第158話 完成した記録板と、雨の日に見つけた新しい楽しみ
古の塔の朝は、いつもより少し暗かった。
東側の窓から差し込む光は薄い雲に遮られ、食堂の床には昨日のような明るい光の帯ができていない。森の梢は穏やかに揺れていたが、遠くの空には灰色の雲が重なっており、昼頃には雨が降り始めるかもしれなかった。
アルが食堂へ入ると、セリーは厨房で温かなスープを器へ注いでいた。食卓には焼いたパンと、薄く切った野菜を添えた卵料理が並んでいる。
「おはよう、セリー。今日は少し曇ってるね。昨日みたいに外で絵を描くには、あまり向いてない天気かもしれないな」
アルが声を掛けると、セリーは器を食卓へ運びながら微笑んだ。
「おはようございます、主様。はい。朝のうちは雨が降っておりませんが、雲の様子を見る限り、天候が変わる可能性はありそうです。今日は作業場で記録板の留め具を試す予定でしたので、雨が降っても困ることは少ないと思います」
「そうだね。むしろ、外へ出ない日だからこそ、工作にゆっくり時間を使えるかもしれない」
アルは席へ腰を下ろし、セリーが向かいに座るのを待った。
昨日の夜、二人は書斎で小さな池の絵を眺めながら、今日こそ記録板の留め具をもう一度試してみようと話していた。何度か試作を重ねているものの、紙を押さえる布を木片へ固定する方法が決まらず、実際の記録板にはまだ留め具を取り付けていない。
それでも、アルは以前ほど完成を急いでいなかった。
試作品を作るたびに、セリーが新しい工夫を考えたり、思いがけない問題を見つけたりする。その過程そのものが、今では二人の楽しみになっていた。
「今日は、まず昨日までの試作品を見直してみようか。紐で布を結ぶ方法は、動かすときに引っ掛かったり、布がずれたりしたんだよね」
アルが朝食を取りながら話すと、セリーは頷いた。
「はい。布の縁をかがる方法は、ほつれを抑えることができました。ただ、紐で固定すると結び目が留め具の動きを妨げることがあります。布を強く締め付ける方法も考えられますが、木片へ負担が掛かるかもしれません」
「うん。だから今日は、布を木片に縛り付けるんじゃなくて、別の形で留められないか考えてみたいんだ」
セリーはスープの器を置き、少し興味深そうに首を傾げた。
「別の形、ですか?」
「まだ具体的には決まってないけどね。たとえば、布を木片に巻き付けるだけじゃなくて、外れにくい形にできないかなって。服の袖みたいに、木片を通す部分を作るとか」
アルはそこまで話してから、自分の袖口へ目を向けた。
何気なく口にした例えだったが、セリーはその言葉を聞いて、少し考え込んだ。
「……布の中へ木片を通す形でしたら、結び目を作らずに固定できるかもしれません。ただし、布の厚みや木片の形によっては、動かしたときにずれてしまう可能性もあります」
「そうだね。だったら、まずは端材で試してみよう。うまくいかなかったら、別の方法を考えればいいし」
セリーは嬉しそうに頷いた。
「はい。私も試してみたいです。昨日、主様と一緒に描いた絵を思い出すと、紙を押さえる道具があれば、もっと落ち着いて描けると思いましたので」
アルはその言葉を聞き、自然と笑みを浮かべた。
記録板を作り始めた頃は、森や庭で見つけたものを書き留めるための道具だと考えていた。しかし、セリーが絵を描くようになったことで、同じ道具が別の楽しみにも役立つことが分かってきた。
自分だけでは思いつかなかった使い方を、彼女が見つけてくれる。
それが、アルには何より嬉しかった。
◇
朝食を終えた二人は、食器を片づけてから作業場へ向かった。
廊下を歩いている間にも、外の明るさは少しずつ変わっていた。窓から見える森の上には厚い雲が広がり、遠くの木々は薄い灰色の空を背景に、いつもより濃い色に見える。
作業場へ入ると、アルは窓を少しだけ開け、室内の空気を入れ替えた。
木材の匂いと乾いた布の匂いが混じる中、セリーは作業台の上へ昨日までの試作品を並べていった。
細い丸棒を軸にして動く木製の留め具。
紙に当たる部分へ布を巻いたもの。
布の縁を細い糸でかがったもの。
そして、短い紐で布を固定しようとして、結び目が動きを妨げてしまった試作品。
それぞれには小さな紙が添えられ、試した方法と結果が簡単に記されていた。
「こうして並べると、結構いろいろ試したんだな」
アルは作業台を眺めながら呟いた。
最初は、木片で紙を押さえられれば十分だと思っていた。
しかし、実際に使ってみると、紙が滑ったり、留め具が浮き上がったり、押さえる部分が紙へ引っ掛かったりした。布を使うことで改善できる部分もあったが、今度は布そのものをどう固定するかという問題が生まれている。
セリーは試作品を一つ手に取り、木片の上側を指でなぞった。
「主様。布を袖のような形にするのでしたら、木片の端から通せるようにする必要がありますね。ただ、こちらの試作品は軸の近くが少し広くなっていますので、布が途中で引っ掛かるかもしれません」
「なるほど。じゃあ、木片の形を変える方がいいのかな」
「それも一つの方法ですが、先に布の形を工夫してみたいです。木片を削ってしまうと、元へ戻すことができませんので」
アルは頷き、棚から薄い布の端切れを取り出した。
以前の試作で使ったものと同じ種類の布だが、まだ切っていない部分が残っている。
「じゃあ、まずはこの布で試そうか。失敗しても、まだ少し残ってるし」
セリーは布を受け取り、木片の長さと幅を確かめた。
それから、小さな紙へ簡単な形を描き始める。
アルは彼女の隣へ椅子を寄せ、描かれていく線を眺めた。
セリーが考えたのは、細長い布を二つ折りにし、片側だけを縫い合わせて筒状にする方法だった。
ただし、完全に閉じてしまうと木片を通しにくくなるため、端の一部は開けておく。
さらに、紙へ触れる側には縫い目が来ないようにし、縫い合わせた部分を木片の上側へ向ける形を考えていた。
「こうすれば、紙に当たる部分は一枚の布のままになります。縫い目が上側にあれば、紙へ引っ掛かることも少ないと思います」
セリーは説明しながら、紙に描いた形をアルへ見せた。
アルはその図を眺め、少し考えた。
「いいね。でも、木片の端から通したあとで、布が横へ動いたりしないかな」
「その可能性はあります。ですので、最初は少しきつめに作ってみたいです。ただ、無理に押し込まなければ入らないほど小さくすると、布が傷んでしまうかもしれません」
「うん。そこは少しずつ調整しよう。最初からぴったり作ろうとしなくてもいいしね」
セリーは頷き、布へ印を付けた。
彼女の手つきは丁寧で、布を切る前に何度も木片と重ね合わせている。
アルはその様子を見ながら、ふと以前のことを思い出した。
セリーが初めて自分のために何かを作りたいと言ってくれたとき、アルは嬉しさと同時に、少し驚いた覚えがある。
今では、彼女が自分の考えを話し、試したい方法を選ぶことが自然になっていた。
(こういう時間が、もっと増えていけばいいな。俺が何かを決めて、セリーが手伝うだけじゃなくて、二人で考えて作っていく時間が)
アルはそんなことを思いながら、彼女が切り終えた布の端を押さえた。
◇
最初の布の筒は、思っていたよりも簡単に形になった。
セリーは細い糸で片側を縫い合わせ、縁がほつれないように軽くかがった。
ただし、木片へ通してみると、布は途中で止まってしまった。
「……少し狭かったようですね」
セリーは無理に押し込まず、布を外して縫い目を確認した。
アルも木片の形を見ながら、どこが引っ掛かっているのかを考えた。
「木片の端は通るけど、途中の少し広いところで止まっちゃうんだね。だったら、縫う位置を少し外側へずらしてみようか」
「はい。ただ、全体を広くすると、細い部分で布が緩くなるかもしれません」
「そうか。じゃあ、広いところだけ少し余裕を持たせる形にできないかな」
アルは紙へ木片の輪郭を描き、その上へ布の形を重ねてみた。
セリーは図を覗き込み、少し考えてから頷いた。
「それでしたら、縫い目をまっすぐにせず、木片の形に合わせて少しだけ曲げる方法があります。布を切り直す必要はありますが、今の試作品を参考にできます」
「いいね。じゃあ、次はその形で試してみよう」
二人は最初の布を外し、別の端切れへ新しい印を付けた。
今度は木片の幅が変わる部分に合わせ、縫い目の位置を少しずつ調整する。
セリーが針を動かす間、アルは木片を磨き、布へ引っ掛かりそうな細かなささくれがないかを確認した。
作業は急がずに進められた。
窓の外では風が少し強くなり、木々の葉が揺れる音が聞こえている。
やがて、二つ目の布の筒が完成した。
セリーは木片の端から慎重に通し、途中で止まらないことを確かめながら、少しずつ位置を合わせた。
今度は最後まで通すことができた。
「入りましたね」
アルが嬉しそうに声を上げると、セリーも目を細めた。
「はい。ただ、まだ動かしていませんので、固定できているかどうかは分かりません」
「そうだね。じゃあ、まずはゆっくり動かしてみよう」
アルは試作品の留め具を持ち上げ、軸を中心に回転させた。
布は木片から外れず、紙へ触れる部分にも大きな引っ掛かりは見られない。
しかし、何度か開閉すると、布がわずかに端へ寄っていくことが分かった。
「惜しいな。前よりはずっといいけど、まだ少し動いちゃう」
アルは布の位置を戻し、セリーへ見せた。
彼女はしばらく観察したあとで、木片の端へ目を向けた。
「主様。布の端が木片の先端まで届いているので、動かしたときに少しずつ押されているのかもしれません。端を折り返しておけば、ずれにくくなる可能性があります」
「折り返すって、袖口みたいに?」
「はい。ただし、厚くしすぎると留め具の動きを妨げますので、紙に当たらない上側だけで試したいです」
アルは頷き、彼女が考えた方法をもう一度紙へ描いた。
今度は、布の端を木片の上側へ少しだけ折り返し、そこを細い糸で留める形だった。
布そのものを木片へ縫い付けるわけではないため、必要になれば外して交換することもできる。
アルはその点が気に入った。
「これなら、布が傷んだときにも取り替えられそうだね。ずっと使う道具だから、直せる形にしておきたいな」
セリーはその言葉に嬉しそうに頷いた。
「はい。私も、交換できる形がよいと思います。主様と一緒に作った道具を、長く使っていきたいので」
アルは彼女の横顔を見つめ、少しだけ胸が温かくなった。
道具を長く使いたいという気持ちの中に、二人で作った時間を大切にしたいという思いが含まれているように感じられたからだ。
彼はその気持ちを急いで言葉にせず、セリーが作業を続けるのを静かに見守った。
◇
午前中の終わり頃、三つ目の試作品が完成した。
布の端を折り返したことで、以前よりも横へずれにくくなっている。
アルは試作用の紙を端材の板へ載せ、留め具を閉じた。
紙は軽く押さえられ、板を少し傾けてもすぐには滑らない。
セリーはその様子を見ながら、慎重に口を開いた。
「主様。今までの試作品の中では、最も安定しているように見えます」
「うん。俺もそう思う。でも、実際に書いてみないと分からないね」
アルは筆記具を取り出し、紙へ短い文章を書いた。
板を机の上へ置いた状態では問題なく書けたが、片手で持ち上げると、筆記具を動かす力によって紙がわずかにずれることがあった。
「やっぱり、完全には止まらないか」
アルがそう言うと、セリーは紙の端を見つめた。
「ですが、以前のように紙が大きく滑ることはありません。筆記具を動かす方向によって、ずれ方が変わっているようです」
「そうだね。上から下へ書くときは大丈夫だけど、横へ長く線を引くと少し動くんだ」
アルは紙へ縦線と横線を引き、それぞれの動きを確かめた。
セリーも交代して試し、紙がずれる方向を記録した。
すると、留め具そのものよりも、紙の下側が浮き上がることによって動きやすくなっているように見えた。
「主様。紙の下側を手で軽く支えると、ほとんど動かなくなります」
セリーはそう言い、片手で板を持ちながら、もう一方の手で紙の端を押さえた。
アルはその様子を見て、少し考えた。
「それなら、上側の留め具だけで全部を固定しようとしなくてもいいのかもしれないね。外で使うときは、片手で板を持って、もう片方で書くことが多いから、紙の下側も少し支えられる形にできればいいんだ」
セリーは頷いた。
「はい。ただ、手で支えることを前提にすると、両手を使って絵を描きたい場合には不便かもしれません」
「そうだね。じゃあ、下側にも小さな支えを付ける方法を考えてみようか」
二人は作業台の上へ、以前作った浅い受け部分の試作品を並べた。
紙の下端を軽く受けるだけなら、大きな部品は必要ない。
ただし、板へ固定する方法によっては、持ち運ぶときに引っ掛かる可能性がある。
アルはしばらく考えたあとで、薄い木片を紙の下側へ当ててみた。
「これくらいの高さなら、紙が下へ滑るのを防げるかもしれないね。でも、固定しないと動いちゃうか」
セリーは木片を見つめ、少し考えた。
「主様。以前、板の上端へ浅い受けを作る方法を試しましたよね。あのときは紙の位置を揃えるためでしたが、下側にも同じような考え方を使えるかもしれません」
「なるほど。紙の下端が引っ掛かるくらいの浅い段差を作るんだね」
「はい。ただし、記録板本体へ加工する前に、端材で使い心地を確認したいです」
アルは笑みを浮かべた。
「もちろん。今日もまずは試作品でやってみよう」
二人は昼食の時間まで、薄い木片の位置や高さを変えながら、紙の動きを確かめた。
何度か試した結果、紙の下端を軽く受けるだけでも、横方向へずれる動きが少し抑えられることが分かった。
ただし、木片を高くすると手首へ当たりやすくなるため、できるだけ低い形にする必要があった。
アルはその結果を記録し、作業台の端へ試作品を並べた。
「今日は、かなり進んだ気がするね」
セリーは嬉しそうに頷いた。
「はい。ですが、主様。私は、まだ完成とは考えておりません。実際の記録板へ取り付けたときに、同じように使えるかどうかを確認したいです」
「うん。そこまでできたら、ようやく完成って言えそうだね」
二人はそう話し合い、昼食の準備へ向かった。
◇
昼食を終えた頃、塔の外では雨が降り始めていた。
最初は窓へ小さな水滴が当たる程度だったが、しばらくすると森の木々が薄い雨の幕に包まれ、石畳の色も少しずつ濃くなっていった。
アルは食堂の窓から外を眺め、庭の奥にある湿った地面のことを思い出した。
「雨が降ってきたね。前に、雨の日に庭の水の流れを見てみたいって話してたけど、今日はちょうどいいかもしれないな」
セリーは窓へ近づき、外の様子を確かめた。
「はい。ただ、雨が強くなっているようですので、外へ出て確認するのは避けた方がよいと思います。塔の中から見える範囲だけでも、何か分かるかもしれません」
「そうだね。今日は外へ出ないで、窓から見てみようか」
アルは頷き、二人で庭が見える窓へ移動した。
そこからは、以前鉢植えを移動させた場所と、石畳の端にある湿った地面の一部が見える。
雨は石畳へ細かな音を立てながら降り続いていた。
壁に近い場所では、石の表面を伝う水滴が見えるものの、その水がどこへ流れているのかまでは、窓からでは分かりにくい。
アルはしばらく眺めてから、少し首を傾げた。
「……あの辺り、雨が当たってるのかな。壁の影になってるから、ほかの場所より濡れ方が違うように見えるんだけど」
セリーは窓の近くへ寄り、同じ方向を見つめた。
「雨の当たり方には違いがあるように見えます。ただ、窓からの角度では、地面の表面がどの程度濡れているのかまでは分かりません」
「うん。じゃあ、見えてることだけ記録しておこうか」
アルは書斎から記録用紙を持ってきて、窓辺の小さな机へ広げた。
セリーは時刻と天候を書き込み、アルは窓から見える庭の範囲を簡単に描いた。
雨が降っていること。
石畳の色が濃くなっていること。
壁に近い地面の一部は、窓からでは状態を確認しにくいこと。
そして、雨水がどの方向へ流れているのかは、まだ分からないこと。
二人はそれらを分けて記録した。
しばらくすると、雨脚が少し強くなった。
石畳の上には小さな水の筋が見えるようになり、塔の壁から離れた場所へ流れているようにも見えた。
しかし、その筋が庭の湿った場所へつながっているかどうかは、窓の位置からでは確認できなかった。
「こうして見てると、水って思ってたよりいろんな方向へ流れるんだね」
アルが呟くと、セリーは静かに頷いた。
「はい。石畳のわずかな傾きや、表面の凹凸によって流れ方が変わるのかもしれません。ただ、実際にどのような形になっているのかは、まだ分かりません」
「うん。雨が止んで地面が乾いたら、また同じ場所から見てみようか」
セリーは頷き、記録用紙へ短い一文を加えた。
アルはその様子を見ながら、雨の日にもできることがあるのだと感じていた。
晴れた日には庭を歩き、植物や石畳を近くで見ることができる。
雨の日には、窓から水の流れを眺めることができる。
同じ場所でも、天気が変われば見えるものが違う。
それが、何だか面白かった。
◇
午後の作業場では、雨音を聞きながら記録板の試作が続けられていた。
アルは午前中に試した留め具をもう一度確認し、紙の下端を受ける薄い木片の位置を調整していた。
セリーは隣で、布の筒がずれないかを確かめている。
何度か試した結果、上側の留め具と下側の浅い受けを組み合わせることで、紙の動きはかなり抑えられるようになった。
アルは試作品を手に取り、少し傾けてみた。
「うん。これなら、普通に書く分には使えそうだね」
セリーはその様子を見ながら、少し考えた。
「主様。実際の記録板へ取り付ける前に、もう一度だけ確認したいことがあります」
「何かな?」
「紙を取り替えるときの動きです。外で使う場合、記録用紙を何枚か持ち歩くこともありますので、留め具を開け閉めするたびに時間が掛かるようでは不便だと思います」
アルはその言葉に頷いた。
「確かに。紙を押さえることばかり考えてたけど、取り替えやすさも大事だね」
二人は試作品を使い、紙を外して新しい紙を載せる動きを繰り返した。
留め具は以前より安定していたが、布が少し厚くなったことで、開閉するときにわずかな抵抗がある。
セリーはその感触を確かめ、布の端を少しだけ整えた。
すると、動きは少し滑らかになった。
「これなら、無理な力を加えずに開閉できそうです」
セリーがそう言うと、アルは嬉しそうに頷いた。
「うん。じゃあ、いよいよ本体へ取り付けてみようか」
アルは棚から実際の記録板を取り出した。
角を丸く整えた木製の板は、以前から何度も持ち運んでいるものだ。
まだ留め具がないため、外で使うときには紙を手で押さえる必要があった。
アルはその板を作業台へ置き、試作品の位置と寸法を慎重に比べた。
セリーも隣へ座り、紙を載せたときの位置を確認する。
「主様。こちらの位置でしたら、紙の上端を押さえられます。ただ、板の端に近すぎると、木材が割れる可能性がありますので、少し内側へ寄せた方がよいと思います」
「そうだね。軸を取り付ける穴も、無理に大きくしないようにしよう」
二人は寸法を確認し、印を付けた。
アルは細い工具を手に取り、木材へ少しずつ穴を開けていく。
力を入れすぎないように気をつけながら、何度か工具を戻して木くずを取り除いた。
セリーは板が動かないように支え、穴の深さを確認している。
作業はゆっくりと進んだ。
やがて、細い丸棒を差し込める穴ができた。
アルは留め具を仮に取り付け、動きを確かめた。
木片は滑らかに回転し、紙を押さえる位置まで下ろすことができる。
「……よし。ちゃんと動くね」
アルが嬉しそうに声を上げると、セリーも目を細めた。
「はい。ですが、主様。まだ紙を載せて試しておりませんので、最後まで確認したいです」
「もちろん。じゃあ、実際に使ってみよう」
二人は記録板へ紙を載せ、上側の留め具を閉じた。
下側には、試作品で確認した浅い受けを取り付ける。
紙は板の上へ安定して収まり、少し傾けても大きく滑ることはなかった。
アルは筆記具を持ち、短い文章を書いた。
次に、板を片手で持ち上げ、立ったまま同じように書いてみる。
紙はわずかに動くことがあったものの、以前のように大きくずれることはなかった。
「……できたね」
アルは記録板を眺め、ゆっくりと笑みを浮かべた。
セリーも隣で嬉しそうに頷いた。
「はい。主様。ようやく、実際に使える形になりました」
アルは彼女へ顔を向けた。
「セリーのおかげだよ。布の形を考えてくれたのも、縁をかがってくれたのも、紙の取り替えやすさに気づいてくれたのも、全部君だったから」
セリーは少し驚いたように目を瞬かせ、それから頬を淡く染めた。
「ありがとうございます。ですが、主様も一緒に考えてくださいました。私は、一人ではこの形を作れなかったと思います」
「俺も同じだよ。だから、これは二人で作った道具だね」
セリーはその言葉を聞き、しばらく記録板を見つめていた。
やがて、彼女はゆっくりと頷いた。
「はい。二人で作った、大切な道具です」
アルは記録板を彼女へ差し出した。
「セリー、最初に使ってみる?」
セリーは少し驚いたように顔を上げた。
「私が、ですか?」
「うん。君が絵を描くときにも使いたいって言ってたでしょ。だから、最初に好きなものを書いてみてほしいな」
セリーはしばらく迷ったあと、記録板を受け取った。
彼女は新しい紙を載せ、留め具を閉じた。
それから筆記具を手に取り、ゆっくりと文字を書き始めた。
アルは隣で静かに見守った。
セリーが書いたのは、短い一文だった。
『主様と一緒に、初めての記録板を完成させました。』
アルはその文字を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……いいね。最初の記録が、それで嬉しいよ」
セリーは少し照れたように微笑んだ。
「私も嬉しいです。主様。これから、この記録板でたくさんのものを残していきたいと思います」
アルは頷き、彼女の隣へ腰を下ろした。
「うん。森の景色も、庭の植物も、まだ知らない場所も。いろんなものを一緒に見て、書いていこうね」
セリーは嬉しそうに頷いた。
◇
夕方になっても、雨は降り続いていた。
ただし、昼頃よりも雨脚は弱くなり、窓へ当たる音も穏やかになっている。
アルとセリーは作業場を片づけ、完成した記録板を持って書斎へ移動した。
書斎の棚には、昨日二人で描いた小さな池の絵が置かれている。
セリーはその絵を見つめ、少し考えたあとで口を開いた。
「主様。今日完成した記録板で、今度はあの絵の続きを描いてみたいです」
アルは彼女へ目を向け、微笑んだ。
「いいね。今度はどんなものを描きたい?」
「まだ決めておりません。ただ、あの池の周りに、もう少し景色を加えてみたいと思っています。木を描くのもよいですし、小さな花を描くのも楽しそうです」
「うん。じゃあ、今度は二人で何を描くか相談してから始めようか」
セリーは嬉しそうに頷いた。
アルは記録板を机へ置き、今日の試作記録を整理した。
布の筒を使った留め具。
紙の下端を支える浅い受け。
そして、実際の記録板へ取り付けて使えることを確認した結果。
すべてを書き終えると、アルは少し肩の力を抜いた。
何度も試作を重ねてきた道具が、ようやく形になった。
それは大きな魔導具でも、特別な力を持つ道具でもない。
ただ、紙を押さえて書きやすくするための、小さな木製の板だ。
それでも、アルにとっては大切なものだった。
自分たちの手で考え、失敗し、直し、ようやく完成させた道具だからだ。
セリーはその記録板を見つめながら、静かに口を開いた。
「主様。私は、今日のことを忘れたくありません」
アルは彼女へ顔を向けた。
「うん。俺もだよ。完成したことも嬉しいけど、ここまで一緒に作ってきた時間が、すごく楽しかった」
セリーは少し照れたように微笑んだ。
「はい。私も同じです」
アルは彼女へ手を差し出した。
セリーは自然な動きでその手を取り、二人は窓辺へ並んで立った。
外では、雨に濡れた森が静かに広がっている。
庭の石畳にはまだ水が残っており、遠くの木々は薄い霧に包まれていた。
「雨の日も、悪くないね」
アルがそう言うと、セリーは窓の外を眺めながら頷いた。
「はい。今日は外へ出られませんでしたが、雨の庭を観察できましたし、記録板も完成しました。私は、とても充実した一日だったと思います」
「俺もそう思う。明日、雨が止んでたら、さっそく外で使ってみたいな」
「はい。私も楽しみです」
二人はしばらく窓の外を眺めていた。
やがて、アルはセリーへ目を向けた。
「そろそろ夕食の準備をしようか。今日は何を作ろうかな」
セリーは少し考え、嬉しそうに微笑んだ。
「それでしたら、主様。今日は温かな煮込み料理はいかがでしょうか。雨の日は少し肌寒く感じますので、体が温まるものを作りたいと思います」
「いいね。じゃあ、俺も手伝うよ。野菜を切るところから一緒にやろうか」
「はい。ありがとうございます、主様」
二人は手をつないだまま書斎を出て、厨房へ向かった。
塔の中には、雨音と穏やかな足音が響いている。
アルは廊下を歩きながら、今日完成した記録板のことを思い返した。
小さな道具を一つ作るだけでも、考えることはたくさんあった。
けれど、その一つ一つをセリーと相談しながら進める時間は、何より楽しかった。
古の塔での暮らしには、まだ知らないことがたくさん残っている。
森の奥の道も、庭の湿った地面も、南側の石の台も、古い図面も、そのすべてが今すぐ答えを出せるものではない。
それでも、アルは焦っていなかった。
今日のように、一つずつ確かめながら進んでいけばいい。
そして、その隣にセリーがいてくれるなら、きっとこれからも楽しい日々が続いていく。
アルはそう思いながら、彼女と並んで厨房へ入った。
窓の外では、雨が静かに降り続いていた。




