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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第152話 古い道標に残された印と、確かめるための新しい記録


 古の塔の朝は、前日よりも少し冷たい風とともに訪れた。


 森の上には薄い雲が広がっていたものの、雨が降りそうな気配はなく、東の空から差し込む光が木々の梢を淡く照らしていた。食堂の窓辺では小鳥が短く鳴き交わし、厨房からは野菜を煮込む温かな香りが漂っている。


 アルが食堂へ入ると、セリーはちょうど小さな鍋を火から下ろしているところだった。彼女は鍋を置いて振り返り、アルの姿を認めると、いつもの丁寧な仕草で朝の挨拶をした。


「おはようございます、主様。昨夜はよくお休みになれましたか。今朝は少し冷えますので、温かいスープをご用意いたしました」


「おはよう、セリー。うん、よく眠れたよ。窓を開けたら思ったより風が冷たかったから、温かいものがあると嬉しいな」


 アルが椅子へ腰を下ろすと、セリーは湯気の立つ器を食卓へ運んだ。スープには小さく切った根菜と柔らかく煮込まれた葉物が入っており、昨日の夕食で使った香草とは違う、穏やかな香りが添えられている。


「昨日、主様と一緒に切った野菜も使っています。大きさを揃えていただいたので、火の通り方が安定しました」


「それならよかった。まだ包丁の扱いには慣れてないけど、少しずつ上達できたらいいな」


「はい。主様は急がず丁寧に作業してくださいますから、きっと上達されると思います。ただ、手元を見ずに切るようなことだけはなさらないでくださいね」


 セリーの最後の言葉には、わずかに心配する響きが混じっていた。


 アルは苦笑しながら頷き、スープを一口味わった。根菜の甘みが口の中に広がり、冷えた身体が内側から温まっていく。


「大丈夫だよ。料理も工作も、慣れたからって油断しないようにする。それに、セリーが隣で教えてくれるんだから、ちゃんと覚えたいしね」


 その返事を聞いたセリーは、安心したように微笑んだ。


 アルは食事を続けながら、昨日の森で見つけた石のことを思い出した。


 庭の外れから森へ続く古い道。その入口付近で、草の間から角ばった石が覗いていた。


 表面には苔が広がり、浅い溝のようなものが見えたものの、何を示しているのかまでは分からなかった。


 エルによれば、塔の周辺には建設当時の作業路や管理路が存在したらしい。しかし、二千年の間に地形が変わっているため、現在の道と当時の記録を完全に照合することはできないという。


 昨日は無理に石へ触れず、見えたことだけを書き留めて戻ってきた。


「セリー。昨日の石なんだけど、もう少し詳しく観察してみたいと思ってるんだ」


 アルがそう切り出すと、セリーは食器を持つ手を止め、静かに顔を向けた。


「森の入口で見つけた石ですね。昨日は地面が湿っていましたが、今日も日陰の部分は乾いていない可能性があります。近づくのでしたら、足元を確かめながらにした方がよいと思います」


「うん。奥へ進むつもりはないよ。ただ、昨日は見えた部分を覚えて帰ってきただけだったから、今日は紙に形を描いてみたいんだ」


 セリーは少し考え、食堂の窓から庭の方へ視線を向けた。


「それでしたら、昨日作られた記録を持っていくとよいかもしれません。前に見たものと今日見えるものを比べれば、記憶だけに頼らずに済みます」


「そうだね。記録板はまだ完成してないけど、紙と筆記具なら持っていけるし」


「はい。ただ、風がありますので、紙が飛ばされないようにする必要があります。小さな板を持っていくことはできますが、未完成の留め具は取り付けない方が安全だと思います」


 アルは頷いた。


 作業場には、角を丸くして表面を磨いた記録板が置かれている。紙を留める仕組みは未完成だが、板そのものは持ち歩ける状態になっていた。


 無理に試作品を取り付ける必要はない。


 むしろ、完成前の板を実際に使ってみることで、新しく分かることがあるかもしれなかった。


「じゃあ、今日は板と紙を別々に持っていこう。石を描くときだけ板を使って、普段は紙を籠に入れておけばいい」


「承知しました。私も一緒に確認いたします」


 セリーは嬉しそうに頷き、食事を再開した。


 アルはその表情を眺めながら、昨日の書斎で交わした会話を思い出していた。


 知らないことを無理に知ったことにせず、一つずつ確かめていく。


 それは、森の散歩を楽しむためだけでなく、古い塔で暮らしていくうえでも大切な姿勢なのだろう。


(今日は何が分かるかな。何も分からなかったとしても、それならそれで、ちゃんと記録しておけばいいんだ)


 アルはそんなことを考えながら、残っていたパンをゆっくりと食べ終えた。


     ◇


 朝食のあと、二人は書斎へ向かった。


 アルは昨日の記録を収めた引き出しを開け、折らずに保管していた紙を取り出した。そこには、森の入口で見つけた石について、確認できたことと未確認のことが分けて書かれている。


 セリーは机の横へ立ち、紙の内容を一緒に確かめた。


「場所は庭の外れ、森へ続く道の入口付近。石の上部が草の間から見えていて、表面には苔と浅い溝があった……昨日書いたのはここまでだね」


「はい。石の全体の形や、地面の下にどれくらい埋まっているのかは分かっていません。今日は見える範囲を描いておくと、あとから比較しやすくなると思います」


 アルは頷き、別の紙を一枚取り出した。


 石の形を描くためには、文字を書くときより少し広い余白が必要になる。昨日選んだ記録板の大きさなら十分だと思っていたが、実際に図を描くとなると、どの程度の余裕があるのか気になった。


「紙は二枚持っていこうかな。一枚は昨日の記録で、もう一枚に今日見たものを描く。間違えたときのために、予備もあった方がいいか」


「それでしたら、三枚目もご用意いたします。筆記具は普段お使いのものと、線を細く描けるものを一本ずつ持っていくとよいかもしれません」


「ありがとう。セリーは何か持っていきたいものがある?」


 アルが尋ねると、セリーは少し驚いたように目を瞬かせた。


 それから机の上の紙へ視線を落とし、しばらく考え込んだ。


「私は……石の周りに生えている植物も見てみたいです。昨日は石そのものを確かめることに気を取られていましたが、草の生え方や葉の形も記録しておけば、次に訪れたときの目印になるかもしれません」


「いいね。それなら、植物の絵を描く紙も必要かな」


「はい。ただ、主様の記録と同じ紙へ描いてもよいと思います。場所が分かるようにしておけば、あとから見返したときに便利ですから」


 アルは新しい紙の端へ小さな区切りを描いた。


 石の形を描く場所と、周囲の様子を書き留める場所を分けておく。細かな寸法までは測れないが、どちらの方向に何があったのかを記録するだけでも、次に確かめる際の助けになるだろう。


「そういえば、前に見つけた白い花の葉も、まだちゃんと確認できてなかったね」


「はい。あの花については、葉が同じ植物のものかどうかも分かっていません。今日の場所とは別ですので、混同しないようにしたいと思います」


「うん。花の方は、また別の日に見に行こう」


 アルはそう答え、紙を重ねた。


 セリーは用意していた布の包みを広げ、筆記具が動かないように並べていく。布の端を折り返して包めば、籠の中で筆記具がほかの荷物へ当たることも少なくなる。


 準備を終えた二人は作業場へ移動し、棚に置かれていた記録板を取り出した。


 アルが板を持ち上げると、昨日よりも手に馴染む感触があった。四隅を丸くしたことで、手のひらへ当たる部分が柔らかくなっている。


「こうして持つと、やっぱり角を丸くしてよかったね」


「はい。私も、昨日より持ちやすくなったと思います。ただ、長く使った場合の感触はまだ分かりませんので、今日も確かめてみましょう」


 セリーは板を受け取り、軽く持ち上げてからアルへ返した。


 アルはその様子を見て、少し考えた。


「セリー。今日は途中で板を交代して使おうか。俺だけが持ってたら、君が使ったときのことが分からないし」


「よろしいのですか。主様が作られたものですのに」


「もちろん。最初から二人で使うつもりだっただろう? それに、君が描いたものも見てみたいんだ」


 セリーはその言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。それでしたら、私も使わせていただきます」


 二人は記録板を籠へ収め、最後に水の入った容器と小さな布を用意した。


 今回は短い距離の観察であり、昼食を持っていくような散歩ではない。それでも、屋外で過ごす以上は必要なものを揃え、無理をしないことにした。


     ◇


 塔の外へ出ると、朝の風がアルの頬を撫でた。


 庭の石畳は昨日より乾いていたが、木陰に近い場所にはまだ湿った部分が残っている。二人は足元を確かめながら歩き、庭の外れから森へ続く細い道へ向かった。


 道の入口が見えてくると、アルは自然に歩く速度を落とした。


 昨日見つけた石は、草の間から同じように上部を覗かせている。近づいても目立った変化はなく、苔の色も周囲の草とよく似ていたため、意識して探さなければ見落としてしまいそうだった。


「昨日は気づかなかったけど、石の周りだけ少し草の種類が違うように見えるね」


 アルがそう言うと、セリーは石の周囲へ視線を向けた。


「確かに、手前には細い葉の草が多く、奥には少し幅の広い葉が見えます。ただ、それが石の存在と関係しているかどうかは分かりません」


「うん。そこは分けて書こう」


 二人は道の入口から少し離れた、比較的平らな場所へ移動した。


 地面が湿っているところを避け、立ち止まっても足元が滑らないことを確かめる。アルはそこで籠を下ろし、記録板と紙を取り出した。


 風はそれほど強くなかったが、紙を板の上へ載せると端がわずかに浮き上がった。


「やっぱり、留め具があると便利だね」


「はい。ですが、今は私が紙の端を押さえますので、主様は描くことに集中してください」


 セリーはそう言って板の端へ指を添えた。


 アルは少し迷ったあと、頷いた。


「ありがとう。でも、無理な姿勢にならないようにしてね。描き終わったら交代しよう」


「承知しました」


 アルは石へ視線を向け、まず全体の輪郭を描き始めた。


 見えている部分は、上が少し平らになった不規則な四角形に近い。左側の角は丸く摩耗しているように見えるが、右側は草に隠れているため、どこまでが石の輪郭なのか判断しにくかった。


 アルは線を途中で止め、分からない部分を点線で描いた。


「ここから先は草で見えないから、無理に形をつなげない方がいいね」


「はい。見えない部分を想像で描いてしまうと、あとから本当の形と混同するかもしれません」


 セリーは紙を押さえながら、石の表面へ目を向けた。


 アルは次に、上部の浅い溝を描こうとした。


 昨日は模様のように見えた部分だったが、今日改めて眺めると、溝は一続きではなく、途中で途切れているようにも見える。


「……あれ? 昨日は一本の線だと思ったけど、二つに分かれてるのかな」


 アルが呟くと、セリーも少し身体を傾けた。


「主様。光の当たり方によって、苔の影が溝のように見えている可能性もあります。今の位置からでは、どちらなのか分かりにくいですね」


「そうか。じゃあ、見る場所を変えてみよう」


 アルは筆記具を置き、記録板をセリーへ預けた。


 石に触れない距離を保ちながら、二人は少し横へ移動した。


 すると、先ほど一本に見えていた線の一部が、苔の影によって強調されていたことが分かった。


 ただし、石の表面に実際の溝が存在することまでは否定できない。


「なるほど。角度が変わるだけで、ずいぶん違って見えるんだね」


「はい。主様、最初に描いた線を消してしまうより、見え方が変わったことを書き添えてはいかがでしょうか」


 アルはその提案に頷いた。


 最初の観察でどう見えたかという記録にも意味がある。


 あとから別の角度で見た結果、印象が変わったのなら、その変化を残しておけばよい。


 二人は元の場所へ戻り、紙の余白へ短い注記を書き加えた。


『正面からは連続した溝に見える。横から見ると、一部は苔の影の可能性あり。実際の刻線の範囲は未確認』


 アルは書き終えた文字を見つめ、少し満足そうに頷いた。


「こういう書き方なら、次に見たときにも迷わずに済みそうだね」


「はい。今日の記録だけで結論を出さなくても、次に確かめるための手掛かりになります」


 セリーはそう答え、記録板から手を離した。


 アルは紙を押さえ直し、今度は彼女へ板を差し出した。


「じゃあ、次はセリーの番だね。周りの草を描いてみる?」


「はい。ありがとうございます」


 セリーは記録板を受け取り、石の周囲へ目を向けた。


 彼女はまず、細い葉の草と幅の広い葉の草が生えている位置を簡単な線で描いた。植物の種類を特定しようとはせず、石との位置関係が分かる程度に留めている。


 アルは隣からその手元を眺めていた。


 セリーの描く線は落ち着いており、形を整えることに慣れているように見える。しかし、彼女は何度か筆記具を止め、実物を確かめながら慎重に描き進めていた。


「セリー、絵が上手だね。草の向きが分かりやすいよ」


 アルがそう言うと、セリーは少し驚いたように顔を上げた。


「ありがとうございます。ですが、私は見えているものをできるだけそのまま描こうとしているだけですので、上手かどうかは分かりません」


「それが難しいんだと思うよ。俺はさっき、溝だと思ったところをそのまま描きそうになったし」


 セリーは少し考え、紙へ視線を戻した。


「主様が最初に気づいてくださったから、私も見え方の違いを意識できました。ですから、これは二人で確かめた記録だと思います」


 その言葉に、アルは自然と笑みを浮かべた。


 完成した道具を使うだけなら、一人でもできるかもしれない。


 けれど、同じものを見て、違うところへ気づき、それを言葉にして確かめ合う時間は、誰かと一緒だからこそ生まれるものだった。


 セリーは最後に草の位置を描き終えると、記録板を少し持ち上げて全体を確認した。


「主様。これで、今日見えた範囲はおおむね残せたと思います。ただ、石の奥側は草に隠れているので、無理に確かめる必要はないと思います」


「うん。今日はここまでにしよう。昨日より詳しく見られたし、足元もまだ完全には乾いてないからね」


 二人は記録板を籠へ戻し、最後に石の位置をもう一度確かめた。


 草の間にある古い石は、朝の光を受けて静かに佇んでいる。


 それが何のために置かれたものなのか、まだ分からない。


 けれど、昨日よりも少しだけ、その形と周囲の様子を知ることができた。


     ◇


 塔へ戻る途中、アルは森の入口から庭へ続く道を歩きながら、先ほどの観察について考えていた。


 古い石に刻まれているように見えた線は、実際の溝と苔の影が重なっている可能性がある。


 もし昨日の印象だけで何かの文字だと決めつけていたら、今日の見え方の違いに気づいても、最初の考えへ無理に当てはめてしまったかもしれない。


(見たいものがあると、そう見えるように考えちゃうこともあるんだな。気をつけないと)


 アルはそんなことを考えながら、隣を歩くセリーへ目を向けた。


 彼女は籠を持ち、足元を確かめながらゆっくり歩いている。


 その姿を見て、アルはふと声を掛けた。


「セリー。今日は付き合ってくれてありがとう。石のこともそうだけど、君が一緒に見てくれたおかげで、いろんなことに気づけたよ」


 セリーは歩みを緩め、アルの方へ顔を向けた。


「こちらこそ、ありがとうございます。私は主様と一緒に新しいものを見つけることができて、とても楽しかったです」


「そう言ってもらえると嬉しいな。今度は、もう少し道が乾いてから、前に見つけた分かれ道の方も歩いてみたいね」


「はい。ただ、あちらは坂になっていましたので、足元の状態を確かめながら進みましょう。見晴らしのよい場所があるかもしれませんが、無理に到着する必要はありませんから」


 アルは頷いた。


 以前の散歩で見つけた分かれ道は、片方が緩やかな上り坂になっており、もう片方は森の奥へ下っていた。


 そのときは雨の影響で地面が湿っていたため、どちらにも進まず引き返している。


 今回見つけた石のある道とは別の場所だ。


 どちらもまだ十分に確かめられていないが、急いで調べる必要はない。


「そうだね。まずは安全に歩けるところから少しずつ。昼食を持っていくのも、落ち着いて座れる場所が見つかってからにしよう」


「はい。私も、主様と一緒に景色を眺めながら食事をする日を楽しみにしています」


 セリーは嬉しそうに微笑んだ。


 二人はそのまま庭を横切り、塔の入口へ戻った。


 扉を開けると、室内の落ち着いた空気が二人を迎えた。


 アルは籠を食堂の机へ置き、セリーと一緒に手を洗ったあと、温かな飲み物を用意することにした。


 外で過ごした時間は短かったが、記録を描くために何度も立ち止まっていたため、思ったより身体が冷えていた。


 セリーが茶器を並べている間、アルは記録板を取り出し、紙に汚れが付いていないか確かめた。


「紙は大丈夫そうだね。少し端が曲がったけど、文字も絵もちゃんと残ってる」


「はい。ですが、籠の中でほかの荷物と触れた部分には、わずかな折れ跡があります。持ち運ぶときには、紙を保護する方法も考えた方がよさそうですね」


 アルはその言葉に頷き、記録板の表面へ紙を重ねた。


 板そのものは使いやすかったが、紙を固定する仕組みがないため、書くときにはもう一人が押さえる必要があった。


 また、持ち運ぶときに紙が曲がる問題も残っている。


「やっぱり、留め具だけじゃなくて、紙を守る方法も必要だね。でも、今日使ってみたことで、何を優先したいか少し分かった気がする」


「はい。まずは書くときに紙がずれないこと。そして、持ち運ぶときに紙が傷まないことですね」


「うん。どっちも大事だけど、一度に全部作ろうとしなくてもいいと思う」


 アルはそう答え、記録板を机の端へ置いた。


 セリーは温かな飲み物を運び、アルの向かいへ腰を下ろした。


 窓の外では、午前中よりも雲が薄くなり、庭の石畳に明るい光が差し込んでいる。


 二人はしばらく、森で見たものについて話しながら休憩を楽しんだ。


     ◇


 その日の午後、王都の魔導研究院では、フェリクス・ハルトマンが古い資料の照合作業を続けていた。


 机の上には、確認記録の欠落に関する断片と、以前から調べている判断手続きの規定が並べられている。


 フェリクスは資料の一つを持ち上げ、文字の欠けた部分へ目を凝らした。


 そこには、記録が欠落している場合について述べたらしい文章が残されていた。


 しかし、前半が失われているため、何を対象とした規定なのかは分からない。


 さらに、欠落した記録をどのように扱うべきだったのかについても、具体的な手順は読み取れなかった。


(この断片だけで判断を下すことはできない。だが、記録の欠落が何らかの形で想定されていた可能性はある)


 フェリクスはそう考えながら、資料を机へ戻した。


 古代の施設では、確認記録を受け取ることと、その内容を認めることが別の行為として扱われていた可能性がある。


 また、判断を保留した理由が解消されても、以前の判断が自動的に有効になるわけではないという規定も確認されている。


 それらの情報を合わせると、古代の手続きは単純なものではなかったと考えられる。


 しかし、複数の規定が同じ施設や同じ対象へ適用されていたとは限らない。


 フェリクスはその点を繰り返し確認しながら、報告書の草案を書き進めていた。


 しばらくして、助手が机の横へやってきた。


「ハルトマン様。以前ご依頼のあった資料番号の照合ですが、一部に同じ分類記号が使われているものが見つかりました」


 フェリクスは顔を上げ、差し出された紙を受け取った。


「同じ分類記号か。内容まで一致しているのかな」


「いいえ。現時点では、分類記号が似ていることしか確認できていません。本文の残っている部分も少なく、同じ手続きについて書かれているかどうかは分かりません」


「それなら、まだ関連資料とは判断できないね。分類記号が共通していても、年代や施設が違えば意味も変わる可能性がある」


 フェリクスはそう答え、紙を机へ置いた。


 助手は少し考えたあと、慎重に口を開いた。


「ですが、同じ分類記号が使われているのであれば、何らかの共通した管理方法が存在した可能性はありませんか」


「可能性はある。ただ、それを確かめるには、分類記号の使い方を説明した資料が必要だろう。今の段階で共通の管理方法があったと結論づけるのは早いと思う」


 フェリクスは資料の端へ指を置き、続けた。


「特に今回の調査では、似た言葉や記号が出てくるたびに、同じ意味だと考えたくなる。けれど、そこで急いでしまうと、後から違う資料が見つかったときに、最初の解釈へ無理に合わせることになりかねない」


 助手は真剣な表情で頷いた。


「承知しました。分類記号の一致は確認事項として記録し、内容の関連性については未確認として扱います」


「それでいい。もし説明資料が見つかれば、改めて照合しよう」


 フェリクスはそう答え、再び資料へ目を向けた。


 研究院の窓からは、午後の光が差し込んでいる。


 机の上に並ぶ古い紙は、どれも長い年月を経て損傷していた。


 そこに書かれている言葉を読み解くには、時間と慎重さが必要だった。


 フェリクスは筆を取り、今回の確認事項を新しい紙へ書き加えた。


『同一または類似の分類記号を持つ資料を確認。ただし、資料間の関連性および適用対象は未確認』


 その一文を書き終えると、彼はしばらく筆を置いた。


 新しい発見があったとしても、それがすぐに答えへつながるとは限らない。


 それでも、確かめられたことを一つずつ積み重ねていけば、いつか全体像を理解するための手掛かりになるかもしれなかった。


     ◇


 同じ頃、古い療養施設の三〇八号室では、ヨアヒムが少年の記録を整理していた。


 窓辺の椅子には柔らかな光が差し込み、部屋の中には静かな時間が流れている。


 少年は寝台の上で上体を起こし、ヨアヒムが書類を揃える様子を眺めていた。


「ヨアヒム」


 少年が呼ぶと、ヨアヒムは手を止め、穏やかに顔を向けた。


「どうしたんだい」


「ぼく、きのう、パンのにおいのこと、いったよね」


「うん。もう一度、香りを感じてみたいって話してくれたね」


 少年は小さく頷き、膝の上で手を重ねた。


「それ、まだ、きまってない?」


「そうだね。今はまだ、次に試せるかどうか決まっていないよ。前に香りを感じたときの体調や気持ちも含めて、担当者が確認しているところなんだ」


 ヨアヒムはそう答え、少年の表情を確かめた。


 少年は少し残念そうにしたものの、すぐに窓の外へ視線を向けた。


「ぼく、また、においをかぎたい。でも、たべたくなって、かなしくなるかもしれない」


「うん。そのことも、ちゃんと覚えているよ」


 ヨアヒムは椅子を少し近づけ、少年の言葉を待った。


 少年はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で続けた。


「かなしくなるって、わかってても、やってみたいって、おもっていい?」


 その問いを聞いたヨアヒムは、すぐに答えを返さなかった。


 少年は以前、パンの香りを感じられたことを喜びながら、食べられない悲しさも口にしていた。


 その両方の気持ちがあることを、本人は覚えている。


 ヨアヒムはその事実を大切にしたかった。


「もちろん、そう思っていいんだよ。嬉しいことと悲しいことが一緒にあるからといって、どちらかを消さなければならないわけじゃない」


 ヨアヒムは穏やかな声で答えた。


「ただ、実際に試すかどうかは、安全にできるかを確かめてから決める必要がある。君が望んでいることと、実施できるかどうかは、別々に考えなければならないんだ」


 少年はその言葉を聞き、少し考え込んだ。


 やがて顔を上げると、ヨアヒムをまっすぐに見つめた。


「じゃあ、ぼくが、やりたいっておもったことは、なくならない?」


「なくならないよ。今日できなくても、君がそう望んでいることは記録に残してあるし、僕も覚えている」


 少年は小さく息を吐き、少し安心したように微笑んだ。


「……よかった」


 ヨアヒムはその表情を見守りながら、手元の記録へ新しい一文を書き加えた。


 本人は、以前の体験で悲しさを感じたことを理解したうえで、再び香りを感じてみたいと希望している。


 実施の可否は未決定。


 ヨアヒムはその二つを分けて記録した。


 少年は窓の外へ視線を戻し、遠くの空を眺めていた。


 町へ出かけることも、パン屋の店先に並ぶパンを見ることも、まだ叶っていない。


 けれど、少年は自分の望みを言葉にすることをやめていなかった。


 ヨアヒムはその姿を見つめ、静かに書類を閉じた。


     ◇


 古の塔では、午後の作業が始まっていた。


 アルとセリーは、森で使った記録板を作業台へ置き、紙を留める仕組みについて改めて考えていた。


 昨日までに試した木製の留め具は、細い丸棒を軸にして片側を動かし、反対側を浅い受けへ収める形になっている。


 しかし、紙を確実に押さえるには力が足りず、受けを深くすると今度は開けにくくなるという問題が残っていた。


 アルは試作品を手に取り、動きを確かめた。


「今日、外で使ってみて思ったんだけど、紙を留める部分はやっぱり必要だね。セリーが押さえてくれたから描けたけど、一人で使うときには難しそうだった」


「はい。ですが、私は主様と一緒に記録を取るのも楽しかったです。紙を押さえる役目があっても、それはそれでよい時間でした」


 セリーはそう答え、少し照れたように微笑んだ。


 アルはその表情を見て、思わず笑みを返した。


「俺も楽しかったよ。でも、セリーが描きたいときには、俺が紙を押さえなくても使える方が便利だろう?」


「……はい。それは確かに、そうですね」


 セリーは少し考え、試作品へ視線を落とした。


 アルは木片の先端を指で持ち上げ、受けから外してみた。


 動かすときに少し引っかかるものの、無理な力を掛けなければ外せる。


 ただし、何度も繰り返すと木の表面が摩耗する可能性があるため、完成形として使うにはまだ不安があった。


「昨日、布を挟む方法を試したよね。あれをもう少し考えてみたいんだ」


「はい。布を挟むと紙が滑りにくくなりましたが、その分だけ留め具が閉じにくくなりました」


「そうなんだよね。だから、布を固定する位置を少し変えてみたらどうかなって思ってる」


 アルは薄い布の端切れを取り出し、木片の下側へ当ててみた。


 昨日は木片の広い範囲へ布を挟んでいたため、厚みが増えてしまった。


 今回は紙と触れる部分だけに小さな布を当て、受けへ収まる先端には布が掛からないようにしてみる。


 セリーはその様子を見つめ、少し考えたあとで頷いた。


「なるほど。紙を押さえる部分だけに布を使えば、先端の動きには影響しにくいかもしれません」


「うん。まずは仮に挟んで試してみよう」


 二人は練習用の端材へ紙を置き、その上から木片を下ろした。


 布が当たる部分では紙が滑りにくくなり、先端も昨日より自然に受けへ収まった。


 アルは少し驚いたように目を見開いた。


「お、これは前よりよさそうだね」


「はい。ですが、まだ布を固定していませんので、繰り返し使うと位置がずれるかもしれません」


 セリーはそう言い、木片を持ち上げた。


 確かに、布は少し動いている。


 このままでは、紙を替えるたびに布の位置を直さなければならないだろう。


「じゃあ、布を取り外せるようにする方法を考えようか。汚れたときに替えられる方がいいし」


「はい。ですが、木片へ穴を開けて縫いつけると、強度が下がる可能性があります。小さな溝へ布の端を収める方法も考えられますが、実際に試してみる必要がありますね」


 アルは頷き、木片を眺めた。


 小さな部品だからこそ、加工する場所を慎重に選ばなければならない。


 強く押さえられるようにした結果、木片そのものが壊れてしまっては意味がない。


「今日は、布を当てる位置が分かったところまでにしようか。固定する方法は、もう少し考えてから試したい」


「はい。私も、その方がよいと思います」


 二人は試作品を作業台へ置き、今日の結果を紙へ書き留めた。


 アルは、布を当てた場所と、先端が受けへ収まる位置を簡単な図にして残した。


 セリーはその横へ、布を固定する方法が未決定であることを書き加えた。


「こうして見ると、少しずつ形が決まってきたね」


 アルが言うと、セリーは嬉しそうに頷いた。


「はい。完成まではまだ時間が掛かるかもしれませんが、主様と一緒に考えることができて嬉しいです」


 アルはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 記録板を完成させることは楽しみだった。


 けれど、それ以上に、セリーと相談しながら一つずつ工夫を重ねる時間が大切になっていた。


     ◇


 夕方、アルは書斎で今日の記録を整理していた。


 森で描いた石の図と、作業場で試した留め具の図を並べ、確認できたことと未確認のことを分けて書き直していく。


 セリーは隣の椅子へ腰を下ろし、紙の端を揃えるのを手伝っていた。


「主様。今日の記録は、昨日よりもずいぶん詳しくなりましたね」


「うん。実際に見に行って描いたから、昨日の記憶だけで書いたものより正確になったと思う。でも、石の模様については、まだ分からないことが多いね」


「はい。次に訪れるときには、光の当たり方が違う時間帯に見てみるのもよいかもしれません。ただ、石に触れたり、周囲の草を動かしたりする必要はないと思います」


 アルは頷き、紙の余白へその提案を書き加えた。


 今日の観察では、正面から見たときと横から見たときで、溝のように見える部分が違っていた。


 時間帯が変われば、影の付き方も変わるだろう。


 それでも分からなければ、分からないまま記録しておけばいい。


「セリー。こういう記録って、あとから見返すと面白そうだね」


「はい。主様と一緒に見つけたことが少しずつ増えていくのは、私も楽しみです」


 セリーはそう答え、紙へ視線を落とした。


「ただ、私は今日、一つ嬉しかったことがあります」


「うん。何かな?」


「主様が、私にも記録板を使わせてくださったことです。私は以前、主様のお役に立つために道具を用意することが多かったのですが、今日は自分も使う側として考えることができました」


 アルは彼女の言葉を聞き、ゆっくりと顔を向けた。


 セリーは少し照れたように微笑みながら、続けた。


「紙を押さえるときも、草の絵を描くときも、主様と同じように考えてよいのだと思えました。それが、とても嬉しかったのです」


 アルはその言葉を聞き、しばらく返事を探した。


 セリーが自分の望みを口にするようになってから、少しずつ変わってきたことがある。


 以前の彼女は、何かを選ぶときにも、まずアルの希望を確かめようとしていた。


 けれど今は、自分が使ってみたいものや、見てみたい景色について、自分の言葉で話してくれる。


 アルはその変化を、何より嬉しく思っていた。


「セリー。これからも、君がやってみたいことを遠慮なく言ってほしいな。俺は、君が何を楽しいと思うのか知りたいし、一緒に楽しめることなら、できるだけ一緒にやってみたい」


 セリーは少し驚いたように目を見開いた。


 それから、ゆっくりと微笑んだ。


「……ありがとうございます、主様。私も、主様が何を楽しいと思われるのか、これからも知っていきたいです」


 アルは頷き、机の上の紙を重ねた。


 窓の外では、夕日が森の木々を柔らかく照らしている。


 今日見つけた石の正体は、まだ分からない。


 記録板も、完成していない。


 けれど、二人で見つけたことを一つずつ残していけば、いつか振り返ったときに、今の時間がどれほど大切だったのか分かるような気がした。


「そろそろ夕食の準備をしようか。今日は俺も手伝いたいな」


「はい。ありがとうございます。では、昨日より少し大きな野菜を切っていただいてもよろしいでしょうか」


「もちろん。ちゃんと手元を見ながら切るよ」


 アルが笑って答えると、セリーも楽しそうに微笑んだ。


 二人は書斎の机を片づけ、並んで廊下へ出た。


 塔の中には、夕方の穏やかな静けさが広がっている。


 アルは歩きながら、今日の森での出来事を思い返した。


 古い石の表面に見えた線。


 光の角度によって変わる影。


 セリーが描いた草の形。


 そして、二人で確かめたことを、忘れないように紙へ残した時間。


 どれも大きな事件ではない。


 それでも、アルにとっては確かな発見だった。


 セリーが隣で歩く速度を合わせると、アルは自然に手を差し出した。


 彼女は少し照れたように微笑み、その手を取った。


「主様。次に森へ出かけるときも、一緒に記録を取りましょうね」


「うん。もちろん。今度は、もう少し使いやすくなった記録板を持っていけるといいね」


「はい。ですが、完成していなくても構いません。今日のように、二人で紙を押さえながら描くのも楽しかったですから」


 アルはその言葉に笑みを浮かべ、彼女の手を優しく握り返した。


 完成した道具があれば便利になる。


 けれど、道具が完成していないからといって、何も始められないわけではない。


 今日の記録は、そのことを教えてくれた。


 二人は手をつないだまま、温かな夕食を作るために厨房へ向かった。


 森の奥には、まだ知らない道が続いている。


 古い石が何を示しているのかも、今は分からない。


 それでも、急いで答えを出す必要はなかった。


 自分たちの足で歩き、自分たちの目で確かめ、分かったことを少しずつ残していく。


 その時間を、これからもセリーと一緒に重ねていきたい。


 アルはそう思いながら、厨房の扉を開けた。


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