第155話 雨水の行方と、二人が見つけた新しい暮らしの形
古の塔を囲む森に、朝の光がゆっくりと広がっていた。
夜明け前まで空を覆っていた雲は東へ流れ、木々の梢には淡い金色の光が差し込んでいる。塔の窓から見える庭も穏やかな明るさに包まれていたが、石造りの壁に近い一角だけは、まだ朝日が届かず薄暗かった。
アルは自室の窓辺に立ち、昨日セリーと確認した鉢植えの周囲へ目を向けた。
庭の奥には、ほかの場所より乾きにくい地面がある。
昨日の朝、セリーがその違いに気づき、二人で状態を確かめた。植物への影響を避けるため、近くにあった鉢を一つ、日当たりのよい石畳へ移している。
原因はまだ分かっていない。
日陰だから乾きにくいのか、地面の傾斜によって雨水が集まるのか。それとも、二人がまだ気づいていない別の理由があるのか。
(今日も少し見てみようかな。でも、昨日と同じように眺めるだけじゃ、分からないこともあるだろうな)
アルはそんなことを考えながら、窓を閉めた。
王宮にいた頃なら、庭の地面が湿っていることなど、自分で確かめようとは思わなかっただろう。
庭師が状態を確認し、必要な対応を考え、問題があれば報告する。
それが当然の仕組みだった。
今は違う。
小さな鉢植えの置き場所も、庭の手入れも、自分たちで相談して決められる。
手間が掛かることもあるが、アルはその時間を嫌だとは思わなかった。
むしろ、これまで知らなかったことを少しずつ覚えていくのが楽しかった。
身支度を整えて廊下へ出ると、食堂の方から食器の触れ合う小さな音が聞こえてきた。
アルが食堂へ入ると、セリーは窓際の食卓へ皿を並べているところだった。
「おはよう、セリー。今日もいい天気になりそうだね」
声を掛けると、セリーは振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。
「おはようございます、主様。はい。今朝は雲が少なく、日差しも穏やかです。ただ、夜の間に少し冷え込んだようですので、温かい朝食をご用意いたしました」
「ありがとう。ちょうど温かいものが食べたいと思ってたんだ」
アルは椅子へ腰を下ろし、食卓に並ぶ料理を眺めた。
焼きたてのパンに、柔らかく煮込まれた野菜のスープ。小さな皿には、昨日の夕食で使った香草を少しだけ混ぜた卵料理も添えられている。
どれも特別に豪華な料理ではない。
けれど、毎朝こうして温かな食事が用意されていることを、アルは心からありがたいと思っていた。
「昨日の香草、卵にも合うんだね」
「はい。昨夜は焼き野菜に使いましたが、今朝は量を控えめにしてみました。香りが強くなりすぎないようにしたつもりですが、主様のお口に合うでしょうか」
アルは一口味わい、頷いた。
「うん、おいしいよ。卵の味もちゃんと分かるし、香草の香りも少し残ってる。こういう使い方もできるんだね」
セリーは嬉しそうに微笑み、向かいの席へ腰を下ろした。
彼女が自分の食事へ手を伸ばすのを見てから、アルもスープを口へ運ぶ。
しばらく穏やかな食事の時間が流れたあと、セリーがふと思い出したように顔を上げた。
「主様。昨日確認した庭の地面について、今朝も少し見ておきたいと思っています」
「俺も同じことを考えてたよ。昨日は鉢を動かしただけだから、今日は地面がどうなってるか確かめたいね」
「はい。ただ、今日は少し違うことも確認してみたいのです」
セリーの言葉に、アルは興味を引かれた。
「違うこと?」
「昨日は湿っている範囲を中心に見ましたが、地面の周囲にある石畳や、庭の傾斜については詳しく確かめていませんでした。水がどこから来たのかは分かりませんが、周囲の形を記録しておけば、次に雨が降ったときの参考になるかもしれません」
アルは少し考え、頷いた。
「なるほど。雨が降ってるときに水の流れを見れば、原因が分かるかもしれない。でも、今は雨が降ってないから、まず周りの形を確かめておくんだね」
「はい。もちろん、形だけで水の流れを決めつけることはできません。ですが、次に観察するときの手掛かりにはなると思います」
「いいね。それなら、記録板も持っていこうか」
セリーは一瞬嬉しそうな表情を浮かべたが、すぐに少し考え込んだ。
「主様。記録板の留め具は、まだ完成しておりません。庭で使うのでしたら、紙を押さえる方法を考えておく必要があります」
「そうだったね。でも、昨日の森では二人で交代しながら使えたし、今日も同じようにすればいいんじゃないかな」
「……はい。それでしたら、私も記録を描くことができますね」
セリーは安心したように微笑んだ。
アルはその表情を見ながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
彼女は以前よりも、自分が何をしたいのかを言葉にしてくれるようになっている。
記録板を使いたい。
庭の植物を育てたい。
知らない景色を一緒に見に行きたい。
どれも大きな願いではないかもしれない。
けれど、アルにとっては、その一つ一つが大切だった。
「じゃあ、朝食のあとで準備しよう。今日は俺も庭の絵を描いてみたいな」
「はい。私も楽しみです」
二人はそう約束し、朝食を続けた。
◇
庭へ出る前に、アルとセリーは書斎へ立ち寄った。
机の引き出しには、最近作り始めた記録が種類ごとに分けて収められている。
森の観察記録。
庭の管理記録。
工作の試作記録。
まだ枚数は多くないが、以前のように一つの場所へ重ねておくより、必要なものを探しやすくなっていた。
アルは庭の管理記録を取り出し、昨日描いた簡単な配置図を広げた。
そこには、塔の壁と石畳、鉢植えの並び、湿った地面の位置が記されている。
移動させた鉢の以前の位置と、現在の位置も分けて描いてあった。
「昨日はこの辺りが湿ってたんだよね。今日は、石畳の端から奥の草が生えてるところまで、もう少し広く見てみようか」
「はい。ただ、地面を踏み固めてしまうと状態が変わるかもしれませんので、できるだけ石畳の上から観察したいです」
「そうだね。無理に近づかなくても、見えるところだけで十分だと思う」
アルは頷き、記録を重ねた。
続いて作業場へ向かい、棚に置かれた記録板を取り出す。
板の四隅はすでに丸く整えられており、表面も滑らかになっている。
しかし、紙を固定する留め具はまだ練習用の端材に取り付けられたままで、記録板本体には何も付いていない。
アルは板を持ち上げ、手のひらへ当たる感触を確かめた。
「こうして持つと、だいぶ使いやすくなったね。最初は角が手に当たってたけど、今は気にならないよ」
「はい。ただ、長く持ち歩いた場合の疲れ方については、まだ十分に確かめられていません。今日は短い時間ですので問題ないと思いますが、森へ出かけるときには改めて確認したいです」
「うん。昼食を持っていく散歩なら、ほかの荷物もあるからね」
アルはそう答え、板を籠へ収めた。
セリーは紙と筆記具を布で包み、昨日使った水の容器も用意した。
庭へ出るだけなので大げさな準備は必要ないが、途中で書きたいことが増えた場合に備え、予備の紙も一枚持っていく。
準備を終えた二人は、並んで塔の外へ向かった。
扉を開けると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。
石畳の上には柔らかな日差しが広がり、庭の植物は風に揺れている。
アルは一度立ち止まり、深く息を吸った。
「やっぱり、朝の庭は気持ちいいね」
「はい。今日は昨日よりも風が弱いので、記録も取りやすいと思います」
セリーはそう答え、嬉しそうに微笑んだ。
二人は庭の奥へ向かって歩き始めた。
◇
昨日確認した場所へ着くと、アルは石畳の端で足を止めた。
地面の色は、昨日の朝より少し薄くなっているように見えた。
しかし、周囲と比べるとまだ湿り気が残っており、特に塔の壁に近い部分は乾ききっていない。
「昨日よりは乾いてるのかな」
アルが呟くと、セリーは地面をしばらく眺めてから答えた。
「そのように見えます。ただ、昨日と今日では日差しの当たり方や時間が少し違いますので、色だけで乾き具合を正確に比べることは難しいと思います」
「そうだね。じゃあ、今日は今の状態だけ記録しておこう」
アルは籠から記録板を取り出し、紙を載せた。
セリーが端を押さえ、アルが石畳と湿った地面の境目を簡単な線で描いていく。
昨日の図と見比べながら、石畳の並びや塔の壁との位置関係を書き加えた。
描き進めるうちに、アルは一つ気になることに気づいた。
湿った場所の近くには、石畳が途切れている部分がある。
そこから先は土と草に覆われており、石畳の端がどのような形になっているのかは見えなかった。
「セリー。ここ、石畳が途中で終わってるんだね」
アルが指さすと、セリーも同じ場所へ視線を向けた。
「はい。ですが、もともとその位置までしか敷かれていなかったのか、土や草に隠れているだけなのかは分かりません」
「なるほど。石畳の下に何か続いてる可能性もあるけど、今は見えないんだ」
「はい。無理に草を取り除いたり、土を掘ったりする必要はないと思います」
アルは頷き、見えている範囲だけを紙へ描いた。
石畳の端から先は、線をつなげずに空白にしておく。
その横へ、草と土によって確認できないことを書き添えた。
「こういう描き方にも、少し慣れてきた気がするよ」
「はい。主様は、見えた部分と分からない部分を丁寧に分けていらっしゃいますね」
セリーは嬉しそうに微笑んだ。
アルは少し照れくさくなりながらも、素直に頷いた。
「ありがとう。でも、君が一緒に確かめてくれるからだと思う。俺一人だったら、気づかずに線をつなげちゃうかもしれないし」
「私も、主様が気づかれたことから学ぶことがたくさんあります」
二人は顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。
それからセリーが記録板を受け取り、今度は石畳の周囲に生えている草の位置を描き始めた。
彼女は草の形そのものより、湿った場所との位置関係を中心に記録していく。
アルは隣で紙を押さえながら、彼女の手元を眺めた。
細い線が少しずつ増え、庭の一角の様子が紙の上へ形になっていく。
しばらくして、セリーが筆記具を止めた。
「主様。こちらをご覧ください」
アルが紙を覗き込むと、石畳の端と湿った場所の位置が、昨日より分かりやすく描かれていた。
「おお、分かりやすいね。これなら、次に雨が降ったときに比べやすそうだ」
「ありがとうございます。ただ、私は一つ気になることがあります」
「うん。何かな?」
セリーは紙の一角を指さした。
「こちらの石畳の端ですが、ほかの部分より少し低く見えるのです。実際に高低差があるかどうかは分かりませんが、もし低くなっているのであれば、水が集まりやすい可能性があります」
アルは改めて石畳へ目を向けた。
確かに、セリーが示した部分は、周囲よりわずかに沈んでいるようにも見える。
しかし、石の表面には凹凸があり、光の当たり方によっても印象が変わる。
「そう見えるね。でも、目で見ただけじゃ分からないな」
「はい。ですから、今日は可能性として記録しておくのがよいと思います」
「うん。それでいこう」
アルは紙の余白へ、石畳の一部が低く見えることを書き加えた。
ただし、高低差は未測定であり、水が集まる原因かどうかも分からない。
そこまで書き終えると、二人は少し離れた場所から庭全体を眺めた。
塔の壁、石畳、鉢植え、草の生えた地面。
それぞれは何でもない景色の一部だ。
けれど、よく見てみると、知らないことがいくつも隠れている。
アルはそのことが少し面白くなった。
「セリー。庭って、毎日見てるつもりだったけど、まだ知らないことがいっぱいあるんだね」
「はい。私も、植物の状態ばかり見ていたので、地面の形まで詳しく確かめたことはありませんでした」
「これからも、少しずつ見ていこうか」
「はい。私も、そうしたいです」
二人はそう約束し、記録板を籠へ戻した。
移動させた鉢植えについても確認したが、葉や茎に目立った変化はなく、置き場所も安定している。
今すぐ別の対応をする必要はなさそうだった。
アルとセリーは庭の道具を片づけ、塔へ戻ることにした。
◇
昼前、塔の食堂では、アルとセリーが庭で描いた記録を整理していた。
机の上には昨日の配置図と今日の図が並べられ、二人は違いを一つずつ確かめている。
昨日の記録では、湿った場所の範囲を中心に描いていた。
今日の記録には、石畳の端や草の位置、塔の壁との関係が加わっている。
ただし、どちらも正確な寸法を測ったものではないため、細かな位置の違いを比較することはできなかった。
「こうして並べると、今日の方が周りの様子まで分かるね」
アルがそう言うと、セリーは頷いた。
「はい。ただ、湿った範囲がどれくらい変わったのかを比べるには、もう少し同じ条件で記録する必要があると思います」
「同じ条件か。例えば、毎朝同じくらいの時間に見るとか?」
「はい。それから、見る位置を揃えることも大切だと思います。昨日と今日では、少し違う場所から眺めていましたので」
アルは少し考えた。
確かに、見る場所が変われば、石畳の形や地面の広がり方も違って見える。
今までは気づいたときに記録するだけだったが、変化を比べるなら、ある程度条件を揃えた方がよいのだろう。
「じゃあ、次からは石畳のこの角に立って見ることにしようか。そこなら、鉢の位置も湿った場所も見えると思う」
アルが図の一角を指さすと、セリーは少し考えてから頷いた。
「はい。ただ、そこから見えない部分もありますので、必要なら別の位置からも確認したいです。比較するための位置と、詳しく観察するための位置を分けておくとよいかもしれません」
「なるほど。毎回同じ場所から見るだけじゃ、見落とすこともあるんだね」
「はい。ですが、最初の位置を揃えておけば、少なくとも見え方の違いを減らせると思います」
アルは頷き、記録へ書き加えた。
観察する位置を決める。
ただし、その位置から見えない部分については、必要に応じて別の場所から確認する。
それだけのことだったが、次に何をすればよいのかが少し明確になった。
「これなら、次に雨が降ったときも役立ちそうだね」
「はい。ですが、雨の中で無理に外へ出る必要はありません。窓から確認できる範囲を記録するだけでも、何か分かるかもしれません」
「そうだね。雨が強いときに庭へ出るのは危ないし、まずは安全な場所から見よう」
二人はそう話し合い、庭の管理記録へ新しい紙を収めた。
そのあと、アルは少し考えながら窓の外へ目を向けた。
雨水の行方を確かめることは、今の暮らしに必要な小さな仕事だ。
しかし、そのために大きな設備を動かしたり、地面を掘り返したりする必要はない。
まずは今ある状態を知る。
それから、必要なことを考える。
アルはその順番を大切にしたかった。
◇
昼食の支度を始めようとした頃、塔の連絡設備から控えめな通知音が響いた。
アルは顔を上げ、セリーと視線を交わした。
「何か届いたのかな」
「外部からの連絡かもしれません。確認してまいります」
「俺も行くよ。ちょうど区切りがついたところだしね」
二人は食堂を出て、連絡設備のある場所へ向かった。
そこには一通の短い書状が届いていた。
差出人はブラートだった。
アルは封筒を手に取り、少しだけ表情を引き締めた。
「昨日返事を書いたばかりだけど、何かあったのかな」
「内容を確認するまでは分かりません。主様、書斎へお持ちになりますか」
「うん。落ち着いて読もう」
二人は書斎へ移動し、机の上で封筒を開いた。
中に入っていたのは、長い報告書ではなく、ブラートからの簡潔な返書だった。
アルが送った礼状と調査方針について、確かに受け取ったこと。
今後も、確認できた事実と研究者の解釈を分けて報告すること。
そして、調査を急ぐ必要はないというアルの意向を、フェリクスにも伝える予定であること。
それらが丁寧な文章で記されていた。
アルは最後まで読み終えると、静かに息を吐いた。
「よかった。ちゃんと伝わったみたいだね」
セリーは隣から書状を読み、穏やかに頷いた。
「はい。ブラート様も、主様のお考えを理解してくださっているようです」
「うん。向こうにも仕事があるだろうし、無理をしてほしくないんだ」
アルはそう答え、書状を机へ置いた。
ブラートは王都に残り、アルのために情報を集め続けてくれている。
そのことには感謝している。
しかし、だからといって、彼が自分の暮らしを犠牲にしてまで調査を続けることを望んでいるわけではなかった。
「セリー。俺は、ブラートにもちゃんと休んでほしいんだよね」
アルがそう呟くと、セリーは少し考えたあとで答えた。
「はい。主様がご自身の暮らしを大切にしたいと思われるように、ブラート様にも大切な時間があるはずです」
「そうだよね。俺のことを気に掛けてくれるのは嬉しいけど、それで無理をしてほしくないな」
アルは書状へ目を向けた。
王太子だった頃、ブラートはいつも傍にいた。
忙しい日も、難しい判断を迫られる日も、必要な資料を揃え、冷静に助言してくれた。
その支えがどれほど大きかったのか、今になって改めて感じることがある。
けれど、アルが王太子の立場を失ったあとも、ブラートの時間まで自分のために使わせ続けることが正しいとは思わなかった。
(あいつにも、自分の人生があるんだよな。俺が自由に暮らしたいと思うのと同じように、ブラートにも自分で選んでほしい)
アルはそんなことを考えながら、書状を丁寧に折った。
「次に返事を書くときは、調査のことだけじゃなくて、ブラート自身の近況も聞いてみようかな」
「それはよいと思います。主様からそのように尋ねられたら、ブラート様も嬉しいのではないでしょうか」
「そうだといいな」
アルは微笑み、書状を資料棚へ収めた。
今回の連絡には、新しい古代の規定や施設に関する情報は含まれていなかった。
それでも、調査を続ける人たちと、無理のない形で連絡を取り合えていることが確認できた。
アルにとって、それは十分に意味のあることだった。
◇
その頃、王都の魔導研究院では、フェリクス・ハルトマンが古い保存台帳を調べていた。
机の上には複数の資料が並び、助手が整理した番号の一覧も置かれている。
最近の調査では、確認記録の欠落に関する断片が見つかったものの、適用対象や具体的な処理方法は分かっていない。
さらに、類似した分類記号を持つ資料が別々の場所に保管されていることも確認された。
しかし、それらが元から別の場所にあったのか、後の時代に移されたのかは不明だった。
フェリクスは台帳の一頁を開き、記された番号を慎重に追っていた。
しばらくして、助手が机の横へやってきた。
「ハルトマン様。以前の保存場所についてですが、少し古い台帳が見つかりました」
フェリクスは顔を上げた。
「それは助かる。現在の台帳と比較できそうかな」
「はい。ただ、こちらも一部が損傷しており、すべての番号を確認できるわけではありません」
「分かった。読めるところだけでいいから、まずは照合してみよう」
助手は台帳を机へ置き、番号の並びを示した。
古い台帳には、現在の保存場所とは異なる区分が記されている部分があった。
ただし、その違いが保管場所の変更を意味するのか、分類方法そのものの変更を意味するのかは分からない。
フェリクスはしばらく資料を眺め、慎重に口を開いた。
「……少なくとも、古い台帳と現在の台帳では、同じ資料を示している可能性のある番号の扱いが違うように見えるね」
「はい。ですが、同じ資料であることを確定するには、もう少し情報が必要だと思います」
「その通りだね。番号が似ているだけで、同一の資料だと決めるわけにはいかない」
フェリクスは頷き、新しい紙を取り出した。
古い台帳と現在の台帳で、分類の仕方に違いがある可能性。
ただし、同一資料の移動や分類変更を示す確かな証拠はないこと。
それらを分けて記録していく。
助手はその様子を見つめ、少し考えたあとで尋ねた。
「ハルトマン様。今回の調査は、どこまで進めればよいのでしょうか。古い台帳をすべて調べるとなると、かなり時間が掛かると思います」
フェリクスは筆を止め、助手へ顔を向けた。
「まずは、今確認している資料の範囲で十分だと思う。すべてを一度に調べようとすると、かえって大切な違いを見落とすかもしれないからね」
「承知しました。では、今回の番号に関係する部分を優先して確認します」
「お願いするよ。それから、急ぐ必要はない。分からないところは無理に埋めず、そのまま残しておいてほしい」
助手は頷き、資料を持って机を離れた。
フェリクスは一人になったあと、窓の外へ視線を向けた。
研究院の庭には午後の光が差し込み、遠くで鳥の鳴き声が聞こえている。
古代の人々が残した記録を読み解くことは、思っていた以上に難しい。
しかし、分からないことがあるからといって、急いで結論を出す必要はない。
フェリクスはそう考えながら、再び台帳へ目を落とした。
◇
古の塔では、午後の作業が始まっていた。
アルとセリーは作業場へ入り、棚に置かれていた記録板の試作品を取り出した。
昨日までに試した木製の留め具は、細い丸棒を軸にして片側を動かし、反対側の先端を浅い受けへ収める仕組みになっている。
紙を押さえる部分には薄い布を当てる方法を試していたが、布の固定方法はまだ決まっていなかった。
昨日は布の形を変え、中央を少し広く、両端を細くすることで、木片の上側へ回しやすくなることが分かっている。
ただし、布の端がほつれやすく、繰り返し使うには工夫が必要だった。
「セリー。昨日の布なんだけど、端がほつれないようにする方法を考えてみたいんだ」
アルがそう言うと、セリーは試作品を手に取り、静かに頷いた。
「はい。私も考えていました。布の端を折り返して縫えばほつれにくくなりますが、その分だけ厚みが増えてしまいます」
「そうなんだよね。薄くしたくて形を変えたのに、縫ったところだけ厚くなったら困るし」
アルは布の端切れを広げ、昨日切った形を眺めた。
中央部分は紙へ触れるために少し広く残されており、両端は木片の上側へ回せるよう細くなっている。
形そのものは悪くない。
しかし、布の端をそのままにしておくと、使っているうちに糸がほどけてしまうかもしれなかった。
セリーはしばらく考え、作業台の横に置かれた裁縫道具へ目を向けた。
「主様。少し試してみてもよろしいでしょうか」
「もちろん。何か思いついた?」
「はい。端を大きく折り返すのではなく、細い糸で縁をかがる方法を試してみたいのです。ただ、どれくらい厚みが増えるかは分かりません」
アルは頷いた。
「いいね。じゃあ、まずは別の端切れで試してみよう」
セリーは裁縫道具を取り出し、小さな布を一枚用意した。
彼女は布の端を指先で整え、細い糸を使って丁寧に縁をかがっていく。
アルは隣でその手元を眺めていた。
針が布を通るたびに、ほつれかけていた端が少しずつ整っていく。
以前、セリーが刺繍をしていたときにも感じたことだが、彼女の手仕事はとても丁寧だった。
ただし、今回は飾りを作るのではなく、小さな部品として使う布を整えている。
そのため、見た目の美しさだけでなく、厚みや柔らかさも大切になる。
「セリー、こういう細かい作業は本当に上手だね」
アルがそう言うと、セリーは少し照れたように微笑んだ。
「ありがとうございます。ただ、今回は使いやすさが大切ですので、見た目だけで判断しないようにしたいと思っています」
「うん。実際に使ってみないと分からないもんね」
二人はしばらく作業を続けた。
やがてセリーが布の縁を整え終えると、アルはそれを受け取り、指先で厚みを確かめた。
折り返して縫うよりは薄いように感じられる。
しかし、糸の部分にはわずかな硬さがあり、紙へ触れる場所に使うと傷を付ける可能性もあった。
「うーん。薄くはなったけど、端のところは少し硬いね」
「はい。ですから、紙へ触れる中央部分には縫い目が当たらないようにした方がよいと思います」
「なるほど。布の端を木片の上側へ回すなら、縫い目は紙に当たりにくいかもしれないね」
アルはそう言い、布を木片へ当ててみた。
中央部分が紙へ触れる位置に収まり、縁をかがった両端は上側へ回る。
セリーが布の端を押さえ、アルが木片をゆっくり動かすと、昨日よりも安定した感触があった。
「お、これはよさそうだね」
アルは少し嬉しそうに目を細めた。
ただし、布を固定する方法はまだ決まっていない。
セリーが指を離せば、布は少しずつ動いてしまう。
「動きは悪くありませんが、やはり固定方法が必要ですね」
「うん。でも、布の端がほつれにくくなったのは進歩だと思う」
アルはそう答え、試作品を作業台へ置いた。
今日は、布の縁を整える方法について一つ試すことができた。
完成にはまだ時間が掛かるかもしれないが、少しずつ使いやすい形へ近づいている。
アルはそのことを嬉しく思った。
◇
午後の作業がひと区切りついた頃、セリーがふと思い出したように顔を上げた。
「主様。今日は、もう一つ考えてみたいことがあります」
アルは試作品を棚へ戻しながら振り返った。
「うん。何かな?」
「庭の記録についてです。今は紙へ書いていますが、毎日確認するのであれば、日付ごとに簡単な印を残す方法も便利かもしれません」
「日付ごとの印?」
「はい。例えば、地面が乾いているか、湿っているか、変化が分からないかを、短い言葉で記録するのです。詳しい図は必要なときだけ描けば、毎日の確認も続けやすくなると思います」
アルは少し考え、頷いた。
「なるほど。毎日同じ図を描くのは大変だもんね。変化があったときだけ詳しく書けばいいのか」
「はい。ただ、簡単な印だけでは分からないこともありますので、必要に応じて言葉を添えたいです」
「いいね。それなら、今日から始められそうだ」
二人は作業台を片づけ、書斎へ移動した。
アルは庭の管理記録を取り出し、新しい紙へ日付を書くための欄を作った。
その横へ、観察した時間、地面の状態、鉢植えの状態、気づいたことを書けるようにする。
セリーは紙を眺め、少し考えたあとで口を開いた。
「主様。地面の状態については、乾いている、湿っている、判断できない、の三つだけでは足りない場合もあるかもしれません」
「そうだね。じゃあ、自由に書ける欄も残しておこうか」
「はい。それでしたら、決めた言葉に当てはまらないことがあっても記録できます」
アルは頷き、紙の下半分を空白のまま残した。
最初から細かく決めすぎない。
使いながら必要な部分を増やしていく。
それは、記録板を作るときにも大切にしている考え方だった。
「これなら、毎朝少しずつ書けそうだね」
「はい。私も、主様と一緒に記録を続けたいです」
セリーは嬉しそうに微笑んだ。
アルはその表情を見つめ、ふと考えた。
庭の管理記録を続けることは、植物のためだけではない。
二人が同じものを見て、違いに気づき、それを言葉にする時間にもなる。
その積み重ねが、今の暮らしを少しずつ豊かにしているのだろう。
「セリー。明日からも、一緒に見ていこうね」
「はい。主様」
二人はそう約束し、新しい記録用紙を引き出しへ収めた。
◇
夕方、アルとセリーは庭へ出て、移動させた鉢植えの様子をもう一度確かめた。
日差しはすでに傾き、塔の影が石畳の上へ長く伸びている。
朝には少し湿っていた地面も、日当たりのよい部分は乾き始めていた。
しかし、奥の一角にはまだ湿り気が残っている。
「やっぱり、ここは乾くのが遅いね」
アルがそう言うと、セリーは静かに頷いた。
「はい。ですが、朝よりは乾いているように見えます。明日も同じ位置から確認してみましょう」
「うん。次に雨が降ったときには、窓から水の流れも見てみたいな」
「はい。ただ、雨の強さによって見え方も変わると思いますので、一度の観察だけで原因を決めないようにしたいです」
「そうだね。少しずつ確かめていこう」
二人は鉢植えの葉を眺め、目立った変化がないことを確認した。
そのあと、アルは庭の奥へ続く道へ目を向けた。
森の入口で見つけた古い石は、ここからは見えない。
けれど、その向こうにはまだ知らない道が続いている。
記録板が完成したら、またセリーと一緒に歩いてみたい。
そう思うと、自然に胸が弾んだ。
「セリー。記録板が完成したら、また森へ行こうね」
「はい。私も楽しみにしています」
セリーは嬉しそうに微笑んだ。
「ただ、完成していなくても、今日のように二人で記録を取ることはできます。ですから、無理に急がなくてもよいと思います」
「うん。俺もそう思う。完成するまでの時間も楽しいからね」
アルはそう答え、彼女へ手を差し出した。
セリーは少し照れたように微笑み、その手を取った。
指先が触れ合うと、アルの胸に穏やかな温かさが広がった。
夕日の光が庭の石畳を柔らかく照らしている。
古い塔の外には、まだ知らないことがたくさんある。
庭の湿った場所の原因も、森の石の正体も、古代の記録に残された手続きの意味も、すべてが明らかになったわけではない。
けれど、アルは焦りを感じていなかった。
今できることを一つずつ確かめればいい。
分からないことは、分からないまま大切に扱えばいい。
そして、その時間をセリーと一緒に過ごせるなら、それだけで十分に幸せだった。
「そろそろ戻ろうか。今日は夕食、何にしよう?」
アルが尋ねると、セリーは少し考えてから微笑んだ。
「主様。今日は、以前作った野菜の焼き料理を少し変えてみたいと思っています。香草を控えめにして、野菜の甘みを楽しめるようにしたいのですが、いかがでしょうか」
「いいね。じゃあ、俺も手伝うよ」
「ありがとうございます。では、今日は少し形の違う野菜も使ってみましょうか」
アルは頷き、セリーと並んで塔へ戻った。
夕暮れの廊下には、穏やかな静けさが広がっている。
二人は手をつないだまま、ゆっくりと歩いていった。
その足取りは急ぐことなく、これからも続いていく自由な暮らしを確かめるように、静かに重なっていた。




