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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第160話 古の塔に届いた招待状と、二人で選ぶ初めての外出


 雨上がりの朝から一日が過ぎ、古の塔を囲む森には、ようやく秋らしい澄んだ空気が戻り始めていた。


 東側の窓から差し込む朝日は、書斎の床に柔らかな光を落としている。アルは机の上に置かれた木製の記録板を手に取り、昨日の庭で使ったときのことを思い出しながら、布を巻いた留め具の状態を確かめていた。


 何度も試作を重ね、セリーと一緒に完成させた記録板だった。


 紙を押さえる木片は滑らかに動き、布の筒も今のところずれていない。下端に取り付けた浅い受けも、紙を支える役目をきちんと果たしている。


(こうして見ると、本当に普通の道具なんだよな。魔法を使っているわけでもないし、特別な材料を使ったわけでもない。それなのに、こんなに愛着が湧くなんて思わなかった)


 アルは記録板を机へ戻し、少し笑みを浮かべた。


 王宮にいた頃は、道具を自分で作ることなどほとんどなかった。


 必要なものがあれば担当者が用意し、壊れれば修理を依頼する。それが当たり前の暮らしだったからこそ、今のように自分の手で試行錯誤する時間は新鮮だった。


 そして、何より嬉しいのは、セリーが一緒に考えてくれることだった。


 彼女は単にアルの指示に従うのではなく、自分の考えを伝え、別の方法を提案し、完成したときには心から喜んでくれる。


 その姿を見るたびに、アルはこの塔へ来てよかったと感じていた。


「主様。朝食の準備が整いました」


 廊下から聞こえてきた声に、アルは顔を上げた。


「ありがとう、セリー。今行くよ」


 アルは記録板を棚へ戻し、書斎を出た。


 食堂へ向かう途中、窓の外へ目を向けると、昨日まで濡れていた石畳の多くが乾き始めていることに気づいた。


 ただし、塔の影になっている場所には、まだ暗い色が残っている。


 庭の奥にある湿った地面についても、今日のうちに確認しておきたいと思った。


 食堂へ入ると、セリーが温かなパンを籠へ移しているところだった。


 食卓には野菜のスープと卵料理、それに小さな果実の皿が並んでいる。


「おはよう、セリー。今日はいい天気になりそうだね」


 アルが声を掛けると、セリーは嬉しそうに微笑んだ。


「おはようございます、主様。はい。昨日より雲が少なく、風も穏やかです。ただ、森の奥や日陰の道はまだ乾いていない可能性がありますので、散歩をされる場合は足元に気をつけたいと思います」


「そうだね。森の入口へ行くのは、もう少し待った方がいいかな。今日は庭を見て、それから何をするか決めようか」


「はい。私も、今日は主様と相談してから予定を決めたいと思っています」


 二人は向かい合って席に着き、朝食を始めた。


 アルはパンを一口食べ、香ばしい表面と柔らかな内側の食感を楽しんだ。


「今日のパンもおいしいね。昨日より少し表面が香ばしい気がする」


「ありがとうございます。焼く時間をわずかに変えてみました。主様が以前、表面が少し香ばしいものもお好きだとおっしゃっていたので、今日はその仕上がりを試してみたのです」


「うん、すごくいいと思う。でも、セリーはどう? この焼き方、気に入った?」


 セリーは自分のパンを見つめ、少し考えてから頷いた。


「はい。私は、表面が少し硬くなることで、内側の柔らかさがよりはっきり感じられるところが好きです。ただ、果実の煮詰めたものを添える場合は、もう少し柔らかい焼き方も合うと思います」


「なるほど。食べ方によって変えるのも楽しそうだね」


 アルがそう答えると、セリーは嬉しそうに微笑んだ。


 食事を終える頃には、食堂の中もすっかり明るくなっていた。


 二人は食器を片づけ、庭へ持っていく記録板と筆記具を用意した。


 そのときだった。


 廊下の奥から、聞き慣れたエルの声がアルの意識へ届いた。


『アル。外部からの通信を受信しました』


 アルは足を止めた。


『通信? ブラートからかな』


『はい。送信者はブラートです。ただし、今回は通常の調査報告とは異なり、個人的な連絡として送られています』


 アルは少し驚いた。


 ブラートから届く連絡の多くは、フェリクスの調査状況や、王都で確認された情報についてのものだった。


 もちろん、以前から親しい関係ではあるものの、個人的な用件として通信が届くことは、それほど多くない。


『分かった。内容を確認してもいいかな』


『はい。通信内容をお伝えします』


 エルの声が少し間を置き、続いた。


『アルへ。最近は調査の話ばかりになってしまっているが、元気にしているだろうか。こちらは変わらず過ごしている。フェリクスの調査も続いているが、急いで結論を出せる段階ではないので、今は無理をさせないようにしている』


 アルは静かに耳を傾けた。


『それとは別に、少し知らせたいことがある。王都から離れた場所にある小さな町で、近いうちに秋の市が開かれるらしい。大きな催しではないが、手仕事の品や保存食、季節の花などが並ぶそうだ』


 アルは思わず目を瞬かせた。


 秋の市。


 その言葉を聞いた瞬間、以前セリーが話していた願いが頭に浮かんだ。


 彼女は、自分の知らない景色をアルと一緒に見に行きたいと願っていた。


 森の奥を歩くことも、塔の周囲を探索することも楽しい。


 けれど、町へ出掛けて人々の暮らしを見ることは、また違った経験になるはずだった。


 エルの声は続いた。


『もちろん、無理に出掛ける必要はない。ただ、以前お前が自由に暮らしたいと言っていたことを思い出してな。王都の騒ぎとは関係のない、普通の町の催しを楽しむのも悪くないと思ったんだ』


 アルは小さく息を吐いた。


 ブラートらしい言葉だった。


 彼はアルが王宮を離れてからも、必要以上に干渉することなく、時折こうして気遣ってくれる。


『市の詳しい日程や場所については、確認できた範囲を別に送っておく。行くかどうかは、お前自身で決めてくれ。それと、セリーにもよろしく伝えてほしい』


 通信はそこで終わった。


 アルはしばらく黙っていた。


 王都から離れた小さな町。


 秋の市。


 手仕事の品や保存食、季節の花。


 どれも、今のセリーが興味を持ちそうなものばかりだった。


「主様?」


 隣から声を掛けられ、アルは顔を上げた。


 セリーが少し心配そうにこちらを見つめている。


「何かございましたか。エルからの連絡でしょうか」


「ああ、うん。ブラートから通信が届いたんだ。調査の話じゃなくて、今日はちょっと違う内容だったよ」


 アルは微笑み、セリーへ通信の内容を伝えた。


 彼女は最初、静かに聞いていた。


 しかし、秋の市という言葉が出たところで、目を少し大きく見開いた。


「秋の市、ですか?」


「うん。手仕事の品とか、保存食とか、季節の花が並ぶらしいんだ。詳しい日程はまだ確認してないけど、王都から離れた町で開かれるみたいだよ」


 セリーはしばらく考え込んだ。


 アルは彼女の返答を急がず、静かに待った。


 やがてセリーは、少し控えめな声で尋ねた。


「主様。その市には、私もご一緒してよろしいのでしょうか」


 アルは思わず笑みを浮かべた。


「もちろん。むしろ、セリーと一緒に行けたら楽しそうだなって思ってたところだよ」


 セリーは驚いたように目を瞬かせた。


 それから、ゆっくりと嬉しそうな笑みを浮かべた。


「……ありがとうございます。私も、主様と一緒に行ってみたいです」


 アルはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。


 彼女が自分から行きたいと伝えてくれたことが、何より嬉しかった。


     ◇


 朝食後の予定は、少しだけ変更になった。


 庭の観察は予定通り行うことにしたが、そのあとは書斎で秋の市について確認することになった。


 アルとセリーは記録板を持ち、塔の外へ出た。


 朝の庭には、雨上がりの澄んだ空気が広がっていた。


 石畳の多くは乾き始めていたが、塔の壁に近い場所にはまだ湿った色が残っている。


 二人はいつもの観察位置へ立ち、地面の状態を確かめた。


「昨日より乾いてるように見えるね。でも、ここはまだ少し暗い色が残ってるな」


 アルがそう言うと、セリーは記録板へ時刻を書き込みながら頷いた。


「はい。昨日の雨上がりの状態と比べると、湿った範囲は狭くなっているように見えます。ただ、地面の水分量を測定したわけではありませんので、見た目の違いとして記録しておきます」


「うん。それでいいと思う。雨のあと、どれくらいで乾くのかも、これから少しずつ分かるかもしれないね」


 二人は地面の状態を記録し、鉢植えの様子も確認した。


 移動させた鉢は安定しており、葉にも目立った異常は見られない。


 アルはその様子に安心し、記録板をセリーへ渡した。


「今日も問題なさそうだね。じゃあ、そろそろ戻ろうか」


 セリーは頷いたが、すぐには歩き始めなかった。


 彼女は少し迷うように視線を動かし、アルへ顔を向けた。


「主様。秋の市について、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」


「もちろん。何かな?」


「その町には、どのような人々が暮らしているのでしょうか。王都とは違う場所だと伺いましたが、私はまだ、普通の町の暮らしを詳しく知りません」


 アルは少し考えた。


 王都の華やかな通りや、貴族が集まる区域についてはよく知っている。


 しかし、小さな町の暮らしを、自由な立場でゆっくり見て回った経験はほとんどなかった。


「実は、俺も詳しくは知らないんだ。王太子だった頃に地方へ行ったことはあるけど、そのときは決められた場所を回るだけだったからね」


 アルは少し苦笑した。


「市場へ行っても、案内された店を見るだけだったし、普通の人たちがどんなものを買ってるのか、ゆっくり眺める時間はなかったんだ」


 セリーは静かに耳を傾けていた。


「それでしたら、主様にとっても新しい経験になるのですね」


「うん。そうだね。だから、セリーと一緒に行けたら嬉しいな」


 アルがそう答えると、セリーは柔らかな笑みを浮かべた。


「私も嬉しいです。主様と一緒に、知らないものを見てみたいと思います」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。


 秋の市へ行くことは、まだ決まっていない。


 日程も、場所も、移動方法も確認していない。


 それでも、二人の心には、すでに小さな楽しみが生まれていた。


     ◇


 書斎へ戻ったアルは、エルへ秋の市に関する情報を確認した。


『エル、ブラートが送ってくれた市の情報、もう少し詳しく分かるかな』


『はい。追加の情報が届いています。市は王都から離れた地方の町で開催される予定です。ただし、開催日程については現地の天候や準備状況によって変更される可能性があります』


『なるほど。じゃあ、まだ確定してないんだね』


『はい。また、町への移動経路についても、現在の道路状況を確認する必要があります。塔から直接移動する方法を検討する場合は、周辺地域への影響や安全性も考慮する必要があります』


 アルは頷いた。


 塔には古代の魔導具が数多く残されている。


 移動に役立つ設備が存在する可能性もあるが、それを安易に使うつもりはなかった。


 特に、町の近くへ突然現れるような移動方法は、人々を驚かせるかもしれない。


『うん。無理に魔導具を使う必要はないよ。普通に道を通って行けるなら、その方がいいと思う』


『承知しました。現在確認できる範囲で、一般的な移動経路について情報を整理します』


『ありがとう。あと、町へ行くなら、セリーと一緒にゆっくり歩きたいんだ。危険な場所を通る必要があるなら、別の方法を考えたい』


『その方針で問題ありません。ただし、現時点では安全な経路を確定できませんので、出発を決める前に追加の確認が必要です』


 アルはエルとのやり取りを終え、セリーへ内容を伝えた。


 彼女は少し考え、静かに頷いた。


「主様。私は、急いで出掛ける必要はないと思います。安全に行ける方法が分かってからでも、市を楽しみにすることはできますので」


「うん。そうだね。開催日が合わなかったら、別の機会に町へ行くのもいいし」


 アルは机の上へ紙を広げた。


「せっかくだから、行ってみたい場所や見てみたいものを書いておこうか。市へ行けるかどうかはまだ分からないけど、セリーが何に興味があるのか知りたいな」


 セリーは少し驚いたように目を瞬かせた。


「私が見てみたいもの、ですか?」


「うん。手仕事の品とか、季節の花とか、食べ物とか。何でもいいよ」


 セリーはしばらく考え、筆記具を手に取った。


 彼女は紙の上へ、ゆっくりと文字を書き始めた。


 最初に書いたのは、布と糸だった。


 次に、木製の小物。


 それから、季節の花と、保存食。


 アルはその文字を眺め、自然と笑みを浮かべた。


「やっぱり、手仕事の品が気になるんだね」


 セリーは少し照れたように頷いた。


「はい。私は、ほかの方がどのようなものを作っているのか見てみたいです。布の色や縫い方、木の形など、知らない工夫がたくさんあると思いますので」


「いいね。俺も見てみたいな。記録板を作ってから、ほかの人がどんな道具を使ってるのか気になるようになったし」


 セリーは嬉しそうに微笑んだ。


「それでしたら、主様と一緒に道具のお店も見てみたいです」


「うん。もし市に道具を扱う店があったら、ぜひ寄ってみよう」


 アルは紙の余白へ、自分が見てみたいものを書き加えた。


 木工道具。


 日用品。


 町の食べ物。


 それから、町の人々が普段どのように暮らしているのか。


 書き終えた二人は、紙を並べて眺めた。


 興味を持っているものには重なる部分もあったが、違うものもある。


 アルはその違いを面白く感じた。


「こうして見ると、二人で行ったらいろんなものを見られそうだね」


 セリーは頷いた。


「はい。主様が見たいものも、私が見たいものも、どちらも大切にしたいです」


 アルはその言葉を聞き、少しだけ胸が温かくなった。


「ありがとう、セリー。俺も同じだよ」


     ◇


 昼食のあと、アルはブラートへの返事を考えていた。


 書斎の机には、午前中にまとめた秋の市の希望を書いた紙が置かれている。


 その隣には、以前ブラートから届いた調査報告が別に保管されていた。


 アルはそれを眺めながら、少し考え込んだ。


 ブラートは、調査の話だけでなく、アルの暮らしを気に掛けてくれている。


 それなのに、自分は最近、調査についての返事ばかり送っていた気がした。


(そういえば、ブラートが最近どう過ごしてるのか、ちゃんと聞いてなかったな)


 アルは筆記具を手に取り、返事を書き始めた。


『ブラートへ。連絡をありがとう。こちらは元気に過ごしているよ。最近はセリーと一緒に庭を観察したり、木製の記録板を作ったりしている。大きな出来事はないけれど、毎日楽しく暮らしている』


 アルはそこで少し手を止めた。


 ブラートへ自分の暮らしを伝えるのは、何だか久しぶりだった。


 王宮にいた頃は、何か報告することがあれば、公的な用件や必要な情報ばかりだった。


 今は違う。


 庭で小さな葉を見つけたことも、セリーと道具を作ったことも、友人へ伝えたい出来事になっている。


 アルは続きを書いた。


『秋の市のことも教えてくれてありがとう。セリーがとても興味を持っているから、安全に行ける方法が分かれば、二人で出掛けてみたいと思っている。まだ決めたわけではないけれど、楽しみが一つ増えたよ』


 そして、最後に少し迷ってから、一文を加えた。


『ところで、ブラート自身は元気にしている? 調査のことばかり気にしてしまっていたけれど、無理をしていないか少し心配している。時間があるときでいいから、近況を聞かせてくれると嬉しい』


 アルは書き終えた文章を読み返し、静かに頷いた。


 特別なことを書いたわけではない。


 けれど、今の自分の気持ちを素直に伝えられた気がした。


 そこへ、セリーが書斎へ入ってきた。


「主様。ブラート様へのお返事でしょうか」


「うん。秋の市のことを教えてくれたお礼と、最近の暮らしについて少し書いてみたんだ」


 アルは紙を見せながら微笑んだ。


「それから、ブラート自身が元気にしてるかも聞いてみたよ。最近、調査のことばかり話してたからね」


 セリーはその言葉を聞き、柔らかな笑みを浮かべた。


「それは、ブラート様もお喜びになると思います。主様がご自身の暮らしを楽しんでいらっしゃることも、きっと安心されるのではないでしょうか」


「そうだといいな」


 アルは頷き、エルへ通信の送信を依頼した。


 エルは内容を確認し、ブラート宛ての通信として送信したことを伝えた。


 アルは少し肩の力を抜いた。


 返事がいつ届くかは分からない。


 それでも、自分から友人へ近況を伝えられたことが嬉しかった。


     ◇


 その頃、王都の魔導研究院では、フェリクス・ハルトマンが助手とともに古い保存台帳の確認を続けていた。


 机の上には、複数の台帳の写しが並んでいる。


 以前から調べている確認記録の断片には、判断の延期や担当者の変更に関する記述が残されていた。


 しかし、それらがどの制度に属していたのか、どのような対象へ適用されていたのかは、まだ明らかになっていない。


 助手は一枚の紙を持ち上げ、フェリクスへ差し出した。


「ハルトマン様。こちらの台帳ですが、以前確認した分類記号と似たものが、別の区分にも記されていました」


 フェリクスは紙を受け取り、慎重に目を通した。


 確かに、記号の前半には共通する部分がある。


 しかし、末尾は損傷しており、完全に一致しているかどうかは分からなかった。


「なるほど。似た記号が複数の区分に存在することは確認できるね。ただ、同じ資料を示しているかどうかは、まだ判断できない」


「はい。保存場所が変わった可能性も考えましたが、それを裏付ける記録は見つかっていません」


 フェリクスは静かに頷いた。


「そうだね。資料が移動したのか、分類の仕方が違ったのか、あるいは最初から別の資料だったのか。今の情報では、どれも確定できない」


 助手は記録用紙へ、その内容を書き加えた。


 フェリクスは机の上に並んだ資料を眺めながら、少し考えた。


 古い記録には、確認できないことをそのままにしておくための手続きが存在していた可能性がある。


 しかし、その手続きの具体的な内容を、断片だけから復元することはできない。


 まして、それを現在の何かへ当てはめることは、慎重でなければならなかった。


「今日は、ここまでにしよう」


 フェリクスがそう言うと、助手は顔を上げた。


「よろしいのですか。まだ確認していない台帳も残っていますが」


「もちろん、調査は続けるよ。ただ、今日の段階で無理に結論を出す必要はない。資料の状態を保ちながら、確認できる範囲を少しずつ広げていこう」


 助手は頷き、資料を慎重に片づけ始めた。


 フェリクスは窓の外へ目を向けた。


 研究院の庭には、午後の光が差し込んでいる。


 彼はふと、古い資料の中に残された人々のことを考えた。


 誰かが何かを確認し、判断を延期し、別の担当者へ記録を引き継いだ。


 そこには、当時の人々が守ろうとした何かがあったのかもしれない。


 しかし、それが何だったのかは、まだ分からない。


 フェリクスはその不確かさを受け入れながら、静かに資料の覆いを閉じた。


     ◇


 午後の古の塔では、セリーが作業場で小さな布袋を手に取っていた。


 以前、自分の願いを書いた紙をしまうために作った袋だった。


 中には、折り畳まれた二枚の紙が収められている。


 セリーは袋を開き、そのうちの一枚を取り出した。


 そこには、以前自分で書いた願いが残されていた。


『主様と一緒に、知らない景色を見に行きたい』


 セリーはその文字をしばらく見つめていた。


 願いを書いたときは、具体的にどこへ行きたいのか決まっていなかった。


 森の奥かもしれない。


 塔の周囲かもしれない。


 それとも、もっと遠い場所かもしれない。


 ただ、アルと一緒に、自分の知らない景色を見たいと思っていた。


 今日、ブラートから届いた秋の市の話を聞いたとき、その願いが少しだけ具体的な形を持ったように感じられた。


(私は、主様と一緒に町へ行ってみたい。知らない人々の暮らしを見て、知らないものを知りたい。そして、主様がどのようなものを見て、何を感じられるのかも知りたい)


 セリーは紙を丁寧に折り直し、袋へ戻した。


 そのとき、作業場の入口からアルの声が聞こえた。


「セリー、ここにいたんだね」


 セリーは顔を上げ、微笑んだ。


「はい、主様。以前書いた願いを、少し見返しておりました」


 アルは彼女の手元へ目を向けた。


「ああ、あの袋だね。前に作った、願いを書いた紙をしまってるものだったよね」


「はい。今日、秋の市のお話を伺って、以前書いた願いを思い出したのです」


 アルは少し考え、それから穏やかに微笑んだ。


「そっか。じゃあ、秋の市へ行けたら、その願いが一つ叶うかもしれないね」


 セリーは少し照れたように頷いた。


「はい。ただ、私は市へ行けなかったとしても、願いがなくなるわけではないと思っています。主様と一緒に知らない景色を見たいという気持ちは、これからも大切にしたいです」


 アルはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。


「うん。俺も同じだよ。市へ行けても行けなくても、これからいろんな場所へ一緒に行きたいな」


 セリーはゆっくりと顔を上げた。


 彼女の目には、柔らかな喜びが浮かんでいるように見えた。


「ありがとうございます、主様。私も、そう願っています」


 アルは彼女へ手を差し出した。


 セリーは少し照れたように微笑み、その手を取った。


 二人はしばらく、作業場の窓から外を眺めていた。


 森の上には青空が広がり、遠くの木々が風に揺れている。


 アルはその景色を眺めながら、ふと口を開いた。


「セリー。もし秋の市へ行けることになったら、何か一つ、自分のためのものを選んでみない?」


 セリーは少し驚いたように目を瞬かせた。


「私のためのもの、ですか?」


「うん。俺のために使う道具とか、塔で必要なものじゃなくて、君自身が欲しいと思ったものを選んでみてほしいんだ」


 セリーはしばらく考え込んだ。


 布や糸なら、裁縫に使える。


 木製の小物なら、塔で飾ることもできる。


 季節の花なら、庭で育てることを考えられるかもしれない。


 けれど、アルが言っているのは、そうした用途とは少し違うものなのだろう。


「……主様。私は、まだ何を選びたいのか分かりません」


 セリーは正直に答えた。


 アルは頷き、柔らかな笑みを浮かべた。


「それでいいよ。実際に見てから決めればいいし、欲しいものがなかったら何も買わなくてもいい。選ぶこと自体を楽しんでほしいんだ」


 セリーはその言葉を聞き、少し考えた。


 何かを買うために出掛けるのではなく、見て、考えて、自分の気持ちを確かめる。


 それは、彼女にとって新しい経験になりそうだった。


「はい。私も、そうしてみたいです」


 セリーは嬉しそうに微笑んだ。


 アルはその表情を見ながら、静かに頷いた。


     ◇


 夕方、アルとセリーは書斎で秋の市についての情報を整理していた。


 ブラートから届いた内容には、開催予定の町について簡単な説明が添えられていた。


 ただし、日程や移動経路については、まだ確認が必要な部分が残っている。


 アルは紙を広げ、セリーと一緒に必要なことを書き出した。


 開催日が確定しているか。


 町まで安全に移動できるか。


 宿泊が必要になるか。


 そして、二人が無理なく楽しめる予定を組めるか。


 アルは書き終えた紙を眺め、少し考えた。


「こうして見ると、出掛ける前に確認することって結構あるんだね」


 セリーは隣で頷いた。


「はい。ですが、私は準備をする時間も楽しみたいと思います。主様と一緒に何を持っていくか考えたり、行きたい場所を相談したりすることも、初めての経験ですので」


「そっか。そうだね。準備から楽しめるなら、急ぐ必要はないな」


 アルは笑みを浮かべた。


 王宮にいた頃、外出の準備はすべて周囲の人々が整えていた。


 移動経路も、訪問先も、滞在時間も、細かく決められていた。


 今は違う。


 どこへ行くかも、何を見たいかも、自分たちで決められる。


 その自由を、アルは改めて嬉しく感じた。


「セリー。もし市へ行くことになったら、朝から夕方まで全部予定を詰め込むのはやめようか。途中で休んだり、気になった店へ寄ったりできる時間を残しておきたいな」


 セリーは嬉しそうに頷いた。


「はい。私も、ゆっくり歩いてみたいです。予定にないものを見つけたとき、立ち止まれる時間があると嬉しいと思います」


「うん。じゃあ、そういう外出にしよう」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。


 秋の市へ行くことは、まだ確定していない。


 それでも、アルはすでに少し楽しみになっていた。


 セリーがどんなものに興味を持つのか。


 どんな店で立ち止まるのか。


 そして、何を見て嬉しそうに笑うのか。


 その一つ一つを、隣で見ていたいと思った。


     ◇


 夜、アルは書斎の窓辺に立ち、森の向こうに広がる暗い空を眺めていた。


 月は薄い雲の間から顔を出し、塔の庭を淡く照らしている。


 昼間に観察した地面は、今頃どのような状態になっているのだろう。


 南側の通路に咲いていた黄色い花は、まだ同じ場所で咲いているだろうか。


 森の入口で見つけた石も、用途の分からない南側の台も、今は静かにそこにあるはずだった。


 アルはそれらを思い浮かべながら、少し微笑んだ。


 古の塔には、まだ知らないことがたくさん残っている。


 けれど、今のアルには、それらをすべて急いで解き明かす必要はなかった。


 今日のように、友人から届いた知らせをきっかけに、新しい楽しみを見つけることもできる。


 そして、その楽しみをセリーと一緒に考えられる。


 それだけで、十分に幸せだった。


 そこへ、書斎の扉を軽く叩く音が聞こえた。


「主様。まだ起きていらっしゃいますか」


「うん、セリー。どうぞ」


 扉が開き、セリーが顔を覗かせた。


 彼女の手には、小さな紙が一枚握られている。


「主様。秋の市について、もう一つ書き加えたいことがありました」


 アルは椅子から立ち上がり、彼女を迎えた。


「何かな?」


 セリーは少し照れたように微笑み、紙を差し出した。


 そこには、丁寧な文字で短い一文が書かれていた。


『主様と一緒に、町の人々が楽しそうに過ごしている景色を見てみたい。』


 アルはその文字を読み、しばらく黙っていた。


 布や糸。


 木製の小物。


 季節の花。


 保存食。


 それらを見たいという願いも、もちろん大切だった。


 けれど、セリーが最後に書き加えたのは、物ではなく、人々の暮らしそのものだった。


「……いいね」


 アルは静かに微笑んだ。


「俺も、そういう景色を見てみたいな。王宮にいた頃は、町の人たちが普通に楽しんでるところを、あまり見られなかったから」


 セリーは少し考え、それから穏やかに頷いた。


「はい。私は、主様と一緒に、そうした時間を過ごしてみたいです」


 アルは紙を机へ置き、彼女へ手を差し出した。


 セリーは自然な動きでその手を取り、二人は窓辺へ並んで立った。


 外では、森の木々が夜風に揺れている。


「セリー。秋の市へ行けるかどうか、まだ分からないけどさ」


 アルがそう言うと、セリーは顔を上げた。


「はい、主様」


「もし行けることになったら、俺も一つだけ楽しみにしてることがあるんだ」


 セリーは少し首を傾げた。


「何でしょうか」


 アルは少し照れくさそうに笑った。


「君が、どんなものを見て嬉しそうにするのか。それを隣で見られたらいいなって思ってる」


 セリーは一瞬、言葉を失ったように目を瞬かせた。


 それから、頬を淡く染め、ゆっくりと微笑んだ。


「……主様。私は、主様が楽しそうにしていらっしゃる姿を見ることも、とても好きです」


 アルはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 二人は手をつないだまま、しばらく静かに窓の外を眺めていた。


 古の塔での暮らしは、今日も穏やかに続いている。


 庭の観察も、工作も、絵を描くことも、まだ知らない景色を探すことも。


 そのすべてが、アルにとって大切な時間になっていた。


 そして今、そこへ新しい楽しみが一つ加わった。


 秋の市。


 まだ行けるかどうかも分からない、小さな町の催し。


 けれど、アルはその日が訪れることを、心から楽しみに思っていた。


 セリーと一緒に、知らない町を歩く。


 気になった店で立ち止まり、好きなものを選び、疲れたら休む。


 そんな当たり前の一日を、誰にも決められず、自分たちの意思で過ごしてみたい。


 アルは隣に立つセリーへ目を向け、静かに微笑んだ。


 自由に生きるということは、きっとこういうことなのだろう。


 自分の行きたい場所を選び、大切な相手と同じ景色を見て、その時間を心から楽しむこと。


 古の塔で手に入れた自由は、少しずつ、塔の外へも広がろうとしていた。

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