第161話 旅支度の最初の一歩と、古い地図に描かれていない道
翌朝、目を覚ました俺が最初に意識したのは、窓の向こうから聞こえてくる風の音だった。
夏の頃とは違い、塔の周囲を流れる風には少しずつ冷たさが混じり始めている。窓から差し込む朝日も、以前より柔らかく感じられた。寝台から身体を起こして外を眺めると、森の木々の間には黄色や赤に色づき始めた葉が見え、季節が確かに進んでいることを教えてくれる。
しばらくその景色を眺めていた俺は、昨日ブラートから届いた私的な通信を思い出した。
王都から離れた小さな町で開かれるという秋の市。手仕事の品物や保存食、季節の花などが並ぶらしいと聞いて、セリーと一緒に行ってみたいと思った場所だ。
ただし、開催日も町の詳しい場所も、そこまで続く道の状況も確認できていない。実際に出かけられるかどうかは、これから調べなければならないことが多かった。
(それでも、昨日は随分と楽しみになったんだよな)
王太子だった頃、俺がどこかへ出かける場合には、必ず目的と理由が必要だった。訪問先では誰と会い、どんな言葉を交わし、どのような姿を見せるのか。そうしたことが、俺自身の希望とは関係のないところで決められていた。
町を訪れる機会はあっても、道端に並ぶ店へ自由に立ち寄ったことなどほとんどない。人々の暮らしを視察することはあっても、そこに自分も混ざって買い物を楽しむという経験は、思い返しても見つからなかった。
だからこそ、昨日セリーが秋の市の話を聞いて目を輝かせたことが、妙に嬉しかったのかもしれない。
誰かに命じられたわけでも、果たすべき役目があるわけでもない。ただ、二人で行ってみたいと思える場所ができた。
それだけのことなのに、俺にとっては随分と大きな変化だった。
「主様。お目覚めでしょうか」
扉の向こうから聞こえてきた声に、俺は自然と笑みを浮かべた。
「ああ、起きてるよ。おはよう、セリー」
「おはようございます。今朝は少し冷え込んでおりますので、温かい飲み物をご用意しております。お身体の調子はいかがでしょうか」
「問題ないよ。むしろ、いつもより気分がいいくらいだ」
そう答えると、扉の向こうで小さく衣擦れの音がした。セリーが安心したように胸を撫で下ろしている姿が、見なくても想像できた。
「それは何よりです。では、食堂でお待ちしておりますね」
「ああ、すぐ行く」
身支度を整えながら、俺はもう一度窓の外へ目を向けた。
秋の市がいつ開かれるのかは、まだ分からない。そもそも安全に行ける場所なのかも確認できていないのだから、今から予定を決めることはできなかった。
それでも、今日という一日を少し楽しみに思える理由が、また一つ増えたような気がした。
食堂へ向かうと、いつもの席には温かな朝食が並んでいた。
焼いたパンからは香ばしい匂いが漂い、器に注がれたスープからは細い湯気が立ち上っている。窓際には昨日までと同じ小さな花が飾られていて、特別な変化があるわけではないのに、部屋全体がどこか明るく見えた。
セリーは俺の姿を確認すると、手にしていた布を畳んで席の近くまで歩いてきた。
「主様、今朝はパンを少し温め直してみました。外が冷えておりますので、できるだけ温かいうちに召し上がってください」
「ありがとう。セリーも一緒に座ろう」
「はい。ありがとうございます」
向かいに腰を下ろしたセリーは、俺が席に着くのを見届けてから、自分の前に置かれた器へ視線を落とした。
以前であれば、彼女は俺の世話を優先するあまり、自分が食卓を囲むことを遠慮していたかもしれない。しかし今では、こうして向かい合って朝食の時間を過ごすことが、俺たちにとって当たり前の習慣になりつつあった。
パンを一口食べると、ほどよい温かさと香りが口の中に広がった。
「うん、美味しい。こういう朝には、温かいパンがいいな」
「お気に召していただけて嬉しいです。今朝は少し温め方を変えてみましたので、硬くなりすぎていないか心配しておりました」
「ちょうどいいと思うよ。外側は少し香ばしいけど、中は柔らかいままだ」
そう伝えると、セリーはほっとしたように微笑んだ。彼女の嬉しそうな顔を見るたびに、食事の時間には料理そのものとは別の楽しさがあるのだと気づかされる。
しばらく二人で朝食を進めていると、セリーが思い出したように顔を上げた。
「主様。昨日のお話なのですが、少しお伺いしてもよろしいでしょうか」
「秋の市のこと?」
「はい。まだ詳しいことは分かっておりませんけれど、もし本当に行けるようになりましたら、主様は何をご覧になりたいですか?」
その問いに、俺はパンを持つ手を止めた。
昨日は行ってみたいという気持ちばかりが先に立っていて、実際に何を見たいのかまでは深く考えていなかった。
「そうだな……手仕事の品物は見てみたいかな。木工品とか、日常で使う小物とか。昔から使われている道具が、今の人たちの暮らしの中でどう変わっているのかも気になる」
「主様らしいですね」
「そうかな?」
「はい。塔の中でも、古い道具がどのように使われていたのか、いつも丁寧に考えていらっしゃいますから。きっと市でも、一つ一つのお品を興味深そうにご覧になるのだと思います」
セリーはそう言ってから、少し楽しそうに笑った。
「ただ、主様が夢中になってしまわれた場合には、私がお時間をお知らせした方がよいかもしれませんね」
「それはありそうだな。気になるものを見つけると、つい長く考えてしまうし」
「ですが、私はそのような主様のお姿を拝見するのも好きです」
あまりに自然な口調で言われたため、俺は一瞬返事を忘れてしまった。
セリーは言葉の意味を確かめるように少し首を傾げていたが、やがて自分が何を口にしたのか思い至ったらしい。頬をほんのり赤くして、視線を器へ戻した。
「も、もちろん、お時間に余裕があれば、という意味でございます」
「ああ……うん。ありがとう」
それ以上は何も言わず、俺も残っていたパンへ目を向けた。
(こういう何気ない言葉に、まだ慣れないんだよな)
嬉しいと思う気持ちは確かにある。それをどう返せばいいのか、俺にはまだ分からないことが多かった。
ただ、彼女の言葉を聞いたときに胸の奥が温かくなる感覚だけは、以前よりもはっきりしてきている。
「セリーは何が見たい?」
少し間を置いて尋ねると、セリーは考えるように指先を重ねた。
「私は……季節のお花を見てみたいです。それから、手作りの布製品や、小さな飾り物にも興味がございます。塔の中で使えるものが見つかるかもしれませんし、主様と一緒に選ぶことができましたら嬉しいです」
「花か。昨日の話でも、季節の花が並ぶって言ってたな」
「はい。ですが、持ち帰った後に育てられるかどうかは別の問題ですので、まずはどのようなお花があるのかを見るだけでもよいと思っております」
「そうだね。庭の湿った場所についても、まだ分からないことがあるし。新しい植物を増やすなら、育てる場所や管理方法を先に考えないと」
「そのとおりでございます。今あるお花も、大切にしたいですから」
セリーは窓際に飾られた花へ目を向けた。
その横顔を眺めながら、俺はふと不思議な気持ちになった。
二千年前の魔導具師が残した魔導人形である彼女が、今では季節の花や食卓の飾りについて、こんなにも自然に考えている。
古代の技術や魔導具について話すときの彼女も魅力的だが、どの花を飾ろうかと悩む姿には、それとは違う温かさがあった。
(きっと、これからも知らない一面が増えていくんだろうな)
俺自身にも、まだ知らないことは数え切れないほどある。
だからこそ、一緒に見て、一緒に考えていきたいと思った。
朝食を終えた俺たちは、食堂の片づけを済ませてから、普段使っている作業机の前へ移動した。
机の上には紙と筆記具を置き、その隣に森での記録に使っている木製の記録板を並べる。
角を丸くし、木製の留め具を調整してきた記録板は、ようやく屋外で実際に使えるところまで来ていた。昨日までの試用では、紙を押さえながら周囲の様子を書き留めるという本来の目的を果たすことができている。
もちろん、長い移動や悪天候の中でも同じように使えるかまでは確かめていない。しかし、少なくとも今の俺たちにとっては、準備を重ねて形にした大切な道具だった。
「今日は秋の市について、分かっていることと、これから確認することを整理しておこうと思う」
「はい。私もその方がよいと思います。楽しみなことが多いほど、うっかり見落としてしまうこともあるかもしれませんから」
「そうなんだ。特に今回は、塔の周辺を少し歩くのとは違う。知らない町へ向かう可能性がある以上、普段以上に気をつけないといけないからね」
俺は紙の上部に、秋の市についての覚え書きだと分かるように記した。
最初に書いたのは、現時点で確かめられていることだ。
ブラートから、王都を離れた小さな町で秋の市が開かれるらしいという話を聞いたこと。手仕事の品物や保存食、季節の花などが並ぶと紹介されたこと。そして、俺とセリーがそこへ行ってみたいと思っていること。
続いて、まだ確認できていないことを書き出していく。
開催日、町の具体的な場所、塔から向かうための道、途中の安全性、往復に必要な時間、宿泊が必要になるかどうか。
書いてみると、思っていた以上に空白が多い。
「こうして並べると、まだ出かける予定を立てられる段階じゃないな」
「はい。ですが、何が分からないのかが分かりましたので、少し前進したのではないでしょうか」
「確かに。何も考えずに待つよりは、ずっといいね」
俺は紙を眺めながら、もう一つ項目を加えた。
人の多さと、町の中で休める場所について。
セリーがその文字に気づき、不思議そうにこちらを見た。
「主様。休める場所も、あらかじめ確認しておいた方がよろしいのでしょうか」
「ああ。秋の市は普段より人が集まるだろうし、ずっと歩き回ることになるかもしれないから。途中で落ち着ける場所があると安心だと思う」
「主様のお身体を考えますと、確かに大切なことでございますね」
「俺だけじゃないよ。セリーだって、人が多い場所に長くいるのは初めてかもしれないだろう?」
そう言うと、セリーは少し驚いたように瞬きをした。
「私、ですか?」
「うん。町では何度か人と接してきたけど、秋の市みたいに大勢が集まる場所は、また雰囲気が違うと思うんだ。疲れるかもしれないし、落ち着かないと感じるかもしれない」
「ですが、私は魔導人形ですので、人間の方と同じような疲労が生じるとは限りません」
「それは分かってる。でも、疲れにくいことと、嫌な思いをしないことは別だろう?」
俺の言葉に、セリーは何も答えなかった。
彼女は魔導人形として、人間とは異なる身体を持っている。俺には分からないことも多いし、彼女自身にしか判断できない部分だってあるはずだ。
だからといって、無理をしない理由が身体の疲労だけだとは思わない。
「人が多くて落ち着かないとか、知らない場所で不安になるとか、そういうこともあると思う。もし途中で帰りたくなったら、遠慮しないで言ってほしい」
「主様……」
「俺だって、久しぶりに知らない町へ行くのは緊張すると思うしね。だから、どちらか一人が無理をしてまで出かける必要はないと思ってる」
セリーはしばらく俺を見つめていた。
その瞳には少しの驚きと、何かを考え込むような静かな光が浮かんでいた。
やがて彼女は、両手を膝の上で重ねながら、ゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます、主様。私、自分がどのように感じるのかも、きちんと確かめながら歩きたいと思います」
「ああ。それがいいよ」
「そして、もし主様がお疲れになりましたら、私にも教えてくださいませ。主様だけが私のことを気にかけるのではなく、私も主様のお気持ちを大切にしたいのです」
「分かった。約束する」
俺がそう答えると、セリーは柔らかな笑みを浮かべた。
ただ出かけるための準備をしているだけなのに、こんなふうに互いの気持ちを確かめ合う時間が生まれる。
それが嬉しくて、俺は新しい項目の横に、小さくもう一つ書き添えた。
無理をせず、二人のどちらかが帰りたいと思ったら予定を変えること。
「主様。その項目は、私も忘れないようにいたします」
「俺もだよ。せっかくの外出なんだから、楽しい思い出にしたいし」
「はい。私も、そう願っております」
そのとき、机の端に置いていた腕輪のエルから、落ち着いた声が聞こえてきた。
『主様。現在の整理内容について、一点申し上げてもよろしいでしょうか』
「ああ、エル。何か気づいたことがある?」
『はい。移動経路を確認する際には、古代の記録と現在の通行状況を分けて扱うことを推奨いたします。保存資料に経路の記述が存在する場合でも、その経路が現在も安全に使用できるとは限りません』
「そうだね。そこは気をつけないと」
以前、塔の南側通路で古い石の台を見つけた際にも、エルは外周の作業台や通路、搬入経路に関する古い図面が存在することを確認していた。
しかし、その図面に描かれた設備と、俺たちが実際に見つけたものが同じなのかは、まだ分かっていない。
二千年という時間は、資料に記された情報と今ある景色を大きく変えてしまうには十分すぎる長さだ。
「秋の市へ向かう道については、ブラートから現在の情報を聞く必要があるな。古い資料で分かることがあっても、それだけを頼りにはしないようにしよう」
『承知いたしました。なお、現時点では当該の秋の市について、正確な開催地や日程を特定できる情報が不足しております』
「ああ。だから、今は勝手に決めないでおこう」
「エル、ありがとうございます。私も、古い情報と今の情報を混同しないよう注意いたします」
『承知いたしました、セリー。必要な情報が得られた段階で、改めて整理することを推奨いたします』
俺は書きかけの紙へ視線を落とした。
行きたいという気持ちは確かにある。
けれど、楽しみな予定だからこそ、曖昧なままで済ませてはいけないこともあるのだろう。
王太子だった頃には、俺の知らないところで多くの人が安全を確かめ、道を調べ、訪問先と調整してくれていた。
あの頃の俺は、その準備にどれほどの手間がかかっているのか、本当の意味では理解していなかったのかもしれない。
(今は、自分たちで確かめて、自分たちで選ぶんだ)
面倒だとは思わなかった。
むしろ、まだ知らない場所へ出かけるための準備を、セリーと一緒に考えられることが楽しかった。
午前の作業を一区切りにしたところで、俺たちは塔の外へ出ることにした。
目的は秋の市へ向かう道を探すことではない。普段から確認している庭や南側通路の様子を見ながら、屋外で持ち歩くものについて考えてみようという話になったのだ。
外へ出る前に、俺は木製の記録板と筆記具を用意した。
セリーは薄手の布を畳んで小さな袋に収め、必要になれば記録板を包めるようにしてくれた。
「今日は記録板そのものの試験ではありませんが、持ち運ぶ際の様子も確認できるかもしれませんね」
「ああ。昨日までに紙を固定して使えることは分かったけど、荷物が増えたときの持ち歩きやすさまでは十分に確かめられていないから」
「でしたら、無理にすべての道具を持つのではなく、まずは普段必要になるものだけにいたしましょう」
「そうしよう。外出するとしても、荷物が多すぎると歩きにくくなるし」
セリーが差し出してくれた袋を受け取りながら、俺は一つずつ中身を確かめた。
道具を持つこと自体は難しくない。しかし、途中で取り出したり戻したりすることを考えると、入れる場所や重ね方にも工夫が必要だった。
王宮で出かける準備をするときには、俺が荷物の収まり具合を気にすることなどなかった。何を持つべきかすら、ほとんど周囲が判断していたからだ。
今は違う。
自分で持つものを選び、使いやすい場所にしまい、忘れ物がないか確かめる。その小さな作業に、以前は知らなかった楽しさを感じていた。
外へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。
塔の周囲には秋らしい澄んだ空気が広がり、草木の匂いも夏とは少し変わっている。森の奥からは鳥の声が聞こえ、落ち葉が風に動かされるたび、地面を軽く擦るような音がした。
セリーは塔の扉を閉めてから、空を見上げた。
「今朝よりも少し風が強くなっておりますね」
「そうだな。日が出ているから暖かく感じるけど、日陰に入ると結構冷えそうだ」
「秋の市へ出かける場合にも、こうした気温の変化を考えた方がよろしいのでしょうね」
「ああ。開催日が分かったら、その時期に合わせて服装も考えないと」
俺たちは並んで歩き始めた。
足元の様子を確認しながら、まずは普段から通っている範囲をゆっくり進む。記録板は片手で持ち続けるのではなく、必要なときに取り出せるようにしておいた。
庭の一角では、以前から気にかけている湿った場所が、今朝も周囲より濃い色をしていた。
すでに移動させた鉢の位置に問題がないかを確かめ、近くの土の様子を見比べる。
「昨日より乾いているようにも見えるけど、日差しの当たり方が違うから、見た目だけでは判断できないな」
「はい。土の表面も、場所によって乾き方が違っております。今すぐ原因を決めるのは難しそうですね」
「そうだね。記録だけ残しておこう」
俺は記録板を取り出して紙を押さえ、気づいたことを書き留めた。
角を丸くした板は手に馴染みやすく、留め具も不用意に動く様子はなかった。ただ、身体の向きを変えながら筆記しようとすると、紙の端がわずかに風を受ける。
セリーが横からその様子を見ていた。
「主様。風が強いときには、少し書きにくそうでしょうか」
「ああ。でも、今のところは記録できるよ。片手の位置を変えれば、紙が動くのも抑えられそうだ」
「でしたら、現時点ではそのまま使い、必要が出てから改めて調整した方がよいかもしれませんね」
「うん。何でも先に直そうとすると、かえって使いにくくなることもあるだろうし」
実際に使うたび、少しずつ分かることが増えていく。
以前なら完成した道具は最初から完璧でなければならないと思っていたかもしれない。しかし、今では使ってみなければ分からないことがあるのだと、素直に受け止められるようになった。
記録を終えた俺たちは、さらに南側の通路へ足を向けた。
以前見つけた黄色い花は、今も石の近くに咲いていた。
風に揺れる小さな花弁を眺めながら、セリーがゆっくりと足を止める。
「このお花を見ると、あのとき主様と一緒に歩いたことを思い出します」
「そうだね。石の台も見つけたし、気になることがいくつも増えた場所だ」
「はい。ですが、まだ分かっていないことも多いですね」
少し離れた位置には、以前確認した石の台があった。
俺は近づきすぎない場所からその様子を眺め、以前記録した形や周囲の状態を思い返した。
古い図面に記されていた設備と関係があるのか、それとも別の用途を持っていたのか。今のところ判断できる材料は足りていない。
「こっちも急がずに調べていこう。秋の市の準備が始まったからって、塔のことを全部後回しにする必要はないし」
「はい。私も、ここでの暮らしを大切にしながら、新しい場所へ出かけられたら嬉しいです」
セリーはそう言って、石の台から塔の方へ視線を戻した。
「主様。私、昨日から少し不思議な気持ちなのです」
「不思議な気持ち?」
「はい。塔の中で過ごす毎日は、とても穏やかで、大切な時間です。ですから、今まではこの場所で主様のお役に立てることが、私にとって何よりの喜びだと思っておりました」
そこまで話した彼女は、一度言葉を切った。
風が吹き、黄色い花が細い茎を揺らす。
俺は急かすことなく、彼女が次の言葉を探すのを待った。
「ですが、昨日、主様と一緒に秋の市へ行ってみたいと思ったとき……私は、塔の外にも楽しみにできることがあるのだと気づいたのです」
「うん」
「それが嬉しいのに、少しだけ戸惑ってしまいました。ここにいることが幸せなのに、まだ知らない場所へ行きたいと思うのは、贅沢なことなのではないかと……」
セリーは最後の言葉を口にしたあと、困ったように微笑んだ。
その表情を見て、俺は胸の奥がわずかに痛むのを感じた。
彼女は自分の希望を口にすることに、以前より慣れてきている。それでも、誰かのためではなく自分のために何かを望むことには、まだ遠慮が残っているのかもしれない。
「セリー。それは贅沢じゃないと思うよ」
「主様……」
「塔での暮らしが好きだからって、ずっとここにいなきゃいけないわけじゃない。外へ出てみたいと思ったからって、この場所を大切にしていないことにもならないだろう?」
俺は目の前に広がる森へ視線を向けた。
木々の向こうに何があるのか、今の俺には詳しく分からない。町も、人も、そこへ続く道も、まだ知らないことばかりだ。
けれど、分からないからこそ確かめてみたいと思える。
「俺も、この塔が好きだよ。ここに来てから、今まで知らなかったことをたくさん経験できたし、何よりセリーたちと出会えた。でも、それと外の世界を見てみたい気持ちは、別に矛盾しないと思うんだ」
セリーは静かに俺の言葉を聞いていた。
「それに、帰ってくる場所があるからこそ、安心して出かけられるんじゃないかな」
「帰ってくる、場所……」
「ああ。秋の市へ行けるとしても、そこで暮らすわけじゃない。いろんなものを見て、何かを買うかもしれないし、買わないかもしれない。それから、またここへ戻ってくるんだ」
そう口にしたとき、俺は自分でも少し驚いた。
かつての俺にとって、城は帰らなければならない場所だった。
王太子として生まれ、その責務を果たすために戻る場所。自分の意思とは関係なく、そこにいることを求められる場所だった。
しかし今、俺は古の塔を自分から帰りたいと思える場所として考えている。
誰かに命じられたからではない。
ここに、俺が大切にしたい暮らしがあるからだ。
(そうか。俺はもう、この塔を自分の家だと思っているんだな)
その事実に気づくと、不思議なほど心が落ち着いた。
セリーはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「……はい。私も、ここへ帰ってきたいです」
彼女の声は小さかったが、はっきりとした意思が込められていた。
「もし秋の市へ行けましたら、そこで見たものや、感じたことを、またこの塔で主様とお話ししたいです。買ってきたものがございましたら、一緒に置く場所を考えたいですし、お花がございましたら、今あるお花と並べて眺めてみたいです」
「いいね。そういう楽しみ方もできるんだな」
「はい。それから……できましたら、外出先でも主様とお話しする時間を大切にしたいです。初めて見るものがたくさんあっても、急いで歩くのではなく、一緒に立ち止まってみたいと思います」
「俺も同じだよ」
自然と返した俺の言葉に、セリーは嬉しそうに目を細めた。
その笑顔を見た瞬間、俺は彼女と一緒に出かけたいと思った理由が、少しだけ分かった気がした。
秋の市そのものへの興味は確かにある。
けれど、それ以上に、そこでセリーがどんなものを見つけ、どんな顔をするのかを知りたいのだ。
彼女が喜ぶ姿を隣で見たいし、俺が何かを見つけたときには、その面白さを一番に伝えたい。
(……こういう気持ちも、少しずつ変わってきているんだろうか)
答えはまだ出せない。
ただ、無理に名前をつける必要もないと思った。
俺たちはもう少し周囲を確認してから、塔へ戻ることにした。
帰り道では、先ほどまでの風が少し弱まり、足元に落ちた葉が日差しを受けて明るく見えた。
セリーは俺の隣を歩きながら、ときどき森の方へ目を向けている。
以前よりも、彼女が自分から周囲の景色を楽しむ時間が増えたように思う。
俺がその横顔を眺めていると、彼女がこちらを向いた。
「主様。何かございましたか?」
「いや、楽しそうだなと思って」
「はい。とても楽しいです」
セリーは少し照れたように笑った。
「今日はまだ塔の近くを歩いただけですけれど、それでも主様と秋の市のお話ができましたので、いつもとは少し違う景色に感じられます」
「そうだね。俺も似たようなことを考えてた」
「ふふっ。それでしたら、嬉しいです」
そのまま二人で歩いていると、セリーの手が俺の手の近くへ寄った。
偶然だったのか、それとも彼女も意識していたのかは分からない。
ただ、俺がそっと手を伸ばすと、セリーは驚くことなく、その手を握り返してくれた。
指先から伝わる温かさを感じながら、俺たちは急がずに塔へ戻った。
昼食を終えたあと、俺たちは午前中に書き出した覚え書きをもう一度見直した。
外へ出て実際に荷物を持ち歩いたことで、いくつか気づいたことがある。
記録板は必要なときに取り出しやすい場所へ入れること。歩く間に使わない道具は、無理に手に持たないこと。そして、知らない道を歩く場合には、周囲を確かめるための余裕が必要になること。
どれも特別な発見ではない。
しかし、紙の上で考えていただけでは気づかなかったことだった。
「主様。もし秋の市で何かを購入するのでしたら、持ち帰る方法についても考えた方がよろしいでしょうか」
「そうだな。あまり大きなものは難しいかもしれないね。そもそも移動手段も決まっていないし」
「はい。ですので、今の段階では購入するものを決めるのではなく、どのようなお品を見たいのかだけ整理しておくのがよいかと思います」
「賛成。せっかく行くんだから、見つけたものをその場で選ぶ楽しみも残しておきたいし」
俺の言葉に、セリーは目を輝かせた。
「その場で選ぶ、ですか」
「ああ。前もって何を買うか全部決めていたら、知らないものに出会う楽しみが減ってしまうかもしれないだろう?」
「確かに、そうかもしれません。私、見たことのない布の模様や、小さな木彫りの飾りなどがございましたら、きっと目移りしてしまうと思います」
「それなら、ゆっくり選べばいいさ。気になるものがいくつもあったら、一緒に比べてみよう」
「はい。主様にも、ご意見を伺いたいです」
「もちろん。でも、セリーが気に入ったものなら、俺の意見に合わせる必要はないからね」
そう伝えると、セリーは少し考えたあと、静かに頷いた。
「分かりました。私が気に入ったものは、自分の言葉でお伝えいたします」
「うん。その方が嬉しいよ」
俺は紙の端に、見てみたいものとして木工品と日用品を書き加えた。
セリーはその隣に、季節の花と布製品、小さな飾り物について書いてほしいと頼んできた。
どれも今すぐ必要なものではない。
だからこそ、気軽に思い浮かべることができた。
ただ、その作業をしているうちに、俺は一つ大切なことを思い出した。
「そういえば、買い物をするならお金の準備も考えないといけないな」
「そうでございますね。ですが、まだ行き先も決まっておりませんので、必要な額を考えるのはもう少し後でもよろしいかもしれません」
「うん。まずは移動にどんな費用が必要になるかも分からないし。買い物だけじゃなくて、食事や休憩のこともあるからね」
王宮にいた頃、俺自身が品物の代金を直接支払う場面は限られていた。
もちろん貨幣の価値や取引についての知識はあったが、実際に自分の手で品物を選び、代金を確かめて購入する経験は、それほど多くない。
今では町での生活を通じて少しずつ慣れてきたものの、まだ知らないこともある。
「そう考えると、秋の市では買い物そのものも楽しみだな」
「はい。私も、お店の方とお話ししてみたいです」
「セリーなら、きっと丁寧に話せると思うよ」
「ありがとうございます。ですが、初めてお会いする方が大勢いらっしゃるかもしれませんので、少し緊張すると思います」
「俺もだよ。だから、無理して全部の店を回ろうとしなくてもいいんだ」
俺はそう言ってから、少し考えた。
昨日は秋の市という言葉を聞いて、どちらかというと楽しい光景ばかりを思い浮かべていた。
しかし、実際に人の集まる場所へ行くことになれば、気にかけなければならないこともある。
俺は元王太子だ。
王都から離れた町とはいえ、誰かが俺の顔を知っている可能性は否定できない。すでに肩書きを失っているからといって、過去がなくなるわけではないのだ。
何より、俺が不用意に行動したことで、セリーや周囲の人々へ迷惑をかけるようなことは避けたい。
考え込んでいた俺に、セリーがそっと声をかけてきた。
「主様。何かご心配なことがございますか?」
「ああ……少しだけね」
俺は隠すべきか迷ったが、結局そのまま話すことにした。
「人が多い場所だと、俺のことを知っている人がいるかもしれないと思ってさ。王都から離れているからって、絶対に大丈夫とは言えないだろう?」
セリーは真剣な表情で頷いた。
「はい。その可能性については、私も考えておりました」
「そうだったのか」
「主様が今の暮らしを大切にしていらっしゃることは、私も存じております。ですから、外出することでご負担が増えるようなことがあってはならないと思っておりました」
セリーは少しだけ視線を伏せた。
「ただ……そのことを考えすぎてしまいますと、主様が行ってみたいと思われた場所へ、いつまでも出かけられなくなってしまうのではないかとも感じております」
「うん。そこが難しいところなんだよな」
安全は大切だ。
けれど、不安があるからといって、何もかも諦めてしまうのも違う気がする。
俺が自由に生きたいと思ったのは、単に王宮から遠ざかりたかったからだけではない。
自分の望む暮らしを、自分で選びたかったからだ。
もちろん、その自由には責任が伴う。
誰かに危険を押しつけるような行動はできないし、勢いだけで外へ飛び出すつもりもない。
だからこそ、今は情報を集めて判断するしかないのだろう。
「ブラートにも、そこは相談してみようと思う。町の人の出入りとか、どれくらいの規模の市なのかとか。もちろん、それだけで安全が保証されるわけじゃないけど」
「はい。主様が安心して判断できる材料を、少しずつ集めてまいりましょう」
「ああ。行くと決めるのも、行かないと決めるのも、ちゃんと考えてからにしたい」
セリーは俺の言葉を聞いて、柔らかく微笑んだ。
「私も、主様と一緒に考えたいです」
その一言が、何より心強かった。
午後も少し進んだ頃、机の上に置いていた通信の魔導具が、控えめな反応を示した。
俺とセリーは顔を見合わせる。
「……ブラートかな?」
「昨日お返事をお送りしましたから、その可能性はございますね」
俺は魔導具へ近づき、届いた通信を確認した。
表示された差出人は、予想どおりブラートだった。
ただ、昨日と同じく個人的なやり取りとして届いているもので、急ぎの知らせを告げるような様子はない。
「読んでみようか」
「はい」
セリーが隣に立ったのを確かめてから、俺は通信の内容に目を通した。
最初に書かれていたのは、昨日送った近況への返事だった。
塔での暮らしが穏やかに続いていることを知って安心したという言葉と、俺たちが秋の市に興味を持ったことを喜ぶ内容が続いている。
ただし、開催日や場所については、まだ十分に確かめられていないという。
ブラート自身も、以前耳にした話を紹介した段階であり、実際に訪問を考えるのであれば、町の場所や開催状況について確認する必要があると書かれていた。
「やっぱり、まだ詳しいことは分かっていないみたいだな」
「はい。ですが、ブラート様も確認が必要だとお考えなのですね」
「ああ。少なくとも、今すぐ予定を立てるのは難しそうだ」
続きには、俺たちが本当に訪問を考えているのであれば、分かる範囲で情報を確かめてみたいという申し出があった。
ただし、現在の道路状況や移動手段まで把握できているわけではないこと、町へ出向く人の数も開催日によって変わる可能性があることが、丁寧に断られている。
俺はその内容を読み終えると、小さく息を吐いた。
「ブラートらしいな。無理に大丈夫だとは言わないし、分かっていないことは分かっていないって書いてくれてる」
「はい。主様のことを大切に考えてくださっているのだと思います」
「ありがたいよ。本当に」
王宮にいた頃、俺の周囲には確かな情報と、不確かな情報が混ざって届くことがあった。
誰かの思惑が含まれている場合もあれば、良かれと思って不安な部分を省かれることもある。
そして俺自身も、聞いた話を十分に確かめないまま受け止めてしまったことがあったのかもしれない。
だから今は、こうして不明なことを不明なまま伝えてくれる相手を、以前よりもずっと信頼できる気がした。
「どう返そうか」
俺が尋ねると、セリーは少し考えてから答えた。
「主様が今も秋の市へ行ってみたいと思っていらっしゃるのでしたら、そのお気持ちをお伝えしてよいのではないでしょうか。ただ、詳しい情報を確認してから判断したいことも、一緒にお伝えするのがよいと思います」
「うん。俺もそう思う」
俺は返事の文面を考え始めた。
まず、知らせてくれたことへの感謝を書く。
次に、秋の市には今も興味があり、セリーと一緒に訪れてみたいと思っていることを伝える。
そのうえで、開催日や場所、現在の道の状況などが分かるまでは、訪問を決定するつもりがないことも明記した。
また、町の人出について分かることがあれば教えてほしいと添えた。
ブラートに無理な調査を頼むことにならないよう、確かめられる範囲で構わないという言葉も忘れない。
書き終えた文面を読み返していると、セリーが俺の隣からそっと覗き込んだ。
「主様。とても丁寧なお返事だと思います」
「ありがとう。何か気になるところはある?」
「いいえ。ただ、一つだけ加えていただけるのでしたら、私も秋の市を楽しみにしていることをお伝えいただけますか?」
「ああ、もちろん」
俺は最後の方へ短い一文を加えた。
セリーも、季節の花や手仕事の品物を見られることを楽しみにしている。
そう書くと、彼女は少し恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、主様」
「こちらこそ。一緒に行きたいって思ってるんだから、セリーの気持ちも伝えたいよ」
文面を確認してから、俺は返信を送った。
通信の反応が収まり、机の上に静けさが戻る。
これで秋の市へ向かうことが決まったわけではない。
むしろ、開催日も場所もまだ分からないという状況は変わっていなかった。
それでも、俺たちが行ってみたいと思っていることを、ブラートへきちんと伝えることができた。
今の段階では、それで十分だった。
「主様。少しずつですが、準備が進んでいるように感じます」
「そうだね。実際には、まだ分からないことばかりだけど」
「はい。ですが、昨日はただお話を伺っただけでした。今日は、主様と何を見たいか考えて、必要な確認事項も整理できました」
セリーは机に置かれた紙へ目を向けた。
「それに、私が楽しみにしていることも、ブラート様へお伝えいただけました」
「そう考えると、確かに昨日より進んでるな」
俺は笑って頷いた。
急いで結論を出さなくてもいい。
準備をすること自体が、もう楽しい時間になっているのだから。
夕方が近づくと、塔の窓から差し込む光が少しずつ橙色へ変わっていった。
俺たちは秋の市についての覚え書きを片づけ、普段の作業へ戻った。
木製の記録板を軽く拭き、使った紙を整理する。
屋外で確認した庭の湿った場所についても、今日の様子を記録に加えた。
また、南側通路の黄色い花と石の台については、以前の記録と照らし合わせながら、変化があったかどうかだけを確かめておく。
新しい結論が出たわけではないが、今までの観察を続けることには意味がある。
秋の市が気になるからといって、すでに取り組んでいることまで放り出したくはなかった。
「主様。今日の記録は、こちらにまとめておきますね」
「ああ、ありがとう。古い図面との照合については、まだ保留のままでいいと思う」
「はい。現時点では、石の台が図面に記された設備と一致するかどうか、判断できるだけの情報がありませんから」
「そうだね。そこは今後の調査で確かめていこう」
資料の整理を終えたところで、俺はふと、三〇八号室の少年のことを思い出した。
以前、彼は焼きたてのパンの香りに興味を示していた。
ただし、実際にどのような方法で香りを届けられるのか、十分な安全確認は済んでいない。彼にとって嬉しい経験になる可能性がある一方で、食べることができない悲しさにつながるかもしれないという問題も残されている。
だから、まだ実施を決めることはできない。
秋の市では保存食なども並ぶらしいが、そこで何かを見つけたからといって、すぐに彼の希望へ結びつけて考えるべきではないだろう。
(楽しみにできることがあるのはいい。でも、それが誰かにとって負担になるかもしれないなら、ちゃんと確かめないとな)
俺たちが秋の市へ行くかどうかを慎重に考えているのと同じように、彼の希望についても、本人の意思と安全を大切にしながら考えていきたい。
俺はその思いを胸に留め、今日は新しい判断を加えないことにした。
夕食の準備が始まる頃には、外の風が再び少し強くなっていた。
食堂へ移動すると、セリーが温かな飲み物を用意してくれた。
窓の向こうでは、色づいた葉が夕日に照らされている。
「今日は、いろいろ考えた一日だったな」
席に着きながらそう呟くと、セリーが向かいで微笑んだ。
「はい。ですが、とても楽しい一日でもございました」
「俺もそう思うよ。まだどこにも行ってないのに、こんなに楽しみになるとは思わなかった」
「私もです。主様と一緒にお出かけの準備をするだけで、こんなに嬉しい気持ちになるとは知りませんでした」
俺は温かな飲み物を一口飲んだ。
外の冷え込みとは対照的に、食堂には穏やかな空気が満ちている。
「そういえば、セリー。もし秋の市に行けたら、何か一つ、二人で選んでみたいな」
自分でも少し意外な言葉だった。
セリーは驚いたように瞬きをしたあと、ゆっくりと首を傾げる。
「二人で、ですか?」
「ああ。別に高価なものじゃなくていいんだ。小さな飾りでも、普段使う道具でも。何か一つ、一緒に選んだものを塔へ持ち帰れたらいいなと思って」
口にしながら、俺は少しだけ照れくさくなった。
何を買うかも分からないし、そもそも行けるかどうかも未定だ。
それなのに、二人で選んだものを塔に置く光景を、いつの間にか思い浮かべていた。
セリーはすぐには答えなかった。
ただ、俺の顔をじっと見つめてから、胸元で両手を重ねた。
「……とても、素敵だと思います」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
「私も、主様と一緒に選んだものを、この塔へ置いてみたいです。そして、それを見るたびに、二人で出かけた日のことを思い出せたら……きっと、とても嬉しいと思います」
「うん。そうだね」
「ですが、主様」
「ん?」
「もし秋の市へ行けなかったとしても、私は今日のお話を覚えていたいです」
思いがけない言葉に、俺は彼女の顔を見た。
セリーは少し照れたように笑いながら、続きを口にする。
「主様が私と一緒に何かを選んでみたいとおっしゃってくださったこと。それだけでも、私にとっては大切な思い出になりますから」
胸の奥が、ゆっくりと温かくなった。
俺はこれまで、誰かの期待に応えるために多くのものを選んできた。
どんな言葉を口にするか、どんな態度を取るか、何を優先するか。その一つ一つには、いつも王太子としての意味が求められていた。
けれど今、俺が何気なく口にした希望を、セリーはこんなにも大切に受け止めてくれる。
それが嬉しかった。
「ありがとう、セリー」
「いいえ。私こそ、ありがとうございます」
しばらく二人で微笑み合っていると、セリーが小さく笑った。
「ですが、実際に行けることになりましたら、私はきっと悩んでしまうと思います」
「どうして?」
「主様と一緒に選ぶものですから、できるだけ長く大切にできるものがよいと思うのです。でも、きっと素敵なお品がたくさん並んでいるでしょうから……」
真剣に悩む彼女の姿が可笑しくて、俺も笑ってしまった。
「それなら、時間をかけて選べばいいよ。もし決められなかったら、何も買わずに帰ってきてもいいんだし」
「何も買わずに、ですか?」
「ああ。二人で見て回ったこと自体が思い出になるなら、無理に何かを買う必要はないだろう?」
セリーはその言葉を聞いて、しばらく考え込んでいた。
そして、やがて穏やかな笑みを浮かべた。
「そうですね。私、少しだけ形のあるものにこだわっていたのかもしれません」
「別に悪いことじゃないよ。記念になるものが欲しいって気持ちも分かるし」
「はい。ですが、一緒に過ごした時間も、大切にしたいと思います」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
夜が深まる頃、俺たちは翌日に使うものを軽く確認してから、それぞれの時間を過ごすことにした。
秋の市についての覚え書きは、机の上で目につく場所ではなく、普段の記録と区別できるところへしまっておく。
まだ予定が決まったわけではないから、日々の仕事と混ざらないようにしたかったのだ。
俺が紙を整理していると、セリーが傍らから声をかけてきた。
「主様。最後に一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「ああ、何でも聞いて」
「もし秋の市へ行けることになりましたら……その日は、私も主様のお隣を歩いてよろしいのでしょうか」
俺は一瞬、質問の意味が分からなかった。
「もちろん。そのつもりだけど……どうして?」
セリーは少し言いにくそうに視線を落とした。
「その……人が大勢いらっしゃる場所では、主様のお邪魔にならないよう、少し後ろを歩いた方がよいのではないかとも考えたのです」
その言葉を聞いて、俺は彼女が何を気にしているのか理解した。
彼女にとって、俺は今でも主様だ。
魔導人形としての役割や、長い間大切にしてきた考え方が、簡単に消えるわけではないのだろう。
けれど、今回の外出を、俺はそういうものにしたくなかった。
「セリー。俺は、君と一緒に出かけたいんだ」
ゆっくりと伝えると、セリーが顔を上げた。
「俺の後ろについてきてもらいたいんじゃなくて、隣で同じものを見たい。気になるものがあったら、一緒に立ち止まりたいし、どっちへ行こうか相談しながら歩きたいんだ」
「……主様」
「もちろん、人が多かったり、道が狭かったりしたら、歩く位置を変えることもあると思う。でも、それはどちらかが偉いとか、そういうことじゃないだろう?」
俺は少し笑って続けた。
「だから、普通に隣を歩いてほしい。俺はその方が嬉しいよ」
セリーはしばらく言葉を失っていた。
やがて彼女は、胸元にそっと手を添えた。
「……はい。ありがとうございます」
その声は少し震えていたが、悲しそうには聞こえなかった。
「私も、主様のお隣を歩きたいです。もし人混みではぐれそうになりましたら、お声をかけますし、主様にも私を呼んでいただきたいです」
「ああ。そうしよう」
「それから……」
セリーはそこで言葉を切り、少しだけ頬を赤くした。
俺が続きを待っていると、彼女は勇気を出したように口を開いた。
「もし、よろしければ……人が多いところでは、お手をつないでもよろしいでしょうか」
胸が小さく跳ねた。
これまでにも、俺たちは何度か手をつないで歩いている。
それでも、改めてそう尋ねられると、不思議なくらい意識してしまった。
「……もちろん」
俺が答えると、セリーはぱっと表情を明るくした。
「ありがとうございます、主様」
「でも、人が多いときだけじゃなくてもいいと思うよ」
口にしてから、俺は自分の言葉に驚いた。
セリーも同じだったようで、目を丸くして俺を見つめている。
今さら言い直すのもおかしい気がして、俺は少し照れながら続けた。
「その……お互いがそうしたいと思ったときなら、別に理由はいらないんじゃないかな」
セリーはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「……はい。私も、そう思います」
その答えを聞いた俺は、自然と手を差し出していた。
セリーは驚いたように俺の手を見つめ、それから嬉しそうに自分の手を重ねる。
指先が触れ合い、やがて互いの手が静かにつながった。
夜の塔は穏やかだった。
窓の外では風が木々を揺らし、遠くからは夜鳥の声が聞こえてくる。
俺たちはしばらく、何も話さずにそのまま立っていた。
まだ秋の市へ行けると決まったわけではない。
開催日も、町の詳しい場所も、そこへ続く安全な道も、確認できていないことばかりだ。
それでも、今日という一日の中で、俺たちは昨日より少しだけ多くのことを考え、自分たちの希望を言葉にすることができた。
外出そのものが実現するかどうかとは別に、そのことが俺には嬉しかった。
「セリー」
「はい、主様」
「いつか本当に行けたらいいな。秋の市」
「はい。私も、楽しみにしております」
彼女の返事は、夜の静けさの中で柔らかく響いた。
俺はつないだ手を見つめながら、これから先のことを考えた。
まだ知らない町。
そこに集まる人々。
手仕事の品物や、季節の花。
そして、その中をセリーと並んで歩く自分の姿。
どんな景色が待っているのかは分からない。
楽しいことだけではなく、予想していなかった問題もあるかもしれない。
それでも、必要なことを一つずつ確かめながら進めばいい。
急いで答えを出す必要はないし、誰かに決めてもらう必要もない。
俺たち自身が納得できる形で、これからの暮らしを選んでいけばいいのだから。
窓の外を一枚の落ち葉が横切り、夜の闇へ消えていった。
その光景を眺めながら、俺はふと思った。
(王太子だった頃の俺は、こんな未来があるなんて想像もしていなかったな)
華やかな宮廷でも、豪華な馬車の中でもない。
二千年前の魔導具師が遺した古い塔で、好きな相手と手をつなぎ、まだ見ぬ秋の市について語り合っている。
もし昔の俺が今の姿を見たら、きっと驚くだろう。
けれど、今の俺はこの暮らしを手放したいとは思わない。
むしろ、これからもっと大切にしていきたい。
「そろそろ休もうか。明日もやることがあるし」
「はい。主様も、今夜はどうぞゆっくりお休みくださいませ」
「ああ。セリーもね」
手を離すとき、彼女の指先がほんの少しだけ名残惜しそうに動いた気がした。
俺も同じような気持ちだったので、思わず笑ってしまう。
セリーはその笑みの意味を尋ねなかった。
ただ、穏やかな表情で俺を見送ってくれた。
自室へ戻り、窓の外を眺める。
森はすっかり夜の色に包まれていたが、昼間に見た黄色い花や、風に揺れる葉の光景は、まだ鮮明に思い出すことができた。
今日も、特別に大きな出来事が起きたわけではない。
それでも、俺にとっては忘れたくない一日になった。
小さな町で開かれるという秋の市。
まだ何も決まっていない、その場所へ向かうための準備が、少しずつ始まっている。
そして何より、そこへ行ってみたいと思える相手が、今の俺にはいる。
(……明日も、いい一日にできるといいな)
そんなことを考えながら、俺は静かに目を閉じた。
古の塔には、いつもと変わらない穏やかな夜が訪れていた。
けれど、その静かな日常の先には、まだ俺たちの知らない景色が広がっている。
そこへ向かう日が来るのかどうかは、今はまだ分からない。
それでも俺は、少しずつ確かめながら進んでいきたいと思った。
セリーと一緒に。
自分たちで選んだ、この自由な暮らしを大切にしながら。




