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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第162話「旅の荷物に込める願いと、まだ知らない町への手紙」

目を覚ましてからしばらく、俺は寝台の上で自分の右手を眺めていた。


何か怪我をしたわけでも、妙な魔力の反応があったわけでもない。ただ、昨夜セリーと手をつないだときの感触が、なぜか妙にはっきりと思い出されたのだ。差し出した手に彼女の指先が触れ、少しずつ重なるように握り返してくれた、あの静かな時間のことを。


(人が多いところじゃなくても、手をつないでいい、か……)


口にしたのは俺自身だったというのに、今になって思い返すと少し照れくさい。けれど、言わなければよかったとは思わなかった。彼女が嬉しそうに笑ってくれたことも、自分が同じくらい嬉しかったことも、確かな記憶として残っていたからだ。


窓の外には、薄い朝靄が森の低いところに広がっていた。高い枝には朝日が届き始めているのに、塔の足元へ続く道にはまだ淡い白さが漂っている。少し前までの朝とは空気の冷たさが違い、寝台から抜け出すと、まず上着を羽織りたくなった。


昨日は、秋の市についてたくさん話した。開催日も場所も分からないままなのに、二人で見たいものを挙げ、出かけるとしたら何に気をつけたいかを考えた。最後には、もし行けるなら二人で何か一つ選んでみたいという、ささやかな約束まで生まれた。


今日になっても、その楽しみは消えていない。むしろ、楽しみなことがあるからこそ、目の前の暮らしもきちんと続けたいと思えた。扉を軽く叩く音が響いたのは、身支度を終えた頃だった。


「主様。おはようございます。今朝は靄が出ておりますので、外へ出られる場合は足元にご注意くださいませ」


「おはよう、セリー。ちょうど窓から見てたよ。塔の周りがいつもと違って見えるな」


「はい。日が高くなれば薄れていくと思われますが、今は濡れた石が見えにくいところもございます。朝食の前に外を確かめる必要はありませんので、どうぞゆっくりいらしてください」


落ち着いた声に、思わず笑みが浮かんだ。何かを急いで片づけなければならない朝ではない。そんな一日の始まりを、誰かと共有できるのが嬉しい。


食堂では温かなスープと焼いたパンが用意され、窓際には昨日と同じ花が飾られていた。セリーは俺が席に着くと向かいに座り、今日の空模様について教えてくれた。朝靄は出ているものの、今のところ雨になる兆しは強くないらしい。ただし、森の天候は変わりやすいので断定はできないという。


「じゃあ、午前中は屋内のことを先にやろうか。昨日使った道具も、もう一度整理しておきたいんだ」


「承知いたしました。南側の通路を確認するのでしたら、靄が晴れてからの方がよろしいでしょうね」


「うん。昨日は石の台を見たけど、前に記録した形と変わっていないかを、もう少し丁寧に比べてみたい。調べるといっても、動かしたり掘ったりするつもりはないよ」


「はい。周囲の石や地面の状態が分かっておりませんから、まずは見える範囲の記録がよいと思います」


朝食を取りながらそんな話をしていると、セリーがふと俺の右手へ視線を向けた。何か気になることがあったのかと思ったが、彼女はすぐに自分の器へ目を戻し、控えめに微笑んだ。


「主様。昨夜のお話を、少しだけ思い出しておりました」


「……俺も、同じことを考えてた」


そう答えた途端、互いに目を合わせてしまい、何となく照れくさくなった。セリーは頬をほんのり赤くしていたが、目を逸らしたまま話を終わらせたりはしなかった。


「昨日、主様が隣を歩いてほしいとおっしゃってくださったこと、とても嬉しかったです。私、あれから何度も考えてしまいました」


「変なことを言ったとは思ってないよ。俺は本当に、そうしてほしいと思ってるから」


「はい。存じております。ですから、私も自分の望みを、少しずつ言葉にしていきたいと思います」


彼女のまっすぐな返事に、胸の奥がじんわりと温かくなった。俺には、彼女が主従の関係を大切にしていることも分かっている。だからこそ、その気持ちを否定するのではなく、彼女自身が望むものを一緒に見つけていけたらいい。


「それなら、今日も何かあったら言ってくれ。俺も、思ったことはできるだけ言葉にするよ」


「ありがとうございます。では、さっそく一つ申し上げてもよろしいでしょうか」


「もちろん」


「朝食のパンが冷める前に、召し上がっていただきたいです。お話をしているうちに、またお時間が過ぎてしまいそうですので」


真面目な顔で言われて、俺は思わず吹き出した。セリーも小さく笑い、俺たちは温かいうちに食事を進めた。こういう何気ないやり取りができるようになったことも、塔で暮らし始めてからの大きな変化なのだと思う。


食後は作業机の上を整え、木製の記録板と過去の観察記録を取り出した。紙を留めるための木製の留め具は、昨日の使用でも大きな問題を起こしていない。ただ、風のある場所で紙の端が動くことがあったので、そのときの持ち方だけは記録に加えておく。


「すぐに新しい部品を足す必要はなさそうだな。昨日も使い方を変えれば対応できたし」


「はい。持ちやすさを損なってまで留め具を増やすのは、今の段階では避けた方がよいかもしれません」


セリーは板を手に取り、紙を挟んで角度を変えてみせた。指先の動きは丁寧で、俺が気づかなかったところまで確かめようとしている。けれど、彼女も結論を急がず、必要になったときに改めて考えましょうと板を置いた。


その慎重さが、今では頼もしく感じられる。かつての俺なら、決定を先送りすることを不安に思ったかもしれない。しかし、何が分かっていて何が分からないかを整理するのは、決して何もしないことではないのだ。


次に開いたのは、南側通路で見つけた石の台についての記録だった。形の特徴、周囲の植物、歩いて確認できた位置関係。少しずつ書き足してきたため、最初に見つけた日のものと最近の記録とを並べると、観察した条件が違うことも分かる。


「この日には、日差しが石の上まで届いていなかったんだな」


「はい。昨日は午後の日差しがありましたが、最初に確認した際とは影の落ち方が違っていたはずです。見え方が変わっても、それだけで石の形が変化したとは言えません」


「なら、今日は時間と光の向きも一緒に書いてみよう。比べるには、同じものを見ているつもりでも条件を揃えないといけないんだな」


それを聞いていたエルが、腕輪から声を発した。


『主様。観察条件を併記する方針は適切です。保存されている古代の図面についても、描かれた用途と現在の現地状況が一致しているかは、別の確認が必要になります』


「ああ、昨日も言ってくれたことだな。古い図面の記載は参考にする。でも、石の台が何なのかまでは、まだ決めない」


『承知いたしました。なお、現時点で確認されている情報のみでは、石の台を特定の設備と断定することはできません』


「分かってるよ。今回は、分からないことを無理に埋めないつもりだ」


俺は記録の余白に、今日確認したいことを二つだけ書いた。以前描いた輪郭に見落としがないか。そして、石の周囲の地面に新しい変化がないか。古代の搬入経路との関係など、今の目で確かめられない事柄は、そのまま保留にした。


作業を終えた頃には、窓の外の靄も薄れ始めていた。森の木々が一本ずつ輪郭を取り戻し、低い枝に残った水滴が陽光を受けて光っている。俺たちは足元が乾ききっていないことを考え、急がず歩ける範囲だけ確かめることにした。


外へ出ると、ひんやりした空気が頬に触れた。日の当たるところは穏やかだったが、石の陰にはまだ朝の湿り気が残っている。セリーはいつもより慎重に歩幅を合わせ、俺も柔らかな土を踏み荒らさないように進んだ。


庭の湿った場所には、昨日と同じように色の濃い土が残っていた。鉢を移した位置にも目立った問題はなく、近くの花の葉にも急な変化は見られない。俺はそれを確かめると、土へ余計に触れず、記録板に時刻と表面の様子だけ書いた。


「昨日より乾いているようにも見えるけど、朝に靄が出ていたからな。これだけじゃ判断できない」


「はい。湿り気の原因が一つとは限りませんし、今は水の流れも確認できておりません。お花の状態と合わせて、引き続き見ていくのがよいと思います」


「そうしよう。花が無事なのは嬉しいけど、都合のいい答えを先に決めたくはないからね」


セリーはその言葉を聞くと、少し眩しそうに目を細めた。何か言いたそうだったが、すぐには口を開かず、代わりに色づいた葉の一枚を見上げる。その葉は枝の先で何度か揺れ、やがて風に押されて地面へ降りた。


「主様。こうして見ると、毎日少しずつ違うのですね。昨日はまだ枝に残っていた葉が、今日は足元に落ちています」


「そうだな。まとめて見れば同じ秋の景色でも、毎日同じわけじゃないんだ」


「はい。だから、今日見たものも大切に覚えていたいです」


彼女は葉を拾おうとして一度手を伸ばしたが、途中で止めた。無理に持ち帰らなくても、ここに落ちている姿を見られたのだから十分なのだという。昨日、秋の市で何も買わずに帰ってもいいと話したことを思い出し、俺は小さく笑った。


南側通路へ着くと、昨日確認した黄色い花が、石の近くで変わらず揺れていた。花へ不用意に近づかないよう気をつけながら、俺たちは歩き慣れた位置で足を止める。石の台は朝の光を横から受け、昨日よりも凹凸がはっきり見えるようだった。


「今日は、上の面が見やすいな。昨日は影になっていたところが明るい」


「はい。ただ、主様。あちらの縁は、今度は影が深くなっております。全体が一度に見やすくなったわけではないようです」


「本当だ。なら、見えた部分だけ確かめよう」


俺は前の記録を見ながら、石の上面と縁をゆっくり目で追った。表面の古びた色合いも、角の欠け方も、遠目には大きな違いがない。ところが、光の当たり方を変えて見ようと半歩だけ立つ位置をずらしたとき、端の方に細く暗い線が見えた。


「……セリー。あの縁の内側、線みたいなものが見えないか?」


「どちらでしょうか。ああ……あちらですね。確かに、周囲より少し暗く見えるところがございます」


セリーは俺の隣から同じ方向を見つめ、見えた範囲を指先で示した。細い線はまっすぐ続いているようにも見えたが、途中が苔の陰に隠れていて、端までどうなっているのかは分からない。石に刻まれた溝なのか、自然にできた亀裂なのか、それすら断定できなかった。


「前にもあったのかな。昨日までの記録には、書いてないけど」


「見えていなかっただけかもしれません。今日になって生じたものだとは、まだ言えないと思います」


「うん。近寄って触るのはやめておこう。まずは、この位置から見えたことだけ描くよ」


俺は記録板を膝に支え、細い線が見えた場所を石全体の輪郭の中へ描き込んだ。正確な長さを測れるほど近づいていないことと、苔の陰で途切れて見えることも書き添える。先ほどまで、思わず何かの印ではないかと考えかけていたが、その推測は記録の事実とは分けておいた。


『主様。新たに確認された線状の特徴は、現時点では形状および用途とも未確定です。保存図面との照合を行う場合も、位置と寸法に関する情報が不足しております』


「分かってる、エル。古代の秘密につながるかもしれないって、つい期待したくなるけどね」


『その可能性を否定する根拠も、現段階では不足しております』


いかにもエルらしい返事だった。何かを決めつけず、しかし調べる価値まで切り捨てない。その慎重な言い方が可笑しくもあり、頼もしくもあった。


「ありがとう。次は別の時間の光でも見てみよう。同じ場所から確認できれば、線そのものの形を少しは確かめられるかもしれない」


「はい。ですが、そのために危険な位置へ移動することはなさらないでくださいませ」


「もちろん。ここまで見えたなら、今日は十分だよ」


俺たちは線の位置をもう一度確かめてから、その場を離れた。分からないことが一つ増えただけなのに、心のどこかが少し弾んでいた。二千年前の魔導具師が何を残したのか、まだほんの一部しか知らない。その手がかりになりそうなものを、たとえ曖昧な形でも自分たちの目で見つけられたのが嬉しかったのだ。


塔への帰り道、セリーが隣で静かに笑った。


「主様。石の線を見つけたとき、とても楽しそうでいらっしゃいました」


「顔に出てた?」


「はい。すぐに結論を出さずにいらしたのですが、それでも何かを見つけた喜びは、よく伝わってまいりました」


「そうか……。でも、まだ本当に手がかりになるか分からないんだよな」


「はい。それでも、主様と一緒に確かめられたことは、私も嬉しいです。分からないことを残したまま帰るのも、以前より怖くなくなりました」


その言葉を聞いて、俺は彼女へ目を向けた。セリーは石の台ではなく、塔へ続く道を見ている。彼女の表情には、答えが得られなかった落胆よりも、今日の小さな発見を大切にしている穏やかさがあった。


「俺も同じだよ。ここには明日も来られるし、記録も残せる。急いで全部分かろうとしなくてもいいんだ」


「はい。帰ってくる場所があるというのは、そういうことでもあるのかもしれませんね」


昨日、二人で話した言葉だった。秋の市へ出かけても、この塔へ帰ってくる。そのことを嬉しそうに口にしたセリーが、今度は調査についても同じように考えている。


俺はその変化が嬉しかった。きっと彼女だけではない。自分も、この場所で日々を重ねるうちに、急ぐことばかりを考えなくなっているのだろう。


昼食の席では、朝に見つけた線について改めて話し合った。セリーが石の輪郭を確認し、俺が記録を読み返す。発見というにはまだ小さすぎる変化だったが、互いの見た位置が違うことで、どこが確かでどこからが推測なのかを整理することができた。


「例えば、線がまっすぐ続いているように見えたのは俺の方だけなんだな」


「はい。私には途中の陰が深く、先まで続いているかどうか分かりませんでした。ですので、両方の見え方を残しておくのがよいと思います」


「なるほど。どちらかの記憶に合わせて描き直したら、せっかくの記録が曖昧になるな」


「主様と私とでは、見えた角度が違っておりますから。違いがあること自体も、後で役に立つかもしれません」


彼女は言い終えると、少し照れたように笑った。俺が頷くと、安心したようにスープへ手を伸ばす。その一連の仕草を眺めているうちに、俺は彼女が俺の考えをただ肯定するのではなく、自分の観察を伝えてくれたことが何より嬉しいのだと気づいた。


(そうだ。俺が望んでいるのは、いつでも同じ答えを返してくれる相手じゃない)


俺が気づかなかったことを教えてほしいし、意見が違えば聞かせてほしい。間違っていると思ったことは、遠慮せず伝えてほしい。セリーにとってそれが簡単ではないと分かっているからこそ、今日のようなやり取りを少しずつ重ねていきたいと思った。


「セリー。さっき、俺と見え方が違うって教えてくれてありがとう」


「えっ……? 私は、見えたことをお伝えしただけですけれど」


「それが嬉しかったんだ。俺が気づいていないこともあるだろうし、これからも遠慮せず言ってくれると助かるよ」


セリーは目を丸くしたあと、ふわりと笑みを浮かべた。


「はい。私も、主様と一緒に考えたいと思っております。ですから、もし私の見方が違っておりましたら、そのときは主様も教えてくださいませ」


「ああ。お互いに、だな」


「はい。お互いに、です」


食事を終える頃には外の靄はすっかり消え、窓からは澄んだ青空が見えていた。俺たちは午後、作業机に戻って記録を清書し、それから秋の市についての覚え書きを開いた。昨日整理した項目はそのままで、新しい情報がなければ無理に増やす必要はない。


ただ、南側通路の観察を通じて考えたことが一つあった。自分たちの目で見たものと、誰かに聞いた話と、自分たちの推測とを分けることだ。石の線についてはできたのに、行ったことのない町については、楽しい想像の方が先に進んでしまうかもしれない。


「秋の市のことも、同じように整理しないか。ブラートが教えてくれた話と、確認できた情報と、俺たちが想像していることを混ぜないように」


「よいと思います。私、昨日は市にどんなお花が並ぶのか、いろいろと思い浮かべておりました。ですが、それが実際に売られているとは、まだ分かっておりませんものね」


「うん。でも、想像するのが悪いわけじゃない。楽しみな気持ちまで消す必要はないからさ」


「はい。では、楽しみにしていることは、楽しみにしていることとして残しておきたいです」


俺は紙に小さな区切りを設けた。実際に聞いたこと、まだ確かめていないこと、それから二人でやってみたいこと。最後のところには、手仕事の品物を見ること、季節の花を眺めること、休憩を取りながら無理なく歩くことが並んだ。


セリーはその紙をしばらく眺め、ふいに筆記具を借りてもいいかと尋ねた。俺が渡すと、彼女は空いているところへ丁寧に一つの言葉を書き加える。そこには、二人で並んで歩くこと、とあった。


「……これも、入れておきたいのか?」


「はい。主様が昨日おっしゃってくださったことを、私も大切にしたいと思いまして。品物を見ることと同じくらい、私にとって楽しみなことなのです」


「そっか。それなら、俺も忘れないようにしないとな」


「ふふっ。主様が忘れてしまわれても、私がお伝えします」


そう笑う彼女を見て、俺は書き足された文字をもう一度眺めた。単なる外出のための覚え書きが、いつの間にか俺たちの小さな願いを残す紙にもなっている。役に立つ情報だけでなく、こういうことまで書いておけるのが、今の暮らしのいいところなのだと思った。


その後、エルにも古い資料の扱いについてもう一度確かめた。塔ができた時代の図面は、当時の設備配置や通路を知るための手がかりにはなる。しかし、今の町や道の位置を示すものではないし、石の台と古い設備を結びつける根拠も足りていない。


『主様。保存資料の存在と、その記載内容の現在における有効性は、区別して扱う必要があります』


「ああ。昔の道があったとしても、今も通れるとは限らない。逆に、今使われている道が古い図面に載っていなくても、おかしくないんだよな」


『そのとおりです。秋の市への移動経路については、現在の情報を別途確認することを推奨いたします』


「分かった。ブラートの返事を待とう。それまでは、日々のことを進めておけばいい」


そう言ったあと、俺は自分で少し可笑しくなった。昨日までの俺なら、返事が届くたびにすぐ予定を決めたくなっていたかもしれない。しかし、今は知らない場所へ出かけることを楽しみにしながら、塔で過ごす今日も楽しめる。


窓から入る光が少し傾いた頃、俺たちは使った道具を片づけ、今夜の食事について相談した。セリーは保存してある食材を確かめ、俺は必要な分だけ準備するのを手伝う。手を動かしながら、秋の市ではどんな保存食が並ぶのだろうと話が弾んだ。


「主様は、知らない土地の食べ物も試してみたいですか?」


「うん、興味はあるよ。ただ、何でもその場で食べていいってわけじゃないだろうし、値段や材料も確かめたいな」


「そうですね。見慣れないものについては、扱い方を教えていただく必要もあるかもしれません」


「でも、説明を聞くだけでも面白そうだ。こっちじゃ当たり前の食べ方でも、別の町では違うかもしれないし」


セリーは頷きながら、鍋の中身を丁寧にかき混ぜた。今日の食事は、特別な材料を使ったものではない。けれど、外で見かけるかもしれない食べ物の話をしながら料理をしていると、目の前のスープまで少し新鮮に感じられた。


「もし市で美味しいものを見つけられましたら、塔へ帰ってからも、その味を思い出してみたいです」


「再現できるかどうかは分からないけど、二人で感想を話すのは楽しそうだな」


「はい。主様が気に入られたものも、私が気に入ったものも、聞かせていただきたいです」


「じゃあ、そのときは遠慮なく話そう。俺、気になる料理を見つけたら結構長く考えちゃうかもしれないけど」


「その際は、食べ物が冷める前にお声をおかけしますね」


朝にも似たようなことを言われた気がして、俺は笑った。セリーも楽しそうに微笑み、鍋から立ち上る湯気の向こうで目を細めた。まだ見ぬ秋の市は、すでに俺たちの日常へ小さな話題を運んできているらしい。


夕食の少し前、作業机の方から控えめな反応が響いた。


最初はエルが何か知らせているのかと思ったが、反応していたのは通信の魔導具だった。セリーと顔を見合わせ、火の扱いに問題がないことを確かめてから、二人で机のところへ向かう。


「ブラートから……?」


「そうかもしれません。ですが、急ぎの内容でしたら、それに合わせて確認いたしましょう」


差出人を確かめると、予想どおりブラートの名が表示されていた。昨日の返事に続く私的な通信で、文面の冒頭には、前回の話について一部だけ新しい情報が得られたと書かれている。


俺は思わず背筋を伸ばした。


「セリー、一緒に読もう」


「はい」


通信には、秋の市を開く町の名前が記されていた。フェルネという小さな町で、ブラートが以前聞いた手仕事の品物や保存食、季節の花の話は、その町についてのものだったらしい。さらに、地元で案内されている開催日についても、今から十七日後に始まる二日間だという情報が得られたと続いていた。


「フェルネ……。そんな名前の町だったのか」


「はい。初めて伺うお名前です。主様はご存じでしたか?」


「いや、少なくとも詳しい場所は思い浮かばない。王太子だった頃に地名を見かけたことがあるかもしれないけど、今の俺には確かな記憶がないな」


俺はもう一度文面を読み返した。町の名と開催日については、ブラートが連絡の取れる相手を通じて確認したものだという。ただし、塔からの移動に使える道や所要日数、町で宿泊できる場所についてはまだ調べがついていない。そのため、現時点で出かけられると判断しないでほしい、とも添えられていた。


「十七日後から二日間……。名前と日にちは分かったんだな」


「はい。ですが、そこへ行くために何日必要なのかは、まだ分からないのですね」


「ああ。遠ければ、開催日に合わせるのも難しいかもしれない。安全のこともあるし、無理はできないな」


そう答えながらも、胸の奥には確かな喜びがあった。昨日までは、どこにあるとも分からない秋の市を想像していた。それが今、フェルネという名前を持ち、いつ開かれる予定なのかも知ることができた。


その名前を口にするだけで、まだ見たことのない町が少し身近に感じられる。不思議なものだと思った。


セリーは通信の文字へ視線を落とし、小さく繰り返した。


「フェルネ……。素敵な響きですね」


「そうだね。どんな町なのかな」


「まだ何も分かりませんけれど、季節のお花が並ぶのなら、きっとそのお花を選ぶ方々がいらっしゃるのでしょうね。どのような方が作られた品物なのか、お話を伺えたら嬉しいです」


彼女の瞳には、昨日と同じ期待が宿っていた。ただ、その期待の中に、無理に決めつけようとする色はない。分からないことを認めたうえで、楽しみにしているのだと伝わってきた。


「ブラートは、追加で分かったことがあれば知らせてくれるそうだ。けど、無理に調べなくてもいいって伝えた方がいいな」


「はい。ご厚意に甘えすぎてしまわないよう、私もそう思います。それと、町のお名前と日程を教えていただけたことへのお礼も、ぜひお伝えしたいです」


「もちろん。今日は食事の準備もあるし、先に覚え書きへ写しておこうか」


俺は紙を開き、聞いた情報と、まだ確認できていない情報を分けて書き込んだ。町の名はフェルネ。市は十七日後から二日間の予定。どちらもブラートが聞き取った現在の情報だが、現地へ向かう方法や宿については不明。正式な外出予定は、まだ決められない。


筆記具を置くと、セリーが小さく息を吐いた。


「主様。何だか、少しだけ近づいたような気がいたします」


「うん。俺もだよ。行けるかどうかは分からないけど、少なくとも何を確かめればいいかが、昨日よりはっきりした」


「それが嬉しいです。知らない町が、もう名前も分からない場所ではなくなったのですね」


俺は彼女の言葉に頷いた。未知のままであることを楽しむ気持ちと、少しずつ確かめていく安心感。その二つは、互いに相反するものではないらしい。


夕食を終えると、俺たちはブラートへの短い返信を整えた。町の名と開催日を知らせてくれたことへの礼を伝え、移動経路などが確かめられるまでは訪問を決めないと書く。セリーも隣で文面を確かめ、無理のない範囲での情報提供で十分だという言葉を加えたいと提案した。


送信を済ませると、通信の魔導具は静かになった。返事が届く時期は分からないし、これ以上の情報が得られるかも確かではない。しかし、その不確かさが、もう落ち着かない気持ちにつながることはなかった。


その後、セリーは昼間の覚え書きを再び取り出し、フェルネの文字の下へ、丁寧な字で一行を書き足した。


「何を書いたんだ?」


「もし行けたら、主様と並んで歩く、と書きました。昨日のお約束を、町の名前の近くにも残しておきたくて……」


「……そっか」


俺はその文字を見つめた。買うものの名前でも、目的地へ到着するまでの時刻でもない。たった一行の願いが、詳しい旅程よりもずっと鮮やかに、まだ知らない町の様子を想像させた。


「その一行、俺も好きだよ。もし行けるなら、道のことや安全を確かめて、ちゃんと二人で歩こう」


「はい。もし今回行くのが難しかったとしても、また別の機会を一緒に考えられたら嬉しいです」


「もちろんだ。楽しみを一つ見つけたからって、それを無理に実現しなきゃいけないわけじゃないしね」


セリーは頷き、紙を大切そうに畳んだ。彼女が自分の希望を言葉にする姿を見ていると、それだけで今日の出来事には意味があったのだと思える。


夜の塔には、朝とは違う冷たい風の音が聞こえていた。窓の外に靄はなく、空には小さな星が瞬いている。俺たちは作業机を整え、明日も普段の仕事を続けられるよう、必要なものを元の場所へ戻した。


石の台に見えた線については、形も用途もまだ分からない。庭の湿った土についても、原因を決められるだけの情報はない。秋の市についても、町の名と開催予定日は分かったものの、安全な道や宿を確かめる必要が残っている。


分からないことは、今日もたくさんある。けれど、手を動かして確かめたことと、人から聞いて初めて知ったこととを区別できた。その一つ一つが、俺たちの暮らしを少しずつ確かなものにしているように感じた。


「主様。今日は、新しいことを二つ知ることができましたね」


「二つ?」


「石の台に、今まで記録していなかった線のようなものが見えたこと。それから、秋の市が開かれる町のお名前です。どちらも、まだ分からないことの方が多いですけれど」


「ああ、そうだな。片方は昔の塔のこと、もう片方は今の町のことか」


「はい。主様と一緒に、昔のことも今のことも少しずつ知っていけるのが、私はとても嬉しいです」


俺は彼女の方を向いた。セリーの表情は穏やかだったが、言葉には確かな温かさがあった。二千年前に作られた彼女が、過去の遺産だけではなく、これから出会うかもしれない町や人々にも目を向けている。そのことが、どうしようもなく愛おしく感じられた。


「……俺も、嬉しいよ。セリーと一緒だから、どっちも面白いんだと思う」


「主様……。ありがとうございます」


彼女は頬を赤らめ、しばらく俺を見つめていた。やがて少しだけためらうように手を持ち上げる。その動きが何を意味するのか、今の俺にはもう分かるようになっていた。


「セリー。手、つなごうか」


「……はい。ぜひ」


俺が手を差し出すと、彼女は自分から指先を重ねてくれた。昨日までは尋ねることにも勇気が必要だった彼女が、今日は望みを伝えようとしてくれた。その小さな変化が嬉しくて、俺は握った手にほんの少しだけ力を込めた。


窓の向こうには、まだ行ったことのない町がある。どの方角に、どれほど離れているのかさえ、今は確かめられていない。それでも、その町にはフェルネという名があり、十七日後には秋の市が始まる予定だと知った。


そして、すぐ近くには二千年前から残る石の台があり、今日初めて気づいた細い線の正体も分からないままだ。古い塔の秘密も、今の世界の景色も、急にすべて明らかになるわけではない。


けれど、それでいいのだと思う。


明日、今日とは違う角度から石を見られるかもしれない。ブラートから届く次の手紙に、道についての情報が書かれているかもしれない。あるいは何も分からないまま、いつもと変わらない一日を過ごすことになるかもしれない。


そのどれであっても、俺はここで暮らしていく。慌てずに確かめ、必要なら立ち止まり、セリーの言葉に耳を傾けながら、自分で選んでいく。


「おやすみ、セリー。今日はありがとう」


「こちらこそ、主様。どうぞ穏やかな夢をご覧くださいませ」


手を離したあとも、温かさはしばらく掌に残っていた。俺は自室へ戻る途中、もう一度だけ窓の向こうを見た。闇に包まれた森の先に、まだ知らない町の灯りが見えるわけではない。


それでも、心の中には新しい地名が一つ、確かな文字として残っていた。


(フェルネ、か。いつか、セリーと一緒にその町を歩けるといいな)


古の塔には、いつもと変わらない静かな夜が訪れていた。その穏やかな時間の中で、俺たちの明日につながる小さな楽しみが、また一つ増えていた。


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