち直した。
その姿を見て、俺はふと思った。
彼女にとって、自分のものを自分で選ぶという経験は、まだ特別なことなのかもしれない。
俺にとっても、王太子という立場を失ってから初めて知った自由がある。
立場も、これまで歩んできた時間も違う。
けれど、今こうして同じ塔で暮らしながら、それぞれが少しずつ新しいことを知っている。
そのことが、何だか嬉しかった。
夕食の準備を始める頃には、外の風がさらに強くなっていた。
窓から見える木々は大きく枝を揺らし、ときおり乾いた葉が舞い上がっている。
俺は食堂へ向かいながら、今日の南側通路の様子を思い返した。
あの石の台に見えた線。
昨日とは違う光の中でも確認できたことは、小さな前進だったと思う。
しかし、だからといって急いで詳しく調べようとは思わなかった。
調査を続けるには、まだ分からないことが多すぎる。
それでも、昨日までなかった記録が一つ増えた。
今は、それだけで十分だった。
「主様。今夜は少し温かい料理を中心にしようと思っておりますが、いかがでしょうか」
セリーの声に、俺は考えを切り替えた。
「いいね。今日は外が結構冷えたし、温かいものが食べたい気分だ」
「承知いたしました。では、昼間よりも少し具を増やしたスープにいたしましょうか」
「ああ。俺も手伝うよ」
「ありがとうございます。では、こちらをお願いしてもよろしいでしょうか」
セリーが差し出した食材を受け取り、俺は作業を始めた。
調理の途中、彼女は今日作った袋のことを楽しそうに話していた。
小さな紙を入れるには十分な大きさだったこと。
ただし、筆記具を一緒に入れると少し窮屈に感じたこと。
そのため、今後使いながら調整するかもしれないこと。
俺はその話を聞きながら、彼女が自分の道具についてこんなにも楽しそうに考えていることが嬉しかった。
「セリーが気に入ってくれたなら、作ってよかったよ」
「はい。ですが、私だけではなく、主様のお品もございますから」
「もちろん。俺の方も結構気に入ってるよ。縫い目は少し曲がってるけどね」
「ふふっ。私は、その縫い目も素敵だと思います」
「それは、ちょっと甘く評価してくれてる気がするな」
俺が笑うと、セリーも楽しそうに笑った。
「そのようなことはございません。主様が一生懸命お作りになったことを、私は存じておりますから」
その言葉を聞くと、何も言い返せなくなってしまった。
セリーは時々、何気ない言葉で俺を驚かせる。
彼女にとっては自然なことなのかもしれない。
けれど、俺にとっては、その一つ一つが大切な思い出になっている。
夕食の時間、俺たちは今日の出来事を振り返った。
布袋を作ったこと。
庭の落ち葉が増えていたこと。
南側通路の石の台に見える線を、昨日とは違う光の中でも確認できたこと。
どれも世界を揺るがすような出来事ではない。
しかし、今の俺たちにとっては、確かに意味のある一日だった。
「主様。今日も、いろいろなことがございましたね」
「ああ。思ってたより忙しかったな。でも、楽しかったよ」
「私もです。特に、自分で使う袋を作れたことが嬉しかったです」
「じゃあ、また何か作ってみようか。すぐに必要なものじゃなくても、使ってみたいものがあれば考えればいいし」
セリーは少し考えてから、頷いた。
「はい。ですが、今はこの袋を大切に使ってみたいと思います。新しいものを増やす前に、今あるものを使って知ることもあると思いますので」
「それもいいね」
俺はスープを一口飲んだ。
温かな味が口の中に広がり、冷えた身体が少しずつ落ち着いていく。
窓の外では風が吹いているが、食堂の中は穏やかだった。
ふと、昨日ブラートから届いた通信のことを思い出した。
フェルネという町の名前と、秋の市の開催予定日。
まだ経路も移動手段も分からない。
今夜、新しい情報が届く保証もない。
それでも、俺たちは今日一日、その町へ出かけるかもしれない未来を少しだけ考えながら過ごした。
「セリー。もしフェルネへ行けることになったら、今日作った袋も持っていこうか」
そう尋ねると、彼女は目を輝かせた。
「はい。ぜひ持っていきたいです」
「何を書くかは、行ってから決めればいいしね」
「はい。ですが、私、一つだけ書いてみたいことがございます」
「何だい?」
セリーは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「主様と一緒に、初めてフェルネの町を歩いた日のことです」
その言葉を聞いて、俺は一瞬返事を忘れてしまった。
彼女は続けた。
「どのようなお天気で、どんな道を歩いて、どのようなお店があったのか。そして、主様と何をお話ししたのか……そうしたことを、少しずつ書き留めてみたいのです」
「……そっか」
胸の奥が、ゆっくりと温かくなる。
俺も、そんな一日を過ごしてみたいと思った。
立派な報告書を作る必要もない。
誰かに成果を示すための記録でもない。
ただ、自分たちが見た景色や、楽しいと思ったことを残しておく。
そんなことができるなら、きっと素敵だろう。
「いいね。俺も、その日のことを書いてみたいな」
「本当でございますか?」
「ああ。俺たちがそれぞれ書いたものを、あとで見比べてみるのも面白そうだ」
セリーは嬉しそうに微笑んだ。
「同じ場所を歩いていても、主様と私では違うものを見つけるかもしれませんね」
「そうだね。今日の石の台だって、俺たちで少し見え方が違ったし」
「はい。ですが、それぞれの記録を残しておけば、あとで一緒に思い出すことができます」
「うん。そういうの、いいな」
俺たちはしばらく、まだ知らない町について話した。
どんな店があるのか。
どんな人々が集まるのか。
手仕事の品物には、どんな工夫がされているのか。
もちろん、実際にそうしたものがあるかどうかは分からない。
今あるのは、ブラートから聞いた限られた情報だけだ。
それでも、想像することまで遠慮する必要はないと思った。
楽しみにしながら、必要なことはきちんと確かめる。
その二つを両立させればいい。
夕食を終えたあと、俺たちはいつものように食堂を片づけた。
窓の外はすっかり暗くなり、森の木々は夜の闇に溶け込んでいる。
昼間ほど強い風ではなくなったようだが、ときおり枝が揺れる音が聞こえてきた。
作業机へ戻ると、俺は今日の記録をもう一度確認した。
石の台については、昨日と今日の観察結果を分けて保管する。
庭の湿った場所についても、原因は未確定のままだ。
秋の市については、昨日の通信で得られた町名と開催予定日を確認しただけで、新しい情報は増えていない。
それぞれの記録を整えながら、俺は不思議と満足していた。
何か大きな答えが得られたわけではない。
けれど、今日も自分たちで確かめ、考え、必要なことを残すことができた。
(こういう積み重ねが、今の暮らしなんだろうな)
王太子だった頃、俺は結果を求められることが多かった。
何を決めたのか。
どのような成果があったのか。
それが誰にどんな影響を与えるのか。
もちろん、責任ある立場なら必要なことだったのだろう。
しかし、今の俺には、結果が出ないまま過ごす時間にも意味があるように思える。
庭の土がなぜ湿っているのか分からなくても、花が元気であることを確認できた。
石の台の用途が分からなくても、新しい線状の特徴を記録できた。
フェルネへ行けるかどうか分からなくても、セリーと一緒に使う道具を作ることができた。
どれも、今日という一日がなければ得られなかったものだ。
「主様。今日の記録は、これでよろしいでしょうか」
セリーの声に顔を上げると、彼女は整理した紙を手にしていた。
「ああ、ありがとう。今日はこれで十分だと思う」
「承知いたしました。では、いつもの場所へ保管しておきますね」
「うん。セリーの記録は、セリーがしまいやすいところに置いていいからね」
そう言うと、彼女は少し驚いたように瞬きをした。
「私の記録、でございますか?」
「ああ。今日、自分で書いてみたいって言ってただろう?」
「はい。ですが、主様のお役に立つことがございましたら、お見せしたいと思っております」
「もちろん、見せてもらえたら嬉しいよ。でも、全部を俺に見せなきゃいけないわけじゃないと思うんだ」
セリーは静かに俺を見つめた。
俺は少し考えてから、言葉を続けた。
「自分だけで覚えておきたいことがあってもいいだろう? 嬉しかったことでも、考えてる途中のことでも。俺に話したくなったら聞かせてくれればいいし、そうじゃなければ無理に聞くつもりはないよ」
その言葉に、セリーはしばらく返事をしなかった。
何かを考えるように、手元の紙へ視線を落とす。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます、主様」
彼女の声は、とても柔らかかった。
「私、自分で書いたものを、自分で大切にしてよいのですね」
「ああ。もちろんだよ」
「では……今日の袋を初めて使ったときのことも、私の記録として残しておきたいと思います」
「うん。いいと思う」
セリーは嬉しそうに微笑み、小さな布袋を手に取った。
今日作ったばかりのものだ。
けれど、彼女にとっては、すでに大切な道具になっているのだろう。
その姿を見ていると、俺まで嬉しくなった。
しばらくして、片づけが終わった俺たちは、窓辺で少しだけ外の景色を眺めることにした。
夜の森は暗く、遠くの木々の輪郭までは分からない。
しかし、風が枝を揺らす音や、ときおり聞こえる夜鳥の声が、塔の周囲に広がる自然を感じさせてくれる。
セリーは俺の隣に立ち、静かに窓の外を見つめていた。
「主様。今日は、昨日とは違うことがたくさんございましたね」
「そうだね。朝は袋を作るだけのつもりだったけど、石の台も確認できたし」
「はい。それから、私も自分の記録を持つことができました」
「うん。それが一番大きかったかもしれないな」
俺がそう答えると、セリーは少し驚いたようにこちらを見た。
「私の記録が、でございますか?」
「ああ。石の台のことも気になるけど、セリーが自分で使いたいものを選んで、自分のために記録を残してみたいって言ってくれたのが、俺は嬉しかったんだ」
彼女はしばらく俺を見つめていた。
やがて、ゆっくりと視線を落とす。
「……主様は、いつも私の気持ちを大切にしてくださいますね」
「いつもできてるかは分からないよ。でも、そうしたいとは思ってる」
「それだけでも、私は十分に嬉しいです」
セリーはそう言って、ほんの少しだけ俺へ近づいた。
肩が触れるほどではない。
けれど、いつもより距離が近くなったことは分かった。
「主様。私、一つだけお願いしてもよろしいでしょうか」
「ああ。何だい?」
「もしフェルネへ行けることになりましたら……私が気になったお店にも、一緒に立ち寄っていただけますか?」
俺は思わず笑みを浮かべた。
「もちろん。そのために一緒に行くんだろう?」
「はい。ですが、主様が興味を持たれないものかもしれませんので……」
「それでもいいよ。セリーが何を気に入ったのか、俺も知りたいし」
彼女は目を輝かせた。
「ありがとうございます。では、もし素敵なお花や布製品を見つけましたら、主様にもお声をかけますね」
「ああ。俺も面白い道具を見つけたら、セリーを呼ぶよ」
「ふふっ。きっと、いろいろなお話ができますね」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
そのとき、セリーの手がそっと動いた。
昨日までなら、俺の手へ触れてよいか迷っていたかもしれない。
しかし今日は、彼女の方からゆっくりと手を差し出してきた。
「……主様。お手をつないでもよろしいでしょうか」
その問いに、胸の奥が小さく跳ねた。
けれど、驚きよりも嬉しさの方が大きかった。
「ああ。もちろん」
俺が手を重ねると、セリーは嬉しそうに握り返してくれた。
指先から伝わる温かさに、自然と肩の力が抜ける。
彼女は窓の外へ視線を戻しながら、小さく呟いた。
「私、今日も幸せです」
その言葉は、とても静かだった。
けれど、確かに俺の胸へ届いた。
「……俺もだよ」
そう答えると、セリーはゆっくりとこちらを向いた。
その瞳には、柔らかな光が宿っていた。
「ありがとうございます、主様」
「こちらこそ。今日も一緒に過ごしてくれてありがとう」
俺たちはしばらく、手をつないだまま窓の外を眺めていた。
塔の外では秋の風が吹き、木々の葉が揺れている。
まだ知らない町、フェルネ。
その町で開かれる秋の市へ行けるのかどうかは、今も分からない。
ブラートから移動経路や安全に関する情報が届かなければ、具体的な予定を立てることもできないだろう。
しかし、焦る必要はなかった。
今日、俺たちは二つの小さな布袋を作った。
庭の様子を確かめ、古い石の台に残る線を、昨日とは違う光の中で見つめた。
そして、セリーは自分のために記録を残してみたいと言ってくれた。
どれも、かつての俺が考えていた王太子としての務めとは、何の関係もない出来事だ。
けれど、今の俺には、それがとても大切に感じられる。
(こういう一日を、これからも重ねていきたいな)
何かを成し遂げるためだけではなく、今日を楽しむために過ごす。
知らないことを少しずつ知り、自分で作ったものを使い、気になった景色を記録する。
そして、隣にいる大切な相手と、その楽しさを分かち合う。
そんな暮らしを、俺はこれからも続けていきたい。
「そろそろ休もうか、セリー」
「はい。主様も、どうぞゆっくりお休みくださいませ」
「ああ。明日は風が落ち着いてるといいな」
「そうですね。ですが、もし風が強いままでしたら、また屋内でできることを考えましょう」
「うん。それも楽しそうだ」
俺たちは笑い合い、ゆっくりと手を離した。
セリーは自分の小さな布袋を大切そうに持ち、俺へ穏やかに頭を下げる。
「おやすみなさいませ、主様」
「おやすみ、セリー」
自室へ戻った俺は、寝台の近くへ今日作った布袋を置いた。
少し不揃いな縫い目が、窓から差し込む淡い月明かりに照らされている。
決して立派な品物ではない。
それでも、セリーと一緒に形を考え、自分の手で作ったものだ。
俺にとっては、十分に大切な道具だった。
明日も使ってみれば、また新しいことが分かるかもしれない。
南側通路の石の台についても、別の時間に見れば違う特徴が見える可能性がある。
フェルネについては、ブラートから新しい情報が届くかもしれないし、届かないかもしれない。
どちらでもいい。
今の俺には、結果を急がなくても楽しみにできる日々がある。
(明日は、どんなことがあるんだろうな)
そんなことを考えながら、俺は静かに目を閉じた。
古の塔には、今日も穏やかな夜が訪れていた。
二千年前の魔導具師が残した不思議な遺産には、まだ多くの謎が眠っている。
森の向こうには、俺たちの知らない町や人々の暮らしが広がっている。
そのすべてを、一度に知る必要はない。
今はただ、この塔での暮らしを大切にしながら、少しずつ新しい景色へ目を向けていけばいいのだ。
そして、いつかフェルネの町を訪れる日が来たなら。
今日作った小さな布袋に、その日の思い出を一つずつ収めていきたい。
セリーと並んで歩きながら。
俺たち自身の意思で選んだ、自由な時間の中で。




