第157話 色を探す午後と、古の塔に残された描きかけの風景
古の塔の窓から差し込む朝日が、食堂の床に細長い光の帯を作っていた。夜の間に冷えた石造りの壁はまだひんやりとしていたが、厨房から漂う温かなスープの香りと、焼きたてのパンの匂いが、朝の空気を少しずつ柔らかくしている。
アルが食堂へ入ると、セリーは食卓の中央に小さな花瓶を置いているところだった。花瓶には何も挿されていなかったが、その隣には昨日描いた黄色い花の絵が置かれており、紙の端には折れないよう薄い板が添えられている。
「おはよう、セリー。その絵、昨日は部屋に持っていったんじゃなかった?」
アルが声を掛けると、セリーは花瓶の位置を少し整えてから振り返った。いつもの穏やかな笑顔を浮かべていたものの、その目には何かを楽しみにしているような明るさが宿っている。
「おはようございます、主様。はい。昨夜は私の部屋に置いていたのですが、今朝もう一度見ているうちに、色を付ける前に主様にもご覧いただきたくなりました。それから、この花瓶と並べたら、どのように見えるのかも確かめてみたかったのです」
アルは食卓へ近づき、絵と花瓶を交互に眺めた。淡い色の陶器でできた花瓶は、上部が少し細くなった素朴な形をしており、紙に描かれた小さな花と並べると、そこに本物の花が飾られているような不思議なまとまりがあった。
「いいね。花を摘んでこなくても、こうして絵を飾れば食卓が明るくなるんだな。セリーが昨日、あの花をそのままにしておきたいって言ってた理由も、少し分かった気がするよ」
セリーは嬉しそうに目を細めたが、すぐに絵へ視線を戻した。
「ありがとうございます。ただ、昨日描いたものには色がありませんので、実際に見た花とは印象が違います。今日は、あの黄色をできるだけ自分の手で表してみたいと思っています」
「うん。昨日も話したけど、塔に絵の具みたいなものが残ってるか探してみよう。使えるものが見つからなくても、別の方法は考えられると思うしね」
アルがそう答えると、セリーは小さく頷いた。
「はい。それから、主様。もしよろしければ、色を付ける前にもう一度だけ花を見に行きたいのです。昨日は形を描くことに集中していたので、花弁の色が場所によってどれくらい違っていたのか、よく覚えていなくて」
「もちろん。庭の観察もあるし、朝食が終わったら一緒に行こうか。ただ、昨日と同じように咲いてるかは分からないから、そこは確かめてからだね」
セリーはその言葉に安心したように微笑み、食卓へ朝食を並べ始めた。
アルも皿を運ぶのを手伝いながら、彼女が花の絵を持ってきた理由について考えていた。
以前のセリーなら、必要な記録を残すために絵を描くことはあっても、食卓に飾ったときの見え方まで気にすることはなかったかもしれない。今は、描いたものをどこに置きたいか、どんな色にしたいか、それを誰と見たいかまで、自分で考えている。
(昨日の散歩が、セリーにとってそんなに楽しい時間だったんだな。だったら、今日もいい一日にしたい)
アルは胸の内に浮かんだ思いを大切にしながら、向かいの席へ腰を下ろした。
朝食は温かな野菜のスープと、表面を香ばしく焼いたパン、それに薄く切った果物だった。二人は食事を楽しみながら、午前中に庭を見てから南側の通路へ向かい、昼食後に画材を探すという予定を決めた。
ただし、アルはそこで一つ提案を加えた。
「セリー、色を付けるのは今日中に終わらなくてもいいからね。道具を探すだけで時間が掛かるかもしれないし、使い方が分からないものを急いで試すのも危ないから」
セリーはパンを置き、少し考えてから答えた。
「はい。ですが、私は今日のうちに少しでも色を試してみたいと思っています。完成させることより、どのような色が作れるのかを知ることが楽しみなのです」
その返答を聞いて、アルは思わず笑顔になった。
「そっか。じゃあ、まずは試し描きができるところまでを目標にしよう。俺も何か描いてみようかな」
「主様も、ですか?」
セリーは驚いたように目を瞬かせ、それから身を少し乗り出した。
「それでしたら、ぜひご一緒したいです。主様がどのようなものを描かれるのか、私も見てみたいと思います」
「そんなに期待されると困るな。俺、絵はあまり得意じゃないと思うんだけど」
「上手に描けるかどうかだけが大切なのではないと、私は思います。主様が何を描きたいと思われたのか、そちらも知りたいです」
セリーはごく自然にそう言った。
アルは一瞬返事に迷い、それから照れくさそうに笑った。
「……それなら、俺も好きなものを描いてみるよ」
朝食を終える頃には、窓の外の光も少し強くなっていた。二人は食器を片づけ、庭へ持っていく記録用紙と、昨日の花の絵を用意した。
◇
塔の外へ出ると、森の方から湿った土と木の葉の匂いが流れてきた。空には薄い雲がところどころ浮かんでいたが、雨が降りそうな様子はなく、石畳の上には明るい日差しが広がっている。
アルとセリーは最初に、庭の奥にある乾きにくい地面を確認した。
昨日決めた位置に立ち、塔の壁と石畳の端を同じ方向から眺める。湿った場所はまだ周囲より暗い色をしていたものの、前日と比べて明確に広がっているようには見えなかった。
「今朝も少し湿ってるね。雨が降ってない日が続いてるのに、ここだけ乾くのが遅いのは気になるな」
アルがそう言うと、セリーは記録用紙へ時刻を書き込みながら頷いた。
「はい。ただ、表面の色だけでは、どの程度の水分が残っているのか分かりません。日陰の時間が長いことも影響しているかもしれませんので、今日も見えた状態をそのまま残しておきます」
アルは彼女の隣で紙の端を押さえた。
未完成の記録板はまだ留め具を取り付けていないため、風が吹くと紙が浮き上がる。それでも、二人で使う分には大きな支障はなく、セリーは慣れた手つきで短い記録を仕上げた。
移動させた鉢植えについても確認したが、葉や茎に目立った変化は見られなかった。鉢の底が置かれた石畳にも異常は見当たらず、少なくとも今朝の時点では、再び移動させる必要はなさそうだった。
「この鉢、昨日より少し葉が開いて見える気がするんだけど、気のせいかな」
アルがそう尋ねると、セリーは植物の高さに視線を合わせた。
「光の当たり方によって、そう見える可能性もあります。昨日の葉の角度を正確に記録していませんので、変化したとは断定できませんが、傷んでいるようには見えません」
「じゃあ、今はこのままにしておこう。場所を動かしたばかりだし、あまり何度も触らない方がよさそうだね」
セリーは頷き、鉢の位置をもう一度確認した。
庭の観察を終えた二人は、塔の南側へ向かった。
昨日初めてゆっくり歩いた通路には、朝の光が斜めに差し込んでいた。石畳の隙間に生えた草の先には小さな露が残っており、足元を注意して歩くと、ところどころで光が細かく反射しているのが見えた。
セリーは昨日の絵を記録板に載せ、花が咲いていた場所へ向かっていた。
アルは少し後ろから彼女の様子を眺めていたが、石畳の曲がり角を過ぎたところで、セリーがふいに歩調を緩めた。
「主様。昨日の花は、あちらに咲いていましたよね」
「うん。石畳の端の、あの少し草が多いところだったと思う」
二人が近づくと、小さな黄色い花は昨日と同じ場所に咲いていた。
ただし、昨日よりも花弁が大きく開いているように見え、朝日の当たり方も違っていた。セリーは花から少し離れた位置でしゃがみ込み、絵と実物を交互に見比べた。
「……昨日は、花弁全体が同じ黄色に見えていました。でも、今朝は中心に近いところの方が少し濃く、外側は明るい色に見えます」
彼女は筆記具を取り出し、昨日の絵の余白へ小さな印を加えようとしてから、手を止めた。
アルが理由を尋ねる前に、セリーは顔を上げた。
「主様。昨日描いた絵には、今日見つけたことを直接書き込まない方がよいでしょうか。昨日の私が見た花と、今日の私が見た花は、同じ場所にあっても少し違って見えますので」
アルはその言葉を聞き、紙へ目を落とした。
昨日の絵は、セリーが初めてこの通路を歩き、自分の意思で立ち止まって描いたものだ。その絵を残したいという気持ちと、新しく気づいたことを加えたいという気持ちは、どちらも大切にしてよいはずだった。
「そうだね。昨日の絵はそのままにして、今日気づいたことは別の紙に描くのもいいんじゃないかな。そうすれば、あとで二つを並べて見られるよ」
セリーはしばらく考え、それから静かに頷いた。
「はい。そうしたいです。昨日の絵を直すのではなく、今日の花をもう一度描いてみます」
アルは予備の紙を取り出し、彼女が使いやすいように記録板へ載せた。
セリーはまず花の輪郭を描き、それから中心部分と花弁の外側へ、色の違いを示す細い線を加えていった。風が吹くと花は揺れたが、彼女は無理に描き続けず、動きが落ち着くのを待ってから筆記具を進めた。
その様子を見ていたアルは、ふと昨日のことを思い出した。
セリーは花を摘むこともできたはずなのに、そこに咲いている姿を残したいと考えた。そして今日は、昨日の絵を上書きせず、新しい一枚を描くことを選んだ。
(セリーは、昨日の自分が感じたことも大事にしたいんだな。そういう考え方、俺は好きだ)
アルは胸の内に浮かんだ言葉をそのまま口にすることはせず、彼女の作業が終わるまで静かに紙を押さえていた。
やがてセリーが筆記具を置くと、二枚の絵が並んだ。
昨日の絵は花全体の形を丁寧に捉えており、今日の絵には花弁の濃淡や葉の向きが詳しく描かれている。同じ花を描いたものなのに、二枚から受ける印象は少し違っていた。
「面白いね。昨日の絵も今日の絵も、ちゃんとあの花に見えるのに、見てたところが違うんだ」
アルがそう言うと、セリーは二枚の紙を見つめながら微笑んだ。
「はい。昨日は初めて見つけたことが嬉しくて、花全体を残したいと思いました。今日は色を付けるために、細かな違いを知りたいと思っています。見たいものが変わると、絵も変わるのですね」
「うん。それって、きっと悪いことじゃないよね。同じ景色でも、何度も見たくなる理由があるってことだし」
セリーは顔を上げ、アルへ穏やかな笑みを向けた。
「主様。私は、この通路がますます好きになりました。昨日は知らない場所でしたが、今日はまた来たいと思える場所になっています」
アルはその言葉を聞き、少しだけ胸が熱くなった。
「俺もだよ。セリーが見つけた花がある場所だって思うと、なんだか特別に感じるね」
彼女は照れたように目を伏せたが、口元には嬉しそうな笑みが残っていた。
そのあと二人は、昨日見つけた石の台が遠くから見えるところまで歩いた。
台の周囲に大きな変化は見られず、草の生え方も昨日とほとんど同じに見えた。アルは無理に近づこうとはせず、南側の通路全体を眺めてから、セリーへ声を掛けた。
「今日は花の色を見に来たんだし、石の台はまた今度にしようか。古い図面のことも、急いで調べる必要はないからね」
「はい。私も、今日は絵の続きを楽しみたいです」
二人はそう話し合い、塔へ戻ることにした。
◇
昼食後、アルとセリーは塔の作業場へ向かった。
大きな作業台の上には、記録板の試作品や木片、布の端切れなどが整理して置かれている。アルはそれらを片側へ寄せ、絵を描くための広い場所を作った。
セリーは昨日と今日の花の絵を並べ、汚れないよう薄い布を敷いた。その様子を見ながら、アルは色を付ける道具について考えた。
「普通の絵の具があれば一番分かりやすいけど、塔に残ってるものが使えるとは限らないよね。古いものだったら、どんな材料が入ってるのかも分からないし」
アルがそう言うと、セリーは頷いた。
「はい。古い顔料や染料には、扱いに注意が必要なものもあると思います。保管されているという理由だけで、安全に使えるとは限りません」
「じゃあ、まずはエルに聞いてみようか。塔に画材があるかどうかと、使えるものがあるかは別に確認したいな」
アルは腕輪へ意識を向け、エルへ呼び掛けた。
『エル、少し相談してもいいかな。今日はセリーと絵に色を付けてみたいんだけど、塔に画材みたいなものが残ってるか分かる?』
しばらくして、聞き慣れた声が返ってきた。
『はい、アル。塔の保管記録には、記録図面や装飾に使用された顔料、筆記用の着色材料に関する項目が存在します。ただし、保管記録に記載されているものが、現在も使用可能な状態で残っているとは限りません』
『そうだよね。二千年前のものだったら、見た目が変わってなくても危ないかもしれないし』
『その可能性があります。また、古い材料の中には用途が限定されていたものもあります。成分や状態を確認せず、皮膚へ触れさせたり、粉末を吸い込んだりすることは推奨できません』
アルは頷き、セリーへも聞こえるように説明を伝えた。
彼女は少し残念そうな表情を浮かべたが、すぐに考え直したように口を開いた。
「主様。それでしたら、古い画材を無理に使うのではなく、私たちが普段使っている材料から、色を付けられるものを探してみるのはいかがでしょうか」
「普段使ってる材料?」
「はい。例えば、料理に使う果実の汁や、植物から取れる色です。ただし、紙に付けたときの変化や、保存した場合の状態は分かりませんので、最初は試し描きだけにしたいと思います」
アルはその提案に興味を引かれた。
朝食で使った赤い果実や、厨房にある色の濃い野菜なら、確かに紙へ色を移せるかもしれない。ただし、絵を描くために食材を無駄にするのは避けたかった。
「いいね。料理の下ごしらえで出た汁とか、少しだけ使えるものがないか探してみよう。食べ物を大量に使うのはもったいないし、まずは少量で試すのがよさそうだ」
「はい。それから、主様。黄色については、すぐに使える材料があるとは限りません。今日は赤や茶色など、用意できる色から試してもよろしいでしょうか」
「もちろん。花の絵を完成させることより、どんな色が出るのかを知る方が楽しそうだしね」
セリーは嬉しそうに微笑んだ。
二人は作業場をいったん片づけ、厨房へ向かった。
保存してある食材を確認すると、朝食で使った赤い果実の煮詰めたものが少量残っていた。ほかにも、濃い色の野菜を調理した際に出た煮汁が少しだけあり、アルはそれらを別々の小皿へ移した。
セリーは水を用意し、清潔な細い筆と、試し描き用の紙を取り出した。
最初に赤い果実の汁を少量だけ筆へ含ませ、紙の端へ線を引いてみる。
濡れている間は鮮やかな赤色に見えたが、少し時間が経つと色が薄くなり、紙の表面には淡い桃色に近い線が残った。
「思ったより薄くなるんだね」
アルが紙を覗き込むと、セリーは乾きかけた線を眺めながら頷いた。
「はい。汁の色と紙に残る色は、同じではないようです。水分が減ることで見え方が変わっているのかもしれませんが、今のところ理由は分かりません」
「でも、これはこれできれいだと思うよ。花弁の影とか、夕焼けの空にも使えそうだね」
セリーはその言葉を聞き、少し考えたあとで、同じ汁を使って濃さの違う線を三本描いた。
一度だけ筆を動かした線。
乾く前にもう一度重ねた線。
少し乾いてから重ねた線。
それぞれを並べてみると、色の残り方に違いがあった。
「主様。重ねるタイミングでも、色が変わるようです。ただ、乾いてからもう一度塗った部分は、紙が少し波打ってしまいました」
セリーが紙の端を持ち上げると、確かに表面がわずかに反っていた。
アルは指で触れずに角度を変えて眺め、頷いた。
「なるほど。色だけじゃなくて、紙との相性も考えないといけないんだね。これなら、絵に直接塗る前に試してよかったよ」
セリーは嬉しそうに微笑み、試し描きの横へ使った材料と塗り方を書き添えた。
続いて、野菜の煮汁を使って別の線を引いた。
こちらは赤い果実よりも暗い色になり、乾くと少しくすんだ紫に近い色合いが残った。アルはその違いを面白がり、セリーと交代しながら小さな四角や丸を描いてみた。
ところが、アルが少し多めに汁を含ませた筆を紙へ当てたとき、思った以上に色が広がってしまった。
「あっ、しまった。丸を描くつもりだったのに、なんだか潰れた果物みたいになっちゃった」
アルが苦笑すると、セリーは紙を覗き込み、しばらく黙ってから口元を緩めた。
「……主様。私には、小さな池のようにも見えます」
「池かあ。言われてみれば、そう見えなくもないかな。でも、池にしては形がずいぶん不思議だね」
「はい。ですが、私はこの形も好きです。最初から決めた通りにならなくても、別のものに見えることがあるのですね」
セリーは楽しそうに笑った。
アルもつられて笑い、紙の上へ広がった色を改めて眺めた。
確かに、失敗したと思った形でも、見方を変えれば別の景色になる。
それが何だか面白かった。
「じゃあ、この池の周りに木でも描いてみようかな。せっかくだし、一枚の絵にしてみたい」
「主様がよろしければ、私も隣に草を描いてみたいです。池の周りに生えているように見えるかもしれません」
「いいね。じゃあ、二人で描こうか」
アルは筆を持ち直し、セリーが描く場所を空けながら、池の周囲へ細い線を加えた。
セリーは小さな草を描き、少し離れたところへ葉の形を添える。
最初はただの試し描きだった紙が、いつの間にか小さな風景画のようになっていた。
◇
作業場の窓から差し込む日差しが少し傾いた頃、二人は試し描きの紙を乾かすため、机の端へ並べていた。
赤い果実の色は思っていたより淡くなり、野菜の煮汁で描いた部分も、濡れていたときとは違う色合いになっている。
セリーはそれらを見比べながら、黄色い花の絵へ視線を向けた。
「主様。今日は、あの花に合う黄色を見つけることはできませんでしたね」
彼女の声には少しだけ残念そうな響きがあった。
アルは隣へ腰を下ろし、二枚の花の絵を眺めた。
「そうだね。でも、今日は色の使い方をいろいろ試せたし、俺は楽しかったよ。セリーはどうだった?」
セリーは少し考え、乾きかけた紙へ目を向けた。
「私も楽しかったです。ただ、花の絵を仕上げたいと思っていたので、少し残念な気持ちもあります。楽しかったことと、残念だったことが、同時にあるようです」
アルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「うん。そういうこともあるよね。俺も記録板を作ってるとき、試すのは楽しいけど、早く完成させたいなって思うことがあるし」
セリーは顔を上げ、アルの表情を確かめるように見つめた。
「主様も、同じように感じられるのですね」
「もちろん。何かを楽しんでるからって、残念に思っちゃいけないわけじゃないし。今日のセリーが花の絵を完成させたかったことも、ちゃんと大事にしていいと思うよ」
その言葉に、セリーはしばらく黙っていた。
やがて彼女は、自分の指先へ視線を落とした。
「……ありがとうございます、主様。私は、何かを望んだとき、それがすぐに叶わなければ、望み方を変えなければならないと思ってしまうことがあります」
アルは彼女の言葉を遮らず、続きを待った。
作業場には、窓の外から聞こえる風の音と、乾いた木材がわずかに軋む音だけが響いている。
「ですが、今日は黄色い花を描きたいという気持ちを、そのまま持っていてもよいのだと思えました。別の色を試して楽しかったことも、黄色を見つけたいと思うことも、どちらも私の気持ちなのですね」
アルは静かに頷いた。
「うん。俺はそう思うよ。セリーが何かをやりたいって言ってくれるの、すごく嬉しいんだ。だから、途中で気持ちが変わってもいいし、変わらなくてもいい。君が選んだことなら、俺は一緒に考えたい」
セリーはゆっくりと顔を上げた。
彼女の目には、いつもの穏やかな光とは少し違う、柔らかな感情が浮かんでいるように見えた。
「主様。私は、今日のことも忘れたくありません」
「うん。じゃあ、試し描きも残しておこうか。失敗したと思った池の絵も、せっかくだしね」
アルが笑うと、セリーも小さく笑った。
「はい。あの池の絵は、私も大切にしたいです。主様と一緒に描いた、初めての風景ですので」
その言葉に、アルは少しだけ照れくさくなった。
自分が筆を滑らせて作った形が、セリーにとって大切な思い出になっている。
そう考えると、失敗したことまで嬉しく思えてくるから不思議だった。
◇
その頃、王都の魔導研究院では、フェリクス・ハルトマンが古い資料の保管状況を確認していた。
窓の外には午後の光が差し込んでいたが、研究室の中は棚に並んだ古い書類の影で少し薄暗い。机の上には、保存台帳の写しと、損傷した資料の番号を整理した一覧が置かれている。
助手はその一覧を手に、棚の一角へ目を向けていた。
「ハルトマン様。昨日確認した番号について、もう一度保管場所を調べてみました。現在の台帳では同じ分類に入っている資料が、古い台帳では別々の区分に記されているようです」
フェリクスは椅子から立ち上がり、助手の示した箇所を確認した。
番号の前半は似ているが、末尾の記号が欠けているため、同一資料かどうかは分からない。そのうえ、古い台帳の分類が現在の分類と同じ意味で使われていた保証もなかった。
「ありがとう。やはり、分類の仕方が変わった可能性はあるね。ただ、それが資料の移動を意味するとは限らないし、同じ番号に見えるものが別の資料を示している可能性も残っている」
フェリクスはそう言い、机の上へ紙を広げた。
助手は少し考えてから、別の資料を取り出した。
「それから、こちらなのですが、台帳の余白に短い注記があります。文字がかなり薄くなっていて、すべては読めません」
フェリクスは慎重に紙へ目を近づけた。
余白には、確かに何かが書き込まれていた。
ただし、文字の一部は擦れており、前後の文脈も分からない。残っている線から特定の語を推測することはできそうだったが、それを確定した文章として扱うには情報が足りなかった。
「……これは、本文とは別の時期に書き込まれたものかもしれないね」
フェリクスはそう呟き、すぐに言葉を補った。
「いや、そう見えるだけで、時期を判断できる証拠はない。筆跡やインクの違いも、保存状態による可能性があるからね」
助手は頷き、記録用紙へ書き込もうとした手を止めた。
「では、余白に注記が存在することだけを記録しますか」
「そうしよう。読めない部分を無理に補わず、どの位置にどれくらいの文字が残っているかを記録しておきたい。それから、本文との関係も現時点では不明としておこう」
フェリクスは資料を机へ戻し、静かに息を吐いた。
調査を始めた頃は、古代の手続きに関する記録を集めれば、失われた判断の仕組みが少しずつ見えてくると考えていた。
しかし、実際には、記録が残っていることと、その意味を理解できることの間には大きな隔たりがあった。
確認記録の欠落をどう扱ったのか。
担当者の変更がどのように引き継がれたのか。
延期された判断を再び検討する際、誰が何を確認する必要があったのか。
それらについて断片的な記述は見つかっているが、個々の資料が同じ制度に属していたのかさえ、まだ明確ではない。
(資料が増えれば、答えも増えると思っていた。けれど、今は問いの方が増えている気がするな)
フェリクスはそんなことを考えながら、助手へ顔を向けた。
「今日はここまでにしよう。続きは明日、保存状態を確認してからにしたい。無理に扱って、残っている文字まで失ってしまっては意味がないからね」
「承知しました。では、今日確認した内容を整理しておきます」
助手は礼を述べ、資料を慎重に保管用の覆いへ戻し始めた。
フェリクスは机の端に置かれた報告書へ目を向けた。
ブラートを通じてアルへ伝えるべき情報は、いずれ整理する必要がある。しかし、今日見つかった余白の注記は、まだ新しい結論として報告できるものではなかった。
彼はその紙を報告書へ加えず、研究室内の確認記録として保管することにした。
◇
古の塔では、セリーが試し描きの紙を片づけようとしていた。
色を付けた部分はほとんど乾いていたが、紙の表面にはわずかな波打ちが残っている。彼女は無理に平らへ戻そうとはせず、乾燥した状態を確認してから、薄い板の間へ挟んで保管することにした。
アルは作業台の端を片づけながら、ふと棚の奥に置かれた小さな木箱へ目を向けた。
それは普段使っている道具とは別に、古い筆記具や小さな定規などが収められている箱だった。以前、作業場を整理したときに見かけた覚えはあったが、中身を一つずつ確かめたことはない。
「セリー、あの箱って何が入ってたっけ。古い筆記具だったと思うけど、ほかにも何かあったかな」
アルが尋ねると、セリーは棚へ視線を向けた。
「私も、詳しい中身までは確認しておりません。ただ、作業用の小道具が入っている箱として保管されていたものだと思います」
「そっか。もし危なくないものなら、あとで見てみたいな。絵を描くための道具が入ってるかもしれないし」
アルはそう言い、箱を手に取る前にエルへ確認した。
エルからは、箱そのものに特別な操作機構があるという記録は確認できないものの、収納物の安全性までは保証できないという返答があった。そのため、アルとセリーは箱を作業台へ移し、蓋を開ける前に外側の状態を確かめた。
木箱には目立った破損がなく、蓋も普通の木製のものだった。
アルはセリーと相談し、無理な力を加えずに開けられることを確認してから、ゆっくりと蓋を持ち上げた。
中には、細い木製の定規と、数本の筆記具、それに小さく巻かれた紙が入っていた。
筆記具の一部は古く、現在も使えるかどうか分からない。
アルはそれらへ不用意に触れず、まずは箱の中を目で確認した。
「思ってたより普通の道具が多いね。でも、この紙は何だろう」
アルが視線を向けたのは、箱の隅に置かれた細い巻紙だった。
紙の表面は少し黄ばんでいたが、外から見える範囲には目立った破れがなかった。
セリーは巻紙を見つめ、少し考えたあとで口を開いた。
「主様。もし古い記録でしたら、無理に広げると傷んでしまうかもしれません。まずはエルに、保管記録が残っているかどうかを尋ねてみませんか」
「うん。その方がよさそうだね」
アルは腕輪へ意識を向け、エルへ呼び掛けた。
『エル、作業場の古い木箱を開けたら、巻かれた紙が入ってたんだ。これについて何か記録は残ってるかな』
エルは少し間を置いて答えた。
『作業場の小道具箱に関する保管記録は一部残っています。ただし、現在の収納物と記録の対応関係は完全ではありません。巻紙についても、内容や作成年代を特定できる情報は確認できません』
『そっか。じゃあ、無理に開かない方がいいかな』
『紙の劣化状態を確認できないため、慎重に扱うことを推奨します。特に、乾燥によって硬くなっている場合は、広げる際に破損する可能性があります』
アルは頷き、セリーへ説明を伝えた。
彼女は少し残念そうに巻紙を眺めたが、すぐに表情を整えた。
「それでしたら、今日は中身を確認しない方がよいと思います。紙が傷んでしまったら、残されているものまで失ってしまいますので」
「うん。そうしよう。今すぐ知りたいことがあるわけじゃないしね」
アルは箱の中身を動かさず、蓋を元の位置へ戻した。
巻紙が何なのかは分からない。
絵に関係するものかもしれないし、まったく別の用途の記録かもしれない。
しかし、今の二人には、それを急いで確かめる理由はなかった。
アルは木箱の外側へ簡単な印を付けた紙を添え、元の棚へ戻した。
「あとで安全に確認できる方法が分かったら、そのときに見てみようか」
「はい。私も、そうしたいです」
セリーは静かに頷き、作業台へ視線を戻した。
そこには、二人が描いた小さな池の絵が置かれている。
古い巻紙の中身は分からなかったが、今日自分たちの手で描いたものは、確かにそこにあった。
◇
夕食の支度を始める前、セリーは作業場の窓辺に立ち、乾かしていた絵をもう一度眺めていた。
赤い果実の汁で描いた部分は淡い色になり、野菜の煮汁で描いた池は、少しくすんだ紫色へ変わっている。
最初に思い描いた色とは違っていたが、セリーはその変化を不思議と嫌だとは感じなかった。
むしろ、紙に残った色を見ていると、今日アルと一緒に笑った場面が自然と思い出された。
(私は、あの黄色い花を描きたかった。でも、今はこの池の絵も好きだと思っている。予定していなかったものを好きになることも、あるのですね)
セリーはそっと紙の端を持ち上げ、まだ湿っている部分がないか確かめた。
アルは少し離れた作業台で道具を片づけていたが、彼女が絵を見つめていることに気づき、手を止めた。
「セリー、その絵、気に入った?」
声を掛けられたセリーは振り返り、嬉しそうに頷いた。
「はい。主様が描かれた池も、私が加えた草も、最初から予定していたものではありませんでした。でも、今はこの絵を見ると、今日のことを思い出せる気がします」
「そっか。じゃあ、これは二人で描いた絵として残しておこうか。花の絵とは別にしておけば、あとで見返すのも楽しそうだね」
アルはそう言い、彼女の隣へ歩み寄った。
セリーは紙を少し持ち上げ、アルにも見やすいように向きを変えた。
「主様。私は、この絵をどこへ置こうか考えていました。自分の部屋に置くのも嬉しいのですが、主様と一緒に描いたものですので、二人で見られる場所に置きたいと思っています」
アルは少し考え、作業場の壁へ目を向けた。
壁には工具を掛けるための場所があるが、紙を飾るために作られたものではない。食堂へ置く方法もあるが、料理の湯気や湿気が紙へ影響するかもしれなかった。
「そうだね。書斎なら、落ち着いて見られる場所があるかもしれない。でも、壁に直接貼ると紙が傷むかもしれないから、何か立て掛けられるものを作るのもいいな」
セリーはその言葉に目を輝かせた。
「絵を飾るための台、ですか?」
「うん。前に小さな木彫りの鳥を置くための台を作ったことがあったでしょ。あれとは形が違うけど、紙を傷めずに立てられるものがあったら便利かなって」
セリーは少し考え、紙の端へ目を向けた。
「それでしたら、絵を挟むのではなく、下から支える形がよいかもしれません。紙を直接固定しなければ、別の絵に取り替えることもできます」
「いいね。でも、紙が柔らかいから、そのままだと倒れちゃうかもしれないな。薄い板に載せる方法も考えてみようか」
「はい。私も、一緒に作ってみたいです」
二人はそう話し合い、絵を飾るための小さな台を作る案を、工作の試作記録へ書き加えた。
ただし、すぐに製作を始めることはしなかった。
記録板の留め具もまだ完成していないため、新しい工作を増やしすぎると、作業場が散らかってしまうかもしれない。アルとセリーは、まず今ある道具を整理し、どの作業を先に進めたいかを改めて相談することにした。
「セリー、記録板と絵の台、どっちを先に作りたい?」
アルが尋ねると、セリーは少し考えた。
「私は、記録板を先に完成させたいです。庭の観察にも、森の散歩にも使えますし、今日のように外で絵を描くときにも便利ですから」
「俺も同じかな。じゃあ、絵の台は少し先の楽しみにしておこう」
セリーは嬉しそうに頷いた。
アルはその表情を見ながら、彼女が自分の考えを迷わず伝えてくれるようになったことを、改めて嬉しく思った。
◇
夕食は、二人で作った温かな野菜料理とパンだった。
セリーは料理の味を確かめながら、今日の色の試し描きについて話していた。
「主様。赤い果実の汁は、紙に付けるとかなり薄くなりましたね。次に試すときは、少し違う紙を使ってみたいと思います」
「いいね。でも、保存してるうちに色が変わるかもしれないから、今日の絵もときどき見てみようか」
「はい。色が変わったとしても、その変化を記録しておけば、次に使うときの参考になると思います」
セリーはそう答え、少し笑みを浮かべた。
「ただ、私は、色が変わってしまうことを少し残念にも感じます。今日見た色を、そのまま残しておきたい気持ちもありますので」
アルはパンを置き、彼女へ目を向けた。
「うん。せっかく気に入った色なら、残しておきたいよね。でも、変わっていくのも含めて、その絵の思い出になるのかもしれないな」
セリーは少し考え、静かに頷いた。
「そうですね。今日の色を覚えておくために、言葉でも残してみたいと思います。乾く前はどのような色だったのか、乾いたあとでどう変わったのかを書いておけば、絵を見るときに思い出せるかもしれません」
「それ、いい考えだね。絵だけじゃなくて、そのとき感じたことも一緒に残せるんだ」
アルはそう言い、食卓の窓へ目を向けた。
外では夕日が森の梢を赤く染めている。
今日セリーが描こうとしていた黄色い花は、今も塔の南側で咲いているのだろう。
明日も同じように咲いているかどうかは分からない。
けれど、今日二人が見た色や、そこで交わした言葉は、紙の上にも、心の中にも残っている。
アルはそのことが、何だかとても嬉しかった。
◇
夜、アルは書斎の机へ向かい、今日の記録を整理していた。
庭の管理記録には、湿った地面の状態と、鉢植えに目立った変化がなかったことを記した。
工作の試作記録には、果実や野菜の汁を使った着色の結果と、紙の波打ちについて簡単にまとめた。
南側の通路で描いた花の絵は、セリーが自分の部屋へ持ち帰ることになっている。
そして、二人で描いた池の絵は、ひとまず書斎の棚へ置くことにした。
アルは薄い板に載せた絵を眺め、少し笑みを浮かべた。
形の崩れた丸から始まった絵だったが、今では小さな池の周りに草が生え、どこか穏やかな景色に見える。
そこへ、扉を軽く叩く音が聞こえた。
「主様。まだ起きていらっしゃいますか」
「うん、セリー。どうぞ」
扉が開き、セリーが顔を覗かせた。
彼女の手には、小さな紙が一枚握られている。
「主様。今日の絵について、少し書いてみました。もしよろしければ、こちらも一緒に保管していただけませんか」
アルは椅子から立ち上がり、彼女を迎えた。
セリーが差し出した紙には、今日使った色のことと、絵を描いたときの気持ちが丁寧な文字で記されていた。
赤い果実の汁は、乾くと淡い色になったこと。
野菜の煮汁は、思っていたより暗い色になったこと。
そして、主様と一緒に描いた池の絵が、とても気に入っていること。
アルは最後まで読み終えると、静かに微笑んだ。
「ありがとう、セリー。これ、絵と一緒に大切にしまっておくよ」
セリーは嬉しそうに頷いた。
「はい。私も、今日のことを忘れたくありません。主様と一緒に新しいことを試して、思っていた通りにならなくても楽しかったことを、残しておきたいのです」
アルは紙を机へ置き、彼女へ手を差し出した。
セリーは少し照れたように微笑み、その手を取った。
指先が触れ合うと、アルの胸に穏やかな温かさが広がった。
「セリー。明日も、何か一緒にやってみようか。もちろん、君がやりたいことがあれば、それを優先したいけど」
セリーは少し考え、それから柔らかな笑みを浮かべた。
「それでしたら、主様。明日は、記録板の留め具をもう一度試してみたいです。今日、外で絵を描いているとき、紙が動かないようにする道具があれば、もっと描きやすいと思いましたので」
「うん。俺もそう思ってた。じゃあ、明日はそこから始めようか」
アルがそう答えると、セリーは嬉しそうに頷いた。
二人は手をつないだまま、書斎の棚に置かれた小さな池の絵を眺めた。
古の塔には、まだ知らないことがたくさん残っている。
南側の石の台も、古い図面も、作業場の木箱に入っていた巻紙も、その正体は分からない。
けれど、今のアルには、それらを急いで明らかにしなければならない理由はなかった。
知らないことを知る楽しみも、分からないまま大切にしておく時間も、どちらも今の暮らしの一部になっている。
そして、セリーが自分の意思で選んだことを、一緒に楽しめる日々がある。
アルは隣に立つ彼女へ目を向け、静かに微笑んだ。
「そろそろ休もうか。今日はたくさん歩いたし、絵も描いたからね」
「はい、主様。今日も、とても楽しかったです」
「俺もだよ。おやすみ、セリー」
「おやすみなさい、主様」
二人は穏やかな笑みを交わし、書斎をあとにした。
窓の外では、夜の森が静かに広がっている。
塔の中に残された小さな池の絵は、明かりの落ちた書斎の棚で、今日二人が過ごした時間をそっと留めていた。




