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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第156話 塔の古い図面と、セリーが選んだ小さな寄り道


 朝の光が古の塔の東側の窓から差し込む頃、アルは書斎の机に広げられた一枚の紙を眺めていた。昨夜、セリーと一緒に整理した庭の管理記録であり、塔の壁に近い一角で地面が乾きにくくなっていることや、鉢植えを移動させた位置などが、簡単な図とともに記されている。


 窓の外には穏やかな青空が広がっていたが、森の奥にはまだ薄い朝霧が残っていた。昨日までの観察では、湿った場所が周囲より乾きにくいことは分かったものの、その理由を判断できるほどの情報は集まっていない。


(今日も天気はよさそうだけど、地面の状態がどう変わるかは分からないな。毎日見ていれば、少しずつ違いが分かるようになるのかもしれない)


 アルは記録用紙を引き出しへ戻し、椅子から立ち上がった。今日は朝食のあとで庭を確認する予定だが、それ以外に急いで済ませなければならない仕事はなく、午前中の過ごし方もセリーと相談して決めるつもりだった。


 王宮にいた頃のアルは、予定のない朝をほとんど経験したことがなかった。会議や謁見が入っていなくても、確認すべき書類や報告があり、自由な時間ができれば別の仕事を割り当てられるのが当たり前だった。


 今では、何も予定が決まっていないことに不安を覚えることは少なくなっている。むしろ、これから何をしようかと考える時間そのものが、自分の暮らしを自分で選んでいる証のように感じられた。


 廊下へ出ると、厨房の方から食器の触れ合う音と、何かを焼いている香ばしい匂いが漂ってきた。食堂へ入ったアルは、調理台の前に立つセリーの姿を見つけ、自然と口元を緩めた。


「おはよう、セリー。今日は何を焼いてるの? 廊下までいい匂いがしてたよ」


 アルが声を掛けると、セリーは手元の焼き加減を確かめてから振り返った。朝の光を受けた彼女の髪が柔らかく輝き、いつもの穏やかな笑顔が浮かぶ。


「おはようございます、主様。今朝は薄く切ったパンに卵液を染み込ませ、少量のバターで焼いております。以前、主様が甘い朝食もお好きだとおっしゃっていたので、今日は少し趣向を変えてみました」


「それは楽しみだな。セリーが新しい料理を考えてくれると、朝起きるのがますます楽しみになるよ」


「ありがとうございます。ただ、甘さは控えめにしておりますので、お好みに合わせて果実の煮詰めたものを添えられるようにしました。主様がどちらをお気に召すか、私も知りたいです」


 セリーは皿へ焼き上がったパンを移し、別の小皿に赤い果実の煮詰めたものを盛りつけた。アルが食卓へ運ぶのを手伝うと、彼女は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに嬉しそうな表情で礼を述べた。


 二人が向かい合って席に着くと、窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえてきた。アルはまず何も添えずにパンを一口食べ、表面の香ばしさと内側の柔らかな食感を楽しんでから、果実を少しだけ載せて味わった。


「うん、どっちもおいしい。何も載せない方は卵とバターの味がよく分かるし、果実を添えると少し特別な朝食になるね」


 セリーはアルの反応を見つめながら、自分の皿へ視線を落とした。


「それでしたら、次に作るときは果実を別添えにする形を続けたいと思います。最初から甘くしてしまうと、主様がその日の気分で選ぶことができませんので」


「いいね。でも、セリーはどういう食べ方が好き? 俺の好みに合わせるだけじゃなくて、君が食べたいものも作ってほしいな」


 問い掛けられたセリーは、少し考えてから自分のパンへ果実を載せた。赤い色が淡い焼き色の上へ広がる様子を眺め、彼女は小さく微笑む。


「私は、果実を添えた方が好きです。パンの温かさと果実の甘酸っぱさが一緒になるところが、特に気に入りました」


「そっか。じゃあ、今度は果実を使った別のお菓子も作ってみたいね。セリーが気に入るものを、俺も一緒に考えたいな」


 セリーは少しだけ頬を染め、嬉しそうに頷いた。アルはその表情を見ながら、彼女が自分の好みを当たり前のように話してくれるようになったことを、改めて嬉しく思った。


 朝食を終える頃には、食堂の中もすっかり明るくなっていた。二人は食器を片づけながら、その日の予定について話し始めた。


「庭の観察は、昨日決めた位置から見てみようと思うんだ。それから、記録板の布をどう固定するかも少し考えたいけど、セリーは何かしたいことある?」


 アルが尋ねると、セリーは洗い終えた皿を布で拭きながら、少し迷うように視線を動かした。


「実は、主様にお願いしたいことがあります。庭の観察を終えたあとで、塔の南側にある小さな通路を歩いてみたいのです」


「南側の通路?」


「はい。以前、窓から見えた場所なのですが、塔の壁に沿って石畳が続いているように見えました。普段は庭の中央や森へ向かう道を歩くことが多いので、そちらもゆっくり見てみたいと思ったのです」


 アルは少し驚いた。


 セリーが散歩を楽しみにしていることは知っていたが、具体的な場所を自分から提案してくれるのは、やはり嬉しかった。


「もちろんいいよ。今日は天気もいいし、庭を見たあとで行ってみようか。ただ、足元が濡れていたら無理はしないようにしよう」


「はい。ありがとうございます、主様」


 セリーの声がいつもより少し弾んでいるように聞こえ、アルは胸の奥が温かくなるのを感じた。


     ◇


 庭へ出ると、朝の空気にはまだわずかな冷たさが残っていた。石畳の上には細長い木の影が落ち、塔の壁に近い場所では、夜の湿気が完全には消えていない。


 アルとセリーは昨日決めた観察位置へ向かい、そこから地面の状態を確かめた。移動させた鉢植えは安定しており、葉の色にも目立った変化は見られない。


「昨日より少し乾いているように見えるけど、どうかな」


 アルが地面を眺めながら尋ねると、セリーは前日に描いた図を手元で確認した。


「湿った範囲は狭くなっているように見えます。ただ、昨日と今日では日差しの当たり方が少し違いますので、見た目だけで判断するのは難しいと思います」


「そうだね。今日は雨が降っていないことと、今の見え方だけ記録しておこうか」


 アルは籠から紙と筆記具を取り出し、未完成の記録板の上へ載せた。セリーが紙の端を押さえると、アルは観察した時間と天候を書き込み、湿った場所について短い説明を添えた。


 以前は、こうした作業をするときに何を記録すればよいのか迷うことも多かった。しかし、セリーと相談して簡単な記録様式を作ったことで、必要な情報を落ち着いて整理できるようになっている。


「この記録の仕方、思ってたより使いやすいね。毎回長い文章を書かなくても、変化があったところだけ詳しく残せばいいんだ」


「はい。ですが、気づいたことを自由に書ける欄も残してありますので、必要なときには詳しい説明を加えられます」


 セリーはそう答え、アルが書き終えるのを待ってから紙を受け取った。彼女は石畳の端へ目を向け、前日から変化がないかを確かめるように眺めた。


 そのとき、アルは彼女の視線が地面ではなく、塔の壁へ移ったことに気づいた。


「セリー、何か気になるものがあった?」


「はい。こちらの壁なのですが、石の継ぎ目が途中で少し変わっているように見えます。以前からこのようになっていたのか、私には分かりません」


 アルは彼女の隣へ移動し、壁を見上げた。


 塔の外壁は大きな石材を組み合わせて造られており、長い年月を経ているにもかかわらず、目立った崩れは少ない。しかし、セリーが指さした場所では、石材の並びがわずかに変わっているように見えた。


「本当だ。こっちは横の線が揃ってるのに、あっちは少しずれてるね。でも、建てたときからこうだったのかもしれないな」


「はい。補修された可能性もありますが、現時点では判断できません。塔の構造に関係しているかどうかも不明です」


 アルはしばらく壁を眺めたあと、少し離れた位置から全体を見渡した。


 石材の並びが違って見える場所は、ちょうど庭の湿った地面に近い位置にある。


 そのため、アルの頭には一つの考えが浮かんだが、すぐにそれを事実として扱うことは避けた。


(場所が近いから、何か関係してるように思えてしまうな。でも、壁の継ぎ目と地面の湿り気がつながってる証拠は何もない)


 アルはセリーへ顔を向けた。


「これも記録しておこうか。ただ、湿った地面との関係は分からないって書いておこう。場所が近いだけで、原因だと決めるわけにはいかないからね」


「はい。私も、その方がよいと思います」


 二人は壁の見えている範囲を簡単に描き、石材の並びが変わっているように見えることを記録した。壁へ触れたり、石の継ぎ目を調べるために何かを差し込んだりすることはせず、観察を終えると道具を片づけた。


 庭の湿った場所について、新しい答えが見つかったわけではない。


 それでも、昨日まで気づいていなかったことが一つ増えた。


 アルは記録板を籠へ戻し、セリーへ微笑みかけた。


「じゃあ、次は南側の通路へ行ってみようか。セリーが見たいって言ってた場所、俺も気になってきたよ」


「はい。ご一緒できて嬉しいです」


 二人は庭の中央へ戻り、塔の南側へ続く石畳を歩き始めた。


     ◇


 塔の南側は、普段二人が過ごしている庭とは少し雰囲気が違っていた。


 建物の影が長く伸びる北側と比べると日当たりがよく、石畳の隙間から顔を出した小さな草にも、明るい光が降り注いでいる。壁に沿って続く道はそれほど広くなかったが、二人が並んで歩くには十分な幅があった。


 セリーは周囲を見渡しながら、ゆっくりと歩いていた。


 アルは彼女の歩調に合わせ、時折足元の石畳を確かめる。


「ここ、思ってたより明るいね。庭の反対側だから、もっと影が多いのかと思ってたよ」


「はい。私も窓から見ていたときは、もう少し狭い場所だと思っていました。実際に歩いてみると、壁から少し離れたところまで日が当たっていますね」


 セリーは立ち止まり、石畳の端に咲いている小さな花へ目を向けた。


 淡い黄色の花弁が五枚ほど開いており、細い茎の先で風に揺れている。アルも隣へしゃがみ込み、花の形を眺めた。


「かわいい花だね。庭の中央では見たことがなかった気がするけど、同じ種類の花はあるのかな」


「私が確認した範囲では、まだ同じ形のものは見つけておりません。ただ、庭のすべての植物を調べたわけではありませんので、ほかの場所にも咲いているかもしれません」


 セリーは花へ手を伸ばしかけたが、途中で動きを止めた。


 アルはその仕草に気づき、彼女の横顔を見つめた。


「摘んでみたい?」


 セリーは少し迷ったあと、首を横に振った。


「いいえ。最初は近くで見てみたいと思ったのですが、ここに咲いている姿がきれいですので、今日はそのままにしておきたいです」


「そっか。それなら、絵に残しておこうか。君が描きたいなら、俺が紙を押さえるよ」


 セリーは嬉しそうに頷き、籠から記録板を取り出した。


 アルは紙の端を押さえ、セリーが花の輪郭を描き始めるのを見守った。彼女は花弁の形だけでなく、茎がどの方向へ伸びているのか、葉がどこについているのかも丁寧に観察している。


 風が吹くたびに花が揺れるため、細かな形を描くのは簡単ではなかった。それでもセリーは焦ることなく、見えた部分だけを少しずつ紙へ写していった。


「主様。こうして外で絵を描くのは、思っていたより難しいですね。花が動きますし、光の当たり方でも形が違って見えます」


「そうだね。でも、俺は君が描く絵が好きだよ。細かいところまで見ようとしてるのが伝わってくるから」


 アルの言葉に、セリーは筆記具を持つ手を止めた。


 彼女は少しだけ頬を染め、アルへ視線を向ける。


「ありがとうございます。私は、主様と一緒に見つけたものを、自分の手で残せることが嬉しいです。以前なら、必要な情報を記録することだけを考えていたかもしれませんが、今はそのときの景色も覚えておきたいと思うようになりました」


 アルはその言葉を聞き、静かに頷いた。


 セリーが自分の意思で何かを選び、それを楽しんでいる姿を見るたびに、胸の奥が温かくなる。


 彼女は自動人形として造られた存在だが、今のアルにとっては、命令を受けて働くためだけの相手ではなかった。


 同じ景色を見て、同じ時間を過ごし、互いの気持ちを伝え合える大切な存在だった。


「これからも、いろんな景色を一緒に見ようね。森の奥だけじゃなくて、塔の周りにも知らない場所があるみたいだし」


「はい。私も、主様と一緒に歩いてみたい場所がたくさんあります」


 セリーはそう答え、再び花の絵へ向き直った。


 アルは紙を押さえながら、彼女の手元を眺めた。


 絵が完成するまでの時間は、思っていたより長く感じられなかった。


 風が花を揺らし、木々の向こうで鳥が鳴く。


 そんな何でもない音に包まれながら、二人は穏やかな時間を過ごした。


     ◇


 南側の通路をさらに進むと、石畳は塔の壁に沿って緩やかに曲がっていた。


 その先には、背の低い草が広がる小さな空間があり、壁際には古い石の台のようなものが見えている。アルは少し離れた場所で足を止め、セリーとともに周囲を確かめた。


「ここにも何かあるね。石の台かな」


「そのように見えます。ただ、何のために置かれているものなのかは分かりません」


 セリーは慎重に答え、足元の状態を確かめた。


 石畳は途中まで続いていたが、台の周囲には草が伸びており、近づけば地面の状態を変えてしまう可能性があった。そのため二人は石畳の上に留まり、見える範囲だけを観察することにした。


 石の台は、腰より少し低い程度の高さだった。


 表面は平らに見えるものの、遠くからでは細かな凹凸までは分からない。側面には浅い線のようなものも見えたが、それが人工的に刻まれたものなのか、長い年月の中で生じた傷なのかは判断できなかった。


「森の入口にあった石とは、形が違うね」


 アルがそう言うと、セリーは静かに頷いた。


「はい。こちらは上面が広く、何かを置くための台のようにも見えます。ただ、形が似ているからといって、その用途を決めることはできません」


「うん。塔の周りには、まだ知らないものがいろいろ残ってるんだな」


 アルは石の台を眺めながら、少し考えた。


 塔には二千年前の魔導具師が残した設備が数多く存在している。


 しかし、塔の周囲にあるものがすべて同じ時代に造られたとは限らない。後の時代に誰かが使った可能性もあれば、自然に置かれた石を加工したものかもしれない。


 アルは腕にあるエルの存在を意識した。


 以前、森の入口で見つけた石について尋ねたとき、エルは塔の周囲に複数の保守用通路が存在していたことを教えてくれた。しかし、古い記録と現在の地形を正確に対応させることはできず、石の用途も特定できなかった。


 今回の石についても、何か情報が残っているかもしれない。


 ただし、セリーと相談せずに調べ始めるのは違うように感じられた。


「セリー。この石のこと、エルに聞いてみてもいいかな。もちろん、今見えてる範囲の情報だけで、何かを動かしたりはしないつもりだけど」


 セリーはアルへ顔を向け、少し考えてから頷いた。


「はい。記録に情報が残っているかどうかを尋ねるだけでしたら、確認できることもあると思います。ただ、古い記録と現在の石が同じものかどうかは、慎重に考えたいです」


「うん。そこは気をつけよう」


 アルは腕輪へ意識を向け、エルへ呼び掛けた。


『エル、少し聞きたいことがあるんだけど、今いいかな』


 しばらくして、聞き慣れた声が意識の中へ返ってきた。


『はい、アル。何でしょうか』


『塔の南側を歩いていたら、壁の近くに石の台みたいなものがあったんだ。古い記録に、塔の外側に設置された石の台について何か残ってないかな』


 エルはすぐには答えず、短い沈黙があった。


『塔の外周設備に関する記録を確認します。ただし、現在の地形や設備の状態を直接確認しているわけではありませんので、記録上の情報と目の前の物体を同一視することはできません』


『うん。それは分かってる。何か似たものが記録にあるかだけ教えてほしいんだ』


 アルはそう答え、セリーへ目を向けた。


 彼女は石の台を眺めながら、アルの返答を待っている。


 やがてエルの声が再び響いた。


『塔の外周には、かつて複数の作業用設備が設置されていた記録があります。その中には、工具や資材を一時的に置くための台状設備に関する記述も含まれています』


 アルは思わず石の台へ視線を戻した。


 しかし、エルの説明はそこで終わらなかった。


『ただし、記録に残る設置位置は現在の地形と正確に照合できません。また、材質や寸法の記述が不完全なものもありますので、目の前の石がそれに該当するかどうかは判断できません』


『なるほど。昔、そういう設備があったことは分かるけど、これがその台だとは言えないんだね』


『その理解で問題ありません。なお、現時点で設備を操作する必要性は確認されていません』


『ありがとう、エル。今日は見て記録するだけにしておくよ』


 アルはエルとのやり取りを終え、セリーへ内容を伝えた。


 彼女は説明を聞き終えると、少し考えるように石の台へ視線を向けた。


「作業用の台状設備が存在していた記録はあるのですね。ただ、こちらがその設備かどうかは分からない、と」


「うん。だから、今日は形と場所だけ記録しておこうと思う。もしあとで古い図面を見られる機会があれば、比べることはできるかもしれないけどね」


 セリーは静かに頷いた。


「はい。主様。私も、今はそれで十分だと思います」


 二人は石の台を遠くから描き、塔の南側にあることと、石畳の先に位置していることを記録した。


 その際、台の側面に見えた線についても、刻まれたものかどうか未確認であることを書き添えた。


 観察を終えたアルは、石の台をもう一度眺めた。


 何のために使われていたのかは分からない。


 けれど、二千年前の塔の周囲には、今の自分たちが知らない暮らしや仕事があったのだろう。


 そのことを想像すると、胸の奥に小さな好奇心が芽生えた。


     ◇


 昼食の時間が近づいたため、二人は塔へ戻ることにした。


 南側の通路を引き返す途中、セリーは先ほど描いた花の絵を何度か見返していた。アルはその様子に気づき、少し笑みを浮かべた。


「気に入った?」


 セリーは顔を上げ、嬉しそうに頷いた。


「はい。主様と一緒に見つけた花ですので、大切にしたいと思っています。もしよろしければ、この絵は庭の管理記録とは別に保管してもよいでしょうか」


「もちろん。セリーが描いた絵なんだから、君が好きなところに置いていいんだよ」


 アルがそう答えると、セリーは少し驚いたように目を瞬かせた。


「私が、好きなところに……ですか」


「うん。君の部屋でもいいし、前に作った箱に入れてもいいし。もちろん、俺と一緒に見られる場所へ置いてくれても嬉しいけど、それは君が決めていいことだよ」


 セリーはしばらく紙を見つめ、ゆっくりと頷いた。


「それでしたら、今日は私の部屋へ持っていきたいです。あとで見返したときに、主様と歩いた南側の通路を思い出せるようにしたいので」


「いいね。じゃあ、帰ったら折れないようにしまっておこうか」


 アルはそう言い、彼女の持つ紙が風で曲がらないよう、記録板の上へ重ねた。


 セリーは嬉しそうに微笑み、アルの隣へ歩み寄った。


 二人は石畳を並んで歩きながら、南側で見つけた花や石の台について話した。


 塔へ戻る頃には、朝の冷たさもすっかり和らいでいた。


     ◇


 昼食を終えたあと、アルは書斎で古い資料を探していた。


 南側の通路で見つけた石の台について、エルから塔の外周設備に関する記録が存在すると聞いたため、以前確認した資料の中に関連するものがないかを見直そうと思ったのだ。


 ただし、最初から石の正体を突き止めようとしているわけではない。


 手元にある情報を整理し、何が分かっていて、何が分かっていないのかを確かめたいだけだった。


 セリーは隣で資料の整理を手伝いながら、アルが広げた紙へ目を向けた。


「主様。こちらは以前、塔の内部設備について確認された資料ですね。外周の通路については、詳しい記述がなかったように思います」


「そうだったね。たしか、内部の保守経路と外の道について、別々に書かれていたんだっけ」


「はい。ただ、外部の道については記録が不完全でしたので、現在の地形と照合することは難しいとされていました」


 アルは頷き、紙をめくった。


 そこには、塔の周囲に複数の保守用通路が存在していたことを示す簡単な記述が残されていた。


 しかし、具体的な位置や形状を示す情報は限られており、森の入口で見つけた石や、今日の南側の台と結びつけられるものではなかった。


「やっぱり、これだけじゃ分からないね」


 アルがそう呟くと、セリーは少し考えたあとで口を開いた。


「主様。エルに、古い図面が残っているかどうかを尋ねてみるのはいかがでしょうか。すぐに照合できるとは限りませんが、存在するかどうかだけでも分かれば、今後の調査の参考になると思います」


 アルは彼女の提案に頷いた。


「そうだね。ただ、古い図面があったとしても、今の塔の周りと同じとは限らないから、そこは気をつけよう」


 アルは腕輪へ意識を向け、エルへ再び呼び掛けた。


『エル、もう一つ聞いてもいいかな。塔の外周設備について、古い図面みたいなものは残ってる?』


『確認します。外周設備の配置を示す資料は、複数の時期に作成されたものが残っています。ただし、完全な状態で保存されているものは限られています』


『複数の時期ってことは、塔の周りも途中で変わってたのかな』


『その可能性はあります。ただし、図面の差異が実際の設備変更を示しているのか、記録方法の違いによるものなのかは、個別に確認する必要があります』


 アルはその説明を聞き、少し考えた。


 古い図面が残っていると聞けば、すぐに何かが分かるような気がしてしまう。


 けれど、エルの言う通り、図面に描かれたものがすべて現実の設備と一致していたとは限らない。


『じゃあ、今すぐ全部見せてもらう必要はないかな。まずは、どんな種類の図面があるのかだけ知りたいんだ』


『承知しました。現在確認できる範囲では、塔の外周通路、作業用設備、資材の搬入経路に関する図面が存在します。ただし、各資料の作成年代や相互関係については、不明な部分が残っています』


『ありがとう。じゃあ、今日はそこまででいいよ』


 アルはエルとのやり取りを終え、セリーへ内容を伝えた。


 彼女は興味深そうに耳を傾けていたが、説明が終わると少し考え込んだ。


「外周通路だけでなく、作業用設備や資材の搬入経路についても図面が残っているのですね」


「うん。でも、どの図面がいつのものなのか分からない部分もあるみたいだから、今の景色とすぐに結びつけるのは難しそうだね」


 セリーは静かに頷いた。


「はい。ですが、塔の周囲がどのように使われていたのかを知る手掛かりにはなるかもしれません」


 アルはその言葉を聞き、少し微笑んだ。


「そうだね。俺たちが今使ってる庭や通路も、昔は違う使われ方をしてたのかもしれないな」


 二人はその日の調査内容を短くまとめ、書斎の記録へ加えた。


 南側で見つけた石の台については、用途も年代も未確認。


 塔の外周設備に関する古い図面は存在するが、現在の地形との対応関係は不明。


 その二つを分けて書き残した。


 アルは筆記具を置き、少し肩の力を抜いた。


 答えはまだ見つかっていない。


 それでも、知らなかったことが一つ増えたのは確かだった。


     ◇


 その頃、王都の魔導研究院では、フェリクス・ハルトマンが古い保存台帳の照合を続けていた。


 机の上には、以前から調べている確認記録の断片と、複数の時期に作成された保存台帳が並んでいる。資料の端には細かな番号が記されていたが、損傷によって読み取れない部分も多く、照合は思うように進んでいなかった。


 フェリクスは一枚の紙を持ち上げ、隣に置かれた台帳と見比べた。


 似た分類記号を持つ資料が存在することは確認されている。


 しかし、それらが同じ制度に関係しているのか、同じ場所で使われていたのかは分からない。


 さらに、古い台帳と現在の台帳では、分類の仕方に違いがある可能性も見つかっていた。


 助手が机の横へやってきたのは、フェリクスがその違いを整理しているときだった。


「ハルトマン様。先ほど確認していた台帳ですが、番号の一部が別の資料にも記されていることが分かりました」


 フェリクスは顔を上げ、差し出された紙を受け取った。


「同じ番号があったのか。それは、どの部分かな」


「こちらです。ただし、完全に一致しているわけではありません。末尾の記号が欠けているため、同じ資料を示しているかどうかは判断できません」


 フェリクスは紙へ目を落とし、しばらく黙って確認した。


 確かに、番号の前半は似ている。


 しかし、末尾の部分が失われているため、同じ資料を示している可能性も、別の資料である可能性も残っていた。


「なるほど。これは慎重に扱った方がよさそうだね。番号の一部が一致していることは記録できるけど、同一資料だとはまだ言えない」


「はい。私もそう考えています」


 助手は頷き、机の横へ置かれた記録用紙を手に取った。


 フェリクスは少し考えたあとで、別の資料へ視線を向けた。


「今回の調査では、資料の内容だけでなく、保存されてきた経緯も重要になりそうだ。だが、保存場所の違いや番号の類似だけで、失われた手続きの内容を推測するのは危険だね」


「承知しました。では、確認できた番号の範囲と、欠けている部分を分けて記録しておきます」


「お願いするよ。それから、今日のところは無理に進めなくていい。資料の損傷が大きいから、急いで扱うとかえって状態を悪くするかもしれない」


 助手は礼を述べ、資料を慎重に片づけ始めた。


 フェリクスは窓の外へ目を向けた。


 研究院の庭には午後の光が差し込み、遠くで鳥の鳴き声が聞こえている。


 彼は、調査を続ける中で何度も同じような壁にぶつかっていた。


 新しい資料が見つかっても、それがすぐに答えへつながるとは限らない。


 それでも、確認できたことを正確に積み重ねていけば、いつか失われた部分の輪郭が見えてくるかもしれなかった。


     ◇


 午後の古の塔では、アルとセリーが作業場へ移動していた。


 午前中は庭の観察と南側の散歩に時間を使ったため、記録板の試作にはまだ手を付けていない。


 アルは棚から練習用の端材を取り出し、作業台へ置いた。


 細い丸棒を軸にした木製の留め具は、紙を押さえる部分へ薄い布を当てる方法を試している途中だった。


 昨日はセリーが布の縁を細い糸でかがり、ほつれを抑える工夫をしている。


 ただし、布を木片へ固定する方法はまだ決まっていない。


「セリー。今日は布の固定方法を少し考えてみようか。昨日の縁をかがった布、使いやすそうだったしね」


 アルがそう言うと、セリーは試作品を手に取り、少し考えた。


「はい。ただ、布を固定するために木片へ穴を開ける方法は、まだ試していません。穴を開ける位置によっては、木片の強度が下がる可能性があります」


「そうだね。じゃあ、今日は穴を開けずに固定する方法を試してみようか」


 アルは作業台の上へ細い紐を置いた。


 以前、記録板を持ち運ぶために使った紐とは別の短い端切れであり、布を仮に留めるために使えそうだと思ったのだ。


「これで布の端を軽く結べないかな。木片の上側だけなら、紙に当たらないと思うんだ」


 セリーは紐を手に取り、布の端を木片の上側へ回した。


 その上から細い紐を掛け、緩まない程度に結んでみる。


 すると、布はある程度固定されたが、結び目が木片の動きを妨げる位置に来てしまった。


「……この位置では、留め具を動かすときに引っ掛かってしまいますね」


 セリーがそう言うと、アルは木片をゆっくり動かし、引っ掛かる場所を確かめた。


「本当だ。じゃあ、結び目を少し横へずらしてみようか」


 二人は紐の位置を変え、再び動きを確かめた。


 今度は先ほどより滑らかに動いたが、何度か開閉すると布が少しずつずれてしまった。


 アルは試作品を眺め、少し考え込んだ。


「うーん。結び目の位置はよくなったけど、布が動いちゃうね」


「はい。紐を強く締めれば固定できるかもしれませんが、木片へ負担が掛かる可能性もあります」


「そうだね。無理に締めるのはやめておこう」


 アルは紐をほどき、布を外した。


 今日も完成には至らなかったが、紐で固定する方法について、いくつかの問題を確かめることができた。


 セリーは新しい紙を取り出し、結び目の位置と布のずれ方を簡単に描いた。


 アルはその隣へ座り、試した方法の違いを書き加えていく。


「こうして見ると、少しずつ問題がはっきりしてきたね。最初は紙が滑ることばかり気にしてたけど、今は布の固定方法も考えないといけないって分かった」


「はい。ですが、主様。私は、今日の試作も楽しかったです」


 セリーはそう言って微笑んだ。


 アルは彼女の表情を見つめ、少し驚いた。


「うまくいかなかったのに?」


「はい。完成しなかったことは残念ですが、主様と一緒に考えて、実際に試すことができました。私は、その時間も大切だと思っています」


 アルはその言葉を聞き、ゆっくりと微笑んだ。


「そっか。俺も同じだよ。完成したらもちろん嬉しいけど、作ってる途中も楽しいんだよね」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。


 作業台の上には、まだ完成していない留め具が置かれている。


 けれど、アルはそれを失敗だとは思わなかった。


 試したことが記録として残り、次に考えるための材料になっている。


 そして何より、セリーと一緒に過ごした時間がそこに積み重なっていた。


     ◇


 夕方、アルとセリーは書斎で今日の記録を整理していた。


 庭の管理記録には、湿った地面の状態と、塔の壁の石材の並びについて書き加えた。


 南側の通路で見つけた石の台については、別の観察記録として保管することにした。


 記録板の試作については、紐で布を固定する方法を試した結果をまとめ、次に考えるべき問題を残している。


 アルは紙を揃えながら、今日一日を振り返った。


「今日は、思ってたよりいろんなことができたね。庭を見て、南側を歩いて、古い図面のことも少し分かったし」


 セリーは隣で紙の端を整えながら、嬉しそうに頷いた。


「はい。私は、南側の通路を歩けたことが特に嬉しかったです。あの黄色い花も、石の台も、実際に歩かなければ気づかなかったと思います」


「そうだね。セリーが行ってみたいって言ってくれたおかげだよ」


 アルはそう答え、彼女へ目を向けた。


 セリーは少し照れたように微笑み、手元の紙を見つめた。


「主様。私は、これからも自分が行ってみたい場所や、やってみたいことをお伝えしてもよろしいでしょうか」


 アルはその問いに、少し驚いたように目を瞬かせた。


 彼女が自分の願いを話してくれることは、今では当たり前になりつつある。


 それでも、改めて許可を求めるような言葉を聞くと、まだ遠慮が残っているのだと感じた。


「もちろんだよ。むしろ、どんどん教えてほしいな。俺が行きたい場所ばかりじゃなくて、君が見たい景色も一緒に見たいから」


 セリーはしばらくアルを見つめ、それからゆっくりと頷いた。


「ありがとうございます。私も、主様と一緒に新しい景色を見つけていきたいです」


 アルは微笑み、彼女へ手を差し出した。


 セリーは少し照れたように目を伏せたが、すぐにその手を取った。


 指先が触れ合うと、アルの胸に穏やかな温かさが広がった。


 今日歩いた南側の通路には、まだ知らないものが残っている。


 石の台が何のために使われていたのかも、古い図面が現在の地形とどう関わっているのかも分からない。


 けれど、アルは焦って答えを出そうとは思わなかった。


 分からないことがあるからこそ、次に歩く楽しみがある。


 そして、その時間をセリーと一緒に過ごせることが、何より嬉しかった。


「セリー。明日は何をしようか。庭の様子も見たいけど、ほかにも何かやってみたいことある?」


 アルが尋ねると、セリーは少し考え、柔らかな笑みを浮かべた。


「それでしたら、今日描いた花の絵を、もう少し丁寧に仕上げてみたいです。実際の花を見ながら描いたものですが、色を付けたら、あの景色をもっとよく思い出せる気がするのです」


「いいね。じゃあ、色を付ける道具も探してみようか。塔に残ってるものが使えるかもしれないし、なければ別の方法を考えればいい」


「はい。主様と一緒に考えられるのが楽しみです」


 セリーは嬉しそうに微笑んだ。


 二人は手をつないだまま、書斎の窓から外を眺めた。


 夕日が森の梢を赤く染め、塔の庭には長い影が伸びている。


 古の塔で過ごす日々は、決して大きな出来事ばかりではない。


 庭の地面を観察すること。


 知らなかった通路を歩くこと。


 小さな花を見つけ、絵に残すこと。


 そして、完成していない道具を二人で少しずつ作っていくこと。


 その一つ一つが、アルにとって大切な時間になっていた。


 彼は隣に立つセリーへ目を向け、静かに微笑んだ。


「そろそろ夕食の準備をしようか。今日は俺も、最初から手伝いたいな」


「ありがとうございます、主様。それでしたら、今日は一緒に献立を決めるところから始めましょうか」


「うん。そうしよう」


 二人は書斎の明かりを落とし、並んで廊下へ出た。


 塔の中には、夕暮れの穏やかな空気が広がっている。


 アルはセリーの手を握りながら、今日歩いた南側の通路を思い返した。


 まだ知らない場所がある。


 まだ見たことのない景色がある。


 そして、それを一緒に見たいと思える相手がいる。


 そのことが、今のアルには何より幸せだった。


 古の塔での自由な暮らしは、今日もまた、二人の小さな発見とともに静かに続いていくのだった。


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